コロナ禍でも、ともかく続けていくこと、だと2021年02月02日 22時14分52秒

★人生を自ら終わりにしない。

 今朝は雨上がりの暖かい朝だった。朝のうちは曇っていたが、しだいに陽射しも出て、暖かい穏やかな早春の一日となった。
 2月となった。このところ雨が多く、まさに一雨ごとに春めいていく感がある。むろんまだまだ冷え込み、時に雪が舞う日もあるかもしれないが、たぶん今年はもう積もるような大雪や水道が凍る程の強い寒気は東日本、太平洋側ではないような気がする。
 こうして一雨ごとに春へと向かっていくと期待したい。もう辛い、最悪のときは終わったと。

 まず我が父のことだが、小康状態というべきか、先日来の急激に悪化した呆けは今は下げ止まり、記憶はともかくも人間性はまだ何とか維持、確保している。そんなで今朝も介護施設に何とか苦労したが送り出せた。
 ただ、今年に入ってから我としては朝、父のオムツ替えや起こすときなど、父は果たして今朝も無事で何も異変はないか、戸を開けて確認するまでドキドキし、常に最悪の覚悟のうえで臨んでいる。

 じっさい、もう寝ている間に、老衰で不意に呼吸が止まっていたり、不慮の事故で死んでいてもちっともおかしくない状態なのである。
 96歳という超高齢の老人を自宅で我一人で介護し共に暮らすということは、同じような経験をしている人はまずいないと思うしその気持ちはどう語るべきか。
 認知症もひどく何をしでかし何が起きてもおかしくないし、常に死はごくごく側にあるとひしひし感じている。俗に薄氷を踏む、という表現があるが、まさに命の薄氷を毎日怖ろ怖ろ父の手を引いて歩いている気がする。

 このところ、父は何故か必ず朝、オムツ替えのとき確認すると、毛布一枚だけしかかけていない。何枚もの他の毛布や布団は、傍らの椅子にきちんと折りたたんで重ねてある。
 そして時に、穿いているオムツ、紙パンツなども全部、一切脱ぎ捨てて、すっぽんぼんで下半身丸裸で眠っている。
 これは、たぶん暖房いれてるので暑いのだろうと考えて、温度を下げるのではなく、布団を厚めにかけて暖房は切って寝かせたら、先日は朝までそのまましっかり布団も毛布も掛けて眠ってくれた。
 やはり一兵卒として先の大戦で、酷寒の満州でも生き抜いた人だから、寒さには格段に強いのだとわかった次第で、ならば暖房は不要かと、オフにしてこの数日寝かせていた。
 が、今朝は、春めいてきてそれでも暑かったらしい。早朝5時のオムツ替えのときには、毛布一枚だけで寝ていたので、風邪ひくと思いしっかり布団かけておいたら、朝8時過ぎ、施設に送るために再度起こしたらば、下半身はなんと丸裸であった。紙パンツすら履いていない。オムツも何もかも全部脱ぎ捨ててあった。

 とうぜん、シーツの上に小便は大量に漏らしていて、まさに大世界地図であった。父はその小便の湖のうえで眠っていたのだ。
 何でそんなことをするのか問い責めても意味はない。要するに無意識のうえでそんな妄動に励むわけで、先日は、この寒中に、深夜に窓をこじ開けて外に出ようとカクサクした形跡があり、キジ子ら猫たちはその開けた窓から外へ逃亡してしまい連れ戻すのにまた苦労した。
 昨年はじっさい、厳冬1月なのに、寝ている部屋の引き戸を外し台所から戸を壊してそこから父自ら外に出、徘徊のあげく、車の中で早朝眠ってるのを発見されたこともある。我が朝起きたら部屋は空っぽで父の姿はなくまさに仰天、卒倒した。
 そのときも真冬なのに裸足でほぼ裸だったのだから、ヘタすれば即肺炎起こしてコロナでなくともとうに死んでいたはずで、スーパー呆け老人は何しでかすかまさに予測不可能なのである。父がいると気が休まらないとはこういうことだ。
 大・小便を垂れ流したり寝小便したりするのは介護苦労の度合いとしてはごく軽いものである。

