リモートでの「コンサート」を終えて思う2020年07月28日 15時03分37秒

★ネットを通して「見る」ことと生で「体験」することはやっぱり違う

 俗に「見ると聞くでは大違い」という諺というか、俚諺がある。
 つまるところ、耳で聞いて既に知ってはいたことが、実際に見ると、つまり「体験」してみたら、それは全く違っていた、ということであろう。
 これは何だってその通りで、知識として既に知っていたとしても、じっさいの経験してみたことは違うし遠く及ばないという絶対的真理である。
 昨今、きちんと読まずともその本のストーリーや趣旨、大意が○○分でわかると謳う本がかなり出ている。つまり粗筋を簡便にまとめたものだ。テレビでも同様の企画があったかと記憶する。「20分でわかる何々の類」である。

 確かにこの世には、やたら長大な何冊何十巻にも及ぶ長い物語が古今東西にいくつもあって、世間の常識として、あるいは就職などのときの適性検査での「常識的知識」として、一度は読み通しておきたいと願う名前だけは有名な「名作」本がたくさんある。
 が、この我もだが、そんな長い物語は時間も気力もなくなかなか最後まで読み通せたものはごくわずかしかない。で、それを誰でもどんな話かすぐにわかるように、ストーリーと要点をまとめて教えてくれるのである。ある意味有難いことだ。
 確かに、それでその物語は読んではないが読んだ気もするし、話はどんなかわかったと思えて来る。
 が、それはただ「知った」に過ぎないことは説明するまでもないだろう。
じっさいに読んで、読み通さない限りは、その本を読んだという「体験」「経験」にはならないし、その物語の真に名作である所以、つまりほんとうに大事なこと、価値はわかっていない。
 それは本に限らず何だってすべて同様で、「見る」にしてもじっさいに体験して「見る」のでなくネット上で「見た」こと、視聴したことなどは、実際にその場にいて「見た」こと、つまり実際に「体験」したことに遠く及ばないことは間違いない。

 今は、21世紀、実に便利な時代で、このコロナ禍騒動でも現実問題として人が一堂に集えないとしても学校教育などの現場では、リモートで、つまりインターネットを通して「会い」、集い、語らい、教え、学ぶこともできる。会社などの「業務」も信じがたいが七割はそうしたテレワークで代行できるらしい。
 「教育」や「仕事」は、ともかくそこに何らかの「結果や成果」が出れば、そうした出社や登校不要のオンラインでのテレワークやリモート、Zoomなどで代用がきくのであろう。
 では、コンサートはどうか、である。
 ずっと考えているのだが、たとえ生配信であろうとも、「見ること」と直にその場で「参加する」ことはやはり大きな違い、隔たりがあると言わざる得ない。代用はきかないのだ。

 ※もう一回このこと書き足します。

リモートでの「コンサート」を終えて思う・追記2020年07月29日 22時16分20秒

★顔が見える関係を今だからこそ築いていきたい

 ケータイやスマホが物心ついた頃から身近にあり、日常生活の必需品である今の若い人たちは当たり前だと思うだろうが、我のような旧い世代の者には、誰もがごく簡単にスマホ一つで文字や文章だけでなく画像や映像、音楽までも素人でもごくカンタンに世に発信できる時代が来るなんてまさに夢のように思える。
 昔はチラシや文集などの印刷ですら、自分でやるとしたらごく簡単にでもガリ版刷りや「プリントごっこ」でいろいろ下準備して一枚づつ手作業で刷っていくしかなかった。
 写真だってカメラは 広く一般大衆に普及したものの高級趣味として自宅に暗室つくって自ら現像、焼き付けいる人もいたけれど、フツーは街の写真屋やプリントショップという専門店に持ち込んで焼いてもらうしかなかった。
 映像などはまたさらに金のかかる趣味であり、自分の子どもの成長を動画で記録。保存したいとしたら、フジカなどの8ミリカメラでの1本僅か3分という方式しか手はなかった。
 音楽に至っては、カセットテープの普及により、誰もがラジカセやカセットデッキなどで宅録もできるようになったが、友人や恋人に配布はともかく、それを世に発表する方法は、各種オーデション、コンテストのようなものや関係者にそのカセットを直接送ってまず聴いてもらうしかなかった。
 何にせよ 自らでするとしたらどれもが非常に手間と時間、そして金もがかかり、またそのための作業は楽しくもあったが、誰もがすぐできる簡便なことでは絶対なかった。
 我も十代の頃、ガリ版での様々な文芸同人誌的なものや軽オフでのミニコミ誌、プリントゴッコでの漫画同人誌などあれこれ各種出した懐かしき思い出がある。
 また拙い自分のフォークソングも、テレコに録音して友人に配ったものだ。

