9月に入りました。まず近況を少しだけ2019年09月03日 22時50分25秒

★今年も残すは三分の一

 九州大分から妹が来て、帰った後、どっと疲れたが出たようで寝込んでしまった。
 9月に入ってから、曇りがちながら晴れの日が続き、前のような猛暑には戻らないまでも30度の夏日となり蒸し暑くてまいった。
 自分の気持ちのうえでは、もう夏は終わったと思っていたからちょっとこの暑さは堪えた。
 今日など父を施設に送り出してから、買物や洗濯などいくつか成すべき用事だけ済ませて昼飯食ったら倒れ込むように寝てしまい、夕方5時の市が拡声器で報じるチャイムの音で起きた。
 注文本一冊、発送に出ようとしたらちょうど小雨がぱらつき始め、大慌てて乾いた洗濯ものを取り込んで事なきを得た。やれやれである。

 人は歳をとると、年ごとに暑さや寒さが堪えるようになると、人から聞かされ、ものの本でも読んだが、全くそう思う。還暦過ぎた身には、今年の夏はことの他辛かった。真に暑かったのは、僅か半年程度の短い夏だったのに。
 熱射病に罹ったのも参ったが、何よりも6月末頃からの左足の裏の痛み、足底筋膜炎で、一番ひどい時は激痛で、家の中も自立して歩けないほどだった。
 当初は理由も原因もわからず、それが病気だとも気づかなかったが、あまりに痛みが続きちっとも改善されないので、整形に行ったら即、そういう病名が判明した。マラソン選手とかよく罹る病気で、ひどいときは手術までするのだと言う。

 医者から、過度に走ったりしないならば重たいものでも運んだか、と問われて、思い当たるのは、父の寝室を変えるため、玄関わきの小部屋の中にあった雑誌・雑本を、一部は車で山梨へ運んだり、残りは、その元々寝ていた裏の部屋へ押し込んだりと、かなり足腰に加重かけた。
 それも梅雨明けして猛暑が始まる直前で、友人を招き二人がかりで大急ぎで移動作業をやった。
 その無理がたたったのかと思うし、同時に年齢と共に足の裏が固くなってきて、使い過ぎて足底の薄い筋肉の膜が破断か損傷したのだと想像する。
 医師からは、半年から一年半かかると言われ、特に軟膏も飲み薬も出なかったが、痛む部位をかばうようソフトな中敷きを入れることを勧められて、あれこれネットでも調べて靴の中に入れるパッドをいくつか取り寄せた。

 ネットの医学情報によると、完治までは、三か月から3年という記述もあり、ヘタすると三年間も痛む足引きずって生活しないとならないのかと不安になったが、身体には自然治癒力もあり、その靴中、カカト部分に入れた柔らかいパッドが効を奏したからか、時間と共にこのところはもうほぼ痛みは治まって来た。
 ただ、この病気の不思議なことは、足を使ってるときより、使っていないとき、朝目覚めてトイレに行くときとか、オートマチック車を運転していて、停めて外に歩き出したときとかがまだかなり痛い。※左足なので運転には用いないので。
 最初の頃は、夜中や早朝、小用で目覚めて寝呆け眼でトイレに向かうとき、激痛で自力では歩けないほどだった。
 もう今は、日常的歩行では、ほとんど痛みは感じないし、まだ走ることはできないが、もはや完治に向かっていると実感できるようになった。
 そう、発症から約三か月で、我の場合、ほぼ回復できたのだ。存外軽かったのと、会社勤めなどしていないからできるだけ家に居られて安静にしていられたからだと思える。

 この病気を知らせたら友人知人から、実は、私も以前・・・とか、家人が同様に・・・という報告を数人から受けた。そして皆さん、良い専門医や足のカタチに沿った中敷きを作ってくれる専門店などご紹介すると言ってくれた。こんな我に実に有難いことである。
 確かに、学生や勤め人ならば、早く治さないことには、外出すらできないわけで、痛みと同時にその苦労は大変だと思えた。我は、幸いにして基本ずっと在宅で、父がいる日はその介護と犬猫の世話、買物程度程度しか動くことはなかったから、安静にしていられた。それでこの夏中で終わりが見えたという次第である。
 いろいろご心配おかけしたが、もう足のほうは大丈夫だと思えるし、いろんな意味で加齢と老いてきた身は無理できないのだと自覚する良い機会にはなった。

 忙しくしていようが、寝込んでいようが月日の経つのは早いもので、もう秋九月。今年もあと四カ月ないわけで、せめて年内にもう少しは片付けの「成果」を上げたいと今強く切望している。
 何よりもゴミ屋敷化したこの家の内外を片付け、綺麗に手を加えて、今年こそは万全の態勢で、無頼庵クリスマス謝恩ライブパーティ―を開催・決行したいと強く願う。
 そのためにもそれに向けて場所づくりを進めなければならないわけで、また直前、当日になって篤い友人たちのご協力で大慌てで空間を作る愚だけは絶対に避けたい。
 性懲りもなくまた今年も同じことを繰り返していたら、我は本当に馬鹿か頭がオカシイとしか自分でも思うだろう。

 まだ暑い日はあるかと思うが、天気はまた下り坂で、予報は曇りマークが並んでいる。これからは涼しく何をやるにも動きやすい良い季節となる。
 自分にもまだ夢がある。成しどけたい企画もある。頑張ろう!

