人生の終わりのときに2022年07月27日 22時58分41秒

★いつだって突然に、慌ただしく、となるのか

 人生の終わりは誰だってやってくる。むろん当人もだが、いま問題としたいのは、当事者ではなく、家族とか周囲、傍らの人についてのことだ。

 死が間違いなく迫りくるとして、その時、当事者でない周りの者たちは、どうすれば正しいのであろうか。
 むろん、家族や最愛の人を死なせたくない、という強い思いがまずある。ともかく一日一時間でも長くこの世に生かしておきたいと誰もが願う。
 しかし、願いや努力がかなう場合もなくはないが、人は皆死ぬる方向に定められているのだから間違いなく人は死ぬ。必ず死んでいく。

 我はいま、まず間違いなく近く死ぬ、我が父の死に方、死なせ方についてあれこれ迷い考えている。
 どうすればできるだけ苦しむことなく、しかも我にとっても負担の少ない死に方はどのようなあり方か。
 身勝手と笑われようが、唯一の家族として、父の死ぬまでの介護負担があまりに大きいと、父を送った後に我も精魂尽き果ててすぐさま後を追ってしまうかも。※長年付き添った夫婦の場合だと、介護の末に一方が亡くなると、後を追うように残された一方も亡くなる場合が多々知られている。
 申し訳ないが、父母を見送った後の人生もまた我に残っていてほしいと願うし、90過ぎまで元気に長生きを、などと願わぬが、せめてあと15年ぐらい、七十代は存分に一人自由気ままに生きてみたい。

 ともあれ、どううまく、いかに面倒な事態ならず、苦しまさせずに死なしていくか。当事者は頭がクリアだったとしてもとてもそんなことは冷静に考えられないはずだから、周りが、そうしたことを諸状況と当人の意思、希望を考えて、できるだけそれに近くなるよう忖度するしかない。

 ただ、残念なことは、たいていの場合、死はかなり突然の、予想外でないとしてもまだ準備も対応もできていないとき、いきなりやってくることも多く、我が母の場合など、その予感や予兆はあったのに、恐怖心もあって、それにきちんと向き合うこと、考えることをあえてしなかった。
 いま、振り返るとそのことがいちばん悔やまれる。
 「突然」の死に、ただただ慌てふためき、パニックに陥った。

 そう、そのときに、心も支度も常にしっかり備えておくなんてことは、人はなかなかできやしない。しかし、どう死にたいか、ではなく、どう死なせたいか、は、考えることはそれほど難しくはないはずだ。
 どういう葬儀を営むか、死後の手続きは、など、生前に決めておけることもいっぱいある。じっさいの「死に方」、死なせ方は決められないとしても。

 いよいよ我が父の死が現実となってきて、覚悟はしてきたつもりだったのに、我は、風にそよぐ若木の枝のように激しく動揺している。

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