新しい月、新しい季節に2022年09月01日 22時18分27秒

★いま、苦しんでいる全ての人たちに、実際の救いを。

 秋9月に入りました。
 ご覧いただき有難うございます。私事ですが、昨夜から咳の発作が起きてしまい、体調すぐれず今日は終日寝込んで大事をとっておりました。
 当ブログ、書きたいのですが、夜遅くなるとまた咳が出、悪化しそうで、今晩はいったん早めに床につきます。、
 書きたいことも含めて、やるべきこと、したいことは多々あるのですが、情けないことに身体が思いについていかない。

 今思うのは、もう十分に長く生きた我が父のことよりも、まさに祈るべきは、今苦しみの中にいる、戦禍の人たち、病の渦中、適切な治療受けられず苦しんでいる人、そして飢えと貧困に苦しむ人たち、さまざまな虐待や差別の渦中にある人たち、特にそうした子供たちのために神の哀れみと慈しみがありますように、そして実際の助けが早く届くように。

 そう気づき、思い至ったことについて書き記したい。

新しい月、新しい季節に・続き2022年09月02日 11時23分30秒

★夢の啓示を、真摯に受け容れていく

 不思議な夢を昨日の朝方見た。月も季節も変わった9月1日の早朝のことだ。その有難き啓示について書く。

 古代より夢とは、異世界もしくは神のような人智を超えた何かがもたらすメッセージ、啓示だと人々は重く大切に受け止めてきた。
 近代の精神分析家たちは、夢とは、人のたんなる心中の悩みや願望など、つまり脳内に考えたり気になっていることが、睡眠中も頭の中にあって、そうした意識の反映に過ぎないと考えたが、我はそうは思わない。
 聖書にも多く記されているが、主は、幻や預言者の言葉、そしてまず夢を通して、自らはその姿は現さなくとも、多くのメッセージを聖人たちに与えてくれている。

 むろん、日ごろ気にかかっていることや、悩み心配事がそのまま夢に出てきて、ほぼ現実の反映という夢も確かにある。
 我も学生時代とそれ以後も、学校に関係する夢をかなり度々見た。
 たいていは、不登校で落ちこぼれだった自分が久々に学校に行っても自分の教室がみつからなくて焦る夢とか、つまるところ居場所のない不安からの悪夢のようなものばかりだったが、さすがに歳とってからはもう見なくなった。
 代わりに、ライブの企画をやったりしてた頃は、開演時間が近いのに、まだ何の準備もできていないとか、出演者が来ないなどのトラブルが次々起き、さあ、どうしたものかと慌て焦る夢は何度となく見た。

 確かに、その時々の心中、つまり脳内にある不安や悩み、心配事がそっくりそのまま現実の続きとして夢になることは確かにある。
 我も亡き母が出てくる夢や、母との暮らし、生前の頃のことは何度も見た。幸いなのは、夢に出てくる母は、死の間際の弱り痩せ衰えた姿ではなく、いつも元気な姿でいちばんよい状態のときだから、我は母は天国?、あの世では今も変わらず無事に幸せでいると思い、そう確信できその夢で安心できた。
 そうした善きメッセージもある反面、当然ながらまさに「悪夢」や哀しい夢もまた多々ある。

 ただ夢は、まさに夢の中の出来事だから、現実に目覚めると同時にそれまで見ていたこと、つまり夢の中の前のこと、最初のほうのことから忘れていく。
 夢を見たことは確かでも、起きたらよく思い出せず、ごく最後の部分だけだったり、夢の名残の気分だけ残っていることも多いだろう。つまり何か楽しい夢の心持ちだったり、哀しみの気分だったり、思い出せないが確かに見た夢が残した感情、感想だけが目覚めてもずっと残っていたりもする。
 しかし人は起きて目覚めるとそうした夢の中のことは、すぐに忘れて日々の現実に向き合わざるえない。そしてそうして人生は進んでいく。

