自分の居場所と絶対的自信をつくること2019年11月24日 04時07分52秒

★「失敗」から学び得たこと

 古より、人は成功よりも失敗から学び得ることのほうが大きいと言われているが、まったくその通りだと思う。
 いや、「失敗」から学ばない者は、真に愚か者であり、また同じ愚を繰り返すという戒めでもあろう。そう、戦争などの負の「歴史」も然り。

 20日の、東中野じみへんでのライブ以降、自分の中で考え方と意識が大きく変わった。それは生きる指針さえも変更を余儀なくされたと言っていいほどに、だ。
 その20日の我が失敗、苦い思いの「教訓」から、突然「共謀」コンサート再開の啓示も下ったわけで、何はともあれ自分の場所で、自分は自分のできることをやっていくしかないということでもある。

 むろんアウェーでの自分にとって新たなチャレンジはとても意義ある事だった。結果はさておき。そしてこれからもできるだけ「外」に向けて、同様の機会あらば拒まずに積極的に出ていこうとの思いは変わらない。
 何であれ、常に身内的安定安心できる場でしか歌えない、演れないというのでは、上達も進歩もない。それでは公民館などでのサークル活動である。
 何事も場数を踏むしかないし、傷つくことこそが、真に強くなっていくことのだと、我も承知していることだからこれからも大いに恥をかくことを厭わない。が、それと並行して、今それ以上に強く我を急き立てているのは、自分の居場所をしっかり構築する、という思いである。

 「自分の居場所」と言っても、我が王様、主人公となれるような、ちやほやされる居心地の良い場所のことではない。そうではなく、我が他者から求められ、応えることができる場所、そういう関係のことを言っている。
 つまり「存在理由」がある場、関係が築ける場所のことである。これからはまずそういう場、関係をきちんと作っていかねば、と今さらながら痛感している。
 結局のところ、承認欲求もそうなのだろうが、人は、他者から求められてこそ(生きる)価値があるのだと痛感している。求められ期待されてそれに誠実に少しでも応えていく。いや、どれだけ応えられるかが、その人の大きさではなかろうか。

 そしてそのために必要なのが、自らへの信頼であり「絶対的な自信」なのである。残念ながら今の我にはそれがない。
 どんなときでも、これだけは、という「実力」もそうだが、どのような状況であろうとも崩れない、動揺しない、取り乱さない「強さ」を支える、自らを肯定できる「自信」がほしい。
 誰よりも自信がなく、人から否定されると、すぐ動揺し挙句に、まあ、それもその通りだと自己否定、卑下にすぐ陥る性格だから、ますます自信がなくなってしまう。それでは、萎縮するばかりで何一つ先へと進められやしない。

 自分はダメだという劣等意識、叱られるとオドオドしてしまう卑屈な性格、常に些細な事でも不安に苛まれる弱い心は幼少のころから養われ血肉となったようなものだから、カンタンに変えられるとは思えないが、それでも、それ、根本がダメだからこそ、これだけは、という「支え」が欲しいと強く思う。
 全能の「神」に全てを委ね、まさに御心に任せるという手もある。が、罪深く弱く卑屈な我は、まだそこまでどっしりのんびり安穏できやしない。
 ショックな出来事が起こり眠れない夜、朝が来るまでの間、これからのことを考えてはどれほどの不安に押し潰されそうになったことか。
 しかし、我が特別だというわけではく、人はたいてい同様な思いは多かれ少なかれ抱いていると思える。ただ、それと正面から向き合う愚は避けてその不安をうまく処理する処方があるかどうかだけかもしれない。
 自分もこれまでは、その不安や恐怖から目を避けて、できるだけ考えないようにしたり、ときにアルコールに逃げて意識を鈍化させて眠って忘れようと努めてきた。まさに弱い者の愚行である。
 何度でも覚醒剤使用で捕まる元タレントのことをどうして嗤えようか。

 が、もうそれはしない。酒も友人との楽しい喜びの酒ならともかく、生きる苦痛を紛らわす酒では真の救いはない。
 それよりも他者との関係において、真に良い関係を築き、信頼と友愛、相互扶助、愛の善行によって自分の居場所をつくっていくしかないと気づかされた。そこにこそ自分の場所がある。

 自分の居場所と自らをもっと愛して自信をつけていく。そう、いのちを大切にしていく。まず自らの命からだ。