父の死の前後のことなど・続き2022年09月22日 10時38分40秒

★火葬を終えて今振り返る。

 9月14日の夕刻、市内の病院にいる、重篤の父が容態悪化との連絡受けて、我は急いで自転車で走り、彼の個室にかけこんだ。
 ベッドに横たわっている父以外は誰もいない。前日に、九州から来た妹と見舞いに来た時と様子は変わらない。
 父は、透明な酸素マスクを鼻と口にあてられて眠っているようであった。ただ、息をしているかはわからない。
 すぐに看護婦が入って来て、お父様はたった今、亡くなられましたと告げる。が、触ってみるとまだ身体は暖かく、固くもなっていない。
 次いで入ってきた担当医は、その看護師の言葉を否定し、まだ確定ではないと言い、別室でモニターで見ているから、また来ます、最期のお別れを、と促された。

 じっさい、父に声をかけて、手を擦ったりしていたらば、目は閉じたままだったが父は少しだけ動いて、口も開けて何か言いたそうでもあった。
 しかし、しだいに反応はなくなり、我は、ただ労いと感謝の言葉をかけながら、握っていた父の手を彼の胸に組んであげた。
 閉じた父の目には、うっすら涙がにじんでいるように見えた。

 少しして医師と看護師が入って来て、医師は聴診器を胸に当てて心音を確かめ、ペンライトを閉じた目に照らして確認を終えて、「ただ今、亡くなられました」と告げた。
 時刻は、午後5時54分であったと思う。

 それからご遺体の処置があるけれど、これから夕食の時間帯で、人手も足りないので、ご遺体の搬送できるのは8時過ぎ頃になると言う。
 ならば、我も一度家に戻ることにして、病室を後にした。看護師はてきぱきとさっそく父に着けられていた酸素マスクや心電図のセンサーなどを外し始めていた。

 一階の受付ロビーで、事前に一報入れておいた、まず葬儀会社に父の死を知らせて、遺体の搬送をお願いした。すぐに担当者が向かうと言うが、8時過ぎでと伝えた。
 それから、妹や甥っ子や親しい人たちに携帯で訃報を伝えて、我は暗くなった道をまた30分近くかけて家に自転車で戻った。
 喉が渇きを覚え、途中で缶ビールの500ml缶を買った。

 家に戻ったのは、ちょうど午後7時ぐらいだったか。庭先で母方の親戚に父の死を電話連絡し、葬儀などは考えていないことなども告げ、他の兄弟姉妹にも伝えてもらえるよう頼んた。
 家の猫たちに晩御飯を与える前に、まず缶ビール片手に犬の散歩も済ませて、自室で父を知る我が親友にも電話かけたりしていたら、8時近くになってしまった。
 慌ててまた自転車で町はずれの病院までひた走る。着いたのは8時15分頃だったか。

 葬儀社の人はもう既に来られて待機していた。
 受付で、まず我だけ病室に行くよう促され、死んでしまった父と改めて対面した。父は病院のパジャマ姿ではなく、昨日、我が持って行った父が家でいつも着ていた普段着に着替えさせられていた。胸には先ほどまでは外されていた十字架がかけられている。
 口が開いたままなので、どうにかならないかと看護師に言ったら、もう死後硬直していて難しい、後は葬儀社の人にお任せしたほうが・・・と。

 すぐに下からその葬儀社の担当の人と、もう一方がストレッチャーを引いて上がって来て、父はあっという間にそれにベッドから移し替えられてエレベータに載せられて一階へ。
 そのまま自宅には帰さずに、国立市のその葬儀社の冷蔵保管室へとバンに載せられて走り去って行った。
 担当医と看護師たちはその車が走り去るまで丁重に頭を下げて見送ってくれた。

 それから我は、葬儀社のNさんと、病院のロビーで火葬のことなど、金額なども含めて今後の流れを詳しく相談した。
 その人は、母の葬儀の時も担当してくれた人だそうで、いろいろ無料サービスはしてくれたものの、「火葬儀」ということでも、見積もりは33万~ということになった。
 その火葬儀は、9月18日、日曜の午前11時に立川聖苑に集合し、11時半より火葬ということに決まった。遺影の写真などはこちらで用意することに。

