新しい年となりました。2022年01月02日 20時34分43秒

★皆さま2022年もどうかよろしくお付き合いください。

 今日は、1月2日。正月三が日の二日目である。が、ウチにはまだ正月は来ていない。
 例年だと、介護施設に預かってもらってる父が帰宅するのは、元旦の夕刻、もしくは二日目なのだが(たいてい大晦日に我は、かけこみ亭とかで一晩明かすので、落ち着いて正月をこの家で迎えるのは早くても二日目からとなる)、今年はまだ彼は帰ってきていない。
 明日の夕方、我が施設に車で迎えに行き、やっとそれからこの家の正月は始まる。
 例年だと父の在宅に合わせて、いま東京で仕事している、我が妹の長男、つまり甥っ子もウチに来るのだが、今年はコロナのこともあって「自粛」してもらった。彼とは、去年の正月に来てから会っていない。
 いまは、コロナは変異ウィルスがまた増殖し始めているとはいえ、緊急事態宣言のような状況ではないのだから、来ても問題はないのだが、我の問題として、ウチがどこもかしこもゴミ屋敷と化してしまったことと、コタツも何も暖房が何もないため、その設置がし終えるまでとても人を呼べる状態ではなかったからだ。彼が来ても落ち着いて座る場所がない。

 我が家の暖房として、亡きのみ亭のやっちゃんのところから貰ってきた電気カーペットは昨年ついに壊れてしまい、今年の冬は、新たにまた同様の電気カーペットを早々と購入して、それを敷いてテーブルに布団かけて昨年同様コタツ代わりにしようと考えていたのだが、先日、まだ二か月?も経たないのにある朝、突然通電しなくなった。
 きちんと保証書や販売証明書を保管しておけば良かったのだが、それも見つからず交換もできず、高い買い物ではないが、また新たに買い直すのも気が進まず、けっきょくまた畳を上げて、元から設置されている掘りごたつを今年は使おうと考えている。※掘りコタツは火事が怖くて一昨年かその前年から畳で塞いでしまったのだ。何しろ父はそのコタツの中に、ヒーターの上にもティシュペーパーとか落とすので、ボヤ騒ぎとなるところだった。
 だが、そのためには居間を片付け、再設置をせねばならず、暮れから少しづつやっているのだが、まだ設置に至っていない。
 そんなで、父の介護施設でのお泊りを暮れから延泊してもらい、今晩も必死でその道筋をつくろうと片付け進めている。父は明日の夕刻には戻ってくる。
 父が帰ってきて、掘りごたつが完成してやっと拙宅の正月は始まる。

 それにしても昨年はともかく忙しかった。例年年賀状は、父の分も含めて自分のも自作してとりあえず届いた方には、返送していたのだが、昨年は、何故か年明けから慌ただしく、早く年賀状を出さねばと思いつつ、時間が過ぎて結局一枚も返せなかった。
 そして前回書いたように、次々とトラブルというか予期せぬ出来事が起こり、その処理と対応に追われてあたふたしているうちに慌ただしく一年が過ぎたのだった。
 今年こそは、まず年賀状を返すことから、と思っているのだが、まだコタツさえ設置できていないのだから、早くも先行き暗澹たる気がしてくる。
 じっさい、昨日元旦の夜から、療養中のしんのすけでない別の猫が体調崩して急に歩けなくなり、この正月休みの間は、動物病院もやっていないのでどうしたものかと頭悩ましていた。
 前回、これ以上猫たちに金かけるような事態は起こらないでほしいと神に願ったばかりなのに、さっそく年明け早々また新たな事態が起きたようだ。※神は我にとことん試練を与えるつもりのようだ。

 考えてみれば、カレンダーは年が変わり、12月から1月へ、また新たな年へと一から全てがリセットされたわけでも、じっさいのところ、懸案の事態は何一つ解決したわけではない。
 父の部屋の壊れた?エアコン問題もどうしたら良いか何も解決していないし、その他、昨年来から抱えているいくつもの課題、問題もまったくそのままである。
 しかし、日々あたふたしながらもともかく生きていれば、まだ生きていければ、この「季節」も過ぎて、やがては近く春に、良い季節となるわけで、父がどこまで生きられるか、生かせるかは神のみぞ知ることだから、我はともかくただ彼とこの家のために、できること、すべきことに真剣に向き合い、必死にやっていくだけだ。
 先のことはもう悩まない。これからも多事多難は常に続くだろう。これが我が人生なのだ。そう覚悟して、何であれもう逃げずに、後回しにせずにやっていくだけだ。

