どうにも体調悪い そのことの報告だけ ― 2025年01月08日 22時18分27秒
★まだかろうじて生きてるが
新しい年になって一週間以上過ぎた。
昨年のクリスマスの前から、風邪なのかコロナかインフルエンザなのかわからないが、いわゆる風邪的症状で体調を崩して未だそれが治らない。
もう熱などはないのだけれど、激しい咳がずっと収まらず、ひたすら寝てからも咳の発作が続き、苦しくてたまらない。いったいどうしたものか苦悶している。
昨年末に、この「風邪」の前に病院に行ったのだけど、そのときは様々な検査の数値は特に問題ないと門前払いされて、もし気になるなら詳しくはリウマチや膠原病の専門病院に行けとのことで、それきりとなってしまった。
そして年末年始風邪で寝込み、何一つできぬまま年を越して、今も激しい咳が続き、基本寝たきりとなって新しい年に、キモチは逸るもののどうにも動けずいたずらに日々が過ぎていく。いったいどうしてしまったのか。
ともかく今週中に、体調と様子見てまた病院に行き、拙ブログでも報告するが、このまま何も更新なく月日が過ぎ、やがて我が病から死んだらしいとの風の便りが届く人には届いて、このブログという唯一の窓が自然消滅するのも望むところではない。
ほんとうにまだ死ねない。死にたくない。が、たった一人で身動き取れず、かろうじて同居している動物たちの世話だけは何とか日々やり過ごしてもうそれだけで、朝も昼もひたすら断続的に寝込んでいる。咳を静めるのは唯一アルコールだけだ。
どうしようもない人生だと自任してきた。が、まさかこんな酷い事態が起こるとは、正直予想も予測もしてなかった。経済的にも体力的にも生活的にもすべてが崩れてめちゃくちゃになってしまった。こんなことが起きるとは。
死ねば楽になるか。と苦しい咳で起きて自問する。が、死んだって何も解決しないことだけは間違いなく、その為すべきことを投げ捨ててのトコトンの放擲は、まさに死後裁きにあうだけだ。何よりも動物たちや我が数少ない友人たちに申し訳ない。
こんなことを書きたくもないし書いたって何にもならない。我を敵視し嘲笑うやつらはとことん嗤え、だ。が、今我はいったいどうなっているかぐらいは、これまでの 経緯上やはり短くても正直に書き記すべきだと思い、書きました。
新しい年になって一週間以上過ぎた。
昨年のクリスマスの前から、風邪なのかコロナかインフルエンザなのかわからないが、いわゆる風邪的症状で体調を崩して未だそれが治らない。
もう熱などはないのだけれど、激しい咳がずっと収まらず、ひたすら寝てからも咳の発作が続き、苦しくてたまらない。いったいどうしたものか苦悶している。
昨年末に、この「風邪」の前に病院に行ったのだけど、そのときは様々な検査の数値は特に問題ないと門前払いされて、もし気になるなら詳しくはリウマチや膠原病の専門病院に行けとのことで、それきりとなってしまった。
そして年末年始風邪で寝込み、何一つできぬまま年を越して、今も激しい咳が続き、基本寝たきりとなって新しい年に、キモチは逸るもののどうにも動けずいたずらに日々が過ぎていく。いったいどうしてしまったのか。
ともかく今週中に、体調と様子見てまた病院に行き、拙ブログでも報告するが、このまま何も更新なく月日が過ぎ、やがて我が病から死んだらしいとの風の便りが届く人には届いて、このブログという唯一の窓が自然消滅するのも望むところではない。
ほんとうにまだ死ねない。死にたくない。が、たった一人で身動き取れず、かろうじて同居している動物たちの世話だけは何とか日々やり過ごしてもうそれだけで、朝も昼もひたすら断続的に寝込んでいる。咳を静めるのは唯一アルコールだけだ。
どうしようもない人生だと自任してきた。が、まさかこんな酷い事態が起こるとは、正直予想も予測もしてなかった。経済的にも体力的にも生活的にもすべてが崩れてめちゃくちゃになってしまった。こんなことが起きるとは。
死ねば楽になるか。と苦しい咳で起きて自問する。が、死んだって何も解決しないことだけは間違いなく、その為すべきことを投げ捨ててのトコトンの放擲は、まさに死後裁きにあうだけだ。何よりも動物たちや我が数少ない友人たちに申し訳ない。
こんなことを書きたくもないし書いたって何にもならない。我を敵視し嘲笑うやつらはとことん嗤え、だ。が、今我はいったいどうなっているかぐらいは、これまでの 経緯上やはり短くても正直に書き記すべきだと思い、書きました。
ようやく人生が少しだけ、また動きだした感 ― 2025年01月16日 21時51分08秒
★ご心配おかけしました。ブログも適宜再開していきます。
物心ついてからも60年以上経ち、もはや70近い齢となったのに、昨年、2024年は、これまでの人生でいちばん最低最悪の年であった。
親たちが死んだ年よりも昨年は何もかもが行き詰り、働いていないのに思わぬ出費が相次いで、何をやっても失敗失態続きで、本当にもうどうしようもない一年だった。
自分でもよく無事でともかく何とか過ごせたと思う。※それには多くはないが篤志ある友人知人からの経済的援助や励ましも多々あったからで改めて心から感謝いたす。
今年こそ心機一転、もう一度この人生をやり直す、生き直そうと誓ってたものの、昨年のクリスマス前から風邪なのかコロナなのか流行りのインフルエンザなのか、突然風邪のような症状で動けなくなってしまい、年末も正月もずっとひたすら時間あらばベッドに横になっていた。
みほこんから誘われてた、イブの夜に中野の教会でクリスマスキャロルを唄う集いには何としても顔だそうと思ってたのに、ともかく寒気がひどくて咳も発熱感もあり、動けなくてベッドからお詫びのメールを打って、お赦し頂いた。
その風邪的症状は、年明けには収まってきたものの、その後も咳が残り、特に夜中に尿意などで目覚めると、その後に激しい咳の発作が続いてしまい、眠ることもできず本当に苦しかった。
前回そうした状況をちょこっと書いたが、それから年明けに近くの診療所に行き、詳しい検査を受けたわけではないが、肺炎ではないとのことで風邪と咳の漢方薬をいくつか出してもらい、その薬が効いてきたのかようやくこのところは夜の咳の発作などは収まってきている。
昨年は、届いた新年の賀状にも、返信すらできなかったので、今年こそは去年頂いた方へはこちらから年賀状を出そうと誓っていたのに、そんなこんなでまたも身動きとれず、値上がりした年賀はがきは買ったものの結局未だ出せずにいる。※今年届いたのは、わずか二枚だけであった。
そんなこんな新年もまた早くも腰砕けというか、また身動きとれず何もできず鬱々としていたが、一昨日の夜、亀有のKID・BOXという、旧知の友人がやってるライブの店に、畏友館野公一さんのソロライブがあったので、太田三造さんと久々に出向き、観客も含めて親しい人たちとあれこれ語らい、ようやく気持ちも改まった。
その店のオーナーとも話して諭されたが、我らのような独身者、独り者は、世間との繋がりは何もないのだから、せめてこんなブログでもできるだけ頻繁に更新しないことには、こちらは生きて無事・平穏であったとしても、ブログなど観てずっと更新が滞っていると友人知人関係の方の中には何か起きたのか、大丈夫かと心配される方もいる。
拙ブログなど、何を書いても読み手の反応・反響などは、まずコメントも一つも届かない不人気なものだから、いろいろトラブルもあったこともあり、我自身どうせ誰も読んでないのだと達観して、やる気というか書く情熱も以前より失っていた。そう、下手にあれこれ頻繁に何か書くと、悪意ある嫌がらせの反応のほうが返ってきたことも多い。
が、自分にとって世間との繋がりというか、我の動向や思いも含めて、友人知人に対しても、読んで目を通してくれるかはともかくも、思いや近況を伝える、発信するのはこのブログだけなのだから、やはりできるだけ頻繁に、発信、つまり更新していかなくてはならないのだと思い至った。そう、パソコンに向き合える時は、必ず。
我は、この世界をハメツに導くトランプ大統領の盟友、マスク氏がオーナーをやってる限り、旧ツイッターだか、Xだかはやることはないが、かろうじてフェイスブックだけは他にやってる。
が、そこにこまごまとした自らのことは書いて発信しようとは思わない。せいぜいイベントの告知など宣伝的に使う目的で用いている。
思うのだが、なんで今の人は、自分が食べた料理や作った食事、行ったところなど、本当に個人的などうでもいいと(我は)思えることを頻繁に世間の発信するのであろうか。
フェイスブックの憂鬱なところは、そうした私的なことをこちらにも観るように連絡が届くことで、まして、その友人、こちらが知らないまた別の友人のしたことやコメントに対して、また何かアクションを起こしたことまで通知される。
正直どうでもいい。今日々生きることに精一杯で、かろうじて何とか死なずに生きているような人間にとって、人様が何を食べようが何をしようが本当にどうでもいいし知りたくもない。
フェイスブックというのは、ほんとうに余計なおせっかい焼きというべきか、要らぬ情報ばかりが届く。むろん何か細かく設定すれば不要な通知は来なくなるらしいが、我はそんなことも面倒くさい。
このブログの良い点は、いろいろ不具合はあろうとも、基本的にこちらに関心ある、読みたい方が向こうから来てくれて読んでくれるからだ。
我が何を書いたとか、何を発信しました、といちいち勝手に関係者に通知されない。まずそのことだけでも有難いと思う。
むろんこの世は、我に対して敵意と悪意に満ちているから、ウカツなことを気軽に書くと、それを目にした正義感バカが、また様々な嫌がらせなどこちらの書く気を削ぐ様々な妄動、ときに炎上に繋がるかもしれないから今は常に慎重・細心でありたいと思ってる。が、自粛も委縮もしないし、そうした嫌がらせにはもう二度と屈したくない。
俺の人生なのだ、ほっといてくれ、である。オレもあんたの人生に関わる気は毛頭ないし、関わりたくもない。それこそがフェアな関係ではないか。読みたくない人、知りたくない方は、読まないでいいのだから。
亀有に行ってから、ようやく再び、この拙い、どうしようもない人生だが、少しづつ少しだけ動き出した気がしている。
願わくばまた止まり、倦み錆びることなく少しでも前進していくことを祈るだけだ。
ヒトは、どうして他者の人生に対してあれこれ嘴を挟んでくるのだろう。オレは、あんたの人生に何かしたか、だ。それは、正義ではないし単なるおせっかいだ!!