 それが今日では、スマホ一つあれば、事故や火災などの現場の映像も個人でカンタンに撮影してそのまますぐさまネットにアップすることもできるし、文章も長い小説のようなものでも自らサイトを作って配信することも可能だし、音楽でさえ映像付きで、コンサートそのものを世界中に生配信できるのである。それもプロや専門家でなく誰でも素人がだ。
 昔なら世間にそれを発表するのに時間だけでなくひと手間もふた手間も、さらにはお金もかけなくてはできなかったことが、今ではスマホやパソコンなどネット環境にあれば誰でも即時世界中に発信できるのだ。
 まさに今は、昔の、隔世の感がわいてくる。ものすごく便利で簡便である。しかし、ではそれで人と人はより繋がったのか、人との関係は深まったのか。

 スマホとさまざまなSNSアプリの普及で、まったくの素人でもときには誰でもユーチューバ―やブロガーとして世の注目を集めるようになった。数々の人気者や話題になる人たちも登場している。有名タレントや芸能人でなくてもフォロワーなる人たちを何百人、何千人も抱えている人もいるようだ。これも実に21世紀的な現象だと感嘆感心してしまう。
 そうした事象についても思うところ多々あるが、話を戻して、コンサートの生配信についてである。
 今回は、フェイスブックの機能を使って無観客コンサートの途中から「生配信」をお願いしたのだが、こうした「リモートでの「観客」は、やはり観客とは言えないのではないか。
 YouTubeもだが、コンサートの映像などをこうして配信をすれば、そのコンサートに来れなかった人や関心がなかった人、こちらを知らなかった人たちにも見て、知ってもらえる。それはとても良いことで大きな意味と宣伝効果もある。
 が、同時配信で、見ながらすぐさま感想を映像上に書き込んでくれたとしても、観客は観客だとしてもやはりそれはただ「見た」のであって、その場に来て、じっさいの観客として体験してくれたのとはやはり根本的に異なる。
 何故なら我々、ステージ側からは、その「顔」が見えないからで、向き合う顔が見えて、良くも悪くも「反応」がその場ですぐ確認できてこそ「観客」であり、それがコンサートなのだと気がつく。
 よってやはり残念だが、リモートで「見る」ことと、じっさいの「観覧」、つまり「体験」とはまったく別なものだと言うしかない。むろん「見て」「知って」もらうこともちっとも悪いことではないしそこにも大きな意義と価値があろう。
 が・・・

 いつの頃か、YouTubeなどにプロの有名ミュージシャンでなくても、アマプロ問わず、様々な映像がアップされるようになって、我も時おり調べ者的に覗いてみることがある。
 内外問わず貴重なものや昔の懐かしいものなどまさに映像の宝庫であり、しかもタダで観覧できるとあれば、これは素晴らしいライフラリーである。
 そしてミュージシャンやシンガー自らがその音楽映像をアップしてることもあるが、ファンや関係者が撮ったライブのものも多く、画像の質も様々であることに気づく。
 巷では、グーグルで検索するがごとくに、YouTubeでよく知らないシンガーや楽曲を確認する人も多いかと思われる。じっさい、音楽好き仲間が集まってとあるシンガーの話題になったときなど、すぐさまスマホ取り出してYouTubeからそのシンガーのライブ映像を探し出し、その場で見せてくれたこともある。特に我が知らなかったシンガーの場合は。
 だが、我は基本的に、まだ生で見たことのない未知のシンガーやミュージシャンについてはその映像を見ないようにしている。
 というのは、じっさいのライブで観るのとYouTubeなどに上がったものとは出来が大きく違うことが多いからだ。画質も音質も違うだけでなく、その場の状況、雰囲気がわからないから、その「切り取られた」一部分だけで判断して、この人はこういう感じの人だ、と即断、決めつけてしまうのは大いに危険かつ誤りではないかと考えるからだ。

 我は、若い頃から人の話はろくに聞かず、それは友達が好きなかったからでもあるが、ともかく独断専行、自分勝手に自分のルールで生きてきた。それは、自分の目と耳で見たこと、聴いたこと以外は信じないということだ。
 そう、何であれ、体験してみないことには実際、ほんとうのことはわからない。特にそれは芸術こそ顕著で、何でもオリジナルかそれにできるだけ近いものに直接ふれるにこしたことはない。
 中でも音楽こそ、生の歌声、そのステージを観て評価、判断すべきはずのものであろう。YouTubeであれ、画質も音も悪い映像を見て、それでこんな感じのシンガーかと即断してしまうのは実に非礼なことだ。
 そしてそれはニンゲン関係もまた同様のはずで、我は百人の「顔の見えない」フォロワーよりも一人のそこにいる実際の「観客」が嬉しいし有難い。
 いや、これは音楽に関係する人は皆そう思っているはずだ。コンサートの告知に対して、100のいいね!よりも、一人の生の観客こそが有難いと。

 このコロナ感染拡大最中、人と人とが直に出会い集える場はきわめて難しい。しかし、だからこそ我は、これからも顔の見える関係をもう一度築けるよう、できるかぎりのことを模索していきたい。

