台風の雨の中、父の火葬儀は本日無事終わりました。2022年09月18日 23時29分44秒

★我が人生の最大の転換点、節目のときを終えて

 おかげさまで、本日、父の火葬は終えることができました。
 拙ブログを読まれた方々に改めて、心より感謝、御礼申し上げます。

 今日の詳しい報告も含め多々思うことやいろいろ書き記したいこともありますが、今日は早朝起きてから昼寝もせず、一日慌ただしかったので、さすがに疲れ果てたのと、ブログ書くとまたコーフンしてしまい、なかなか眠れなくなりそうなので、申し訳ありませんが、まずは日付が変わる前に床につきます。詳しい報告は明日からに。

 我が人生の大きな転換点であると同時に、最大の危機でもある、父の死、というよりも「父の本当の不在」をこれからどう受け容れ、その現実と向き合っていくか、正直、大きな不安、怖れがあります。
 妻も子もなく、たった一人で生きていかねばならぬ人生、どうか皆様、この誰よりも弱く愚かな私を見捨てず、お助けください。たまには声をかけてください。
 私も皆さんと共にこれからも生きていきたい。

父の火葬儀を終えて思うこと、2022年09月19日 09時06分20秒

★父の旧い朽ちた身体は、骨だけとなって帰宅した。

 今日は19日、敬老の日である。外は大型の台風襲来を前に時おり滝のように強い雨が降ったりやんだりしている。
 我が父は、7月半ばに、コロナに感染、入院し、けっきょくそれが引き金となって心身の衰弱が進み、去る9月14日に市内の療養型病院で死去した。97歳と11か月、この10月の誕生日が来れば、98歳にならんとする大往生であった。

 そして昨日、強い雨が断続的に降り続く中、立川の葬祭場で、火葬儀が粛々と行われ、今、父は、骨壺に入って我が家に二か月ぶりの帰宅となった。
 遺体となってもその肉体がまだこの世に在るうちは、存在を実感できたのだが、その老いて朽ち果てた肉体が焼かれて砕けた骨だけの姿になると、ようやく今になって我が父は、この世から消えてしまった、ほんとうに死んでしまったのだと、実感のような気持がわいてきている。
 といっても、正直なところ未だ覚めない夢を見ている、これが現実なのか、と夢の中の出来事のような気もしているのだが。

 父は、近年、二つの介護施設に、それぞれ二泊三日で泊まっていたので、実際のところウチにはあまりいなかったのだが、それでも必ず月曜と木曜の夕刻には帰って来ていた。そして金曜は終日我が家で過ごしていた。
 だから不在がちでもまた必ず帰って来ていたわけなのだが、もうその肉体は帰っては来ない。七月半ばの入院を境に、その日常は永遠に失われてしまったのだ。
 もう何年もずっと続いてきたその定期的な日常、習慣がとつぜん終わってしまい、体の一部は骨となって家には今在るのだけど、じっさいのはなし、父はもうこの世のどこにもいないし、もう二度とウチには帰ってこない、のだ。

 今更ながら、そのことを思うと、外の滝のように断続的に降る強い雨を窓から見ながら、この「現実」にどう向き合うか、どう、これからその不在の日常を受け容れていくか、涙垂れ流しながらこれを書き記している。
 そう、我が父は本当に死んでしまったのだ!! 骨になって体の一部は帰ってきたけれど、あの大きかった男はもうこの世のどこにもいないのだ。

 いっぽう、これでやっと不自由な肉体から解放されて、最愛の妻の待つところに行けたのだから、それはとてもつなく良いことだとも思える。
 我の哀しみは哀しみとして、これからも続くだろうが、父にとってはこれは善いこと、正しい、あるべきことだったと思わねばならない。

 癌で先に逝った母とは7年も離れてしまっていたが、ようやく再びあの世で今頃は手を取り合い再会を喜んでいることだろう。
 そして旅行好きの夫婦だったから、今頃は二人でまた新たな旅の計画を立てたり、いや、まずはこの7年間の間の出来事を二人して語り合っていることであろう。