いま、祈り願うは、どうか今年こそ昨年よりは少しでもマシになるように、人生を再び取り戻すことが出来ますように、だ。
というわけで、ブログ再開していきます。まずは昨年末に我が企画し、終えた二つのイベントに関しての事後報告から。
物心ついてからも60年以上経ち、もはや70近い齢となったのに、昨年、2024年は、これまでの人生でいちばん最低最悪の年であった。
親たちが死んだ年よりも昨年は何もかもが行き詰り、働いていないのに思わぬ出費が相次いで、何をやっても失敗失態続きで、本当にもうどうしようもない一年だった。
自分でもよく無事でともかく何とか過ごせたと思う。※それには多くはないが篤志ある友人知人からの経済的援助や励ましも多々あったからで改めて心から感謝いたす。
今年こそ心機一転、もう一度この人生をやり直す、生き直そうと誓ってたものの、昨年のクリスマス前から風邪なのかコロナなのか流行りのインフルエンザなのか、突然風邪のような症状で動けなくなってしまい、年末も正月もずっとひたすら時間あらばベッドに横になっていた。
みほこんから誘われてた、イブの夜に中野の教会でクリスマスキャロルを唄う集いには何としても顔だそうと思ってたのに、ともかく寒気がひどくて咳も発熱感もあり、動けなくてベッドからお詫びのメールを打って、お赦し頂いた。
その風邪的症状は、年明けには収まってきたものの、その後も咳が残り、特に夜中に尿意などで目覚めると、その後に激しい咳の発作が続いてしまい、眠ることもできず本当に苦しかった。
前回そうした状況をちょこっと書いたが、それから年明けに近くの診療所に行き、詳しい検査を受けたわけではないが、肺炎ではないとのことで風邪と咳の漢方薬をいくつか出してもらい、その薬が効いてきたのかようやくこのところは夜の咳の発作などは収まってきている。
昨年は、届いた新年の賀状にも、返信すらできなかったので、今年こそは去年頂いた方へはこちらから年賀状を出そうと誓っていたのに、そんなこんなでまたも身動きとれず、値上がりした年賀はがきは買ったものの結局未だ出せずにいる。※今年届いたのは、わずか二枚だけであった。
そんなこんな新年もまた早くも腰砕けというか、また身動きとれず何もできず鬱々としていたが、一昨日の夜、亀有のKID・BOXという、旧知の友人がやってるライブの店に、畏友館野公一さんのソロライブがあったので、太田三造さんと久々に出向き、観客も含めて親しい人たちとあれこれ語らい、ようやく気持ちも改まった。
その店のオーナーとも話して諭されたが、我らのような独身者、独り者は、世間との繋がりは何もないのだから、せめてこんなブログでもできるだけ頻繁に更新しないことには、こちらは生きて無事・平穏であったとしても、ブログなど観てずっと更新が滞っていると友人知人関係の方の中には何か起きたのか、大丈夫かと心配される方もいる。
拙ブログなど、何を書いても読み手の反応・反響などは、まずコメントも一つも届かない不人気なものだから、いろいろトラブルもあったこともあり、我自身どうせ誰も読んでないのだと達観して、やる気というか書く情熱も以前より失っていた。そう、下手にあれこれ頻繁に何か書くと、悪意ある嫌がらせの反応のほうが返ってきたことも多い。
が、自分にとって世間との繋がりというか、我の動向や思いも含めて、友人知人に対しても、読んで目を通してくれるかはともかくも、思いや近況を伝える、発信するのはこのブログだけなのだから、やはりできるだけ頻繁に、発信、つまり更新していかなくてはならないのだと思い至った。そう、パソコンに向き合える時は、必ず。
我は、この世界をハメツに導くトランプ大統領の盟友、マスク氏がオーナーをやってる限り、旧ツイッターだか、Xだかはやることはないが、かろうじてフェイスブックだけは他にやってる。
が、そこにこまごまとした自らのことは書いて発信しようとは思わない。せいぜいイベントの告知など宣伝的に使う目的で用いている。
思うのだが、なんで今の人は、自分が食べた料理や作った食事、行ったところなど、本当に個人的などうでもいいと(我は)思えることを頻繁に世間の発信するのであろうか。
フェイスブックの憂鬱なところは、そうした私的なことをこちらにも観るように連絡が届くことで、まして、その友人、こちらが知らないまた別の友人のしたことやコメントに対して、また何かアクションを起こしたことまで通知される。
正直どうでもいい。今日々生きることに精一杯で、かろうじて何とか死なずに生きているような人間にとって、人様が何を食べようが何をしようが本当にどうでもいいし知りたくもない。
フェイスブックというのは、ほんとうに余計なおせっかい焼きというべきか、要らぬ情報ばかりが届く。むろん何か細かく設定すれば不要な通知は来なくなるらしいが、我はそんなことも面倒くさい。
このブログの良い点は、いろいろ不具合はあろうとも、基本的にこちらに関心ある、読みたい方が向こうから来てくれて読んでくれるからだ。
我が何を書いたとか、何を発信しました、といちいち勝手に関係者に通知されない。まずそのことだけでも有難いと思う。
むろんこの世は、我に対して敵意と悪意に満ちているから、ウカツなことを気軽に書くと、それを目にした正義感バカが、また様々な嫌がらせなどこちらの書く気を削ぐ様々な妄動、ときに炎上に繋がるかもしれないから今は常に慎重・細心でありたいと思ってる。が、自粛も委縮もしないし、そうした嫌がらせにはもう二度と屈したくない。
俺の人生なのだ、ほっといてくれ、である。オレもあんたの人生に関わる気は毛頭ないし、関わりたくもない。それこそがフェアな関係ではないか。読みたくない人、知りたくない方は、読まないでいいのだから。
亀有に行ってから、ようやく再び、この拙い、どうしようもない人生だが、少しづつ少しだけ動き出した気がしている。
願わくばまた止まり、倦み錆びることなく少しでも前進していくことを祈るだけだ。
ヒトは、どうして他者の人生に対してあれこれ嘴を挟んでくるのだろう。オレは、あんたの人生に何かしたか、だ。それは、正義ではないし単なるおせっかいだ!!