母が死んで三年。ようやく長い夢から覚めた。2019年09月07日 18時30分35秒

★生涯最大の「危機」をよく無事に乗り切ったと思う

 私事だが、明日8日で、我が母が死んでからちょうど3年となる。三回忌は、去年、2年目のことだったが、後からお墓参りには父連れて行ったものの法事的なことは何もしなかった。

 今、その9月8日を前に、今さらながらやっと、長い夢から目が覚めた気がしている。
 それは単に「悪夢」だとは言えまい。ともかく夢の中にいるような、地に足がつかない「現実感」のないまま、三年の月日が流れたという感じだ。
 そしてつくづくよくまあ無事で、父もだが、この我が1人で生きてやってこれたという感慨がわく。下手すれば、我の人生も、つまり命も失われていたかもしれないほどメチャクチャ、混乱混沌の3年間であった。
 今でも、人生再建が成っていないし、母が生きていた頃の状態に我家は戻っていない。家はゴミ屋敷のまま内も外も荒れ果てているが、今ようやくもう最悪の「危機」からは抜け出したと、その実感がある。
 喩えれば、誤って船から落ちた船員が、一時は溺れて死を覚悟したが、やっと体勢を立て直して泳ぎだし、近くに陸地を見出しそこに向かって泳いでいく。まだ海の中だが、向かうべく先は見えている。そんな感じだろうか。

 これまでも何度も書いたが、母が死んで半年間は、死後の様々な事務的手続きに追われて、哀しみも何もゆっくり味わう余裕なかった。
 その後、何もかも終わったら、その不在、喪失感がじわじわ湧いてきて、我はこころを病んでしまった。母の夢を見ては泣きながら起きたり、不眠に苦しんだり医者にはかからなかったが、間違いなくPTSDだったのだと思う。
 そして一年が過ぎ、母と共に長く生きた老犬も逝き、父と二人だけの生活にも慣れて来て、ともかく闘病中から溜まった我家の一切の「書類」を整理しはじめた。
 が、母の遺したメモや日記類のようなものを手にするたび、また哀しみと悔いが起こり、気持ちは再び鬱に戻され、苦しくてなかなかその作業はちっとも進まなかった。
 そうこうしているうちに、父の老化と衰弱、呆けはさらに進み、我もときにキレて諸機関に暴力事件と目され、要観察対象となったりもした。

 一方、心の空白感を埋めるべく、辛い現実から逃げるようにヤフオクに囚われてしまい、まずは真空管ラヂオ、ハーモニカ各種、さらには中古ギター、そして最後は古いレコード収拾と、次々と対象は移り、結果何十万もそれで散財してしまった。※百万は使っていないと思うが・・・
 そして2019年。元号が変わり、ある意味自分の中でも一つの時代の終わりを感じてこの春から夏を何とか乗り切ったところだ。
 いまようやく何にも囚われ怖れることなく深く落ち着いた気持ちでこれからのことを考えている。そう、ずっと頭がおかしかったのだ。そんな状態なら交通事故や火災も含めて何が起きてもちっともおかしくなかった。

 これまでも当ブログで、何度も「もう大丈夫です」とか「さあ、ここから、これからだ」と記したが、地震の余震、揺れ戻しのように、また何度も鬱的気分が戻って辛くてちっとも何も進まなかった。
 この三年の間に、のみ亭のやっちゃんを筆頭に、大事な人をまた新たに何人も失ってしまった。それが運命だとかその人の人生だったと思うしかないが、自分がまだ生きている、長く生きていくということは、失う、喪っていくことなのだとやっとわかってきた。

 一時期は、生活すべてが面倒に思えて、外のことには、テレビも新聞も本も何もかも関心を失い、何もかもが「どうでもいい」と思えた。
 だが、かけこみ亭の友人たちや、我の大事な音楽仲間たちがいたおかけで、その励ましと「関わり」で何とか自失しないで済んだ。
 我にとって母の存在はそれほどまでに大きかったということだ。

 荒木栄の、我が母こそ太陽、という歌にうたわれるよう、母は病み衰え骨と皮になっても最期の最後まで我、息子のことを思い、遺す者たちのことを誰をも心配していた。まさに愛の人であった。
 今も当時の書類を整理していて、あの頃、母がまだ生きていた頃の日々がありありと思い出すと、深い後悔の念に囚われ気持ちはしんみりとしてしまう。
 あんなにカンタンに死んでしまうならばもっとやさしく思い通りにさせてあげたかったとか、母を死なせたのも全て我の身勝手、エゴから悩ませ苦しませたからだと思いもしたりしている。

 しかし、それも「過ぎたこと」だとやっと思えるようになったし、死んでいった者たちの残した「思い」のためにも生きている者はしっかり生きなくてはならないのだと強く感じている。
 自分だって先のことはわからない。あと10年ぐらいはたぶん無事で生きられるだろうと「予測」はするが、「老後」の計画など何一つ今も考えないし考えられない。何千万あろうと、それで油断や安心するな、宝は倉ではなく天に積めとナザレのイエスが説いたように、老後さらに二千万用意できたとしても明日とつぜん人は死ぬかもしれないのである。

 母が死んだことは今も辛いし深い後悔の念しかないが、母が死んだことで、我はやっと「大人」になれた。母も父も変わらずにまだ生きていたら、我は今も昔のまま、60過ぎてもずっと愚かに何も考えずに遊びほうけていただろう。「人生の荷」、責任放棄して。
 母が生きていたから、生活も家のことも一切全てを母任せにして我は面倒な「現実」から逃げて来た。母が我と共にずっと側にいてくれれば良かったが、当たり前のはなし親は必ず先に死ぬ。

