溜まりに溜まったものを少しでも片づけ、なくしていこう2022年10月20日 21時40分21秒

★少しでも今できることを進めていく、が・・・

 またまた更新の間が空いてしまった。申し訳ありません。ともかくあれこれ多々雑事に追われてしまって・・・

 秋はたいてい、雲一つない爽やかな秋晴れが今頃は続くはずなのだが、今年はどうしたことか、雨や曇りの日がやたら多く、午前中は晴れても午後からはどんより曇ったり、夜中に雨が降ることが多い。
 昨日も、朝から晴れてたが、午後はどんより曇ってしまった。幸い雨は降らなかったが。
 しかし、今朝は、朝から晴れて久々の終日長く秋晴れとなり、この快晴は明日も明後日も続くとの予報である。東京の久々の晴れは、9日ぶりとのこと。やれやれ、という気分である。

 が、気温がこのところやたら低く、暑がりの我としては寒いほうが動くのは楽なのだけど、今朝方は、明け方いつも通りに起きたが、それは寒くて深く眠れずのことで、トイレに行ってから掛布団を出して、温かくしたらようやくぐっすり眠れた。
 ただ、そんなで風邪の引きはじめなのか、コロナでないとしたら今日は一日朝から喉もだが頭や腰が鈍く痛く、何か身体は怠くしんどかった。
 月末の父の納骨法要が迫って来て、やることは山積しているのに困った事態である。

 父の納骨の儀が、この30日と迫って来て、いま、それに向けていろいろ手配や準備に追われている。
 九州から妹も来て、二晩は泊まるので、寝るスペースも作らねばならないだけでなく、主に我の従弟・従姉たちだが、父方の親戚一同がほぼ勢ぞろいするので、応対に不備のないよう、喪主としては万全を尽くさねばならない。
 何しろ、父の葬儀自体は、火葬に付しただけで、それに来たのは、母方の甥っ子と我の女友達だけ、我を入れて四人だけであった。父方の親類縁者は一人も来なかった。
 今回は、四十九日前に納骨の法要ということであり、菩提寺であるウチのお寺に、従弟・従妹たちが各地から集まる。それでも我の妹も入れて10人程度であろうか。

 父の兄弟姉妹で今も生存している人は、もう妹が一人しかいなく、しかも施設に入っているそうで、今回、訃報の連絡ができたのも皆、父方は皆、もうその子たちの世代、つまり我にとって従弟たちであり、たぶん皆で会うのはこれが最後となると思える。
 というのも、我らもまたもう六十代、七十代であり、亡き父も含めて親世代が九十代ならば、とうぜんその子供ももう中年どころか初老の世代なのである。この先、葬儀の報が届いても行けるかどうか明日のことは誰もわからないではないか。

 残念だが、父方は、何故かその兄弟姉妹たちの関係は浅く、いとこ同士もさほど親しい付き合いはなかったから、この機会がなければ、たぶんこのまま縁も切れて縁戚関係は雲散霧消となっていたと思える。
 兄弟一族の長兄である我が父の死が、結果としてずっと疎遠であった我ら従弟たちを再び繋ぐこととなったのは、奇しき計らいというか、有難く善いことだといま思える。山口瞳の小説みたいだ。

 父には一人姉がいて、その方はもう何十年も前に早く亡くなっているのだが、そこの長男である方と、今回久しぶりに連絡がついて、もはや70代半ば過ぎだと思うが、法要に来てくれることとなった。
 我より10歳以上の歳上だと思うから、うんと幼少時、その家によく遊びに行ってた頃に会った記憶はあるけれど、今回会えれば、実に半世紀以上、の再会である。
 ウチにはその頃の古い紙焼き写真が多々まだ残っていて、できれば当日、それをスキャンしたものを皆で観れたらと夢想している。たぶん一族の昔の写真は他の家にはもう残っていないのではないか。

 そうした作業もあるし、当日に向けて多々支度や手配もあるのだが、それに加えて今頭痛めてるのは「猫」のことである。
 動物愛護団体に関係している方が、ウチの窮状を哀れみ問題視して今早急に子猫たちの貰い手と新たな出産を抑えるべく対策をとるべきだと精力的に働きかけて来ていて、そちらも同時進行的に対応せねばならず、身体は一つのうえ、愚図な我はいま心身追い詰められた気分である。

 しかしそれもこれも我のだらしなさと考えのなさ、つまり迂闊さと愚かさが招いたことであり、まさに自業自得なのだから、そうして関わって来てくれただけでも有難いと思わねば罰があたろう。
 自分でもこのままで良いとは思っていないが、もう子猫の貰い手は既に出尽くして、子猫は日々どんどん大きくなっていくのだから、一日も早く避妊や去勢の手を打たないと、最終的にウチは、つまり我は多頭飼育崩壊で破綻、破滅していく。経済的にも体力的時間的にも。
 