 が、我が先日見た夢とその後にもたらされたメッセージは、不可思議かつ大きな転機になるものだった。

夢の啓示を受け容れていく2022年09月03日 11時58分24秒

★その不思議な夢の話を
 
 コロナの後遺症なのか、それとも自分の持病である、季節の変わり目に出る「寒暖差アレルギー」のせいなのか、このところ咳の発作が起きて体調すぐれない。
 一度何かのきっかけで、突然咳が出始めると、激しい発作のように止まらなくなり、鼻水は垂れるは、痰は出るは、喉は痛むは、とかなり体力奪われる。
 このブログもそんなでなかなか一回で書き終える気力と体力がなく、昨夜も続きを書き足そうと思いつつ、咳が出る予感もして早めに床に入ってしまった。喉は痛いものの昨夜は咳は出なかった。

 さておき、昔から「夢の知らせ」とか「夢のお告げ」ということが知られているが、それは「夢占い」とか「夢分析」以上に確かに、はっきりあるもので、迷信や偶然だと我は退けはしない。
 9月1日の早朝、いや、まだ深夜といっていい午前3時頃、尿意もあって突然目覚めた。
 そのとき見ていた夢は、前半部は、はっきり覚えてはいないのだが、自分が関わっている「クラブ」の友人知人たちも出てきて、我も彼らから何回もいろいろ誘われるのだが、何故か一緒の行動はとらず距離置いて頑なに拒んでいた。
 ただ、目覚める前にハッキリ覚えているのは、自分は不思議な帽子を手にしていたことで、それは薄い金物でできていて、縁はなくただ丸くて頭にすっぽり被るようにできている。
 色も赤茶けていて、かなり古いものらしい。
 それをしげしげと眺め手にして、我は、これは誰かの遺品でとても大事なものなのだと思っていた。

 そこで夢は途切れるように終わり、我は夢から覚めた。トイレに行き、しばらく夢のことを考えていたら、次いで突然我に啓示と言うか、ある新たな思いが降りてきた。
 それは、父に関することだ。
 父は、もうずいぶんすぎるほど長く生きた。十分に生きたどころか、十二分にまで生きた。何しろこの秋10月で満98歳になるのである。
 その父のために日夜我は神に祈ってきたが、ならばそれ以前に祈るべきことはもっとあることに気がついた。

 いま、世界では、ウクライナ情勢を見るまでもなく、戦禍に傷つき苦しむ人々が数多くいる。また、飢えや貧困、病、孤独に苦しみ悩む人も何億人といるはずだ。
 優先順位というわけではないが、身近な人たちへの愛や思いも大切なことだが、自分達のことだけでなく他の、今苦しんでいる人達が救われるように祈り願うべきだと突然気がついた。強い思いがわいてきた。
 父の無事や回復を祈る以前に、父のことだけではなく、まずは今苦しんでいる人たち、特に若い人たち、幼い子供たちが救われるよう祈り願うべきだと気づかされた。
 我がこと、自分のことばかり考え囚われていた身勝手さと愚かさに恥じ入った。そう、父はもう存分に生きたのである。もういつ死んでもいいじゃないか。
 神に祈り願うべきことはもっと他にたくさんある。

 このところ、旧ソ連のゴルバチョフ氏や京セラの稲盛和夫氏ら、偉大な仕事を成し遂げ一時代を築いた人たちが九十代高齢で亡くなっている。
 しかし我が父は彼らよりもさらに年上なのである。それなのにまだ更なる長寿を神に祈り願うのはあまりに傲慢、身勝手、欲深であろう。
 今まで父が生きてこれたことも、我の介護の成果なんかではなく、全ては神の意思、神の計らいなのだから、その最期のときもまた神に委ねて我はただそれを粛々と受け容れていくだけのことだ。

 そしてその我が手にしていた不思議な鉄の帽子は、一体何かと考えていたらば、ふいに兵隊の被る鉄カブトではないかと気がついた。
 古く赤茶けてところどころサビも出ていたようだったから、たぶんそれは、父が中国大陸で被っていたものなのかもしれない。
 何故そんな夢を見たのか、そこにどういう意味合い、メッセージがあるのかまだわからないが、我は、その夢以後、日々の祈りは確かに変わった。
 その夢は、いま病床で死に臨み意識朦朧としている父が我に示してくれたことかもしれない。

