ロシアも悪いが、ウクライナにも非がある、という論に2022年03月29日 00時09分56秒

★いちばん肝心なことは、今起きている戦争を一日でも早く停戦に導くことではないのか

 火中の栗を拾う、という言葉がある。このところずっとそうした思いにとらわれている。
 自分のやっていること、やろうとしていることは正しいのか。結果として面倒なことやまたまたトラブルを招き、後々やるべきことではなかったと後悔するのではないか。
 百家争鳴という言葉にも思い至る。いま、ウクライナで起きていることに対して様々な情報が錯綜し、様々な人がいろいろんな意見や考えを述べて、今は、誰もがそれを発信できる時代だから、情報が溢れていったい何が真実でほんとうのことなのか見えなくなってしまっている。
 アメリカも含む西欧陣営、つまりウクライナを支援するEU諸国と、ロシアとそれを支持する側が、組織・個人も交えて様々な情報や声明を出すので何がプロパガンダで、本当のことなのか、「戦争の真実」がわからない。
 
 先にあげた4/3日のチラシも自分としてはかなり苦労して作成した。あれでも言葉を選んだつもりだ。
 が、人に示すと、あからさまに批判されたり、ときには受け取りを拒否されることすらあって、困惑すると同時にこちらに非があるのか、と自問した。
 「ウクライナ支援」という言葉は使うな、その国家の名前を削れ、とも言われたし、ロシアも悪いが、ウクライナにも非があるとさんざんあちこちで言われた。プーチンが狂人ならば、ゼレンスキーは悪人だとも。

 また、ウクライナにはネオナチが実際にいて、ウクライナも親ロシア系住民を虐殺したという情報も「事実」として、このところあちこちから入ってくる。
 特に、昔ながらの左翼の人たちこそ、日本も含めてロシア断罪、ウクライナ支援という世界的流れに対して、あまりにもアメリカ寄りで一方的だと不信感と不快感を抱く方々が多く、この戦争に対しては、距離を置こうとしているような気がしている。これは一過性のブームだ、お前はメディアに踊らされているとも言われた。
 また、戦争状態、虐殺されているのは、ウクライナの住民だけではない。家を追われたり弾圧され虐殺されているのは、パレスチナやロヒンギャ、中国ウイグル自治区の住民など世界中あちこちにいくらでもいるのが「現実」ではないのかと。
 なんで、ウクライナ、ウクライナとその国ばかり騒ぎ立てるのか。

 こうしたご意見、ご批判を多々受けている最中の「ウクライナ支援と連帯のコンサート」は、その告知、宣伝すら難しいと嘆息していた。ならば開催すら?
 だからここに今書いたようなこともコンサートの前に本来書くべきことではなく、今はただじっと口をつぐんで、面倒な事態にこれ以上流れないよう当日を終えるまではおとなしくすべきかと迷い悩んでいた。

 が、あえて書いておくことはやはりあろう。様々な情報がすべて真実であったとして、戦争当事者国のどちらにも非があるとしても、この戦争で今も日々死んでいく人たちが続出していて、それは兵士のみならず、民間人、つまり子供や女性、老人、病人たち、一般市民だという「事実」である。報道ニュースから流れる映像すべてが、でっちあげのフェイクニュースであるとは我は思えないし、地下壕で砲撃の音に脅え泣き叫ぶ子や、爆撃された病院で傷ついた子に泣きすがる母親の姿は、やはり戦争の現実、事実であろう。
 他国に避難しようにもそのルートもなく、砲撃が飛び交う中、シェルターの中で水も食料も医薬品もなく飢えに苦しむ人たちが多数いることも想像に難くない。

 ならばこそ、様々な情報があふれて何が真実、事実かわからないとしても、ともかくこれ以上の死者、負傷者、追われ逃げ惑う人たちが出ないよう、戦争反対、即時停戦を!の一点のみまず求め訴えて、我々、世界中の市民は行動すべきではないのか。
 ロシアとウクライナのどちらが正しく非があるかは今は問わない。そうした論争に与して口角泡とばすよりも、一日でも早い戦争の終結を祈るような気持ちで願うことが肝心だと我は考える。
 確かに、今もウクライナ以外でも世界各地で紛争や虐待は続き、その地にも苦しむ人たちはいっぱいいる。そちらへの支援と関心を向けることも絶対必要なのは間違いない。
 が、どちらが優先されるべきだとかそういう話ではなく、あらゆる「戦争」で苦しむ人たちがいる、それが続いているからこそ、まず一つ一つ、戦争という罪悪を終わらせていくこと、そして核兵器や生物化学兵器も含めて、あらゆる武器をなくしていくことを求め訴えていくことから始めるしかないのではないか。

