絶好のサマークリスマス日和2019年08月25日 12時09分28秒

★今日でまた一つ終わる

 昨日に続き、朝から晴れた。暑くなってきたが、残り少ない夏、こんな暑い日も有難いと思える。
 これから吉祥寺へ。打ち上げ・懇親会も含めてもそんな遅くならないと思う。犬たちに留守番頼んだ。帰ったら報告入れます。

私的に最後のサマークリスマス大盛況で終了す2019年08月25日 22時08分24秒

おススメ映画を紹介する三留まゆみ
★やっと一つ荷を下ろせたか

 落とし前をつけるという言葉がある。つまるところ自分のしたことにケリをつけるということだろう。
 故林美雄さんにかこつけて、当時の彼の深夜放送リスナーたちとの集い、「メモリアルクラブ」はやっととりあえず今日で私的には終了したと思う。ほっと肩の荷を下ろせた感がしている。

 亡き林美雄さんは、TBSのアナウンサーで、1970年代、深夜放送、それもほぼ誰も聴かない深夜も午前3時からの時間帯を受け持つパーサナリティであった。
 当時、中坊だった我は、人気の金曜パック一部の、深夜午前1時からの野沢那智、白石冬美の『金曜那智・チャコパック』のリスナーで、ほぼ毎週その深夜放送を聴いていた。
 そしてついうっかりその後の午後3時からの林アナの「みどりぶたパック」も聴いてしまったのだ。
 人生には、誰にもその後の人生を決定づけてしまうような出会い、きっかけが確かにあるわけだが、その放送と、後に高田渡の死直後、追悼の小金井公会堂の「お別れ会」に行かなければ、今とは全く別の人生を生きていたと断言できる。
 
 まっ、渡氏はさておき、その深夜放送、林美雄アナウンサーのラジオを聴いてから、東京の片田舎のボンボンだった我の人生は大きく耳目を開かされた。映画から音楽・演劇まで、世にはこんなに多様なユニークでヘンなものがあるのだと、広く彼から紹介された。
 むろん、ちっとも良いと思えないものもあったけれど、今の自分の素養、構成しているものの半分以上は、当時彼から知らされたものだ。局アナ風情と言うのは失礼だが、彼から生き方や考えた方すら教わった気がする。
 しかし、あれだけ自由に好き勝手な放送させていたのは、TBSという社風であり、それもまた時代だったんだろう。今ではまず難しいはずだ。
 それは反体制ということであり、庶民・市井の暮らしの大切さであり、何であれ、最初から偏見や色メガネでモノゴトを見てはならないという戒めであった。
 彼は言葉に出さなかったが、常に自由と平等、差別撤廃を説いていたと思う。命の大切さ、真剣に生きることの大事さを彼から教わった。
 そして人がじっさいに足を運んで、行動することの大切さも。いまの我マスダがやっていることは、ある意味林さんへのオマージュ、遺訓にそったものだと気づく。


 そして、彼が58歳の若さで亡くなり、それからまたずいぶん経って、ふとある夏の終わりのこと、伊豆への家族旅行の帰り途、真鶴辺りの海沿いを車で走っていたら突然一つのうたが頭の中に流れて来た。
 それが林さんが大好きだった日活の映画『八月の濡れた砂』のテーマ曲であり、昔彼の放送で頻繁に流れていた石川セリが物憂く歌うそのうたを、鄙びた海岸通りの光景で不意に思い出されたのだった。

 もどってさっそく、『林美雄さんを覚えてますか』と題して彼のことをブログに書いた。そしたらばすぐ見知らぬ方から反応があり、少し年上のその方も林パックの熱烈なリスナーだったことからすぐお会いして意気投合、彼が管理人として林さんと彼の放送、パックインミュージックのファンクラブのHPを拵えてもらった。
 そしてじわじわとかつてのリスナーたちがその場に集い、最終的には40人を超したかと記憶している。そこから今も親しくしている方もたくさん生まれた。
 毎年8月25日の林さんの誕生日には、かつて放送が流れていた時代、代々木公園でリスナーたちとの親睦の集いがあったことから、その日に毎年我らも集うことにしてこれまでも10回近くあちこちで「サマークリスマス」を開催して来た。5年?ぐらい前、阿佐ヶ谷のアルポランでやったときが最盛期であったか。
 この近年は、お店ではなく吉祥寺のパントマイマーの方のスタジオをお借りしてそこで打ち上げまで自主開催していた。

