風薫る五月に誓う2017年05月01日 20時29分34秒

★一つ一つ成果を出していく。

 昨日の無頼庵「レコードコンサート」、無事に終わった。参加者は、残念ながら友人一人のみで、彼と二人、缶ビール飲みながら何十枚レコードをかけたことだろうか。久々に音楽三昧、アナログレコードを堪能した。

 予想では参加予定者はもう少しいて、その他にいつもたいがい飛び入り的に、ふらっと来る人もいるから、最低でも三人、もしくは5名程度は来られるかもと予想していた。
 しかし風邪ひいたので無理、という連絡もあったり、先に参加をほのめかすコメントをくれた人が来なかったりと、結局待てど他には誰も来ず、前回中止したときから楽しみにされていたその友人と二人、いちおう9時までやっていた。

 が、参加者が少なかったからといって全く失望していない。何しろこのところこのブログでも参加呼びかけは強くしていないし、他にメールなり、お誘いや告知は何もしていないのだから、そもそもこのイベント、ほぼ誰も知らないわけで、これは当然の結果なのである。
 何しろ父のことや我が体調もあって、前回もその前も直前になって中止、延期したりとこちらも果たしてほんとうにその日、開催できるのか何とも自信が持てないでいた。
 だから「呼びかけ」ももう一つ気が乗らないというか、どうか絶対来てくださいとは強く言えず、こちらが消極的ならば当然参加者も消極的結果に至るわけで、これではまず人は来ない。ごくしごく当たり前のことであった。

 ただ、我にとっては昨日は友とじっくりと話せて良かった。音楽のこともだが、それぞれ家庭のことや今後についてもあれこれ語らうことがたっぷりできて、実に有意義だった。
 彼も今、介護している老母を抱えて、我と同様苦闘中であり、ほぼ同世代ということもあって音楽の話も人生についても話が弾んだ。他に邪魔されずに親しい友来たりて、向き合い話すということこそ、古来より楽しいことだと記されているではないか。

 拙宅でこうしたイベントをこれまでも何回も続けている。中には何十人も来て頂き、ものすごく盛り上がった企画もあるけれど、そうした「盛況」と、我自身の満足度とは必ずしも一致しない。
 もちろん興行的成功は有難いことだが、我はひたすら裏方として、ただコマ鼠のように、料理提供したり仕えるだけだと、正直あまり楽しくはない。参加者が喜び堪能してくれたという「喜び」はあっても、何かもやもやとしたものが必ず残る。
 しかし、それが少人数であり、気心知れた人たちばかりであれば、当日イベント最中も個人的関係が結べるし、仕えるだけでなく我もまた「参加」できる。
 そして何よりも我が家でこうした企画を何故立てるかといえば、やはりそうして人を招くことにより、掃除や片付けを嫌でもしないとならず、結果としてそのスペースは片付いて綺麗になるわけで、そうした「イベント効果」こそ我にとって有難いことなのだ。
 世の中には、〆切がない限り、原稿を書かない人が多くいる。我は書くのはともかく、整理整頓能力は欠如した無能の人なので、そのかたづけられない症候群は、こうした他者を招くことでしか処置できない。
 むろんそれだって根本治療にはならず、とりあえずの「応急処置」に過ぎないわけだが、それでも前回もしたからだが、じょじょに少しづつでもこれでもモノは減ってきている。
 毎回イベントごとに大慌てで片づけせねばならないのだが、それにかける時間は少なくなってきている。ならばやはりこれからも無頼庵での企画は続けていくことが我にとって、我家にとって大切なことであると、今回、参加者は少なかったが、大いに満足、得心できた。
 
 さあこれで、今日から月も替わり、風薫る五月となった。
 今日も午前中は晴れて陽射しの下では汗ばむほどの陽気となったが、午後からは一転曇って雨もぱらつき、冷たい風も吹きうすら寒くなった。都心の方では雷、豪雨となったらしい。
 まあ、それでも冬は終わり、春が来てこれから初夏へと季節は移ろっていく。現国会、共謀罪という稀代の悪法をめぐって政治状況は何とも憂鬱であり、我も何かできることをせねばと気持ちは焦る。
 しかし、父とのこの生活をまず維持し軌道に乗せて、そこにこうした拙宅でのイベントや、ライブ企画や我が音楽活動もまた再開させて、音楽など「芸術活動」を通して、我ができることを再開していきたいと考えている。
 今月も月末に、拙宅でのイベントをとりあえず企画している。時間もないことで、次回は「音楽に関連する映画」を流すイベントを考えている。様々なミュージックビデオ、珍しいライブ映像など、我が録りためたものも含めて、それをサカナに飲食いできたらと考えている。
 詳しいことはまたこのブログでまずおしらせします。また、その先の予定などもできるだけ先まで決めて早めに宣伝告知していきたいと思っている。
 幸い、今は父の容態が安定している。先のことは何とも定かではないが、ようやく今ならまた腰据えて、我が事、マスダワークスに取り組めるのではないかと思えてきました。
 乞うご期待! と言っておきたい。

まず近況を、憲法記念日に2017年05月03日 22時26分55秒

★施行70年目の瀕死の平和憲法を思う

 まず近況を少し。
 前回、ようやくモノゴトがまた動き出したと書いた。が、まさにそう、好事魔多しということか、昨日から父の体調が良くなく、その世話に追われていた。まったく気が緩められない。そう、浮かれてはいられない。

 昨日、火曜は、父はデイケアに行く日で、無事行って夕方早めに戻って来てくれた。特に変わりはなかったと、送迎のお姉さんは言ってたが、夕飯時に熱を測ったら、37度ちょっとあって、微熱程度だが、また肺炎気味かもと憂鬱になった。といっても最高で37.3度だったが。
 そんなで、夕飯を軽くとらせて早目にベッドに入れたが、さて、どうしたものかと頭痛めた。今ちょうど連休にかかっていて、来週明けまで近くのかりつけの病院はやっていない。このまま熱が上がれば医者に行くことになるがまた急患扱いで、立川の相互病院まで連れていくべきかどうか。

 このところ、また食事時に父は飲み込みに咽て咳き込むことが多くなってきていて、誤嚥しているのかと気にかかっていたが、先だってのデイサービスのお泊りではどうであったのだろうか。連絡帳には何も記されていないが、施設での食事で誤嚥が進んでまたも肺炎発症したのかと昨晩はあれこれ考えてよく眠れなかった。
 が、幸い今朝起きて熱を測ったら平熱に下がっていてほっと安堵した。父をまた立川まで、おそらく救急外来の患者で満員の病院に連れて行かずにすんだ。
 じっさい、老いて父はもう飲み込む力、咀嚼する力が落ちているのである。いくら我が工夫してご飯も粥状にして、おかずもできるだけ柔らかく吞みこみやすい形状にしても、このところほぼ常に毎食時何度かゴホゴホむせこんでしまう。
 それはとりもなおさず胃に落ちずに誤嚥しているわけで、それが気道に、気管に入ればしだいに炎症を起こしてやがては肺炎となる。
 ただ、それも程度の問題で、むせて咳き込むのは、誤嚥に対して抗っている身体の正しい対応でもあるわけで、多少の誤嚥ではすぐさま肺炎発症とはならないと医師たちは言っていた。
 ただこれが常態化し、慢性化してしまえば、また間違いなく肺炎となり入院となろう。たぶん、そしたらば呆けも進みもう退院できずにそのまま特養どころではなくホスピス的入院施設に移され死ぬまで入れられることになる。
 父の世話に半ば倦み疲れている我としてはそれを希みはしないわけではないが、できれば今はまだその段階に進む覚悟も準備もできていないので、もう少しこのまま家に置いて一緒に暮らしたい。父の意向も同様であり、母の死後、ようやく軌道に乗り始めた親子二人のライフスタイルをすぐまた新たなものに変えたいとは思わない。
 それが我にとって結果的に楽となっても、入院すればまた手続きも含めてあれこれ面倒になろう。様々な書類書いたりハンコ押したり考えただけでうんざりしてくる。