 ウクライナで今起きている戦争で、多くの人たちが戦争の本質、その素顔にやって気がついた。国家や領土を守るためと言うが、戦争とは破壊と殺し合いそのものであり、傷つき死んでいくのは、兵士だけでなく我々と同じ一般市民だということに。
 確かに、EUなど西側諸国は無責任にもロシアとの代理戦争を、ウクライナに一切任せて、自らは参戦せず武器や金を与え軍事支援を続けている。が、ウクライナ頑張れ!!ロシアに負けるな!と立場からでは、この戦争はいつまでも続いていく。どちらも負けられないから弾薬と兵士が尽きるまで戦闘は続く。
 戦争というのは、始めるのはカンタンだが、終わらせるのはとてつもなくタイヘンなものなのだから。

 ならばこそ、国際世論として、我々一人ひとりが、どのような立場、異なる意見や考えがあろうとも、「戦争反対!!」「即時停戦」の一点のみで、連帯してその声を上げていくべきではなかろうか。
 喧嘩両成敗とか、どちらも悪いとか、報道が偏ってるとか言って、この戦争には様子見を決め込んでいる人たちに言いたい。
 このまま戦争が続けば、さらに世界経済は疲弊するだけでなく、追い詰められたロシアはまず化学兵器、生物兵器を使用し、それで戦局打開できなければ、次は小型核爆弾を使用するだろう。
 そしてそれに呼応して、世界は全面的核戦争へと突入する。そのとき必要なのは、日本も核兵器を保持しておくことであろうか。核兵器を共有しておけば国家は守れるのか。否!
 逆に、核兵器で被爆した唯一の国だからこそ、核兵器は絶対に使うな、と核廃絶を強く訴えることができ、実際に核兵器禁止条約に批准してそのリーダーとして核保有国に働きかけていくべきであるはずだ。
 世界の破滅、地球規模の危機は今すぐそこまで来ている。そのことに思い至れ!!

 イエスは、弟子ユダの裏切りにより、捕縛されるとき、追手のひとりの耳を切り落としたペテロにこう言った。
「剣(つるぎ)を鞘に収めよ、剣を取る者は、皆、剣で滅びる」と。
 この二千年も前の言葉こそ、キリスト者のみならず今もこの世界を照らし大きな意味を持つと我は信ずる。プーチンの聖書にも同様に記されているばずなのだ。

 あらゆる武器を楽器に、と言ったシンガー出の議員がいたけれど、我々には楽器という武器がある。その武器はファシストを打ち倒すだけでなく、それを手にして「うた」で音楽で世界を変えていくと信じている。我は揺らがない。

寛容と不寛容考~人は己の正義を過信していないか2022年03月30日 10時05分23秒

★なぜ、戦争は絶えないか

 エラソーな物言いだとご批判受けることを承知でちょこっと書く。

 今の人は、どうして他者にここまで寛容でなくなってしまったのかと嘆くような気持になることが多い。
 我もこのところは、常にマスクをつけているが、犬との散歩のときなどは、早朝だし、人と出会うことも少なく、そもそも一人なのだからマスクしていないときもある。
 また、ホームセンターや近くのスーパーに入るときなど、顎まで下げていたマスクを鼻まで上げるのを忘れてそのままアゴマスクで入店したりする。
 と、道などでは、通りすがりに向こうから走って来た自転車から「マスクしろよ!バカ野郎!!」と罵声を浴びせられたり、店では、「おい!!お前、きちんとマスクしろ!」と通りかかった客から呟かれたりする。
 そうしたことを思い出すと、1回や2回ではない。そう、我に怒り、叱りつけるのはきまって中高年の男性である。オバサンも一人はいたか。
 確かにマスクは今の時代、着用必要な社会常識なのだろう。そのことに異論はない。
 が、していないからといって、「バカ野郎!」はないと思うし、そもそも言いようがあるのではないか。きちんと立ち止まって、面と向かって諭すのならともかく、皆、そうではなく通りすがりに罵声のように我に文句をつける。
 我は呼吸器系に病気はないが、マスクは冬季など眼鏡が曇って見えなくなるし、何より息苦しく、できるだけしていたくない。だからといって、人混みや店内で着用を拒み、面倒なトラブルを起こしたくはないわけで、基本的には世間の慣習に今は合わせている。
 それをちょっと逸脱したからといって、いきなり通りすがりに、そのことで怒鳴りつけてくる神経を疑ってしまうのは、こちらがオカシイのか。

