風薫る季節に~コロナ禍における「死」について考える2021年05月05日 05時13分39秒

★コロナ自粛下のゴールデンウィークも終わるが

 五月五日の子どもの日である。風薫る爽やかな季節に、書くべきことではないのかもしれないが、「死」についてこのところずっと考えていた。

 実は、私事だが、父の体調が先月末から良くなく、どうしたものかとずっと様子見でいた。
 幸い今、今日現在は、持ち直していつも通りに施設に預けられて、向うからも異変の連絡はなく、明日の夕方帰宅する予定だ。やっと拙ブログにも落ち着いて向き合える気分となった。
 そう、この数日、父のことが心配で、容体が気にかかりどうなるかどうすべきか心在らずという状態であった。

 我が父は、このところ週末土曜日から月曜夕方までと、火曜から木曜夕方まで、二泊三日でそれぞれ別の老人介護施設にお泊りに行ってくれている。
 父をそこに預けて、食事から入浴まで職員に面倒見てもらっているから、我はこの家で何とか一人で生活できている。金はかかるが有難いことだとつくづく思える。
 父が在宅の日は、食事から睡眠時までかたときも目と手が離せず、犬の散歩や買い物等で家を空けることもままならぬほど彼の世話に時間とられる。我自身のことはその日はまず何一つできなくなる。
 何しろ齢96歳を超す、超高齢老人なのである。いつお迎えが来てもおかしくない。食べることも歩くことも自ら一人ではもうほとんど何もできないからともかく手がかかる。

 その父が、先日、5月1日、土曜日の朝、朝食を食べさせて施設に送り出そうとしたら、食事の終わりに突然食べたものをほぼ全部吐き戻してしまった。
 排便などがなくて食欲がないとき、無理強いして食べさせると胃がいっぱいとなってたのか、下に落ちて行かないのか結果的に吐くことはこれまでも何回かあった。
 が、確かに大便は溜まっていたようだが、その朝はわりとパクパク自主的に食べてくれたので、まあ一安心だと思っていたら、突然最後の最期に、急な吐き気に襲われたのかウブっとせっかく食べたものをほぼ全量吐き戻した。我も父も呆然とした。
 間もなく介護施設から送迎の車が来る直前であった。
 熱はなかったしコロナ感染ではないと思えたので、迎えの職員に事情を話して休ませずにその日はともかく施設に送り出した。
 翌日の日曜は、9日のコンサートを控えて、かけこみ亭を借りて練習の予定が入っていて、父が在宅だとそれは中止にせざるえない。

 父は我の手から離れたので、ともかく一安心だと思っていたらば、その日の昼過ぎにその施設から電話がかかってきた。
 また昼飯のとき、父は大量に吐き戻したという。聞けば、出された食事はほとんど食べずに、ほんの数口、口つけたとたんに朝、うちで食べたもの?を、まったく消化していなかったのか、胃に残っていた分を全部吐き戻してしまったようだ。
 今、横になって安静にしているという。
 今まで、吐いたとしても食事ごと二回続いたことは一度もなく、正直、まいったなあという思いしか浮かばない。どうしたものか。医者に連れて行くべきか? 熱はないので様子見ているが、何かまた異変が起きたらばすぐ連絡するとのことであった。

 けっきょくその日は、携帯電話を手に、いつまた連絡があるかとやきもきした。やるべきことも何も手につかない。
 その施設で悪化して不測の事態になったとしてもこのコロナ禍中、急患で診察は受けられたとしてもおいそれとすぐに入院はできないだろう。
 となると、在宅で我がこの家でずっと介護していかねばならない。翌日の練習だけでなく、5月9日予定のコンサートも父が家にいたら我は行けなくなってしまう。そしたら開催も難しいかもと。あれこれ最悪の事態を想定した。