 そして、今日は晴れたので、デイサービスなどで溜まった父の汚れ物を洗濯して午前中から庭先に干した。暖かったので父も外に連れ出して、洗濯したものを干すのを手伝わさせていた。
 縁台のような長い木の台に座らせてピンチに洗った靴下とかを留めさせていたらば、ふらついて後ろに倒れ込んで、地面に転倒してしまった。幸い高さはなかったのと倒れても柔らかい土の上だったのでジャージの下を泥で汚しただけで、ケガなどしなかったが、実は計三度も父はバランス崩して縁台から転がり落ちた。
 元よりふらつき気味で、しかも大腿骨骨折後、自ら一人では自立できず、杖を頼りに何かに掴まって、伝い歩きしている父だったが、以前はそんなことはなかった。
 今日それを見ていて、やはり確実に老化が進んでいるのか、呆けとふらつきの状態が悪化しているのか、これは困った事態だと思い至った。
 となると、食事での誤嚥からの肺炎を心配する以前に、周囲が目を離した時に、よろめいてそのまま転倒し、頭を打ったり、またもや骨折する可能性も高いと気がつく。いずれにせよ父はもう今、まさに薄氷を踏むようなぎりぎりの状況にあるのだと知った。

 前回のブログでは、このまま父の体調が良ければ、我もまた自らのことに専念できるだろうと期待を込めて書いた。しかし、まさにそれは希望的観測で実に甘かったとわかった。
 これが70代、80代ならば、まだもう少し先はある。しかし、もはや父は92歳なのである。車でいえば、ガソリンタンクの数字の針は、ゼロ、つまりEMPTYと表示されているのと同様だ。むろん車は、目で見る表示がE=ゼロとなっても、まだ少しは走る。タンクの底に残っているガソリンでもう何キロかは走れる。
 父もそうしたもので、もう魂はほぼEMPTYとなっている。しかしまだよろよろとふらつきながらかろうじて動いている。が、いつそれが完全に空になり、不意に止まるかわからない。
 その命のガソリン、エネルギーが完全に尽きるとき、父はもう動かなくなり死ぬ。それがいつ来るのか、明後日なのか、一か月先か、それとも半年先か、一年後か。それは我もだが当人すらわからない。
 ゆえに、まだもう少し時間はあるとか、希望的観測や楽観的期待などせずに、常に覚悟してその日に備えておかねばならないのであった。

 今日は憲法記念日。この水、木は父のデイケアとかはなく、水曜は訪看さんが来るだけで、週のうちこの二日間だけが父が家にいる日であった。我は、父によく言い聞かせて留守番頼んで、今日の憲法擁護の集会に行けたら行こうと考えていた。
 しかし、やはり父がそんなでは無理であったのだ。明日木曜も父が家にいる限り、目を離すべきではないと今は思う。やはり、都心まで出られるのは、父がショートでお泊りに行ってくれている間だけだった。
 ※続きはまた明日記す。

施行70年目の瀕死の平和憲法を思う2017年05月04日 23時40分16秒

★昨日の続き

 さて、問題の改憲、「憲法改正」である。
 改憲の機運が高まっているとマスコミは報じるが、今の日本人のどれだけが果たしてそう願い考えているのであろうか。現実のはなし、今すぐ緊急に、憲法をすぐさま「改正」しないとならないと、強く感じている日本人が多くいるとは思えない。
 憲法改正が論議されているのは、それを党のテーゼとしている自民党の権力が増して、より声高にその必要性を叫んでいるからにすぎず、国民全般にはまだその意識が広く浸透していないことは政権中枢でさえ認めている。

 では、いったい何故改憲しないとならないかと言えば、一つは施行から70年も経ち、現実に合わなくなってきているという理屈と、もう一つは、「アメリカから押し付けられたものだから」という理由であろう。
 確かに時代の変化と共に、ある程度のズレは当然生じはしているだろう。それは一理ある。しかし、いちばん改憲の理由として常に挙げられるのが「戦勝国アメリがが敗戦国日本に無理やり押し付けて来た」から良くない、という論であって、日本人自らが今こそ自主的に憲法を制定しようという論に結びつく。
 しかし、アメリカが押し付けて出来たから「反対」だと言うのが、左翼陣営、特に共産党や沖縄の人たちが言うならわかる。不思議なことにそれを口にするのが戦後一貫して対米従属を続けて来た保守陣営、自民党なのである。

 そのときどきの米政府の政権が変わろうとも、異端のトランプ政権になっても、いち早く支持して政権誕生前に晋三はトランプタワーに駆けつけて祝意を述べて来た。戦後一貫してアメリカの言うことには常にへつらい従い、日米軍事同盟の元、より強固な揺るぎない関係を結んできたと自負するアメリカがくれた「憲法」ならば何故に有難く受け取らないのであろうか。子分ならば失礼であろう。
 沖縄の辺野古には新基地を県民の意思を一切無視してまでアメリカの求めるまま建設強行する自民党政権は、どうして「憲法」だけ目の敵にして拒むのであろうか。不思議に思うのは我だけか。

 それはつまるところ、アメリカが押し付けた、くれたから悪いのではなく、今の憲法では彼ら自民党にとっては都合が悪いからに過ぎないのである。それは憲法の平和主義であり、戦力を保持しない、武力によって紛争解決しないと、第九条で「恒久平和」を明示してあるかゆえ、この憲法では戦争ができないから改憲を強く願うのだ。
 だからついにこの施行70年目の節目の年に安倍晋三は、自ら九条を改憲の目玉として俎上に上げたのだ。さらに傲慢勝手にも、2020年に改定憲法の施行を目指すと、表明した。憲法を変えるのは総理の権限にはない。一内閣の一総理の発言としてあまりに驕り高ぶっていると、我は憤る。変えるにせよ憲法を変えたいと願うのは国民であり、勝手にタイムスパンを出してくる手口は許しがたい。

 じっさいの話、もう憲法を今さら変えなくても自公政権が続く限り彼らは何でもできるのである。
 そもそも憲法には戦力の保持の放棄が記してあるのに、自衛隊という軍隊があるのだってはっきり憲法違反なのである。しかし、自衛力の保持は禁止されていないという理屈、解釈によって、陸海空、「防衛省」として実戦配備の軍事力を保有し日米韓で戦時対応の軍事訓練を繰り返している。
 さらに昨年そこに、「安全保障関連法」で集団的自衛権の行使容認が加わり、それも憲法違反だと訴えられつつも、もはや海外、他国でもアメリカと共に軍事行動がとれるようになってしまった。それは「自衛」の範囲をはるかに超えている。

