近況報告~父は幸いまだ有難くも生きてますが・・・2022年08月18日 11時44分36秒

★自らの弱さと愚かさにただ向き合う日々

 先だって12日、父が入院している病院の担当医から、余命宣告受けたことは記しましたが、その後のことを・・・

 いまの状態では、おそらく今月30日まで持つかどうか、と医師から告知されて一週間。幸い今日、8月18日の時点では、病院からの通報はないので、ともかくまだ我が父は生きながらえてるということだ。
 ただただ、有難い、神に感謝!!としか言葉はない。

 が、この一週間、ひたすら日々、朝も昼も寝ている間も、携帯を常に傍らに置いて、いつ、その「知らせ」があるかと、高鳴る心で待ち続けるのは、ほんとうに辛いことだと告白する。
 信仰を持つ者として、主、つまり神に全てを委ね任せて、ただあとは、祈り続け、善き計らいを心静めて待てばよいと頭ではわかっている。そう、それが神の意思、思し召しなのだから。
 しかし、この弱く愚かな我は、父の迫りくる死という、不安と怖れとで、そのときを思うと、本当に夜も眠れなくなってしまう。
 自分の信仰の弱さと卑小さに呆れ果て、情けなく恥じ入るばかりだが、これが正直なところ、自分という人間の実際なのだからどうしようもない。
 しかし、そうした自らの弱さと愚かさと日々ひたすら向き合うことは、とてつもなく辛いが、おそらくきっとそこにも何か意味があるのであろう。

 考えてみれば、人は木の又から生まれてくるのではないのだから、子のない人はいても親のない人はいない。
 皆、誰もがいつかどこかで、その親の死と出会い、最愛の親であろうとなかろうと喪うときが来る。
 ほぼ全ての人が、ある程度歳をとれば、必ず自らの死の前に親を失う別れの時が来る。
 それは、自然災害や交通事故のような、ある日突然のまったく予期せぬ不測のときのこともあるかもしれないし、我のように老いた両親を順に看取り見送ることもまた多いはずだ。
 そう考えれば、何も特別なことではないし、そうした「突然の別れ」に比べれば、余命宣告を受けて、死に臨むほうがよほど幸いかもしれないと気づく。
 しかし、死刑囚が執行の日がいつ来るか、ただ待つのと同様に、その当人はもう何もわからない状態だとしても、周囲の者、特に家族は、そのときが来るのが怖い。そして恐ろしく不安である。
 とうぜんのこと、永遠の別れは哀しく辛い。

 だが、それも自然摂理であり、いつかは必ずそのときが自らも含めて誰にでも訪れるのだから、ただ脅え畏怖しても仕方のないことだと気づく。
 「そのとき」を前にしてまだ家の片付けも終わっていない。あと、果たして一週間の期間が残されているのかわからないが、まだすべきことがあれば、まずそれこそができることなのだから、それだけに専念していこう。

 辛いのは、神以外にこうした怖れと不安を告げ、語り合える「家族」が我にはいないことだ。肉親は、遠く九州に実妹が一人いるけれど、今思うと、我も同性異性を問わず、共に暮らす「家族」を作っておけば良かったと悔やむ。一人はやはり本当に辛い。
 我自らを介護や看護してくれとは望みもしないが、そうした不安と怖れに囚われたときに、それを言葉にして語り合える「ニンゲン」が傍らにいるかどうか、それこそ人生のいちばん大事な、生きていく秘訣ではなかろうか。
 動物は思いやりもあり、我の哀しみに寄り添ってはくれるけれど、そこに残念ながら「言葉」はない。神もその存在は信じるもののまだ我に、いまはまだ言葉は届かない。
 しかしだからこそ、慈しみ深い主に、祈り信じ語らい、心静めて「そのとき」をできるだけ動じずに受け容れられるよう、我らに哀れみを、とただ願うしかない。

 我が父は有難くもまだ生きてここに在る。願わくばできるだけ苦しむことなくその最期の日まで、その生を全うできますように。