「新しい行動様式」に抗っていくために2020年05月24日 14時55分30秒

★新時代に取り残され、忘れ去られようとも

 このところつくづくこの国には自分の居場所がないと思いしっている。「緊急事態」解除後も、我が好み築こうとしてきた「三密」状態が禁じられるのならば、もうできることは我には何も無いのである。

 あえてそれを行うとするならば、我は「社会の敵」として公共の福祉、治安破壊者であり、どれほど批判、糾弾されるかわからない。
 むろん自分一人ならばそれもまったくかまわない。他者から厭い嫌われ呆れ果てられた末に罵られるのは毎度のことだから苦にも気にもしない。
 じっさい社会にとっては、そうした「敵」もまた必要なわけで、彼らの正義の前に、こちらを「害悪」として排斥、糾弾されるのも望みはしないが、この生き方として致し方ないと覚悟している。世間の流れと同調する気もなくそもそも全てが違うのだから。

 が、コトは、我一人だけですむことではなく、けっきょく何せよ仲間や賛同者、協力者、そして行うための場所がなくてはならない。そう、我一人では非力で何もできやしない。情けないがそれもまた事実である。
 三密を無視してイベントやら決行したとして、結局は、他の人たちまで撒きこんで様々な迷惑や批判の矛先が向くのは望むところではない。むろん誰か覚悟のうえで、同じ苦難の道を同行してくれるのなら話は別だが。なかなかそんな奇特な変わり者はまずいない。

 あのナザレのイエスさえも捕縛され十字架刑に遭うときには、最愛の弟子たちすらたちまち逃げてしまったではないか。弟子の筆頭ペテロでさえも保身のため師を三度も否認してしまった。
 最後のとき、共に十字架上の傍らにいたのは、何の関係もなかった悪事起こしての死刑囚二人だけであった。
 が、その一人はその場で悔い改め、イエスにすがり死後の救いを求めた。イエスは彼に応えてくれた。我もまたその一人に倣いたいと願う。
 そう、善悪は、この世の中だけのことであり、正義は時代や状況、そのときどきころころ常に変わる。ただ怖いのは、お上のお墨付きの正義であり、いつしかまた戦時中の「鬼畜米英」的に変わるかもしれない。
 あの時代は信じられないが、民主主義。国民主権という概念そのものが悪であったのだから。コロナとの闘いを名目に、その「正義」の掛け声が、またこのところ聴こえてくるような気がする。

 さておき・・・
 一部の進化論者は、昔からこう説く。環境の変化に対応できない生物、その種は、滅び消え去っていくと。
 ゴジラのような形態の大型爬虫類、恐竜たちは、隕石の落下が原因だか?地球環境の激変にうまく対応できず、死滅してしまったとされる。変わってネズミの祖ような小型の哺乳類が生き残り進化を重ねて今の我々が在るのだと。
 つまり生き残るためにはそのときどきごと常に移り変わっていく環境にうまく対応していかねばならない。適者生存が正しいのならば。それは何でも同様であろう。
 20世紀前半、街にあった商売、職業が今日では大部分残っていないように、自然の流れ、法則でもある。一例として、ラオ屋(羅宇屋)を上げておこう。

 コロナ禍後の世界では、もう既に多くのミュージシャン、シンガーたちが始めていることだが、SNSを利用したネット配信のような活動スタイルが、「新しい様式」ということなのであろう。
 これまでのような地道な生のライブ活動が「三密」として難しいならば、うたの場、音楽発表の場は、そうしたネット上で求めていくしかない。そこに聴き手がいて、場合によっては収益も得られるのならば、そうした音楽配信が有名無名、マイナー、メジャーを関係なく主流になっていくに違いない。
 ならば、我も、我らもそのような方向での活動に移行すべきであろうか。