 何でこんなことになってしまったか、と自問するが、父の介護のこともあり、今春から慌ただしくて、ついつい何もかも放擲してきたことが原因であった。
 しかしそれは言い訳にはできない。ともかくこの問題を早く解決して、猫たちは貰い手がないとしてももうこれ以上絶対に増えないようにして、ともかく最後まできちんと世話し面倒見ていくだけのことだ。
 そのうえで、父たちのものも含めて、溜まりに溜まってしまったものを、これから少しでも片づけて無くしていくことだ。

 これからは我一人だけの人生なのだ。もう父や母はいないのだから、彼らの遺した物は、実際のところ思い出はあっても不要なのである。
 金になるものや再利用できるものは何とか有効活用するとして、それ以外のものは、場所も取り我の残りの人生のまさに足枷でしかないのだから、やはり捨てていくしかない。
 我が六十代のうちに、そうしたモノに関してはすっきり片づけが終わればと願うが、今のペースでやっていたら前途遼遠に思え溜息が出てくる。
 しかし、それは誰にも頼れないし、業者に金出して任せ片づけてもらったとしても、とうぜん何百万もかかるだろう。何も亡くなった部屋ですっきりしたとしても金もすっきり無くなっているわけで、無年金の我はどう生きて行ったらいい?
 先のことを考えるとまたウツウツして不安なってしまうから今は考えず、ともかく今月30日の納骨の儀と猫たちのことだけに専念していこう。

 今更だが、このブログをお読み頂けている方で、猫の飼い主、里親になってもらえる方はいらっしゃいませんか。
 本人でなくても誰かお知り合いに、子猫が欲しいとか飼ってみたいという方がいらしたらお知らせ頂ければ有難い。
 子猫も含めて10数匹の猫たちを避妊・去勢するだけでもかなりの出費であるのは仕方ないが、その後も食餌やトイレの掃除だけでものすごく時間がとられてタイヘンなのだから。
 一匹でも貰われて減るのならば本当に助かる。また、その方が猫にとって幸福であることは間違いない。
 貰い手誰かいませんか?

 老いてきて今思うのは、重い荷を背負い日暮れて道遠し、ということだ。しかし、ともかく歩を止めず歩き続けるしかない。

 そう、そしてだからこそ、そこに、そこからうたが生まれるのだと。

 体調悪くて午後に少しだけ横になって仮眠とった。そしたら夢の中で有馬敲さんが出てきた。彼は詩の集いか何かのシンポジウムなのか、長テーブルに向かい、両隣にも男性いてその真ん中でマイクに向かっていた。
 何かの発言の最中なのかわからないが、こちらは見ているだけで声はかけられなかった。声は聞けなかった。
 ただ、あの世でも元気に発言し活動しているのだなあとわかって(夢の中でも)安心した。でも目覚めて少しだけ泣いた。そう彼ももうこの世にはいないのだ。
 みんないったいどこに行ってしまうのだろう。今どこにいるのだろう。

父の死から一か月2022年10月16日 07時26分50秒

★そう、父はもうどこにもいないのだ。

 先月の14日に父が逝ってからちょうど一月が過ぎたことになる。
 昨日、ようやく我の人生が再び少しだが動き出したという感じがしてきた。むろん、まだ父の遺したものは、着てた衣類をはじめ何もかも何一つかたづいていないが。

 この一か月、ともかく慌ただしかった。あたふたしているうちに一月があっという間に過ぎた。
 まだ今月末の納骨の法要までやるべきこと、その準備や手配はあれこれあるのだが、ともかくやっと次の段階に進みだしたという気持ちがしてきた。

 先のブログ、つい悲嘆的なことを書いてしまい、読まれた方に多々ご心配おかけして申し訳ありません。
 消そうかとも思ったが、それもまた心の一面、事実であり、それはそれで留めることにした。
 あれから、また新たな啓示というべきか、これからどう生きていくか、心構えというか指針が我に下ってきて、勝手な言い分だが、今はもう何とか大丈夫だということをまずカンタンに記しておきたい。
 その啓示についてはまたきちんと書きたいと考えているが、一言で言えば、もう覚悟を決めて、我の残りの人生は、亡き人たちへの鎮魂とまだ生きている人たちへの償いに生きていくということだ。終身刑を受けた受刑者か修道僧のように。

 今朝もまた6時前に目覚めてしまい、もう少し寝なおそうかと思ったが、あれこれ考えてもう眠れなかった。
 ふと父のことに思いが行き、父の死から一か月が過ぎた・・・そうか、もう父はどこにもいないのだ、もう二度と戻らないのだと思いがいったとたん、どっと涙が出てきた。
 父を病院で看取り送った時以来、初めて声だして泣いた。やっと「死」を実感した。