 今の憲法の理念は崇高で美しい。が、九条に限らず、現実的にはそれが現実、現状に実はちっとも合致していない。憲法は戦後ずっと拡大解釈や歪曲、詭弁的解釈を繰り返し受けて、まさに絵の描いたモチ、空文化してきた経緯がある。
 そうした違憲状態が何故に許されるかと言えば、この国は、三権分立を謳いながら、司法の権力が極めて弱く、現実的には国会議員を多数有する政党の内閣、つまり総理大臣に権力が集中し、最高裁までも時の政権の意向に左右されてしまうからだ。
 アメリカを見ればわかるように、大統領が勝手に大統領令を出しても、各地の裁判所がそれを停められる司法の独立が保障されているのとは対照的であろう。
 自民党安倍一強が続く限り、国家権力は彼の手の内に集中し、先のNHKの会長に見るまでもなく、すべてが政権の意向に沿った思い通りのものになってしまう。だからこそ、マイメディアの報道に踊らされ鵜呑みにすることなく、我々は自らの目で見、自らの耳で聴き、自らの頭でよく考えなければならない。

 我は参加できなかったが有明で催された施行70年集会には実に五万五千人も集まったと報じられている。その席で伊藤塾の伊藤真氏が訴えた言葉が強く心に残る。
 「こういう時代だからこそ、憲法の輝きを増していかねばならない。子や孫が、自由と平和の中で憲法施行100年を祝える未来を描くことが、私たちの責任ではないか」
 まさに同感であり、子や孫もいない我だが、この平和憲法を何としても再生していかねばとこの機会に強く考えた。

今日は何日? 明日は・・・2017年05月05日 23時01分24秒

★認知症介護3~4の父と暮らすこと

 正直なところを隠さずに書く。
 このところ昼寝のときなど、浅い夢の中で死んだ者たち、母や愛犬ブラ彦たちがよく出てくる。が、夢の中でももう彼らは死んでこの世にいないという理解はしていて、その姿を見、ある意味夢の中で再会し思い出しては、目覚めて、彼ら死んだ者たちのためにもしっかり生きなければと思い直す。
 もう、前みたいに哀しみに打ちひしがれ泣きながら目覚めることはない。しかし、哀しみは癒えたとしても淋しさは変わらずで、彼らが生きていた証に触れたり、生きていた頃、母ならば去年の今頃、まだ元気にいた頃のことを思い返すと突然胸が張り裂けそうな痛みにとらわれる。
 そう、去年の今頃は、手術で入退院を繰り返していたが、まだ家にいる時は元気で動き回っていたし、何より父祖の地、谷中村がある栃木県佐野市、藤岡の親戚のところまで我と共に一泊でも無理なく旅行にも行けていたのだ。

 その人が七月からの僅か二か月自宅での寝たきり、往診、在宅治療だけで九月頭には急逝してしまいもうこの世のどこにもいない。その頃、老いてもやはり元気でいた愛犬も年明けから衰弱して今春四月頭に老衰のため命を全うしてやはりもうその姿はない。
 何とも無常感に嫌でも苛まれてしまうが、それも天の定め、運命だったのだと今は受け入れられるし、辛くとも彼らのいない、新たな生活にも慣れては来た。
 死んだ者たちには何もできないからこそ、我ら生きている者たちはその分、しっかりと生きねばならない。彼らの分、彼らのためにも。そう誓い、頑張らねばと自らを叱咤激励してはいても、今現在、まだ生きている死に行く者と暮らしていると、もう日々心底疲れ果てる。元気なはずの我の方が先に死んでしまうかもしれないと思う時がある。
 
 父は今、毎週火、金とデイケアへ、土日はお泊りもできるデイケアへとショートステイで通っていて、二週に一日、在宅診察の医師が来る月曜以外の月曜ももう一日デイケアに行っている。
 つまるところ火金土日、ブラス二週に一日、月曜も含めて、週に四日ないし五日は施設に通ったり預けたりもできるようになった。おかげで我はずいぶん楽にはなったと言いたいが、通いの日は、朝起こして食事摂らせて送り出し、夕方帰宅を迎え入れるまで、父が我の手を離れるのは実質6時間そこらであって、せいぜい昼飯の支度とその数時間世話しないで済む程度の「楽」しかできやしない。
 6時間そこらでは、バイトでも仕事には出られないし、都心に映画を観に行くことだってかなり厳しい。朝夕の送迎時に携帯に電話がかかってきて父を迎え入れるのに我は在宅していないとならないからだ。
 で、父が家に終日いる水木は、水曜は毎週訪問看護士が来るし、父がいると朝から晩まで食事時以外も目が離せず、家もろくに空けられず、ほとんど気が休まらない。
 ほっと一息つけるのは、父をベッドに寝かしつけた今頃、食事の後始末を終え台所を片付けた後、夜も遅くなってからだ。

 今日、金曜も父はデイケアに行ってくれたが、朝7時前に起こして着替えさせ誤嚥しないよう傍らについて食事をとらせて、持っていく荷物をまとめて8時過ぎ、施設からの迎えの車に乗せてほっと一息した。
 それからゴミ出したり犬たちの散歩や餌など世話したら不意に疲れが出て昼まで一時間半横になって仮眠とった。
  昼前に起きて、掃除や台所仕事、自らの本関係の雑事に追われて、ゆっくり落ち着いて食事もとれず、気がつけば父が戻る3時過ぎとなって、早や夕方となってしまう。※今日は二回も昼寝してしまったが季節の変わり目、やや風邪気味っぽいということもあるけれど、この父と暮らしていると、父よりも早く起き、父よりも遅くまで起きて、睡眠時間も足りなく、手のかかる父の世話に疲労困憊、今日のように週末になると心身疲弊して来る。

 施設から送り返された父を玄関先で受け渡してもらい、また着替えさせたらまた疲れが出、今日は夕方もまた一時間仮眠してしまった。それから犬たちと散歩がてら買い物したりして、父に晩飯を作って食べさせる。
 しかし、今日は、父に施設で昼に何食べたか訊いても父は思い出せず返答なかったばかりか、明日の予定を尋ねたところ、毎週必ず通っているデイサービスのことを完全に失念していてその名前を教えても思い出せずその事態でひと騒動起きた。
 そのNというデイサービスに通い始めてもう半年過ぎた。毎週土日、ときには月までも一泊二日、あるいは二泊三日で父を預かってもらっている。我にとって通いの日はろくにのんびりできないうちにまたすぐ帰って来てしまうので、唯一父がNという老人施設に終日行ってくれている土日だけが息抜きでき、何とかそれで我は倒れず発狂せず持ちこたえられている。

 今晩は、夕食事時、デイケアから戻ってきた父に、今日は何日かと訊いたら、先だって曜日表示も出る腕時計を買ってやったこともあって、正しく「今日は5日の金曜」という答えは返って来た。
 で、次に明日は、どうする? 明日の予定は?と訊くと、父曰く、明日は何の予定もない、家にいると言う。カレンダーに父自らつけさせた、土日にはNと書いてあるのを見せて示して、Nと書いてあるじゃないかと教えても、Nって何だ!?と父は思い出せない。
 自分で書いただろうと言っても、Nの記憶がまったくないと彼は言う。思い出させようとしたら、父曰く、Nは食堂だ、弁当の宅配サービスだとトンチンカンなことを言い出す。そもそもそウチでは弁当の宅配など頼んだことは一度もないのにだ。この妄想はどこから生まれるのか不思議にもなったが、それより呆れたのは、毎週通って、もはや半年、いつも土日ごとお世話になっているNという施設の記憶が完全に失念していることだ。