 検討の余地は大いにある。じっさいにそうしてコンサート自体を「配信」できたらならば、記録という意味を越えて、その場そのときそこに来れない、居なかった人たちとも広く「共謀」できることであろう。そうした拡散こそが、SNSの役割であろうし、21世紀の「興業」のあり方なのだと確信もする。
 しかし、それはあくまでも新たな手段の一つ、ツールであり、これまでの音楽活動の代替、とって変えられるものではない。どれほどの視聴者数があろうと自分が求めているものとは何かが違う気がしている。
 それはすべきこと、取り組むべき課題ではある。が、今はまだすぐに移行できない。むろんこのまま永久に生のライブ、コンサート形式のことができないならば、それしか手はないのだからおいおい導入するしかないだろうが・・・。
 要は目的と手段のことなのだ。人はよくそれをいつしか取り違え
て気づかない。

 お金を欲し求めるのも、お金で買える何かのためである。お金は目的のための手段でしかない。が、いつしかお金自体をたくさん求めることが目的になってしまい、必要以上に、やみくもに金儲けや蓄財に夢中になってしまう人がいかに多いことか。そしてこの国の場合、我が知る限り、金持ちの人はすべてケチである。気前よく金を使いまくる金持は見たことがない。
 ビル・ゲイツや孫正義級のいったい人生を何百回生き直しても使いきれないほどの資産を持つ超大金持ちの人たちは、何故にそれだけ稼いでもまだ金に収着するのであろうか。不思議でならない。

 さておき同様に、ユーチューバ―のような形で、ライブ映像や新曲の画像をアップして、凄い数のフォロワーや視聴者数が増えてたくさん反応があったとする。それは確かに嬉しいだろうし、大いに励みにもなろう。弱気な自分に自信も持つことができる。お金も入って来るかもしれない。
 だが、我の求め願うことはそれとは違う。誰かが言ってたが、100のいいね!より、1人の客である。その確信は揺らがない。
 実際に来ない、会えない人たちが百人いて、その人たちとネットで繋がってトモダチになっているとしても、我は一人の、その場に来てくれた人のほうが嬉しく有難い。何故なら生の出会いであるからだ。
 それが初めての出会いであろうと、久闊を叙するものであろうと、一期一会で、それきりの出会いとなろうと、生で、つまり直に出会えたほうが嬉しい。それこそリアルで本当のことだ。その「確実性」を大事にしたい。

 ポストコロナの、政府や都知事が声高に推奨する「新しい行動様式」は、決してこれまでの人々の営み、行動様式の進化形、発展したものではない。コロナ感染拡大予防最優先で、専門家たちが仕方なく考え出した便宜的なものでしかなく、いわば机上の空論のようなものだ。人間関係の発展という視点で捉えれば退化でしかない。皆が異常に何もかも神経質になって実にバカバカしい。自粛にもほどがあろう。皆イライラして、家々から聞こえる声は荒々しい。
 むろんこの新生活様式には一定の予防効果はあると信じよう。が、いつまでもこんな不便かつ面倒なことが続くはずかないし、コロナウイルスもこの世から消えてなくなるわけでもない。そのうえでどう、どんなふうにコロナと共に我らは生きていくかだ。

 いつになれば元通りの生活戻るのか、また戻れるのかそれはわからない。願わくば元通りの日常を取り戻したいがそれはまず無理だろう。我々は既に多くのものを失ってしまい変わってしまったのだから。音楽の場だけでなく店も街も何もかも。
 が、我はあくまでも生の音楽の場を求めて、そうした密な空間で人との密な関係を今さらながら構築していきたい。
 それが文化であると信ずるし文明であり、人類の進化と発展の基礎だと信じて。そして音楽、うたはどんな時代でも常にどこでも求められているはずだと。

 たとえ我一人でも、人と人とが直に向き合い、生でふれあうライブな関係をこれからも、これまで通り探っていく。たとえそれがどれほど難しくタイヘンだとしても続けていく。
 人と人が「繋がる」ということはそういうことなのだと信じて。そしてコロナを真に怖れない仲間たちともきっと出会えると願って。