 世の人たちはとっくに早くから結婚したりして独立して、面倒なことでも親任せにはせず自分でやっていたのだった。それが当たり前のこと、自分の人生を生きるということだった。バカの甘ったれはそれに気づかなかった。
 母が死んだことで、呆けた父の世話も家のこと全てが突然我の肩に圧しかかって来た。基本、生活無能者であるこんな我にである。
 が、それでそれを放棄して、何もかもネグレクトしても何一つ解決はしない。さらにすべてが混沌・混乱して家はゴミ屋敷となっていくばかりだ。人間関係も破綻する。庭木は生い茂り、猫たちは勝手に子を産み増えていく。
 何もかもこんな我一人では手に負えないという萎える気持ちにもなるけれど、大変じゃない人生はないし、人生の喜びや楽しみはそうした苦難の中にあると信ずるから、頑張ってやっていくしかない。

 いずれにせよ、もうすぐ終わりは来る。元通りの生活は、そもそも母がいないのだから元に戻せるはずもない。そして父もやがて死ぬ。
 ならばこれからは身の丈に合った、お一人様の人生を、少しでも快適になるよう、自分なりに築いていくしかない。
 今さらながら、自分には音楽と本がある。そしてこのブログの読み手も含めて心優しい「仲間」たちがいる。ならば頑張れるしちっとも大変じゃない。有難いことではないか!!
 これからはこんな我を元気づけてくれたうたや音楽、本についてもっともっと書いていきたいと思っている。
 よろしかったらもう少しお付き合い頂きたい。

真夜中の台風と一過の猛暑2019年09月10日 23時43分23秒

★ウチの方の被害は大したことなかったが・・・

 突然の台風襲来であった。
 このところテレビも新聞もろくに見なかったので、小型だが強い台風15号が関東地方に向かっていることもよく知らなかった。
 8日、日曜になって、こちらを襲来、電車など交通機関は早めに計画運休を決め込んでることをやっと知った。
 しかし、日中は雲は流れていたもののそんな気配はまったく感じられず、このところ雨、雪にしろメディアは事前に大騒ぎして、やたら警戒を呼び掛けるが、じっさいは大したことはない、と高をくくっていた。本当にこちらに来るのか半信半疑てあった。
 その日曜の夜になって風は少し吹きだしたが、存外外は静かであった。しかし蒸し暑く何か不穏な気配はした。

 そんな台風が直撃するという最中、ウチの子猫が一匹、玄関から外に逃げ出してしまった。
 説明が遅れたが、けっきょく子猫たちは貰い手が少なく、今もまだかなりの数ウチにいる。もう、室内飼いには、限界となる大きさにもなってきたので、外に出せるよう猫ドアも解放する予定でいた。
 2年前のとき、まだ幼い状態の子猫2匹が、自分たちで猫ドアから外に出て、隣家の庭で遊ぶようになったら、ある日忽然と「失踪」してしまったことがあった。
首輪もつけていたのに、二匹とも帰ってこない。以後、心配した母猫と一緒にあちこち探し回ったりご禁書にも尋ねたが、見つからず、まさに忽然と消えてしまった。タチの悪い猫ハンターに捕まったのか。
 それ以降、猫が生まれたらウチで飼うにしろ、そうでないにしろ室内飼いに徹して、親猫たち大人の猫たちは自由に玄関から我の手動で出入りさせてはいたが、子猫は、付いて外に出たがっても「厳禁」としていた。※大人猫は利口なので、外に出たい時は、玄関に行って啼いて求めるし、帰って来るときは、玄関先でまた啼いて開くまで待っている。
 
 その晩も、ちょうど親猫が外から帰って来て、玄関先で啼く声がして我は引き戸を少しだけ開けた。が、親が入って来る直前に一匹、黒い子猫が間隙をぬって外に飛び出してしまった。母猫も踵を返してその後を追ったが二匹ともそのまま呼んでも戻ってこない。
 まだ雨は降ってなかったが、あろうことか台風襲来の夜に脱走である。
 他の子猫たちは、裏の部屋に呼び集めて確認したら、脱走したのは、オスの黒猫、クロスケだとわかった。外で呼んでも鈴の音はどこかでしているが、ちっとも入ってこない。夜も深けていく。
 他の猫は別室に閉じ込めたので、自分たちで戻るよう、猫ドアも開放て、玄関の戸も猫一匹通れるほどの隙間を開けて、我はともかく寝ることにした。親も一緒だから自分たちですぐに帰ってくるだろうと。

 その晩、いつしか台風は近づいてきたようで、強い風の音と雨が吹きつける音で我は目覚めた。午前2時過ぎ頃だったか。
 下に降りて、逃げた親子が戻って来たか確認したが、やはり不在である。少しだけ開け放した:玄関の戸からは、強風が家の中に吹きこみ、室内の紙類も吹き飛ばされそうである。
 猫たちのことが心配だが、とても開けてはいられない。引き戸を閉めてテレビをつけて状況を確認した。
 NHKのニュースでは、台風はちょうど横須賀辺りにあって、千葉方面に向かうようであった。幸いやや西にそれたようだ。
 しかし外はものすごい雨風である。子猫はたぶん母猫と一緒だと思うが、外に出た初日にこんな天気に遭うとは、いったいどんな恐怖だろうか。しかし外に探しに行って必死に呼んだとしても絶対捕まらないだろうし、人間さえも危険に遭う。
 不安で心乱れたが、利口な母猫に任せることにして、ともかく寝直すことにした。吹き付ける強い雨風の音とそんな中、外にいる親子猫のことを案じながらうとうとしたかと思う。

