父の死の前後のことなど記す2022年09月20日 08時33分37秒

★そしてこれからについても

 台風は、今どこにいるのかわからないが、こちら側、関東の多摩地域では、昨日は風は強かったものの雨は大したことなく、被害呼べるほどのことは何もなかった。
 朝方は曇っていたが、今、8時半頃、外は晴れてきて明るくなってきた。

 父の死について報告がてら思ったことなどを記している。
 一昨日の日曜、18日に、火葬を終えて遺骨は今ウチに帰ってきたことは書いた。
 そして昨日も祝日だったので、諸届けなどの連絡作業などもできず、我は午後はひたすら昼寝したりのんびりでき、この数日の疲れも癒すことができた。
 これから我の、父の死後、の人生が始まるわけで、その準備、新たな人生の計画や支度にとりかからなければならない。
 その前に、自らの備忘録のためにも、父の死の前後数日のこと、火葬した当日のことについても書き記しておく。

 我が父は、14日、水曜の夕方に逝ったのだが、実はその前日に、我が実妹、父の唯一の娘が、遠く九州の大分の山奥から見舞いに来た。
 父は娘に会えたので、やっと何も心置きなく安心して旅立てたのだと今思える。

 以下、経緯を記す。
 先にも書いたが、父の妻、我の母が逝ったのは、2016年の9月8日のことで、父の余命宣告が8月末頃、と告げられてから、たぶんその母の命日の頃、8日前後に父も母に導かれて旅立つだろう、と、妹も我も漠然と予想していた。
 が、その予定推定日を過ぎても父はまだ存命で、我としては先のことが見えなくなってやや戸惑いながら、その週を終えた。

 そして翌週、12日の月曜日夕方になったら、父のいる病院の看護師から、いよいよ死期は迫り間もない状態になってきた、と電話連絡があった。生前の面会希望するなら明日にも来てくれ、また、いつ、その連絡がいくかわからないので携帯離さず待機するように、とも。
 そのことをすぐさま妹に電話したら、その晩、彼女からまた連絡があり、いろいろ考えたが、明日、新幹線で上京し見舞いに行く、と言ってきた。そして日帰りで帰る、と。

 我としては、妹が住むところは、大分の山奥、景勝地の耶馬渓なので、新幹線に乗るまでも2時間はかかるらしいと知ってたから、タイヘンだから無理せずともと諫めたが、結局妹は、翌日13日、上京してきた。
 午後3時半頃、妹は立川からのタクシーで慌ただしく駆けつけて来て、我ら兄妹は、父と対面できた。母亡き後、親子三人での最期の対面である。
 先月の末に、父の孫である、妹の息子、我にとって甥っ子と見舞いに行けたのだが、そのときは目も開けず反応はあまりなかったのに、今回は視点は定まらぬものの、目覚めた状態であった。ちょっと驚いた。
 ただ声かけや手を握ってもはっきりした意思表示は返ってこなかったが、短時間でも娘と再会できたこと、見舞に来たことは間違いなく彼の意識下に伝わったと信じたい。

 妹はまたすぐさまタクシーで立川に戻り、夕方6時過ぎの新幹線に何とか間に合い、深夜遅くに帰宅できたとのことであった。
 彼女のところも高齢の義母を抱えていて、今、通っている介護施設がコロナで利用できないとのことで、義母を家に残してのまさにとんぼ返りであった。
 翌日、妹から昼間届いたメールには、父は、これで孫にも娘にも会えたわけで、もう何一つ思い残すことはないだろうと書いてあったが、まさにその通りに、その日の夕方、父は古い肉体から解放されて母の待つ世界へ旅立ったのだった。

 その14日は、午後から習慣の昼寝を昼食後少しして、3時頃起きて、さてどうしようかと考えた。というのは、父のコロナ入院のときの保健所に提出しないとならない書類には、住民票と課税証明書が必要とのことで、市役所に取りに出向かないとならない。※それを保健所に提出しないと公費負担にならず、入院費用は実費で請求されてしまう。
 明日でもいいか、と迷いもしたが、午前中は市役所は込み合うので、行くなら夕方のほうが待たされずに済むと考えなおして、自転車で閉庁時間の5時近くに行った。
 書類申請にやや手間取ったものの、5時過ぎには書類を手にでき、自転車に乗って帰宅しようと走り出したとき、携帯が鳴った。
 予想したようにそれは病院からで、父は、心拍数も下がり苦しがっているからすぐ来られるか、とのことだった。

 いったん書類とか置きに家に戻ることも考えたが、やはり急いで駆けつけたほうがいいだろうと、ともかく必死にペダルを漕いで、市役所からだと30分近くかかるはずの市内のはずれにある病院に駆けつけた。
 5時半過ぎに病院に着いた。窓口に駆け込み事務員に話したら、すぐ三階の病室へ、と指し示されて父のところに足早に駆けつけた。

 ※続きは後ほど書きます。