己の罪と罰 ― 2023年07月15日 22時40分35秒
★なかなか「撤収」作業は進まない
「断捨離」などという大層なことではなく、自らの人生を終わらせる、つまり撤収に取りかかっているわけだが、相変わらずどうにも進まない。
家は内外、相変わらずゴミ屋敷のままで、まったくもってどうしようもない。
気分は一時のひどい鬱状態は脱しているものの、また心と頭痛める事態が起きてしまい、憂鬱というか、心静めて何かに向き合える状況とは程遠い。※この1~2週間、コロナに罹ったかと思うほど体調も悪かった。
何が起きているのか、昔ならば逐一、このブログの場で書いて、曝け出すこともできたが、今は、基本としてブログは書かない、書けないというスタンスでやっているので、やはり吐き出せず、苦しいところもある。
が、下手に、某タレントさんのように、世に向けて近況や日々思い考えたことを「発信」してしまうと、無名の我でさえも悪意ある「反応」「反響」が返ってくることもあるし、誹謗中傷ならずとも世間の顰蹙をさらに買うことに繋がるので、やはりもうSNSは、原則としてやるべきではないと、そのタレントの自死に強く思った。
この世は、自らの正義の名を借りた「悪意」に満ちているのだから。
むろん、基本仲間内、友人知人関係だけに特化したフェイスブックのようなものならば、その「悪意」の度合いは、軽いとは思うが、やはり誰が常に目にするかわからない場、SNSは、怖くて迂闊かつ気軽に、私的、個人的なことは、情報も含めて書けない、書いては危険だと改めて思った。
が、我にとっては書くという行為、内心の思いの内を、文字として文にして現わすことこそが、唯一のストレスや悩みの解消法であり、拙ブログをやめるまでは、鬱にはならなかったはずだ。
その心のうち、悩みも含めて、「思い」を外に出す場がなくなったときから、我の苦しみが始まったのだと今痛感している。
このところ日々願い思うことは、もう何もかもどうでもいい、もう何もいらない、ともかく早く何もかもすべてを終わらせたい、ということで、始終そのことをお題目のように呟いている。
が、先にも書いたが、全てモノゴトには手順と段取りがあり、こんな我にも多少は責任感もあるわけで、すぐさま突発的に自死する気はない。いや、できやしない。
いまの状態で、この世からトンズラしたら、死後の裁きだけでなく、唯一の肉親である、最愛の妹やその子たちに多大な迷惑がかかる。
失敗した人生だからこそ、最後は何とかできるだけ関わりある他者を悩み苦しめることのないよう、うまく収めたいと願う。立つ鳥後を濁らず、の謂いの通りに。
今朝方、テレビのドキュメンタリー番組で、見るともなく見てたら、瀬戸内海?の島の水産加工業者の男が、そこの名産・小鰯の加工品「いりこ」作りの仕事に関し、大変だが「やめたら終わりだから」と語っていた。
そう、何であれ「やめたら終わり」なのだと思う。すべてはともかく続けていくことだ。
終わりにすることは存外カンタンで、命などごく簡単に断つことができる。何よりも大変なのは、始めることもだけど、「続けていく」ことで、それはけっこう正直しんどい。
ましてたった一人で、多くのモノを抱え、維持していくことは。ほんとうに辛く苦しい。
しかし、自らやめずとも、終わりの時は必ず嫌でも来るわけで、不本意でもその「終わり」のときが来るまで、人生は続けていかねばならぬと心する。
すべては自業自得でもあるわけだが、今、我に起きていることは、まさに己の罪に対する罰なのだとつくづく思う。まさに自らの不徳が招いたことだ。
むろん、さらに死後にまた裁きにあうことも間違いないわけで、その「罪」と罰のカクゴを決めてともかく生き続けていくしかない。
ともかくもうできるだけ人には会わず、どこにも出かけず、ネット上の情報に振り回されることなく、粛々と自らが犯した罪に向き合っていく。
それこそが生きていくこと、人生を続けていくこと。償いにもならないが、せめて人として最低限の義務は果たしたい。
「断捨離」などという大層なことではなく、自らの人生を終わらせる、つまり撤収に取りかかっているわけだが、相変わらずどうにも進まない。
家は内外、相変わらずゴミ屋敷のままで、まったくもってどうしようもない。
