2022年夏の参院選の結果について思う・終わりに2022年07月13日 10時19分07秒

★我々は今、時代の大きな転換点に生きている

 このところネット上でよく「親ガチャ」(カシャ?)という言葉を目にする。子は、親を自分で選べないという意味なのだそうだが、ならば、人は時代も選べない、と最近つくづく思い嘆息している。
 なんで、こんな時代に生まれてきたのか、と。

 安倍晋三元首相襲撃での衝撃的死と、直後の参院選の結果と彼に対する死後の全メディアあげての異常なほどの礼賛報道に、うんざりしている方も多いのではなかろうか。
 それまで彼に関心ないどころか、毛嫌いし不信感を抱いていた人たちさえも、報道されるところでは、国内メディアどころか海外、世界中の要人、著名人が彼を誉め讃えていると、知らなかったがそんなに立派な人、国内のみならず世界の平和と安定のために貢献された方だったのか!!と思い込み、彼の遺志を尊び賛同していくことだろう。
 憂鬱である。
 仮に、彼の功績がどれほど大きかったとしても、数々の虚偽答弁のみならず、政治を私物化しただけでなく、何より韓国の反共団体、勝共連合、後の統一教会と祖父の代から深いつながりを持ち、結果としてそのことが原因で恨みを買い、不測の死に至った事実、つまり功罪の「罪」の部分にももっとスポットがあたり、検証されなくてはならないはずなのに。
 先に、我も書いたが、社会問題化したカルト宗教団体・統一教会との関係、そうした闇の部分、つまりそれは自民党と戦後政治の暗部がようやく少しづつ、メディアでも報じられるようになってきた。
 ただ、それは元統一教会側の言い分を、そのまま鵜呑みにして報じるだけで、安倍氏との関係は浅いもので、彼と団体とは距離があり、容疑者の一方的に思い込みで起きたこと、として収める方向らしい。
 憂鬱である。

 葬儀当日夜のNHKの報道番組内では、彼と縁が深かった高村元副総裁が登場し、内外どれほど多くの功績があったか、に加え、いかに多くの人に慕われたかと、その立派な人柄を讃え、まさに礼賛報道の極みであった。
 彼の功罪の罪にあたる部分については、一切ないとは言わないが、(森加計疑惑など、長期政権の驕りはあったが)あまりに「攻撃」が大きすぎた、後世の歴史家に判断を委ねる、として不問としていた。
 肝心の死の要因となった、統一教会との関係は自らも報道側も一切触れないままであった。

 まあ、それも当然で、この高村氏こそ、統一教会と縁深い要人であり、そんな弁護士を、登場させ熱弁を振るわせること自体、公共放送の偏向化、政権与党自民党への忖度があからさまに見て取れる。
 ※後世の歴史家に判断を委ねるとするならば、それは罪の部分だけでなく、いま、マスメディアが異常なほど褒めたたえている彼の「功績」もまた同様ではないのか。

 さておき、今回の参院選の結果だが、野党、サヨク陣営は大きく議席は減らしたが、幸い社民党も政党として生き残れたし、れいわも代表以外に、きちんと動ける、話せる議員が増えたわけで、まだ希望の灯はか細いながらも消えていない。
 思うに、政治家とは、当選してこそ議員として価値があり、昔から、落ちてしまえば、ただの人、つまり民間人の一人でしかなく、その存在価値は天と地ほど差がある。
 議員とは、要するに政治のプロであり、政治の世界こそプロとアマの差が大きい職業は他にはない。
 そのうえで、そうしたプロの政治家、つまり議員が政党に一人でもいるといないとでは、政党もまたその存在価値を大きく問われる。
 特に国会議員がごくごく少数でもいる政党は、報道する側も、討論番組や選挙報道でも時間帯は少なくともきちんと報じられるが、議員がいなければ、「党」はあってもそれは存在していないと同様の扱いとなる。
 