続・真夜中の台風と一過の猛暑2019年09月11日 09時15分17秒

★迷える子羊は飼い主の心知らず

 真夜中の台風襲来。外の吹き荒れる雨風の音で不安な一夜を過ごした。
 が、外が白み始めたらしだいに風雨は収まってきて、午前6時頃には静かになった。台風は通り過ぎたようだ。
 外に出て、被害を確認してみると、我家は樹々が多いので、庭も道も一面に吹き荒れる強風で落とされた葉や小枝が散乱していたが。特に松の古い葉がものすごく落ちている。
 しかしそうした落葉や小枝以外の被害は何もなく、何かが壊されたり飛ばされたものなどはなくてほっと安堵した。
 他地域の状況は不明だが、多摩地区に関しては、昨年の台風のほうが被害は大きかった。近くのラーメン屋の屋根に掛かっていた看板が落下したりかなりの数の街路樹が倒されたりしていた。今回はそうした目に入る被害はどこもないようだった。しかし、子猫たちはどうしたのだろう。

 西から東側へ強風は吹き荒れたから、東側の隣家の前の道に散乱した落葉などを早朝から我は掃き集めていた。
 と、見ると母猫がニャーニャー鳴いて出て来て、子猫の鈴の音がしたと思ったらクロスケが隣家の車の下から出て来た。無事だった!と安堵した。
 しかし、呼んで捕まえようとしてもコーフンしてるのか逃げ回ってちっとも捕まらない。そうこうしているうちに、隣家の人たちも出て来たので親子はまた姿を消してしまった。仕方ないといったん諦めた。ともかく無事だと確認はできたから良しとしよう。

 台風一過のその日、朝のうちは曇って涼しかったが、しだいに晴れてきてとたんに暑くなった。
 我は、ほとんど寝てなかったので、どっと疲れが出て、子猫も無事だと確認できたこともあり一仕事終えたら倒れ込むように深く寝てしまった。
 目覚めたのは午後2時だった。外は明るく静かに晴れて真夏日となっいた。少しだけ開け放したから玄関戸の隙間から午後の強い陽射しが射しこんでいる。しかし親も子猫も帰って来てない。
 このまま野良として生きていく道を選んでも仕方ないか、と思い半ば諦めようとして、いったん戸を閉めた。
 が、3時前、外で親猫の声がしたので、戸を開けたら、母猫と子猫のクロスケが一緒に玄関前にいるではないか!
 戸を開けたら、まずは親が入って来て、少しクロスケは怯えて躊躇っていたが、後を追い家の中に入った。すぐに戸を閉めて深い溜息をつき安堵した。やれやれである。心配かけやがって、だ。

 聖書には、ナザレのイエスが説く、迷える子羊の喩えがいくつもある。たくさんの羊を飼っていても、一匹が行方不明になれば羊飼いは必死に探し回るだろうし、みつけたときにはどれほど喜ぶか、と。また「神の子羊」という表現も多々出て来る。また、自らを善き羊飼いだと自称もしている。
 羊ではなく猫ではあるが、神と羊の関係は、猫と飼主との関係に比するものがあるかと今回の騒動で考えさせられた。

 猫たちは勝手に生まれて来て、自らは好き勝手に生きていると思っている。じっさい、今はまだ「飼主」の存在などよく理解していないし、飼主無しで生きていけると思っている。だから嵐の夜であっても無謀にも外に出てしまう。
 我ら人間も実は同様に、自分たちだけで何でもできると怖れ知らずに欲望のおもむくまま好き勝手なことをしている。
 しかし、そのツケがこのところ地球各地で表だって出ている。地球温暖化による記録的猛暑や旱魃、突然の豪雨、洪水、さらには海洋汚染まで、環境破壊全ては人間の欲望と過信が招いたことではないのか。
 神をも恐れず、という言葉があるが、猫たちは飼主=主人がいて、飼主に生かされていることに気づくことがないように、人もまた真の主人がいることを知らないからこれだけ好き勝手な無謀なことができるのである。
 猫の飼い主、我は数多の猫たちのことのみならず、逃げた一匹も深く案じて探し回ったように、人間の「主人」=神も常に我々のことを深く案じ、その愚かな所業に心痛めているはずではないか。
 何であれ、全ては自由意志であり自己責任でもある。しかし、だからといって何をしても許されると思うべきではない。

 我はわれを 呼ぶ「声」にもっと耳を傾けねばと今さらながら深く思う。そう、誰もが、目に見える「警告」から、その声にまず気づかねばならない。
 残念ながら、世界の多くの政治家、特に国家の指導者こそその「警告」に耳を傾けず、目先の欲に目が曇っている。アメリカ然りブラジル然り、中国もまた、そしてこの国も。
 世界の終わりの破滅時計はいよいよ秒刻みとなって来た。

オール電化、という文明は人類自滅への道2019年09月14日 10時06分17秒

★ようやく季節は変わったが・・・今も停電と断水に苦しむ人たちがいる

 台風15号は通り過ぎ、マスメディアの世界では、安倍改造内閣の話題で持ちきりであったが、一方、しだいに今回の台風の被害、その全容が明らかになってきた。まったく呆れた話である。一週間過ぎてもまだ復旧できていない地域が首都圏にあるのだ。

