表現の自由と「差別用語」考~「買い物ブギ」をテレビで再演することについて ― 2024年03月03日 14時07分04秒
★つんぼ、は、その歌の中で使うべきではない、と。
個人的に気になっていることを書く。
いま、NHKで放送している、笠置シヅ子をモデルにした、朝の連続ドラマについてだ。
正直、このドラマに対しては多々違和感というか、書きたいこともあるのだけれど、それはまた置いとくとして、いま、いちばん気になるのは、劇中で主人公が唄う、服部良一作詞作曲の『買い物ブギ』である。
ご存じの方には説明不要だろが、様々な買い物に街に出て、いろいろ買った挙句、ラストにおっさん、これなんぼ?と何度も訊いても、訊かれた主人は何も応えずに、オッサン、オッサン、オッサンという繰り返しのフレーズの挙句、帰ってきた返事は、「わしゃ、聞こえまへん」で、その歌は終わりとなっていく。
が、元々の原曲、つまり唄われた当時は、何で返答がないかというと、「わしゃ、つんぼで聞こえまへん」であった。
ただ、現代では、その「つんぼ」という言葉が、差別用語というのだろうか、聴覚障碍者に対して問題があるとの認識からか削除されていて、我の持っている彼女の当時オリジナル音源の復刻CDでも、その部分は、ピーと伏字ならぬ、伏音がかかってたように記憶する。
で、今回のドラマの中でも、「つんぼ」という言葉が削られて、ただ「聞こえまへん」とされて唄われた次第だ。
これでは、元々のうたの意味がよく伝わらず、これは無意味な言葉狩り、過剰な自粛だという意見もあちこちで見かける。
確かにそうも思える。が、我としては、やはりいまこのうたを唄うならば、まして広く誰もが見聞きする公共放送の場ならばなおさら、「つんぼ」は使うべきではないと思う。
むろん、つんぼ、めっかち、我の母たちがよく口にしていた、おっちんぼ、ちんば、びっこ、などという言葉自体は、使うことの是非如何ではなく、言葉として残すべきものだと考える。
その言葉を無くしたからといって、その障害自体がこの世からなくなるわけではないし、文化的伝承としても、昔の書物中の言い換えなどはすべきではない。
今日でも例えば、手塚治虫の漫画本などでは、巻末に、「今日では差別にあたる表現が見られるが、オリジナルを大切にしてそのままにしました」というような「お断り」が付けたしされているが、それは正しいと断言する。
あくまでも当時は、差別意識云々とは別に、表現としてそれは確かに広くに世間にあったわけで、差別している意識は検証すべき必要は多々あれど、それはそのままにして伝え残すべき事例であろう。
よって、CD復刻などでは、できるだけ当時のままで、出すべきだと我は考えている。じっさい、近年では、一時期よりそうした意識の元に、ヘンなピー音など被せずに出されている昔の音源も多いと思われる。
それは本にしろ、なんであれオリジナル尊重として大いに喜ばしい。
が、では、今のテレビの劇中で、『買い物ブギ』を昔のまま、当時のオリジナル歌詞そのままで唄うのはいかがなものか。
我は、以前もちょこっと書いたかとも思うが、色覚障害があり、色の一部が健常者のように正確に判断できない。昔で言う「色盲」なのだ。
そうした障碍ある者としてこのうたの「つんぼ」を考えたとき、やはりこれは非常に複雑な気持ちにならざる得ない。
昨今ではどうかわからないが、都心の地下鉄の路線図など、我にはほとんど見ても判別できないし、数年前、拙宅のプリンターが壊れたとき、修理相談にメーカーのオペレーターとの電話対応にも苦労したことを思い出す。
電話口の女性は、プリンターの上部に点滅しているごく小さなランプの色が、いま何色か、緑なのか赤なのかと我に聞く。
が、その単独のランプの色が、我には、何色なのか色盲である我には全く判別ができない。だから、正直にそのことを伝えるしかなかった。
街中の信号だって、昨今では、ほとんどLEDのものに替わり、昔のランプ式のモノは少なくなったので助かるが、以前はほんとうに判別に常に苦労していた。特に背から夕陽を浴びたりしていると、昔の信号は我にはほとんど何色が点いたのか判別できなかった。仕方なくランプの位置で判断していた。
一部の色がうまく判別できないということは、多々生活の中で不便なことはかなりある。が、かの乙武氏の名言ではないが、障害は、不便だが不幸ではない、とはまさにその通りで、それはそれで我の個性であり、不便なことが多い社会だが自らを不幸だなんて考えたことはない。
と、自分では思う。そうしてそのことを自ら書いたり公言はできる。が、では、それを他人に、しかも障害のない人間に、それを「うた」にされて、さらにうたの中の「オチ」に使われたらどうだろう?
「オッサン、オッサン、これ何色?」と繰り返し問われて、「わし、色盲でわかりまへん」と歌われたら、当時でもそれを笑って受け流すことができるだろうか。
自分が、地下鉄の職員で、○○駅へここから一番てっとり早く行くには何線と何線を乗り換えて行けばいいか聞かれる「地下鉄ブギ」といううたがあったとする。
「オッサン、オッサン、オッサン、このカラー路線図のどの線に乗ればよろしいんか?」と何度も訊かれて、挙句に「わし、色盲でわかりまへん」というオチはやはり考えただけでもツライ。
そして気がつく。ツライのは、つんぼとか色盲という「言葉」自体が原因なのではなく、その不自由かつ不便な状態、=障害を、笑いの対象、うたのオチにされたということだと。言葉は言葉でしかない。
むろん、オリジナルの音源は、そのままでもちっともかまわない。いくら訊いても返事がないのは、つんぼだったというオチは、コミックソングとしてあまり上質なギャグとは思えないが、それもまた仕方なく過去の「時代」なのだと理解できる。
ただ、一部に、オリジナルを重視しろ、は、ともかくも、言葉狩りだとか、今のテレビ放送でも、それを昔のまま唄うべきだという意見にはあえて異を唱える。むろん、ただ「きこえまへん」だけでは意味がよくわからない。ならばこそ、当時はその歌の中に「つんぼ」という言葉があり、それらが使われていた時代にも思いをはせるべく、世に伝えていきたい。それこそが当時を知る者の義務ではなかろうか。
※このドラマ中に、「パンパン」とか「パンパンガール」という言葉が平然と出てきたが、パンパンは差別用語ではないのだと、今回思い知った。むろん、パンパンこそ、当時は差別、蔑み用語の筆頭であり『銀座カンカン娘』という映画も「パンパン娘」では、あんまりだということで、全く無意味な「カンカン娘」に替えたという逸話を思い出したことを記し終わりにする。映画そのものは、パンパンそのものの映画ではなく、たわいもない楽しく明るいものだが。
個人的に気になっていることを書く。
いま、NHKで放送している、笠置シヅ子をモデルにした、朝の連続ドラマについてだ。
正直、このドラマに対しては多々違和感というか、書きたいこともあるのだけれど、それはまた置いとくとして、いま、いちばん気になるのは、劇中で主人公が唄う、服部良一作詞作曲の『買い物ブギ』である。
ご存じの方には説明不要だろが、様々な買い物に街に出て、いろいろ買った挙句、ラストにおっさん、これなんぼ?と何度も訊いても、訊かれた主人は何も応えずに、オッサン、オッサン、オッサンという繰り返しのフレーズの挙句、帰ってきた返事は、「わしゃ、聞こえまへん」で、その歌は終わりとなっていく。
が、元々の原曲、つまり唄われた当時は、何で返答がないかというと、「わしゃ、つんぼで聞こえまへん」であった。
ただ、現代では、その「つんぼ」という言葉が、差別用語というのだろうか、聴覚障碍者に対して問題があるとの認識からか削除されていて、我の持っている彼女の当時オリジナル音源の復刻CDでも、その部分は、ピーと伏字ならぬ、伏音がかかってたように記憶する。
で、今回のドラマの中でも、「つんぼ」という言葉が削られて、ただ「聞こえまへん」とされて唄われた次第だ。
これでは、元々のうたの意味がよく伝わらず、これは無意味な言葉狩り、過剰な自粛だという意見もあちこちで見かける。
確かにそうも思える。が、我としては、やはりいまこのうたを唄うならば、まして広く誰もが見聞きする公共放送の場ならばなおさら、「つんぼ」は使うべきではないと思う。
むろん、つんぼ、めっかち、我の母たちがよく口にしていた、おっちんぼ、ちんば、びっこ、などという言葉自体は、使うことの是非如何ではなく、言葉として残すべきものだと考える。
その言葉を無くしたからといって、その障害自体がこの世からなくなるわけではないし、文化的伝承としても、昔の書物中の言い換えなどはすべきではない。
今日でも例えば、手塚治虫の漫画本などでは、巻末に、「今日では差別にあたる表現が見られるが、オリジナルを大切にしてそのままにしました」というような「お断り」が付けたしされているが、それは正しいと断言する。
あくまでも当時は、差別意識云々とは別に、表現としてそれは確かに広くに世間にあったわけで、差別している意識は検証すべき必要は多々あれど、それはそのままにして伝え残すべき事例であろう。
よって、CD復刻などでは、できるだけ当時のままで、出すべきだと我は考えている。じっさい、近年では、一時期よりそうした意識の元に、ヘンなピー音など被せずに出されている昔の音源も多いと思われる。
それは本にしろ、なんであれオリジナル尊重として大いに喜ばしい。
が、では、今のテレビの劇中で、『買い物ブギ』を昔のまま、当時のオリジナル歌詞そのままで唄うのはいかがなものか。
我は、以前もちょこっと書いたかとも思うが、色覚障害があり、色の一部が健常者のように正確に判断できない。昔で言う「色盲」なのだ。
そうした障碍ある者としてこのうたの「つんぼ」を考えたとき、やはりこれは非常に複雑な気持ちにならざる得ない。
昨今ではどうかわからないが、都心の地下鉄の路線図など、我にはほとんど見ても判別できないし、数年前、拙宅のプリンターが壊れたとき、修理相談にメーカーのオペレーターとの電話対応にも苦労したことを思い出す。
電話口の女性は、プリンターの上部に点滅しているごく小さなランプの色が、いま何色か、緑なのか赤なのかと我に聞く。
が、その単独のランプの色が、我には、何色なのか色盲である我には全く判別ができない。だから、正直にそのことを伝えるしかなかった。
街中の信号だって、昨今では、ほとんどLEDのものに替わり、昔のランプ式のモノは少なくなったので助かるが、以前はほんとうに判別に常に苦労していた。特に背から夕陽を浴びたりしていると、昔の信号は我にはほとんど何色が点いたのか判別できなかった。仕方なくランプの位置で判断していた。
一部の色がうまく判別できないということは、多々生活の中で不便なことはかなりある。が、かの乙武氏の名言ではないが、障害は、不便だが不幸ではない、とはまさにその通りで、それはそれで我の個性であり、不便なことが多い社会だが自らを不幸だなんて考えたことはない。
と、自分では思う。そうしてそのことを自ら書いたり公言はできる。が、では、それを他人に、しかも障害のない人間に、それを「うた」にされて、さらにうたの中の「オチ」に使われたらどうだろう?