 いろんな意味で衝撃的であり、自民の大勝、改憲勢力の増大という憂鬱かつ不安な結果を残した2022年の参院選、サヨクはまだ首の皮は繋がり、何とか持ちこたえ生き残った。
 ここから憲法改正の発議に対して、どこまで護憲勢は反転攻勢できるか、その本気度と新たな共闘の構築なるか、今まさに正念場である。

 それにしてもつくづく思う。この2022年夏の、参院選と安倍元首相の死は、後の時代の「歴史書」に、どのように記されていくだろうか。
 戦後の長く続いた平和が終焉を迎え、また再び暗い戦争の時代への「転換点」となってしまうことを心から憂う。
 そう、我々はいまそうした大きな変革の時代、その真っただ中にいる。ならば、目を大きく見開き、耳をよく澄まし、しっかり時代の空気を吸いこみ、大きく声を出していくことだ。そして立ちあがり外に出ていく。
 後になって、どうして自分はあのとき何もしなかっのたか、と悔やむことがないためにも。

嗚呼、山本コータロー、「インテリ」フォークシンガーを偲ぶ。2022年07月15日 13時58分30秒

★我にとって懐かしき、過去の人だが

 山本コーターロー氏の訃報が届いた。人の人生にとやかく口をはさむべきではないし、その資格もないを承知で、この若き日に知り、一時期はすごくファンとなり、その後は冷めてしまった人のことを書き記しておきたい。
 すべては、ラジオの深夜放送、それも我はTBSのパック・イン・ミュージックから始まった。
※今日は父が終日在宅の日なので、続きは明日、父を介護施設に送り出してからきちんと書きます。

嗚呼、山本コータロー、「インテリ」フォークシンガーを偲ぶ。前2022年07月16日 22時57分18秒

★すべては深夜放送から始まった。

 山本コータローという人は、今思うとフォークソング界の中でかなり異質な人だった気づく。
 フォークシンガーの多くは、失礼だが、低学歴の人たちが多く、また大学に行ったとしてもきちんと卒業した人は昔はごく少なかったはずだ。理由は簡単で、皆うんと早く十代から唄い始め、それを生業として、大学など行く必要はなかったからだ。
 その中で、彼は、日比谷高校から一ツ橋大というかなりのエリートコースを進み、さらにきちんと卒業もしている。
 そして最後の肩書は、大学の名誉教授だったと訃報で知った。環境問題活動家だとも。
 しかし、では、フォークシンガーという肩書きは一過性のものかと言うと、やはり彼は、『岬めぐり』というヒット曲を持つシンガーとして世に広く認知され、訃報でもまず真っ先にそのことが報じられている。
 だが、我にとっては、そのウィークエンドという三人組の人気グループ結成以前の、あまり売れていないが、知名度だけはあったフォークシンガーとしてのほうが今も昔も好きなコータローである。しかも彼はラジオの深夜放送のDJでもあったのだ。

 かつて「深夜放送の時代」というものが若者たちの間に確かにあった。60年代後半から70年代全般の頃だろうか。専門誌も出てたぐらいで一大ブームであった。
 民放ラジオ各局は、若者に向けて、人気パーソナリティ(当時はディスク・ジョッキーと呼ばれていた)、つまりそれぞれ人気DJを擁して、毎晩深夜、若者たちからハガキでリクエストを募り、応える形で曲を流し、投稿ハガキを読み、ティーンエイジゃー向けの放送を深夜に流していた。
 文化放送やニッポン放送のそれを聴いてた人も多いと思うが、我はだんぜん何故かTBSであり、その若者向け深夜放送番組、「パックイン・ミュージック」をほぼ毎晩聴いていた。午前1時から5時である。
 それが中学生の頃だったのだから、いちおう義務教育ゆえ、昼間も起きて学校に行ってたはずだから、どこでいつ寝ていたのかと今自分でも不思議に思う。若さゆえの成せる業か。
 ただ、パックイン・ミュージック、通称「パック」は、午前1時から3時の第一部、3時から5時までの第二部、の二部構成で、それぞれDJは違ってたから、我は前半の第一部だけ何とか眠たい目をこすり頑張って起きて、枕元のラジオに耳を澄ませ、結局、いつしか寝落ちしてしまうという聴き方だったと思いだす。