 しかし、管理人の方が病魔に倒れたりしたこととクラブ自体も活動が停滞してしまい、けっきょく一昨年クラブは発展的解散とした。
 ただ、窓口として今も非公開での旧会員間の連絡場所としてフェイスブックはできているし、今もそちらもじわじわと増殖中である。
 それで今回は、日曜日ということもあり、久々に、皆で集うことを企画したというわけだ。
 じっさいのところ、我もだが、皆高齢化が進みこうしてたまに集まることも、イベントを企画することも大変になってきている。フェイスブックで、各自近況を綴る程度は負担もかからないが、クラブ活動もそれ自体維持していくことはいろいろ労力をとられる。何しろ我も体力と時間が無くなって来た。
 こうした集いをすべきか今回も迷いもしたが、前回は参加者が事前に少なかったので中止した手前、やはり今回はこそ日曜でもあり、「決行」としたのだった。

 当初は、裏方、出演者も含めて10名も来ないかと案じていたが、けっきょく当日は飛び入り的に初めて来られた方も何人もいて、二部だけ参加された方も含めると約15名近くの盛況となった。

 これからだが、来年からは8/25日は平日となる。次の土曜か日曜の8/25日は、2025年、2026年だ。もし、フェイスブックが続いていて、会員皆が元気で多くが健在ならば、そのときまた企画したいと考えているが、まずこの身こそ果たして無事でいられるか定かでない。
 が、とにもかくにもこれでやっと一つだけ、自分が蒔いた種の刈り入れが終わった気がしている。かつての人間関係も含め、深く何も考えずこうしてあちこちに撒き散らした、自分のしてきたこの「後始末」をしていく。
 断捨離はモノだけではなく、本来人間関係にこそすべきことだろう? モノは後の者たちが処分してくれるが、人間とのことは、自らがケリをつけていくしかない。

季節も変わる、政治の流れも変わる2019年08月26日 23時02分23秒

★野党は共闘、弱者も共闘・共生を

 さすがに昨日出かけて疲れ果てた。
 昼過ぎ家を出て、帰りは、吉祥寺発7時45分の武蔵五日市・高麗川行き直通だったのだから、夜もさほど遅くならずに家に戻れた。
 が、5時過ぎに二次会の場へ向かうため井之頭公園駅から、吉祥寺駅北口、ヨドバシカメラの先の居酒屋まで、歩いたのは我にとって久々の遠距離で、そのときは何ともなかったけれど、今日は足底だけでなく腰までも痛くなって夕方まで終日寝込んでしまった。
 まさに、足腰立たねえ、である。父が夕刻ショートステイから戻らなければ、飯も食わずに明日朝まで丸々一日眠ってたのではないか。

 疲れた理由は、歩いたり立ちっ放しだったからだけではない。やはりどんなイベントでも企画進行役として、責任ある立場となったからには、最初から最後までいかに滞りなくそのイベントを進め無事終わらせるか、タイムキーパーとしても非常に気使う。
 焼き鳥のいせやで、我もビールなどかなり飲んだはずだが、参加者全体それぞれの動向に気を取られて、ちっとも酔っぱらわなかった。まったくのんびりできなかった。

 以前、敬愛するライターの北尾トロ氏とお会いしとき、彼から、マスダはそういうイベントが好きとか仕切るのが得意だとも思えないし、そもそも向いていないと思うのに、何故企画し司会等するのか、と問われて、返す言葉がなかったことを思い出す。
 そう、まさに見識ある方から見ればその通りであって、そういうお祭好きのタイプでない者が、何でイベントを企画し臆面なく人前に出るのか自分でも実に不思議にも思う。
 ただ。それは、他に司会進行役を受けてくれる人がいないからで、我自身は企画は立てても裏方として関われればそれで満足なのだが、けっきょく誰かにお願いしてあれこれ指示するのも面倒だし、受けてくれる方もいないが故、自らしゃしゃり出てしまうという次第だ。