 もう覚悟はできた、とは正直言えやしないが、その鉄カブトの夢で我はずいぶん救われ楽になったことを記しておく。

七年目の母の命日に2022年09月08日 19時28分12秒

★そして父はまだ生きている

 拙ブログ、私事ばかり記して申し訳ない。が、父のこの世での去就が定まらぬうちは、他のことについて落ち着いて書くほど我は余裕もなく気が回らない。どうかご容赦願いたい。

 今日、9月8日は、我が母が逝った日、命日である。
 2016年の今日未明、明け方というよりまだ外は暗い頃、母は我が家で全身衰弱し精魂尽き果ててその生を終えた。それからちょうど7年が過ぎたことになる。
 今思うと、八十代半ばまで生きたわけだし、一度は、癌を克服してほぼ元通りの生活も送れていたのだから、それは早死にとかは言えないし、十分にその人生を生き尽くしたと思えなくもない。
 が、我としては、ご近所、隣界隈の母の友人知人であった婆さんたち、つまりほぼ同世代の老婦人たちが、今もまだ90歳前後でも皆さん元気で健在であることを思うとき、やはり母は癌にさえならなければ、今もまだこの世にいてくれたはずだと残念に思えなくもない。
 生きていれば、母は今92歳かそこらの歳で、母の母、我の祖母は、98歳まで生きたことを思うと、決して不可能な歳ではないと思える。
 しかし、それは今さらもう考えても仕方ないことであり、全ては神の計らいなのだとして、母が癌に罹ったこともその死のありかたも、意味のある、我にとって大きなメッセージだったと今は受け容れている。
 そして、母の死後、残された我と父である。

 ウチの大黒柱的存在というより、司令塔であった母が先に逝き、家事家計全てを父と我の二人、男世帯でやっていかなくなってしまった。
 父は、その時点でもう90歳を過ぎて、かなり認知症も進んでいたし、言われれば動けたとしても自らの判断で、何かきちんと維持管理などはもうできない状態だったから、我がけっきょく一人で全部何もかも家のことと父の世話までやらなくてはならなくなった。
 その後のことは、拙ブログで折々愚痴をこぼすように書いてきたから今さら繰り返さないが、今思うと、まだ母の死後当初は、父もずいぶん元気だったと気がつく。
 母の葬儀、関連行事では、自ら歩いてその場所に行けたと記憶するし、人前でもきちんと応対も話もできていたのだから、頭もかなりクリアであった。
 そして身体もまだかなり動けたから、その後も時に深夜寝ぼけて自室の戸を壊して抜け出し庭先に出て徘徊したことすらあった。
 今思うとその頃は、我もおちおち眠ってもいられずタイヘンだったが、父もまだそれだけ妄動もできる体力があったのだと気づく。
 近年はもうすっかり動けず、自ら一人で歩くこともままならぬようになって、一度寝かせれば朝まで大人しくそのままベッドでひたすら眠っていたのだから、それだけ確実に全身の衰弱は進んだのだった。

 じっさい、去年2021年一年間だけで、父は年明けには60キロ台あった体重が一年で、12月には50キロまで落ちてしまった。母の最期のときも同様だが、裸にしてみるとまさに骨と皮となってしまった。
 それでもこの春以降は、経口栄養缶飲料を食事があまり進まないときなど施設でも出してもらったりして、体重はやや戻って来ていたし、ウチではまあまあ食欲もあったので、介助してきた我としては今年一年、まずはこの秋、父の誕生日である10月21日を無事過ぎたら、来年の正月もきっと迎えられるだろうと漠然と「予測」していた。
 確かに頭も身体も全身の衰弱は進んでしまったが、元から頑健な大男の偉丈夫だから、百歳は無理だとしてもそこに限りなく近くまで生きるだろう、まだまだ大丈夫だと思い込んでいた。