「オッサン、オッサン、これ何色?」と繰り返し問われて、「わし、色盲でわかりまへん」と歌われたら、当時でもそれを笑って受け流すことができるだろうか。
自分が、地下鉄の職員で、○○駅へここから一番てっとり早く行くには何線と何線を乗り換えて行けばいいか聞かれる「地下鉄ブギ」といううたがあったとする。
「オッサン、オッサン、オッサン、このカラー路線図のどの線に乗ればよろしいんか?」と何度も訊かれて、挙句に「わし、色盲でわかりまへん」というオチはやはり考えただけでもツライ。
そして気がつく。ツライのは、つんぼとか色盲という「言葉」自体が原因なのではなく、その不自由かつ不便な状態、=障害を、笑いの対象、うたのオチにされたということだと。言葉は言葉でしかない。
むろん、オリジナルの音源は、そのままでもちっともかまわない。いくら訊いても返事がないのは、つんぼだったというオチは、コミックソングとしてあまり上質なギャグとは思えないが、それもまた仕方なく過去の「時代」なのだと理解できる。
ただ、一部に、オリジナルを重視しろ、は、ともかくも、言葉狩りだとか、今のテレビ放送でも、それを昔のまま唄うべきだという意見にはあえて異を唱える。むろん、ただ「きこえまへん」だけでは意味がよくわからない。ならばこそ、当時はその歌の中に「つんぼ」という言葉があり、それらが使われていた時代にも思いをはせるべく、世に伝えていきたい。それこそが当時を知る者の義務ではなかろうか。
※このドラマ中に、「パンパン」とか「パンパンガール」という言葉が平然と出てきたが、パンパンは差別用語ではないのだと、今回思い知った。むろん、パンパンこそ、当時は差別、蔑み用語の筆頭であり『銀座カンカン娘』という映画も「パンパン娘」では、あんまりだということで、全く無意味な「カンカン娘」に替えたという逸話を思い出したことを記し終わりにする。映画そのものは、パンパンそのものの映画ではなく、たわいもない楽しく明るいものだが。
さあ、3月、ここから本当に再スタートだ。 ― 2024年03月01日 21時21分52秒
★キリギリスはキリギリスのまま、どうやってこれからも生きて行くか。
今日からあっという間に3月。冬の間、年明けからだらだら自分事を書いてきたが、これで終わり、オシマイとしたい。
結論だけ書けば、要するに、怠け者、若い時から享楽的に生きてきた我、寓話の中のキリギリスに喩えられる者が、人生の冬の時期、晩年を前にしてどうやってその季節を乗り越えられるか、ということに尽きる。
そう、キリギリスは一日でも長く、冬が来た今、どうやったら生きて行けるか、だ。
げんじつの話、もう行き詰ってきて、今日は、市役所に行って様々な税金の支払いに、延期を願い分割の誓約書を書いてきた。
今のまま、ほんとうの無収入状況が続けば、もはや親たちの遺してくれた蓄えも完全に尽きてくるので、早晩、生活は破綻してしまうだろう。
幸い、ホームレスの方々とは違い、今住んでる持ち家はあるので、路頭に迷うことはないが、日々、その家にもかかる諸税金は溜まり督促され、差し押さえへと流れは進むので、事態はさらに悪化していく。
我自身は、衣食など何もこだわりはしないが、案ずるのは、共に暮らす動物たちの生活費の工面できないことで、ほんとうにそろそろ1円でも稼ぐ方法を真剣に求めないとならない。
いま、模索しているのは、ネットで古本を売る稼業以外に、ネットを利用して、少しでも収益を得る方法は何かということだ。
ブログも、ブロガーとして金を稼いでいる人も多々いるようだ。それはカンタンなことではないと思うが、自ら書くことが、少しでもお金に繋がるのなら、まずはチャレンジしてみるべきではないだろうか。
たとえば、本であれ、何かについて我がブログなどで書いて、その画像なりを宣材として貼り付ければ、アフェリエイトって言うのか、それを読んでくれた方が、またそれを購入してくれれば、我のほうにいくらかはキックバックがあると訊く。
良くないもの、内心、価値がないと思うものを取り上げて、褒め上げる気はないが、我自身が良いと思い、もっと売れて世に知られることを望むものを載せて、もしそれで金が入るのなら、それは正しいことではないかと考えるようになった。
幸い、我は書くことだけは、質はともかくまったく苦にならない。いろいろ誤認識や、勘違いはあるかもしれないが、書きたいことは本や音楽についていくらでもある。
まずは、そうした様々なネット上での金を稼ぐ手段を模索していこうと思っている。
その場合、当ブログではない、別のブログで活動となろう。また、そのときは、この場所でそちらへのアクセス方法はお知らせしたいと考えている。
ともかく、今年、2024年度中に、キリギリスがこれからも生きて行く処方を何としても見つけ出さないとならない。
もう季節は今年も春が来た。が、我が人生の冬の時期を、一日でも長く、いかにして生き延びるか、まさにそこに、最大の課題、目的がある。
これからもおいおい、そうした状況は、まずはここで、できるだけ正直に、包み隠さず書いていく。何であれトラブルにまた繋がらぬようなことは書き記していきたい。
まだまだ、もう少しだけ人生は続く。そう信じてやっていく。
今日からあっという間に3月。冬の間、年明けからだらだら自分事を書いてきたが、これで終わり、オシマイとしたい。
結論だけ書けば、要するに、怠け者、若い時から享楽的に生きてきた我、寓話の中のキリギリスに喩えられる者が、人生の冬の時期、晩年を前にしてどうやってその季節を乗り越えられるか、ということに尽きる。
そう、キリギリスは一日でも長く、冬が来た今、どうやったら生きて行けるか、だ。
げんじつの話、もう行き詰ってきて、今日は、市役所に行って様々な税金の支払いに、延期を願い分割の誓約書を書いてきた。
今のまま、ほんとうの無収入状況が続けば、もはや親たちの遺してくれた蓄えも完全に尽きてくるので、早晩、生活は破綻してしまうだろう。
幸い、ホームレスの方々とは違い、今住んでる持ち家はあるので、路頭に迷うことはないが、日々、その家にもかかる諸税金は溜まり督促され、差し押さえへと流れは進むので、事態はさらに悪化していく。
我自身は、衣食など何もこだわりはしないが、案ずるのは、共に暮らす動物たちの生活費の工面できないことで、ほんとうにそろそろ1円でも稼ぐ方法を真剣に求めないとならない。
いま、模索しているのは、ネットで古本を売る稼業以外に、ネットを利用して、少しでも収益を得る方法は何かということだ。
ブログも、ブロガーとして金を稼いでいる人も多々いるようだ。それはカンタンなことではないと思うが、自ら書くことが、少しでもお金に繋がるのなら、まずはチャレンジしてみるべきではないだろうか。
たとえば、本であれ、何かについて我がブログなどで書いて、その画像なりを宣材として貼り付ければ、アフェリエイトって言うのか、それを読んでくれた方が、またそれを購入してくれれば、我のほうにいくらかはキックバックがあると訊く。
良くないもの、内心、価値がないと思うものを取り上げて、褒め上げる気はないが、我自身が良いと思い、もっと売れて世に知られることを望むものを載せて、もしそれで金が入るのなら、それは正しいことではないかと考えるようになった。
幸い、我は書くことだけは、質はともかくまったく苦にならない。いろいろ誤認識や、勘違いはあるかもしれないが、書きたいことは本や音楽についていくらでもある。
まずは、そうした様々なネット上での金を稼ぐ手段を模索していこうと思っている。
その場合、当ブログではない、別のブログで活動となろう。また、そのときは、この場所でそちらへのアクセス方法はお知らせしたいと考えている。
ともかく、今年、2024年度中に、キリギリスがこれからも生きて行く処方を何としても見つけ出さないとならない。
もう季節は今年も春が来た。が、我が人生の冬の時期を、一日でも長く、いかにして生き延びるか、まさにそこに、最大の課題、目的がある。
これからもおいおい、そうした状況は、まずはここで、できるだけ正直に、包み隠さず書いていく。何であれトラブルにまた繋がらぬようなことは書き記していきたい。
まだまだ、もう少しだけ人生は続く。そう信じてやっていく。
とりあえず、終わりに ― 2024年02月26日 23時48分28秒
★あと1~2回書いてこのブログは終わりにします
自分のどうでもいいことばかり書いて、ほとんど誰にも読まれていないと思う。※当ブログはアクセス数で、ランキングが出るのだが、じっさい日々低下し続けている。
でも、経緯も含めてこうしたことを書かないと、このブログも終わりにできなかったわけで、自分のためにも書けて良かった、ほっとした気持ちで今いる。
アタマのオカシイ、何一つきちんとできない、誰からも呆れ果てられ疎んぜられてしまった男が、それでも臆面なく生きてきた。
その心の窓として、唯一、外界との繋がりであったこのここのブログ、今のようなカタチではもう書くべきではないと考えるし、これからも生きて生活し続けるためにも、別なところへ移行せねばならないことは確かだ。
行き詰ってしまった人生を打開し、これからもあと少し天命のままもう少しだけ生きるためにも、存分に書きたいことを書き、やりたいこと、やるべきことを果たしたいと思う。
それには残念ながらここ、このスタイルでは難しい。まだ新たな居場所は見つけられていないが、近いうち、遅くても数か月内には、別なところで新たなブログ再開したいと考えている。
今さらだが、自分は、全てにおいて誰に対しても不誠実だった。学生時代に知り合い、半世紀近くも経つ旧い女友達に、久しぶりに連絡とろうとしたら、なかなか繋がらず、やっと先日、向こうからSMで、もう連絡はしないでくれ、と絶交の短いメッセージが届いた。
彼女とはその結婚後も、子供が生まれても家族ぐるみで付き合い、まさに家族のように思っていただけに、その申し出に驚き、ただ残念だが、それも仕方ないと思える。我はそれだけのことをしてきたのだろう。ずっと不誠実で、向こうを怒らせ呆れ果てるようなことをずっとしてきたのだから、ついに終わりの時が来たのだ。
学生時代の多くの他の友たちとも皆そうして疎遠になっていく。誰もが歳と共に自分のことだけで手いっぱいで、こんな足を引っ張るだけの、不真面目かつだらしないダメ人間は相手にしている暇はない。
そう、情けないが、それが現実であり、我はそれ相応の無価値な無意味な人間なのだから。