 そんな我にも夢と希望がある。いま、孤独や困窮に悩み苦しんでいる方も多いかもしれない。一人で悩まないで、とメディアは呼び掛けるが、じっさいのところとことん一人で、何の出口も道筋も見いだせずただ孤独のうちに呆然自失で立ちすくんでいる人も多いだろう。
 我もまた同じところにいる者として、本当に切迫しためちゃくちゃな人生に陥ってしまった者として、その人たちにエールを送りたい。
 答えも出口も解決策も何も見えなくても、まだあきらめるのは早い、このトンネルの先には、きっと出口は見えてくる、我らを生み作った神は我らを見捨てない、そう信じてこの「地獄」を「地獄」として迎え入れていく。
 そう、人はいやでも必ず死ぬのだから、ならば自ら急ぐ必要はないのだから、どんな事態も全てを受け容れて「生きて」いくしかない。
 人生は甘いものではない。ほぼ常に苦く苦しいものだと覚悟して、だからこそごくたまに恵みの甘露の雨に遭えば、その喜びはまた格別、格段のものであろう。
 人生には損も得もない。いま、苦しんでいる人にはやがて癒しの善きときが、いま、喜びと至福のうちにある人には、やがては地獄のときが訪れるだろう。
 思えば、我もいま、そのかつての満たされた幸福の償い、後始末をしているのかもしれない。ならば、それもまた良しとするしかない。
 語弊はあるが、はっきり書く。起こることはすべて神の愛、神の計らいなのだから。人はただそれを受け容れていくしかない。

夢と希望の灯は絶やさずに2022年01月05日 09時41分33秒

★絶望こそが死に至る道だからこそ

 新年も三が日が過ぎ、早や5日となった。
 何から書くべきか迷うが、新年早々これから毎日(猫の)病院通いが続くことになった。いやはや、情けないことに今年もまた波乱と試練の幕開けである。※詳しいことは後で記す。

 何で、だ!? とか、当然憂鬱気分にもなったが、いまは、気を取り直してまずは今できることにきちんと向き合っていこうと思う。
 そう、神から差し出される盃は苦くとも感謝の気持ちを込めて飲み干すしかない。

 昔、子供の頃、東京ぼん太という芸人がいた。ご存じの方はもうかなり年配の人だと思う。
 今から思うと、何であんなに人気が一時期でもあったのか、不思議に思うが、トレードマークの唐草模様の風呂敷を首から下げて、訛りある栃木弁で、「夢もチボー(希望)もないね」とギャグ?を口にするだけで観客には大受けした。
 漫談家というのか、大した芸は何か一つでもあったのか思い出せない。ただ、彼が主演の「いなかっぺ」シリーズなどいくつも映画があるのだから、その人気は一時期確かにすごかったのは間違いない。
 要するに風呂敷包み一つで上京してきた田舎者キャラで売り出した人で、晩年の不遇や最後に見たステージのことなど我にとって忘れがたい芸人さんの一人だ。ちなみにいま、芸風として今一番近いのは、同じ栃木弁のつぶやきシロー氏ではなかろうか。

 このところ、彼の口癖というのか、一発ギャグである「夢とチボー」ならぬ夢と希望についてよく考えている。
 人はどんな苦難のときにおいても、夢と希望は絶対に失ってはならないのだと思う。このところ自らに言い聞かせている。萎え挫けそうな弱い心に。
 
 芸人ではないが、やはり忘れがたき才人、バラエティ番組の巨魁大橋巨泉氏も晩年は大病を繰り返しやせ衰えて先年亡くなられた。いま、手元に資料がないので詳しいことはわからないが、死に至る一番の原因は、かかった医師の心無い言葉だったと奥様が繰り返しあちこちで語り書き記していたと記憶する。
 彼自身は、がんばってその病を手術だか治療法で克服しようと思っていたのに、その医師はもう処置なしだとか手遅れでどうしようもない、というようなことを彼に伝えたため、巨泉氏はみるみる意気消沈してしまい生きる気力をなくして死んでしまったと奥さんは憤っていた。

