新しい年となりました。2022年01月02日 20時34分43秒

★皆さま2022年もどうかよろしくお付き合いください。

 今日は、1月2日。正月三が日の二日目である。が、ウチにはまだ正月は来ていない。
 例年だと、介護施設に預かってもらってる父が帰宅するのは、元旦の夕刻、もしくは二日目なのだが(たいてい大晦日に我は、かけこみ亭とかで一晩明かすので、落ち着いて正月をこの家で迎えるのは早くても二日目からとなる)、今年はまだ彼は帰ってきていない。
 明日の夕方、我が施設に車で迎えに行き、やっとそれからこの家の正月は始まる。
 例年だと父の在宅に合わせて、いま東京で仕事している、我が妹の長男、つまり甥っ子もウチに来るのだが、今年はコロナのこともあって「自粛」してもらった。彼とは、去年の正月に来てから会っていない。
 いまは、コロナは変異ウィルスがまた増殖し始めているとはいえ、緊急事態宣言のような状況ではないのだから、来ても問題はないのだが、我の問題として、ウチがどこもかしこもゴミ屋敷と化してしまったことと、コタツも何も暖房が何もないため、その設置がし終えるまでとても人を呼べる状態ではなかったからだ。彼が来ても落ち着いて座る場所がない。

 我が家の暖房として、亡きのみ亭のやっちゃんのところから貰ってきた電気カーペットは昨年ついに壊れてしまい、今年の冬は、新たにまた同様の電気カーペットを早々と購入して、それを敷いてテーブルに布団かけて昨年同様コタツ代わりにしようと考えていたのだが、先日、まだ二か月?も経たないのにある朝、突然通電しなくなった。
 きちんと保証書や販売証明書を保管しておけば良かったのだが、それも見つからず交換もできず、高い買い物ではないが、また新たに買い直すのも気が進まず、けっきょくまた畳を上げて、元から設置されている掘りごたつを今年は使おうと考えている。※掘りコタツは火事が怖くて一昨年かその前年から畳で塞いでしまったのだ。何しろ父はそのコタツの中に、ヒーターの上にもティシュペーパーとか落とすので、ボヤ騒ぎとなるところだった。
 だが、そのためには居間を片付け、再設置をせねばならず、暮れから少しづつやっているのだが、まだ設置に至っていない。
 そんなで、父の介護施設でのお泊りを暮れから延泊してもらい、今晩も必死でその道筋をつくろうと片付け進めている。父は明日の夕刻には戻ってくる。
 父が帰ってきて、掘りごたつが完成してやっと拙宅の正月は始まる。

 それにしても昨年はともかく忙しかった。例年年賀状は、父の分も含めて自分のも自作してとりあえず届いた方には、返送していたのだが、昨年は、何故か年明けから慌ただしく、早く年賀状を出さねばと思いつつ、時間が過ぎて結局一枚も返せなかった。
 そして前回書いたように、次々とトラブルというか予期せぬ出来事が起こり、その処理と対応に追われてあたふたしているうちに慌ただしく一年が過ぎたのだった。
 今年こそは、まず年賀状を返すことから、と思っているのだが、まだコタツさえ設置できていないのだから、早くも先行き暗澹たる気がしてくる。
 じっさい、昨日元旦の夜から、療養中のしんのすけでない別の猫が体調崩して急に歩けなくなり、この正月休みの間は、動物病院もやっていないのでどうしたものかと頭悩ましていた。
 前回、これ以上猫たちに金かけるような事態は起こらないでほしいと神に願ったばかりなのに、さっそく年明け早々また新たな事態が起きたようだ。※神は我にとことん試練を与えるつもりのようだ。

 考えてみれば、カレンダーは年が変わり、12月から1月へ、また新たな年へと一から全てがリセットされたわけでも、じっさいのところ、懸案の事態は何一つ解決したわけではない。
 父の部屋の壊れた?エアコン問題もどうしたら良いか何も解決していないし、その他、昨年来から抱えているいくつもの課題、問題もまったくそのままである。
 しかし、日々あたふたしながらもともかく生きていれば、まだ生きていければ、この「季節」も過ぎて、やがては近く春に、良い季節となるわけで、父がどこまで生きられるか、生かせるかは神のみぞ知ることだから、我はともかくただ彼とこの家のために、できること、すべきことに真剣に向き合い、必死にやっていくだけだ。
 先のことはもう悩まない。これからも多事多難は常に続くだろう。これが我が人生なのだ。そう覚悟して、何であれもう逃げずに、後回しにせずにやっていくだけだ。

 そんな我にも夢と希望がある。いま、孤独や困窮に悩み苦しんでいる方も多いかもしれない。一人で悩まないで、とメディアは呼び掛けるが、じっさいのところとことん一人で、何の出口も道筋も見いだせずただ孤独のうちに呆然自失で立ちすくんでいる人も多いだろう。
 我もまた同じところにいる者として、本当に切迫しためちゃくちゃな人生に陥ってしまった者として、その人たちにエールを送りたい。
 答えも出口も解決策も何も見えなくても、まだあきらめるのは早い、このトンネルの先には、きっと出口は見えてくる、我らを生み作った神は我らを見捨てない、そう信じてこの「地獄」を「地獄」として迎え入れていく。
 そう、人はいやでも必ず死ぬのだから、ならば自ら急ぐ必要はないのだから、どんな事態も全てを受け容れて「生きて」いくしかない。
 人生は甘いものではない。ほぼ常に苦く苦しいものだと覚悟して、だからこそごくたまに恵みの甘露の雨に遭えば、その喜びはまた格別、格段のものであろう。
 人生には損も得もない。いま、苦しんでいる人にはやがて癒しの善きときが、いま、喜びと至福のうちにある人には、やがては地獄のときが訪れるだろう。
 思えば、我もいま、そのかつての満たされた幸福の償い、後始末をしているのかもしれない。ならば、それもまた良しとするしかない。
 語弊はあるが、はっきり書く。起こることはすべて神の愛、神の計らいなのだから。人はただそれを受け容れていくしかない。

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