しかし、だからといって、自ら死のうとは思わない。彼らの為に我は在り、生きているわけではないのだから、どれほど自分勝手、非道と思われようとも、自分らしくこれからも生きて行くしかない。一人でも。
敬愛するシンガー田中研二の昔のうたの一節に、僕は離れていく鎖の輪だ、という一節があったと記憶するが、一時でもそうした鎖の輪の中にいた自分こそがそもそも間違い、失敗だったと思えるぐらい、我はどこだっていつもイレギュラーだった。
誰からも求められず相手にされはしなくとも、我は我であり、自分なりの自負やプライドもある。人の顔色を窺い、助けを請うことはそもそも無意味なのだった。拙を守り我が才を恃むしかない。やっとわかった。
自分は自分でしかない。
我は、あと5年ぐらいはまだ生きられると思う。ならばその中でとことん自由に、真に我がままに、まず自分自身に対して誠実に、果たすべきことを果たしていこうと思う。
まだまだやりたいこととやるべきこと、果たさねばならぬことがいっぱいある。もう何も奪われない。何も失わない。逆に取り戻していく。
なにくそっ!!という思いだ。主よ、憐れみたまえ。
自分のどうでもいいことばかり書いて、ほとんど誰にも読まれていないと思う。※当ブログはアクセス数で、ランキングが出るのだが、じっさい日々低下し続けている。
でも、経緯も含めてこうしたことを書かないと、このブログも終わりにできなかったわけで、自分のためにも書けて良かった、ほっとした気持ちで今いる。
アタマのオカシイ、何一つきちんとできない、誰からも呆れ果てられ疎んぜられてしまった男が、それでも臆面なく生きてきた。
その心の窓として、唯一、外界との繋がりであったこのここのブログ、今のようなカタチではもう書くべきではないと考えるし、これからも生きて生活し続けるためにも、別なところへ移行せねばならないことは確かだ。
行き詰ってしまった人生を打開し、これからもあと少し天命のままもう少しだけ生きるためにも、存分に書きたいことを書き、やりたいこと、やるべきことを果たしたいと思う。
それには残念ながらここ、このスタイルでは難しい。まだ新たな居場所は見つけられていないが、近いうち、遅くても数か月内には、別なところで新たなブログ再開したいと考えている。
今さらだが、自分は、全てにおいて誰に対しても不誠実だった。学生時代に知り合い、半世紀近くも経つ旧い女友達に、久しぶりに連絡とろうとしたら、なかなか繋がらず、やっと先日、向こうからSMで、もう連絡はしないでくれ、と絶交の短いメッセージが届いた。
彼女とはその結婚後も、子供が生まれても家族ぐるみで付き合い、まさに家族のように思っていただけに、その申し出に驚き、ただ残念だが、それも仕方ないと思える。我はそれだけのことをしてきたのだろう。ずっと不誠実で、向こうを怒らせ呆れ果てるようなことをずっとしてきたのだから、ついに終わりの時が来たのだ。
学生時代の多くの他の友たちとも皆そうして疎遠になっていく。誰もが歳と共に自分のことだけで手いっぱいで、こんな足を引っ張るだけの、不真面目かつだらしないダメ人間は相手にしている暇はない。
そう、情けないが、それが現実であり、我はそれ相応の無価値な無意味な人間なのだから。
しかし、だからといって、自ら死のうとは思わない。彼らの為に我は在り、生きているわけではないのだから、どれほど自分勝手、非道と思われようとも、自分らしくこれからも生きて行くしかない。一人でも。
敬愛するシンガー田中研二の昔のうたの一節に、僕は離れていく鎖の輪だ、という一節があったと記憶するが、一時でもそうした鎖の輪の中にいた自分こそがそもそも間違い、失敗だったと思えるぐらい、我はどこだっていつもイレギュラーだった。
誰からも求められず相手にされはしなくとも、我は我であり、自分なりの自負やプライドもある。人の顔色を窺い、助けを請うことはそもそも無意味なのだった。拙を守り我が才を恃むしかない。やっとわかった。
自分は自分でしかない。
我は、あと5年ぐらいはまだ生きられると思う。ならばその中でとことん自由に、真に我がままに、まず自分自身に対して誠実に、果たすべきことを果たしていこうと思う。
まだまだやりたいこととやるべきこと、果たさねばならぬことがいっぱいある。もう何も奪われない。何も失わない。逆に取り戻していく。
なにくそっ!!という思いだ。主よ、憐れみたまえ。
これからのこと⑦ ― 2024年02月24日 13時23分54秒
★どのように、どんな音楽に向き合っていくか
これから、残りの人生はオンガクとブンガクにきちんと向き合うと書いてきた。
むろんそれは何事もすべて同じで、我はすべてに不真面目で、だらしなくテキトーだったと今更にして思う。友人関係においてもだ。本来きちんと成すべきいろんなモノゴトを放擲、つまりほったらかし投げ出してきた。
さておき、では、向き合うとはどういうことか。つまるところもっと関わりを深めて、少しでも究めて「自分のもの」にしていくことだ。
音楽はなんでも好きだとしても、ジャズやクラシックは、あまりに敷居が高く難解で、その素養もない人間が、おいそれと究められるはずもない。あくまでも鑑賞にとどめて愛聴する1リスナーでありたいと考える。
我がもっと究めたいと願うのは、ボーカルを主体としたポピュラーソング、それもスタンダード曲についてで、フォークソングや歌謡曲であれ、そうした楽曲は、いくつも存在している。
一言でそれらを括れば、時代をこえて残る、残すべき、多くの人に愛好される「うた」ということに尽きる。それは売れたか、ヒットしたかという次元の観点ではない。良い「うた」ゆえに、誰もに愛聴、愛唱される価値がある楽曲であるかだ。
我は、そういううた、スタンダード曲をもっと深く勉強して、願わくば、自らも表現できるようになれたらと夢想する。
一例をあげれば、服部良一なら、「蘇州夜曲」や「胸の振り子」であり、中村八大でいえば、「上を向いて歩こう」「黄昏のビギン」、いずみたくなら「見上げてごらん夜の星を」等々、説明せずとも誰もに知られて後世にこれからも永遠にのこる名曲である。
畏友「さこ大介」さんの創るうたの数々も、フォークソングとかブルースの枠に収まらない、まさにスタンダードとなり得る楽曲で、我も死ぬまでに1曲でいいからそうした「うた」を作り遺せたらと願う。
洋楽で、ザット・ラッキー・オールド・サン (That Lucky Old Sun)」という曲がある。
日本では、さほど知られていないと感じるが、この曲は、ビーズリー・スミス (Beasley Smith) 作曲、ヘイヴン・ガレスピー (Haven Gillespie) 作詞による、1949年のポピュラーソングの楽曲だそうで、我も拙いながら、聴き覚えた日本語詞で唄っていた。
♪朝っぱらから仕事に出かけ 悪魔のように金儲け なのに1日中ゴロンゴロンとお空にゃおてんとさん ~という出だしのうただ。
レイチャールズやF・シナトラ、ルイ・アームストロング他、多くのシンガーに唄われているスタンダード曲だが、我は、このうたを10年以上前、春一番コンサートなどで大阪に行ったとき、向こうのライブハウスで地元ミュージシャンが唄ってるのを聴いてまず知ったと記憶する。
また、その後、東京に来た関西系シンガーが唄っているのを聴いて、いい曲だなあと思い、覚えてコピーし我も持ち歌にした経緯がある。
日本では大西ユカリのバージョンが特に知られているかと思う。
ボブ・ディランも近年のアルバムの中で、同曲を唄っているのだが、まったく違うメロディーに我は聞こえて戸惑い、同名だが、別の曲だと思っていた。※まあ、近年のディランさんは、自分のうたでも、とことん崩して唄っていて、ファンでもすぐに何の曲かわからないそうだから、無理もなかったわけだが。
それが、先日テレビで、NHKの番組『街角ピアノ』で、米国・ニューオリンズの回のとき、道端の芝生に置かれたピアノでこの曲を弾くミュージシャンが現れ、テロップで曲名とカンタンな解説が流れた。
メロディーは、我が知り唄っているものとはだいぶ違ってはいたが、それでやはりこの曲は、同じものだと思い至り、気になってあれこれネットで調べてみた。
そして以下のことがわかった。
先の日本語での歌詞は、京都の老舗の蔵造りのライブハウス、拾得のオーナーのテリーさんがつくったもので、久保田誠と夕焼け楽団のアルバムにこの歌詞でまず収録されたという。※そのアルバム、我は未聴だった。たぶんウチにはそのLPはあると思うけれど。
向こうでのオリジナル曲というか、最も早く録音したのは、フランキーレインらしく、そのバージョンを聴くと女性コーラスが大きく取り入れられていて今のそれとはだいぶ違うアレンジである。※彼は、大昔のテレビ西部劇『ローハイド』の主題歌で有名な歌手で、♪ローレン、ローレン、ローレン~で、始まるその歌は、我らの世代なら誰もがご存じであろう。
他にもいろいろな向こうの歌手が唄っているバージョンをYouTubeで聴いて、ようやく基本的なメロディーがはっきりわかった。
個人的にもっとも参考になり、良いと思えたのは、k.d.ラングのそれであった。
ともあれ、今の我が唄っているメロディーは、元々の原曲とはだいぶ違うことがわかってきた。それはつまるところ、日本でも様々な歌い手が唄い次ぎ、それぞれが耳で覚えて唄っていたため、伝言ゲームのようにいつしか微妙に変わっていったのだと思える。
むろんうたは、そうしたもので、長い間に多くの人に歌われているうちに、本来のオリジナル曲からメロディーも歌詞も変わってしまうことはよくある。それはけして悪いことではない。
ただ、我としては、やはり当初のメロディーにできるだけ近づけて、いや、忠実に唄いたいと思う。崩すことはカンタンだが、まずは原曲を知ることからだろう。
また、何故に関西系のシンガーたちに多く唄われたかというと、そこに拾得のテリーさんが訳したということも大きいはずで、そうか、そうだったのか!!と長年自分でも唄ってきたこの歌のルーツというか、背景がやっと判明した。
それにしても呆れるほど驚くのは、こうしたことは全てネット上ですぐさまわかることだ。原曲、及び訳詞の歌詞もコードも内外問わず様々な歌手が唄ってる画像さえも無料で視て調べ得ることができる。
つまりケイタイ1台あれば、昔なら図書館に行ったりあちこちに確認すべきことが、たちどころに判明するのである。まさにこれが21世紀だとその安逸さ、利便さにただただ驚かされた。
これからは、テリー氏の訳したバージョンだけでなく、原詩をもう少し取り入れて、我なりに日本語詞で基本のメロディーに則った「ザット・ラッキー・オールド・サン」をぜひ完成させて唄いたいと願う。