 我は来世や前世はともかく、あの世、天国のようなところや、魂の存在は確実に在ると信じている。
 ただ残念なことは、今我らがいるここ、肉体の世界の現実とは、また別の世界のはなしであり、彼らは自由にこちらに来たり、こちらの様子を窺い知ることはできるのかもしれないが、我らに姿は見えない、声も聞こえない。残念ながら完全な没交渉でしかなく、いかんせん相互に関わり合うことはできやしない。
 届くのはこちらの思いだけであり、彼らの思いや気持ちも時に夢を通したり、神の手を借りて顕れ守り慈しみ憐れんでくれたりはしてくれるが、はっきりと現実世界には現れてはこない。
 どんな宗教であれ、だからこそ彼ら亡き人たちを思い偲び、その人がいたからこそ、と忘れないよう常に語りかけ感謝を忘れてはならない。   

 某怪しき邪教では、先祖や亡き人が祟っていると称して供養のためにと、高額な商品を買わせたりして残された家族を経済的にも破滅破綻させたりもするが、それは宗教以前のはなしであり、亡き人たちがどうして子々孫々に恨みを抱いたり不幸を願うであろうか。
 彼らは別の世界からではあるが、常に我らの安寧と幸福を願い、神と共に我らを見守ってくれている。
 ならばこそ我らも彼らに感謝して、その亡き人の思いを応えるようしっかりと正しく生きていかねばならぬと気づく。

 いつかもう一度、必ず我らは先に逝ってしまった人たちと再会できる。母も父も、そして多くの先に逝った友人、仲間たちの顔が思い浮かぶ。
 この世はまさにひとときの仮の世界であり、肉体は単なる魂の入れ物にしかすぎない。
 全ての物が朽ちて終わりの日が来るように、この現実世界では永遠のものなど何一つない。
 ただ、肉体に入っていた魂だけは不滅であり、死に臨んではこの不自由な肉体から解き放たれて自由に、全てのものを作り与えてくれた御方の元へと旅立つ。
 その世界の姿は、我らは決して窺いできない。が、魂だけの姿となってまた再び皆と会え、喜び語り合える時が来るのなら「死」もまた怖くなどない。

 亡き人のことを思い、今世の別れの悲しみは哀しみとしてただただ深く哀しみながら、この現実世界を、父がいなくなった日常をこれからもしっかり生きていかねばならないと誓う。
 我のどうしようもない人生だが、投げ出さずしっかり丁寧にこれからも維持していこう。父や母の愛と恩に報いるためにも。再開したとき、胸張って会えるために。
 そしてこんな弱く愚かな我を哀れみ支え、常に助けてくれた有難き友たち、愛する人たちのためにも。

父の死の前後のことなど記す2022年09月20日 08時33分37秒

★そしてこれからについても

 台風は、今どこにいるのかわからないが、こちら側、関東の多摩地域では、昨日は風は強かったものの雨は大したことなく、被害呼べるほどのことは何もなかった。
 朝方は曇っていたが、今、8時半頃、外は晴れてきて明るくなってきた。

 父の死について報告がてら思ったことなどを記している。
 一昨日の日曜、18日に、火葬を終えて遺骨は今ウチに帰ってきたことは書いた。
 そして昨日も祝日だったので、諸届けなどの連絡作業などもできず、我は午後はひたすら昼寝したりのんびりでき、この数日の疲れも癒すことができた。
 これから我の、父の死後、の人生が始まるわけで、その準備、新たな人生の計画や支度にとりかからなければならない。
 その前に、自らの備忘録のためにも、父の死の前後数日のこと、火葬した当日のことについても書き記しておく。

 我が父は、14日、水曜の夕方に逝ったのだが、実はその前日に、我が実妹、父の唯一の娘が、遠く九州の大分の山奥から見舞いに来た。
 父は娘に会えたので、やっと何も心置きなく安心して旅立てたのだと今思える。

 以下、経緯を記す。
 先にも書いたが、父の妻、我の母が逝ったのは、2016年の9月8日のことで、父の余命宣告が8月末頃、と告げられてから、たぶんその母の命日の頃、8日前後に父も母に導かれて旅立つだろう、と、妹も我も漠然と予想していた。
 が、その予定推定日を過ぎても父はまだ存命で、我としては先のことが見えなくなってやや戸惑いながら、その週を終えた。