 けっきょく、前にも一度同様のことがあり、「お宅は何ですか?どこにあるんですか?そこに私は通ってるんですか?」と父自ら電話させ思い出させたが、やはり今回もNに電話して、当人が施設側に質問して、Nとは老人介護施設デイサービスであって、父はそこに毎週通っていて、明日も朝9時半に迎えに行くという説明を受けて、ようやくおぼろげながらNへ行く明日の予定を思い出してきた。
 そして、しばらくしてそこに毎週通いお泊りもしていることを何とかどうにか思い出すことができた。けっきょくそんな騒動で、一時間以上も混乱し騒いでいた。幸い今回も記憶を取り戻すことができたから良かったけれど、この調子でいけば、こうした事態はさらに進み再発して、その都度説明に時間がとられる。そしていくら周囲が説明して思い出させようとしてももはや当人は何も思い出せなくなる日も近く来るかもしれない。

 いったい彼の頭の中はどうなっているのか、これからどうなってしまうのか本人も不安になっていたようだが、我もまた暗澹たる気分になって来てしまう。
 昼に何食べたか、今さっき何したかさえ記憶が続かない。我が訊いても思いだせないことも毎度のことだし、今回に至っては毎週常に通い、先週までは毎回、金曜はAという日帰りのデイケア、土曜はNというお泊りのデイサービスと「認識」していたことが、今晩突然、明日はNにお泊りに行くどころかNとは何なのかさえも分からなくなってしまう。そのこと自体思い出せなくなっている。
 記憶喪失とか以前にあたかも発狂したか、まさに痴呆化が進んだのだと呆れ果てる。驚くより情けなくて不安になって来る。このままこれが進めば、すべてのことが思い出せななくなるだけでなく一切何もわからなくなるかもしれない。まさに痴呆症と言ったものだと思う。この先は廃人であろう。
 そんな人間を介護することは、息子であろうと我一人でできるはずもない。これ以上何も思い出せなく、何もわからなくなれば、デイケア、デイサービスだって受け入れてくれなくなるだろう。この家でだって我一人で介護できるはずもない。
 さすれば、そういう痴呆型老人患者を受け入れてくれる、治療はしない医療施設に入れるしかなく、どこまで理解できたかわからないが父にそのことを食事後とくとくと説明した。

 父は今介護3という認定だが、すぐにでも4にできると言われている。しかし、度数が上がったからといって介護保険料がさらに高くなるばかりで何も得はない。家にいて、我が面倒みれるのももうそろそろ潮時、限界、峠に差し掛かって来たと今日は強く感じた。
 人は長生きすると、身体もだが、オツムのほうもこうして衰弱、衰退して何もできなくわからなくなっていく。それでも家族が大勢いて介護体制に余裕があれば、とことん最後まで在宅で看取ることも可能かもしれない。しかし我の場合は、一人でもはや限界に近づきつつある。我が妹の言うように、父の寿命もあと一年かそこらだとしても我がどこまで寛容で元気でもちこたえられるかどうかだ。
 まったく老いて死ぬのも大変なのだ。当人もだが、その周りの者、家族こそまた大変なのである。

 ※【追記】 翌日土曜の朝記す。
 翌日の土曜日の朝になったら、父は自ら起きてきたが、こう記した騒動を覚えていないだけでなく、昨晩は思い出したNというデイサービスに行くこと自体また失念していた。まったくもう、やれやれである。
 息子が持参用の着替えやパジャマ、紙パンツ類など荷物をまとめてやって行く支度をしながら朝食を作って食べさせている最中も「ワシは今日どこに行くんだ!?」と繰り返し訊いてくる。こちらも思い出させるためにゆっくり説明している時間はないので無視していたら当人も不安そうだった。
 表に出して迎えの車を待つ頃には、どうやらデイサービスNへ今日は行くのだと思い当たったようで、騒がずにいつも通り乗って行った。ほっとした。
 父を送り出すだけでも一苦労である。

 もう特養のようなところに入れるしかないのはわかっている。ただ、本人の同意がまず優先されるし当人は絶対にイヤだ、そんなところに連れて行かれて入れられたらワシは自殺する、という意思は呆けても失念しないのでケアマネージャーも我もこの男には手を焼いているのだ。
 ただ、もっとさらに呆けて、この痴呆状態が進めば妄想徘徊も悪化して、最後は息子の顔さえもわからなくなろう。そうなれば当人の意思など無関係に強制的に施設に連行することも可能だと考えている。
 そうした事態を望む者はいない。我も父もできるだけ最後のとき直前までこの家で暮らせるように、と願っている。よって、未だ現時点では行政も我もどうすることもできないのである。こうなっても父はまだ人間であり、ニンゲンとしての意思も感情も残っているのだから。それを忖度せずに無視するわけにはいかないだろう。

今月は家にこもって2017年05月06日 23時31分06秒

★疲れが出て風邪ひいたか

 季節の変わり目である。このところ昼間は晴れれば暑くなり、夜は肌寒いという寒暖の差がある日が続いていた。が、今日は日中は異常に暑くなった。夜になっても風もなく、さっきまで家の中でも25度近くあって熱さに弱い我は暑くてたまらない。

 父を朝送り出して、今日こそは溜まりに溜まった片付けものに向き合い、少しでも処分していこうと考えていた。
 が、このところの疲れが出たのか、朝食後少しだけのつもりで昼寝したら、夕方まで泥のように眠ってしまい、身体動かすこともできずまったく起きることができなかった。やっと起きたのは夕方だった。
 被害気温も高かったせいか汗かきながら眠っていたが、起きても鼻水が出るのでどうやら風邪の初期症状っぽい。今もやたら暑くてたまらない。

 今日は夜、かけこみ亭で友人のライブがあり、昼間作業が進んだら、気分転換も兼ねて顔出すつもりでいた。が、日中はほとんど眠ってしまったことと、鼻水と鈍い頭痛があるので、迷ったが断念した。
 もう我が人生、すべてが待ったなし、今月内に少しでも懸案のことが片付けられなければ、あと何ヵ月たとうが、今年も何も果たせずに終わってしまうだろう。
 父がいない間こそ、我は出かけずに、我が事に向き合い、溜まってしまったやるべきことを片付けなくてはならないのであった。
 父のことがあるからとかあれこれ忙しいとか全て言い訳にもならず根本原因ではないし本来関係ないことだった。
 少しでも成果を出していきたい。このまま何もカタチにできずに我が人生を終わらせたくない。
 今月は他のことは全て不義理してもまず自分のことに向き合い懸案事項を進めていきたい。早く良い報告をお知らせしたいと切望している。