 そこに通っていた介護施設内でのコロナ感染である。コロナ蔓延・感染拡大中の医療崩壊の最中であったが、幸いにして奇跡的に空きベッドがあり、父は7月の半ばに入院できた。
 しかし、コロナ自体は癒えたものの、長引く入院生活で心身が衰弱してしまい、8月1日に、別の病院に転院、以後、今日9月過ぎても退院できる兆しがないどころか、口から食事も摂れなくなり先だっては、担当医から呼び出され、死期の宣告も告げられてしまったのだ。
 余命は先月末、8月30日頃までかも、とのことで、我は以降、日々いつその知らせが病院から届くか、待ち望むとは違う意味で怖れつつ毎日何度も携帯電話を確認し常に傍らに置いて毎日ただ過ごしてきた。

 九州在の我の妹は、仲の良い夫婦だったから父は母の命日頃に、母が迎えに来て逝くのではないかと言っていた。
 そして先月が終わり、9月に入って、その母の命日が近づくにつれて、我自身も一日づつ命が削られるような思いでその日を迎えた。
 しかし、今日、8日の夜の段階ではまだ病院からは何も連絡はない。
父は有難くもまだこの世に在る。迎えに来た母と、はぐれてしまったのか、それともまだその時ではないと、母はいったん父を置いてあの世へ戻ったのか。
 それとも父は無意識下でも我の行く末も含めて思うところがあり、死ぬに死ねないのか。

 ともあれ人の生き死には、人知では測り知れない。ただ我は父がまだこの世に在ることに感謝して、その日その時に備えて全てを整えていこう。
 まだまだやること、やるべきことはいっぱいなのだから。まず生きている者こそがきちんと生を律していかねばならない。
 我としては、今日の8日が一つの目安にしていた。それが過ぎた先どう何を見据えていけばいいのだろうか。

明日9/11日、谷保かけこみ亭で「子猫の譲渡会」やります!!2022年09月10日 13時40分50秒

毛長の黒とマスク柄の子
★午後1時頃から参加費無料、どなたでも冷やかし大歓迎!!!

 我、マスダの父のことはさておき、その介護やらいろいろ多忙のため、ついついやるべき「処置」を怠っていたため、またまた子猫が産まれてしまいました。

 柄や模様は、画像以外にも、黒、キジ系いろいろおります。以前からお伝えしましたが、拙宅の「多頭飼育崩壊度」はさらに高まり、いよいよ「持続可能」な域を超える状態となってきました。
 すべて、私の不徳の致すところですが、せっかく生まれてきた命、何としても一匹残らず幸せにしてあげたいと思ってます。

 近年のコロナ禍日常社会で、このところ在宅での暮らしが多くなり、ペットと共に暮らす生活の意義、価値が高く見直されていると聞きます。
 猫が既におられる方も、まだ猫を飼ったことのない方も、まずは子猫たちに会いに来て、見て抱いてその愛らしさを慈しんでみてください。

 基本無料で差し上げます。問い合わせも含めて詳しくは、マスダの携帯か、拙ブログにコメント書き込んでください。非公開で確認後、その連絡先に連絡いたします。090-8175-8479

 どうか我の苦境、苦難から抜け出せるようお力貸して頂ける方はご協力のほどお願いいたします。

昨日の子猫の譲渡会、誰も来ませんでした2022年09月12日 22時32分15秒

★仕切り直してもらってもらうニャ

次回の「子猫譲渡会」は9月25日に開催します!!2022年09月13日 22時22分11秒

★谷保かけこみ亭で、日曜の午後1時頃から。

告!! 本日夕、私の父は死去しました。2022年09月14日 23時48分48秒

★いろいろ多々ご心配おかけしましたが・・・

 当ブログの読者というか、不定期的にでもここを訪れてお読み頂いている方がどれだけいるのか定かではないが、このところずっと書き続けてきた我が父のこと、お知らせいたしたい。
 父は、本日9月14日の夕刻7時前、天寿を全うし、あの世へと旅立った。この秋、10月の誕生日が来れば、満98歳となるはずの大往生でした。

