着るもの考・その42017年05月10日 18時41分37秒

★ジャージって何なんだ?

 着る物についてついあれこれ考えている。どうでもいいようなことだが、食の好み、嗜好と同じく衣服についても人は意外にこだわりを持っていると思える。しかし食は生きていくのにきわめて重要な要素だが、着る物なんて本来どうでもいい事のはずなのだ。
 そもそも暑さ寒さを防げれば良い。いや、暑ければ裸でいれば良いのだから、着るものは元々は防寒のためであり、そこにお洒落やファッション、流行などは関係ないはずなのだ。しかし、人は、特に女性は衣類について強い関心と拘りを持つ。そしてこんな我でも好きな衣類と嫌いな衣類はあって最も嫌いな衣服は今日では「ジャージ」と呼ばれる類のウェアなのである。

 そもそもこれは体操着ではないのか。ところがいつしかそれが日常の普段着として、愛用している人たちが多く見かけるようになった。理由はわからなくもない。発汗性にすぐれ、素材も伸びて柔らかくて楽ちんだからであろう。つまり家でリラックスするときは、これの上下に着替えれば、寝る時も含めていちいち着替えなくて良いからであろうか。
 が、中高生の頃から体育の授業が大嫌いで、その教師と共に、坊主憎ければの喩え通り、体育に関係するものは全て今でも大嫌いなので、このジャージなる体操着は着ることは愚か見ることすら耐えられない。
 そして何より理解しがたいのは、それを普段着として愛用する人たちであり、しかもこれで街中を出歩く人もいるのである。
 我が高く評価している近年の邦画の一つに深田恭子主演の「下妻物語」がある。ゴスロリファッションを愛好する主人公の少女が冒頭、彼女が生まれ育った関西の地に住む人たちが常にジャージを着ていることに対して、忌み嫌って非常に辛辣な言葉を吐く。
 この人たちはジャージを着て生まれて来て、死ぬときもジャージを着て死ぬのです、と。そのような独白に我もまさに同感、拍手喝采した。

 じっさい、家でゴロゴロしているときは、朝から晩までジャージ姿でいて、それこそ死んで棺桶に入れられるときもジャージ着て、という人はいるかと思える。そこにはファッションセンスは何もない。ただ単に着ていて楽だという自堕落な体感があるだけで、確かに洗濯もこまめにしないで良いだろうしいちいち着る物に頭悩まさずに済むわけで、その上下一式さえあれば暖かくて動きやすく楽ちんなのは確かなのであろう。
 しかし、それは下妻物語の主人公の謂いではないが、実にカッコ悪いし信じられない、のである。着る物を自ら選択し拘るのがファッションだとすれば、ジャージには思想がない。あるのは着ていて洗濯も含めて楽かどうかだけなのだ。

 我らが子供の頃元々はトレーナーと呼んでいた。つまりトレーニングウェアであろう。そう、体育のときに着る専用の衣類、体操着であった。ただ、トレーナーがスエットと呼ばれるとするならば、我は、木綿素材の「トレーナー」はちっとも嫌いではない。若い時から沢山持っているし、今も愛用している。
 そうしたトレーナーはジャージとは異なるしジャージとは呼べない。では、ジャージとは何なのか、ウキペディアで調べてみたら、要するにそうした編み方のことであり、伸縮性のある編み方の生地のものをジャージーと呼んでいたとある。我はそこに素材も大きく関係していると思う。主にポリエステルなどの乾きやすく丈夫な化学繊維であり、それもまた嫌う理由なのである。
 ところがそんなものがいつしか、日常着となって広く老いも若きも着るようになってきた。ウキベデイァにはこう付帯的に記されている。
 
 『ファッションウェア化=もともとはトレーニングウェアとしてのジャージーはスポーツのために作られており、ファッションウェアとして認識されることはなかった。
 だが、日本の小中学生の間では、普段着としても好んで着る者はいた。大人は、トレーニングウェアのジャージーを、もともとの目的のとおりスポーツウェアとして用いたり、あるいは家事の作業着として用いたり、自宅内で着る部屋着(リラックスウェア)として用いたり、寝巻き(パジャマ)として用いてはいた。だが、最近では[いつ?]大人の一部に、独特のファッションとして外出時に着用する人もいる』。

 我が若い頃、大昔の話だが、美大受験のために立川にある絵の予備校に通っていた高校生のときだと思う。中学の同級生だったOという男もそこに来ていて、違う高校であったが再会した。今から40年以上前の話だ。
 そしたらOは、そこに通ってくるときはいつもジャージの上下を着て来て我は非常に驚いた。中学の頃からあまり良い印象を持っていなかった彼だが、この世に体操着で街中歩いてくる人がいること自体信じられなかった。ますます嫌いになった。
 今から思えば、絵の勉強は、絵の具や木炭で衣服も汚れることであったから彼の選択、ファッションセンスはそれもありであったかと思えなくもない。つまり美術も体育と同じようなものだと考えれば、そうした作業着として、ジャージ愛用も許されるのかもしれない。
 が、そのときは呆れ果てたし、我が初めて学校以外でジャージの類を着たまま出歩いている人を見たのはOが初めて、嚆矢であった。

 そして今、ジャージは広く市民権を得て、我は今も信じ難き気がするが、普段着として家にいる時は常時愛用し、それで街中へ、ちょっとした買い物とか散歩など出歩くときのアイテムにしている人たちが多々見受けられるようなった。むろん街中をジョギングしたり本来の「運動着」として着ている人も当然いよう。しかしそうした人こそ、今はジャージなどは着ず、身体にフィットした、もっとセンスあるスポーツウェアを着用しているようだ。
 つくづく隔世の感である。が、今も昔も我のジャージ嫌いは変わらない。我は運動もしないが、それは体操着ならば許せる。しかし、それを普段着、室内着として楽だからという理由で愛用することには今も強い抵抗がある。

 さて邦画「ジャージの二人」である。長嶋有の原作を映画化し、今人気の堺雅人とシーナ&ロケッツのロックンローラー鮎川誠が親子を演じ、彼らが群馬県の山荘で過ごす二度の夏をただ淡々と描いた珍作怪作だ。先日、NHKのBSでも放送されたので、観た方も多いであろう。
 堺演ずる三十代の息子と、鮎川の五十代の父は映画の中で、何故その山荘にあるのかよく説明されないままに二人とも近くの小学校のネームの入った中古ジャージを常に着ている。ストーリーは何も事件は起きないし、映画として面白いのかさえ何だかよくわからない。いわば脱力系の極みであり、見どころは、鮎川の超大根演技というか、彼の地そのものと思える宇宙人のような演技、つまりただ圧倒的存在感だけで、やはりジャージ姿でも当然ながらカッコいい。
 私事だが、日本最高のロックギタリストとして若い時からずっと憧れ続けて来た鮎川が映画に出ているだけで我は手放しでこの映画を評価してしまう。画像のようにジャージ姿の二人だが、この二人だからこそ、常にカッコ悪く情けないジャージも様になるのである。

 かといって我も彼らのようにジャージは着るつもりはこれからもない。が、もしも映画の中で、鮎川のお父さんに、「寒い?せば・・・」とジャージを出されて勧められたら迷うことなく彼らの仲間入りしてしまうだろう。何しろジャージは暖かいし何より楽ちんなのだから・・・。おっと!