 そう、もう父はどこにもいないのだ。もう帰ってこない。これから一人で新たな人生を生きていかねばならないのだ。

次はともかく猫のこと、貰い手探しと、これ以上増えないために2022年10月09日 19時36分57秒

★国立の二カ所のイベントで、子猫つれて宣伝しました、が・・・

 先にも書いたが、父のことなどがあって、猫たちのことまで気が回らず、ついほったらかしにしていたら、増殖してしまった。
 これまでも生れてはいたのだが、友人知人のツテを頼って、有難いことに貰い手はあって、何とか収まっていたのだが、さすがにもうどこも飽和状態で、何回も子猫の譲渡会をかけこみ亭で繰り返しても参加者はなく、子猫はどんどん大きくなり、我はついに多頭飼育崩壊寸前となってしまっている。
 猫の餌代とか経済的なことも大きな負担となってきているが、それ以前に、日々何度もの餌やりとトイレ掃除に時間と労苦をとられて、自分でもいったい何をやっているのだろう、これが自分の人生の目的、存在理由なのか自問するばかりだった。

 むろん全ては自らの性格的だらしなさ、何につけても無責任にほったらかしにしてきたことのツケ、結果が招いたこの事態であり、猫たちにはなにも責任はない。
 何であれ、その都度きちんと対応し、適切に手を打っていればこんなことにはならなかったわけで、ずっと自らの人生全てを放擲してきた結果がこの惨憺たる状況なのである。
 もう限界だとしても、猫たちを捨てに行ったり、外に締め出して野良ネコ化してはならないわけで、命あるものとして我は彼らの猫人生を最後まできちんと負わねばならない。

 今いる大人猫たちがこれ以上絶対増えないよう、去勢、避妊手術していくことはもちろんだが、まずはまだ貰い手の可能性がある、子猫たちを新たな飼い主の元へ旅立たせることも優先なので、今日、彼らの中からセレクトした子をケージに入れて、国立での人の集まる場へ行ってきた。

 結果は、すぐその場で貰われることはなかったが、やはり人が多く通り集まる場では、子猫たちは目を引き、かなりの反響はあった。
 チラシも作り、ウチの電話番号は伝えてあるので、もしかしたら後日、連絡があり貰い手も見つかるかもしれない。
 今日はまだ何一つ解決も結果も出なかったが、少なくても種は蒔けたと思う。やがて、その蒔いた種から反応が返って来て、一匹でも貰われていくかもしれない。そう期待している。
 何であれ、家にじっと籠っていても何一つ新たな展開はないのである。
 ならば、ともかく動いてみる、そこからまた新たな動きもあるに違いない。そう信じてがんばるしかない。

冷たい雨が降り続く神無月に2022年10月07日 11時40分27秒

★ずっと憂鬱気分に囚われていたが

 冷たい雨が断続的に降り続いている。どうしたことかおまけに寒い。
 このところしばらく雨が降らず、だいぶ野外の草木は乾いて水を求めていたから、久しぶりの本降りの雨は良いことなのだが、どうしたことか気温は低く、12月の陽気だとのこと。

 父の死に追い打ちをかけるかのように、お世話になった師、有馬さんの訃報が届き、この数日本当に苦しかった。特に明け方、まだ暗いうちの午前4時頃に起きてしまうと、まさに暗澹たる気分に囚われた。

 亡き人たちに対する哀しみや何ひとつ彼らにできなかったことへの悔いもあるけれど、それ以上にこれから先行きのこと、こんな自分が一人で生きていかねねばならぬこと、その不安と怖れでパニック障害気味となっていた。
 そう、何が辛いかというと、この明け方、窓の外はまだ暗い時間帯に目覚めるのが本当に辛く苦しい。それからなかなかすぐに寝なおせないのだ。

 父が生きていた頃からの習慣で、彼のオムツ交換のために必ず朝方一度起きていたのだが、それが今も習い性となって続いていて、何時に床に就いたとしても必ず4時過ぎか5時頃にはトイレ起床もあって一度は目が覚めてしまう。
 そしてそれからが眠れないのが辛く苦しい。以前、夏場は夜が明けるのも早いから、それで起床し散歩したり一仕事できたが、今はまだ外は真っ暗闇で、世界の底でたった一人で取り残された気分になる。
 そしてあれこれつい先のこと、まだまだやらねばならぬことを考えてしまい大きな不安と怖れに囚われ悶々となる。

 それは、山を歩く人が疲れ果てて来たのに、これからまだ登らねばならぬ山塊を仰ぎ見たときに感ずる怖れや不安、絶望感に近い。
 しかし、近くに泊まれる小屋もなく、キャンプ装備もろくに持たないならば、もう引き返すことができないのならば、ともかくその山に向かって歩を進めねばならない。
 困難に思える山でも、麓から見た山と登ってから見える景色は違うはずだ。きっとその先に新たな光景、出会う人もいるかもしれない。
 立ち止まっていても日が暮れていくだけならば、ともかくその山に向かって歩き続け越えていくしかない。