我が言う、音楽に向き合い、自らのものにしていくというのは、一例だがこうした行為であり、世の多くの人にはまったく無関係な、興味のないことだと思えるが、こうした掘り下げと再確認は個人的には為すべき大事なことだと考えている。
★フランキー・レインのバージョン↓
https://www.bing.com/videos/riverview/relatedvideo?&q=%e3%82%b6%e3%83%83%e3%83%88%e3%83%a9%e3%83%83%e3%82%ad%e3%83%bc%e3%82%aa%e3%83%bc%e3%83%ab%e3%83%89%e3%82%b5%e3%83%b3%e3%80%80%e3%83%95%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%82%ad%e3%83%bc%e3%83%ac%e3%82%a4%e3%83%b3&&mid=CF671CAC3E145B4ACC5DCF671CAC3E145B4ACC5D&&FORM=VRDGAR
★k.d.ラング ※CMが最初にあるかも
https://www.youtube.com/watch?v=pXJBih_QqLQ
★おまけ、忌野清志郎 https://youtu.be/gj8EO9N9sQ0
これから、残りの人生はオンガクとブンガクにきちんと向き合うと書いてきた。
むろんそれは何事もすべて同じで、我はすべてに不真面目で、だらしなくテキトーだったと今更にして思う。友人関係においてもだ。本来きちんと成すべきいろんなモノゴトを放擲、つまりほったらかし投げ出してきた。
さておき、では、向き合うとはどういうことか。つまるところもっと関わりを深めて、少しでも究めて「自分のもの」にしていくことだ。
音楽はなんでも好きだとしても、ジャズやクラシックは、あまりに敷居が高く難解で、その素養もない人間が、おいそれと究められるはずもない。あくまでも鑑賞にとどめて愛聴する1リスナーでありたいと考える。
我がもっと究めたいと願うのは、ボーカルを主体としたポピュラーソング、それもスタンダード曲についてで、フォークソングや歌謡曲であれ、そうした楽曲は、いくつも存在している。
一言でそれらを括れば、時代をこえて残る、残すべき、多くの人に愛好される「うた」ということに尽きる。それは売れたか、ヒットしたかという次元の観点ではない。良い「うた」ゆえに、誰もに愛聴、愛唱される価値がある楽曲であるかだ。
我は、そういううた、スタンダード曲をもっと深く勉強して、願わくば、自らも表現できるようになれたらと夢想する。
一例をあげれば、服部良一なら、「蘇州夜曲」や「胸の振り子」であり、中村八大でいえば、「上を向いて歩こう」「黄昏のビギン」、いずみたくなら「見上げてごらん夜の星を」等々、説明せずとも誰もに知られて後世にこれからも永遠にのこる名曲である。
畏友「さこ大介」さんの創るうたの数々も、フォークソングとかブルースの枠に収まらない、まさにスタンダードとなり得る楽曲で、我も死ぬまでに1曲でいいからそうした「うた」を作り遺せたらと願う。
洋楽で、ザット・ラッキー・オールド・サン (That Lucky Old Sun)」という曲がある。
日本では、さほど知られていないと感じるが、この曲は、ビーズリー・スミス (Beasley Smith) 作曲、ヘイヴン・ガレスピー (Haven Gillespie) 作詞による、1949年のポピュラーソングの楽曲だそうで、我も拙いながら、聴き覚えた日本語詞で唄っていた。
♪朝っぱらから仕事に出かけ 悪魔のように金儲け なのに1日中ゴロンゴロンとお空にゃおてんとさん ~という出だしのうただ。
レイチャールズやF・シナトラ、ルイ・アームストロング他、多くのシンガーに唄われているスタンダード曲だが、我は、このうたを10年以上前、春一番コンサートなどで大阪に行ったとき、向こうのライブハウスで地元ミュージシャンが唄ってるのを聴いてまず知ったと記憶する。
また、その後、東京に来た関西系シンガーが唄っているのを聴いて、いい曲だなあと思い、覚えてコピーし我も持ち歌にした経緯がある。
日本では大西ユカリのバージョンが特に知られているかと思う。
ボブ・ディランも近年のアルバムの中で、同曲を唄っているのだが、まったく違うメロディーに我は聞こえて戸惑い、同名だが、別の曲だと思っていた。※まあ、近年のディランさんは、自分のうたでも、とことん崩して唄っていて、ファンでもすぐに何の曲かわからないそうだから、無理もなかったわけだが。
それが、先日テレビで、NHKの番組『街角ピアノ』で、米国・ニューオリンズの回のとき、道端の芝生に置かれたピアノでこの曲を弾くミュージシャンが現れ、テロップで曲名とカンタンな解説が流れた。
メロディーは、我が知り唄っているものとはだいぶ違ってはいたが、それでやはりこの曲は、同じものだと思い至り、気になってあれこれネットで調べてみた。
そして以下のことがわかった。
先の日本語での歌詞は、京都の老舗の蔵造りのライブハウス、拾得のオーナーのテリーさんがつくったもので、久保田誠と夕焼け楽団のアルバムにこの歌詞でまず収録されたという。※そのアルバム、我は未聴だった。たぶんウチにはそのLPはあると思うけれど。
向こうでのオリジナル曲というか、最も早く録音したのは、フランキーレインらしく、そのバージョンを聴くと女性コーラスが大きく取り入れられていて今のそれとはだいぶ違うアレンジである。※彼は、大昔のテレビ西部劇『ローハイド』の主題歌で有名な歌手で、♪ローレン、ローレン、ローレン~で、始まるその歌は、我らの世代なら誰もがご存じであろう。
他にもいろいろな向こうの歌手が唄っているバージョンをYouTubeで聴いて、ようやく基本的なメロディーがはっきりわかった。
個人的にもっとも参考になり、良いと思えたのは、k.d.ラングのそれであった。
ともあれ、今の我が唄っているメロディーは、元々の原曲とはだいぶ違うことがわかってきた。それはつまるところ、日本でも様々な歌い手が唄い次ぎ、それぞれが耳で覚えて唄っていたため、伝言ゲームのようにいつしか微妙に変わっていったのだと思える。
むろんうたは、そうしたもので、長い間に多くの人に歌われているうちに、本来のオリジナル曲からメロディーも歌詞も変わってしまうことはよくある。それはけして悪いことではない。
ただ、我としては、やはり当初のメロディーにできるだけ近づけて、いや、忠実に唄いたいと思う。崩すことはカンタンだが、まずは原曲を知ることからだろう。
また、何故に関西系のシンガーたちに多く唄われたかというと、そこに拾得のテリーさんが訳したということも大きいはずで、そうか、そうだったのか!!と長年自分でも唄ってきたこの歌のルーツというか、背景がやっと判明した。
それにしても呆れるほど驚くのは、こうしたことは全てネット上ですぐさまわかることだ。原曲、及び訳詞の歌詞もコードも内外問わず様々な歌手が唄ってる画像さえも無料で視て調べ得ることができる。
つまりケイタイ1台あれば、昔なら図書館に行ったりあちこちに確認すべきことが、たちどころに判明するのである。まさにこれが21世紀だとその安逸さ、利便さにただただ驚かされた。
これからは、テリー氏の訳したバージョンだけでなく、原詩をもう少し取り入れて、我なりに日本語詞で基本のメロディーに則った「ザット・ラッキー・オールド・サン」をぜひ完成させて唄いたいと願う。
我が言う、音楽に向き合い、自らのものにしていくというのは、一例だがこうした行為であり、世の多くの人にはまったく無関係な、興味のないことだと思えるが、こうした掘り下げと再確認は個人的には為すべき大事なことだと考えている。
★フランキー・レインのバージョン↓
https://www.bing.com/videos/riverview/relatedvideo?&q=%e3%82%b6%e3%83%83%e3%83%88%e3%83%a9%e3%83%83%e3%82%ad%e3%83%bc%e3%82%aa%e3%83%bc%e3%83%ab%e3%83%89%e3%82%b5%e3%83%b3%e3%80%80%e3%83%95%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%82%ad%e3%83%bc%e3%83%ac%e3%82%a4%e3%83%b3&&mid=CF671CAC3E145B4ACC5DCF671CAC3E145B4ACC5D&&FORM=VRDGAR
★k.d.ラング ※CMが最初にあるかも
https://www.youtube.com/watch?v=pXJBih_QqLQ
★おまけ、忌野清志郎 https://youtu.be/gj8EO9N9sQ0
これからのこと⑥ ― 2024年02月23日 11時28分25秒
★どのように、再び人生に向き合っていくか
我は、音楽、=音の出るモノならば何でも好きで、子供の頃の鉱石ラジオから昨今のデジタルオーディオ類まで機器類も偏愛、愛用している。
音楽そのものに関して言えば、一部の騒音・爆音、雑音の類のもの以外は、うたものに限らずジャンルを問わず何でも聴く。
ジャズやクラシックのレコードだけでも合わせれば、千枚に軽く届くと思うほどあるのに、残念ながらそのほとんどはこのところ聴いていない。
ご存じだと思うが、レコードというのは、針を落として鳴らすまでが、かなり面倒な手間が多々かかる。よほど落ち着いた時間がないとかけるのは難しい。
思えば、この10年、母の癌再発以降は、レコードのみならず、CD、ラジオの類も家ではまったく聴くことがなかった。
家で介護していた母の世話などで忙しかったこともあるが、昼夜問わず母の下の世話が必要で、母が我を枕元のチャイムで呼ぶため、常に耳を澄ませていなくてはならなかったからだ。
我は、眠っていても母にオムツ交換で呼ばれれば、深夜であろうと起きて駆けつけないとならない。とても音楽をかけたり、じっくり耳を傾ける時間も余裕もなかったからだ。
母の死後、父の場合は、在宅よりもショートステイやデイサービスに行ってる日の方が多かったわけだが、それでも留守の間にやるべきことがともかく多くて、やはり音楽をかけたり聴くことはできなかった。