 当然、そんな父と暮らしていると騒動やトラブルは日々絶え間なく、我は心身疲弊してしまう。気が休まらないから夜もろくに眠れず常にイライラしてときに父にも暴力であたる。そして繰り返し自己嫌悪となる。誰も助けてくれないし、ブログで愚痴すら書くのも憚かられる。どこにも出口は見えやしない。
 今だから記すが、何度も自暴自棄となって、父を殺してこの家に火をつけて自分も自殺しようと考えた。じっさいゴミ箱に火をつけたこともある。
 そうして人生を終わらせようと衝動的に何度も考えもした。もううんざりであった。何もかも。すべて思い通りにならず、誰にも頼れず孤独であった。

 が、今はこのコロナ禍中、全世界的にこれまで誰も経験したことのない状況下、誰もが苦難のときにあって、父とのことも考え方が変わった。老いも若きも多くの人たちがコロナとその関連死で亡くなっていく。その人たち残す思いはいかほどか。

 つまるところ人は誰もが必ず死ぬのである。望むと望まざるとに関わらず誰もが必ずいつかは死ぬ。
 ならば、何も自らその死を願ったり望む必要などどこにもないのではないか。どれほど大変で手がかかろうとも父はもうすぐ、間もなく必ず死ぬ。その父と共に我もまた自ら人生を終わらせる必要はどこにもない。ましてそんなふうに、ははを看取り父を殺し終えて自らも死ぬのならばいったい自分の人生はどこにある? 何のために生きて来たのか?
 我はまだ己の人生を生きていないではないか。

 そう、このコロナ禍で多くの店が廃業に追い込まれている。また失業者や自殺者もものすごい数で増えている。
 そこでのキーワードこそ、「持続化」なのである。つまり、大変な状況だからこそ、そこでついにやめて、終わりにしてしまうか、何とか持続していけるか、なのだ。
 持続化給付金という処方も受け競れる人や事業者は良いことだ。が、とてもそれではやっていけないという人も多々いるだろうし、そもそもそんな援助や「救い」は得られない人もたくさんいるかと思う。
 先日もどこそこの何代も続いた老舗の有名な名店が、ついにこのコロナで客足が減りやむなく閉店したと報じられていた。そんなニュースは後を絶たない。
 じっさいそうするしかないという限界的状況なのであろう。つまりコロナが収まらず先も見えず、これ以上赤字で貯金を取り崩していくなら「閉店」「廃業」やむなしということ。それを他者が咎めることもあれこれ口はさむこともできやしない。

 だが、あえて今思う。他者が無責任な言いで、他人にどうこうは言えやしないし言うべきではない。が、自らにおいては、何はともあれともかく何事も続けていくことが肝要・大事なんだと。特に「人生」こそは。
 終わりはいつか必ず嫌でも誰にでも来る。そのときは今なのか、とまず問うことだ。そう、それは「今」ではない。ここでもない。自ら下すべきことでもない。やっと気がついた。

 今ここに書き記す。我はもう人生を投げ出さない。逃げずにきちんと向き合っていく。最後の最期、その日が来るまで、とことんもがきあがいても生き続けていく。
 まだここでは死ねないし、こんなことでは死ぬに死ねない。その日、そのときが来るまで、生き続けていく。

 善き力にわれ囲まれ という思いでいる。
https://www.youtube.com/watch?v=8CAEZz9OExs

善き力にわれ囲まれ
守り慰められて
世に悩み共にわかち
新しい日を望もう

過ぎた日々の悩み重く
なおのしかかる時も
さわぎ立つ心しずめ
み旨に従いゆく

善き力に守られつつ
来るべき時を待とう
夜も朝もいつも神は
われらと共にいます

たとい主から差し出される
杯は苦くても
恐れず感謝をこめて
愛する手から受けよう

輝かせよ主のともし火
われらの闇の中に
望みを主の手にゆだね
来るべき朝を待とう

善き力に守られつつ
来るべき時を待とう
夜も朝もいつも神は
われらと共にいます

作詞: Dietrich Bonhoeffer 1944
作曲: Siegfried Fietz, 1970