 そう、父には申し訳ないが、父という荷物は我の肩から下りて我はその分身軽になったはずだ。
 母と父のことは、思い出の中に留めて、高く聳え立つ大きな山であろうと足取り軽く一歩一歩ともかく進んでいこう。その先にまたさらに山並みが連なっていようとも。先のことはもう考えない。今はそれしかできることはないではないか。
 まだここで我もうっかり死んではならない。そう、全てここから始まる、始めなくてはならないのだ。

二人の「父」を相継いで喪って2022年10月05日 03時38分43秒

★もうこれ以上、大きな死や哀しい別れが起きないよう祈る

 京都の孤高の詩人、有馬敲氏の訃報が届いたことは記したが、実際の死亡日は、先月の25日であったとのことだ。
 我が父が死んだ直後に、彼もまた逝っていたのである。あろうことか、個人的なことだが奇しき偶然である。

 我は、二人の父、つまり生み育ての親である実父と、我が私淑し師と仰いだ、フォークソングの父を相次いで喪ってしまったのである。
 お二人とも高齢であったのだから、それはいつ来てもちっともおかしくないわけで、常に覚悟してその時に備え、悔いのないようできる限りのことはしておけば良かったのだが、けっきょく何一つ我はその恩に報いることはできなかった。
 自分は、本当に無能で、何一つきちんとしたこと、当たり前のことはできやしないのだと、このところ今更ながら痛感しその認識を新たにしているのだが、有馬さんの死はそれにまた追い打ちをかけて自責している。
 が、悔やみはしても悩んだって、我の愚かさは変わらないし、もう一度時間が戻せても、いや、死も何もかもが先延ばしにできたとしても、我のことだから結果として何も変わらないだろう。
 それほど根源的に我は万事ダメで、愚図なのである。それが自分という人間なのだ。ならば仕方ないではないか。

 頭が悪く性格がおかしいということが、元々の身体的なものなのば、背の高さとか足の大きさと同様に今さら変えることは不可能なのである。だから何度でもバカなこと、失態失敗を繰り返す。
 しかし、我の二人の父は、そんな「息子」を呆れ果てたとしても見捨てず、辛抱強く見守り哀れみと共に常に慈しんでくれたのである。
 その恩ある偉大な父たちがいなくなり、我はどうやっていきてけば良いのだろうか。今、その不在の大きさに気づき、愕然としている。
 ウチには、我が父がいて、京都には有馬さんがいる、それが我を常に支えていたのだと、いまやっと気がついた。
 
 これからいったい一人になってどうしたら良いのだろうと大きな不安を思うが、まだ我に人生が残っているとしたら、こう考える。
 薫陶を受ける、という言葉がある。我は彼らから多くの「薫陶」を授かった。知識も生き方も、経験、才能才覚的なものさえも。
 ならば、我のウチにある、彼らから頂いた「善きもの」を、つまりその薫陶や知識を、拙くとも後の者たちに伝え残していくべきではないか、と。
 けっきょく、いつの時代でも人が死者たちに真にできることは、彼らの真の遺産、つまり彼らが生きた証、知識や経験、そして思いを継ぐこと、であり、死者の思いも含め遺したモノを後世に伝えていくことだけではなかろうか。
 それが亡き人たちの恩に報いる唯一のことだと思える。

 それは大変な作業のように思えるが、まずは我も彼らのように、倣ってしっかり生きていけばよいだけのことだ。二人の父は、死んでしまい、この世にはもういない。が、彼らの思いと記憶は我のウチに生きて、褪せることは決してない。それを書き語り伝えていく。

 さらにこうも気づく。我にはもう一方、父は今も在る。その天の父は、これからも我を決して見捨てず、どんな時でも、我の死のときも常に傍らにいてくれ哀れみと救いを与えてくれることだろう。

 さあ、涙を拭いて、新しい朝を迎えよう。願わくば今年はもうこれ以上、新たな死や哀しい別れが続きませんように、と。

死者は、生者を煩わすことなかれ、ならば。2022年09月29日 06時22分56秒

★安倍「国葬」とは、政治利用とすべてを不問、礼賛するためのもの

 巷間、誰であれ死去の報が流れる折など、上記の言葉が口の端に上がることが多い。
 が、元々の出典とされるものは、やや異なり、「生者は死者の為に煩わさるべからず」とあり、その前だか後に「葬式無用、弔問供物固辞する事」と続く。
 これは画家、梅原龍三郎が生前から認めていた遺書にあった言葉だそうで、死んでいく当人として、まだ生きている他者に対して、できるだけその手を煩わせたくないという気遣い、心遣いだと言えよう。
 そう、死者は生者をあれこれ煩わせ、面倒かけてはならないのである。