 我がパックを聴き始めた頃、1970年代のごく前半の頃の第一部の担当者だけ記せば、月曜日の深夜、つまり日付が変わり、火曜日となっての「火曜パック」は、局アナの小島一慶、水曜は、キンキンこと愛川欽也、木曜は、よしだだくろうや南こうせつらフォークシンガーが1年ごとに、金曜は、パック一番人気の野沢那智とチャコこと白石冬美、そして土曜日が山本コータローであった。※それぞれ、日付が変わってから始まるわけだから、火曜パックとは、月曜の深夜1時開始であり、土曜パックは、金曜の深夜1時~ということになる。

 上記のDJは記憶に間違いなければ、1971年から73年頃のもので、むろん担当や登場時間帯の変更も度々あったから、放送を聴き始めた時期により記憶は人それぞれ違っていることだろう。
 ただ、金曜の「那智&チャコ」パックと、土曜の山本コータローのパックはかなり長く変わらずにずっと続いていたから、記憶に残る方も多いと思う。
 我が聴きだした頃の土曜第二部の担当は、映画評論家の吉田真由美で、けっきょくこの放送が縁で、コータローは生涯のパートナーとなった人と出会うのである。
 そして、我は、その土曜のコータローのパック内で、やはり生涯忘れがたきフォークシンガーを知ることとなる。
 若林純夫(わかばやしすみお)氏である。そう、武蔵野タンポポ団のオリジナルメンバーであり、高田渡とシバとを結びつけた人だ。 
★以下続く。

コロナ、コロナでひと騒動2022年07月20日 18時55分01秒

★スミマセン!! 父も介護施設もコロナ禍であたふたと。

 ブログ書きかけで、また間が空いてしまって申し訳ありません。
 実は、我が老父が、先週の土曜日より発熱があり、介護施設利用をお休みしたりしておりました。
 この連休は、解熱剤出してもらい父はいったんは平熱に戻り、今日はまた施設にショートステイで行っているのですが、まず二カ所通っている施設のうち、一か所が、先週末に陽性者が出たと今週は利用中止となりました。
 幸いもう一つの施設、父が今泊まっている施設のほうがその分を延泊してもらえてほっとしたのもつかの間、今日水曜に、その施設長から電話が入り、そこも職員の一人が陽性となったことと、我が父もまた微熱が出ていることが知らされました。

 父は、今晩はその施設で様子見て、明日帰宅の予定で、明後日金曜は終日在宅ですが、幸い定期の担当医の訪問診察が来る日なので、まずPCR検査を受けさせる予定です。
 父が陽性であればまた新たな対応が求められるし、幸いコロナでないとしても二カ所の介護施設の二つとも利用できない可能性も高く、先のことを考えると正直なところどうしたものか、どうなるのかと不安でドキドキしております。
 が、ともかく今は神に祈り、事態が良い方向に収束することを願うだけです。

 報道によると本日は、国内で最多の新規感染者数が報告されたとか。皆さまもどうかどうかご自愛ください。
 熱中症の危険度も高く、早朝から強い陽射しの中、マスクをしながら汗かきながら走っている人を見ましたが、自らの命を縮めるような危険なことは控えるよう願ってやみません。
 皆さん、どうかご無事で。この危機を乗り越えましょう!!