 そして翌週、12日の月曜日夕方になったら、父のいる病院の看護師から、いよいよ死期は迫り間もない状態になってきた、と電話連絡があった。生前の面会希望するなら明日にも来てくれ、また、いつ、その連絡がいくかわからないので携帯離さず待機するように、とも。
 そのことをすぐさま妹に電話したら、その晩、彼女からまた連絡があり、いろいろ考えたが、明日、新幹線で上京し見舞いに行く、と言ってきた。そして日帰りで帰る、と。

 我としては、妹が住むところは、大分の山奥、景勝地の耶馬渓なので、新幹線に乗るまでも2時間はかかるらしいと知ってたから、タイヘンだから無理せずともと諫めたが、結局妹は、翌日13日、上京してきた。
 午後3時半頃、妹は立川からのタクシーで慌ただしく駆けつけて来て、我ら兄妹は、父と対面できた。母亡き後、親子三人での最期の対面である。
 先月の末に、父の孫である、妹の息子、我にとって甥っ子と見舞いに行けたのだが、そのときは目も開けず反応はあまりなかったのに、今回は視点は定まらぬものの、目覚めた状態であった。ちょっと驚いた。
 ただ声かけや手を握ってもはっきりした意思表示は返ってこなかったが、短時間でも娘と再会できたこと、見舞に来たことは間違いなく彼の意識下に伝わったと信じたい。

 妹はまたすぐさまタクシーで立川に戻り、夕方6時過ぎの新幹線に何とか間に合い、深夜遅くに帰宅できたとのことであった。
 彼女のところも高齢の義母を抱えていて、今、通っている介護施設がコロナで利用できないとのことで、義母を家に残してのまさにとんぼ返りであった。
 翌日、妹から昼間届いたメールには、父は、これで孫にも娘にも会えたわけで、もう何一つ思い残すことはないだろうと書いてあったが、まさにその通りに、その日の夕方、父は古い肉体から解放されて母の待つ世界へ旅立ったのだった。

 その14日は、午後から習慣の昼寝を昼食後少しして、3時頃起きて、さてどうしようかと考えた。というのは、父のコロナ入院のときの保健所に提出しないとならない書類には、住民票と課税証明書が必要とのことで、市役所に取りに出向かないとならない。※それを保健所に提出しないと公費負担にならず、入院費用は実費で請求されてしまう。
 明日でもいいか、と迷いもしたが、午前中は市役所は込み合うので、行くなら夕方のほうが待たされずに済むと考えなおして、自転車で閉庁時間の5時近くに行った。
 書類申請にやや手間取ったものの、5時過ぎには書類を手にでき、自転車に乗って帰宅しようと走り出したとき、携帯が鳴った。
 予想したようにそれは病院からで、父は、心拍数も下がり苦しがっているからすぐ来られるか、とのことだった。

 いったん書類とか置きに家に戻ることも考えたが、やはり急いで駆けつけたほうがいいだろうと、ともかく必死にペダルを漕いで、市役所からだと30分近くかかるはずの市内のはずれにある病院に駆けつけた。
 5時半過ぎに病院に着いた。窓口に駆け込み事務員に話したら、すぐ三階の病室へ、と指し示されて父のところに足早に駆けつけた。

 ※続きは後ほど書きます。

すみません 体調悪いので2022年09月21日 21時51分37秒

続きはまた明日に 申し訳ありません

父の死の前後のことなど・続き2022年09月22日 10時38分40秒

★火葬を終えて今振り返る。

 9月14日の夕刻、市内の病院にいる、重篤の父が容態悪化との連絡受けて、我は急いで自転車で走り、彼の個室にかけこんだ。
 ベッドに横たわっている父以外は誰もいない。前日に、九州から来た妹と見舞いに来た時と様子は変わらない。
 父は、透明な酸素マスクを鼻と口にあてられて眠っているようであった。ただ、息をしているかはわからない。
 すぐに看護婦が入って来て、お父様はたった今、亡くなられましたと告げる。が、触ってみるとまだ身体は暖かく、固くもなっていない。
 次いで入ってきた担当医は、その看護師の言葉を否定し、まだ確定ではないと言い、別室でモニターで見ているから、また来ます、最期のお別れを、と促された。