 が、先日、父を看取り送った者として思うのは、ほんとうの死者は、さほど生者を煩わすことはない、ということだ。
 煩わすのは、まだ生きているが、近く間もなく死にゆく者、死に臨む人たち、つまり老人や病人であり、我は、父がコロナで発熱、入院してから死までの約二か月間、ほんとうに日々昼夜気が気でなく、まさに心身煩わさせられた。
 いつ病院から急な電話連絡があるかと、音楽もかけられずギターも弾けず、テレビの音も小さくして、いつ携帯が鳴るかと日夜耳を澄ましていた。

 いま、骨壺に収まった、かつて大男だった我が父は、もう何も言わないしどこへも行くことはない。ただ静かに畳の上に鎮座している。
 まだまだ諸機関への手続きや親戚方などへの連絡など多々早くやらねばならぬことは山積しているが、ウチのお寺の墓所に納骨の日も決まったので、ともかくそれが終われば、もう何一つ我を煩わすことはない。
 楽で有難いと思うが、生きて家にいたときは長年我を煩わせた人が、もはや死んでしまい一切我を煩わすことがなくなってしまったことは、またそれは深い哀しみの元と言えなくもない。
 父が普段使っていた、杖や帽子、施設に行くときの、まだ一式着替えやパジャマなど衣類が詰まったバックなど目にすると、これをすぐさまきちんと処分することは今はまだとてもできないと思う。

 人は生きて、他者を煩わしてこそ生きていた証であり、死者が我らを煩わすのは、最後の葬送のときぐらいしかない。
 つまり、葬式とは、死んでいった人が、生者だった証として他者を煩わす最期の機会であり、生者は、その儀式としての集まりにおいて、自らの生と向き合い確認できるのだから、それもまた無駄、無意味だとは今は思えない。

 我も梅原画伯のように、一切無用、と思うときもあるが、葬送の儀式と会葬は、死者当人のため以前に実は残された生者のためのものだから、やはり、煩わせてもよいのではないか。
 死にゆく者が、死者は生者を煩わすべからず、と遺訓を残すのは、建前としてカッコいい気がするが、実際のところ、その当人はもうこの世にいないのならば、後のことは、生者たちの好き好きに任せて一切構わないと思える。画伯のように一方的に拒絶するのはいかがなものかという気がしている。

 明治だか大正の、あるいは戦前の作家の誰だったか忘れたが、死後、クリスチャンだったことがわかり、訃報を知り集まった彼の仲間たちは、そのキリスト教式の葬儀に馴染めず大いに不満を持ち、その遺体をどこそこに運んで、皆でその亡き友人の棺桶を囲んで痛飲したという故事を読んだ記憶がある。
 そう、それでいいのである。死とは、当人の個人的なものだが、家族親族、友人たちにとっては、公的なものに近く、ならば最後の別れとしてとことん煩わさせてもちっとも構わない。

 それにしても安倍晋三前首相の「国葬」は酷かった。自らのお友達を優遇し彼の政治に反対する我らを敵として切捨て、長期政権ゆえ驕り高ぶり、恫喝と忖度とで我が世の春を謳歌してきた者が、どうして我ら国民の税金で賄う「国葬」に値するのであろうか。
 そうした手続きも一切国会に諮ることなく、岸田現政権はまたも自民党のお家芸である、同じ「丁寧な説明」を何度でも繰り返していく、として仲間内で決定して強行してしまった。
 ふつうは、死者は生者をもう煩わすことは少ない。が、さすがに国民を金持ちと貧困層、弱者と強者に分断してきた安倍晋三は、死後もまた我らの国を分断してとことん煩わせてしまったのだ。
 そう、安倍晋三にこそ言いたい。死者は生者を煩わすべからず、と。

子猫の譲渡会開催!! 明日25日、谷保かけこみ亭で2022年09月24日 12時18分22秒

大慌てで作ったら、担当者名「マスダ」が抜けてた。
★一匹でも、貰い手さんの元へと願って

 我の父の一大事のことがあったにせよ、マスダの迂闊さと怠惰、怠慢によって、うっかり増えてしまった子猫たちを、新たな飼い主を見つけてウチから送り出すために、またまた、かけこみ亭をお借りして「譲渡会」を開催します。

・日時/2022年9月25日午後1時頃から3時ぐらい迄。
・場所/ 国立市谷保かけこみ亭 南武線谷保駅下車歩3分ほど。
・電話・住所/〒186-0003 東京都国立市富士見台4-39-5-422
 042-575-2208


 当日は、店内は携帯が繋がりにくいので、店の電話におかけください。昼過ぎまではマスダの携帯 090-8175-8479 迄

 ともかく一匹でも貰い手が現れますように。子猫たちも期待に身体を大きくしてお待ちしております。※チラシの猫はほんの一部で、他にもっとたくさんいろいろな柄の子猫がでおります。
 同かよろしく、子猫一同心よりお待ちしております。
 