そして今、その二人ともいなくなったのだから、我は一人ゆっくり思う存分、スピーカーを鳴らして好きな音楽三昧ができるわけなのだが、やはり多々やるべき雑事がともかく多くて、とてもまだそんな気分にもなれないし時間もとれない。
我にとって音楽は、ただ流すだけのBGMではなく、じっくり向き合いそのためだけに耳を傾けるものだから、片手間では聴けやしない。
若い頃の夢は、老後を迎えたとき、長年買い集めたレコードを真空管アンプなど最高のシステムで、長椅子に凭れてコーヒーカップ片手にじっくりのんびり、ジャズ喫茶やクラシック喫茶のごとく大きな音で鳴らして過ごすことだった。
が、いま、その老後の歳となっても我が不徳によって、その夢はかなわないままとなっている。
しかし、レコードやCDに限らず、読みたいと思ってても未だ読めていないたくさんの本も多々ある。我には永久にゆとりある余生など来ないのだから、これからはできるだけ時間をつくってそれらと向き合わねばならない。
若い時から、いつか時間ができたら、そのときに、と何につけても先延ばしにしてきた。しかし、そんな時間はもう来ないし、何よりその時間そのもの、持ち時間はもはや残り少ないのである。
死後の人生、あの世があるとしても、今、この世の人生、現世は我が肉体においては一度きりなのだけは間違いない。
片づけなどやるべきことをやっていくのは当然のことだが、生活に必要な最低限の金で、最低限の生活をしつつ、これからは音楽と文学に向き合っていく。我が人生、敗残処理だけでなく、残りの時間を我の「芸術」のためにも用いていかねばならぬ。
よく、日々倹約して貯蓄に励み、つましい生活をし、旅行など一切の贅沢はせず、その人生を終えたとき、膨大な貯金を残す人がいる。我の母の知り合いのそういう方は、身寄りもなかったのでその金は全て国庫に没収されたと訊いた。
しかし、我に言わせれば、その人には失礼だが全くナンセンスであり、死ねば一切何もあの世に持って行けないのだから、お金は使うためにあり、願わくば、社会のため、人に役立つに為に使ってこそ金であろう。我に在るたくさんのモノだって同様に。ただ死蔵して我が死後、ゴミとして雲散霧消させてはならない。
我は昔からろくに収入もないのに、ずいぶんあれこれモノやイベントなどに金を使ってきた。近年は猫たちに、日々の餌代以外にも病気やケガの為に何十万円も費やした。※この5年、何匹もの猫の治療費だけで100万円は軽く超すと思う。
しかしそこには何も悔いはない。何とかそのお金が工面できたことこそ僥倖、有難いと思える。彼らの命のためにお金と時間が使えて良かった。※心優しき友人たちからの支援カンパもあってのことだ。改めて感謝御礼申し上げます。
そしてこれからはまず自分のためにも、時間を用いたいと願う。金はともかくモノは、もはや何でもあるので、新たに必要なものはほとんどない。日ごとの糧程度あれば。
だからお金は使わずに、今我に在るものすべてにきちんと向き合い、オンガクとブンガクの為にも時間をつくっていく。
僭越を承知で記せば、そのことが、結果として他者のため、社会や後の世の為になると信じて。
我は、音楽、=音の出るモノならば何でも好きで、子供の頃の鉱石ラジオから昨今のデジタルオーディオ類まで機器類も偏愛、愛用している。
音楽そのものに関して言えば、一部の騒音・爆音、雑音の類のもの以外は、うたものに限らずジャンルを問わず何でも聴く。
ジャズやクラシックのレコードだけでも合わせれば、千枚に軽く届くと思うほどあるのに、残念ながらそのほとんどはこのところ聴いていない。
ご存じだと思うが、レコードというのは、針を落として鳴らすまでが、かなり面倒な手間が多々かかる。よほど落ち着いた時間がないとかけるのは難しい。
思えば、この10年、母の癌再発以降は、レコードのみならず、CD、ラジオの類も家ではまったく聴くことがなかった。
家で介護していた母の世話などで忙しかったこともあるが、昼夜問わず母の下の世話が必要で、母が我を枕元のチャイムで呼ぶため、常に耳を澄ませていなくてはならなかったからだ。
我は、眠っていても母にオムツ交換で呼ばれれば、深夜であろうと起きて駆けつけないとならない。とても音楽をかけたり、じっくり耳を傾ける時間も余裕もなかったからだ。
母の死後、父の場合は、在宅よりもショートステイやデイサービスに行ってる日の方が多かったわけだが、それでも留守の間にやるべきことがともかく多くて、やはり音楽をかけたり聴くことはできなかった。
そして今、その二人ともいなくなったのだから、我は一人ゆっくり思う存分、スピーカーを鳴らして好きな音楽三昧ができるわけなのだが、やはり多々やるべき雑事がともかく多くて、とてもまだそんな気分にもなれないし時間もとれない。
我にとって音楽は、ただ流すだけのBGMではなく、じっくり向き合いそのためだけに耳を傾けるものだから、片手間では聴けやしない。
若い頃の夢は、老後を迎えたとき、長年買い集めたレコードを真空管アンプなど最高のシステムで、長椅子に凭れてコーヒーカップ片手にじっくりのんびり、ジャズ喫茶やクラシック喫茶のごとく大きな音で鳴らして過ごすことだった。
が、いま、その老後の歳となっても我が不徳によって、その夢はかなわないままとなっている。
しかし、レコードやCDに限らず、読みたいと思ってても未だ読めていないたくさんの本も多々ある。我には永久にゆとりある余生など来ないのだから、これからはできるだけ時間をつくってそれらと向き合わねばならない。
若い時から、いつか時間ができたら、そのときに、と何につけても先延ばしにしてきた。しかし、そんな時間はもう来ないし、何よりその時間そのもの、持ち時間はもはや残り少ないのである。
死後の人生、あの世があるとしても、今、この世の人生、現世は我が肉体においては一度きりなのだけは間違いない。
片づけなどやるべきことをやっていくのは当然のことだが、生活に必要な最低限の金で、最低限の生活をしつつ、これからは音楽と文学に向き合っていく。我が人生、敗残処理だけでなく、残りの時間を我の「芸術」のためにも用いていかねばならぬ。
よく、日々倹約して貯蓄に励み、つましい生活をし、旅行など一切の贅沢はせず、その人生を終えたとき、膨大な貯金を残す人がいる。我の母の知り合いのそういう方は、身寄りもなかったのでその金は全て国庫に没収されたと訊いた。
しかし、我に言わせれば、その人には失礼だが全くナンセンスであり、死ねば一切何もあの世に持って行けないのだから、お金は使うためにあり、願わくば、社会のため、人に役立つに為に使ってこそ金であろう。我に在るたくさんのモノだって同様に。ただ死蔵して我が死後、ゴミとして雲散霧消させてはならない。
我は昔からろくに収入もないのに、ずいぶんあれこれモノやイベントなどに金を使ってきた。近年は猫たちに、日々の餌代以外にも病気やケガの為に何十万円も費やした。※この5年、何匹もの猫の治療費だけで100万円は軽く超すと思う。
しかしそこには何も悔いはない。何とかそのお金が工面できたことこそ僥倖、有難いと思える。彼らの命のためにお金と時間が使えて良かった。※心優しき友人たちからの支援カンパもあってのことだ。改めて感謝御礼申し上げます。
そしてこれからはまず自分のためにも、時間を用いたいと願う。金はともかくモノは、もはや何でもあるので、新たに必要なものはほとんどない。日ごとの糧程度あれば。
だからお金は使わずに、今我に在るものすべてにきちんと向き合い、オンガクとブンガクの為にも時間をつくっていく。
僭越を承知で記せば、そのことが、結果として他者のため、社会や後の世の為になると信じて。
これからのこと⑤ ― 2024年02月22日 19時44分50秒
★我が音楽についての経緯
※2月22日は、猫の日だそうで、本文と関係ないが、拙宅の猫の画像をあげておく。
さて、ブンガクとオンガクに、残りの人生向き合っていく、と書いたが、音楽といってもあまりにも多岐にわたり、ジャンルも様々なのは言うまでもない。
我は、学校教育では、思い返せば「音楽」は、小学校時代、5段階評価の1しかもらえたことがなく、科目としての音楽は大嫌いだった。今思い返してもその男性教師にどれほど授業中バカにされたか、ふつふつと怒りがこみあげてくる。
しかし、聴く音楽、つまりテレビやラジオから流れてくる音楽は何でも好きで、思春期に入って、様々なオーディオ機器と出会い、またラジオの深夜放送を契機に、日本のフォークソングやアメリカのポップス、ロックミュージックに深くのめりこんでいったことは、多くの同世代の方々と同じであろう。
むろん基地の街で育ったし父は米軍基地に勤めていたので、FENや電蓄は、子供の頃から日常的に身の回りに常にあったけれど。
そして日本のフォークを知ったことで、ギターという楽器を弾いて自らもギター伴奏で唄うという楽しみを得た。そして拙くても曲をつくったり、人前で唄うことも始まった。多くの日本のフォークシンガーたちとも出会った。
今思えば、聴いたり見たりするだけの音楽から、自らも音楽に関わり表現する側に入った画期的な転換であったと気づく。
そしてその楽しみは「趣味」として、爾来約半世紀~、途中空白期はあったものの、続いてきたのだと思い至る。それで今でもコンサートを企画したり、自分でもギター手に自作曲を唄ったりもしているのだから、感慨深いものがある。
しかし、今回ずっと書いてきたように、それは本当に拙く、きわめて中途半端なものであって、他者からの評価が低いだけでなく、自分でもこれではダメだとようやく思い至ったわけだ。
何よりも自分の中の大好きな「音楽」に対して実に不誠実だったと思う。
この人生があと何年続くのか、残りはどれだけあるかわからないが、このままほったらかしにせず、何とかもう少し究めて、もっとできるように、わかるように自分の音楽を少しでも高めたいと願う。
それはフォークソングという枠内にとどまらない。
【この稿続きます】
※2月22日は、猫の日だそうで、本文と関係ないが、拙宅の猫の画像をあげておく。
さて、ブンガクとオンガクに、残りの人生向き合っていく、と書いたが、音楽といってもあまりにも多岐にわたり、ジャンルも様々なのは言うまでもない。
我は、学校教育では、思い返せば「音楽」は、小学校時代、5段階評価の1しかもらえたことがなく、科目としての音楽は大嫌いだった。今思い返してもその男性教師にどれほど授業中バカにされたか、ふつふつと怒りがこみあげてくる。
しかし、聴く音楽、つまりテレビやラジオから流れてくる音楽は何でも好きで、思春期に入って、様々なオーディオ機器と出会い、またラジオの深夜放送を契機に、日本のフォークソングやアメリカのポップス、ロックミュージックに深くのめりこんでいったことは、多くの同世代の方々と同じであろう。