 じっさい、父に声をかけて、手を擦ったりしていたらば、目は閉じたままだったが父は少しだけ動いて、口も開けて何か言いたそうでもあった。
 しかし、しだいに反応はなくなり、我は、ただ労いと感謝の言葉をかけながら、握っていた父の手を彼の胸に組んであげた。
 閉じた父の目には、うっすら涙がにじんでいるように見えた。

 少しして医師と看護師が入って来て、医師は聴診器を胸に当てて心音を確かめ、ペンライトを閉じた目に照らして確認を終えて、「ただ今、亡くなられました」と告げた。
 時刻は、午後5時54分であったと思う。

 それからご遺体の処置があるけれど、これから夕食の時間帯で、人手も足りないので、ご遺体の搬送できるのは8時過ぎ頃になると言う。
 ならば、我も一度家に戻ることにして、病室を後にした。看護師はてきぱきとさっそく父に着けられていた酸素マスクや心電図のセンサーなどを外し始めていた。

 一階の受付ロビーで、事前に一報入れておいた、まず葬儀会社に父の死を知らせて、遺体の搬送をお願いした。すぐに担当者が向かうと言うが、8時過ぎでと伝えた。
 それから、妹や甥っ子や親しい人たちに携帯で訃報を伝えて、我は暗くなった道をまた30分近くかけて家に自転車で戻った。
 喉が渇きを覚え、途中で缶ビールの500ml缶を買った。

 家に戻ったのは、ちょうど午後7時ぐらいだったか。庭先で母方の親戚に父の死を電話連絡し、葬儀などは考えていないことなども告げ、他の兄弟姉妹にも伝えてもらえるよう頼んた。
 家の猫たちに晩御飯を与える前に、まず缶ビール片手に犬の散歩も済ませて、自室で父を知る我が親友にも電話かけたりしていたら、8時近くになってしまった。
 慌ててまた自転車で町はずれの病院までひた走る。着いたのは8時15分頃だったか。

 葬儀社の人はもう既に来られて待機していた。
 受付で、まず我だけ病室に行くよう促され、死んでしまった父と改めて対面した。父は病院のパジャマ姿ではなく、昨日、我が持って行った父が家でいつも着ていた普段着に着替えさせられていた。胸には先ほどまでは外されていた十字架がかけられている。
 口が開いたままなので、どうにかならないかと看護師に言ったら、もう死後硬直していて難しい、後は葬儀社の人にお任せしたほうが・・・と。

 すぐに下からその葬儀社の担当の人と、もう一方がストレッチャーを引いて上がって来て、父はあっという間にそれにベッドから移し替えられてエレベータに載せられて一階へ。
 そのまま自宅には帰さずに、国立市のその葬儀社の冷蔵保管室へとバンに載せられて走り去って行った。
 担当医と看護師たちはその車が走り去るまで丁重に頭を下げて見送ってくれた。

 それから我は、葬儀社のNさんと、病院のロビーで火葬のことなど、金額なども含めて今後の流れを詳しく相談した。
 その人は、母の葬儀の時も担当してくれた人だそうで、いろいろ無料サービスはしてくれたものの、「火葬儀」ということでも、見積もりは33万~ということになった。
 その火葬儀は、9月18日、日曜の午前11時に立川聖苑に集合し、11時半より火葬ということに決まった。遺影の写真などはこちらで用意することに。

 打ち合わせが全て終わって、自宅に帰ってきたのは、9時半を過ぎていたのではないか。もっと遅かったのかも。
 その晩は、すぐに寝ようと思って早めに床に就いたが、なかなかやはり眠れなかったかと記憶する。

 翌日から、火葬の当日までに、親戚縁者などに連絡をしないとならないのでその作業、手配などで突然慌ただしくなった。母方はともかく父方は、もう実の妹弟で健在の人はもう一人しかいない。故に連絡とろうにも皆、その子息、娘たちなので名字もかわっていたりして誰が誰でどういう関係なのか我はよくわからない。
 お骨を拾うの人が我と甥っ子ぐらいではあまりに少なく父も寂しいだろうと、妹も心配して、また飛行機でそのためだけに上京も、と考えたようだが、その前々日来たばかりだし、ちょうど大型の台風が九州を直撃してくるという状況もあって断念してもらった。