緊急報告!!2022年07月22日 10時05分36秒

★父は、奇跡的にコロナ病棟に入院。我は濃厚接触者として自宅待機に。

 先の件に関して、手短に状況だけ記します。

 けっきょく、20日の水曜夜に、父は滞在していた介護施設で発熱と咳が出はじめ、夜、そこで抗原検査したところ、コロナ陽性だと判明し、すぐさま救急隊を要請し、我もそこに向かいました。
 で、救急隊は到着後、入院先、つまりコロナ患者を受け容れてくれる病院にあちこち電話してくれたのですが、爆発的感染状況下、どこも満床で一時間以上遠くの病院まで電話してくれたもののみつからず、けっきょくその施設も職員がその晩は一人しかいないため、我は、車出して父を自宅に引取り連れ帰ることにしました。

 昨日午前中は、かかりつけ病院から医師がウチまで往診してくれて、いちおうの診察と咳止め薬とか出してはくれたのですが、他に何も処置はされず、ともかく入院先がみつかるまで自宅で我が介護するということになりました。
 が、父は午後からしだいに容態は悪化してきて、病院が貸し出してくれた指先で酸素の血中濃度を測る機械で、酸素を測定すると90もなく、しだいにそれは落ちてきて息も荒く意識もなくなってきました。
 このままではもうやばい、為すすべもなく母の時と同じく我はここで父をも死なすのかと悲痛な思いでいたところ、病院から電話があり、立川のかかりつけ総合病院に空きが出たので入院できると連絡がありました。
 即その場でお願いして、109に電話し、救急車要請しました。が、込み合っているとのことで一時間またされ、ようやく救急隊が到着して意識朦朧、口を大きく開けて荒い息をしている父を三人がかりで部屋から運び出しストレッチャーに載せて搬送していきました。心から安堵しただただ神に感謝いたしました。

 一日に、過去最大の都では三万人を超す新規感染者出た日に、父が近くの病院に入院できたのはまさに奇跡だと思います。が、同時にそのぶん、自宅で適切な医療が受けられずに死んでいた人たちもいたかもしれません。有難く思う反面、何とも心苦しく申し訳なくも思います。
 ともかくわかったことは、発熱と呼吸困難を伴うコロナという病気は、とても自宅では、まして介護する側が一人とかでは絶対対応することはできないということです。
 「自宅療養」などまやかしであり、適切なベッド数を確保してこなかった医療体制側、つまり政府の国民の命と健康を守ることへの対応不足、「棄民」政策のツケが何度でも繰り返すこのコロナ危機の根本原因なのだと断じます。

 そして私自身は、いまはまだ何も症状は出ていないのですが、濃厚接触者である以前に、準陽性者だとみなされて、PCR検査を受けたいと先ほどかかりつけ病院に電話したところ、もう検査予約はいっぱいなのとキットも足りないから、自宅でじっと待機して発熱などの症状が出たらば検査するから、ということになりました。
 まずは今日入れて一週間、何も症状が出なければ無罪放免となるわけですが、果てしてどうなることか。ともかく今は、電車も乗ってはならないし基本外出禁止を要請されました。

 そんなこんな父も含めてこの先どうなるかわかりませんし、ブログも更新できなくなるかもしれませんが、どうかご理解ご了承願います。
 また状況に動きがあり、ブログ書けるような状況の時は逐次更新していきますので。
 皆様もご自愛ください。

