ずいぶん遠くまで2021年01月27日 22時21分06秒

★我が父、新たな段階へ

 これは書くべきかずっと迷っていた。このところ心中穏やかざる状況が続いていた。それに囚われブログ更新できなかった。
 父のことである。また愚痴めいたことだと揶揄されたり批判されるだろうが、書かないとこの先、もうブログは続けられない。

 人生はよく旅に喩えれる。生まれてから死ぬまでの間、どこへ行くのか、どこまで行けるのか、時に様々な人と出会いふれあい、様々な出来事があり喜怒哀楽を積み重ね旅を続けていく。そして最後はその旅も「死」で終わりとなる。
 我は、母の死後、この5年、老いた父とずっと共に旅を続けてきた。父はいま、96歳。今年の秋まで生き永らえれば97歳となる。
 冗談ではなく、百歳も指呼の間に見えてきた。

 だが、今年に入ってからこのところ急激に衰弱というべきか、認知症が進み、共に暮らす者として介助も限界かと思えてきた。
 端的にいえば、もう何も一切わからなくなってしまったのである。
 これまでは、ろくに歩けなくなったり、下のほうは紙パンツの中に常時垂れ流しとなっても、まだ「人格」が残っていた。
 どれほどトンチンカンナ妄動、失態を繰り広げようとも、自我というべき「自覚」はまだ残っていて、こちらの問いかけに対してともかく何らかの「反応」は帰って来ていた。
 つまり犬猫とは違い、人間同士のコミュニケーションは成り立っていた。だから、自らは自覚ないまま寝ながらオムツ外してシーツを大量の小便で汚したり、紙パンツの中で溢れるほど軟便を漏らしていても、その世話にウンザリ呆れ、かなり面倒であっても精神的苦痛ではなかった。
 それもこれも信じられない程長生きしたから故のことと諦め的了解もできていた。

 が、このところ、朝起こしても、ぼうとっしたままで機嫌も悪く、洗面所に抱きかかえて連れて行っても、以前なら自ら、入れ歯を入れたり顔洗えたりしていたのが、何一つ「わからない」のである。何もしない。
 ケースから出した入れ歯を示しても、これどうするんだ、という反応だし、何より困ったのは、朝飯を出しても自らは食べる行動を示さないのである。早く食べてくれと促しても、これは何だ、どうするんだ、という反応しか返ってこない。
 これまでは、朝食の品、たとえばお粥などを出せば、自分でゆっくりだが、ともかく一人で食べてくれていた。むろんエプロンにぼたぼた落としたりかなりゆっくりで時間もかかったが、それでもその間、我は施設に持っていく着替えをまとめたりその準備はできた。

 が、一昨日は朝食を出しても、ただぼーとして、自分ではちっとも食べてくれない。急かしてもダメだから仕方なく傍らに付いて介護して口元にスプーンで持っていく。それでも食べる意思がそもそもなく、口に入れても吐き戻したりやたら咽こんだりとほとんど食べず、少しでも食べさせるのに大いに苦労するようになった。
 まだ言葉は出て来るが、万事がそんな調子で、これまではわかっていたこと、そのほとんどがとうとう「わからなくなった」のである。
 朝起こされて、コタツに座られさて、飲み物と朝食が出されても、それが何なのか、どうすべきなのかが「わからない」。
 トイレに座らさせても着替えを与えても、何が何だか、そもそもそれをどうするのか「わからない」。
 かつての大男を苦労して上から下まで着替えさせて、抱きかかえて立ち上がらせて、ともかく老人介護施設に送り出したが、向うでもそんな調子ならば、食事も摂れないだろうしもう利用も難しくなる。
 まさに暗澹、憂鬱かつ不安な気持ちで、施設から連絡があるかもと一日スマホ片手に落ち着かない気分で過ごした。

 このまま、この状態が恒常的だとしたら、もう自宅での介護は数日、短時間であったとしても無理である。我の肉体的疲労心労よりも人間としての「心」をなくしてしまった父と暮らす意味が見いだせない。

 我が父は、息子よりも元々とても几帳面な性格で、日々、手帳に日記なのか家計簿なのか細かい字でびっしりメモするのが習慣であった。
 それが老いて認知症が進み目も悪くなってからは、さすがに自ら書き記す行為はなくなったが、その「手帳」に対するコダワリは強く、施設に行くときも常に、ワシの手帳、手帳、とカバンに入ってるか、心配で騒いでいた。
 それがこのところは、その「手帳」すら存在を忘れてしまったようで、手に取り手繰ること以前に、「存在」にも頓着しなくなってきていた。
 さらに、彼は腕時計にも強い執着があり、我が買い与えたデジタルとアナログの時計をそれぞれ両腕に嵌めて、それがないときは常に騒ぎ立てていたはずなのだが、先日施設から戻ってきたら何故か二つとも嵌めていない。

 入浴のときに外されたのか、それともどこかで落として来たのか、高いものではないが、愛用の腕時計を二個ともしていない。驚いた。そもそも以前なら、「ない」と気づけば、夜中でも大騒ぎしていたのに、いまは我が指摘してもろくに「反応がない」。つまり腕時計にも関心をなくしてして、なくてもどうでもよくなってしまったのだ。
 けっきょく、真に死んで行くときは、こんな風に全てに関心を失くして何もかもわからなくなって、すべてどうでもよく、限りなくゼロになっていくのだとわかってきた。それが死に臨むということなんだと。

 考えてみれば、赤ん坊としてこの世に産まれ出るときもまさに何も持たず、何も拘らず、何もわからないままゼロから始まるのである。
 我が父もついにその地点に再び戻って来たのかと得心せざるえない。

 ともあれ、父はずいぶん遠くまで来てしまったのである。我はその父と共にここまで来て、今深い感慨に浸っている。
 思えば、かつては周りにも多くの仲間たちがいた。我が母もかつては傍らにあり同行していた。
 今、周りを見回せば、もう誰もいないのである。この新年を迎えて父の兄弟、親戚からの年賀状は一枚もなく、かろうじて母方のほう、母の弟たちから儀礼のものが二枚届いただけで、まだ存命の弟妹がいたとしても向うも高齢ゆえ音信不通となってしまった。
 前人未踏という言葉があるが、まさに我は、この父と共に、今年はその地に立ったという思いでいる。
 が、この旅も間もなく終わる。父と共に見た光景は我にとって生涯の宝物、金にならぬ遺産と言えよう。

 ともかくずいぶん遠くまで来てしまった。遠くまできすぎたのか。父に連れられ父と共に。