 代わりに我の古くからの女友達で、我の母も父のこともよく知っている人たちが来てくれて、我入れて4人で無事にお骨を拾うことが出来た。
 他にも顔も覚えていない従姉や、我の親友も人が少ないなら行こうか、と申し出てくれたが、台風も来ていたことだし、丁重にお断りした。
 そして父の骨壺を抱えて、立川市内の中華飯店で、4人で食事して散会し、我が父の「火葬儀」は終わり、お骨は今、ウチに帰り畳の上に鎮座している。
 諸事情でウチは今家中、とっちらかって足の踏み場もないような状態なので、父が生前食事したりテレビを見ていた居間だけでも片づけて、骨壺の置き場所をきちんと作らねばと思っている。
 
 今後のことだが、昨日やっとウチのお寺さんに電話して、納骨までの流れ、予定も見えてきた。
 町田に在る、我の祖父母や母も収められているウチの墓所には、10月の終わりの土日のいずれかに寺で法要が行われて、父の遺骨もその墓に収められることと決まった。

 いろいろまだまだ今回のひと騒動に関しては書き記しておきたいことなど多々あるけれど、まずは、ひとまず「報告」は終わりにしておきたい。
 我に対しては、このブログなどで父の死を知った友人知人方々から、お見舞いとお悔やみのメールを多々頂いた。
 後ほどきちんと個々に御礼申し上げたいと思っているが、改めてその愛とお志にこの場でまず深く厚く感謝いたしたい。
 ほんとうに有難うございました。皆さまにも神のご加護を!!

 我は、この亡き父と母から、都内で産まれて幼い頃に今住むこの地に移ったのだが、そのときは、祖父母も健在だったし、父の妹弟たちも同居していたのでともかく大家族であった。そう、昔のテレビのホームドラマのように。
 が、その父の妹、弟たちは結婚して家を離れていき、祖父母は順次亡くなり、我が家は、父母と我と妹だけの四人家族となった。
 その妹は学生時代に早くから家を出て、やがて職場で九州の大分出身の人と出会い、その地に一家を構えたが、我は、若い頃はこの家から独立したこともあったが、もう何十年も老いていく父母と三人暮らしが続いていた。
 そしてまず2016年9月に母が先に逝き、そし7年後、の同じ9月に、ついに父が死んでしまった。
 我はとうとうこの広い大きな家にたった一人となった。
 かつての大家族であった頃を思うと、祭りが終わった後のような寂しさを覚える。みんなどこへ行ってしまったのだろう。

 しかし幸い?いまは、動物たちがものすごくたくさんの数ウチにはいる。まずはその子猫たちの貰い手を探して一匹でも新たな飼い主の元で幸せになってもらうことだ。
 動物も一匹もいないでこの家で自らとただ向き合う孤独に直面したらば、我も江藤淳のように自裁したに違いない。
 有難いことに、我には、その動物たちと多くの暖かい、我を哀れみ手を差し伸べてくれる友人たちがいる。そして神の存在もまた。
 孤独をしみじみ味わう暇もない。生きていくということはなんとやること、やるべきことがいっぱいあることか!!
 今日はやっと修理に出していた愛車が直って帰ってくる。

 ただただ全て感謝。
 もう今はこの世に亡き人たちの魂に平穏とやすらぎを。

子猫の譲渡会開催!! 明日25日、谷保かけこみ亭で2022年09月24日 12時18分22秒

大慌てで作ったら、担当者名「マスダ」が抜けてた。
★一匹でも、貰い手さんの元へと願って

 我の父の一大事のことがあったにせよ、マスダの迂闊さと怠惰、怠慢によって、うっかり増えてしまった子猫たちを、新たな飼い主を見つけてウチから送り出すために、またまた、かけこみ亭をお借りして「譲渡会」を開催します。

・日時/2022年9月25日午後1時頃から3時ぐらい迄。
・場所/ 国立市谷保かけこみ亭 南武線谷保駅下車歩3分ほど。
・電話・住所/〒186-0003 東京都国立市富士見台4-39-5-422
 042-575-2208


