人生の価値と意味は、生の長短にあるのではないこと ― 2025年02月03日 19時35分13秒
★「タラントの教え」を我もまた心に刻んで
昨年のクリスマス~年末年始、正月明けまで体調を崩してずっと寝込んでいたこともあるけれど、気がついたらもう早や二月である。
このところずっと亡くなられた森永さんのことを考えている。様々な人が彼の死を惜しみ追悼の言葉を語り綴っている。
苦しい癌治療を続けながらその死の前日まで精力的に仕事していたことも驚かされるが、何よりもその人生の濃密さである。
俗に、長生きも芸のうち、という言葉もあるけれど、それは落語とか歌舞伎とか芸能の世界の人に当てはまることで、人生の意味と価値は、決してその生きた長さ短かさとは関係ないことを森永さんの死から考えさせられた。
恥ずかしながら我もようやくこの歳になって、それがわかってきた。
彼のように、本来は東大出のエリートの家系の人で、安逸安泰な人生が送れるはずだったのに、そこに満足せず、コレクターとしての趣味も含めて、とことん好き勝手にやりたいことをしまくった人は珍しい。
メディア択ばず自由に言いたいことを言い、書きたかったことを本に書いて次々と出して、そして迎えた60代での早すぎる人生の終焉は、無意味でも無価値どころかとてつもなく濃密な充足した満足のいくものではなかったか。
氏のご子息が語っていたが、癌が判明した後も彼は好きなタバコもやめずに、ほとんど眠らずにひたすら仕事をしまくっていたそうだ。
周りもやりたいことをガマンして長生きさせるよりも彼がやりたいことを自由にさせたとのことで、それもまた一つの人生哲学であろう。
そう、人生の価値とは、長生きしたかにあるのではなく、いかにその人が自由に生きて好きな事を思い通りに成し得たかにあるのだと気づく。そこに生まれてきた「使命」がある。
キリスト教を少しでもかじった人ならご存じかと思うが、イエスが語ったとされる喩え話の一つに、『タラントの喩え』というのがある。
我はそれを思い出した。※やや長くなるので、もう一回続きます。関心ある方は、検索してみてください。聖書~タラントですぐみつかります。
昨年のクリスマス~年末年始、正月明けまで体調を崩してずっと寝込んでいたこともあるけれど、気がついたらもう早や二月である。
このところずっと亡くなられた森永さんのことを考えている。様々な人が彼の死を惜しみ追悼の言葉を語り綴っている。
苦しい癌治療を続けながらその死の前日まで精力的に仕事していたことも驚かされるが、何よりもその人生の濃密さである。
俗に、長生きも芸のうち、という言葉もあるけれど、それは落語とか歌舞伎とか芸能の世界の人に当てはまることで、人生の意味と価値は、決してその生きた長さ短かさとは関係ないことを森永さんの死から考えさせられた。
恥ずかしながら我もようやくこの歳になって、それがわかってきた。
彼のように、本来は東大出のエリートの家系の人で、安逸安泰な人生が送れるはずだったのに、そこに満足せず、コレクターとしての趣味も含めて、とことん好き勝手にやりたいことをしまくった人は珍しい。
メディア択ばず自由に言いたいことを言い、書きたかったことを本に書いて次々と出して、そして迎えた60代での早すぎる人生の終焉は、無意味でも無価値どころかとてつもなく濃密な充足した満足のいくものではなかったか。
氏のご子息が語っていたが、癌が判明した後も彼は好きなタバコもやめずに、ほとんど眠らずにひたすら仕事をしまくっていたそうだ。
周りもやりたいことをガマンして長生きさせるよりも彼がやりたいことを自由にさせたとのことで、それもまた一つの人生哲学であろう。
そう、人生の価値とは、長生きしたかにあるのではなく、いかにその人が自由に生きて好きな事を思い通りに成し得たかにあるのだと気づく。そこに生まれてきた「使命」がある。
キリスト教を少しでもかじった人ならご存じかと思うが、イエスが語ったとされる喩え話の一つに、『タラントの喩え』というのがある。
我はそれを思い出した。※やや長くなるので、もう一回続きます。関心ある方は、検索してみてください。聖書~タラントですぐみつかります。
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