着るもの考・その12017年05月07日 21時55分53秒

★母の遺した衣類に思う

 昨日はこの季節にしては耐えられないほど我は暑く感じて、もしかしたら風邪気味だったせいもあるのだが、今日は昨日の格好でいたらうすら寒くて困惑している。
 今の季節、朝晩と日中の寒暖差が大きく、何を着たら良いか迷うところだ。迂闊にしてると我ではなく父を風邪で肺炎にしてしまう。もはやそれでアウトとなろう。で、着る物について考えたことを何回か分けて書くことにする。

 人間は生きていくのには衣食住という三つの大事な要素、問題を抱えて死ぬまでそのことに頓着せねばならない。
 そのうちの食と住、つまり食べることと住むところ、ねぐらに関しては人間以外の動物だってもちろん生命維持のために重要なファクターであり、彼らの生活は、繁殖期や子育てを除けばほぼ年中終日餌を求めて活動したりと「食べること」に追われている。
 そして次いで身を守るためと子育てのための巣穴など住居もかなり大きな問題であり、彼らにとって食住は死ぬまで必須のけんあん事項であるが、「衣」はそうではない。
 衣食住のうちの「衣」、つまり着る物というのは、数ある動物の中で人間だけが問題として常に頭を悩ましている。そう、動物は皆さん毛皮なり甲羅なり、固い皮膚なり、自らを守るための外装を備えている。それは一張羅ではあるが、持って生まれてきたそれだけで十分なのである。※今日では小型犬たちは犬用ウェアを着ているが、それは必要性があったり自ら着たくて着ているのではなく飼い主の趣味で無理やり着せられているのは言うまでもない。

 ところが人間だけは、何故か薄い皮膚だけしかなく、残念だが裸体では、何も着ないでは生きていけない。冬など凍死しなくとも風邪等ひいて死んでしまう。人間に近いお猿たちでも皆、チンパンジーたちだってまだ毛皮があるので、衣類は一切不要なのに何故人間だけその体毛を失ってしまったのであろう。考えると実に不思議だが今回はその件はさておくとする。
 むろん常夏の密林や南洋の島々で暮らす昔でいう「土人」の人たちは、今はどうか知らないが、一昔前まで裸であった。せいぜい性器を蓑の類で覆う程度ですみ、外気温が高いので衣服は必要としなかったのである。
 我は彼らの持つ文化、文明を否定したり卑下する気は毛頭ないが、残念なことに、裸族の人たちが暮らす熱帯からは今日の我々の持つ高度な文明は発生していない。そこに文明と衣服とは密接な関係があることは誰でも読み取ることができるはずだ。
 あえて論を進めれば、裸ではいられない、生きてはいけないという状況があったから、人は衣類を求め動物の毛皮などを加工し纏う必要も生じ、その工夫が文化に、文明に発展していったとも考えられよう。寒さを防ぐための住まいも同様に。必要は発明の母なのである。
 ならばつまるところ、衣食住のうち、衣こそ、人を人として成らしめた第一の要素であり、衣服を着た無毛の猿が人間なのだと言うこともできる。
 そして人間だけが、膨大な数と多彩な種類の衣類を持ち、身体の成長と共にサイズも変えて、さらにそれを季節ごとに使い分けたり日々TPOに応じて着替えたりしているのである。他の動物からすればまさに不可解かつ面倒で大変なことだと見えるに違いない。

 前置きが長くなった。何で衣類について書こうと考えたか。実は今我の頭を悩ましているのは、母が死んで遺された彼女の衣類の始末である。我が母はおしゃれであったとはとても言えないが、ともかくボロ衣類を捨てずにたくさん抱え込んでいた人で、母亡きあとその処分に追われている。
 母は古着、ボロ衣類のイメルダ夫人と我が揶揄した如く、ウチが貧乏にも関わらず、いや、貧乏だったからこそ、バザーや友人知人から頂いた衣類を捨てずに溜め込んできたのでボーダイな量の女物衣類が死後残された。
 それが高価なブランド物ならばリサイクルショップなどに持ち込めばいくらかにはなったかもしれない。が、戦後の物不足の頃から、自ら手作りで裁縫したものから、近隣のイベントの出店、フリーマーケットなどで100円そこらで買い求めたものまで、ともかく着る物が大好きで、他人様がもう着ないから捨てるというものでも喜んで貰い受けていた。
 まあ、それは我が本や雑誌、レコードならともかく集めて処分できないのと同様に、母にとってそれが生き甲斐、趣味であったのだと思うし、お金をかけずに安くお気に入りのしゃれた衣服をみつけるというのが彼女のささやかな楽しみであっのだと今にして気づく。

 我は母が生きていた頃、元気だった頃から、そうした衣類、どうせほとんどボロなのだから溜め込んでも仕方ない、身体はひとつなのだから着ないものは早く捨ててくれと常日頃から母に強く言ってきた。
 婦人会のバザーなどに売れそうなものは出せと言いつけ、我もまたそうした荷物をその場に運んでやったが、母もその場に顔出せば、ミイラ取りがミイラになるの喩えのごとく、また新たに違う服をあれこれ買ってきてしまい元の木阿弥であった。

 「ねー見て見て、これいいでしょ、今の季節こういうの欲しかった、これ百円なの」と買ってきた新たな古着を手に一人ファッションショーをやっていた声が姿が今も目に浮かぶ。
 だから母の部屋は当然衣服類で乱雑をきわめ、あまりに増えればときに父が段ボール箱に詰めて、季節ごとの箱も山積みとなっていった。そうして箱に入れたりしてその季節に今着る物が見つからなければまた新たにバザーなどで安く買う。基本、モッタイナイ症候群の人だから、着ないからといってもぽいぼい捨てられない。それを戦後ずっと結婚後繰り返し続けて来た。よって我が家は息子の本類、レコード、カセット類、オーディオ類と共に、母のボロ衣類が山を成し、何部屋も占めていたのだ。※父は父で同様に彼の溜め込み捨てないアイテムは別にあるのだが、今回の話とは関係ない。
 いずれにせよ何であれ捨てられない溜め込み一家、これもまた世間でいうところのゴミ屋敷なのである。

 母が老いて癌という病に侵されしだいに体力も弱って来た。だからこそ生きているうちに何としてもそうした負の遺産は早く片付けてくれと我は母に繰り返し頼んできた。
 しかし、体調が悪くなってからは当然のこと、私の衣類はそのうち片付けるから、勝手に捨てないで見てから捨てるから、と言っていたが、去年は年明けから病院通いに追われ落ち着いて衣類に向き合うこともできず、けっきょくほとんど手つかずのまま母の愛したボロ衣類はそのまま残された。
 俗に、人は死ぬばゴミになるといわれる。母が死んで母はいなくなったがボーダイな衣類ゴミが残された。
【続く】

着るもの考・その22017年05月08日 23時58分23秒

★世代とその時代のファッションと

 で、その残した膨大な女物古着であるが、一目でわかるボロならば捨てるのは簡単だ。が、母がずっと愛用して着ていたもの、母のお気に入りで大切にしていたもの、我の記憶にあるものだとやはり簡単に捨てるのはしのび難い。
 むろん母はもうこの世にいないのだから、ゴミとして即処分すべきなのだろう。我の友人は、やはり相次いで両親を亡くされた後、数か月で父母の遺したものは日々着てたものから本、文具、メモ日記の類まで一切合切ゴミとして大急ぎで全て処分してしまった。たぶんその親たちがこの世にいた証は、位牌と写真ぐらいであろうか。その思い切りに感嘆する。