 当日は、店内は携帯が繋がりにくいので、店の電話におかけください。昼過ぎまではマスダの携帯 090-8175-8479 迄

 ともかく一匹でも貰い手が現れますように。子猫たちも期待に身体を大きくしてお待ちしております。※チラシの猫はほんの一部で、他にもっとたくさんいろいろな柄の子猫がでおります。
 同かよろしく、子猫一同心よりお待ちしております。
 
 この情報、ネコ好きの方などへカクサン、お知らせ願います。後日の問い合わせにも対応し、どこへでも連れて行きますので。 

 我が父の件は、とにもかくにも「片付いた」。次は、猫たち、だ。  マスダ 拝

子猫は二匹貰われましたが2022年09月27日 22時22分23秒

★まだまだ子猫います。これからどうしたらいいのか。

 父の死後の一連の作業や連絡などに追われて、そこに予定していた「猫の集い」もあって、いや、その前々日に国立の国葬反対のデモに出たこともあって、何とかそうした対外的なことをほぼ終えつつある状況だが、ともかく疲れがどっと出た。
 おかげさまで、子猫の貰い手の件、25日、何とか二匹だけ貰われていきましたが、まだ総数は桁違いに残ってて、いろいろまだ安心安堵とはほど遠い状況が続いている。
 自らの愚かさ、ダメさと病的性格から、何につけトラブルを自ら招き多事多難は生涯ついてまわると覚悟しているが、父の死後も状況は何も変わらない。

 ともかく我たった一人で、これから社会的、対外的に、我は全ての責任と向かい風を受けなくてはならない。
 が、正直早くも疲れが出た。気が緩んだのか。が、まずは父のお骨を母も待つウチの菩提寺に収めなくてはならない。
 その日程は決まった。来月の30日、日曜だ。
 そこまで何とか自らを叱咤しがんばらねばと。

 思うが、もう父はこの世にいないのだから、長く続いてきた習慣、明け方に、父のおむつ交換に起きなくてもいいのだ。が、我は今も必ず明け方、5時か6時前に一度必ず目覚めてしまう。
 それどころか、このところ早い時は午前3時とかにも尿意で起きてしまい、それから夜が白むまで、すぐに寝なおす、眠り直すこともできず、ベッドであれこれ悶々と思い考え苦しい時間を過ごす。
 何年も前に死んだ、精神を病んでいた亡き友人の口癖、「暗澹たる気持ち」に囚われる、ということがこのところよくわかる気がしている。
 父がいなくなって、哀しみよりも今感じているのは、芥川的な漠然とした不安だ。
 いったいこれから、どう生きて行けばいいのだろう。いや、正しくは、どう死んでいけばいいのだろう、ということだ。
 我はモノはなんでも有り余るほど持っている。が、本当に肝心なもの、世の人なら誰もが当たり前にもっているモノは何一つない。

 つまるところ人は何故生きていくかと言えば、愛する対象、身を捨てても守るべき、核となる人や大切なモノがあるかどうか、だろう。
 父がいなくなってしまえば、もう我にはそうしたものは何一つないことを明け方の深閑とした闇の中で、噛みしめている。

 ならば、こんな我も愛されたいと願うけれど、その資格もないこともいつも常に深く感じてわかっている。何しろ、我の心のその泉、愛の源泉はそもそもほとんど枯れているのだから。我は本当に非情な人間なのだ。
 愛される資格もない人間に求められるのは、いや、唯一頼れるものは、音楽や文学、つまり芸術ということなのだが、このところ我は、それすらも自信がなくなってきている。
 虚子の句だったと思うが、「去年今年、貫ぬく棒のようなもの」、という俳句があったと記憶するが、我の人生にはもうそうした「棒のようなもの」が見当たらない。
 やるべき 喫緊のことは山ほどある。が、人生そのもの、もう今はほんとうにどうでもいい。疲れているとそんな気分になっている。

