フォークソングとは、かくも奥深く遠いものであったのか2019年11月22日 17時05分14秒

★その世界の「道案内役」として生きていく。
 
 どんな世界、ジャンルでもその道を究める人と、入り口に立ち訪れる人を誘い案内するガイド役の人がいる。
 教会でいえば、神父・司祭ではなくとも、教理を説く人、入門者をサポートする役割の人がいる。まあ、下働きであり縁の下の力持ちともいえるが。
 何であれ、その奥義を究めなくてもその世界を説明し案内する役割の人が必要だということだ。でないと新参者はいきなり奥深い世界に行くことができないから途方にくれてしまう。

 一昨日20日の、東中野じみへんでのフォークシンガー太田三造さんのライブの「前座」として30分弱歌わせてもらった我、マス坊だが、終わってからずっと失敗を悔い続け昨日は終日鬱鬱としていた。
 まあ、失敗は常である我の人生だが、太田さんのライブ自体はこれまでで最良、最高のステージだったのだから、我の「出番」がなおのこと悔やまれたというわけだ。
 そして思ったのは、やはり見ると聞くとは大違い、ではなく、観て聴くのと演るのとは大違いなのだと、今さらながら思い知らされた。
 
 フォークシンガーが自らギターを弾いて唄っているとする。観客として見ていると、いとも簡単に弾きながら譜面も見ずに気楽に唄っていると思える。そんな難しいことではないようだ。あれなら自分でもできそうだ。そう思う人も多いだろう。
 我も様々なミュージシャン、音楽家たちを観てきて、直にご当人たちと知り合い、センエツ厚顔ながらも、彼らに、それは良くない、もっとこんな風にやったほうがいいんじゃないかとか、あれこれアドバイスしたこともあった。
 むろんそれは観る側、聴き手側の意見、感想なのだからそれなりに無意味ではないとは思う。が、自分で演る側になってみると今は、「よくまあそんなことを!臆面なく言えたものだ!」と恥じ入るばかりである。

 いったい何様のつもりであったか。一昨日の晩も、我がお節介にも音楽的なことをあれこれアドバイスしたことのあるシンガーの方も来られて、その我が失態、それこそが現実そのままの姿、実力なのだが、それを眼前に曝け出したわけで、恥ずかしくてホント穴があったら入りたい気持ちであった。
 小学生ならば、泣きながらランドセルは教室に置きっぱなしにして家に帰ってしまっていたことだろう。が、大人だからそれはできない。
 今、つくづく何を俺はエラソーに、とただ恥じ入り悔やむだけだ。

 そして今思うのは、ギター弾いて唄うということ、傍目には、つまり観客側には簡単そうに見えることでも、それが当たり前にフツーに、易々とできる自体ものすごいことなのであった。間違えも失敗も歌詞を忘れることもなく。
 むろん彼らはそれだけ練習を重ねて長いキャリアがあり、何百回もライブをこなし人前で長い時間唄ってきたのだから当然といえば当然なわけだが、やはりその差は歴然であった。
 今回、我はギター、シーガルの小ぶりのアコギを持って行った。弦は当日昼に張り替えた。まあそれなりに良くなると思ってた。

 が、緊張したこともあって、カポつけるとビビッたり、何かもう一つ鳴りが良くないようで、歌ってても気も入らなかった。
 ところが、そのギターをよしこさんが使うと、まったく違うのである。こんなきれいな音が出るのかと驚かされた。※今回、太田さんさえ自らのギター持ってこなかった。何しろ現場から直帰であったから。
 よしこさんは客としてきたからご自分のギターは持ってきていない。我のギター借りるね、とそれで1曲だけ歌ってくれた。澄んだ声が流麗なギターに乗って鳴り響いた。まさに心洗われる気がした。我に汚された観客皆さんの耳も洗われたことであろう。