 その晩、施設からは連絡はなかったが、夕飯が終わった頃にこちらから父の居る施設に電話をかけた。
 父は午後ずっと横になっていたようだが、その日の夕飯は粥状にしてもらい何とか少しは食べられて吐き戻さずにすんだとのこと。ほっと安堵した。
 そして、一昨日3日の月曜夕方、父は無事に送り返され家に戻って来た。幸いにして体調は戻りいつも通りに過ごしていたとのことであった。
 ただ戻って来た父は、食べていないからか、体力は落ちてだいぶ衰弱は進んでいる感じはした。
 
 その晩は、軽めに食べさせて早めに父を寝かせた。
 そしてまた昨日4日、火曜日の朝、吐き戻さないよう細心の注意で、少しでも多く食べるように促して不安を抱えながらも別施設に父を送り出した。以後、何か異変を知らせる連絡はないのでともかく父は無事で吐き戻しはなく何とか食べられて生活はしているようだ。
 やっと我も、今回は大事に至らず「持ち直した」と思えてきた。まずそのことをここに報告しておく。
 ※このまま食べても吐き戻すようなことがまた続けば、さらに痩せ衰えて死期を待つだけとなる。今の医学では、そうした患者に対して、お腹に穴を開けて直接栄養ドリンクを胃に流し込む「いろう」という方法もあるのだが、それはまた処置も管理も格段に大変となるので、もしそうなれば父はこの家では面倒見きれなくなる。

 そしてこの間ずっと考えていたのは、昨今よく報じられているコロナ関連死と「老衰死」についてであった。
 そのことについてもう一回書いてみたいと思う。

さこ大介という希代のシンガーソングライターと同時代に生きている幸福2021年05月08日 10時07分55秒

★いよいよ明日5/9日、「共謀コンサート」!!

 J・ポップも含めて、日本のフォーク、ロックの音楽シーンを振り返ったとき、そこには何人かの天才的作詞作曲の才のあるシンガーが存在する。
 吉田たくろう、井上陽水、松任谷(荒井)由実、サザンオールスターズの桑田佳祐らがすぐに思い浮かぶが、彼らはその大衆的人気と共にヒット曲としての「名曲」を数々残している。※桑田の場合は、筒美京平的パクリの才だと我は思うが、さておき。
 自らが詞も曲も手掛け、そして自らが唄う。それを、シンガーソングライターと言う。つまるところソングライティングの才に秀でたシンガー、歌い手のことである。

 誰が言ったか、ビートルズやエルトン・ジョン、ポール・サイモンらを例に挙げるまでもなく、真に優れたシンガー、ミュージシャンとはまた優れたソングライターであるというのは至言だと我もまた思う。

 我は、上記の日本のシンガーソングライターを高く評価はするに異論はないが、そうした広く大衆的人気を除外して、純粋に真に優れた、天才的シンガーソングライターは誰かと考えたとき、まず筆頭に浮かぶのは、亡き西岡恭蔵、象さんのことで本当に彼は素晴らしい楽曲、名曲を数多く残した。
 先年、下北沢のラ・カーニャで、縁のミュージシャン、シンガーが集いて、彼の楽曲を唄う追悼的コンサートを観覧できたのだが、最初から最後まで、彼自身のうただけでフィナーレのアンコールも含め、ライブが「成立」することに驚かされた。
 それだけ素晴らしいうたを数多く残したということであり、まさに彼のソングライターの才を改めて確認させられた。
 だが、残念ながら彼はもうこの世にはいない。

 で、現存するシンガーで、そうした天才的シンガーソングライターは、誰かと考えたとき、我は迷うことなく「さこ大介」の名を挙げることに迷いはない。
 象さんもだが、優れたソングライターはまずその楽曲が他のミュージシャンに注目され、そのアーチストに唄われていく。
 象さんの葬儀の際だかに、矢沢永吉が現れ、分厚い札束の「香典」を遺族に手渡したと言う「伝説」を聞いたが、たとえ作者当人が世俗的人気や知名度はなくとも、ワカル人にはその才能、楽曲の素晴らしさはワカルわけで、恭蔵さんも矢沢他、多くのシンガーに彼の書いた楽曲は今も唄い継がれている。