 医者というのは、患者に事実や状態・状況をきちんとリアルに伝えることも大切だとは思うが、何より患者側の立場に立ち、生きる意欲を盛り立てるように接するべきではなかろうか。※医師は死に慣れてしまい鈍感だから、平気でそういうことを言う人も多々いる。
 無理して嘘をつけとは言わないが、患者に夢と希望を与える、励ましの言葉はあるはずで、巨泉氏にもそうした言葉が届けば、その病気は治らずともあと数年は生きながらえていたはずだと我は思う。
 絶望こそ死に至る病だと今も昔も古今の哲人は記している。

 先のことを新年早々つい考えてしまうと、父のことも猫のこともこの家のことも暗澹な気分になってくるが、いったいどうしたものか、どうなるのかと先行きをあれこれ不安に思い煩うよりもある程度のスパンで成すべき目標・課題を立てて、その日ごとの課題を一つ一つ片づけていく。
 悩むよりも考えること、そして行動することだと三輪さんも語っているではないか。
 実はあれこれあって掘りごたつの再設置はまだできていなく、父はそれもあって昨夜から一日早く温かい介護施設にお泊りに行ってもらった。
 戻るのは、金曜の夕方だから、それまでにコタツ設置終えておく。
 それと、父と我の年賀状も今年こそは遅ればせながら届いた分の返信として作るつもりでいる。

 これから動物病院に三本足の猫、キジ子を連れて行く。残っていた脚に障害が出てきて、歩けなくなってしまったのだ。無理して一本足で動き回っていたため、付け根の関節がボロボロだとレントゲンの画像示された。
 治療法などはないのか今まだはっきりしていないが、ともかく気休めに朝晩サプリメントを飲ませて、一日一回患部にレーザーを照射することになった。
 泣きたいような気分にもなるが、新年に涙はふさわしくない。ともかくできることを日々やっていくだけだ。

年賀状に思う~まだ生きているということ2022年01月11日 16時59分45秒

★本日(笑)やっと年賀状の返信書いて投函した。

 年明けからともかく今年も忙しくてまさに目が回り、メマイがしてすっ転んだりするような日々が続いている。
 連日、動けなくなった三本足のキジ子の通院もあって、父不在の日でも朝から猫や犬たちの世話や様々な家の雑事に追われて新年早くも疲れ果ててきた。おまけに雪降ったり今日は朝から雨と天気にも振り回されている。

 三が日どころか松の内も過ぎて、やっと昨日の成人日に我と父の分の二種、今年の年賀状を凝らずに拵えて印刷まで終わった。
 が、書くところまではとても進まず、父はまた介護施設にお泊りに今朝方行かせて、今日の夕方、今さっき何とか我に届いた分だけは返信として書き終えたところだ。その数9枚。
 昨年は来た枚数はもう少し多かったかと思うが、昨年もやはり年明けから慌ただしくて早く年賀状つくって送り返さねばと焦りつつ時がどんどん過ぎてしまい、年賀状自体は暮れに早くから買っておいたのに、けっきょく一枚も出さずに我も父も不義理してしまったのだ。それもあって去年は来たのに今年は来ない方もいる。
 今年もかなり遅くなって、どうしたものかと焦ったが、ごく凝らずに写真だけ付けて、ともかく完成させることができた。

 実際のところ、版下つくるための作業時間なんて2時間もかからない。印刷には細かい手間暇が少しかかるが、枚数自体も少ないのだからちっとも大変な難事ではない。だが、昨年も今年も苦労するのはそのための時間がとれないことで、パソコンとプリンタに腰据えて向き合う時間そのものがたかが数時間でも作れないのである。
よってブログもまた間が空いてしまっている。書きたいことも多々あるのに、そのための時間的余裕、いや精神的余裕が作れないでいる。
 父がいるときなどは、正直、ブログや日記を記すよりも一分でも長く眠っていたい。情けないが御身大事で今年も無理せずやっていきたいと思う。

 それと、年賀状という日本独自の風習、しきたりなのだが、我はそれはそれである世代にとってはとても価値ある、意味深い「行事」だと考えている。
 むろん今の若者中心に、SNSなどでごくカンタンに友人知人と年中いつでもショートメールやフェイスブック上で、いいね!も含めて常時やりとりしている人には、慌ただしい年末年始時にわざわざ紙のハガキに「お年賀」の言葉を記し、郵送で相手方に送ったり返したりするのはまったく無意味かつ無駄な行為だと思う。

