父の火葬儀を終えて思うこと、2022年09月19日 09時06分20秒

★父の旧い朽ちた身体は、骨だけとなって帰宅した。

 今日は19日、敬老の日である。外は大型の台風襲来を前に時おり滝のように強い雨が降ったりやんだりしている。
 我が父は、7月半ばに、コロナに感染、入院し、けっきょくそれが引き金となって心身の衰弱が進み、去る9月14日に市内の療養型病院で死去した。97歳と11か月、この10月の誕生日が来れば、98歳にならんとする大往生であった。

 そして昨日、強い雨が断続的に降り続く中、立川の葬祭場で、火葬儀が粛々と行われ、今、父は、骨壺に入って我が家に二か月ぶりの帰宅となった。
 遺体となってもその肉体がまだこの世に在るうちは、存在を実感できたのだが、その老いて朽ち果てた肉体が焼かれて砕けた骨だけの姿になると、ようやく今になって我が父は、この世から消えてしまった、ほんとうに死んでしまったのだと、実感のような気持がわいてきている。
 といっても、正直なところ未だ覚めない夢を見ている、これが現実なのか、と夢の中の出来事のような気もしているのだが。

 父は、近年、二つの介護施設に、それぞれ二泊三日で泊まっていたので、実際のところウチにはあまりいなかったのだが、それでも必ず月曜と木曜の夕刻には帰って来ていた。そして金曜は終日我が家で過ごしていた。
 だから不在がちでもまた必ず帰って来ていたわけなのだが、もうその肉体は帰っては来ない。七月半ばの入院を境に、その日常は永遠に失われてしまったのだ。
 もう何年もずっと続いてきたその定期的な日常、習慣がとつぜん終わってしまい、体の一部は骨となって家には今在るのだけど、じっさいのはなし、父はもうこの世のどこにもいないし、もう二度とウチには帰ってこない、のだ。

 今更ながら、そのことを思うと、外の滝のように断続的に降る強い雨を窓から見ながら、この「現実」にどう向き合うか、どう、これからその不在の日常を受け容れていくか、涙垂れ流しながらこれを書き記している。
 そう、我が父は本当に死んでしまったのだ!! 骨になって体の一部は帰ってきたけれど、あの大きかった男はもうこの世のどこにもいないのだ。

 いっぽう、これでやっと不自由な肉体から解放されて、最愛の妻の待つところに行けたのだから、それはとてもつなく良いことだとも思える。
 我の哀しみは哀しみとして、これからも続くだろうが、父にとってはこれは善いこと、正しい、あるべきことだったと思わねばならない。

 癌で先に逝った母とは7年も離れてしまっていたが、ようやく再びあの世で今頃は手を取り合い再会を喜んでいることだろう。
 そして旅行好きの夫婦だったから、今頃は二人でまた新たな旅の計画を立てたり、いや、まずはこの7年間の間の出来事を二人して語り合っていることであろう。

 我は来世や前世はともかく、あの世、天国のようなところや、魂の存在は確実に在ると信じている。
 ただ残念なことは、今我らがいるここ、肉体の世界の現実とは、また別の世界のはなしであり、彼らは自由にこちらに来たり、こちらの様子を窺い知ることはできるのかもしれないが、我らに姿は見えない、声も聞こえない。残念ながら完全な没交渉でしかなく、いかんせん相互に関わり合うことはできやしない。
 届くのはこちらの思いだけであり、彼らの思いや気持ちも時に夢を通したり、神の手を借りて顕れ守り慈しみ憐れんでくれたりはしてくれるが、はっきりと現実世界には現れてはこない。
 どんな宗教であれ、だからこそ彼ら亡き人たちを思い偲び、その人がいたからこそ、と忘れないよう常に語りかけ感謝を忘れてはならない。   

 某怪しき邪教では、先祖や亡き人が祟っていると称して供養のためにと、高額な商品を買わせたりして残された家族を経済的にも破滅破綻させたりもするが、それは宗教以前のはなしであり、亡き人たちがどうして子々孫々に恨みを抱いたり不幸を願うであろうか。
 彼らは別の世界からではあるが、常に我らの安寧と幸福を願い、神と共に我らを見守ってくれている。
 ならばこそ我らも彼らに感謝して、その亡き人の思いを応えるようしっかりと正しく生きていかねばならぬと気づく。

 いつかもう一度、必ず我らは先に逝ってしまった人たちと再会できる。母も父も、そして多くの先に逝った友人、仲間たちの顔が思い浮かぶ。
 この世はまさにひとときの仮の世界であり、肉体は単なる魂の入れ物にしかすぎない。
 全ての物が朽ちて終わりの日が来るように、この現実世界では永遠のものなど何一つない。
 ただ、肉体に入っていた魂だけは不滅であり、死に臨んではこの不自由な肉体から解き放たれて自由に、全てのものを作り与えてくれた御方の元へと旅立つ。
 その世界の姿は、我らは決して窺いできない。が、魂だけの姿となってまた再び皆と会え、喜び語り合える時が来るのなら「死」もまた怖くなどない。

 亡き人のことを思い、今世の別れの悲しみは哀しみとしてただただ深く哀しみながら、この現実世界を、父がいなくなった日常をこれからもしっかり生きていかねばならないと誓う。
 我のどうしようもない人生だが、投げ出さずしっかり丁寧にこれからも維持していこう。父や母の愛と恩に報いるためにも。再開したとき、胸張って会えるために。
 そしてこんな弱く愚かな我を哀れみ支え、常に助けてくれた有難き友たち、愛する人たちのためにも。