 さこ大介、以下、畏れ多くも呼び捨てにはできないので、さこさん、と呼ぶが、彼も「還暦デビュー」として話題になったが、そもそも若い頃からアマチュアながらも素晴らしい楽曲を渋い喉でうたう凄い人がいる!! と関西の音楽シーンで話題になり、憂歌団が彼のつくったうたをレコードに入れたりと、一部で早くからその才は高く評価されていた。
 彼は、その正式デビューまでは、カタギの会社員としてスポーツ紙に勤めながら傍ら趣味としてその音楽にいそしみ、数々の名曲を生みだし機会をとらえては唄ってきた。
 あくまでもアマチュアとしての活動であったが、ワカル人は当然その才に括目して多くのシンガーにその名は早くから知られていた。

 定年後、ようやく本業のミュージシャンとして、本格的活動開始。CDも製作、販売、ジャズプレイヤー中心のバックバンド、大介バンドを率い精力的、全国的に活動し、大阪の春一番にも何回も登場し、その骨太のステージは伝説となっている。
 で、そんな彼と我は、いったいいつどこで知り合い、懇意な関係になったのか、それが何故か思い出せない。
 拙宅「無頼庵」での年末恒例イベント、「クリスマス謝恩ライブパーティ」にもみほこんと共に何回も来て頂いているのに、不思議でならない。

 さて、そんな彼ももはや七十代半ばかと思う。ブルースマンの定番、タバコと酒の不摂生と酔っぱらって何度も転んであちこち骨折して身体はボロボロ、ガタガタであるようだ。
 正直、どこそこのシンガーソング・ブック(翻訳)ライター、五郎氏のようにいつまでも若々しくお元気に全国を唄いまくっている方とは異なり、「渡度」が高い。※「渡度」とは外見老人度のこと。
 いつまでもお元気に唄い続けてほしいと心から願い望むが、先のことは誰にもわからない。
 むろん彼の遺していく素晴らしい楽曲はこれからも世に残り、多くのシンガーたちに愛唱されていくことは間違いない。
 だが、彼の人柄と高田渡に通ずる「語り」は、生で、その場でないと触れ合うことはできやしない。

 今回もこのコロナ禍の緊急事態宣言下、この企画は延期、もしくは中止すべきかずいぶん迷いもした。
 が、感染拡大状況も含めて、先のことはわからないからこそ、たとえ無観客でも彼のライブは開催できるうちに開催すべきだと思い決行することにした。
 希代のシンガーソングライター、さこ大介さんを観る機会はあとどのくらい我らにあるのだろうか。
 今、同じ時代を彼と共に生きている喜びをぜひ味わってもらいたい。真に天才とはこういう人なんだと。

無事「無観客」で終了。ご協力、ご支援有難うございました。2021年05月10日 06時19分16秒

★これでようやく「次」へ行ける

 昨夜の「無観客」イベントは、無事に終えられました。幸いにして「ほどほど」の関係者、冷やかしの人は来られましたが、無観客ながらも盛り上がり、このコロナ禍中、感染防止対策を徹底したうえでの「開催」、成功いたしました。
 改めて参加者、関係者のご支援、ご協力をこの場で心より感謝いたします。
 出られた方々個々について、詳細は割愛しますが、御大さこ大介大兄をメインにとても楽しい素晴らしい一夜となりました。
 
 今終えて一夜明けて、朝陽の中でこれを書き記している。
 充足感に満ちた、というのはオカシナ表現だが、一つの難事を成し終えて深い満足感に浸っている。
 この数日、父のこととイベントの準備もあってあまり寝てないのと、昨日はハツカネズミのように早朝から夜遅くまで一日動き回ったので、身体は鉛のように重く怠いが、気持ちだけはこの朝日のように爽やかだ。
 
 音楽家として人として我が心から敬愛する希代のシンガー、さこ大介さんを我の手がける企画にやっとお迎え出来、ソロながらもたっぷり唄って頂いた。
 無観客のため、ギャラなどはお車代程度しかお渡しできなかったが、幸いにして、CDなど物販はほぼ完売したとのことで、そのことも喜びに繋がっている。
 この終わりの見えないコロナ危機、多くのシンガー、ミュージシャンが活動の場を失い、今苦境に喘いでる。
 その苦難の時だからこそ、支援と言うのはおこがましいが、力になれることはないかと考えたとき、つまるところ我が出来ることはいつも通りにライブの場を設けることしかない。