 よしこさんが唄ってる途中、太田さんが到着して、そのまま彼のライブが、我がギターを使って始まった。やはりギターは良く鳴って何も問題なく活躍してくれた。そして最良のコンサート最後まで良い音を出してくれた。
 つまりこれがこの音楽の深さなのである。まさに弘法大師筆を選ばずというが如く、真の実力者は、常にそのものの最良を引き出すことができるのだ。楽器だけでなくうたも何もかもすべてを。

 若いときから、日本のフォークに出会い、様々シンガーを知り、何十年も聴き続けてきて、この音楽のことなら何でもわかっていると思っていた。
 が、いざ、一人でギターを手にして人前で何曲か歌う機会を与えられると、我は自分では何一つできやしないことにただ当惑するだけであった。弾きながら人前で歌うこと。これは実に難しい。ちっともカンタンなことではなかったのである。
 誰でも少し練習すればできるようになると思っていたし、確かにそうしたものこそ「フォークソング」なのかもしれない。しかし、本当のうたの神髄、ギターの深みは、おいそれと新参者が到達できることでは絶対なかったのだ。

 この我だってギター歴は長く決して昨日今日ではない。それなりに弾けるという思いで練習してきたが、現実のライブではまったく通用しなかった。100%できる自信があったとしても現実のライブでは、70%も出せないだろう。ならば、200%300%の自信をもてるほど練習を重ねないとミスのないステージはこなせない。
 うただって同様で、歌詞も含めて100%以上、完全に自家薬籠中の物にして、眠ってるときですら無意識でも唄えるぐらいにならないかぎりやはりトチルし、声も思うように出やしない。
 そうした積み重ねの先に、ようやくシンガーとしてのスタートラインがあったのだと今はわかる。毎度のことながら、すべてが甘かったのである。

 おかしな例えだが、フォークソングの巨大な穴があったとする。クレーターのようなものをイメージしてほしい。
 我は、今、その淵に立ち、穴の中を見下ろして震えている。フォークソングの世界とは、こんなに奥深く遠いものなのかと。まったく気がつかなかった。今まではその淵の周りをうろうろ通り過ぎていただけで、その穴の中まではよく見なかったのだ。

 では、さてどうするべきか。今回初ソロライブで、かなりダメージを受けて深く恥じ入った。が、考えれば何も失ったわけではない。自らの甘さ、実力のなさが世間に露呈しただけのことで、ダメの本領発揮しただけのことだから恥じ入るばかりでも、これこそが現実・現状なのだからしょうがない。
 それよりもむしろ今回新たに淵に立ち、やっとこの深い世界の深淵を観たのだからそれこそ良いことであった。フォークとは、かくも奥深く遠いものだったと知り得た。
 で、どうするか。その穴の中に下りてさらに我も極めていくか。そのためには日夜血の出るような努力を続けなくてはならない。我も何十年も続ければ「彼ら」の域、仲間に入れるのだろうか。

 何にでも気の多く時間もない我にはたぶんそれは無理だ。何かの傍らでも上達するなんてうたや音楽はそんな甘いものではない。
 ならば、我の役割は、やはり企画側とガイド役こそが適任なのではないか。フォークソングを極めた人たちがいる。自分がその仲間に入ろうなんて思ってはならない。彼らのために、この音楽の案内人としてできることをしていくこと。
 その傍ら、うたとギターはやはり続けていこう。その奥深い世界は絶対に到達はできない。しかし、その世界の存在を知った者として、それを世に知らせる義務があるはずだ。そのことをやっていく。
 我にとってのうたとはそれなんだと気がついた。本物にはなれやしないが、「本物」がいることを広く世に知らしめていこう。こんな素晴らしいうたと歌い手が存在していると。。

 少し哀しい気分はまだ残っている。外は冷たい雨が降り続き薄暗くなってきた。何はともあれ我にまだできることがあり少し時間もまだ残っていると思いたい。
 本格的冬が来るまでにやるべきことをやっていこう。