 打ち合わせが全て終わって、自宅に帰ってきたのは、9時半を過ぎていたのではないか。もっと遅かったのかも。
 その晩は、すぐに寝ようと思って早めに床に就いたが、なかなかやはり眠れなかったかと記憶する。

 翌日から、火葬の当日までに、親戚縁者などに連絡をしないとならないのでその作業、手配などで突然慌ただしくなった。母方はともかく父方は、もう実の妹弟で健在の人はもう一人しかいない。故に連絡とろうにも皆、その子息、娘たちなので名字もかわっていたりして誰が誰でどういう関係なのか我はよくわからない。
 お骨を拾うの人が我と甥っ子ぐらいではあまりに少なく父も寂しいだろうと、妹も心配して、また飛行機でそのためだけに上京も、と考えたようだが、その前々日来たばかりだし、ちょうど大型の台風が九州を直撃してくるという状況もあって断念してもらった。

 代わりに我の古くからの女友達で、我の母も父のこともよく知っている人たちが来てくれて、我入れて4人で無事にお骨を拾うことが出来た。
 他にも顔も覚えていない従姉や、我の親友も人が少ないなら行こうか、と申し出てくれたが、台風も来ていたことだし、丁重にお断りした。
 そして父の骨壺を抱えて、立川市内の中華飯店で、4人で食事して散会し、我が父の「火葬儀」は終わり、お骨は今、ウチに帰り畳の上に鎮座している。
 諸事情でウチは今家中、とっちらかって足の踏み場もないような状態なので、父が生前食事したりテレビを見ていた居間だけでも片づけて、骨壺の置き場所をきちんと作らねばと思っている。
 
 今後のことだが、昨日やっとウチのお寺さんに電話して、納骨までの流れ、予定も見えてきた。
 町田に在る、我の祖父母や母も収められているウチの墓所には、10月の終わりの土日のいずれかに寺で法要が行われて、父の遺骨もその墓に収められることと決まった。

 いろいろまだまだ今回のひと騒動に関しては書き記しておきたいことなど多々あるけれど、まずは、ひとまず「報告」は終わりにしておきたい。
 我に対しては、このブログなどで父の死を知った友人知人方々から、お見舞いとお悔やみのメールを多々頂いた。
 後ほどきちんと個々に御礼申し上げたいと思っているが、改めてその愛とお志にこの場でまず深く厚く感謝いたしたい。
 ほんとうに有難うございました。皆さまにも神のご加護を!!

 我は、この亡き父と母から、都内で産まれて幼い頃に今住むこの地に移ったのだが、そのときは、祖父母も健在だったし、父の妹弟たちも同居していたのでともかく大家族であった。そう、昔のテレビのホームドラマのように。
 が、その父の妹、弟たちは結婚して家を離れていき、祖父母は順次亡くなり、我が家は、父母と我と妹だけの四人家族となった。
 その妹は学生時代に早くから家を出て、やがて職場で九州の大分出身の人と出会い、その地に一家を構えたが、我は、若い頃はこの家から独立したこともあったが、もう何十年も老いていく父母と三人暮らしが続いていた。
 そしてまず2016年9月に母が先に逝き、そし7年後、の同じ9月に、ついに父が死んでしまった。
 我はとうとうこの広い大きな家にたった一人となった。
 かつての大家族であった頃を思うと、祭りが終わった後のような寂しさを覚える。みんなどこへ行ってしまったのだろう。

 しかし幸い?いまは、動物たちがものすごくたくさんの数ウチにはいる。まずはその子猫たちの貰い手を探して一匹でも新たな飼い主の元で幸せになってもらうことだ。
 動物も一匹もいないでこの家で自らとただ向き合う孤独に直面したらば、我も江藤淳のように自裁したに違いない。
 有難いことに、我には、その動物たちと多くの暖かい、我を哀れみ手を差し伸べてくれる友人たちがいる。そして神の存在もまた。
 孤独をしみじみ味わう暇もない。生きていくということはなんとやること、やるべきことがいっぱいあることか!!
 今日はやっと修理に出していた愛車が直って帰ってくる。

 ただただ全て感謝。
 もう今はこの世に亡き人たちの魂に平穏とやすらぎを。