いま、祈り願うは、どうか今年こそ昨年よりは少しでもマシになるように、人生を再び取り戻すことが出来ますように、だ。
というわけで、ブログ再開していきます。まずは昨年末に我が企画し、終えた二つのイベントに関しての事後報告から。
病の床で、夜の音を聞きながら考えたこと・序 ― 2025年01月20日 11時24分44秒
★一体自分は何をしているのか、何をまずすべきなのか
――というわけで、咳がひどく出るタチの悪い風邪?をひいて、クリスマスから年末年始とただひたすら寝込んでいた。
新年が来ても正月どころではなく今年はまだ餅も一枚も食べていない。
誰にも会わず出かけられず、最低限の動物たちの世話と、その餌などの買い物だけは何とか済ますと、後はひたすらニンゲンは何も食べずに時間あれば横になっていた。
そうして眠ってばかりいると、当然ながら眠りも浅くなり、ヘンな時間に起きてしまい、その後はなかなか寝つけなくなる。
辛いのは、咳が出ても出なくても真夜中の3時頃に、必ず尿意で目が覚めてしまい、それからしばらく眠れないことだ。
夏場ならば、夜が明けるのも早いから、そのまま起きてしまい早朝から爽やかな朝の街を散歩することもできるが、今は一番寒い頃で、ただひたすら布団にくるまっているしかない。
電気暗くして、そうしてベッドに横になっていると、まったく物音のしない深夜には、「夜の音」というものがあることに気がついた。
掛け時計の刻むチクタクという音ではなく、まさに夜そのものが持つ無音の音だ。
よく昔の漫画などで、誰もいない場所に書き文字などで、「シーン」と表示してあるが、まさにそれである。
それは、深閑、森閑というしかなく、その「シーン」という文字はそれを示しているのであろう。
その夜の音を聞きながら、思うのは、自らの死についてもだが、死んでいった友や知人たちのことである。
昨年も何人か親しくしてお世話になった友が逝った。
我よりはいくぶん年上だったとは思うが、我のように病弱ではなくはるかに頑健で、元気なイメージしかなかったからまさにその訃報に驚かされた。死というのは、決して弱い者から訪れるとは限らない。
そして思うのは、みんなどこへ行ってしまったのか、我もやがてそこに行くのか、ということであり、今はまだ咳に苦しみながらも生きている自分はこれからどうなるのか、何をどうすべきなのかという自問であった。
去年、24年は、暮れの12月に二つのイベントを企画して、ともかく成し終えられた。一つは、予想外の盛況というか、自らも多々学び得るところがあり成功したのだが、もう一つの近隣でやったイベントのほうは、惨憺たる結果に終始してしまい、今もそこをこれからどうしたら良いか、どうすべきか頭悩ましている。
そう、失敗したのは、近場で企画したフリーマーケットとフォークソングの集いである。
客も出演者もともかく誰も来ないのである。来ると言ってた友人知人が来なかっただけでなく、二回目となるのにお客も前回より少ないどころかほとんど誰も来なかった。
その原因は多々あるとは思うが、要するに我の非力さ、人望と人脈の無さに尽きるというしかない。
ずっと忘れていたツライ気持ち、昔、浅草で企画して、やはり客が入らずに大失敗に終わった某所の「40周年記念コンサート」の時の苦い気持ちを久しぶりに思い出した。
そのときは、以降三か月ばかし鬱状態に陥り立ち直るのに時間がかかったが、今回は一週間程度でまあ落ち込んだ気持ちは戻った。
そう、いったい自分は何をやっているんだ。まず何をすべきなのか、だ。
※と、ここまで書いていたら、玄関先が騒がしい。誰か来たと思い降りたらば、作業服姿の男二人がファイル持って我を待っていた。
てっきりまた市の職員が、介護保険料やら未納付の税金の督促、もしくは、環境課や道路整備課の職員が、ご近所からの苦情を伝えに来たと思ったら、何と、北杜市の収納課の奴らであった。
我には、その北杜市の山里に倉庫として使ってる古民家が在るのだが、そこの税金徴収である。
固定資産税が今年度二期分未納付になっていたのだが、その徴収にわざわざ山梨県の最奥の市から東京まで来たのである。
呆れ果てた。そしてこの山梨県の市は恐ろしいとも思った。
いまここで払いますか、と言うが、当然そんな持ち合わせも余裕もない。とりあえずコンビニ支払いの用紙だけ受け取って帰ってもらった。他にもこちらに用事がありそのついでだそうだが、本当に理解に苦しむ。携帯に電話なりかけてからならまだしも、いきなりの急襲には恐れ入った。市内ならまだしもこんな収納督促対応は、他に聞いたことがない。
異常であるとしか言いようがない。北杜市の対応、徴収方針には理解に苦しむ。あえて記しておく。たぶん彼らのここまでの高速代、ガソリン代だけで未納の一期分に当たるかと思う。
――というわけで、咳がひどく出るタチの悪い風邪?をひいて、クリスマスから年末年始とただひたすら寝込んでいた。
新年が来ても正月どころではなく今年はまだ餅も一枚も食べていない。
誰にも会わず出かけられず、最低限の動物たちの世話と、その餌などの買い物だけは何とか済ますと、後はひたすらニンゲンは何も食べずに時間あれば横になっていた。
そうして眠ってばかりいると、当然ながら眠りも浅くなり、ヘンな時間に起きてしまい、その後はなかなか寝つけなくなる。
辛いのは、咳が出ても出なくても真夜中の3時頃に、必ず尿意で目が覚めてしまい、それからしばらく眠れないことだ。
夏場ならば、夜が明けるのも早いから、そのまま起きてしまい早朝から爽やかな朝の街を散歩することもできるが、今は一番寒い頃で、ただひたすら布団にくるまっているしかない。
電気暗くして、そうしてベッドに横になっていると、まったく物音のしない深夜には、「夜の音」というものがあることに気がついた。
掛け時計の刻むチクタクという音ではなく、まさに夜そのものが持つ無音の音だ。
よく昔の漫画などで、誰もいない場所に書き文字などで、「シーン」と表示してあるが、まさにそれである。
それは、深閑、森閑というしかなく、その「シーン」という文字はそれを示しているのであろう。
その夜の音を聞きながら、思うのは、自らの死についてもだが、死んでいった友や知人たちのことである。
昨年も何人か親しくしてお世話になった友が逝った。
我よりはいくぶん年上だったとは思うが、我のように病弱ではなくはるかに頑健で、元気なイメージしかなかったからまさにその訃報に驚かされた。死というのは、決して弱い者から訪れるとは限らない。
そして思うのは、みんなどこへ行ってしまったのか、我もやがてそこに行くのか、ということであり、今はまだ咳に苦しみながらも生きている自分はこれからどうなるのか、何をどうすべきなのかという自問であった。
去年、24年は、暮れの12月に二つのイベントを企画して、ともかく成し終えられた。一つは、予想外の盛況というか、自らも多々学び得るところがあり成功したのだが、もう一つの近隣でやったイベントのほうは、惨憺たる結果に終始してしまい、今もそこをこれからどうしたら良いか、どうすべきか頭悩ましている。
そう、失敗したのは、近場で企画したフリーマーケットとフォークソングの集いである。
客も出演者もともかく誰も来ないのである。来ると言ってた友人知人が来なかっただけでなく、二回目となるのにお客も前回より少ないどころかほとんど誰も来なかった。
その原因は多々あるとは思うが、要するに我の非力さ、人望と人脈の無さに尽きるというしかない。
ずっと忘れていたツライ気持ち、昔、浅草で企画して、やはり客が入らずに大失敗に終わった某所の「40周年記念コンサート」の時の苦い気持ちを久しぶりに思い出した。
そのときは、以降三か月ばかし鬱状態に陥り立ち直るのに時間がかかったが、今回は一週間程度でまあ落ち込んだ気持ちは戻った。
そう、いったい自分は何をやっているんだ。まず何をすべきなのか、だ。
※と、ここまで書いていたら、玄関先が騒がしい。誰か来たと思い降りたらば、作業服姿の男二人がファイル持って我を待っていた。