 確かにそうすれば家のスペースは一気に空き、風通しも良くなるだろう。が、我は絶対にできない。今もまだ母が恋しく思うし、母の肉体がお骨以外この世から消えてしまったからこそ、その思い出に繋がるもの、生きていた証として母の遺したものは着てたものから書きつけたメモの類でも捨てたくないし失くしたくない。
 世間様、他人から見ればまさにゴミでしかないものでもおそらく我が生きている間は、それは後生大事に持ち続けることだろう。実の妹にも早く捨てろと呆れ果てられたが。
 ただ、それは我だけではないようで、先日拙宅に来られた友人も、ずいぶん前に父親を亡くされたそうだが、今もその遺品は、衣類に至ってもなかなか捨てられないと話していた。
 しかし、そうした母の思い出ある衣類はともかく、買った?けど着なかった、状態の良い衣類もかなり出て来た。さてどうしたものか。我もまたモッタイナイ~捨てられない夫婦の息子として、幼児よりその薫陶受けて育っているから、母が大事にとっておいた、しまっていたそうした衣服を右から左に可燃ごみの日に出すことはやはりしのび難い。

 我は女物の良し悪しはよくわからないので、我の実妹に、――20代でこの家を出て九州に嫁いでいる我のたった一人の妹のところにそうした品は送って判断を仰ぎ、できれば着てもらおうかとも考えた。妹ももう若くはない。我と二つ違いだから間もなく60近いオバサンなのだ。しかも先だって結婚した彼女の息子たちに子供も間もなくできるらしい。孫ができれば妹も婆さんであろう。
 ウチの婆さん、つまり我が母が着ていたものでも妹も婆さんになるならばきっと着てくれるだろう、着てもおかしくないはずと我は考えた。
 そのことを親しい女友達に話したら、バカなことはやめろと止められた。そんなことをしたら妹は怒ってただでさえ不仲の兄妹の関係は悪化するだろうと。

 歳をとったからといって、女同士でも確かに母と妹は時代もセンスも違う。サイズが合ったとしても、そんな八十代の母が好んだ衣類を妹が着るはずがない。そんなものを送りつけたらゴミが増えるだけで、激怒することは間違いない。
 冷静に考えれば確かにそうであった。男同士、我と父の関係を思えばそれはわかる。我は父の衣類は、サイズがあったとしてもやはり絶対着ない。年寄り臭いということもあるが、何よりセンスが違う。好みではない。我が父の歳になったとしてもやはりまず着ないと思える。
 それで気づいた。この世には「年寄り向け衣類」というものがある。我は漠然と、人は年取れば、男も女も誰もがやがてそうした老人向け衣料、年寄り臭いセンスや色合いの衣服を着るものだと思っていた。
 しかし、我や妹の世代が、親たちぐらいの老人になったとして、果たしてそうした今の「老人ファッション」の衣類を着るとは絶対に思えない。今ある「老人向けセンスの衣類」は、今の「老人」のセンスに合ったもの、彼らに向けたものであって、人は年とれば誰もが年寄り臭いファッションを纏うのではなかったのだ。

 若い時は女ながら大型バイクを乗り回し、今もピチピチのジーパンばかり穿いている妹が、年とったからといって、我らが母の遺した婆くさい衣類を、形見だとしても着るはずがなかった。九州に送らないで良かった。送ってたら激怒させたことだろう。
【この稿続く】

着るもの考・その32017年05月09日 13時50分54秒

★人は自ら若い時のセンスに囚われる。

 今日はうす曇りでひんやりとした風が吹き、Tシャツ一枚だとうすら寒く心許ない。
 我は基本的に、ジーパンかチノパンにTシャツで春夏は過ごす。暑い時は家の中では半ズボン、短パンは穿くが、外では、まず履いて出ない。それも人と会う時などは素足は出さない。男は毛脛など人前で出すのは見苦しくみっともないと考えるからだ。我は毛深い方ではなくとも。
 我にファッションセンスがあるとか、拘りのおしゃれなど一切ないが、着る物には多少のこだわりがなくもない。

 去年の夏前の頃は、母の通院などもあって、よく立川の病院に通った。ぐうぜん支払いの時、待っている間に見たある男の姿が今も目に浮かぶ。
 ギンガムチェックの半そでシャツに半ズボン、頭には麦藁帽か、野球帽を被っていたかと思う。小さなバックをたすき掛けにして、立って彼も会計で呼ばれるのを待っていたのかと思う。
 最初みたとき、少年だと思った。夏休みなど、虫取りに行く格好の少年のようだった。が、顔見たらギョッとした。シワシワの疲れた顔の初老の男で、もしかしたら我と同世代かもしれないが、そんな老いた男、もはや「老人」なのに格好は「少年」のファッションなのである。
 それ以降、気をつけて街を歩いているとこうしたいい歳した世代であるのに少年のような恰好の男たちがときたまいることに気がつくようになった。
 我は恥ずかしくてとてもそんな恰好はできない。が、彼にとってはそれは当然であり、自ら選んだファッション、カッコいいスタイルなのであろう。その歳でその格好は似合っているとはとても思えない。しかし、人がどう思おうと彼にとっては当たり前なのである。
 
 吉祥寺周辺に住む某マンガ家氏のことも思い出す。我も敬愛するその漫画家は、写真などで見る限り常にピンクの横縞のロングTシャツ姿である。で、実際に何度か街で見かけたりもしたが、やはりそのボーダーの長袖を着ている。
 お歳もたぶん70過ぎたかと思うのだが、ご当人はそのファッションが好きで、若い時からずっと変わらないようだ。お年寄りがそんな格好していたらやはり違和感を覚える人も多いかもしれない。しかし、それが彼にとっては、若い時からのアイテムであり、おそらくその色と縞は死ぬまで離さないのだと思う。
 それでわかって来た。その人のファッション、衣服の好みとは、若い時に自ら選んだそれに生涯規定されてしまうのだと。それは我もまた同様に。

 女性はよくご存じない男性下着に、股引(ももひき)、とか猿股(さるまた)と呼ばれるアイテムがある。ステテコというものもある。猿股とはブリーフ、いわゆるパンツの類で、肌に直截触れる下着であるが、股引、ステテコは、ズボン下とも称され、パンツ類など肌にふれる直に下着とズボンの間に履くものである。
 我は若い時からこれが嫌いであった。基本的に履かない。その習慣がない。ただ、ある世代、我より上の世代、団塊ではなく、さらにもう少し上、我らの父世代まではこれら「ズボン下」を欠かさず履く。夏でも履いている。
 以前バイトに行ってた先の頭領、オヤジさんも仕事の前、着替えを見ると、夏でもズボン下、ステテコを作業着の下に履いている。暑いのでは、と訊くと、夏でも冬でも履かないと何か落ち着かないんだ。履いてた方が夏は涼しいとまで言っていた。