気分は一時のひどい鬱状態は脱しているものの、また心と頭痛める事態が起きてしまい、憂鬱というか、心静めて何かに向き合える状況とは程遠い。※この1~2週間、コロナに罹ったかと思うほど体調も悪かった。
何が起きているのか、昔ならば逐一、このブログの場で書いて、曝け出すこともできたが、今は、基本としてブログは書かない、書けないというスタンスでやっているので、やはり吐き出せず、苦しいところもある。
が、下手に、某タレントさんのように、世に向けて近況や日々思い考えたことを「発信」してしまうと、無名の我でさえも悪意ある「反応」「反響」が返ってくることもあるし、誹謗中傷ならずとも世間の顰蹙をさらに買うことに繋がるので、やはりもうSNSは、原則としてやるべきではないと、そのタレントの自死に強く思った。
この世は、自らの正義の名を借りた「悪意」に満ちているのだから。
むろん、基本仲間内、友人知人関係だけに特化したフェイスブックのようなものならば、その「悪意」の度合いは、軽いとは思うが、やはり誰が常に目にするかわからない場、SNSは、怖くて迂闊かつ気軽に、私的、個人的なことは、情報も含めて書けない、書いては危険だと改めて思った。
が、我にとっては書くという行為、内心の思いの内を、文字として文にして現わすことこそが、唯一のストレスや悩みの解消法であり、拙ブログをやめるまでは、鬱にはならなかったはずだ。
その心のうち、悩みも含めて、「思い」を外に出す場がなくなったときから、我の苦しみが始まったのだと今痛感している。
このところ日々願い思うことは、もう何もかもどうでもいい、もう何もいらない、ともかく早く何もかもすべてを終わらせたい、ということで、始終そのことをお題目のように呟いている。
が、先にも書いたが、全てモノゴトには手順と段取りがあり、こんな我にも多少は責任感もあるわけで、すぐさま突発的に自死する気はない。いや、できやしない。
いまの状態で、この世からトンズラしたら、死後の裁きだけでなく、唯一の肉親である、最愛の妹やその子たちに多大な迷惑がかかる。
失敗した人生だからこそ、最後は何とかできるだけ関わりある他者を悩み苦しめることのないよう、うまく収めたいと願う。立つ鳥後を濁らず、の謂いの通りに。
今朝方、テレビのドキュメンタリー番組で、見るともなく見てたら、瀬戸内海?の島の水産加工業者の男が、そこの名産・小鰯の加工品「いりこ」作りの仕事に関し、大変だが「やめたら終わりだから」と語っていた。
そう、何であれ「やめたら終わり」なのだと思う。すべてはともかく続けていくことだ。
終わりにすることは存外カンタンで、命などごく簡単に断つことができる。何よりも大変なのは、始めることもだけど、「続けていく」ことで、それはけっこう正直しんどい。
ましてたった一人で、多くのモノを抱え、維持していくことは。ほんとうに辛く苦しい。
しかし、自らやめずとも、終わりの時は必ず嫌でも来るわけで、不本意でもその「終わり」のときが来るまで、人生は続けていかねばならぬと心する。
すべては自業自得でもあるわけだが、今、我に起きていることは、まさに己の罪に対する罰なのだとつくづく思う。まさに自らの不徳が招いたことだ。
むろん、さらに死後にまた裁きにあうことも間違いないわけで、その「罪」と罰のカクゴを決めてともかく生き続けていくしかない。
ともかくもうできるだけ人には会わず、どこにも出かけず、ネット上の情報に振り回されることなく、粛々と自らが犯した罪に向き合っていく。
それこそが生きていくこと、人生を続けていくこと。償いにもならないが、せめて人として最低限の義務は果たしたい。
コメント
_ ミチロフ ― 2023/08/20 05時51分15秒
無頼庵を閉じられたときコメントした者です。再開されて、書かれた文をまた読むことができ、ありがたい。私も閉じたはずのブログを再開しました、独り言として。山本夏彦さんではありませんが、正義を振りかざす人は危険です、相手にしないのがよいと思います。ゆるゆる書いていただけたら、読ませていただきます。
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