てっきりまた市の職員が、介護保険料やら未納付の税金の督促、もしくは、環境課や道路整備課の職員が、ご近所からの苦情を伝えに来たと思ったら、何と、北杜市の収納課の奴らであった。
我には、その北杜市の山里に倉庫として使ってる古民家が在るのだが、そこの税金徴収である。
固定資産税が今年度二期分未納付になっていたのだが、その徴収にわざわざ山梨県の最奥の市から東京まで来たのである。
呆れ果てた。そしてこの山梨県の市は恐ろしいとも思った。
いまここで払いますか、と言うが、当然そんな持ち合わせも余裕もない。とりあえずコンビニ支払いの用紙だけ受け取って帰ってもらった。他にもこちらに用事がありそのついでだそうだが、本当に理解に苦しむ。携帯に電話なりかけてからならまだしも、いきなりの急襲には恐れ入った。市内ならまだしもこんな収納督促対応は、他に聞いたことがない。
異常であるとしか言いようがない。北杜市の対応、徴収方針には理解に苦しむ。あえて記しておく。たぶん彼らのここまでの高速代、ガソリン代だけで未納の一期分に当たるかと思う。
病の床で、夜の音を聞きながら考えたこと・番外 ― 2025年01月22日 12時28分48秒
★先日の北杜市職員の急襲、その後を記す
と、前回=一昨日、山梨県北杜市の職員の男二人が突然ウチに押しかけて来て、溜まっていた固定資産税二期分督促の「急襲」を受けてから体調がおかしくなった。
一昨日は雨上がりの暖かい穏やかな日だったが、彼らが帰ったあと、怒りと憎しみのような感情がじょじょに高まり、毛穴が逆立つような状態となり、ある意味パニック障害を起こした。
突然の来訪に憤り抗議した我に対して、特に二人組の若い男の言った「また来て欲しいですか?」という、脅迫ともとれる言葉に怒り心頭となった。
確かにうっかりして振り込みを忘れていた我も悪い。が、払わぬ意志でいたわけではないし、溜まって延滞金がついたとしてもこれまで毎年きちんと支払ってきている。今年も既に一期分は払ってあった。
それが今年度、二期分が溜まっただけで、何故に何の連絡もなく突如わざわざ東京の我が家にまで押しかけて、支払え、今払えますかと迫るのだろうか。彼らには手順はないのか。
高速道路の中だけの距離だけで、須玉~八王子間は100キロ以上離れているのである。
このことをやはり諸税金の督促に頭痛めたことのある女友達にこぼしたら、その経費もまた市の税金から出ているのだから、彼らは痛くもかゆくもない、徴収のためならあらゆる手を使うのが市職だと諭され、耳目を開いた。
が、その後も憤懣やるせないというべきか、むしゃくしゃした気持ちの昂り、苛立ちは収まらず、家に食べるものもあったが、何か作る気持ちにもなれずに気分転換を兼ねて、駅前の中華・日高屋へ行って、日本酒の熱燗とタンメンにギョーザの定食をたらふく食べた。
そしたら妙に気温が高い日であったからか、ラー油やコショウを入れ過ぎたのか、汗が出て止まらなくなり、まさに滴り落ちるほどの滝のような汗が流れ出て困惑した。この冬場に汗まみれの男を店員も不審な目で見ていたことだろう。
支払いを済ませて帰宅したわけだが、歩くのもやっと、もうふらふらで起きていられず、そのまま倒れ込むようにベッドに入って寝入ってしまった。
夜になって喉の渇きで起きたが、要するに自律神経がおかしくなったのだと思った。
その晩は、このところ収まっていた咳の発作も出てまいった。
自らの弱さ、愚かさを今更ながら噛みしめるしかない。
昨日もまだふらつきは残っていて、犬との散歩や買い物のときなど何回かよろめいて転んだが、ケガするほどの大事には至らないですんだ。
まずは、その報告だけ記す。督促された固定資産税は、すぐさまコンビニから支払った。
近く北杜市には別件で出向く用事もある。そのとき税務課の責任者にこうした急襲としか言いようのない突然の来訪について抗議してこようと思っている。
ともあれ、まったく情けない。自分のだらしなさと弱さに恥じ入るばかりだ。
と、前回=一昨日、山梨県北杜市の職員の男二人が突然ウチに押しかけて来て、溜まっていた固定資産税二期分督促の「急襲」を受けてから体調がおかしくなった。
一昨日は雨上がりの暖かい穏やかな日だったが、彼らが帰ったあと、怒りと憎しみのような感情がじょじょに高まり、毛穴が逆立つような状態となり、ある意味パニック障害を起こした。
突然の来訪に憤り抗議した我に対して、特に二人組の若い男の言った「また来て欲しいですか?」という、脅迫ともとれる言葉に怒り心頭となった。
確かにうっかりして振り込みを忘れていた我も悪い。が、払わぬ意志でいたわけではないし、溜まって延滞金がついたとしてもこれまで毎年きちんと支払ってきている。今年も既に一期分は払ってあった。
それが今年度、二期分が溜まっただけで、何故に何の連絡もなく突如わざわざ東京の我が家にまで押しかけて、支払え、今払えますかと迫るのだろうか。彼らには手順はないのか。
高速道路の中だけの距離だけで、須玉~八王子間は100キロ以上離れているのである。
このことをやはり諸税金の督促に頭痛めたことのある女友達にこぼしたら、その経費もまた市の税金から出ているのだから、彼らは痛くもかゆくもない、徴収のためならあらゆる手を使うのが市職だと諭され、耳目を開いた。
が、その後も憤懣やるせないというべきか、むしゃくしゃした気持ちの昂り、苛立ちは収まらず、家に食べるものもあったが、何か作る気持ちにもなれずに気分転換を兼ねて、駅前の中華・日高屋へ行って、日本酒の熱燗とタンメンにギョーザの定食をたらふく食べた。
そしたら妙に気温が高い日であったからか、ラー油やコショウを入れ過ぎたのか、汗が出て止まらなくなり、まさに滴り落ちるほどの滝のような汗が流れ出て困惑した。この冬場に汗まみれの男を店員も不審な目で見ていたことだろう。
支払いを済ませて帰宅したわけだが、歩くのもやっと、もうふらふらで起きていられず、そのまま倒れ込むようにベッドに入って寝入ってしまった。
夜になって喉の渇きで起きたが、要するに自律神経がおかしくなったのだと思った。
その晩は、このところ収まっていた咳の発作も出てまいった。
自らの弱さ、愚かさを今更ながら噛みしめるしかない。
昨日もまだふらつきは残っていて、犬との散歩や買い物のときなど何回かよろめいて転んだが、ケガするほどの大事には至らないですんだ。
まずは、その報告だけ記す。督促された固定資産税は、すぐさまコンビニから支払った。
近く北杜市には別件で出向く用事もある。そのとき税務課の責任者にこうした急襲としか言いようのない突然の来訪について抗議してこようと思っている。
ともあれ、まったく情けない。自分のだらしなさと弱さに恥じ入るばかりだ。
病の床で、夜の音を聞きながら考えたこと・① ― 2025年01月24日 11時39分03秒
★我が、「生活と意見」のバランスをどう築いていくか
と、今週頭に北杜市の税務課職員から未払いだった固定資産税の徴収を受け、我家まで突然の強制訪問を受けてから情けないことにまた体調崩していた。
こんなことで振り回されて気持ちや時間を奪われるのは本当にバカバカしい。しかしそれも我の弱さの「現実」であり、無理して包み隠すとますます鬱々してくるかと思える。
体調は戻ってきたので、書くべきことを書いていく。
本のタイトルや文の表題などでよく(~氏の)「生活と意見」という題名や見出しをみかける。
「生活と意見」とは、どうカンケイしているのか。それについて考えている。
そうした文の内容は様々だろうが、要するに、「生活」というものを根底にした上で、「意見」、つまり思想のようなものがあるとみて間違いないだろう。
つまり日々の「生活」をきちんとさせて、まずそれを述べたうえで、考察として自らの「意見」を開陳していくわけだ。
これは古今東西昔から広く常識的に人々に認められた考え方である。一概に間違いではない。
が、かつての学生運動などで、若者たちが、時の社会の不正や欺瞞、体勢組織に悲憤慷慨して、それを問題視し問い変革を求める運動、行動をとったとしても、批判された側、つまり既存の体制側の大人たちの多くは、まだ社会に出ていない、自らきちんと稼いでもいない嘴の黄色い若者たちが何を勝手なことを言うのか、まず社会に出て自分で稼いでから言え!と退けたように、閉塞的関係に終わることも多い。