年賀状に思う~まだ生きているということ・続き2022年01月12日 12時03分53秒

★年賀状はある世代にとっては生きている知らせ・福音

父を今年一年、どこまで生かしておけるか2022年01月16日 21時06分52秒

★我の夢や希望はさておき

 年明け早々、いろいろ不測の事態が続いて、まさに多事多難な2022年の幕開けである。
 猫たちのことはまた後ほど報告するとして、死へのカウントダウンが始まった我が父のことを包み隠さず書かねばならない。
 一昨日、14日の金曜日のこと、その日は終日在宅の日であったが、夕方の昼寝のあと、晩飯を食べさせるため起こしたら、微熱があった。
 37,2度とかそんなもので、風邪などでの発熱というほどではない。念のために葛根湯を飲ませて、夕飯後には下がるだろうと軽く考えていた。
 が、その後も熱は下がることなく、8度超せば、解熱剤を呑まそうと思ったが、そこまでは上がらない。
 ただ、当人はぼうっとしていて、夕飯はまあまあ食べられたものの、さて、自室のベッドに寝かしつけようとしてもコタツから立ち上がれない。
 いつもなら自分で何とか立とうとして、こちらも手を貸して引っ張り上げるのだが、ぜんぜん動けない。
 仕方なく我が抱きかかえて元大男をうんしょと必死で持ち上げて、何とかトイレにまず連れて行ったが、その後もまたトイレから自ら歩いて出てこない。
 いつもは手すりに掴まってゆっくりでも自ら歩けるのに、その晩は出てくるどころかそこから動いてくれない。また手を引いてともかくベッドのある自室の前まで連れてきて、紙おむつや着替えを用意するため、玄関わきのその部屋の前で待つよう立たせていたら、どしんと音がして倒れたようで、駆けつけたら玄関の土間に崩れ落ちるよう仰向けに倒れ込んでいた。
 抱き起こし土間から引き上げて立たせたが、どうやら倒れる前に少し吐いたようで、床や衣服を濡らしていた。
 それから

追悼・宮内鎮雄2022年01月17日 19時55分16秒

★友人から元TBSのアナウンサー、宮内さんの訃報が届いた。

 林美雄、小島一慶と並び民放ラジオの雄TBSの名物アナウンサーの最後の一人が亡くなられた。
 言葉もない。ただただ合掌。

苦難の時は過ぎ去りゆく2022年01月24日 11時41分14秒

★と、信じたい、願いたいが・・・

 先にも書いたが、今年は正月元旦から不測の事態が起きたり、年が明けても相変わらず我の多事多難状況は続いている。
 一難去ってまた一難、という言葉があるけれど、一難去ったらまた一難どころか、二難、三難とまた新たに面倒な事態が次々と起こる。
 まず何から書いたら良いものか、書きたいことや思うことは多々あるけれど、まず現況からカンタンに記していく。

 またブログ更新が空いたのは、そんなわけで超多忙だったこともあるけれど、実は、右手の中指が、細菌が入って炎症起こしてパンパンに腫れてしまい、痛くて痺れていてとても動かせず、キーボードが打てなかったのだ。

 数日前、20日の日だったと思うが、父が在宅のとき、彼の使っている部分入れ歯が不具合を起こして我が彼の口の中に手を入れて取り外そうとした。
 そしたらば、よく状況は思い出せないのだが、部分入れ歯の他の歯にひっかける針金状の金属のワイヤー、スプリングがへんな具合に飛び出していて、棘のように我の右手の中指に刺さってしまった。細さは一ミリもないだろう。
 慌てて抜いたものの、ごく小さい傷穴でも血が出て、念のためすぐさま水で洗い、いちおう消毒液はつけておいた。ごく小さい傷だから大したことはないと思った。
 ところがそれからが想定外で、翌日になったらその指が腫れてきて部位は、中指第一関節のすぐ下の穴なのに、その中指自体が他の指の1.5倍ほどにまで太くなってしまった。痛いだけでなく指先は痺れたような感じもする。むろんそんな状況だから曲げることもかなわない。
 我は、もともと迂闊な性格だから、細かい切り傷や擦り傷、猫たちによる引っかき傷などは日常茶飯事で、ふらついて転ぶことも含めて体中どこかしらか血が出てない日がない日がないほど小さな傷には慣れていた。多少その時は痛くても数日すればすぐに回復に向かう。
 だからこのままにしておいても数日すればじき収まるだろうと安易に考えていた。