 この情報、ネコ好きの方などへカクサン、お知らせ願います。後日の問い合わせにも対応し、どこへでも連れて行きますので。 

 我が父の件は、とにもかくにも「片付いた」。次は、猫たち、だ。  マスダ 拝

父の死の前後のことなど・続き2022年09月22日 10時38分40秒

★火葬を終えて今振り返る。

 9月14日の夕刻、市内の病院にいる、重篤の父が容態悪化との連絡受けて、我は急いで自転車で走り、彼の個室にかけこんだ。
 ベッドに横たわっている父以外は誰もいない。前日に、九州から来た妹と見舞いに来た時と様子は変わらない。
 父は、透明な酸素マスクを鼻と口にあてられて眠っているようであった。ただ、息をしているかはわからない。
 すぐに看護婦が入って来て、お父様はたった今、亡くなられましたと告げる。が、触ってみるとまだ身体は暖かく、固くもなっていない。
 次いで入ってきた担当医は、その看護師の言葉を否定し、まだ確定ではないと言い、別室でモニターで見ているから、また来ます、最期のお別れを、と促された。

 じっさい、父に声をかけて、手を擦ったりしていたらば、目は閉じたままだったが父は少しだけ動いて、口も開けて何か言いたそうでもあった。
 しかし、しだいに反応はなくなり、我は、ただ労いと感謝の言葉をかけながら、握っていた父の手を彼の胸に組んであげた。
 閉じた父の目には、うっすら涙がにじんでいるように見えた。

 少しして医師と看護師が入って来て、医師は聴診器を胸に当てて心音を確かめ、ペンライトを閉じた目に照らして確認を終えて、「ただ今、亡くなられました」と告げた。
 時刻は、午後5時54分であったと思う。

 それからご遺体の処置があるけれど、これから夕食の時間帯で、人手も足りないので、ご遺体の搬送できるのは8時過ぎ頃になると言う。
 ならば、我も一度家に戻ることにして、病室を後にした。看護師はてきぱきとさっそく父に着けられていた酸素マスクや心電図のセンサーなどを外し始めていた。

 一階の受付ロビーで、事前に一報入れておいた、まず葬儀会社に父の死を知らせて、遺体の搬送をお願いした。すぐに担当者が向かうと言うが、8時過ぎでと伝えた。
 それから、妹や甥っ子や親しい人たちに携帯で訃報を伝えて、我は暗くなった道をまた30分近くかけて家に自転車で戻った。
 喉が渇きを覚え、途中で缶ビールの500ml缶を買った。

 家に戻ったのは、ちょうど午後7時ぐらいだったか。庭先で母方の親戚に父の死を電話連絡し、葬儀などは考えていないことなども告げ、他の兄弟姉妹にも伝えてもらえるよう頼んた。
 家の猫たちに晩御飯を与える前に、まず缶ビール片手に犬の散歩も済ませて、自室で父を知る我が親友にも電話かけたりしていたら、8時近くになってしまった。
 慌ててまた自転車で町はずれの病院までひた走る。着いたのは8時15分頃だったか。

 葬儀社の人はもう既に来られて待機していた。
 受付で、まず我だけ病室に行くよう促され、死んでしまった父と改めて対面した。父は病院のパジャマ姿ではなく、昨日、我が持って行った父が家でいつも着ていた普段着に着替えさせられていた。胸には先ほどまでは外されていた十字架がかけられている。
 口が開いたままなので、どうにかならないかと看護師に言ったら、もう死後硬直していて難しい、後は葬儀社の人にお任せしたほうが・・・と。

 すぐに下からその葬儀社の担当の人と、もう一方がストレッチャーを引いて上がって来て、父はあっという間にそれにベッドから移し替えられてエレベータに載せられて一階へ。
 そのまま自宅には帰さずに、国立市のその葬儀社の冷蔵保管室へとバンに載せられて走り去って行った。
 担当医と看護師たちはその車が走り去るまで丁重に頭を下げて見送ってくれた。

 それから我は、葬儀社のNさんと、病院のロビーで火葬のことなど、金額なども含めて今後の流れを詳しく相談した。
 その人は、母の葬儀の時も担当してくれた人だそうで、いろいろ無料サービスはしてくれたものの、「火葬儀」ということでも、見積もりは33万~ということになった。
 その火葬儀は、9月18日、日曜の午前11時に立川聖苑に集合し、11時半より火葬ということに決まった。遺影の写真などはこちらで用意することに。

 打ち合わせが全て終わって、自宅に帰ってきたのは、9時半を過ぎていたのではないか。もっと遅かったのかも。
 その晩は、すぐに寝ようと思って早めに床に就いたが、なかなかやはり眠れなかったかと記憶する。

 翌日から、火葬の当日までに、親戚縁者などに連絡をしないとならないのでその作業、手配などで突然慌ただしくなった。母方はともかく父方は、もう実の妹弟で健在の人はもう一人しかいない。故に連絡とろうにも皆、その子息、娘たちなので名字もかわっていたりして誰が誰でどういう関係なのか我はよくわからない。
 お骨を拾うの人が我と甥っ子ぐらいではあまりに少なく父も寂しいだろうと、妹も心配して、また飛行機でそのためだけに上京も、と考えたようだが、その前々日来たばかりだし、ちょうど大型の台風が九州を直撃してくるという状況もあって断念してもらった。