今日でも地球温暖化について憂い怒り、急進的な発言と活動を続けている少女に対して、こんな小娘が何を言うか、という視点で、問題提起自体を無視している風潮がある。
論は脱線しそうだが、大切なことは、その個々の立場の「生活」や「体験」と同時に、「意見」は意見として耳を傾け尊重され検討されなくてはならないということだろう。
で、今日の社会はどうか。
インターネットが普及し、誰もが気軽にSNSで自ら情報を発信できる時代ではあるけれど、その多くは、主に「生活」の部分だけのように思える。
インスタグラムやツイッターなどで、(私は)どこどこへ行きました、店で何々を食べました、今晩は夕食に我家では何々を手作りしました、とか、短いコメントを付けてその画像を上げているのを見かけるが、それは「意見」ではなくまさに「生活」の部分での情報でしかない。
かといって、「生活」を記さずに、「意見」だけを述べるのは、思索家、思想家のようなもので、哲学の領域になってくる。そこに説得力はあるかも問われる。
ならばやはり「生活と意見」は切っても切り離せない。
世の中にあるごく一般的な考え方、ご意見として、まず己の「生活」をきちんとさせてから文句や「意見」、そして行動をとれ、というものがある。
我も心ある友人知人から今に始まらず昔からよくそうした苦言を頂いた。
今回も働いてもいないのにまた新たな企画やイベントを開催しようと決めて告知したところ、やはり友から、まずは生活、つまり収入をきちんとさせてからすべきではないか、と諭された。実に有難い得難いご意見だと思う。我自身の中にもそれに同感する自分がいる。
何回も書いてきたことだが、以前は、拙ブログは、政治も含めて何つけても思ったこと考えたことなどを豊富や希望も含めて自由に好き勝手に書いてきた。ほぼ毎日かなりの分量を書き更新していた。我の唯一の楽しみ、生きがいでもあった。
が、あるとき書いたことに対して、それを読んだ近くに住む男から、名前も名乗らず我に直に電話がかかってきた。
内容は、お前は、ブログなどであれこれ「ゴタクを並べる前にまず家のことをきちんとしろ」ということで、衝撃を受けた。
今は、それもまた一理はあると思う。が、自らは氏名を名乗らず嫌がらせ的にそうした「ご意見」を電話してくるのは、嫌がらせ以外のなにものでもないと今も思うし、そんな卑劣な声は本来は無視しても良いことであった。
が、それ以降、もう当ブログは気軽に自由に何でも書けなくなってしまった。
そうした嫌がらせに屈したとか電話が怖いからではない。先に記した新たなイベントや企画も同様に、仕事も含めてまず生活をきちんとさせてから「意見」や「行動」に臨むべきだという常識的気持ちがこんな我にもあり、今も常に迷い葛藤しているからだ。
※この件についてもう少し書き足します。
と、今週頭に北杜市の税務課職員から未払いだった固定資産税の徴収を受け、我家まで突然の強制訪問を受けてから情けないことにまた体調崩していた。
こんなことで振り回されて気持ちや時間を奪われるのは本当にバカバカしい。しかしそれも我の弱さの「現実」であり、無理して包み隠すとますます鬱々してくるかと思える。
体調は戻ってきたので、書くべきことを書いていく。
本のタイトルや文の表題などでよく(~氏の)「生活と意見」という題名や見出しをみかける。
「生活と意見」とは、どうカンケイしているのか。それについて考えている。
そうした文の内容は様々だろうが、要するに、「生活」というものを根底にした上で、「意見」、つまり思想のようなものがあるとみて間違いないだろう。
つまり日々の「生活」をきちんとさせて、まずそれを述べたうえで、考察として自らの「意見」を開陳していくわけだ。
これは古今東西昔から広く常識的に人々に認められた考え方である。一概に間違いではない。
が、かつての学生運動などで、若者たちが、時の社会の不正や欺瞞、体勢組織に悲憤慷慨して、それを問題視し問い変革を求める運動、行動をとったとしても、批判された側、つまり既存の体制側の大人たちの多くは、まだ社会に出ていない、自らきちんと稼いでもいない嘴の黄色い若者たちが何を勝手なことを言うのか、まず社会に出て自分で稼いでから言え!と退けたように、閉塞的関係に終わることも多い。
今日でも地球温暖化について憂い怒り、急進的な発言と活動を続けている少女に対して、こんな小娘が何を言うか、という視点で、問題提起自体を無視している風潮がある。
論は脱線しそうだが、大切なことは、その個々の立場の「生活」や「体験」と同時に、「意見」は意見として耳を傾け尊重され検討されなくてはならないということだろう。
で、今日の社会はどうか。
インターネットが普及し、誰もが気軽にSNSで自ら情報を発信できる時代ではあるけれど、その多くは、主に「生活」の部分だけのように思える。
インスタグラムやツイッターなどで、(私は)どこどこへ行きました、店で何々を食べました、今晩は夕食に我家では何々を手作りしました、とか、短いコメントを付けてその画像を上げているのを見かけるが、それは「意見」ではなくまさに「生活」の部分での情報でしかない。
かといって、「生活」を記さずに、「意見」だけを述べるのは、思索家、思想家のようなもので、哲学の領域になってくる。そこに説得力はあるかも問われる。
ならばやはり「生活と意見」は切っても切り離せない。
世の中にあるごく一般的な考え方、ご意見として、まず己の「生活」をきちんとさせてから文句や「意見」、そして行動をとれ、というものがある。
我も心ある友人知人から今に始まらず昔からよくそうした苦言を頂いた。
今回も働いてもいないのにまた新たな企画やイベントを開催しようと決めて告知したところ、やはり友から、まずは生活、つまり収入をきちんとさせてからすべきではないか、と諭された。実に有難い得難いご意見だと思う。我自身の中にもそれに同感する自分がいる。
何回も書いてきたことだが、以前は、拙ブログは、政治も含めて何つけても思ったこと考えたことなどを豊富や希望も含めて自由に好き勝手に書いてきた。ほぼ毎日かなりの分量を書き更新していた。我の唯一の楽しみ、生きがいでもあった。
が、あるとき書いたことに対して、それを読んだ近くに住む男から、名前も名乗らず我に直に電話がかかってきた。
内容は、お前は、ブログなどであれこれ「ゴタクを並べる前にまず家のことをきちんとしろ」ということで、衝撃を受けた。
今は、それもまた一理はあると思う。が、自らは氏名を名乗らず嫌がらせ的にそうした「ご意見」を電話してくるのは、嫌がらせ以外のなにものでもないと今も思うし、そんな卑劣な声は本来は無視しても良いことであった。
が、それ以降、もう当ブログは気軽に自由に何でも書けなくなってしまった。
そうした嫌がらせに屈したとか電話が怖いからではない。先に記した新たなイベントや企画も同様に、仕事も含めてまず生活をきちんとさせてから「意見」や「行動」に臨むべきだという常識的気持ちがこんな我にもあり、今も常に迷い葛藤しているからだ。
※この件についてもう少し書き足します。
病の床で、夜の音を聞きながら考えたこと・② ― 2025年01月27日 21時09分08秒
★悔いばかり残るが、ヒトは必ず死ぬ、全てに終わりが来るのだから
一昨年から続いていた、我の家の内外での混乱、トラブルは、昨年ピークに達した。
以前も書いたが、我が家の家電製品のほとんどが壊れて使えなくなり、パソコンは、モニター画面を交換してからは、まだ問題なく使えてはいるが、エアコンにはじまり、テレビ、電子レンジ、宅電の他家中のほぼすべての家電が壊れてしまった。
おまけに猫が原因だと思うが、室内での漏水騒動で、請求された水道代が20万円ちかくとなって、分割払いとなり今年ようやく二回目の四万弱を先日何とか支払ったところだ。
そこに山梨からもウチにわざわざ固定資産税を督促に来る。嗚呼!!