 彼らにとっては若い時からそれをズボンの下に履くのが慣れ親しんだ変えがたい習慣であり、履かないほうが逆に違和感を持つのである。
 我が父もまた同様であり、父の場合は、パンツの類も、ラクダ色した猿股であり、それ以外は与えても絶対に履かない。仕方なく猿股を探し回る羽目となるが売っているところを見つけるのが今では難しい古典的下着となってしまった。そしてその上に「コシタ」と彼が呼ぶ股引の類を春秋冬は履く。夏は薄手の丈の短いステテコを履く。
 父が死んだらそうした衣類は後に遺されるわけだが、新品でも我は絶対に履かない。若い時から履く習慣がある世代ならともかく、その習慣がない我らの世代ではまず「ズボン下」は履かないのではないか。※我はスーツ上下を着て勤めた経験がないのでわからないが、今のサラリーマンはどうか聴きたいくらいだが。

 そんな我もこのところ年老いてきて、おまけに寒い山梨へ行くようになってから冬の寒さが辛くてたまらない。仕方ないので、ズボン下として黒めの防寒タイツなるものを冬季は履くようになってきた。とても素肌にズボン一枚だけ、ジーパンだけではいられない。
 しかし、そこにも拘りがある。ジーパンの下には、絶対にズボン下は履かない。いや、履けない。それも若い時からの習慣でしかないが、ジーパンとズボンはまた別物で、ジーンズとは素肌に密着して履くものであり、いくら緩いだぶだぶのそれだとしてもズボン下の類はジーパンの下に履いてはならない。それは耐えられない。

 たぶん我と同世代でもあまり気にしない人は、ジーンズの下にも股引を履いたりもするかもしれない。しかし、我はそういう人を密かに軽蔑している。理由なんてない。履けば暖かいし履かないのは寒くて痩せ我慢でしかない。単なる若い時からの習慣に過ぎない。
 しかし、人は老いても意識あるうちは、こうしたファッションのこだわりを皮膚感覚的に持ち続けるものだと思える。それも若い時に自ら選び規定したファッション感覚に囚われるのである。

 こう書いてきて我がもっと忌み嫌う衣類があることを思い出した。「ジャージ」である。【さらに続く】

着るもの考・その42017年05月10日 18時41分37秒

★ジャージって何なんだ?

 着る物についてついあれこれ考えている。どうでもいいようなことだが、食の好み、嗜好と同じく衣服についても人は意外にこだわりを持っていると思える。しかし食は生きていくのにきわめて重要な要素だが、着る物なんて本来どうでもいい事のはずなのだ。
 そもそも暑さ寒さを防げれば良い。いや、暑ければ裸でいれば良いのだから、着るものは元々は防寒のためであり、そこにお洒落やファッション、流行などは関係ないはずなのだ。しかし、人は、特に女性は衣類について強い関心と拘りを持つ。そしてこんな我でも好きな衣類と嫌いな衣類はあって最も嫌いな衣服は今日では「ジャージ」と呼ばれる類のウェアなのである。

 そもそもこれは体操着ではないのか。ところがいつしかそれが日常の普段着として、愛用している人たちが多く見かけるようになった。理由はわからなくもない。発汗性にすぐれ、素材も伸びて柔らかくて楽ちんだからであろう。つまり家でリラックスするときは、これの上下に着替えれば、寝る時も含めていちいち着替えなくて良いからであろうか。
 が、中高生の頃から体育の授業が大嫌いで、その教師と共に、坊主憎ければの喩え通り、体育に関係するものは全て今でも大嫌いなので、このジャージなる体操着は着ることは愚か見ることすら耐えられない。
 そして何より理解しがたいのは、それを普段着として愛用する人たちであり、しかもこれで街中を出歩く人もいるのである。
 我が高く評価している近年の邦画の一つに深田恭子主演の「下妻物語」がある。ゴスロリファッションを愛好する主人公の少女が冒頭、彼女が生まれ育った関西の地に住む人たちが常にジャージを着ていることに対して、忌み嫌って非常に辛辣な言葉を吐く。
 この人たちはジャージを着て生まれて来て、死ぬときもジャージを着て死ぬのです、と。そのような独白に我もまさに同感、拍手喝采した。

 じっさい、家でゴロゴロしているときは、朝から晩までジャージ姿でいて、それこそ死んで棺桶に入れられるときもジャージ着て、という人はいるかと思える。そこにはファッションセンスは何もない。ただ単に着ていて楽だという自堕落な体感があるだけで、確かに洗濯もこまめにしないで良いだろうしいちいち着る物に頭悩まさずに済むわけで、その上下一式さえあれば暖かくて動きやすく楽ちんなのは確かなのであろう。
 しかし、それは下妻物語の主人公の謂いではないが、実にカッコ悪いし信じられない、のである。着る物を自ら選択し拘るのがファッションだとすれば、ジャージには思想がない。あるのは着ていて洗濯も含めて楽かどうかだけなのだ。

 我らが子供の頃元々はトレーナーと呼んでいた。つまりトレーニングウェアであろう。そう、体育のときに着る専用の衣類、体操着であった。ただ、トレーナーがスエットと呼ばれるとするならば、我は、木綿素材の「トレーナー」はちっとも嫌いではない。若い時から沢山持っているし、今も愛用している。
 そうしたトレーナーはジャージとは異なるしジャージとは呼べない。では、ジャージとは何なのか、ウキペディアで調べてみたら、要するにそうした編み方のことであり、伸縮性のある編み方の生地のものをジャージーと呼んでいたとある。我はそこに素材も大きく関係していると思う。主にポリエステルなどの乾きやすく丈夫な化学繊維であり、それもまた嫌う理由なのである。
 ところがそんなものがいつしか、日常着となって広く老いも若きも着るようになってきた。ウキベデイァにはこう付帯的に記されている。
 
 『ファッションウェア化=もともとはトレーニングウェアとしてのジャージーはスポーツのために作られており、ファッションウェアとして認識されることはなかった。
 だが、日本の小中学生の間では、普段着としても好んで着る者はいた。大人は、トレーニングウェアのジャージーを、もともとの目的のとおりスポーツウェアとして用いたり、あるいは家事の作業着として用いたり、自宅内で着る部屋着(リラックスウェア)として用いたり、寝巻き(パジャマ)として用いてはいた。だが、最近では[いつ?]大人の一部に、独特のファッションとして外出時に着用する人もいる』。

 我が若い頃、大昔の話だが、美大受験のために立川にある絵の予備校に通っていた高校生のときだと思う。中学の同級生だったOという男もそこに来ていて、違う高校であったが再会した。今から40年以上前の話だ。
 そしたらOは、そこに通ってくるときはいつもジャージの上下を着て来て我は非常に驚いた。中学の頃からあまり良い印象を持っていなかった彼だが、この世に体操着で街中歩いてくる人がいること自体信じられなかった。ますます嫌いになった。
 今から思えば、絵の勉強は、絵の具や木炭で衣服も汚れることであったから彼の選択、ファッションセンスはそれもありであったかと思えなくもない。つまり美術も体育と同じようなものだと考えれば、そうした作業着として、ジャージ愛用も許されるのかもしれない。
 が、そのときは呆れ果てたし、我が初めて学校以外でジャージの類を着たまま出歩いている人を見たのはOが初めて、嚆矢であった。