 だけど、そのためにはかなり無理はしている。そもそも向いていない者が向いていないことをやるわけだから、プレッシャ―があるだけでなく精神的にも過度の負担を自らかけている。また、最初から最後までずっと細心の注意を配り全体を注視していないとならない。このずぼらな本来他者に対しては無関心極まりないこの男がだ。
 で、終わるとどっと疲れが出る。先の「共謀」フォークジャンボリーのような大きなコンサートなどの場合、昼から晩までぶっ通しだと、終えて一週間近く疲れがとれず何日もひたすら寝込んでしまう。まったく何もできないままに。

 まあ、それでも有難いことは、素晴らしい演奏やうたがそこで披露され、演者も観客も皆さ共に盛り上がり喜んで「盛況」となれば、どんなに苦労しようと悔いも不満もない。
 何より、この時分が企画し、動かなければそもそもその企画、イベントはなかったわけで、ならばそれ自体が始まって終われば、それだけでもう十分有難いことで満足なのである。
 自己満足かもしれないが、この世の中は誰かがまず裏で動いて手配し調整し企画立てなければ、モノゴトは新たに進んで行かない。
 当事者だけで自ら勝手に動いて何とかなるということは実際なく、どんなイベントでも「裏方」として企画者、進行役がいてこそ表舞台に出る人たちが生きるのである。

 むろん皆さんセルフプロデュースもできる。が、その場を構成し、いかに効果的に最良のステージが披露できるかは、表舞台には見えない、出ない、多くの裏方たちの手腕にかかっている。そうした企画者側、場を提供する店などがあって初めて良いコンサートとなる。

 埼玉県知事選も、当初は圧倒的不利が伝えられていたが、野党統一候補が自公推薦のタレント候補に競り勝った。
 これで、先の参院選での統一候補が10議席でも貴重な勝利したことが改憲勢力3分の2割れを招いたように、この方式でやっていけば、当選者一人の衆院選・小選挙区でも自公に勝てるという図式が見えて来た。
 その裏には様々な調整で頭痛め汗流している多くの裏方がいるのである。政党間はそれぞれのプライドやメンツ、建前もあって自らはなかなか統一に動きはしない。政治家、特に野党は常に同じ車には乗りたがらないものだ。だから、そこに市民団体や学者、文化人などが介在し橋渡しをして皆がうまく乗れる候補を決めていく。実に大変な作業だと思う。

 労多くして自らの益は少ない。我など大して苦労はしていないが、常にそう思う時が多々ある。
 しかし何であれ、誰かが仕掛けないと、世の中、世界は動いて行かない。特にイベント、コンサートなどはプロデューサーという者が必要であり、芝居で演者だけでは舞台が成り立たないように監督的役割がいなくてはならない。我にその才能、才覚があるかはともかく、誰もそうしたことをしない、その企画を立てないならば、やむにやまれず、やるしかないではないか。向いていないと言われようとも。

 このところまだ暑い日もあるけれど、ぐっと涼しくなってきた。陽の暮れるのも早いしずいぶん秋めいて季節が移り変わっていくのを感じる。
政治の世界も同様に、やっと傲岸不遜の安倍政権、盤石の自公政治も終わりが見えて来たと思える。
 これから景気はさらに悪化していく。消費税は上がり生活はさらに苦しくなる。何一つ良いことはない。国民はもう彼らを支持する理由がない。
 だからこそ、野党は共闘し、我々庶民、弱者も孤立するのではなく共闘し助け合い、共生していかねばならない。共に手と手を取り合って、だ。

九州から妹が来ている2019年08月29日 07時32分10秒

★8月も終わるけれど

 私事だが、昨日から唯一の肉親、実妹が九州大分から上京して来ている。母が死んだ年、2016年の秋以来、三年ぶりの我らとの再会である。
 ようやく夏休みがとれたから、とのことだが、まあ、生きている父と会えるのは、これが最期の機会となるだろうから良いこと、有難いことである。
 幸いのことに父も当初は、会っても誰!?と戸惑っていたが、やがて自分の娘だと思い出し、名前も間違えずに出てきた。大いに喜んでいる。一緒に暮らして日々世話している息子の名前はよく失念して「弟」だと思い込んでいるのに、だ。