唯一の収入元であったAmazonマーケットプレイスでの古本稼業も、購買者とのトラブルがあってから休止したままで、無収入なのに金は湯水のように出ていく。そこに次々税金や介護保険などの督促の請求が届く。ただ頭を抱えた。
そんなこんなで以前は定期的に、かけこみ亭で催していたコンサートの企画も時間的にも経済的にも、何より精神的余裕がなくなりもう断念するしかなかった。
まずは、生活再建、人生をきちんとさせてからだ。きちんと定収を得ることからだ。その思いは今も変わらない。
そうした窮状に、心配して友人たちから支援カンパが届き、親たちの遺してくれた預金を取り崩したうえで何とかこれまで凌いでいる。
改めてそのお志に深く感謝するしかない。ほんとうに助かっている。
また何人かの友からは、我の収入方法として、今住むこの家を担保のようなカタチにして、月々収入を得ることを勧められた。我の死後、この家は明け渡す:契約として。
また、山梨の倉庫のような古民家でも生活はできるのだから、そちらに拠点を移して、この家は売るなり貸すなりすれば良いという声も。
いろいろご心配かけて本当に有難く思う。我もあれこれの良い悩み検討いたした。
が、現時点では、ともかくもう少しこの家で、まず片づけを進めながら収入を得る道を模索したいと思ってる。
ともかく溜まりに溜まった古本、レコード類だけでなく、猫たちも含めて抱えているモノが多すぎて、まずそれを処分していかないことにはまさに身動きとれないのだ。
そんな状況の中、亡き母の知り合いで、市内あちこちに家作を持っておられる高齢の方から、今は空家となっている寮の食堂ホールを使って、何かフリマでもやらないかね、という話があった。
そこは名門スピーカーメーカー、フォステックスの元社員寮だった建物で、三階建てでかなりデカく、食堂も広い。が、かれこれもう20年?以上そこは空家状態となっていた。
正直、当初は気乗りが進まず話半分に聞いていたが、ふと、フリマはともかくもそこに空いてる広いスペースがあり、自由に使えるのならば、ライブイベント、フォークコンサートもできるではないか、と気がついた。
フリマは、あくまでも客寄せとして、コンサートを定期的に続けていけば、やがては、春一番で知り合った友が、三重県河芸の漁師小屋で、(今も?)毎年夏に続けている『ええかげん祭り』のように、多くのプロシンガーも登場する音楽イベントを地元でやれるかもしれない。
夢は広がった。で、地元でアマチュアミュージシャンたちに声かけて毎月野外で無料フォークコンサートを続けている方に相談したら、それは良いことだとご協力の快諾も得た。
で、まず昨年10月に、大慌てで第1回目の、そのフリマ&フォークコンサートを開催したのだ。
準備期間が短く、宣伝も市内に住む知人たちに声かけたりチラシを撒く程度しかできなかったが、初回としてはまあまあ人は集まった。旧い友もかけつけてくれて急遽手伝ってくれて大いに助かった。
で、二か月先として、12月に二回目をやったのだが、何故か客どころか歌い手自体も我が声かけた方以外には、ほぼ誰も来ない。客も初回より少なく、いや、数えるほどしか来なくてコンサートは大失敗に終わった。
ただフリマ自体は、一回目のときよりはまとめ買いの方が来てくれたので売り上げは良く、経費自体はまあ補填はできたが。
自分はいったい何をやっているのだろう? これからいったいどうすれば良いのか。この年末年始、咳の発作に苦しみながらベッドであれこれ考えた。
友人に金を融資してもらい、ライブ用のかなり大きい本格的なヤマハ製のスピーカーとPAのセットも二回目に向けて購入しホールにセットしたのに。宝の持ち腐れとはこのことだ。
そして改めてまた考えたのは、こんなことをやる余裕が自分にあるのか、ということだ。経済的な事はともかく、当日だけでなく宣伝や下準備などで、イベントにはかなり時間と体力が奪われる。
こんなことよりもまずは、家の片づけと、まず生活安定のための糧を得るための活動をすべきではないのか。
はっきり言って、フリマにせよフォークソングにせよ、それで飯が食えることなんてありえないのだから。
ただ今はこう思う。自分の人生は何につけても悔いばかり常に残り結果として、「失敗」の苦い味を噛みしめる。
が、何であれ先送り、先延ばしにして、先ずは自らの生活を安定させてから、このゴミ屋敷が片づいてからだ、とひたすら家にこもり自分のことだけに向き合っていたら、おそらくもうそれだけで、時間切れとなるだろう。
たぶんどんなイベントにせよCD製作にせよ、何一つできないまま関係者も自らも死んでしまい、すべては未遂に終わるのではないか。愚図な我だから間違いない。
これがまだ30代、40代ならまだしも、我の周りは、我も含めて皆アラ還ならぬ、アラ古希、つまり70歳前後なのである。
昨年も親しくして頂いた友人知人二人突然亡くなった。どんなことでも、いつかそのうちとか、これが終わってからと、先延ばしや後回しにしている余裕はもはや誰にもないのである。
ヒトは必ず死ぬ。どんな結果結末になろうと、ともかく生きているうちに、何ができるか、何をすべきか、だと気がついた。
そう、自分はいったい何がしたいのか、自分に何ができるのか。すべてに終わりが来る前に。
一昨年から続いていた、我の家の内外での混乱、トラブルは、昨年ピークに達した。
以前も書いたが、我が家の家電製品のほとんどが壊れて使えなくなり、パソコンは、モニター画面を交換してからは、まだ問題なく使えてはいるが、エアコンにはじまり、テレビ、電子レンジ、宅電の他家中のほぼすべての家電が壊れてしまった。
おまけに猫が原因だと思うが、室内での漏水騒動で、請求された水道代が20万円ちかくとなって、分割払いとなり今年ようやく二回目の四万弱を先日何とか支払ったところだ。
そこに山梨からもウチにわざわざ固定資産税を督促に来る。嗚呼!!
唯一の収入元であったAmazonマーケットプレイスでの古本稼業も、購買者とのトラブルがあってから休止したままで、無収入なのに金は湯水のように出ていく。そこに次々税金や介護保険などの督促の請求が届く。ただ頭を抱えた。
そんなこんなで以前は定期的に、かけこみ亭で催していたコンサートの企画も時間的にも経済的にも、何より精神的余裕がなくなりもう断念するしかなかった。
まずは、生活再建、人生をきちんとさせてからだ。きちんと定収を得ることからだ。その思いは今も変わらない。
そうした窮状に、心配して友人たちから支援カンパが届き、親たちの遺してくれた預金を取り崩したうえで何とかこれまで凌いでいる。
改めてそのお志に深く感謝するしかない。ほんとうに助かっている。
また何人かの友からは、我の収入方法として、今住むこの家を担保のようなカタチにして、月々収入を得ることを勧められた。我の死後、この家は明け渡す:契約として。
また、山梨の倉庫のような古民家でも生活はできるのだから、そちらに拠点を移して、この家は売るなり貸すなりすれば良いという声も。
いろいろご心配かけて本当に有難く思う。我もあれこれの良い悩み検討いたした。
が、現時点では、ともかくもう少しこの家で、まず片づけを進めながら収入を得る道を模索したいと思ってる。
ともかく溜まりに溜まった古本、レコード類だけでなく、猫たちも含めて抱えているモノが多すぎて、まずそれを処分していかないことにはまさに身動きとれないのだ。
そんな状況の中、亡き母の知り合いで、市内あちこちに家作を持っておられる高齢の方から、今は空家となっている寮の食堂ホールを使って、何かフリマでもやらないかね、という話があった。
そこは名門スピーカーメーカー、フォステックスの元社員寮だった建物で、三階建てでかなりデカく、食堂も広い。が、かれこれもう20年?以上そこは空家状態となっていた。
正直、当初は気乗りが進まず話半分に聞いていたが、ふと、フリマはともかくもそこに空いてる広いスペースがあり、自由に使えるのならば、ライブイベント、フォークコンサートもできるではないか、と気がついた。
フリマは、あくまでも客寄せとして、コンサートを定期的に続けていけば、やがては、春一番で知り合った友が、三重県河芸の漁師小屋で、(今も?)毎年夏に続けている『ええかげん祭り』のように、多くのプロシンガーも登場する音楽イベントを地元でやれるかもしれない。
夢は広がった。で、地元でアマチュアミュージシャンたちに声かけて毎月野外で無料フォークコンサートを続けている方に相談したら、それは良いことだとご協力の快諾も得た。
で、まず昨年10月に、大慌てで第1回目の、そのフリマ&フォークコンサートを開催したのだ。
準備期間が短く、宣伝も市内に住む知人たちに声かけたりチラシを撒く程度しかできなかったが、初回としてはまあまあ人は集まった。旧い友もかけつけてくれて急遽手伝ってくれて大いに助かった。
で、二か月先として、12月に二回目をやったのだが、何故か客どころか歌い手自体も我が声かけた方以外には、ほぼ誰も来ない。客も初回より少なく、いや、数えるほどしか来なくてコンサートは大失敗に終わった。
ただフリマ自体は、一回目のときよりはまとめ買いの方が来てくれたので売り上げは良く、経費自体はまあ補填はできたが。
自分はいったい何をやっているのだろう? これからいったいどうすれば良いのか。この年末年始、咳の発作に苦しみながらベッドであれこれ考えた。
友人に金を融資してもらい、ライブ用のかなり大きい本格的なヤマハ製のスピーカーとPAのセットも二回目に向けて購入しホールにセットしたのに。宝の持ち腐れとはこのことだ。
そして改めてまた考えたのは、こんなことをやる余裕が自分にあるのか、ということだ。経済的な事はともかく、当日だけでなく宣伝や下準備などで、イベントにはかなり時間と体力が奪われる。
こんなことよりもまずは、家の片づけと、まず生活安定のための糧を得るための活動をすべきではないのか。
はっきり言って、フリマにせよフォークソングにせよ、それで飯が食えることなんてありえないのだから。
ただ今はこう思う。自分の人生は何につけても悔いばかり常に残り結果として、「失敗」の苦い味を噛みしめる。
が、何であれ先送り、先延ばしにして、先ずは自らの生活を安定させてから、このゴミ屋敷が片づいてからだ、とひたすら家にこもり自分のことだけに向き合っていたら、おそらくもうそれだけで、時間切れとなるだろう。
たぶんどんなイベントにせよCD製作にせよ、何一つできないまま関係者も自らも死んでしまい、すべては未遂に終わるのではないか。愚図な我だから間違いない。
これがまだ30代、40代ならまだしも、我の周りは、我も含めて皆アラ還ならぬ、アラ古希、つまり70歳前後なのである。
昨年も親しくして頂いた友人知人二人突然亡くなった。どんなことでも、いつかそのうちとか、これが終わってからと、先延ばしや後回しにしている余裕はもはや誰にもないのである。
ヒトは必ず死ぬ。どんな結果結末になろうと、ともかく生きているうちに、何ができるか、何をすべきか、だと気がついた。
そう、自分はいったい何がしたいのか、自分に何ができるのか。すべてに終わりが来る前に。
祝・発刊!!! 村瀬春樹著『あのころ、吉祥寺には「ぐゎらん堂」があった: 1970年代のカウンターカルチャー、その痛快な逆説』 ― 2025年01月28日 12時00分30秒

★こうした思い、記憶を我も世に記し残していこう!!