やはり我も感染、発熱!!2022年07月23日 09時10分00秒

★まいったなあ としか

 父を一昨日の夕刻、何とか入院させることが出来て、濃厚接触者である我の身体はどうなるか、願わくば感染、陽性になっていないことをただ願っていたのだ。
 が、何か昨日は朝から喉が痛く、痰が絡むような咳も出てきて、熱も七度台半ばとなってきた。
 そして一晩明けて、今朝、23日の朝に体温測ったらば、38度台半ばである。
 といってもすごく息が苦しいとか、熱でふらふらするということはなく、ただ喉の痛みと、足腰、手足の節々がともかく怠く痛いだけで、まあ、風邪の引きはじめと何も変わらない。
 いや、熱の割には、体調は特に変わりはなく、「コロナはただの風邪」と喧伝している候補者が先の衆院選でも出ていたが、現時点では同意している。
 しかしこれからどう悪化するのか先のことは何もわからないし、ともかくウチは猫や犬たち動物の家族が多数いるため、その世話があるため仮に重篤化したとしても我は入院、療養は絶対にできない。
 まあ、ともあれ、もう少ししたらかかりつけの診療所に行って検査をまず受ける。すべてはそれからの話だ。
 またワクチン未接種故、ひどく叱られると思うが、それは思想信条の問題だから頭下げる気はない。ただ、父のことだけが気にかかる。

 また逐次、報告入れます。ただ、現時点ではそれほどコロナは怖れるに足らず、という気持ちでいる。

PCR検査の結果は・・・ 陽性!!2022年07月24日 23時05分24秒

★我も来月1日まで自宅療養ということに

 昨日の昼前、かかりつけの近くの診療所にやっと予約がとれたので、発熱外来に行ってきた。炎天下、自転車で。
 結果は、やはり予想していた通り、陽性。コロナ感染でありました。
その時点から10日間、一切の外出禁止とのことで、自宅で療養という、自分で治療することとなった。来月1日までである。

 まいったなあ、という気持ちもあるが、問題の父は、いま立川のコロナ病棟に入院させられたのだから、何の憂いなく自分のことに向き合える。
 先にも書いたが、熱は、ときに38度台半ばまで上がったりするが、あとはずっと8度台前後というところで、喉の痛みや咳もあるけれど、存外ひどく苦しい状況にはない。
 ただ、背中や腰、手足の節々が痛いのは相変わらずで、まあ、風邪の諸状況とほとんど変わりはない。
 心配していた味覚障害などは何もなく、熱のせいとのどの痛みで食欲はあまりないが、出してもらった薬を飲むためにも無理してともかく三食少しでも食べている。

 また、状況は逐次記していきます。皆さまもどうかご自愛ください。私感ですが、私の罹ったコロナウィルスは、去年までのバージョンのよりははるかに軽いものだと思えてきました。

ともかく、おかげさまで2022年07月26日 23時51分51秒

★我も老父も回復途中~ご心配おかけしてスミマセン!!

 97歳の父と60代半ばの我の親子二人してコロナ老老感染中のウチですが、ようやく回復の兆しと今後の予定も出てきました。

 まだ、確実、確定したことは何とも予断は許されないのですが、突然のリバウンドや何か予期せぬ不測の事態が起きない限り、我が父の退院の日程も出てきました。
 唯一の家族である息子である我の自宅療養が終わる8月1日、父は、いま入院中のコロナ患者病棟から退院できると本日、担当医と相談し決まりました。
 まだ少し先の話で、果たして本当にそのように無事予定通りに進むのか、不安と期待が半々というか、自分でもまだ半信半疑で、自らぬか喜びしてはならぬと自制するところ大ですが・・・

 ただ、真に問題なのは、無事退院でき、自宅に戻れたとしても「それから」の父の処遇でして、10日間の入院で、体力、筋力の低下と認知症の進行は確実に進んでいるはずで、果たしてコロナ感染前の生活に再び戻れるようになるのか。
 また、さらにそこに加えて不透明なのは、父が今まで通っていた二カ所の介護施設が両方とも現在、コロナの感染者が多数発生したため閉鎖中となっていることで、父が退院できウチに帰って来ても、その介護施設を再びいつから利用できるのかまだ分からないということ。
 最悪の場合は、退院したとしても認知症と衰弱が進み、何もできなく動けず食べられなくなった父を自宅で抱えて、どこにも行き場がなくなってしまうかもしれない。