 先に、東京多摩、ウチの地域では今回の台風は大した被害がなかったと書いた。が、それは通過する台風の西側にあったからで、東京でも都内や湾岸、千葉県寄りではかなり強風による被害はあったことを後から知った。特に進路の東側にあたった千葉県では今もなお停電と断水が続く地域が広くあるようだ。

 台風の直接の死者は深夜ということもあり少なかった今回の台風だが、その後の猛暑の最中、停電と断水のため熱射病や体調を崩された方が多数出ている。復旧の遅れは毎度ながらの東電の甘い見通し、失態だと批判されても仕方あるまい。政府の対応に問題はなかったのか。 
 確かにニュース報道で見る限り、強風であれだけの電柱や鉄塔が倒れ電線が切れてしまえばとても早期の復旧は難しいとは理解もできる。
 今は水道さえもマンションなどの場合は電気でタンクに組み上げているから、その電気が来なければ何一つ動かない。
 しかし、真夏に、あるいは先の地震での北海道のように、真冬に電気がないということは、その地域の人たちにとってはまさに死活問題であり、今回のように長期化した場合、死者も想定しないとならなくなろう。
 千葉県は行政上げて困窮者救済にもっと積極的に動くべきではないのか森田知事!!それに安倍晋三!!!

 ひところ、ガスや灯油は火災に繋がるから、絶対安心はオール電化だとしきりに宣伝していた。しかしこうした事態を思うとき、安全を謳った「原発神話」同様、水道、調理から冷暖房・空調までライフラインすべてを電気に頼る便利で快適安全「オール電化」もまた幻想だと断言できるはずだ。
 いくら、生活すべてをグーグルとかに任せて、何もかもパソコン任せにしたとしても電気がなければ、何一つ動かない。あくまでも電気があってこその快適生活は、先の3.11の直後と同様、それに頼るライフラインが切れたらオシマイなのである。
 だからどうやって電気を作るかも問題だが、それ以上に配電供給じたいも絶対安心ということはないわけだから、できるだけ電気に頼らない生活をもう一度各自が模索すべきではないのか。
 「オール電化」こそ愚の骨頂であろう。

 私事をいえば、とりあえずウチは、煮炊きは薪ストーブがあるのと、近くに災害用手動井戸もあるから、あとは、自家発電用に太陽光パネルでも設置を検討していきたいと考えている。何であれ、営利目的の大企業に生活と人生の根幹を任せてはならないのだと我は今さらながら痛感している。

死に行く人をどう死なすか。2019年09月16日 08時11分32秒

★いよいよそのときが近づいてきた

 夜半からまた雨である。先の台風で被災した伊豆諸島や千葉の人たちのことを憂い思う。人的被害は少なくともこれは、農業、漁業、酪農、養豚なども含めた国家的規模の大災害ではないのか。

 このところ朝晩は涼しくなって、もう夏の格好ではいられない。が、晴れれると日中はかなり蒸し暑く、汗ばむ陽気に冷房なしではいられない。
 暑いんだか寒いんだか何とも安定しない季節の変わり目だ。「寒暖差アレルギー」という持病の者にはいちばん苦しい季節である。
 例によってくしゃみ、咳と鼻水が止まらず、風邪の症状に苦しんでいる。熱は出てないからこれは風邪ではない。ただ、メマイとふらつき、それに涙目もあるからどうにも身体はしんどくて起きていられず、寝れる時は早めに床に入ってしまう。無理はできない。お誘い受けてもいろいろ不義理してしまう。無理して出かけると後が怖い。

 怠け病と言われようが、己を知り、自愛するしか生きていく術は我にない。何しろ子もなく世話してくれる身寄りはいなく年金もなく一人で生きて一人で死なねばならないのだ。身の程を知らねばならない。
 そんな我に未だ有るのは、老いた父という唯一の家族と、この家などモノとガラクタだけだ。
 その父が、この秋めっきり衰弱と呆けが進んできた。そろそろ特養へ入所の時期かと思うが、手続きは進めているもののまだアテはみつからない。二か所のショートステイとデイサービスを利用して何とか凌いでいる。在宅で我一人ではとても介護できやしない。
 このところ週末はいつも土曜から月曜まで二泊三日でお泊りに行ってくれているから我は、ライブなどにも行けてずいぶん楽になった。今日は月曜、夕方には帰宅して来る。

 が、今困っているのは、今晩父を寝かす布団類が何もないということだ。先週の金曜日の朝、父は大失禁してしまい毛布、シーツ、掛布団から敷布団まですべて大量の小便で濡らしてしまったのだ。小便の海の中で眠っていた。
 パジャマをはじめ洗えるものは全部洗濯機に放り込んだが、あろうことか昨日も曇り、今日は雨で干すことはできず未だ乾いていない。
 だいいち掛布団と敷布団は洗濯機では洗えなかったので、外にずっと出していたが、乾いても臭くてとても使えないとわかった。うんと天気の良い日にバスタブに入れて踏み洗いでもしてよく絞って干すか、それともこのまま捨てるか迷うところだ。
 パジャマとかシーツは替えがあるが、そんなで父が戻って来ても今晩寝る寝具がないのである。さて、どうしたものか。どこでどうやって今晩寝かせるか。

 尾籠な話で不快に思われる人もいるかと思うが、これは事実でやがては誰にでも起こり得ることだからあえて記す。※読みたくない方、ご自分とはカンケイないとお考えの方は読まないでください。