 まあ、あまり会話ははずまないけれど、九州北部はちょうど記録的豪雨の中、何とか無事予定通り飛行機も飛んで何とか来れたとのことで、神の計らいのように思える。
 ただ、向うにもダンナと老いた姑がいるので、二泊三日で、明日の午後もう帰ってしまう。のんびり過ごせるのは今日一日だけだ。
 今日は妹と一緒に、ゴミ屋敷化し荒れ果てた家の内外を少しでも片付け掃除したりしたら、夕方早めに、親子三人で近くの温泉施設に行き、その後は中華でも会食しようと考えている。

 昨日は終日、しとしと雨が降り続いたが、いま外は晴れて来た。あまり仲の良くない兄妹であったが、やはり肉親は気を遣わずにすむので有難いし心強い。
 明日は、変える日でいろいろ慌ただしいと思うので、土曜日、父をまた施設に送り出してからゆっくりブログ書き進めたい。

令和初の夏八月の終わりに思う2019年08月31日 23時28分14秒

★ともかく生きているだけで有難い。

 我が妹は、この北九州豪雨の中、何とか飛行機に乗れ父に会いに大分の山中から上京し昨日30日の午後帰った。28日に来て、30日までの二泊三日の慌ただしい帰京であった。
 前回来たのが、母の死んだ年、2016年の秋、納骨のとき以来だから、ちょうどまるまる三年ぶりとなる。

 久方の再会だったが、特につもる話もなく、我らはただひたすら二人がかりで家の中の掃除に専念した。
 特に、我がやらねばと思いつつ手つかずにしていたところ、掘り炬燵の中やトイレ、洗面台など隅々までたまった埃を箒で履き出し掃除機で吸い込んで綺麗にしてくれた。そうしたところは、人に頼んでやってもらうわけにいかないわけで、やはり肉親は有り難い。
 天気も悪かったのでとても庭先までは手が回らなかったが、家の中だけは、彼女が手掛けたところはずいぶんスッキリした。我の気持ちもおかげさまでリフレッシュできた。

 父も我の妹、つまり実の娘だとは認識したものの、もういまさら孫のことなど問いかけや会話もほとんどなく、ただニコニコしていただけだった。
 が、たぶんこれが生きている姿で父と会える最期の機会となるだろうし、母が死んで3年、とにもかくにも父をさらに生かせて再び「再会」させられて良かったとただ思う。

 折しもちょうど彼女が帰る日、金曜午前は、久しぶりの父のカンファレンスの日と重なっていて、早めに起きて、まず父を起こして、居間で朝食を摂らせている間、父の寝ていた簡易ベッドを折りたたんで、その部屋にスペースを拵えて、椅子を並べてケアマネの司会で施設からの担当者を招き短時間ながら面談会議が行われた。それには妹も参加した。しかもその日は、二週に一度の訪問診察、担当医の往診の日でもあり入れ替わりに医師が看護師連れて来て、慌ただしかった。

 終えて昼近くになって、慌てて近くの牛丼屋で弁当買ってきて、それで昼食として、またベッドを拵えて、布団敷きなおして、父を仮眠するよう言いつけて妹を車で立川駅まで送って行った。
 帰り際になって、父はようやく頭のスイッチが入ったようで、泣きそうな声でもう帰っちゃうの?、また来てねと、娘を抱きしめていた。

 父はこの秋で95歳となる。妹も九州に老いて病む姑を抱えている。果たしてもう一度妹が上京、父との再会はあるとはまず思えないが、母亡きあと、こうして親子三人無事会えたことはそれだけで有難いことだとつくづく思う。妹が来てくれてほんとうに有難かったしあれこれ助かった。

 我の今後の人生、特に、父亡きあと、いったいどうやって生きていくのかとか、忌憚ない苦言も言われたが、そのことはまた改めて書くとして、ともかくこうして我の今年の夏、2019年令和初の夏は終わった。
 やれやれである。身体はものすごく疲れている。が、気持ちは今、さあこれからだと秋に向けて期するところがある。がんばりたい。
 長生きも含めて、とにもかくにも皆が無事生きているだけで有難いし目出度いことだ‼