気を取り直して、新たな人生へ進めていこう2022年09月28日 20時02分25秒

★まだできる、まだ間に合う、と信じて

 残りの人生を。もう一度きちんと生き直す、つまり、しっかり死んでいくためにも、と、このところずっと自らに言い聞かせている。

 さて、安倍元首相の「国葬」が、昨日、多くの反対世論の最中、強行された。つい先だって我が父を火葬儀のみで送った者として、死者を弔うこと、すなわち葬式、葬儀というものについて考えた。
 
 まず前提として、死後の世界、人の肉体が死んだあとに、魂は存在して死後も人は「生きている」かという問題がある。
 世界中多くの宗教はどれも、その死後の世界、つまり肉体は朽ちて無くなっても、魂は残り、その後の別世界、新たな状態、状況はあると考えてその教えが伝えられている。
 我も、亡き人たちの行く、そして今もいるその世界、「あの世」とか「天国」のような世界は必ず在ると信じているが、残念ながらまだ死んでいないので確信はできない。本当のところ、わからない。

 現世、つまり今生きている我々の世界では、証明できない故、その死後の世界は、「ない」とするならば、死者の気持ちや意向は一切考察から外してべきと考えて話を進めていく。
 と、なするならば、結局のところ「葬儀」というものは、死者のためのものではなく、生者、つまりまだ生きている我ら、現世に残された者たちのために行われるものだと断言できる。
 
 巷間、死と死者についてよくこう言われる。「死者は生者を煩わすべからず」と。死者は、大々的な葬儀・会葬の儀式など行わずただ静かに逝けばいいのだと。
 確かに我もそう思う。が、この論理には無理がある。こう望む者は、実のところ死者ではなくまだ「生者」の側にいるからだ。

死者は、生者を煩わすことなかれ、ならば。2022年09月29日 06時22分56秒

★安倍「国葬」とは、政治利用とすべてを不問、礼賛するためのもの

 巷間、誰であれ死去の報が流れる折など、上記の言葉が口の端に上がることが多い。
 が、元々の出典とされるものは、やや異なり、「生者は死者の為に煩わさるべからず」とあり、その前だか後に「葬式無用、弔問供物固辞する事」と続く。
 これは画家、梅原龍三郎が生前から認めていた遺書にあった言葉だそうで、死んでいく当人として、まだ生きている他者に対して、できるだけその手を煩わせたくないという気遣い、心遣いだと言えよう。
 そう、死者は生者をあれこれ煩わせ、面倒かけてはならないのである。

 が、先日、父を看取り送った者として思うのは、ほんとうの死者は、さほど生者を煩わすことはない、ということだ。
 煩わすのは、まだ生きているが、近く間もなく死にゆく者、死に臨む人たち、つまり老人や病人であり、我は、父がコロナで発熱、入院してから死までの約二か月間、ほんとうに日々昼夜気が気でなく、まさに心身煩わさせられた。
 いつ病院から急な電話連絡があるかと、音楽もかけられずギターも弾けず、テレビの音も小さくして、いつ携帯が鳴るかと日夜耳を澄ましていた。

 いま、骨壺に収まった、かつて大男だった我が父は、もう何も言わないしどこへも行くことはない。ただ静かに畳の上に鎮座している。
 まだまだ諸機関への手続きや親戚方などへの連絡など多々早くやらねばならぬことは山積しているが、ウチのお寺の墓所に納骨の日も決まったので、ともかくそれが終われば、もう何一つ我を煩わすことはない。
 楽で有難いと思うが、生きて家にいたときは長年我を煩わせた人が、もはや死んでしまい一切我を煩わすことがなくなってしまったことは、またそれは深い哀しみの元と言えなくもない。
 父が普段使っていた、杖や帽子、施設に行くときの、まだ一式着替えやパジャマなど衣類が詰まったバックなど目にすると、これをすぐさまきちんと処分することは今はまだとてもできないと思う。

 人は生きて、他者を煩わしてこそ生きていた証であり、死者が我らを煩わすのは、最後の葬送のときぐらいしかない。
 つまり、葬式とは、死んでいった人が、生者だった証として他者を煩わす最期の機会であり、生者は、その儀式としての集まりにおいて、自らの生と向き合い確認できるのだから、それもまた無駄、無意味だとは今は思えない。