 代わりに我の古くからの女友達で、我の母も父のこともよく知っている人たちが来てくれて、我入れて4人で無事にお骨を拾うことが出来た。
 他にも顔も覚えていない従姉や、我の親友も人が少ないなら行こうか、と申し出てくれたが、台風も来ていたことだし、丁重にお断りした。
 そして父の骨壺を抱えて、立川市内の中華飯店で、4人で食事して散会し、我が父の「火葬儀」は終わり、お骨は今、ウチに帰り畳の上に鎮座している。
 諸事情でウチは今家中、とっちらかって足の踏み場もないような状態なので、父が生前食事したりテレビを見ていた居間だけでも片づけて、骨壺の置き場所をきちんと作らねばと思っている。
 
 今後のことだが、昨日やっとウチのお寺さんに電話して、納骨までの流れ、予定も見えてきた。
 町田に在る、我の祖父母や母も収められているウチの墓所には、10月の終わりの土日のいずれかに寺で法要が行われて、父の遺骨もその墓に収められることと決まった。

 いろいろまだまだ今回のひと騒動に関しては書き記しておきたいことなど多々あるけれど、まずは、ひとまず「報告」は終わりにしておきたい。
 我に対しては、このブログなどで父の死を知った友人知人方々から、お見舞いとお悔やみのメールを多々頂いた。
 後ほどきちんと個々に御礼申し上げたいと思っているが、改めてその愛とお志にこの場でまず深く厚く感謝いたしたい。
 ほんとうに有難うございました。皆さまにも神のご加護を!!

 我は、この亡き父と母から、都内で産まれて幼い頃に今住むこの地に移ったのだが、そのときは、祖父母も健在だったし、父の妹弟たちも同居していたのでともかく大家族であった。そう、昔のテレビのホームドラマのように。
 が、その父の妹、弟たちは結婚して家を離れていき、祖父母は順次亡くなり、我が家は、父母と我と妹だけの四人家族となった。
 その妹は学生時代に早くから家を出て、やがて職場で九州の大分出身の人と出会い、その地に一家を構えたが、我は、若い頃はこの家から独立したこともあったが、もう何十年も老いていく父母と三人暮らしが続いていた。
 そしてまず2016年9月に母が先に逝き、そし7年後、の同じ9月に、ついに父が死んでしまった。
 我はとうとうこの広い大きな家にたった一人となった。
 かつての大家族であった頃を思うと、祭りが終わった後のような寂しさを覚える。みんなどこへ行ってしまったのだろう。

 しかし幸い?いまは、動物たちがものすごくたくさんの数ウチにはいる。まずはその子猫たちの貰い手を探して一匹でも新たな飼い主の元で幸せになってもらうことだ。
 動物も一匹もいないでこの家で自らとただ向き合う孤独に直面したらば、我も江藤淳のように自裁したに違いない。
 有難いことに、我には、その動物たちと多くの暖かい、我を哀れみ手を差し伸べてくれる友人たちがいる。そして神の存在もまた。
 孤独をしみじみ味わう暇もない。生きていくということはなんとやること、やるべきことがいっぱいあることか!!
 今日はやっと修理に出していた愛車が直って帰ってくる。

 ただただ全て感謝。
 もう今はこの世に亡き人たちの魂に平穏とやすらぎを。

父の死の前後のことなど記す2022年09月20日 08時33分37秒

★そしてこれからについても

 台風は、今どこにいるのかわからないが、こちら側、関東の多摩地域では、昨日は風は強かったものの雨は大したことなく、被害呼べるほどのことは何もなかった。
 朝方は曇っていたが、今、8時半頃、外は晴れてきて明るくなってきた。

 父の死について報告がてら思ったことなどを記している。
 一昨日の日曜、18日に、火葬を終えて遺骨は今ウチに帰ってきたことは書いた。
 そして昨日も祝日だったので、諸届けなどの連絡作業などもできず、我は午後はひたすら昼寝したりのんびりでき、この数日の疲れも癒すことができた。
 これから我の、父の死後、の人生が始まるわけで、その準備、新たな人生の計画や支度にとりかからなければならない。
 その前に、自らの備忘録のためにも、父の死の前後数日のこと、火葬した当日のことについても書き記しておく。

 我が父は、14日、水曜の夕方に逝ったのだが、実はその前日に、我が実妹、父の唯一の娘が、遠く九州の大分の山奥から見舞いに来た。
 父は娘に会えたので、やっと何も心置きなく安心して旅立てたのだと今思える。