 詳しいことは、明日また書き足すつもりでいるが、我が父の最期を病室で看取り、そのときはかなり泣いたものの、今は哀しみや喜びとは違う、うまく表現できぬ高揚感の中にいる。
 もう少し、せめて年内~来年の正月ぐらいまでは生きてほしい、いや、大丈夫だろうと漠然と想定していた者として、予想外かつ無念という気もなくはないが、医師から余命宣告されてからこの一か月、いつその知らせ、その時が来るかと日々スマホを常に傍らに置いて、日夜脅えつつ不安抱えて待機してきた者としては、やっとその囚われのときが終わったと解放感のような気分すらしている。

 母の時のような突然の死の訪れ、あえて考えないようにしてきた死とは違い、今回の父の場合は、父がコロナ感染で入院した時から死に至るまでのゆっくりとした流れがあった。
 じょじょに容態が悪化し心身の衰弱が進み、死に至る道筋が見えていただけに、コロナ禍ということもあって、こちらは成す術もないことが辛く苦しくもあったが、時間と共にそのときの覚悟も築くことができた。

 むろん、悔いは多々残る。父がコロナに感染しなければ、間違いなくこの秋の誕生日は無事迎えられ、介護施設で盛大なバースデーパーティも受けたはずだし、来年のことはともかく、2023年の正月は、コロナも収まり都内に住む彼の孫を二年ぶりにウチに迎えて皆で新年を祝おうと計画も立てていた。
 百歳近くまで十分すぎるほど生きたのだから、もう当人は悔いはないはずだし、我も母の死からちょうどこの9月で早や7年、女手なしに我一人で父を介護してここまで生き永らえさせられたわけだから、まあ善戦したと自ら思えなくもない。
 やっとこれで親たちから解放されて、自分一人の、自分だけの人生が始まることへの不安も多々あるが、喜びではないとしても期待と希望もある。それはとりもなおさず生活苦を漠然と覚悟のうえでのことだが。

 父は、結局この家には戻らせず、申し訳ないが、今は葬儀会社の手配でそこの冷えた霊安室に安置されている。
 そしてこの日曜午前に立川の火葬場で骨となって我が家に帰宅する。そのときまで有難いことに少しだけ日にちがある。
 これから親戚や関係者も含めてあちこちに連絡したり諸処の手続きに追われる。
 母の時は、九州から我の妹が上京してくれたので兄妹で、それらに対応したが、今回は全て我一人でやらねばならない。大変だが、父にしてあげられることがまだあるのが有難い。
 拙ブログもそうした作業の合間みて書き足していくつもりでいる。

 ともあれ、長くご心配おかけしましたが、ついにそのときが来たわけで、やっとこれで我の人生も、残りの三分の一に移っていくことになる。※我も父の歳まで無事に生きられたとしての話。
 ニンゲンの家族がもはや一人もいない、たった一人での人生が始まっていく。
 悲しみや後悔、悔やむのはほどほどにして、ともかく必死に生きていかねばならない。もはや父の年金を頼りにすることできないのだ。

 皆様、諸々ご心配おかけしました。多々ご支援ご声援有難うございました。神よ、我ら親子に哀れみと慈しみを!!

すみません!! 慌ただしくて2022年09月16日 22時15分44秒

★日曜の父の火葬を前にして

 父の死に際して葬儀などの話。
 もう誰も父方、母方含めて、その兄弟姉妹は誰も来ないだろうと考えて、我は勝手に葬儀的な集まりは、一切しないことを決めたわけだが、やはりその訃報は親戚方にはもれなく伝えねばならない。
 しかしもう父の兄弟姉妹で今もまだ生きている人はほぼいないのである。
 ほとんど面識や記憶のないその息子や娘たちに我が父の訃報を知らせるのはけっこう面倒かつ気苦労の多いことであった。

