あの日から10年2021年03月11日 13時18分32秒

★我家の「今」だけを記す

 またまた拙ブログ、更新できず間が空いてしまって申し訳ない。
 年明けから父の呆けと衰弱が進み、特に今月に入ってからは、介護施設から帰宅すると、この家では飯もろくに食べられず、無理強いすれば吐き戻すことも続いてしまい介護する側として心身疲弊しどうしたものかと頭痛めていた。

 夜は夜で、寝ぼけて自らオムツを脱ぎ捨てシーツを糞尿まみれにするだけでなく、朝起こすとこの季節なのに、何故か素っ裸ということも何度もあって、肺炎起こす怖れからこちらも夜は数時間おきに様子を伺ったりと、落ち着いて眠る事もできなかった。
 幸いまだ介護施設にお泊りには行けているので、父不在の時の我は、ひたすら睡眠不足を補うことと疲れを癒すために眠ってばかりで、
ブログも含めて書きたいこと、やるべきこと、やらねばならぬ私的なことは多々あるのに、何一つ落ち着いて進められないでいた。

 もうさすがに、この家で我一人でこの齢96歳の超老人を、介護し昼夜問わず面倒見るのは限界かと思い悩み、次の段階へと、つまり最終案として特養など専門介護施設に入れてしまうことも真剣に考えた。
 が、幸いにしてこの数日来、やや呆けと深夜の妄動は収まっていて、食事も多くは摂れないが、吐き戻すことも収まってきているので、もう少しだけ様子をみようと今は考えなおしたところだ。
 ※で、介護施設に送り出せ、父は今日の夕方また帰宅して来る。次に送り出すのは、明後日土曜日の朝だ。

 それにしてもだいぶ暖かくなってきたとはいえ、暖房も入れず毛布は二枚ほどしかかけていないのに、何故、衣服も何もかも脱ぎ捨てて、上も下も素っ裸になるのか、まったく理解できない。※さすがに朝、こちらが起こした時は、寒いよ~と震えているが。
 しかもそれでも風邪もいかず肺炎にもならないでいるのだから、さすがに満州で終戦を迎えた元日本兵は、信じられないほど寒さに強く頑健にできているのだろうと感心するしかない。
 長生きできているのは、元々基礎体力が人並みでなく強靭な人だからここまでどのような状況でも頑張れたのだと今さらながら思い知った。我のような寒さに弱く脆弱で、冷えるとすぐに咳の発作の出るような者はとても父の齢まで生きられるはずもない。

 さて、今日は3.11、あの大震災の日から10年目である。
 フクシマ原発のことや、被災地の人たちのことなど思うことはいくらでもあるけれど、今日はあえて自分のこと、ウチのことを書かせてもらう。

 あの日も今日と同じような明るく晴れた温かい春の日であった。
 その頃は、ちょうど拙宅の増改築の終わり間近で、我は友人を招き、新築部分のキッチンの床に、ワックスをかけていた。
 と、昼食後のちょうど今頃、突然、それまで経験したことのない大きな激しい揺れが起こり、慌てて外へと飛び出した。その後もすぐにまた強い揺れが続いたかと記憶する。
 揺れが収まってから、先に完成していた裏の部屋にいた父の様子を確認した。父はベッドで横になっていたと記憶するが、眠ってはなく、本か何か読んでいて屋内には特に被害などはなく我家は無事であった。
 その頃、母は・・・

 前年の夏頃から体調不良が激しく痩せて何も食べられなくなっていたのだが、その年の年開けにようやく癌罹患だと判明して、原発である卵巣部の癌の部位を取り除く手術を終えたばかりで、立川の病院に入院していた。
 翌日だったか、ともかく出来るだけ早く、その病院に出向き、容体を確認したが、その古い病院自体もかなり揺れたようだが、母曰く、あまりに揺れていたので また高い熱が出て、震えでも起きたのかと思ったと笑っていた。
 そしてそれから一か月もしないぐらいで、母は無事退院出来、ほぼ新築となった我家に、ある意味九死に一生を得たというべきか、奇跡的に生還できたのだった。
 その日、母を乗せて帰って来た車から見た夕焼けの光景とその時の心持ちは今もはっきり覚えている。我にとってあんなに落ち着き満ち足りた幸福な気分になったことは生涯なかった。