むろん基地の街で育ったし父は米軍基地に勤めていたので、FENや電蓄は、子供の頃から日常的に身の回りに常にあったけれど。
そして日本のフォークを知ったことで、ギターという楽器を弾いて自らもギター伴奏で唄うという楽しみを得た。そして拙くても曲をつくったり、人前で唄うことも始まった。多くの日本のフォークシンガーたちとも出会った。
今思えば、聴いたり見たりするだけの音楽から、自らも音楽に関わり表現する側に入った画期的な転換であったと気づく。
そしてその楽しみは「趣味」として、爾来約半世紀~、途中空白期はあったものの、続いてきたのだと思い至る。それで今でもコンサートを企画したり、自分でもギター手に自作曲を唄ったりもしているのだから、感慨深いものがある。
しかし、今回ずっと書いてきたように、それは本当に拙く、きわめて中途半端なものであって、他者からの評価が低いだけでなく、自分でもこれではダメだとようやく思い至ったわけだ。
何よりも自分の中の大好きな「音楽」に対して実に不誠実だったと思う。
この人生があと何年続くのか、残りはどれだけあるかわからないが、このままほったらかしにせず、何とかもう少し究めて、もっとできるように、わかるように自分の音楽を少しでも高めたいと願う。
それはフォークソングという枠内にとどまらない。
【この稿続きます】
これからのこと④ ― 2024年02月21日 11時54分42秒
★残りの人生、もう一度文学と音楽に向き合っていく
昨年のことは、先にくどくどとあれこれ書き記したが、ともかくそんな多事多難のトラブル最中12月9日に、主催・企画したコンサートを無事為し終えたことだけは僥倖だったと今思える。
半年ぐらい前から企画立てて、旧知の気心知れた音楽仲間に声かけて、コンサート自体は、彼らの熱演・熱唱もあって盛況、成功したと思いたい。
が、我自身の出来というべきか、それはもうサンタンたるもので、今も深く悔いている。今の気持ちとしては、もう人前でギター弾いて唄うことは、終わりにすべきだとさえも。
むろん、腕が動かず練習もできず、足はケガしてろくに歩けず、頭は記憶が続かず、パソコンは不具合を起こそうとも、時間はあったわけだし、それこそもう何年もやってきたのだから、本番では何とかなるかと思って臨んだ。
しかし、コードは押さえられないどころか多々間違えるし、歌詞は出てこないし今更ながら我は何一つできやしないのだと思い知った。
まあ、収穫があるとしたらば、今現在の我の実力、状況を人前で曝け出せ自ら確認できたことだろうか。
今もまだその苦い味は残っている。
では、もう音楽のこと、ライブ企画やうたの活動などは終わりにするとして、今後一切、音楽とはかかわりを絶って終わりにするのではなく、逆にもっと音楽についてきちんと勉強したいと思っている。
と同時に、文学についても同様に、「本」に関わることだけでなく、書くこと、書き記していくことをさらに深めたいと考えている。もちろん読むことも。
つまり、ブンガクとオンガク、このブログのタイトルとも大いに関わることを、今更ながらもっと究めて我がものとしたいと願う。
今放送しているNHKの朝ドラは、笠置シヅ子と服部良一をモデルにしたもので、我も観られるときは常に見て、多々思うところもあるがそれはさておく。
嗤われるだろうが、我の中には、その偉大な服部良一の百分の一、いや、千分の一にも満たないが、ごく小さな服部良一がいる。
そいつは、あのドラマ中の羽鳥先生の如く、ジャズソングが大好きで、頭の中には常にそうしたリズムとメロディーが流れていて、機会あらばそれを世に披露したいと願っている。
羽鳥先生と違うのは、我はピアノも弾けず、譜面も書けず、その歌が出来たとしてもそれを巧みに唄ってくれるシンガーもいないということだ。
で、仕方なく拙いギター爪弾き、コードを探しては曲を完成させて、仕方なく自ら唄う羽目となる。
が、我自身のつくるうたは、難しすぎて自分でも弾きながらきちんと歌えたためしがない。情けないがそれは事実だ。※私淑した京都の詩人・有馬敲さんの詩に我が曲をつけたものも、結局、師の前で失敗せずにきちんと歌えないままに昨年逝去されてしまった。悔恨の思いしかない。
プロのシンガーからも、よくそんなにコードを使うね、と皮肉言われるし、自分でも未だかつて自らのつくったうたで思う通り満足できたライブは一度もないのではどうしようもない。
先のコンサートを経て、そうした我の現状をこのままにしてはならぬということだ。
と同時に、自分はこれまで長年コンサートを企画し催してきたわけだが、プロデュースする側として、自らは何一つできないのに、歌い手の方々にあれこれ注文つけたり、指示してきたことは、まさに僭越しごく、傲慢であったと今回気づかされた。
まず、隗より始めよ、ではないが、音楽として、これこれこうしてほしいと他者に望み求めるのならば、まずは、そういう自らが範を示すべきであろう。
それがきちんとできるようになってからこそのコンサートの企画である。
今の自分は、(音楽について)何もわからない、まだ何もできないという現実に向き合い、これから少しでもわかるよう、できるように努めていく。楽器も他にもできるようになりたい。うたもギターも練習あるのみだ。
そして音楽、うたをほんとうに自分のものにしたいと心より願う。
こんな我にも我の音楽=サウンドが確かにある。それをしっかりカタチにしていきたい。
【この稿続く・乞うご意見ご批判】
昨年のことは、先にくどくどとあれこれ書き記したが、ともかくそんな多事多難のトラブル最中12月9日に、主催・企画したコンサートを無事為し終えたことだけは僥倖だったと今思える。
半年ぐらい前から企画立てて、旧知の気心知れた音楽仲間に声かけて、コンサート自体は、彼らの熱演・熱唱もあって盛況、成功したと思いたい。
が、我自身の出来というべきか、それはもうサンタンたるもので、今も深く悔いている。今の気持ちとしては、もう人前でギター弾いて唄うことは、終わりにすべきだとさえも。
むろん、腕が動かず練習もできず、足はケガしてろくに歩けず、頭は記憶が続かず、パソコンは不具合を起こそうとも、時間はあったわけだし、それこそもう何年もやってきたのだから、本番では何とかなるかと思って臨んだ。
しかし、コードは押さえられないどころか多々間違えるし、歌詞は出てこないし今更ながら我は何一つできやしないのだと思い知った。
まあ、収穫があるとしたらば、今現在の我の実力、状況を人前で曝け出せ自ら確認できたことだろうか。
今もまだその苦い味は残っている。
では、もう音楽のこと、ライブ企画やうたの活動などは終わりにするとして、今後一切、音楽とはかかわりを絶って終わりにするのではなく、逆にもっと音楽についてきちんと勉強したいと思っている。
と同時に、文学についても同様に、「本」に関わることだけでなく、書くこと、書き記していくことをさらに深めたいと考えている。もちろん読むことも。
つまり、ブンガクとオンガク、このブログのタイトルとも大いに関わることを、今更ながらもっと究めて我がものとしたいと願う。
今放送しているNHKの朝ドラは、笠置シヅ子と服部良一をモデルにしたもので、我も観られるときは常に見て、多々思うところもあるがそれはさておく。
嗤われるだろうが、我の中には、その偉大な服部良一の百分の一、いや、千分の一にも満たないが、ごく小さな服部良一がいる。
そいつは、あのドラマ中の羽鳥先生の如く、ジャズソングが大好きで、頭の中には常にそうしたリズムとメロディーが流れていて、機会あらばそれを世に披露したいと願っている。
羽鳥先生と違うのは、我はピアノも弾けず、譜面も書けず、その歌が出来たとしてもそれを巧みに唄ってくれるシンガーもいないということだ。
で、仕方なく拙いギター爪弾き、コードを探しては曲を完成させて、仕方なく自ら唄う羽目となる。
が、我自身のつくるうたは、難しすぎて自分でも弾きながらきちんと歌えたためしがない。情けないがそれは事実だ。※私淑した京都の詩人・有馬敲さんの詩に我が曲をつけたものも、結局、師の前で失敗せずにきちんと歌えないままに昨年逝去されてしまった。悔恨の思いしかない。
プロのシンガーからも、よくそんなにコードを使うね、と皮肉言われるし、自分でも未だかつて自らのつくったうたで思う通り満足できたライブは一度もないのではどうしようもない。
先のコンサートを経て、そうした我の現状をこのままにしてはならぬということだ。
と同時に、自分はこれまで長年コンサートを企画し催してきたわけだが、プロデュースする側として、自らは何一つできないのに、歌い手の方々にあれこれ注文つけたり、指示してきたことは、まさに僭越しごく、傲慢であったと今回気づかされた。
まず、隗より始めよ、ではないが、音楽として、これこれこうしてほしいと他者に望み求めるのならば、まずは、そういう自らが範を示すべきであろう。
それがきちんとできるようになってからこそのコンサートの企画である。
今の自分は、(音楽について)何もわからない、まだ何もできないという現実に向き合い、これから少しでもわかるよう、できるように努めていく。楽器も他にもできるようになりたい。うたもギターも練習あるのみだ。
そして音楽、うたをほんとうに自分のものにしたいと心より願う。
こんな我にも我の音楽=サウンドが確かにある。それをしっかりカタチにしていきたい。
【この稿続く・乞うご意見ご批判】
これからのこと③ ― 2024年02月19日 22時29分45秒
★キリギリスは、アリになれないのだから、ならば・・・
寓話の中では、けっきょく冬が来た時、夏中遊びほうけていたキリギリスは、蟻に助けを求めたものの拒絶され死んでしまうのであったか。
その結末についてよく思い出せないが、蟻が哀れに思い助けてくれたとは記憶していないから、けっきょく最期は描かれずとも死んでしまったということなのであろう。
で、キリギリスであるところの我はどうするか、だ。
老後という「冬」が来たとき、収入も蓄えもなく、まさに寓話の如くなし崩し的に死ぬということも大いに考えられる。
今は、労働力が不足している社会だから、70近い我でも、選り好みしなければ、単純な肉体労働ならば仕事もあるだろう。
しかし、それって、こんな歳になって若い時のツケを老体に鞭打って払うのならば、ほんとうにバカとしか言いようがない。ならば、もっと早くカタギに戻るべきだし、まさに若い時に気づき悔い改めるべきであった。