 我も梅原画伯のように、一切無用、と思うときもあるが、葬送の儀式と会葬は、死者当人のため以前に実は残された生者のためのものだから、やはり、煩わせてもよいのではないか。
 死にゆく者が、死者は生者を煩わすべからず、と遺訓を残すのは、建前としてカッコいい気がするが、実際のところ、その当人はもうこの世にいないのならば、後のことは、生者たちの好き好きに任せて一切構わないと思える。画伯のように一方的に拒絶するのはいかがなものかという気がしている。

 明治だか大正の、あるいは戦前の作家の誰だったか忘れたが、死後、クリスチャンだったことがわかり、訃報を知り集まった彼の仲間たちは、そのキリスト教式の葬儀に馴染めず大いに不満を持ち、その遺体をどこそこに運んで、皆でその亡き友人の棺桶を囲んで痛飲したという故事を読んだ記憶がある。
 そう、それでいいのである。死とは、当人の個人的なものだが、家族親族、友人たちにとっては、公的なものに近く、ならば最後の別れとしてとことん煩わさせてもちっとも構わない。

 それにしても安倍晋三前首相の「国葬」は酷かった。自らのお友達を優遇し彼の政治に反対する我らを敵として切捨て、長期政権ゆえ驕り高ぶり、恫喝と忖度とで我が世の春を謳歌してきた者が、どうして我ら国民の税金で賄う「国葬」に値するのであろうか。
 そうした手続きも一切国会に諮ることなく、岸田現政権はまたも自民党のお家芸である、同じ「丁寧な説明」を何度でも繰り返していく、として仲間内で決定して強行してしまった。
 ふつうは、死者は生者をもう煩わすことは少ない。が、さすがに国民を金持ちと貧困層、弱者と強者に分断してきた安倍晋三は、死後もまた我らの国を分断してとことん煩わせてしまったのだ。
 そう、安倍晋三にこそ言いたい。死者は生者を煩わすべからず、と。

哀しみの月、9月も今日で終わる2022年09月30日 20時23分09秒

★さあ、気持ちを切り替えて、我もしっかり死ぬためにきちんと生きていこう
  
 父が死んだのが今月14日、母が、2016年に逝ったのも9月8日。
 これから月日は繰り返し、毎年同じく12カ月やってくるわけだけども、9月が来るたびに、我は生涯、父と母の命日の月だと思い出し、哀しみの気持ちが蘇ることだろう。
 9月は父母を失った悲しみの月として、記憶に残るだけでなく今年の 9月のことも我は死ぬまで忘れないだろう。

 今更ながら、自分は本当に何もできない人間だと思い知った。
 思いは多々、人の何倍もあったとしても、何一つ自らはきちんとできやしない。
 いま、母も父も失い、天涯孤独というほど大げさではなくいが、一人なって、これから本当に、自分の人生が始まると気づく。
 もう、周りには誰もいないのだから、自分だけの人生が始まる。
 それは自由で気楽なものどころか、全て自分一人で何もかもやっていかなくてはならないわけで、特に収入面でよほど奮起しないと早晩この人生は行き詰る。

 生活保護を受けるにしてもこの家がある限りそれは難しいだろうし、全てを売って、金にするという手もあるが、引越しや家に有るモノの処分などそのための作業だけで我が人生は尽きると思える。
 何とか断捨離のようなことをしつつ、それで糧を得て、生きていければ良いのだけれど、そう甘いものではないだろう。

 そしてもう一つ思うのは、何もできなかった我は、まだ何も本当にしていないのである。
 やりたいこと、形にして残すべきことはたくさんある。自分がしてきたことは、全て途中の状態で、まだ何一つカタチにできていない。
 それをせずに、もう敗戦処理投手のように、あるいは、負け越しが決まった力士のように、終わりに向かって撤収作業にセンネンするのはいかがなものか。

 願わくば、我の積年の思いを形にして、それで何らかの収入が少しでも得られる方法があればと思う。
 残りの人生、どう生きるかということは、どう死んでいくかということと同義である。
 いかに、きちんとしっかり思い残すことなく、我も死ねるよう、これから始まる新たな人生を再構築していかねばならない。

 神よ、こんな我に哀れみを!