 今、新・新型ウイルスの感染爆発の最中、ガースや女帝都知事の「要請」と言う名の「強制」に従い、ただただじっと出かけずに誰もが各自の家の中で、感染拡大が収まり終息しまた元の日常が戻るまで大人しく「自粛」すべきなのかもしれないと思い迷った。
 が、それでは経済もだが、全てが回っていかない。人の流れ、交流や関係を止めてしまえば、文化も芸術もそれ以前に人間社会、その関係そのものが崩壊してしまう。
 特に「音楽」は、一方的に流れる川の流れのようなものではなく、演者と聴き手双方との「交流」のものだから、ライブ配信だけではなく、まずそこに人的な集う場がなくてはならない。
 その場が今「禁止」されてしまっているからこそ、あえてつくるべきだと考えた。

 今オリンピックを筆頭に、スポーツ関連イベントは容認されて、自粛するどころかしきりにマスメディアで喧伝されている。一方、音楽イベントや文化・芸術施設、人々の交流の場である居酒屋などの飲食店は休止、休業を余儀なくされている。
 何度でも繰り返し出される「緊急事態宣言」下、出口の見えない状況だから、まさに仕方なく、それにしても打てる対策はそんなものしかないのかと憤るが、あまりにも不合理、不平等であり、場当たり思いつきではないか。
 このままでは美術館、映画館も含めた文化、芸能、大衆娯楽施設は消えてしまう。コロナウイルスが真に収束したとき、人類が有史以来築き挙げてきた「人間社会」はそこには存在していない。
 スポーツも文化の一つだと思うけれど、芸能文化というもののすそ野はもっと広く大きい。
 コロナはこれからも続く。おいそれと人類は打ち勝つことはできやしない。
 ならばこそ、アフターコロナではなく、ウイズコロナとして、このコロナ禍の中で、出来る活動を維持、継続していくしかない。

 先が見えないからこそ、いったん火を消すのではなく、ほそぼそとでもその火を灯し続けていくことだ。
 我はその聖火ランナーにはなれないが、その火を人から人へと繋ぐきっかけ、仕組みは考えられるし「その場」の手配もできよう。
 昨日も来られた方々の間で新たな出会いと交流が多々あったようだ。何が嬉しいと言って、そもそもこの我がその「場」を設けなければそうした「出会い」はなかったわけで、まさに企画側冥利に尽きよう。

 余談だが、昨日のさこさん、久々のライブにも関わらず、声も良く出、自在な語りも健在、全開でともかく安心した。その健在ぶりを確認できただけでも嬉しかったが、個人的なことだが、その彼から、我らが創ったうた『二人恋はアフターコロナ』は高得点を付けて頂いた。
 誰だって人から褒められれば嬉しくないわけはないが、我にとって歌の師、音楽の師匠であり、心から尊敬し憧れている天才シンガーソングライターに認められてこそ、との思いがあり、自らの自信とこれからの糧となったことをここに記しておく。ほんとうに嬉しい!!

 ともかく無事「三密回避」のうえで「盛況」となって本当に良かった。
 これを終えてやっと次へと行ける。
 タイヘンだったけれどやるべきことを一つ成し終えた。いまは何の不安も悔いも心にかかることもない。

 さあ、次へ行こう。我には素晴らしい音楽の仲間たちと傍らには音楽の神が常にいる。
 若き日の南沙織のうたの一節ではないが、「私はいま、生きている」。

♪コロナは続くよ いつまでも 【歌詞】2021年05月11日 12時38分29秒

★コロナは続くよ どこまでも  ※線路は続くよ のメロディで
                         keyG ※いやいやそうに

コロナは続くよ どこまでも 野をこえ 山こえ 国こえて
世界のどこでも 僕たちに 新しい日常を押しつける
三密を避けよう 三密を避けよう 人との距離はとろう
密室は避けよう 密集はやめよう 密接になるのはよそう 