もし我に、これまでの生き方、生きてきたことに少しでも悔いがないとしたら、キリギリスはキリギリスのまま一日でも長く、キリギリスとして自ら生きて行ける道を探るべきではないか。蟻に物乞いするのではなく。
いや、悔いはいくらでもある。が、そういう風にしか生きられなかったのだ。まさに亀は甲羅に似せた穴を掘るように、我は我に合った人生、生き方をただずっと無意識にしてきたのだ。それはこの先も変えられない。
で、どうするか、どうすべきか。どうやって生活費を得ていくか。
幸い我は、全くの浮浪者ではなく、収入はなくとも住む家はある。生きて行くために必要な家財など、モノも有り余るほどある。衣服も含めて足りないものはほとんどない。
必要な日用品、消耗品は100円ショップで、たまに本や雑誌をAmazonでポチるぐらいだ。
ただ、この社会で生きて行くには、光熱費などのインフラにかかる費用や、諸々の税金、保険料などがそれよりはるかに多くかかる。
加えて、自らの食費などはたかが知れてるが、そこに共に暮らしているたくさんの猫と犬たちの食費、医療費なども含め生活費が人間のよりはるかに高くかかる。
親たちの遺してくれた家の預金もまだ少しは残ってるが、どこからも入るアテはないのだから、早晩それも尽きていく。さて、どうする? どこからどうやって金を得る。
自らの病気、病的障害を思えば、生活保護など受給することも考えたが、こんな大きな家に住み、犬猫を飼っていたら無理も無理なのはあきらかで、ともかく自らで少しでも稼ぐ手を編み出さねばならぬ。
つまるところ、古本稼業の再開もだが、まずは今、ウチにあるモノ、ほんとうにたくさんの親たちの代から捨てられず残してきた物すべてを、ヤフオクやメルカリなどで売れるかはともかく出品して、小銭を稼ぐことを模索するしかないかと考える。
ウチには、来られた方はご存じだろうが古書籍だけでなく、レコード、ギター、オーディオ機器などが、誇張ではなく「山ほど」いっぱいある。レコードだけでも数千枚はあろう。それらを順次、断捨離もかねて売りさばいて行けば、我の死まで家の片づけも進むのではないか。
じっさい、求人広告なども目にしてみた。が、安い時給で一日8時間以上、移動時間も含めて拘束されるより、ネットオークションの類は自らは家にいられるので、自分のこともできる。
けっきょく、タコが自らの足を食うような生き方、いや、死に方しかできないのか、と嗤われるかもしれないが、売れるモノはなんでも売って少しでも金にしていくしかない。
そしてさらに嘲笑われることを承知で書けば、我がいちばん売りたいのは、実はそうしたモノではなく、我の才なのである。ネットで、我の拙い才でも売れはしないだろうか。
ネットを駆使して金を稼ぐことである。
【この稿続く】
寓話の中では、けっきょく冬が来た時、夏中遊びほうけていたキリギリスは、蟻に助けを求めたものの拒絶され死んでしまうのであったか。
その結末についてよく思い出せないが、蟻が哀れに思い助けてくれたとは記憶していないから、けっきょく最期は描かれずとも死んでしまったということなのであろう。
で、キリギリスであるところの我はどうするか、だ。
老後という「冬」が来たとき、収入も蓄えもなく、まさに寓話の如くなし崩し的に死ぬということも大いに考えられる。
今は、労働力が不足している社会だから、70近い我でも、選り好みしなければ、単純な肉体労働ならば仕事もあるだろう。
しかし、それって、こんな歳になって若い時のツケを老体に鞭打って払うのならば、ほんとうにバカとしか言いようがない。ならば、もっと早くカタギに戻るべきだし、まさに若い時に気づき悔い改めるべきであった。
もし我に、これまでの生き方、生きてきたことに少しでも悔いがないとしたら、キリギリスはキリギリスのまま一日でも長く、キリギリスとして自ら生きて行ける道を探るべきではないか。蟻に物乞いするのではなく。
いや、悔いはいくらでもある。が、そういう風にしか生きられなかったのだ。まさに亀は甲羅に似せた穴を掘るように、我は我に合った人生、生き方をただずっと無意識にしてきたのだ。それはこの先も変えられない。
で、どうするか、どうすべきか。どうやって生活費を得ていくか。
幸い我は、全くの浮浪者ではなく、収入はなくとも住む家はある。生きて行くために必要な家財など、モノも有り余るほどある。衣服も含めて足りないものはほとんどない。
必要な日用品、消耗品は100円ショップで、たまに本や雑誌をAmazonでポチるぐらいだ。
ただ、この社会で生きて行くには、光熱費などのインフラにかかる費用や、諸々の税金、保険料などがそれよりはるかに多くかかる。
加えて、自らの食費などはたかが知れてるが、そこに共に暮らしているたくさんの猫と犬たちの食費、医療費なども含め生活費が人間のよりはるかに高くかかる。
親たちの遺してくれた家の預金もまだ少しは残ってるが、どこからも入るアテはないのだから、早晩それも尽きていく。さて、どうする? どこからどうやって金を得る。
自らの病気、病的障害を思えば、生活保護など受給することも考えたが、こんな大きな家に住み、犬猫を飼っていたら無理も無理なのはあきらかで、ともかく自らで少しでも稼ぐ手を編み出さねばならぬ。
つまるところ、古本稼業の再開もだが、まずは今、ウチにあるモノ、ほんとうにたくさんの親たちの代から捨てられず残してきた物すべてを、ヤフオクやメルカリなどで売れるかはともかく出品して、小銭を稼ぐことを模索するしかないかと考える。
ウチには、来られた方はご存じだろうが古書籍だけでなく、レコード、ギター、オーディオ機器などが、誇張ではなく「山ほど」いっぱいある。レコードだけでも数千枚はあろう。それらを順次、断捨離もかねて売りさばいて行けば、我の死まで家の片づけも進むのではないか。
じっさい、求人広告なども目にしてみた。が、安い時給で一日8時間以上、移動時間も含めて拘束されるより、ネットオークションの類は自らは家にいられるので、自分のこともできる。
けっきょく、タコが自らの足を食うような生き方、いや、死に方しかできないのか、と嗤われるかもしれないが、売れるモノはなんでも売って少しでも金にしていくしかない。
そしてさらに嘲笑われることを承知で書けば、我がいちばん売りたいのは、実はそうしたモノではなく、我の才なのである。ネットで、我の拙い才でも売れはしないだろうか。
ネットを駆使して金を稼ぐことである。
【この稿続く】
これからのこと② ― 2024年02月17日 09時40分08秒
★残りの人生、どう生きて行くか
今の気分は、ポケットには小銭が少し---どこにも行けないのなら、この場所でどうしたらいいのだろうか--だ。
実はまた私ごと、些末なことだが、先週末から拙宅の猫が一匹、体調を崩し、月曜に動物病院に連れて行ったら、即入院となった。幸い治療は効しこの週末には退院できそうとのことで、今やっと心落ち着いてパソコンに向き合えるようになった。
父が、死の前に、コロナ感染して入院していた時もだが、たとえ動物であろうとも、家族の一員が入院してしまうと、やはり気持ちは落ちつかず不安に囚われウツウツとしてしまう。
これが我の弱さというか、病的なところで、病院に預けたのだから、こちらはできることは何もないわけで、医者に任せ安心して気持ち切り替え自らのこと、家のことに向き合えばいいのに、それができない。
父が救急車で家から搬送されて病室で逝くまでの約二か月、我は情けないことに家のこと、自分の事は何一つできなかった。いや、手につかなかった。
まあ、今回の猫は、間もなく無事に帰ってくると信じたいが、それでも心の底には澱のように不安がまだ潜んでいる。
さておき、本題である。
映画や本のタイトルにもあるように『君たちはどう生きるか』ということは、年齢を問わず誰にとってもきちんと向き合うべき課題であろう。
十代には十代の、老齢世代にはその世代の「どう生きるか、どう生きていくべきか」という問いは常に問われているはずだ。
ただ、未来というべきか、先行きの時間がまだたくさんある若者にとっては、まさにこの先の人生、どう生きていくか、何を為すべきか、であるが、我の歳にもなると、どう死んでいくか、に替わってくる。
つまり、死までの残りの人生を、まさに、どう生きて行くか、であり、我の場合はそこに経済的問題も大きく絡んでくる。つまり、まずどうやって生きて行くか、なのだ。
人として、60代も後半ともなれば、世間一般としては、老後とか余生といった言葉が不随してくる。
つまり、これまで続けてきた仕事や勤めは終わり、残りの人生を貯めた金や年金受給で暮らしていくことを意味している。
我と違い、まっとうな勤め人の方や、きちんとお仕事に就いて常時働いてきた方は、たぶん皆さん老後の生活資金については、多少の不安があろうともまあ何とか困窮することはないだろう。
しかし、我は、これまで真っ当に勤めたことはほとんどなく、フリーターという言葉など無い頃から、金に困れば多くのバイトはしたものの、きちんとした定職にほとんど就くことなく、仮に就職できたとしても長続きせず、また会社自体も我を雇うようなヤクザな会社だから潰れたりと、ほぼ無年金のままこの歳になったのである。
では、そのことに悔いはないか、と自問してみれば、ある意味、何も考えずにただそうして好き勝手に、したいことをして行きたいところに行き、心のままに自由に生きてきたのだから、結果としてそれもこれも良くも悪くも仕方ない。
つまり寓話『アリとキリギリス』のように、自由気ままに楽しいことだけ追い求めたものの、ついに冬が来てしまい蓄えがなく困窮しているのである。高田渡のうたで言えば、まさに『生活の柄』なのである。そう、冬が来れば、浮浪者のままではいられない、のだ。
ただ、もし人生を若い時からやり直せるとしたら、間違いなく我はまた性懲りもなくキリギリスの生き方を選ぶだろう。
元より、生き方に良い生き方とか正しいということは決められないし決まってるわけではないはずだ。※むろん犯罪に手を染めることは論外として。
我は、蟻的な生き方、つまりコツコツと真面目に常に働き続けて冬が来た時、つまり老後にきちんと蓄えを備えておく、という生き方を否定するわけではないし、逆にキリギリス的な自由・享楽的な生き方が正しいとか、そこにも価値があるなんて思いもしない。