 父は、八十代半ば頃から小便がちびり気味、つまり尿漏れが始まり、履いていた下着を汚すようになっていた。それでも自分でトイレに行けていたし、一時期は、薬局されていた古川豪さんのおススメで漢方薬「八味地黄丸」が効いてだいぶ改善されてもきた。
 しかし、2016年の春、誤嚥性肺炎で入院し、院内でベッドから転落して大腿骨粉砕骨折を起こしてから、動けぬゆえ常時紙パンツ着用となってしまった。
 90代に入った老人としては、そのまま寝たきりとなるかと思われたが、幸いにして奇跡的に回復、一時期は杖をついて自力歩行も戻った。
 しかし、高齢でもあり当人は尿意もよく感じないようで、以後も紙パンツは外せず、父は紙パンツ内に小便は「ただ漏れ」するようになった。 
 紙パンツも吸収には限界があるし、いちいちズボンを全部脱がして紙パンツじたい交換するのも面倒だから、中にパッドを入れて、それだけを交換するようにしていた。それなら紙パンツは汚さないで済む。頭が今ほど呆ける前は、彼自らも意識してパッドの交換をしてくれていた。

 が、加齢とともにさらに呆けも衰弱も日毎に進む。汚い話だが、このころは大便すら自分では出たことも、紙パンツ内に溜まっていることに気づかないようになって、パッド交換時、紙パンツ内を確認してみるとかなりの頻度で、軟便がべっとり出ていることも多くなった。
 赤ん坊だって、ウンチが出れば、気持ち悪がって泣いて知らすと聞く。ボケ老人はその不快感も感じなくなって、交換時に見せると、自分でも「こんなに出たのか・・・」とびっくりしている。
 だからこちらが異臭に気づき、早く適切に処理しないと軟便はパッドから紙パンツへ、さらにはズボンなど外にも染み出てきて父の座っていた辺りは大変な事態となる。当人だけはすました顔で意に介さないが・・・

 それでいちばんの問題は、夜間である。父が施設から帰宅してきた日は、夕食までいったん仮眠させて、起こして飯を食べさせてそれからしばらく録画していた父の好きな音楽番組などビデオを見せる。
 それから夜10時頃寝かしつけるわけだが、悩んだのは就寝中のオムツ交換である。施設では、夜間も職員が3~4時間ごとにオムツを換えてくれるらしいが、そんなことしていたら我は睡眠不足で倒れてしまう。何しろ、ウチは、職員は我一人なのである。朝も夜も終日我一人で父の介護をしないとならないのだ。
 しかし交換しないことには、吸収できずあふれ出た小便がシーツを濡らして毎朝洗濯する羽目となる。
 考えたのは、夜間は紙パンツなどは幾重にも厳重にセットしてどれほど小便が出たとしてもそれを吸収できるよう何回も失敗した挙句夜間の対策が何とかできた。同様にお悩みの方お試しください。

 まず、紙パンツではなく、大人用紙おむつをベッドに敷く。下半身を素っ裸にした父をその上に乗せて、紙オムツのセットする「あたり」をつけて、まず一番大きいパッドを父の陰部に合わせて紙オムツの上に敷く。
 次いで、小さいパッドで、父のちんちん、つまり陰茎の先を巻く。ちんちんを包み込むように。その上に、下に敷いた大きいパッドを被せて、紙オムツをセットする。この時点で三重に吸収体はセットされたことになる。
 ただ、それだけだとマジックテープの紙オムツはすぐ外れてしまうから、その上にさらに紙パンツを履かせる。
 これだけ幾重にも履かせれば、どれほど大量に小便漏らしてもまず外には漏れないし、じっさいこれで朝まで小便は紙パンツ内で吸収できていた。

 しかし・・・あろうことか一番の問題は、当事者である父が、息子が苦労して編み出した夜間尿漏れ対策セットを、寝ぼけて?自ら就寝中に外してしまうことだった。たいてい朝方、目覚める頃に。
 今回の「惨劇」もそうして父が自分でベッドの上で勝手に「オムツ交換」してしまい、小便吸収するものを何も履かずに寝ていて大世界地図を描いたものだ。村上春樹的に書けば、やれやれ、まったく、である。

 ※長くなったのでもう一回続く。

続・死に行く人をどう死なすか。2019年09月17日 23時42分26秒

★もう布団と寝る場所がない~尾籠な話の続き。

 父が就寝中、自ら自分の紙パンツを外して何も穿かないで眠り続けて小便を布団の上に撒き散らすのはこれまでもたまにあった。
 昔はその都度「反省文」を書かせて、それを失念しないよう部屋のあちこち目に入るところに今も貼ってある。しかし何枚書いたことか。

 当人は起きているときは、それはやってはイケナイことだとわかっているし、その都度洗濯や布団干しに追われる息子の苦労も理解示している。
 が、眠ってしまうとまったくそんなことは忘れてしまい、いや、正しくは無意識のうちに、溜まって来た尿の不快感から?朝方になるとともかく外してしまうと思われる。
 じっさい短時間の昼寝ではこれまで一度もそんなことは起こしていない。話が正しくでき意識がきちんとあるときは、本人も深く反省して、もう絶対しない、息子に起こされるまではベッドの中でオムツは外さず待っている、と確約してくれる。
 しかし翌朝、定時に起こして様子を見るとオムツの中から濡れたパッドだけ出してベッドサイドに畳んであったり、ひどいときは濡れた面を下にして枕元、敷布団のうえに投げ出してあったりもする。当然辺り一面、逆流した父の小便で水浸しである。