コロナの時代は 便利だな 仕事も 買い物も 出かけずに
何から何まで オンラインで 新しい日常は引きこもり
オンラインでやってこう オンラインでやってこう
面接から葬式まで オンラインで
オンラインですまそう オンラインですまそう 
ライブから飲み会までオンラインで

百合子やガースは気楽だな お酒を出す店は営業するなと
街の明かりも消せと 電車も減らせと
コロナ対策は 場あたり思いつき
オリンピックは開催する オリンピックは中止しない
感染者がどれほど増えようと
オリンピックは金のため オリンピックは金のため
コロナで死ぬ人が増えようと
コロナは続くよ いつまでも

共謀コンサート、次回は、7月18日、『反・五輪で共謀』オープンマイク2021年05月13日 22時40分47秒

★どなたでも参加・共謀できます~東京オリンピック中止を求めて

 先だっての5/9日の、さこ大介御大を迎えての共謀コンサートは無事に無観客ながらも盛況のうちに終わりました。
 改めてご来場の方々、ご支援・ご協力の方々に熱く御礼申し上げます。

 で、次回の「季刊・共謀コンサート」は、このコロナ禍でも安倍自公政権とIOCらに無理強行される、今夏の東京オリンピックに異議申し立てとして誰でも参加できるよう、いつもとは趣を変えて、全てオープンマイク形式で開催いたします。
 7月18日の日曜日です。
 近づく東京五輪に対して開催反対のみならず開催希望や延期も含め、様々なご意見、お考えをお持ちの方は、どなたでもうたや演奏に限らずご参加可能として企画・開催する予定です。
 むろん、五輪が中止となった場合は、菅政権に対して糾弾・打倒等、ご意見の場として開催したいと思います。

 基本的に、誰でも自由にご参加できます。ただし一人の持ち時間は、20分~30分弱としますので、出られる方の定数も設けますので、参加希望者はお早めにかけこみ亭、もしくは私マスダまで連絡・申し込み願います。

近況とこれからのこと等々2021年05月22日 23時51分14秒

★とりあえず眼前の危機は乗り越えられたか~まだ何とか生きている。

 このところ、一週間もずっと雨もよいの日が続いている。
 まだ関東は梅雨に入っていないはずなのだが、しとしとと弱い雨が断続的に降ったりで、時に蒸し暑く、ときに肌寒く、気持ちも天気同様スッキリしない。
 暑い日は夏日になるほど暑くなって、朝晩との寒暖差も大きく身体がまだ対応できていない。
 不順で安定しない天候も関係してか、我の寒暖差アレルギーもだが、高齢の父はこのところ体調崩してどうしたものか対応に追われていた。
 が、幸い何とかまた今朝から介護施設に送り出せて、向うから特に連絡もないのでやっと今は一安心、安堵の気持ちで久々にブログに向かっている。
 今さらだが、今月、このところの近況も含めて、「これから」のことなど書き記していきたい。

 コロナ禍など関係なく、相変わらず多事多難の人生は続いている。
 まずは、我が父のことだ。
 年寄りは、自ら体温調整が難しいと言われるが、気温が高い日は、体温が常時37℃台前後となって、なかなか下がらない。
 軽い熱中症気味となって身体もほてり、このところの父は何か怠そうである。が、何とか冷房入れて対処するとして、それよりも問題は、飲食時の吞み込みがさらに悪くなったことだ。