つまるところ、我にはこんな風にしか生きられなかったわけで、昔、月刊漫画雑誌ガロで読んだ、増村ひろしの描く猫マンガの中で、いみじくもその中の一人の猫が呟いていたように「ビートルズを聴いたとき、自分は、9時から5時までの人生は送らない誓った」ということに尽きる。
前回、冬が来てしまい、キリギリスである我は、さて困った。これからどうしよう。どうしていこうか、と書いた。
が、今思うのは、果たしてキリギリスは今さら(この歳で)蟻のように生きられるのか、だ。
そもそもそれはまさに変節ではないか。生き方として。いや、そもそも無理無理無理なのである。
今の気分は、ポケットには小銭が少し---どこにも行けないのなら、この場所でどうしたらいいのだろうか--だ。
実はまた私ごと、些末なことだが、先週末から拙宅の猫が一匹、体調を崩し、月曜に動物病院に連れて行ったら、即入院となった。幸い治療は効しこの週末には退院できそうとのことで、今やっと心落ち着いてパソコンに向き合えるようになった。
父が、死の前に、コロナ感染して入院していた時もだが、たとえ動物であろうとも、家族の一員が入院してしまうと、やはり気持ちは落ちつかず不安に囚われウツウツとしてしまう。
これが我の弱さというか、病的なところで、病院に預けたのだから、こちらはできることは何もないわけで、医者に任せ安心して気持ち切り替え自らのこと、家のことに向き合えばいいのに、それができない。
父が救急車で家から搬送されて病室で逝くまでの約二か月、我は情けないことに家のこと、自分の事は何一つできなかった。いや、手につかなかった。
まあ、今回の猫は、間もなく無事に帰ってくると信じたいが、それでも心の底には澱のように不安がまだ潜んでいる。
さておき、本題である。
映画や本のタイトルにもあるように『君たちはどう生きるか』ということは、年齢を問わず誰にとってもきちんと向き合うべき課題であろう。
十代には十代の、老齢世代にはその世代の「どう生きるか、どう生きていくべきか」という問いは常に問われているはずだ。
ただ、未来というべきか、先行きの時間がまだたくさんある若者にとっては、まさにこの先の人生、どう生きていくか、何を為すべきか、であるが、我の歳にもなると、どう死んでいくか、に替わってくる。
つまり、死までの残りの人生を、まさに、どう生きて行くか、であり、我の場合はそこに経済的問題も大きく絡んでくる。つまり、まずどうやって生きて行くか、なのだ。
人として、60代も後半ともなれば、世間一般としては、老後とか余生といった言葉が不随してくる。
つまり、これまで続けてきた仕事や勤めは終わり、残りの人生を貯めた金や年金受給で暮らしていくことを意味している。
我と違い、まっとうな勤め人の方や、きちんとお仕事に就いて常時働いてきた方は、たぶん皆さん老後の生活資金については、多少の不安があろうともまあ何とか困窮することはないだろう。
しかし、我は、これまで真っ当に勤めたことはほとんどなく、フリーターという言葉など無い頃から、金に困れば多くのバイトはしたものの、きちんとした定職にほとんど就くことなく、仮に就職できたとしても長続きせず、また会社自体も我を雇うようなヤクザな会社だから潰れたりと、ほぼ無年金のままこの歳になったのである。
では、そのことに悔いはないか、と自問してみれば、ある意味、何も考えずにただそうして好き勝手に、したいことをして行きたいところに行き、心のままに自由に生きてきたのだから、結果としてそれもこれも良くも悪くも仕方ない。
つまり寓話『アリとキリギリス』のように、自由気ままに楽しいことだけ追い求めたものの、ついに冬が来てしまい蓄えがなく困窮しているのである。高田渡のうたで言えば、まさに『生活の柄』なのである。そう、冬が来れば、浮浪者のままではいられない、のだ。
ただ、もし人生を若い時からやり直せるとしたら、間違いなく我はまた性懲りもなくキリギリスの生き方を選ぶだろう。
元より、生き方に良い生き方とか正しいということは決められないし決まってるわけではないはずだ。※むろん犯罪に手を染めることは論外として。
我は、蟻的な生き方、つまりコツコツと真面目に常に働き続けて冬が来た時、つまり老後にきちんと蓄えを備えておく、という生き方を否定するわけではないし、逆にキリギリス的な自由・享楽的な生き方が正しいとか、そこにも価値があるなんて思いもしない。
つまるところ、我にはこんな風にしか生きられなかったわけで、昔、月刊漫画雑誌ガロで読んだ、増村ひろしの描く猫マンガの中で、いみじくもその中の一人の猫が呟いていたように「ビートルズを聴いたとき、自分は、9時から5時までの人生は送らない誓った」ということに尽きる。
前回、冬が来てしまい、キリギリスである我は、さて困った。これからどうしよう。どうしていこうか、と書いた。
が、今思うのは、果たしてキリギリスは今さら(この歳で)蟻のように生きられるのか、だ。
そもそもそれはまさに変節ではないか。生き方として。いや、そもそも無理無理無理なのである。
これからへのこと① ― 2024年02月09日 19時59分22秒
★さて、これから
去年一年のことと、年明けのパソコンの修理の件まで、だらだらと何回も書いた。
書いてても、自分でも情けなく呆れかつ恥じ入るばかりだが、これが現実、現状なのだからしょうがない。これでも控えめに書いた。※このまま何も「情報」がないまま、我の死の報だけが喧伝されても仕方ないでしょう!? いや、単にすべては雲散霧消してこんなバカがいたことも忘れ去られるだけのことか。
もう本当に全てやりなおそう、何事もきちんとしていこうと誓いつつも、日々、失態・失敗をしでかしては、その都度、自らに「オレはいったいどこまでバカなのか!!!」と叱責の怒鳴り声をあげている。
治れない、治せないとしてもこれでいいはずはないし、肯定など絶対できない。何より困り苦しんでいるのはこの自分自身なわけで、それが周囲にも及んでいるのだ。
こんなでは生きてる価値などないとさえ考えるが、それでもここまで生かされてきた命であるし、きっとそこに何か意味やまだ役割のようなものがあると信じたい。
が、このままの状態のままだと、何より身動きとれないし、何一つ新たなことはできない。
ゴミ屋敷の中で、ゴミに埋もれて猫たちの世話に振り回されて、やがてはまた家の中で大ケガ、あるいは失火など起こすか、乱れた食生活でじょじょに身体を壊して緩慢な自死に至るだけだ。
あるいは、そうならずとも、近づく関東圏の大地震で、本の重みで家が倒壊し、いや、崩れた本の下敷きとなって災害死することも大いに考えられる。
いずれにせよ、今後の生活の糧をどうやって稼ぐかも含めて、現実を見る限りお先は真っ暗である。
長年続けてきた古本販売のネットでの稼業に本腰入れれば、少しは収入も入るのだけど、実のところ、昨年晩秋に、二件の販売トラブルが続いて、今はまだ再開できる状況ではない。
注文のあった購入者に、問題ないと判断してこちらは在庫の中古書籍を発送した。そしたら、送った本の状態について激しいクレームが届いて、全額返金となってしまった。※全く別々の二件とも同様のクレームだった。
また販売再開しても同様の事態が起こりそうで、正直怖くてどうしたものか躊躇している。もうこの稼業も潮時なのかとも考えている。
かといって、この歳で、仕事がみつかったとして外に働きに出るには正直しんどいし、何より動物たちも多数抱えているため、毎日、日課として朝から夕方まででも仕事に行くのは難しい気がしている。
親たちの遺してくれた預金も枯渇してきたし、その貯金を取り崩してきた生活もいよいよ待ったなしのところに来ている。
アリとキリギリスの寓話だとすれば、まさにキリギリスである我は、この冬の寒さで、ついに死に絶えるのであろうか。今のままだとそのときは目前だが。
《この稿続きます》
去年一年のことと、年明けのパソコンの修理の件まで、だらだらと何回も書いた。
書いてても、自分でも情けなく呆れかつ恥じ入るばかりだが、これが現実、現状なのだからしょうがない。これでも控えめに書いた。※このまま何も「情報」がないまま、我の死の報だけが喧伝されても仕方ないでしょう!? いや、単にすべては雲散霧消してこんなバカがいたことも忘れ去られるだけのことか。
もう本当に全てやりなおそう、何事もきちんとしていこうと誓いつつも、日々、失態・失敗をしでかしては、その都度、自らに「オレはいったいどこまでバカなのか!!!」と叱責の怒鳴り声をあげている。
治れない、治せないとしてもこれでいいはずはないし、肯定など絶対できない。何より困り苦しんでいるのはこの自分自身なわけで、それが周囲にも及んでいるのだ。
こんなでは生きてる価値などないとさえ考えるが、それでもここまで生かされてきた命であるし、きっとそこに何か意味やまだ役割のようなものがあると信じたい。
が、このままの状態のままだと、何より身動きとれないし、何一つ新たなことはできない。
ゴミ屋敷の中で、ゴミに埋もれて猫たちの世話に振り回されて、やがてはまた家の中で大ケガ、あるいは失火など起こすか、乱れた食生活でじょじょに身体を壊して緩慢な自死に至るだけだ。
あるいは、そうならずとも、近づく関東圏の大地震で、本の重みで家が倒壊し、いや、崩れた本の下敷きとなって災害死することも大いに考えられる。
いずれにせよ、今後の生活の糧をどうやって稼ぐかも含めて、現実を見る限りお先は真っ暗である。
長年続けてきた古本販売のネットでの稼業に本腰入れれば、少しは収入も入るのだけど、実のところ、昨年晩秋に、二件の販売トラブルが続いて、今はまだ再開できる状況ではない。
注文のあった購入者に、問題ないと判断してこちらは在庫の中古書籍を発送した。そしたら、送った本の状態について激しいクレームが届いて、全額返金となってしまった。※全く別々の二件とも同様のクレームだった。
また販売再開しても同様の事態が起こりそうで、正直怖くてどうしたものか躊躇している。もうこの稼業も潮時なのかとも考えている。
かといって、この歳で、仕事がみつかったとして外に働きに出るには正直しんどいし、何より動物たちも多数抱えているため、毎日、日課として朝から夕方まででも仕事に行くのは難しい気がしている。
親たちの遺してくれた預金も枯渇してきたし、その貯金を取り崩してきた生活もいよいよ待ったなしのところに来ている。
アリとキリギリスの寓話だとすれば、まさにキリギリスである我は、この冬の寒さで、ついに死に絶えるのであろうか。今のままだとそのときは目前だが。
《この稿続きます》
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