 ウチは、母の妹弟は、父よりいくぶん若いこともあり、まだ健在の人も多いのだが、今回わかったことは、父の妹弟では、生存している人は妹一人だけであり、母の妹弟たちでさえ、もはや動ける人はごく少ないということで、その亡くなった当人が、九十代ともなると、葬送じたいやっても集まれる人が少なくなるという現実だ。
 友人知人がいたとしても、通常、それもまた同世代であるわけで、気軽に来れる人はとうぜん少なくなる。
 
 長生きするということは、世に美徳や善きことだとされる反面、つまるところ親身になって送る側の人たちも少なくなるわけで、その兄弟の子や孫ともなると、その亡くなった老人に対する悲痛の思いや哀しみは格段に下がると言わざる得ない。
 つまるところ、その悲しみとはどれだけ同時代を共に生きたか、その思い出を共有しているかということであり、葬儀というものは、じっさい、そうした人たちのために在るものだと思い至った。

 今日やっと、結構苦労して、父の妹弟たちの子供たち、つまり我の従弟にあたる人たちと電話連絡して父の死を伝えたわけだが、疲れ果てた。
 何しろ父母の世代は、ともかく兄弟姉妹が多いのである。父は六人、母は七人も兄弟姉妹がいたのである。妹が唯一の我としては、ちょっと想像もつかない数だ。
 また、いとこ同士で互いに連絡とり合って仲のいい一族もいるのかもしれないが、ウチはそんなことはなく、いとこもまた多々いるはずなのだが、苗字も結婚して変わっているため、いったい誰が誰だか皆目わからない。
 そもそも我はそうした関係じたいまったく関心も興味がない気質だったので、電話で伝えることもかなり苦労した。

 テレビの人気番組、「ファミリーストリー」的な、その一族の繋がり、ルーツに関心が強く、思いを寄せる人も多々いるとは思うが、我にとって家族、一族とは、祖父母、父母、そしてせいぜい父母の兄妹姉妹までであり、その先にまで手を広げて連絡していかねばならないことは、かなりタイヘンなことであった。

 というわけで、当然予想されたことだが、やはり突然慌ただしくなってしまい、落ち着いて今は、父のことも何もかも振り返ることができやしない。
 申し訳ないが、この日曜がまずは終わって、父の遺骨を抱いて帰宅してから、その時の思いも含めてきちんと書き記していきたい。

 しかし、先にも書いたが、母の時に比べると気持ちもその支度全般も、ずいぶん楽で心は落ち着いて安閑としている。
 やはり入院してから二か月という気持ちの準備時間があったことと、超高齢の死ということに加えコロナ禍ということでごく小規模に、ミニマムにということに、ということが大きい。

 そう、死者は生者を煩わすべからず、というのは一面の真理なのである。哀しむ人が少なければ、本来葬儀などごく身内だけで済ませば良いのだと今思っている。
 有名人はともかくも、名もなき市井の人はそれで良いのだ。

お心遣い有難く受け取りました。2022年09月17日 21時53分25秒

★ともかくまずは明日、火葬儀終えてから。

 拙ブログには直にコメントなどは一切ないが、個人的には当方に、何人か友人たちから、お悔やみと励ましのメールが届き、ただただ有難く思いました。
 個別の方ごとに今は、御礼の返事する時間的余裕がないので、申し訳ないが、この場でまず御礼と感謝を申しあげたい。有難うございました!!

 当ブログ、基本的に誰もコメントなどは書き返して頂けないのだけど、我が思っていたよりも多くの人がお読み頂いているのだと今回の件で気づかされた。反応があったということは多くの読み手がいてその方々に拙くとも届いていたのだ!!

 ともあれ、まずは父のことを片付け、終わらせて、次は増えすぎた猫たちのこと、そして家の内外の片付けのことなど、まさに前途多事多難ではあるがともかく一つ一つ取り組んでいけば、やがてそれらは全て解決しなくとも改善されて次の段階へと移行できるに違いない。

 我はこれでとうとう一人になったと思っていたが、決して天涯孤独というわけではないことを今回確認できた。
 皆さんの厚い励ましと慰安のおかげで、我は独りぼっちではないと気づかされた。
 
 その思いに報いるためにも残りの人生の指針を得た気がしている。