 食べ物を口に運ぶ都度、ゴホゴホと咳き込み、ときに喉に詰まったからか突然吐き戻してしまう。そんなことが続いている。
 自らに任せていると苦しい故食べなくなるから、ますます痩せていく。仕方なく我が傍らに付いて、飲み物と食べ物を咽ないよう交互に食べさせなくてはならない。一回の食事に、食べさせるだけで一時間はとられる。
 若い頃からの健啖家で、老いて来ても彼の弟や妹たちも呆れ果てるほど食べられた人だった。昔で言う、六尺男、約180㎝近くもあり、一時期は体重も80キロ近くあった。
 が、加齢とともにしだいに痩せ衰え、10年前の大腿骨の粉砕骨折以降、歩行が難しくなったこともあって、この数年は、常時60キロ前後で推移していた。
 しかし、先月から吐き戻すことも多かったからか、一気に体重が落ちて、今月の施設内での計測では、55キロとのことで、いよいよ゜危険水域」に入って来た感がある。
 着替えさせるとき裸にするとまさに骨と皮で、頬もこけてきて体脂肪はほとんどないと思える。
 そして食事中もだが、朝起きてもやたらうとうと眠ることが多くなった。
 やがてこのままひたすら眠り続けてそのまま逝くのであろうか。

 このところメディアでは、かなり高齢の、百歳近くの著名人の訃報が続いているが、そのどれも「老衰死」であり、特に大きな進行性の病がなければ、おそらく誰もが我が父のように、百歳前後までともかく生きながらえて緩やかに死んで行くのであろう。
 我が母のように頭はしっかりしていて、癌などの進行性の病で死期を迎えるという死は耐え難いが、父のように何もかもできなくなって何もかもわからなくなって「なし崩し的」に死んで行くのもいかがなものかと思える。
 むろん迫りくる死の恐怖、死の受容は、当人は何も感じないのだから心身共に苦痛もなく、ある意味、理想的な死に方であるのは間違いない。何もわからない、なにも感じないということは。
 楽なのは、老衰死であることは当然だが、死は、当人自らの問題として、意識してきちんと向き合いたいし、周囲の人たちにとっても「そのとき」は、しっかりと迎えたいのではないかと我は思うのだが・・・

 ともかく、我が父もこのまま咽て食べられないから食べなくても仕方ないと、ほったらかしにしてしまえば、さらに体重は落ちて衰弱していくわけだから、介護施設に任せるだけでなく帰宅時には、息子である我が親身になってできるだけ多く、しっかり食べさせないとならない。
 常に吐き戻さないよう注意しつつ、許容最大量まで食べさせるというのは、かなり神経を使うが、その行為こそが父を一日でも長く生かせることに繋がるわけで、やっていくしかない。
 やがて本当に口からは食べられなくなって、こんこんと眠り綴けるときも間もないと感じている。また、転倒してまた骨折してそのまま二度と我が家に戻れない可能性も高い。
 いずれにせよ、近づく終わりの日、その日まで、一日一日、我は誠実に生きていこうと決めた。あと何日あるかとか考えない。ともかくその日が無事終わってまた明日が来ることを待ち望むだけだ。
 父のことはまた何かあれば書き記していく。

やっと晴れた!!2021年05月23日 09時44分23秒

★洗濯も含めて、できるときに、できることをやっていこう!!

 「近況の続き」、自分のことを書く。
 このところやたら雨や曇りの日が多く、からっと朝から晴れる日はめったにない。
 今日、23日は幸いようやく明るく晴れて久々の五月晴れである。
 拙ブログ、途中まで書きかけて、溜まった汚れもの洗濯し干して、猫たちのトイレの砂箱干して取り替えたり、自分の布団も干したりと朝からいくつかの「けんあん」のことを昼過ぎまでかかってやっと終わらせた。

 遅い朝昼兼用の食事を終えて、午後は窓を開けて取り込んだほかほかの布団で短時間だが昼寝をした。
 夕刻、起きたら携帯に着信があり、誰だか表示は出てなかったのだが、ショートメールも届いていて、我が山梨の倉庫兼古民家のお隣の家の方からだと判明した。
 その短いメールでは先日の雨で、ウチの庭先のケヤキの枝がその家の雨樋や瓦に落ちて壊して大工を呼んで修理をしたことと、だからできるだけ早く伸びて徒長したその樹の枝を切ってくれと強い「要請」が記してあった。
 慌てて電話をかけて、ともかく詫びて、近く緊急事態宣言が介助されたら出向くこと、そして少しづつでもケヤキの枝下ろしはしていくことを伝えた。
 向うは、個人では切るのはタイヘンで難しいだろうし、職人を紹介して手配もしようかと提案されたが、いまはとてもそんな金銭的余裕もないので、ともかく近く行けて直接会った時にまた相談することでひとまず話はついた。※他府県との往来は「自粛」しろとの「緊急事態宣言」中で助かったと思った。

