これからのこと2021年08月04日 11時32分27秒

★暑さ厳しき中で考えたことなど

 結局のところ、何においても何が善だとか悪だとか、これは正義で、あれは悪だとかカンタンに即断できないししてはならないのではないか。
 起こることにはすべて時と意味があるとするならば、今起きている、ひどいことも存外悪いことと決めつけなくてもよいように思えてきた。

 長年使い続けてきたパソコンが壊れて、先週末、日通の引取りサービスで、製造メーカーである東芝の修理工場?へもっていってもらった。
 現在、週明け本日火曜の段階では、まだ何も連絡ないが、自分としては中のデータだけでも一部でも取り戻せたら御の字で、処置なしとして返されてもそれはそれで仕方ないと覚悟も決めている。
 今、新しい富士通のパソコンで、このブログ再開しつつ今日は、新しいプリンタもAmazonで注文した。

 旧い、これまで使っていたプリンターは別に一緒に壊れたわけではないが、そちらもかなり年季が入り、近年だましだまし何とか無事に使い続けてきたもので、壊れたパソコンが直って戻ればともかく、新しいパソコンに繋いで再設定できたとしてもこの先何年も使えるわけもなく、やはりこの際、もう一台新規に誂えたほうが良いと考え決めた。
 先に不安があるのならば何につけても先手先手で手を打って備えておくべきなのである。悪しき不慮の事態が起きてから、慌てて新しいプリンタを手配しても遅いわけで、どうせ修理もきかない、買い直すしかないものは、早めにそのときに備えておけ、である。
 我はバカだけど、やっとこのところそうしたことに気がついた。

 そう、これまではいつだって、どんなことでもうすうすそうした不測の事態が起こることを予測、予感しつつも、つい面倒だからと即対応せず、早く何とかせねばと繰り返し思いつつ、事態を横目に眺めては放擲してきた。
 実は今回も壊れたパソコンは、一か月ぐらい前から、ピーという小さな異音がしてきて、何となく気にはなっていた。が、まだすぐには壊れないだろう、と新しいパソコンに全面的に作業移転、データを移すとかは、「そのうちに」しなくてはと先延ばしにしていた。
 そして今夏ついにある日突然完全にいかれて、今もまだ事後の対応に追われ、新しい体制がつくれていない。まずは新しいプリンターを繋いで、外付けハードディスクもセットして、画像や映像、録音したものなど容量をくうものは、本体のパソコンではなくそちらに最初から入れていくようにして作業体制を一から再構築していくことからだ。
 若い時から我はいつも同じことを繰り返している。尻に火が付かないと何事も動き出さないのである。にっちもさっちもいかない状況が起きて、大慌てで仕方なくやっと腰を上げる。

 ならば今回の件も起こるべくして起きたことであり、ある意味、「今」起きたほうが、この先いつか起こることならば、逆に今この時で良かったことかもしれない。
 今はまだ父が存命中で手元にいくらか金があるし、我を取り巻くこの世界もトコトン最悪の危機的状況になっていない。何であれ金さえ出せば家まで居ながらにして何でもすぐ手に入れられる。
 コンサートなどのチラシやパンフ作成など、これまで使用してきたワードなどのデータは失われてしまい、すべてまた一から再設定なり新たにまた作り直すことを思うと気が重いが、今また心機一転、気持ち新たにやっていこうと思う。何であれ、かつてできたことをもう一回やるのは、ゼロからのスタートではないのだから。

 実はこのところずっとひたすら思っていたことがある。
 それは、「すべてをなくそう、終わりにしよう!」ということで、近年モノが増えすぎて、何一つ片付かず手に負えなくなってしまい、我が家はゴミ屋敷と化し、猫も増え続けて何もかも行き詰まり、どうしようもできなくなってしまった。
 すべては自分が何につけてもネグレクトしてしまい、結果起こるべくして起きた、自らが招いた事態だったわけだが、その破滅的状況に対して、自分ではもういいかげんうんざりして「もう全てをなくそう、(いったん)終わりにしよう」とひたすら強く願い、神に何とかしてくださいと祈ってきていた。
 が、状況はほとんど好転せず、生きていく限り、多少は片付けは進んだとしても日々またヘラクレスの牛小屋の掃除のごとく新たに物は増え続けて事態は一気に動き出さなかった。
 そして、先のコンサートを終えた翌日、突然パソコンは壊れて、嫌でも新な状況へ我は導かれたのだ。そう、ある意味、我の願いが叶ってきたのである。

 旧いパソコン内の録り溜めてきた積年のデータがすべてなくなってしまうのは本意ではないが、それもこれも起こるべくして起きたことで、悔やみ残念に思うものの、それもその程度のものだったのだと思い諦めるしかない。
 我がまた生きていれば、過去はともかく新たにまた得たり体験することも多々あろうし、砂の城ならば、またもう一度、今度は波がまず来ない場所に築き直せばよいだけの話だ。
 そう生きていればまたそれはできる。モノは失われてもかつてあったものは記憶をもとに新しく書き残すことはできる。そしてまたそれを「発信」もできる。
 そしてネットの世界では、「過去」は消えない、消せないのならば、我は消えても書き遺したものは、モノ好きな誰かがきっといつかは読んでくれるだろう。

 すべてをなくそう、終わりにしよう、とずっと念仏のように唱えてきた。自ら望まなくとも自分ではできなくてもそれは嫌でも自然にそうなっていく。そうか、やっとわかった。
 だからこそ主体的に、この人生が終わる前に、少しでもそれをきちんと進めていこう。幕は自らが下ろしたい。

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