予約注文していた本が今朝方届いた。早速手に取り、パラパラと中身を開きざっと目を通した。
まだきちんと読み始めてもないが、今ともかくコーフンしている。この本が出たこと、手に入って良かった。
生きていて良かった、というのが今の気持ちだ。我も村瀬さんも。さっそく缶チューハイで昼前から乾杯してブログでまず報告と宣伝いたしたい。
吉祥寺の東急の裏手にあった三階建ての小さなビルの三階、そこに秘密基地のような喫茶店、居酒屋があった。
名は、「武蔵野火薬庫・ぐゎらん堂」。我は十代半ば、高校に入った頃にその店を知り出入りするようになり、多大な影響を受けた。多くの人に出会えた。多感な十代の人生がそこで交差した。
毎週水曜日、その店での生ライブで、目の前で友部正人やシバを聴いて衝撃を受けた。そして十代の少年は、大垣行きの夜行列車でキセルして大阪に行き、天王寺公園でやっていた春一番コンサートにまでのめり込むようになるのだ。
改めて今思うが、そこで、ラジオから流れる人気の吉田拓郎や井上陽水とかではない日本のフォークソングなるものを、生で知ることなければ、今の自分はここにいない。つまりこのブログすら書いていない。
もっと真っ当になり、きちんと学校を出て、就職してカタギの人生を送り、結婚もして今頃は、孫に囲まれ定年後の悠々自適の日々を送っていたかもしれない。
この本は、その店を始めたマスターだった、後にライターとして多くの素晴らしい本を多く出されている村瀬春樹氏が、当時の時代のこと、店の様子から出来事、人間関係まで、豊富な写真を交えて総括的に振り返りまとめ上げた大部の本だ。
村瀬さんからのお知らせでこの本が出ることを知り、さっそく予約して届くのを心待ちにしていた。
平凡社刊行の実に400ページをゆうに超す分厚い装丁もしっかりした本で、値段も税別で4500円と高額だが、その価値はしっかりある。我にとって死ぬとき棺桶に入れてもらいたいと思える一冊だ。
こうした本は、昨今やがては書かれるべきはずであったし、大概の場合、そのときは現場にいなかったルポライター的物書きが、執筆に際しその当時を知る関係者たちに細かく取材して、その時代と状況をうまくまとめ上げるというカタチの本も多い。※19○○年の何々~と題して。
が、何よりこれは当事者自身による、その店と、その時代の「総括」本である。他でもないご本人が豊富な資料を用いて、あの頃を振り返りまとめ上げたということが素晴らしく有難い。そこには今も変わらぬ熱気がしっかり記されている。
まだ文章は読まなくてもそこに載せられた店内や知人たちの若き日の写真に、だ懐かしく胸が熱く痛くなるほどだった。
この本を亡きやなぎ氏に捧げたい。「中卒」はどうしてるかな。
予約注文していた本が今朝方届いた。早速手に取り、パラパラと中身を開きざっと目を通した。
まだきちんと読み始めてもないが、今ともかくコーフンしている。この本が出たこと、手に入って良かった。
生きていて良かった、というのが今の気持ちだ。我も村瀬さんも。さっそく缶チューハイで昼前から乾杯してブログでまず報告と宣伝いたしたい。
吉祥寺の東急の裏手にあった三階建ての小さなビルの三階、そこに秘密基地のような喫茶店、居酒屋があった。
名は、「武蔵野火薬庫・ぐゎらん堂」。我は十代半ば、高校に入った頃にその店を知り出入りするようになり、多大な影響を受けた。多くの人に出会えた。多感な十代の人生がそこで交差した。
毎週水曜日、その店での生ライブで、目の前で友部正人やシバを聴いて衝撃を受けた。そして十代の少年は、大垣行きの夜行列車でキセルして大阪に行き、天王寺公園でやっていた春一番コンサートにまでのめり込むようになるのだ。
改めて今思うが、そこで、ラジオから流れる人気の吉田拓郎や井上陽水とかではない日本のフォークソングなるものを、生で知ることなければ、今の自分はここにいない。つまりこのブログすら書いていない。
もっと真っ当になり、きちんと学校を出て、就職してカタギの人生を送り、結婚もして今頃は、孫に囲まれ定年後の悠々自適の日々を送っていたかもしれない。
この本は、その店を始めたマスターだった、後にライターとして多くの素晴らしい本を多く出されている村瀬春樹氏が、当時の時代のこと、店の様子から出来事、人間関係まで、豊富な写真を交えて総括的に振り返りまとめ上げた大部の本だ。
村瀬さんからのお知らせでこの本が出ることを知り、さっそく予約して届くのを心待ちにしていた。
平凡社刊行の実に400ページをゆうに超す分厚い装丁もしっかりした本で、値段も税別で4500円と高額だが、その価値はしっかりある。我にとって死ぬとき棺桶に入れてもらいたいと思える一冊だ。
こうした本は、昨今やがては書かれるべきはずであったし、大概の場合、そのときは現場にいなかったルポライター的物書きが、執筆に際しその当時を知る関係者たちに細かく取材して、その時代と状況をうまくまとめ上げるというカタチの本も多い。※19○○年の何々~と題して。
が、何よりこれは当事者自身による、その店と、その時代の「総括」本である。他でもないご本人が豊富な資料を用いて、あの頃を振り返りまとめ上げたということが素晴らしく有難い。そこには今も変わらぬ熱気がしっかり記されている。
まだ文章は読まなくてもそこに載せられた店内や知人たちの若き日の写真に、だ懐かしく胸が熱く痛くなるほどだった。
この本を亡きやなぎ氏に捧げたい。「中卒」はどうしてるかな。
さっきまでそこにいた人が、もう今はいない ― 2025年01月29日 13時52分59秒
★森永さん死んじゃった・・・と、
昨夜、女友達からのショートメールで、経済アナリストの森永卓郎さんの訃報が届いた。
容態が悪化してきたのは、知っていたし、その覚悟もしてはいたが、まさかこんなに早く突然亡くなるとは思いもしなかった。
※彼は、その前日まで、ラジオ番組にリモートで出ていて、体調悪化が進み、もう長くないとの報告を自ら語っていたのだ。
直接の友人知人ではないし、顔や声は知っていても会ったこともない。が、その女友達の友達の方で、もう数十年も前から彼のことはよく知っていたし、近年の活躍と政権に対しての歯に衣を着せぬ発言には深く共感し、常に注視していた。
その彼が原発不明の癌にかかり、見る影もないほど痩せてしまい、その闘病の過程を包み隠さず生放送のラジオをはじめ、様々なメディアで「発信」していたので、我も日々その動向、お身体の状態は気にかかっていた。
治ることはないとしても今年もまた桜の咲く頃までは何とか持ちこたえてほしいと祈っていたのだが・・・
いまの時代、70代でも若い頃と全く変わらず元気に、精力的に活動している人もたくさんいる。また、80歳過ぎでも現役の政治家も多い。
が、やはり齢と共にとうぜん死ぬ人は増えて来るし、森永さんのように癌に罹り、闘病を続けた末に亡くなる方も実に多い。高齢になる以前に。
彼なんて、我と同世代なのである。では、何で我でなく、彼は死んでしまったのか。
そして、ついさっきまで、昨日までそこに生きて「居た」人が、もう今はいない、消えてしまった喪失感に不思議ささえ覚える。
もう会えないどころか、声も聞けない。二度と何も死者は我らに語りかけない。
我は、キリスト者のはしくれとして信仰上は、命の復活、死後の生、死者の復活を教会では祈り唱えはしている。
が、ほんとうにそれがあるのか、かなうのか、死後の世界も含めて正直確信は持てないことを告白する。
結局のところ、死んでみないとその先のことはわからないし、何一つどうなるのか、死者たちは皆どこに行くのか、どこにいるのか語ることはできない。
