続・「老衰」という死因と・・2019年07月02日 00時04分13秒

★人の死は、大別すると三つに分けられる。

 このところ、新聞の訃報ニュースで、俳優高島忠夫をはじめ、高齢の方の死因として「老衰」のため、と記してあるのをよく目にする。
 共産党の衆議院議員であり、画家岩崎ちひろの夫としても知られた松本善明も「老衰」とあった。※余談だが、我は赤旗祭りで大昔、彼と握手してもらったことがある。にこやかな笑顔の忘れがたい人だ。

 さておき、人の数だけ人生があり、つまるところ「死に方」も人の数だけ様々なわけだが、大きく分けると3パターンに分類できるのではないか。
 一つは、交通事故や災害死なども含めて、不慮の「突然死」だ。あるきっかけで、元気で生きていた人が不測にも突然命を奪われるというものだ。
 病死でも、脳梗塞とか心筋梗塞など、あっという間に、「急死」することも多々ある。昔は、理想的な死に方として、ピンピンころり、などと言って、長患いすることなく、つまり家族に介護の世話かけることなく死ぬのは、「理想」とされたが、果たしてそうだろうか。
 年下の友で大動脈破裂で、突然「苦しい」と胸をかきむしり発症から数時間で、救急搬送された時点で急死した男がいたが、棺の中の顔は激痛と苦悶のあまり別人のように歪んでいた。さぞや苦しかったのだろう。まだ50歳そこらではなかったか。
 そんな「急死」は家族も大いに驚き困るし何より本人としても何の心構えもないのだから、それだけは絶対に願い下げだ。死ぬとわかったら人はやはり何らか後顧の支度はしたい。

 そして二つ目は、病気でも癌などの「進行性」のもので、老いも若きもカンケイなく清志郎をはじめ多くの人たちが、治療の甲斐なく病魔に命を奪われた。今日では、日本人の二人に一人が、癌を患い、三人に1人が癌で死ぬとか聞くから、闘病と介護の果てに、時間かけて死んでいく人がこれからも増々増えるだろう。我が母も高齢だったが癌に殺されたと思っている。癌家系の我もまたそうなる気がする。
 癌は何しろ臓器だけでなく、皮膚から血液まで身体中あらゆるところに発症する「病気」なのだから。

 三つ目は、そうした進行性の病気を患わないで生き続けた場合の死だ。いまは、医学も進んでいるし、皆誰もが体調には気遣っているから、日本は信じられない程長寿の時代となった。女では八十代は当たり前だし、男でも我が父のように九十過ぎまで生きる者がかなりいる。
 が、当然それだけ長く身体を使い続ければ、目も耳も歯も足腰もガタガタ、よろよろになるし、何より頭の方が呆けて、認知症に程度の差はあれ誰もが陥る。
 我が父を見ても昔はあれだけ鋭敏明晰で頭の切れた人が、もう今ではしじゅうボーとして亡き妻の名も同居している息子である我の名も思い出せないときが多々あるのだ。
 そのうえ、筋力が衰えバランス感覚も失いほとんど自力で立ち上がることも歩くこともできないし、食べるのだって、吞み込みが難しく誤嚥性肺炎の危険がいっぱいだ。だから体重も減り、全盛期は80キロあってメタボを指摘された六尺男が、今では60キロもない。全身すべてが衰弱してしまった。

 これが「老衰」ということで、大病や進行性の病気を患わず、息災に長生きしたとしても結局のところ、最後の最後は、もう何もできなく何もわからなくなって、口から食べることも難しくなり、ただこんこんと寝てばかりとなって死期を迎えるのである。
 むろん、人の死に方はもっと複雑で、2と3のパターンは複雑に絡み合い、様々な病気を繰り返した挙句に全身衰弱して肺炎になって死ぬというパターンも多い。

 ただ、我は、母のように進行性の病気で、頭はしっかりしていても死なねばならなかった人と、父のように、特に病気にかからずともかくただ長生きして、呆けが進みついに全身が衰弱して死期を迎えようとしている人を看取って、二人の死に方は両極端だと感慨を覚える。
 一番理想的なのは、頭が呆けずに、長生きして日々できるだけ「健康」でいて、ある日、眠るように死ぬことだろうが、そんなうまく死ぬ人はまずいない。
 何人も死期を見て聴いたりして今思うのは、存外、死ぬというのもそんなカンタンなことではなく、死ぬまでかなり時間がかかり周囲も当人もけっこう疲弊し心身共に苦しいものなのである。
 完全に命のエネルギー、つまり「生命力」をその身体から出し尽くさない限り、人はおいそれと簡単に死ねない。

 当たり前のことだが、人生は生きている間だけのことだ、とこのところつくづく思う。死んでしまった人のためには何一つできない。あの世とか天国があろうと、彼らも我ら生者にできることは何も無い。
 せいぜい夢の中で、母やのみ亭のやっちゃんたちと会い語らい、彼らを偲ぶことしかできない。
 
 こうした話は、人は暗いとか縁起でもないと厭い嫌う。が、生きるとは、その裏側にある「死」をどう見据えて考え対処していくことに他ならないではないか。目を背けても死は常に我らの傍らに在る。死者たちも同様に、我らの背後で我らが来るのを静かに待っているのだ。
 彼らのためにもしっかり生きて自らのも含め「死」について考え続けなくてはならないのではないか。

 ※父のことは、何か動きがあったらまた拙ブログで報告していきます。いよいよ参院選スタート、選挙についても書いていきます。

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