いま、いったい何が起きているのか2020年07月30日 09時14分57秒

★コロナウイルス、先のこと案ずるより、まず今どうなっているか、だ。

 コロナウイルス感染拡大が止まらない。
 東京では連日300人前後が通常となってしまったし、大阪や愛知でも連日100人越えという記録更新が続いている。昨日はついに全国で一日で千人を超す感染者数が報告された。

 だが、政府も行政も無策というかか一切何も手は打たずに、「緊張感をもって状況を注視している」と繰り返すのみだ。注視するだけなら猿でもできる。
 そして各都府県の長は、住民にはよりいっそうの三密対策を、と繰り返し呼びかけ、できるだけ移動はするなと言う一方、政府は、旅行推奨のため「「Go To トラベル」強行とは、行政は、まさにブレーキとつつアクセルを同時に踏むがごとく方針はバラバラ、支離滅裂と言うしかない。
 政府ができる対策は、またまた小さい布マスクを広く配布することだけなのであろうか。それだけで抑制効果あるのであろうか。彼らにこの国をこのまま任せて大丈夫か。
 確かなことは、何の対策もしなければ、感染拡大はさらに日毎に増大していくことだ。
 まさに「#悪夢のような安倍政権」である。

 これではほんとうに大変なことになるとお気楽な我すら不安になって来る。さらに世界中からコロナに関連せずとも不穏なニュースが次々流れて来る。
 未だあけない梅雨のどんよりとした空を眺めて溜息をつく。いったいこの先、この国は、そして世界はどうなってしまうのか、と。
 しかし先のことを憂い案ずるよりもまず今、この現実をできるだけきちんと把握、分析して、その上でできること、すべきことを一日でも早く始めることだ。

 私事だが、我母は、先年癌で死んだのだが、その年明けから次第に体調が悪くなってきたかと思うと、6月ごろから一気に体調が重篤化し自宅で完全に寝たきりとなってしまった。そして二か月後、食事も摂れなくなって痩せ衰えて9月に入ったらあっけなく衰弱死してしまった。
 今思うと、どうしてもっと早く、事態が進む前に手を打たなかったのかと悔やまれる。まだ動けるときにできることはいくらでもあったはずだ。だが、せいぜい食事に気を使った程度で我は、母本人もだが、日々その状況を漫然と「注視」するだけで、何とかせねばと考えつつも何もしなかった。
 そして事態はさらに進み常時看護が必要になって来ると、基本我一人しかいつも側に付いて母の世話をする者はいないこの家では、我は疲労と睡眠不足でともかく毎日心身疲弊し、何も考えられなくなって結果として母を死なせてしまったのである。
 果たして母は、それでそのとき死ぬべき運命にあったか、と今もときどき自問するが、もう少し早くに、事態が真に悪化し何も手を打つこと、対策がなくなる前にまだできることはあったことは間違いないと思える。

 癌という進行性の病気にかかり、手術が成功し一度は治癒したものの再発してこんどは抗癌剤も効かないという末期的状況になって来たのだから、その先には、「死」という破滅しかないのは確かなわけで、実は当初からわかっていたことだった。※医師たちはそれを早くから深く認識していた。
 ただ、思えば、我らは「そのこと」については意識して考えないようにしていたし、何のアテもないのに、何とかなる、まだ大丈夫だと希望を持ちその年は春先までのんびり安穏としていた。
 そして今ならわかるが、体調不良など全ての予兆はじょじょに現れていたし、高い発熱で緊急搬送という本格的に癌が動き出す前に、もう少し真剣にあらゆる対策を模索すべきであった。春先まではまだ元気で動けていたのだから精いっぱいできることをすべきだった。
 そうすれば今も母は生きていたかもしれないし、もう少し長く生かすこともできたと思える。 しかしもう今では遅い。
 
 そう、何であれ、何より大事なことは、「先のコト」ではなく、「今このとき」、今いったい何が起きているのか、きちんと分析し判断理解して、誰もがそのとき、できる最善最良の手を打つことだ。事態をぼんやり注視している暇はない。
 そうしないと何事も取り返しのつかない結果となる。そして後になって残るのは、何であのとき、何もせずにぼうっとしていたのかという後悔と慚愧の念である。

 政治の世界で為政者たち、安倍政権と小池都知事らが国民都民に感染拡大予防にさらなる注意喚起を呼び掛けるだけで一切何もしないのならば、我らは声を大きく上げよう。まず国会を開け、事態をきちんと精査して説明せよと。
 政治家たちに任せておけないのだからこそ、政治の在り方をもう一度再考しよう。
 そして自粛を「要請」するのならば誰にもきちんと公的保証を、と求めていこう。ともかく声を上げることで動かない政治を動かしていくことだ。

 このコロナ禍は、無策無能かつ自らのことしか考えない安倍政権が迷走と暴走の挙句拡大させてしまった人災である。
 が、まだ今できる、すべきことはかならずある。