 田舎暮らしというのは、自然の中で誰にも会わずゆったりのんびりできると思われるだろうが、じっさいは大違いで、まずはご近所さまとの付き合いこそが何よりタイヘンなのである。ともかく気を使う。
 そもそも人より猿や鹿の姿が多い限界集落の山里だから、ご近所に存在する人間は、このお隣さんしかいない。道を挟んだ向かいに一人暮らしの老婆がいたはずだが、このところは入院されたか行ってもその家は窓も開かず夜も明かりもついていない。
 ともかくご近所の人間はこの段差ある坂道のすぐ下の隣一家だけで、もしウチの古民家に泥棒や火災、風水雪害など何かあったときなど知らせてくれるのはその隣家だけしかいない。大事に応対せねばならないのである。
 以前はそのケヤキや庭の植栽、大学時代の友人、「社員」氏を招いて同行して、二人で伸びた枝を切り落としていた。
 が、このコロナ騒動で、その友人は、今彼がいる茨城県笠間市から東京に来れなくなり、人手がなくなってしまった。
 むろん一人ても山梨へ行ったとき、少しでも伐採作業をしていけばよいのだが、いろいろあって冬の間は何カ月も行けず、今は、行けても高所作業でもあるため一人ではためらわれて、なかなか切る事ができなかったのだ。
 そしてとうとう見かねたお隣さんからお小言を頂いたという次第である。いや、以前から伸びた桐の木も落葉がひどく困る、何とかしろと言われていたのだった。やれやれである。

 コロナ禍も関係なく多事多難の人生は続く。しかしそのどれも全ては我の責任、自業自得なのである。
 家でもモノでも生き物でも何であれ、多くを抱えるということは、維持していくためにも責任が問われ求められる。当然それには金もかかるし労力もいる。モノゴトには常に苦労が伴う。

 実は・・・迂闊に書くべきか迷っていたのだが、我が失態によりまたも子猫が産まれてしまった。
 幸いにして、我が女友達が貰い手を捜すご協力してくれているので既に数匹は飼い主がみつかりそうだ。
 だが、まだ残ってはいる。何とか貰い手を捜していかねばならない。 だが、保護団体とかにご連絡は無用なので当ブログ内だけで内密にお願いしたい。

起きていることにきちんと向き合い、すべてを受け容れていく2021年05月29日 22時38分26秒

★我が「緊急事態宣言」もこれからも続く。
 
 ロス・マクドナルドのハードボイルド小説のタイトルに、『トラブルは我が影法師』というのがあったと記憶するが、まさにこの我が身も生涯多事多難は付きまとうようだ。
 世間は、またまたコロナ感染状況下の「緊急事態宣言」が再延長となったようだが、その是非も含めて思うところは多々あるが、我の人生の「緊急事態」は、思えば、母が死んでからずっと、間もなくこの5年、「発出中」というか、その状況は続いている。
 父の容態もだが、一難去ってまた一難という言葉の通り、相変わらず綱渡りというか、薄氷を踏み歩くような日々が続いている。今日また新たにまた一つ面倒な事態が起きてしまった。
 幸いまだ谷底や水中に転落ということに至らず我は何とか生きているのでこうしてブログで現況を報告できるわけで、まずそのことだけでも有難いことだと思える。
 若き日にラジオで聴いたレオン・ラッセルの曲「タイトロープ」とニール・ヤングの「ヘルプレス」が頭の中で何度もリピートしている。そう、綱渡りの出口なしである。
 が、ともかく生きて行かねばならない。こうしてブログ書けるだけでもまだ状況は良好だと思いたい。