 マスク着用は、行政側の要請であって義務ではないが、我も社会の常識としてそうすべきだと理解して抗う気はない。しかし、なかには、呼吸がそもそも困難でマスクはできない人も確実にいるはずだろうし、マスクをしていない=世間の流れから外れた人に出会ったからといってすぐさま怒り出すのはあまりに不寛容ではないだろうか。
 人にはそれぞれ事情があり、たかがマスクなのである。過ちや失敗に関してもそこに情状酌量の余地は残すべきであろう。
 ところが今の人はそれを許さない。

 自らと異なる考え方や意見を持つ人だと、すぐに「敵」と断定し、完全否定し口さえきかない人に先日出逢ったが、そうした傾向は、いまは、若い人よりも高齢世代に多いような気がする。
 安倍晋三もそうであった。選挙戦最中の演説途中、彼を批判し声上げる人たち――異なる意見や考えを持つ市民を名指しで、「こんな人たちに負けるわけにはいきません!!」と否定し拒絶した。
 政治家ならばこそ、異なる意見や考えの人、しかも彼らは有権者なのだから、その人たちの声にも真摯に耳を傾けるべきであるはずだろうに。
 だから彼は気の合う仲間たちだけと親しく優遇し、特別に計らい特待していく。そして結果、様々な怪しい事件が起き自殺者さえ出してしまった。
 そうした誤った傾向は、国民が範とすべき政治家だけではなく彼らによってなのか、今やこの国の全世代に広がっている気がする。
 自らと同じ傾向、考えの近いもの、気の合うものは、仲間、味方であり、意見の合わない者、こちら側全体を乱すもの、大勢に従わない者は「敵」だと即断じて、罵声を浴びさせ排斥、排除していく。
 不寛容な時代だとつくづく思う。どうしてこんなに寛容さは消えたのか。
 しかしそれでは、ますます断絶の溝は深まる。排斥された側も含めて敵と味方に別れて、一方が一方を断罪し拒み排除、排斥していく限り、この社会、世界はますます息苦しく諍い、トラブルが起きやすくなる。
 その究極の結果が、戦争なのではなかろうか。

 戦争に至らないためにも、異なる者どうしが、それぞれ相手の立場や考えをまず理解し、違う部分さえも尊重しない限り、けっきょくそこで争いが起こる。
 そのためにはまず「対話」なのだ。そして、その異なる意見の人もまた同じ人間なのだから、彼らの立場、その人生を尊重すべきなのだ。そのためには、「想像力」こそがまず求められる。
 新型対戦車砲や銃を手にして敵国兵士を殺さねばならぬ兵士が、敵の兵士にも自分と同様に愛する家族がいて、幼い子供がいると想像すれば、その人間を敵だとしてもためらいなく殺せるだろうか。
 戦争とは想像力の欠如から生れるのだと、断じたい。

 よく箱舟地球丸に世界中の人たちは全員乗っている、と言われる。
 我はそれよりも適切な例えとして、我々はいま、一つの列車に偶然乗り合わせた乗客だと思う。降りる駅は違うが、行き先は同じで、しかも車内はかなり込み合って息苦しい。
 時には、うるさい音楽がイヤフォーンから流れて聞こえてきたり、喧しいおしゃべりがあったり、子供が泣いたり騒いだり暑かったりともかく込み合って狭くて苦しい。
 しかしそこで怒っても仕方ないではないか。辛い思いをしているのは皆同じなのだから、その偶然乗り合わせた電車の中で、皆がまんするしかない。
 高齢者や気分の悪くなった病人が出たら皆で手を差し伸べて座席に座らせるようにする。
 そうやってともかく目的地に着くまで乗り合わせた皆がそれぞれ周りに気を使い、つまり気遣いして何とかうまく一つの車内の中でやっていく。
 そうすれば滞りなく列車は運行して誰もが望む目的地に着くことができるのである。
 世界=地球もまた同じではないのか。敵と味方に別れて相手を理解せず、お互いが罵倒し合い、ときに攻撃してしまえば争いとなり、今度こそ全面的核戦争の第三次世界大戦がはじまってしまう。

 すべて何事も武力による解決ではなく対話によって、お互いの想像力を高めて他者を尊重して解決に至る道筋を模索していく。己の「正義」を絶対視、過信しないこともだ。
 人間が他の動物と根本的に異なるのは、言葉を持つからではない。他の動物は持たない「想像力」という力があり、さらに「言葉」という手段が使えるからだ。力だけならば、象やライオンなど他の動物が勝るではないか。
 寛容とは、J・レノンなら「愛」のことだと言ったと思う。世界を救うのは、LOVE&PEACE 愛と平和、それだけしかない。