再開「共謀」コンサート、無観客で終えて2020年07月27日 20時11分14秒

★ともかく疲れた。そしてこの「もやもや」感は何だ!?

 おかげさまで、この全国的にコロナウィルスさらに感染拡大中にも関わらず、月一恒例の「月刊・共謀コンサート」、7月の回は、25日の土曜日に再開・開催し終えた。
 ほっとしているしそれなりに満足感、充足感はある。が、やはり観客がいないのと、リモートでの生配信という初めての事態は、どうにも勝手が違い、失態さらすばかりで自らの限界を今噛みしめている。
 そしてただ何よりも疲れた。いつもと違いギターも手にせず一曲も唄わなかったのにどうしたことか。昨日は終日寝込んでしまった。

 実は、2週間ほど前になるか、父を朝、施設に送り出すときに、迎えが来たので居間に座った彼を慌てて抱き起しエイやっと持ち上げたとき、ぎっくり腰的に激痛が走った。
 幸い、ほんとうのぎっくり腰には至らずに済んで、日常活動には問題なく動けているが、それでも座り仕事したりすると腰が固まってしまいしばらくは痛くて動けなくなる。
 そんなで椅子に座って一定時間パソコンに向き合うブログもなかなか書けずにいたし、今もまだ本調子ではなく腰周辺は鈍く痛みが続いている。
 そんな体調で迎えた三か月ぶりのコンサート、音楽そのものは素晴らしかったし、久々に敬愛するシンガーたちの歌声を堪能して喜びと満足はしたのだが、何か名状しがたいスッキリしないものが残った。いつもより疲労感が開催中もやたらあった。
 理由は一つしかない。体調に加えて何よりまず観客が不在であったからだ。

 このコロナ禍騒動が終息していない今、「コンサート」をやるとしたら、ともかくまずは「無観客」での開催しか手はない。
 むろん少人数の観覧希望者を事前に連絡して集め、座席も空間空けて「観客」を入れることは今はできる。
 が、かけこみ亭でのこのコンサートの場合、基本「投げ銭制」でチャージは取っていないし、前売り券のようなチケットもない。これまでも予約は受け付けたことはあったが、観客は当日自由に来られる方を期待しこちらはただ待つしかない。
 しかしそれではコロナ禍の「新しい様式」に反してしまうし、もしかしたら一見さんがウィルスを持ち込む可能性も生ずる。仕方なく、ならば最初から「無観客」としてお客は入れないで開催となった次第だ。
 そうなると、それは仲間内の練習やセッションとどう違うのか、だ。
 いろいろ悩み迷ったが、無観客だからこそライブでの生配信を、このところよく訊く「リモート」ってやつを試しにやろうじゃないかと思い立った。
 幸いここかけこみ亭では、このところはずっと毎週水曜と土曜日に、店からの生配信として『かけこみ亭からAIをこめて』と題して約30分程度のリモートを始めていた。
 お店側のご厚意と関係者に撮影をお願いして、その枠内で特別に「共謀コンサート」も30分程度だけど生配信してもらうことになった。自分にとっては初の経験である。※当日の模様はかけこみ亭のHP、フェイスブックから今も自由観覧できるはずだ。

 で、30分枠だとして、ネットで流すのならば、当日の様子をそこだけそのまま切り取るのではなく、ダイジェスト的に、今回出られる演者たちをできるだけ全員網羅できたらとも考えた。リモートでの「観客」に向けての「紹介」としても。
 となると、休憩や間合いとらず次々すぐさま転換してもらわねばならない。そのため各々の方の時間配分に「現場」で慌て迷い苦悩した。
 昔、ドリフのテレビ番組などは公開生放送だったので常に「生放送」で流していたから、最後のほうになると、ときには皆でうたうエンディングのテーマ曲『いい湯だな』の替え歌が時間が押して猛スピードになってしまったことがよくあった。
 それと同様に、「生放送」というのは、終わりの時刻が決まってないとしてもかなり緊張して時間配分にいつもより気を遣うことが強いられ、これまでとは違う思いの経験をした。

 最後のほうで我はスタッフから質問に戸惑いうろたえ醜態をさらしてしまったが、ともかく約30分の枠内で、演者四方をそれぞれハイライトシーン的に収録、流すことはできた(と思う)。
 生配信を終えたとたん、我は腰の痛みと緊張感が途切れてその場にへなへなと座り込んでしまった。それからかなり長い休憩時間をとって、詩人の奥主榮氏の朗読と館野公一、太田三造のシンガーお二方にフィナーレ的に〆てもらい何とか無事にこの初の無観客・一部生配信のコンサートを終えることができた。

 終えて・・・
 ともかく疲労感が残った。腰の痛みも続いていたこともあったからだが、これまではどんなに寝不足や体調不良でもコンサートが始まってしまえば我はテンションが上がり帰宅後はともかくも開演中は一切疲れなど感じなかった。時間は常に始まればあっという間に過ぎて行った。
 が、久しぶりの再開ということはともかく、その最中も腰痛も続き身体はしんどくいつもより短時間のライブのはずなのにその日は一日がずいぶん長く疲労感が続いていた。こんなことは初めてのことだ。
 そして良いコンサートだったと思うのに何か心の底には満足いかない、もやもやとした正体のわからない何かが残った。

 それが何かずっと自問して今は何かわかった。それはその場に一人も「観客」がいなかったからだ。居たのは全て出演者も含めて店の関係者、つまり友人知人だけであった。
 むろんリモートで、「観客」は少ながらずいたかと信ずるし、後々もバックナンバー的にかけこみ亭のHPからその生配信したシーンを「観覧」してくれる方々もいると信ずるが、その日、その場にはじっさいの「観客」は一人もいなかった。
 そのこと、じっさいの観客が不在だったということが、企画者として、進行役としての我にとってすごく大きいことで何かもう一つスッキリしない「何か」の原因だと今は思える。
 我は常に、その場のそこにいる「観客」を意識して、たとえごく数人でも彼らに向き合って、ある意味顔色を窺いつつコンサートを進めてきた。
 が、今回はそこに常にいるはずの「観客」は一人もいないとなるとそうした反応、反響が読み取れないし確認ができない。これが困惑の理由でありもう一つ今回乗らない、満足できないわけはそこにあると気づいた。※むろん店には来れない「観客」というのもその場にはいたはずだと思いたいが・・・

 つまりボールを投げるにも、そこに相手の顔が見えるかどうかということだ。直の反応が確認できることをいつも我は求めていたのだ。
 ライブとはそうしたものこそが最も大事であって、ライブ「配信」とはやはり異なると気がつく。むろん、リモートでもすぐに流れている映像に書き込みがあったり、即レスポンスも返ってくるものなのだと理解できる。
 しかし、やはりそれは観客であっても「参加者」ではない。様々な媒体、メディアを通して多くの観客、つまり「見てくれた人」は増えたとしてもその場に「参加」したこととはまさに次元が異なる。

 しかしそれでも今はこうしてやっていくしかないのである。コロナの感染拡大はこの先もさらに続くだろう。その中で最良のこと、最善のあり方を模索していく。
 次回は、8月30日だ。

 この件についてもう少し書き足したい。