 そして今、ジャージは広く市民権を得て、我は今も信じ難き気がするが、普段着として家にいる時は常時愛用し、それで街中へ、ちょっとした買い物とか散歩など出歩くときのアイテムにしている人たちが多々見受けられるようなった。むろん街中をジョギングしたり本来の「運動着」として着ている人も当然いよう。しかしそうした人こそ、今はジャージなどは着ず、身体にフィットした、もっとセンスあるスポーツウェアを着用しているようだ。
 つくづく隔世の感である。が、今も昔も我のジャージ嫌いは変わらない。我は運動もしないが、それは体操着ならば許せる。しかし、それを普段着、室内着として楽だからという理由で愛用することには今も強い抵抗がある。

 さて邦画「ジャージの二人」である。長嶋有の原作を映画化し、今人気の堺雅人とシーナ&ロケッツのロックンローラー鮎川誠が親子を演じ、彼らが群馬県の山荘で過ごす二度の夏をただ淡々と描いた珍作怪作だ。先日、NHKのBSでも放送されたので、観た方も多いであろう。
 堺演ずる三十代の息子と、鮎川の五十代の父は映画の中で、何故その山荘にあるのかよく説明されないままに二人とも近くの小学校のネームの入った中古ジャージを常に着ている。ストーリーは何も事件は起きないし、映画として面白いのかさえ何だかよくわからない。いわば脱力系の極みであり、見どころは、鮎川の超大根演技というか、彼の地そのものと思える宇宙人のような演技、つまりただ圧倒的存在感だけで、やはりジャージ姿でも当然ながらカッコいい。
 私事だが、日本最高のロックギタリストとして若い時からずっと憧れ続けて来た鮎川が映画に出ているだけで我は手放しでこの映画を評価してしまう。画像のようにジャージ姿の二人だが、この二人だからこそ、常にカッコ悪く情けないジャージも様になるのである。

 かといって我も彼らのようにジャージは着るつもりはこれからもない。が、もしも映画の中で、鮎川のお父さんに、「寒い?せば・・・」とジャージを出されて勧められたら迷うことなく彼らの仲間入りしてしまうだろう。何しろジャージは暖かいし何より楽ちんなのだから・・・。おっと!

着るもの考・その5~終わりに。2017年05月11日 22時40分05秒

★まとめとして~着るものなんてどうでもいい。

 母の遺した衣類から、つい我の過去のことまで、どうでもいいことに時間とられてしまった。
 書こうと思えば、男性下着の問題、つまりブリーフ派かトランクス派かとかいくらでもこの稿続けられるが、喫緊の情勢がそれをゆるさない。

 女性たちなど、ファッションや衣類に強いこだわりを持つ方も多々いるかと思うが、我自身は好みはあるが、基本的に着る物なんてまったくどうでもいいと思っている。好きなブランドなんてないし、ともかく着て楽であること、つまり着やすければそれこそジャージだって(室内では)かまわない。
 人が生きていくのに必須の問題、衣食住のうち、一番大事だと考えるのは、「食」であり、「衣」は三つのうち最下位の、いちばんどうでもいいことなのだ。
 だから衣類、着る物に関しては靴も含めて我は金をほとんどかけない。

 幸い我は中肉中背、日本人としてまさに一般的な体形に生まれてきたので、平均的サイズのものならば、ほぼすべて合う。サイズはMだが、Sでも着れるものもあるし、大は小を兼ねる故Lでもかまわない。靴のサイズも25~26ですむ。もっと大きいサイズでもかまわない。
 だから着る物は新品を買わずともリサイクルショップや古着で安く買えるし人からもらったり、ときに拾ったり偶然入手したものでも全然かまわず着ている。
 だから衣料品にお金はほとんど使わない。それは我家全体がそうであり、食べ物だけは生鮮食品中心に日々買わねばならないから、ウチはエンゲル係数がやたら高い。住まいにも持ち家ゆえ金はほとんどかけないが、借りてる倉庫の支払いやら、税金などの経費、そして光熱費など、特にこの冬場は電気代が4万以上にもなって、父の年金の範囲ではやりくりつかず頭を痛めた。

 さておき、母の遺した衣類、ボロ着のことであった。
 日本は、春夏秋冬の四季がある。それは良いことだが、年中の寒暖差は、40度近くにもなろう。
 つまり真冬は零下の気温にもなるし、盛夏には、40度近くの猛暑、高温になってしまう。そう暑ければ、我は家では裸族の暮らしとなるが、さすがに女性はそうもいかない。アッパッパーのような夏用室内着も必要だし、外出時には、日焼けしないよう夏用長袖も必要だろう。※「アッパッパー」とは昔の女性たち、母世代が着ていた夏用簡易服のこと。辞書にも出てるのでご参照を。
 日本で暮らすということは、そうした四季を通し季節ごとに合う衣類を常備しないとならないのである。
 だから母は、癌で弱って死んだ昨年はともかく、元気だった頃は八十を過ぎても毎年季節の変わり目ごと、わざわざ衣類の入れ替えをせっせっとしていた。

 春が来れば冬物は洗って箱に詰めてしまう。そして薄手の春夏物を出す。そして秋になれば、夏物は洗ってしまい、また秋冬物を出す。実に何ともご苦労なことで、手伝う我もうんざりしていた。昨今は、暖冬が続いてたときは、冬が来ても冬物は全部出さないで春となったこともあったが、基本的にそうした季節ごとの衣類の入れ替えは欠かさずやっていた。
 だからウチでは、常時夏物の箱、春秋などの合着の箱、そして冬物の箱がいくつも山積みとなっていて、今もまだ箱詰めされたままのものも多々ある。
 そう、今は室内外どこでも冷暖房機器もあるわけだから、山梨の古民家に行くときは別として、ほぼ一年中、合着程度ですむのである。寒ければ多く着込むか、何か羽織ればいい。戦前ではないのだから、寒い家の中で暖を取るためドテラを着る必要もない。

 しかし、母は昔の人、旧い人間であったから、ご苦労なことに季節ごとの衣類を、季節の変わり目ごとにせっせっと「入れ替え」していたのだ。
 いちいち入れ替えして箱に詰めたってときに出さないでまた春が来たり冬が来たりするのが昨今なのだから、そんな面倒なことはやめろと何度も言ってきた。ただ、ともかく衣類が一杯あったので、そうして分別しないことにはスペースがなく、着る物がみつからなくなるということもあったのかと今にして思う。
 そうした衣類持ちの人は、かつてのロシアの女帝のように、「夏の宮殿」、「冬の宮殿」を持ち、季節ごとにそこに住めば良いと進言したことが懐かしく思い出す。

 何回かに分けて衣類についてどうでもいいことをあれこれ書いて来た。母の遺した衣類だが、ボロなど捨てられるものはともかくできるだけ早く捨てて、それ以外のどうしても捨てられない、母の思い出につながるものはやはりとっておこうと思う。
 そうしたもの一式、まずは箱に詰めて、写真や母がつけていた手帳などと一緒に母が生きていた証として「フミコ」記念館として我家に一室設け、場所をつくろうと思っている。むろん訪れる人などいない。しかし、他人には無駄と思えても近親者、我にはそれは絶対大事な必要なものなのだ。

 我が死に、母の妹弟たちも含めて誰も母のことを記憶する者たちが消えてしまえば、それはゴミとして捨てられても全然かまわない。が、我がこの世にいる間は、我を生み育て愛してくれた人のことは絶対に忘れられない。もう誰も着ることのない衣類でさえも捨てられないのである。
 そう、そこに、ここに、この家に母は生きていたのである。