 しかし、これまでは数回に一回のことだった。それが二回に一回になってきたかと思ったら、このところはほぼ毎朝毎回となってしまった。最初はかなり父を責め怒りをぶつけたりもしたが、そもそも起床時はボーとしていて当人は何が起きたのか、自分は何をして息子は怒り心頭なのかもまったく理解できていない。
 眠る前、前夜は、絶対外さないように、と何度もこのままだと洗濯が間に合わないぞと、口酸っぱく諭して、当人もわかった、絶対勝手に外さないと確約する。しかし、朝になると必ず布団は小便で水浸しとなっている。※絶対外さないよう、このところは紙パンツを穿かす前に、オムツが外されないようさらにガムテープでぐるぐる巻きにして対策を練った。が、剥がすのもかなり面倒なはずなのに、朝になるとしっかりそれも剥がして濡れたパッドは投げ出され敷布はぐっしょりなのである。
 むろん、敷布の下に防水シートからペット用吸水シートまで幾重にも敷いてある。が、それ以外のところを濡れたパッドで汚したり、毛布や掛布団までも濡らしてしまうことも毎度のことだ。

 特に、前々回はひどかった。かなり早くオムツから紙パンツ、中のパットまで出して全部脱ぎ捨てたらしく、朝確認したらほとんど何も穿かずに
小便の海の中で眠っていた。背中までぐっしょりである。
 そのときは、敷布団マットのみならず、簡易ベッドの土台に付いている敷物までも濡らす「大失禁」で、身体はシャワーで洗ったもののぐっしょり汚れた敷いてたマットは洗うわけにもいかず、どうするか処分に困っている。

 それが金曜の朝のことで、担当医による訪問診療が来る日でもあった。いつもならその晩も在宅で寝て、翌土曜朝にまた施設にお泊りに送り出す週に一日の終日自宅滞在の日だった。
 が、布団が何もかも一切合切小便で濡れてしまい、洗濯してもすぐには乾かないし代わりの布団も出てこないと即判断して、朝から翌日利用する予定のデイサービスに電話した。今晩からお泊りできますか、と。
 そしたら幸いその晩は空きがあって、夕方早めに食事済ませてから父をその施設まで送って事なきを得た。一泊分余分の利用となってお金がまたかかるわけだが、送り出してから正直ほっとした。
 もしその晩布団が何とかなったとしてもまた明日の朝は同じことを繰り返すだろう。もう気持ちも体力も限界に来ていた。

 そして16日月曜日の夕刻、父は施設から戻って来た。幸い不在の間に雨も降ったが、何とかギリギリシーツ類は乾かすことができた。
 しかし、翌火曜日の朝、またしても自らオムツから何まで就寝中に外してしまっていて、紙パンツ一枚で寝ていた。むろんそれだけで吸収が収まるはずもなく、また敷布には世界地図である。幸い今回は、防水シーツの上だけで収拾ついたけれども。

 けっきょく、いくら叱りつけても怒っても無駄なのである。認知症もかなり進んでいるから、事後はたとえ少しは反省し自らも注意しようと思ったとしても寝てしまえばすぐさま忘れてしまう。
 またこのところさらに歩けなくなり、施設から戻って来た時など家の中に入るのすら手すりに掴まってやっとのことだ。
 それだけまたこの秋が来て確実に老化と衰弱が進んでいると実感せざるえない。何とか今年いっぱいはもつとは思うけれど、ここまで頭も何もかも心身衰弱が進むとこの家で我一人で介護していくのはたとえ数日でも難しい。
 ともあれ、一番頭痛いのは、毎朝のベッド上での寝小便である。もう洗濯にも倦み疲れた。
 死に行く人、死期が間近に迫って来た人を、どうやってできるだけ長くこの家で暮らさせるか。何か妙案はないものか。

老いた父を抱え父と共に生きていく2019年09月18日 17時22分24秒

★残された日々を確実に、丁寧に、慈しみながら

 また外は雨がしとしと降っている。昨日に比べてややうすら寒い夕暮れである。父のこと、どうしたものかとずっと考えていた。やっと覚悟を決めた。

 良いことも悪いことも、辛いことも楽しいことも、つまるところ何であれすべては生きている間だけのことのだから、何であれ起こること全てを受け容れていくしかない。
 ようやくそう「悟り」が開けた。明けない夜がないように、死なない人はいないし、モノゴトすべてには終わりが来る。
 父はまた在宅時は、これからも毎晩毎朝寝小便を繰り返しベッドや衣類を汚すだろう。さらには大便さえ撒き散らすこともするだろう。
 それをどう防ぐか、対策をあれこれ考えた。ペット用の監視カメラのようなものを設置するとか動きに反応して鳴って知らせるセンサーも考えた。※オムツを外せないようにまさか腕をしばり拘禁するわけにはいかない。