 が、一時期はほぼ元通りに、がん発病前までの生活に戻れるまでに回復した母だったが、癌は必ず再発するとの執刀医の予言どおりに、数年もしないうちに再発し、腹部にまず小さな腫瘍が認められた。
 当初はほとんど肥大化することもなく、何カ月も様子見でいられたが、2016年の年明けから一気に大きくなってきてしまい、同時にまた食欲不振、吐き気や腹痛など諸症状も出始め、癌で大腸が癒着していると再手術を勧められ、またさらに腸を摘出、結果、食べたものはそのまま下痢として出てしまうこととなってしまう。 
 当然、栄養失調で痩せ始めて、体力もなくなり寝たきりとなって我家で最後まで看取れたものの、その年の秋、まさに精根尽き果てるように骨と皮となって我の手の内で死んでしまった。

 癌が見つかり手術となったのが、その大震災の年で、母は八十代になったばかりの頃だったから、今生きていれば、90歳過ぎる頃かと思う。
 それまで大きな病気は何一つせず、入院したのは、我らを産んだお産のときだけだったというほど健康な人だったのだから、癌に侵されなかったらば、まだまだ生きていたと信じたい。じっさい、面倒見好きだった母の知り合いの婆さん仲間は、今も皆その年代でよぼつきながらもほぼ皆さん生きている。
 けっきょく、10年どころか、5年何とか生き永らえただけだった。それでも本来、その2011年のときに手術して成功しなければ、そこで死んでいたはずなのだから、その5年は「おまけ」だったとも言えなくはない。
 ただ、今残念に思うのは、その終わりが近づいていたのに、我も母もその猶予期間をしっかり有意義に使えなかったことだ。そう、そのときは、5年で再発して死んでしまうなんて、思いもしなかっだけでなく考えたくもなかったのだから。
 いずれせよ、もう時間は戻せないし、過ぎた日は還らない。あの大震災のとき、被災し辛く哀しい思いをされた人たちは今もおそらく、我などとはケタ違いの悔いや苦しみを今も味わい続けていると想像する。

 この10年、振り返ればあっという間の感があるが、10年という歳月は長いといえば長いわけで、その頃から変わらず今もこの家にいるのは、その父と灰色の老猫一匹だけである。
 今も昔もウチには猫や犬はたくさんいる。が、10年前に生きていた犬たちは全員順次死に行き、猫たちも代替わりして母のことを知っている猫すら2匹しかいない。
 大震災から10年が過ぎ、かろうじて父と灰色の老いた猫だけがまだ生き残っているわけだが、彼らもまた早晩去っていく。

 そして我は一人で、この先もこの場所で、母のことも父のことも知らないであろう新たな猫や犬たちとこれからも生きていくのだろう。
 犬猫は口きかないし、ものも書き記さない。彼らにも記憶はあるが、「思い出」はない。動物にあるのは、過去はなく常に「今」だけだ。

 人間が彼らと違うたった一つのことは、過去という「思い出」と未来へ繋がる「希望」という新しい時を持っていることだ。
 そして、思い出と共に哀しみという感情が語られ、それを共有、共感できるのも人間だけの特権だ。ならば、亡き人たちの思い出をこれからも語り噛みしめ反芻していくしかない。

 年年歳歳、春になればまた今年も同じ花は咲く。が、そこに居た者たちはもういない。皆、次々と去ってゆく。残された者は無常観に苛まれるが仕方ない。それこそが人が生きていく、ということなのだから。
 春はいつだって哀しみを伴う。が、今年は特別に。