 が、父の口内黴菌は強力なのか腫れは収まるどころか、さらに膨れてきた感じもするし、ともかく痛くて右手は使えず、中指1本動かないだけで、戸の開け閉めにも力が入らず、生活にも困難をきたす。つい親しい女友達にそのことをこぼした。
 そしたらば、破傷風から敗血症の怖れがあるし、感染症は怖いからともかくまず近くの病院に行って診てもらえと進言されて、またのこのコロナ感染拡大状況下、こんな程度のことで病院をわずらわすのは気乗りしなかったが、一昨日の土曜日の午前、近くのTS会が運営する大病院に行ってきた。
 予想通りコロナ患者向けの発熱外来などすごい人出だったものの、わりと待たされずに一時間そこらで診てもらえた。
 医師は、膿は出ていないから切開の必要はないだろうと、抗生物質の錠剤を一週間出してもらい、6日後にまた再診ということになった。

 というわけで、そのオーグメンチンという錠剤を朝晩ともかく二錠づつ飲み続けていたら、しだいに腫れも痛みも軽くなってきて、今もまだ右手は完全に握りしめることはできないものの、ほぼ普通に使えるようにはなってきた。
 たぶん、そのままにして自然治癒を期待していては、さらに長引いたかと思う。いや、今回のような悪化は初めてのことだから、もしかしたらこの小さな刺し傷が原因で命を落としていたかもしれない。
 改めて、ごく小さな傷でも黴菌が入ると事態は悪化することもあるのだと今回学び得た。まあ、我も体調悪く体力的にも落ちていたのかとも思うが。
 医者からもらった薬を日に三度、二錠づつ飲み続けて、ようやく腫れや痛みはひき、こうしてブログ再開に至ったしだい。
 自然治癒力を過信して、病院に行かないでいたらきっともっと長引いて事態は悪化していたことは間違いない。皆さまも小さな切り傷、刺し傷でも甘く見ないことをおススメしておく。

 それと・・・報告は遅くなったが、正月元旦から動けなくなっていた三本足の猫、「50万円猫」キジ子だが、レザー治療とサプリメントが効いたのか、何とかほぼ元通りに動けるようになった。
 一時期は、残っている脚の付け根、関節が痛むらしく、ベッドのうえでほとんど動けなくなっていて、触ってもギャーギャー鳴いて痛がっていたのだから、これは良いことに間違いない。何はともあれ回復してきて有難い。まあ、また数万円かかってきているが。
 で、今回の表題にあるように、苦難の時は過ぎ去りて、とか、過ぎ去りゆく、と書こうと考えていた。

 しかし、昨日の夕方、父の通っている介護施設の一つから着信があって、今朝方詳しく確認したところ、なんとコロナ患者がそこの利用者と職員から出てしまったので、当面二週間は閉鎖するから、利用はできないとのこと。
 ここは前回、第何波のときだか忘れたが、やはり職員に感染者が出て、利用できないこともあって二度目である。
 となると、父をその間、いったいどうしたものか。今通っている別施設は通常通りだとしても火曜から木曜、金曜まで三泊は、ずっと家にいることになってしまう。
 そうなると、我の体力は続かないし精神的にもストレスで限界となろう。
 まさに一難去ったとしてもまたまた次の災難がやってくるのである。

苦難のときは続くけれども2022年01月27日 14時57分34秒

★前回の追記

 けっきょく、父の介護施設利用の件は、もう1か所のほうに、コロナ感染で利用できなくなった日程の分も、極力振り替えてもらうように交渉して、まずは、2月の第1週は、ウチで面倒見ないでもすむように日程が組めた。
 しかし、今日は夕刻、いったん帰ってくるし、明日は、月一で医師による訪問診察やケアマネが来る日だから終日在宅の日で、明後日の29日、土曜日朝に送り出せたらやっと一息つけるという状況だ。
 じっさいのところ、日々感染者数増加記録更新中のオミクロン株感染拡大中のいま、もういつまたもう一つの施設も利用できなくなるか定かではなく、本当に薄氷を踏むような気持でただ収束を待つしかない。
 いろんな晩年は人それぞれあり、我もまさかこんな状況が起こって、その中で老いた父を看取ることになるとはまったく予想も想像もできなかった。
 長生きするとまさに良いことも悪いこともその分、次々あれこれ起こるのだと呆れかえりつつ感心している。
 今はもう、全ては神の計らいだとただどんなことでも受け容れていくしかない。手洗いも消毒もマスクもだが、ワクチンを何度も接種したとしても感染する人は感染するのである。そう、そのときはそのときなのだと。