そう、死後の世界は果たしてあるのか、だ。
つまるところ一つだけ確実なことは、死んでしまえば、その人の人生はその時点で全て終わりとなり、もはやこの現世とは一切の関わりを失うということだけだ。
残された者たちも同様で、死者にはもう何一つ為すべきことはできない。
もう森永さんの得難い、鋭いご意見が聞けなくなることは哀しいし残念でならない。できれば、日本経済のご意見番として、あと20年は舌鋒鋭く、今の経済、好景気はバブルであること、市場に踊らされてはならないこと、資本主義の虚妄を訴え続けてほしかった。
癌にさえならなかったら、それは十分可能であったはずなのに・・・
彼がまたエライのは、今日誰もが罹る国民病となった癌の罹患に対して、自らの状態を数値も含めてまったく包み隠さず常に世に、公に発表してきたことだ。
世には、「死者は生者を煩わすべからず」という美学というか理念が広く出回っている。我の周りにも死ぬまで不治の病となったことを隠し続けていた人もいた。そして突然死の報に驚かされたが、それはある意味、身勝手な死に方ではないか。
ヒトは誰でも死ぬし、必ず死んでいくイキモノなのだから、死への道筋を避けたり隠しても全く意味がない。
森永さんのように癌罹患を発表して堂々としかも悲観的にならず、その時々の状態、体調を冷静に世に曝す生き方というか、発信していく「死に方」はまさに画期的かつ立派だと我は思う。
さすれば、やがて後を追う者にとって大いに参考と指針にもなる。
そうした意味でも得難い人を喪った。ただ、彼自身としてはもはや何も悔いはないのではないか。
多趣味多才の人だったから、病が癒えたらまだまだいくらでもやりたいことはあったかと思うが、癌とわかり、「死」を見据えてからやるべきこと、したいこと、つまり死ぬまでになすべき、やりたい懸案のことはほぼ全て為し終えたと思える。書きたかった本も何冊も出した。まさに驚異的スピードで。
苦しい治療を続けながらわずか1年間でそれを為し終えたこと。それは実にすごい偉大なことだと感嘆する。
そうして社会的にも家庭的にも恵まれて、好きなこと、やりたいことは何でもやって、短くても満ち足りた素晴らしい一生だったのではないか。
彼の魂よ、安かれ。その志を継いでいくことこそが供養だと我は信ずる。
これからも世の動向、そのときどきに、森永さんがまだ生きていたら何て言うだろうかと何度も思うだろう。そのときこそ、彼の教えというべきか、心の内の指針として彼のことを思い自ら問い考え続けていきたい。
森永卓郎さん、ご苦労様でした。迫りくる「死」を克服した生き方、後を追う者たちに、大きな励ましと勇気となりました。
昨夜、女友達からのショートメールで、経済アナリストの森永卓郎さんの訃報が届いた。
容態が悪化してきたのは、知っていたし、その覚悟もしてはいたが、まさかこんなに早く突然亡くなるとは思いもしなかった。
※彼は、その前日まで、ラジオ番組にリモートで出ていて、体調悪化が進み、もう長くないとの報告を自ら語っていたのだ。
直接の友人知人ではないし、顔や声は知っていても会ったこともない。が、その女友達の友達の方で、もう数十年も前から彼のことはよく知っていたし、近年の活躍と政権に対しての歯に衣を着せぬ発言には深く共感し、常に注視していた。
その彼が原発不明の癌にかかり、見る影もないほど痩せてしまい、その闘病の過程を包み隠さず生放送のラジオをはじめ、様々なメディアで「発信」していたので、我も日々その動向、お身体の状態は気にかかっていた。
治ることはないとしても今年もまた桜の咲く頃までは何とか持ちこたえてほしいと祈っていたのだが・・・
いまの時代、70代でも若い頃と全く変わらず元気に、精力的に活動している人もたくさんいる。また、80歳過ぎでも現役の政治家も多い。
が、やはり齢と共にとうぜん死ぬ人は増えて来るし、森永さんのように癌に罹り、闘病を続けた末に亡くなる方も実に多い。高齢になる以前に。
彼なんて、我と同世代なのである。では、何で我でなく、彼は死んでしまったのか。
そして、ついさっきまで、昨日までそこに生きて「居た」人が、もう今はいない、消えてしまった喪失感に不思議ささえ覚える。
もう会えないどころか、声も聞けない。二度と何も死者は我らに語りかけない。
我は、キリスト者のはしくれとして信仰上は、命の復活、死後の生、死者の復活を教会では祈り唱えはしている。
が、ほんとうにそれがあるのか、かなうのか、死後の世界も含めて正直確信は持てないことを告白する。
結局のところ、死んでみないとその先のことはわからないし、何一つどうなるのか、死者たちは皆どこに行くのか、どこにいるのか語ることはできない。
そう、死後の世界は果たしてあるのか、だ。
つまるところ一つだけ確実なことは、死んでしまえば、その人の人生はその時点で全て終わりとなり、もはやこの現世とは一切の関わりを失うということだけだ。
残された者たちも同様で、死者にはもう何一つ為すべきことはできない。
もう森永さんの得難い、鋭いご意見が聞けなくなることは哀しいし残念でならない。できれば、日本経済のご意見番として、あと20年は舌鋒鋭く、今の経済、好景気はバブルであること、市場に踊らされてはならないこと、資本主義の虚妄を訴え続けてほしかった。
癌にさえならなかったら、それは十分可能であったはずなのに・・・
彼がまたエライのは、今日誰もが罹る国民病となった癌の罹患に対して、自らの状態を数値も含めてまったく包み隠さず常に世に、公に発表してきたことだ。
世には、「死者は生者を煩わすべからず」という美学というか理念が広く出回っている。我の周りにも死ぬまで不治の病となったことを隠し続けていた人もいた。そして突然死の報に驚かされたが、それはある意味、身勝手な死に方ではないか。
ヒトは誰でも死ぬし、必ず死んでいくイキモノなのだから、死への道筋を避けたり隠しても全く意味がない。
森永さんのように癌罹患を発表して堂々としかも悲観的にならず、その時々の状態、体調を冷静に世に曝す生き方というか、発信していく「死に方」はまさに画期的かつ立派だと我は思う。
さすれば、やがて後を追う者にとって大いに参考と指針にもなる。
そうした意味でも得難い人を喪った。ただ、彼自身としてはもはや何も悔いはないのではないか。
多趣味多才の人だったから、病が癒えたらまだまだいくらでもやりたいことはあったかと思うが、癌とわかり、「死」を見据えてからやるべきこと、したいこと、つまり死ぬまでになすべき、やりたい懸案のことはほぼ全て為し終えたと思える。書きたかった本も何冊も出した。まさに驚異的スピードで。
苦しい治療を続けながらわずか1年間でそれを為し終えたこと。それは実にすごい偉大なことだと感嘆する。
そうして社会的にも家庭的にも恵まれて、好きなこと、やりたいことは何でもやって、短くても満ち足りた素晴らしい一生だったのではないか。
彼の魂よ、安かれ。その志を継いでいくことこそが供養だと我は信ずる。
これからも世の動向、そのときどきに、森永さんがまだ生きていたら何て言うだろうかと何度も思うだろう。そのときこそ、彼の教えというべきか、心の内の指針として彼のことを思い自ら問い考え続けていきたい。
森永卓郎さん、ご苦労様でした。迫りくる「死」を克服した生き方、後を追う者たちに、大きな励ましと勇気となりました。
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