今日は父の誕生日、生きていたら満98歳に。2022年10月21日 12時23分44秒

★雲一つない秋晴れの朝に

 朝、またいつものように5時台に起きてしまい、それからしばらく寝付けず、外は明るくなってきたし起きて散歩でもしようかとも考えたが、風邪気味ということもあって、がんばって布団の中でじっと寝なおしてたら再び眠りにつけた。
 8時過ぎまでたっぷり眠れたので、おかげで体調は戻り、風邪は大過なくとりあえず収まった気がする。
 今朝は、冷え込んだものの朝から雲一つない快晴となった。犬と散歩して空見上げたら、今朝は雲一つない。まだ空の色は、哀しいほど濃い、深い青ではないが、久しぶりの秋晴れの好日が続くかと期待している。

 今日は、10.21。昔なら国際反戦デー、だと記憶するが、我が父の誕生日である。
 生きていれば、今日で満98歳になるはずであった。
 今も、コロナにさえかからなければ、心身の衰弱は進まず今日を迎えられて、通ってる介護施設で職員たちに寄せ書きの色紙を貰い、盛大に?バースデーを祝ってもらえたはずだ。
 毎年その施設から頂く、父の顔写真を貼った色紙に、職員たちが寄せ書きしたものが父の部屋に何枚も飾ってあるのだが、今年のぶんはついに届かなかった。戸棚に並んだそうした毎年の色紙を眺めやるせない哀しみを覚える。

 この 1~2年、確かに全身衰弱は進み、体重も落ちて死期は間近に迫ってきた感はあったが、我としては、まず施設も何とか通い続け今年の誕生日も無事に迎えられて、来年の正月こそ、コロナ禍でずっと来れなかった都内に住む彼の孫、我の甥っ子も3年ぶりに招いて新年を祝えると思っていた。いや、想定していたのだ。
 正直、その先については何も考えてはなかったが、まずは98歳の誕生日は、今年も迎えられると確信していたし、年内もやり過ごせたら新年、正月、という、我は、父をそこらまで生かせられる「自信」もあった。

 しかし、それは、今思えばゴーマンかつ驕りというもので、人の生き死は、人知を超えた先、まさに神の計らいでしかないのだから、生かすも殺すも全ては神の御手に委ねられていたのだ。
 そうして、我が父は、98年に約一月足らずまで生きて、満97歳で死んだ。そう、エリザベス女王も、安倍晋三も、アントニオ猪木も、仲本工事も我が師匠・有馬敲も亡くなった年に。
 我は、2022年という年は死ぬまで忘れないだろう。そしてここから、この年から我の最期の旅が、新たな道、新たな人生が始まったということも。

 余談だが、納骨法要に向けて、我は、Amazonを通して位牌も発注した。仏具専門店などを通して購入すると、安くても3万円ぐらいからが相場らしいが、母の時もだが、我にとっては、いや、我が家にとっては便宜上必要なものでしかないので、戒名もだが、「高価」なものにしないとならない必要、必然性は何もない。
 ただ、それでも戒名には、没年月日というのか、亡くなった年と日付けと、享年、あるいは行年という、年齢が、お寺様から頂く戒名と俗名、つまり本名と共に表・裏に記されている。
 それは何歳とすべきなのか。我としては、父は98歳目前まで生きたこともあり、満年齢の97歳と記すのは、やや抵抗があった。細かなどうでもいいことでもあるのだけれど、長生きしたということを記しておきたかった。

 お寺さんと戒名頂く相談をしたときに、そのこと、「享年」は何歳とすべきか聞いたら、仏教では、享年は、お母様のお腹にいた期間、10か月も加算して考えると教えられ、ならば98歳で良いのだと得心した。
 確かに、人は、その誕生日に、母の胎内からこの世に出てくるわけだが、実際は、母のお腹の中で十二分に生きている。※だから胎教などということが大事だともされる。
 まさに時満ちてからこの世に生まれてくるのだから、実際の満年齢よりも確かに長く生きているのである。胎児もまた既に人なのである。

 我はキリスト教原理主義者ではないが、堕胎の権利を!!と声高に叫ぶキャンペーンや広告や物言いを目にすると、正直なところ「いや~な」気分を感じる。
 むろんそこには様々な事情や理由、堕胎せねばならぬ必然性があるのだろうと、理解も推察も想像もできる。
 しかし、我はキリスト者でないとしてもやはり中絶には基本的には反対だという立場は崩せないし撤回もしない。

 人の命は、人がどのような理由があろうとも奪ってはならない。いや、人だけではない。全ての生き物は、生きているから「生き物」なのだから、殺してはならないのだ。
 それでも我は殺された家畜の肉を食べたりしている。だからその「罪深さ」を、申し訳なさ、有難さを忘れてはならないのだと気づく。
 しかし、それこそが人のみならず、我々生きている者たちが、生き続けていくための業なのである。そう、他者の犠牲の上に命を繋いでいかねばならぬという。
 ならばこそ、せめて不必要な殺生は為してはならぬというテーゼのうえで。そう、動物たちはきちんとそれを守っている。守らないのは人間だけだ。そこに罪がある。我ももちろんのこと。だから罪深い。

 ※ちょっとまた慌ただしくて、10,21日には途中までで書けなかったので、後から書き足した。お読み頂けたら幸甚です。