 しかしすべては事後対応に近いわけだから、慌てて階段を寝ぼけ眼で下りて静止したとしても防止には至らないだろう。
 ならば、父が家で眠っているときは、我は一晩徹夜して、適時様子を見に行ってオムツ交換したりして「惨事」に至らないよう注意するしかない。
 それで朝になり父を起こし朝食摂らせてから、我は昼まで少しだけ仮眠とれば、その日は何とかなる。昼までは、父も昼寝などせず起きてテレビでも見ているはずだ。むろん外に徘徊に出ないようカギをしっかりかけてのことだ。
 今の父のルーティンは、木曜の夕方施設から戻り、金曜日は終日在宅で、土曜日の朝また施設にお泊りに行くというパターンだから、この家で眠るのは二晩だけだ。
 問題は、二晩目、徹夜も二日目となると果たして起きていられるか、だ。
 まあ、結局失敗してまた布団やシーツ、パジャマを汚したとしてもその晩は施設でお泊りだから、その後の処理はともかくその夜の布団の心配はない。
 そして朝、父を送り出してから土曜は夕方まで眠り続ければ体調は戻るだろう。不養生だが、それがいちばん金も手間もかからず簡便だ。夜中起きてれば片付け作業も捗るかと期待もする。

 こうした認知症が進んでしまい自ら就寝中にオムツを外してベッドを汚す老人の扱いについては、介護側はおそらく皆が頭悩ましているはずだ。※友人のミュージシャンには本業は介護に携わることをされている方も多々いるので今度ご教示受けてみるつもりだ。
 施設などの場合、聞けば、3時間おきぐらいに夜勤担当者が見回りの際に交換しているとのこと。ならば大失禁には至らないかと思うし、当人自らも勝手に外さないのかもしれない。
 問題は、在宅で家人が世話している場合で、特にウチの場合は我一人なので、交互に担当してくれる人はそもそもいない。
 けっきょく、我も朝まで眠りたいとの思いから、父に夜間は幾重にもオムツの中にパッドを重ねて履かせているわけだが、当人としては蒸れたり暑苦しく不快感ゆえに、寝ながらも取り外そうと常に試みるのかと想像する。
 ならばやはり施設の夜勤の職員のように、数時間おきに交換して快適な睡眠環境を与えるしかない。
 この我自身体調はあまり良くなく決して健康体ではないが、毎回毎朝洗濯したり、洗濯ものがこれ以上溜まるのは心身ともに疲弊する。そう、晴れの日ばかりとは限らないから、外干しが出来ない日も多い。近くにコインランドリーもあるけれど、毛布や掛布団まで乾燥機に入れられるのか。抱えて持って行く手間も含めて考えただけでうんざりしてくる。

 まあ、経験上どんなことでも過ぎてしまえば、人は後になって振り返ると、そのときはどんなに苦しく大変でも懐かしく思えるものだから、父とのこともそう思える時が来るだろう。
 在宅で母が死ぬ前も我は介護で不眠不休で、睡眠不足で倒れる寸前だった。しかし、今思うと、その「苦しさ」さえもう少し辛抱できたと思うし、どんなに苦しくても一日でも長く母に生きていて欲しかったと今でも思う。

 父はまだ生きている。この秋95歳になる。その父を抱えて我は父と共に生きていく。

長い夢からようやく覚めた・・・2019年09月27日 08時27分30秒

★ご心配おかけしてます

 外は、今日も朝からカラッと晴れて爽やかな秋本番といった好天気だ。
 ブログずっと間が空いてしまいご心配おかけしてしまった。睡眠不足からの疲れがどっと出て、時間あらばともかく横になって短い眠りの中でひたすら夢を、いくつも見続けていた。
 やっとブログ再開して今ようやくそうした「長い夢」から覚めた気がしている。

 9月も終わりとなる。今月はともかく自分の体調すぐれず様々なお誘いにも行かず、何はさておき不義理承知で保身と自愛するしかなかった。諸関係者方にはただ申し訳なく思う。
 
 近況を記せば、問題の父在宅時の就寝時に自らオムツ外してしまう「問題」は解決した。何のことはない、夜中に一回様子見て明け方頃オムツ交換してやれば良いだけのことであった。
 さすれば彼は大人しく朝こちらが声かけて起こすまで熟睡してくれている。やはり溜まって来るオムツの中での尿の不快感、蒸れ感から眠っていても無意識のうち外そうと試みるのであろう。
 何重にも吸水パッド入れて、一晩中外に漏れなければ良いというのは、介護側の都合でしかなく当人の意思というか体感に反していた。外すのもまた自然のなことだったのだ。
 病院や介護施設では深夜も夜勤担当の方がほぼ3時間おきに見回りオムツ交換は通常のことだとそうだ。

 拙宅でもそうするようになって、問題は解決したのは良いのだが、けっきょく担当者、職員はウチは我一人のため、最初は睡眠不足でフラフラとなった。
 このところはやっとコツをつかみ、明け方に一度だけ起きて、眠ってる父のオムツの中を交換すれば、後は8時頃まで安全安心だと判明した。
 交換後は我もまたひと眠りできるし、いずれによこのところは自らも「老人力」がついてきて朝は5時頃に自然に起きていたのでそんな特別なことではなかった。
 しかし当初は、慣れるまでは深夜もかなり父のことに気を取られて、自分の眠りも浅く不規則になってしまい慢性的睡眠不足で体調はかなり苦しかった。ちょうど季節の変わり目でもある。持病の寒暖差アレルギーも出た。暑いんだか寒いんだかわからないのが身体には一番困る。

9/29日、京都より古川豪さんが谷保かけこみ亭にやってくる2019年09月28日 23時41分41秒

★9月29日(日)古川豪from京都@かけこみ亭 共演:館野公一
3:00pm、2500円+オーダー
豪さんの歌を日曜の昼下がりにゆったりと聴いてください。
谷保かけこみ亭 南武線谷保駅北口徒歩3分 TEL042-574-3602
http://www.asahi-net.or.jp/~yi7k-ttn/kakekomi/