 しかし、それはそのときのことであり、今はまだ先のことを、もしこうなったらどうしようとあれこれ悩み苦しむのもバカらしい。
 幸いまだ数日は時間の余裕はある。何よりまずは、来週頭、8月1日の朝一で、父を迎えに行ったとき、どこまで父が元気な状態、つまり以前の父で有り得るか、ということこそが肝要。
 むろん衰弱や呆けも進んでいることは間違いないはずだから、そこからどこまで父を、我が父という人間の人格と体力を取り戻せるか、だ。  施設に預けるのは、コロナ感染前に少しでも戻さないと、施設側は介護することもできやしない。

 先のことは今は考えない。ともあれ、今できる、すべきことを一つ一つやっていく。事態は何もかもコロナのおかげで新たな段階に入ったがまたこの家に帰還できた父を祝い少しでも楽に我が介護できる家を用意していく。
 そう、今できる、すべきことを少しでも一つでもできるときに進めていこう。

人生の終わりのときに2022年07月27日 22時58分41秒

★いつだって突然に、慌ただしく、となるのか

 人生の終わりは誰だってやってくる。むろん当人もだが、いま問題としたいのは、当事者ではなく、家族とか周囲、傍らの人についてのことだ。

 死が間違いなく迫りくるとして、その時、当事者でない周りの者たちは、どうすれば正しいのであろうか。
 むろん、家族や最愛の人を死なせたくない、という強い思いがまずある。ともかく一日一時間でも長くこの世に生かしておきたいと誰もが願う。
 しかし、願いや努力がかなう場合もなくはないが、人は皆死ぬる方向に定められているのだから間違いなく人は死ぬ。必ず死んでいく。

 我はいま、まず間違いなく近く死ぬ、我が父の死に方、死なせ方についてあれこれ迷い考えている。
 どうすればできるだけ苦しむことなく、しかも我にとっても負担の少ない死に方はどのようなあり方か。
 身勝手と笑われようが、唯一の家族として、父の死ぬまでの介護負担があまりに大きいと、父を送った後に我も精魂尽き果ててすぐさま後を追ってしまうかも。※長年付き添った夫婦の場合だと、介護の末に一方が亡くなると、後を追うように残された一方も亡くなる場合が多々知られている。
 申し訳ないが、父母を見送った後の人生もまた我に残っていてほしいと願うし、90過ぎまで元気に長生きを、などと願わぬが、せめてあと15年ぐらい、七十代は存分に一人自由気ままに生きてみたい。

 ともあれ、どううまく、いかに面倒な事態ならず、苦しまさせずに死なしていくか。当事者は頭がクリアだったとしてもとてもそんなことは冷静に考えられないはずだから、周りが、そうしたことを諸状況と当人の意思、希望を考えて、できるだけそれに近くなるよう忖度するしかない。

 ただ、残念なことは、たいていの場合、死はかなり突然の、予想外でないとしてもまだ準備も対応もできていないとき、いきなりやってくることも多く、我が母の場合など、その予感や予兆はあったのに、恐怖心もあって、それにきちんと向き合うこと、考えることをあえてしなかった。
 いま、振り返るとそのことがいちばん悔やまれる。
 「突然」の死に、ただただ慌てふためき、パニックに陥った。

 そう、そのときに、心も支度も常にしっかり備えておくなんてことは、人はなかなかできやしない。しかし、どう死にたいか、ではなく、どう死なせたいか、は、考えることはそれほど難しくはないはずだ。
 どういう葬儀を営むか、死後の手続きは、など、生前に決めておけることもいっぱいある。じっさいの「死に方」、死なせ方は決められないとしても。