中指の治療は終わりました2022年01月30日 09時17分50秒

★たかが手の指一本なれど

 昨日、土曜の午後、TS会病院に行って、1週間前に診察してもらった父の口内雑菌が入り腫れて痛かった右手中指の患部の再診を受けた。
 真面目に薬を日に3度飲み続けたこともあって、まだ何か違和感はあるものの痛みも腫れも引き、もうこれ以上薬は必要ないだろうとのことで、放免となった。
 自分でもだいぶ良くなってきたので、もう医者に診てもらわなくてもいいか、と思うところもあったが、予約日された日が父のいる日で行けなかったので、電話したらば29日の午後にされたのである。
 しかし、いちおう医師から治療終了と言われたので、気分としてはほっとしている。もう悪化することはないと思うが、まだよく曲げられないので、これからは自分でリハビリに努めなくてはならない。
 今回の1件で、いろいろ考えさせられた。

 そう、たかが指一本なのだが、されど指一本でも使えなくなるといろいろ支障きたすことを思い知った。
 我はもともとは左利きで、瓶の蓋開けなどでじっさいに力入るのは、左手なのだが、この世はほぼすべて右手仕様でできている世界だから、右手で箸を持ったり文字を書き、ギターも弦を押さえるのは左手に任せている。
 右手がうまく使えないと、まず戸の開け閉めにも力が入らないし、モノを持つこともだが何よりパソコンのキーボードを打つのも苦労する。
 それに増して痛みがあって腫れが収まらないのは、感染症や敗血症の疑いもあり憂鬱かつ不安であった。
 まだ拳を強く握ることはできないが、これから日々マッサージをし続けてゆっくり元に戻していこうと思う。

 また、こうも思う。これが左手だったらどうだったか。たぶんもうギターは弾けなく、いや、弾けないことから弾かなくなっていたのではないか。ギターは、右手よりも左手の指が大きく活躍する楽器だから。
 ならば、我にとってこの程度ですんだのは幸いだったと思いたい。やはり医学と薬の力は偉大だと気づかされた。本当に自分だけで治せたかどうか。

 それよりも今の新たな悩みは、父の通所介護である。
 通ってお泊りもお願いしている二カ所の介護施設のうち、一つがコロナ陽性者が出て閉鎖となってしまい、幸いもう一つのほうに、その分の日程を組み込んでもらえたのだが、そこも混み合っていて、今まで通りの日程では父を全面的に預けられない。
 閉鎖となっているところの日の分も振り分けられたのだが、諸事情でちまちま帰って来て、しかも送り迎えはこちらがしないとならなくなってしまった。
 一つのところに行ってお泊りもしているのだから、そこでずっとロングで預けられればこちらも気が楽で、のんびりもできるのに、そうもいかないというのが現状だ。

 来週も、明日月曜の夕方に帰宅して、翌日は日中は在宅、その日の夜、夕飯食べさせてから我がその施設に連れて行く。
 火水木と施設は預かってもらえるのだが、木曜の夜にまた帰宅し、金曜は終日在宅となる。土曜日の朝、また送り出す。
 閉鎖となっている施設がいつ再開されるのか、何の連絡もないし、2月の第二週もたぶん同じようなローテーションとなるかもしれない。
 まあ、それでも我らはコロナに感染したわけではないし、今通えている施設も現況ではいつ陽性者が出て利用できなくなる可能性も高いわけで、ともかくまだ父が介護施設に行けていることだけでも有難いと思わねばならない。面倒な事態は嫌でも向こうからやってくるのだから。

 すべてのことには終わりがあるし終わりが来る。先のことを憂うよりもともかく今をまず乗り切っていくことからだ。
 皆様もご自愛ください。心置きなく春の空気をマスク外して深呼吸できる日を待ち望みながら。