 いよいよ我が父の死が現実となってきて、覚悟はしてきたつもりだったのに、我は、風にそよぐ若木の枝のように激しく動揺している。

父は、生きて再び帰宅できるか2022年07月28日 23時43分25秒

★現況報告 を少しだけ

 先に、我が家のコロナ感染状況について、快癒に向かっていると書いた。
 実際のところ、父は、熱も下がり酸素濃度も戻り、ほぼ回復できたらしい。この爆発的感染状況下、入院できたこともだが、重篤化することなく本当に良かった。僥倖というしかない。
 で、三日遅れて発熱、陽性となった息子のほう、つまり我は、一昨日は、もう熱もほぼ平熱に下がり、喉の痛みは残っていても普段の生活には何も問題感ぜずに動けるようになり、存外カンタンに治った、と思った。
 コロナなど、フツーの風邪と同じか、それより軽いものだと侮った。

 が、どうしたことか、昨晩遅く、というか明け方から妙な寝汗をかいて朝になって目覚めても、頭が重くぼうっとして、ほんとうの風邪ひいたような全身が気怠く火照る体調であった。
 熱もさほど高くはないが、37度前後にまた上がっていた。
 けっきょく、されからまた少し寝なおして9時半頃やっと起きた。どうしたことか。大した熱ではないのに、これまでにないふらつき感がある。今日は一日そんな体調であった。
 そんなで、我は、また「再発」したと思えた。しかし、また8度超すほど悪化はしないと思うし、自宅療養の終了まであと4日程度なのだから、もう少しの辛抱だと自ら慰撫するしかない。

 問題は実は父のことだ。
 父は当初の予定では、今週末30日には、コロナ入院期間は終わり、通常ならば自宅へ戻れるはずだった。
 が、在宅で看護する息子である我がコロナ患者となり自宅で身動きとれない「自宅療養」中のため、誰も父を迎えに行けないし、我も父が戻っても対応できない。
 で、当初、そのことを父の入院している病院と相談したら、我のコロナ隔離があける来月1日まで、入院続けさせてもらい、1日に、我がウチの車で父を迎えに行き帰宅させることに話がついていた。
 しかし、超高齢の97歳の父は、このコロナ入院の間、ほとんど口から何も摂れず日々うとうとしていたため、衰弱と呆けがさらに進み、このまま自宅に連れ帰って来ても家庭での生活は困難だろうと医師から今日相談の電話があった。
 じっさい、それは我も心配していたことで、いまの父がどこまで意識があり、人間性が残っているか、我の介助で少しでも食べてくれるのか予想もできなかったからだ。
 ウチに戻れても、意識がなく何も摂れないならば、また即病院に入れないとならなくなる。
 しかも、今は、父の利用していた二カ所の介護施設はその両方が、コロナ患者多数発生したため閉鎖中であり、仮に父が元気で元通りになったとしても行き場がない。
 最悪の場合は、介護の度合いが高い父を我は一人で背負ってこの家で身動きとれなくなって疲弊し倒れてしまうかもしれない。

 いろいろ悩み迷いもしたが、病院側の提案に沿って、そこの系列の療養型病院施設に転院することに同意した。
 そして運よく8月1日に、さっそく転院も確定した。ようやくその日、我は短時間だろうが、父に会える。※いろいろな入院手続きや立ち合いの要件も多々あるが、ともかく率直に嬉しい。ただ有難い。今から待ち遠しい。

 思えば、去る20日の夜、お泊りしていた施設で発熱した父は救急隊を呼んで、コロナ陽性者の入院受け入れ先を2時間近く探してもらったのにどこも満床でみつからず、仕方なく我が自宅に連れ帰り、翌日さらに体調が悪化してきて呼吸困難、酸素濃度が急低下しまい、もうここでただ死なすしかないのかと天を仰いでいたら、突然立川の病院に空きが出たと連絡が入って救急車呼んで送り出せた。
 その「奇跡」の続きなのだから、もう我は何をこれ以上望むことがあろう。
 すべては神の計らいだとするならば、これまでのことにただただ感謝しその流れを受け容れるしかない。

 願わくば、生きてもう一度この家に父を帰してあげたいと祈るが、先のことはともかく、まだ生きて父がこの世に在ることだけをただ感謝するしかない。