 以下、経緯を記す。
 先にも書いたが、父の妻、我の母が逝ったのは、2016年の9月8日のことで、父の余命宣告が8月末頃、と告げられてから、たぶんその母の命日の頃、8日前後に父も母に導かれて旅立つだろう、と、妹も我も漠然と予想していた。
 が、その予定推定日を過ぎても父はまだ存命で、我としては先のことが見えなくなってやや戸惑いながら、その週を終えた。

 そして翌週、12日の月曜日夕方になったら、父のいる病院の看護師から、いよいよ死期は迫り間もない状態になってきた、と電話連絡があった。生前の面会希望するなら明日にも来てくれ、また、いつ、その連絡がいくかわからないので携帯離さず待機するように、とも。
 そのことをすぐさま妹に電話したら、その晩、彼女からまた連絡があり、いろいろ考えたが、明日、新幹線で上京し見舞いに行く、と言ってきた。そして日帰りで帰る、と。

 我としては、妹が住むところは、大分の山奥、景勝地の耶馬渓なので、新幹線に乗るまでも2時間はかかるらしいと知ってたから、タイヘンだから無理せずともと諫めたが、結局妹は、翌日13日、上京してきた。
 午後3時半頃、妹は立川からのタクシーで慌ただしく駆けつけて来て、我ら兄妹は、父と対面できた。母亡き後、親子三人での最期の対面である。
 先月の末に、父の孫である、妹の息子、我にとって甥っ子と見舞いに行けたのだが、そのときは目も開けず反応はあまりなかったのに、今回は視点は定まらぬものの、目覚めた状態であった。ちょっと驚いた。
 ただ声かけや手を握ってもはっきりした意思表示は返ってこなかったが、短時間でも娘と再会できたこと、見舞に来たことは間違いなく彼の意識下に伝わったと信じたい。

 妹はまたすぐさまタクシーで立川に戻り、夕方6時過ぎの新幹線に何とか間に合い、深夜遅くに帰宅できたとのことであった。
 彼女のところも高齢の義母を抱えていて、今、通っている介護施設がコロナで利用できないとのことで、義母を家に残してのまさにとんぼ返りであった。
 翌日、妹から昼間届いたメールには、父は、これで孫にも娘にも会えたわけで、もう何一つ思い残すことはないだろうと書いてあったが、まさにその通りに、その日の夕方、父は古い肉体から解放されて母の待つ世界へ旅立ったのだった。

 その14日は、午後から習慣の昼寝を昼食後少しして、3時頃起きて、さてどうしようかと考えた。というのは、父のコロナ入院のときの保健所に提出しないとならない書類には、住民票と課税証明書が必要とのことで、市役所に取りに出向かないとならない。※それを保健所に提出しないと公費負担にならず、入院費用は実費で請求されてしまう。
 明日でもいいか、と迷いもしたが、午前中は市役所は込み合うので、行くなら夕方のほうが待たされずに済むと考えなおして、自転車で閉庁時間の5時近くに行った。
 書類申請にやや手間取ったものの、5時過ぎには書類を手にでき、自転車に乗って帰宅しようと走り出したとき、携帯が鳴った。
 予想したようにそれは病院からで、父は、心拍数も下がり苦しがっているからすぐ来られるか、とのことだった。

 いったん書類とか置きに家に戻ることも考えたが、やはり急いで駆けつけたほうがいいだろうと、ともかく必死にペダルを漕いで、市役所からだと30分近くかかるはずの市内のはずれにある病院に駆けつけた。
 5時半過ぎに病院に着いた。窓口に駆け込み事務員に話したら、すぐ三階の病室へ、と指し示されて父のところに足早に駆けつけた。

 ※続きは後ほど書きます。

父の火葬儀を終えて思うこと、2022年09月19日 09時06分20秒

★父の旧い朽ちた身体は、骨だけとなって帰宅した。

 今日は19日、敬老の日である。外は大型の台風襲来を前に時おり滝のように強い雨が降ったりやんだりしている。
 我が父は、7月半ばに、コロナに感染、入院し、けっきょくそれが引き金となって心身の衰弱が進み、去る9月14日に市内の療養型病院で死去した。97歳と11か月、この10月の誕生日が来れば、98歳にならんとする大往生であった。

 そして昨日、強い雨が断続的に降り続く中、立川の葬祭場で、火葬儀が粛々と行われ、今、父は、骨壺に入って我が家に二か月ぶりの帰宅となった。
 遺体となってもその肉体がまだこの世に在るうちは、存在を実感できたのだが、その老いて朽ち果てた肉体が焼かれて砕けた骨だけの姿になると、ようやく今になって我が父は、この世から消えてしまった、ほんとうに死んでしまったのだと、実感のような気持がわいてきている。
 といっても、正直なところ未だ覚めない夢を見ている、これが現実なのか、と夢の中の出来事のような気もしているのだが。

 父は、近年、二つの介護施設に、それぞれ二泊三日で泊まっていたので、実際のところウチにはあまりいなかったのだが、それでも必ず月曜と木曜の夕刻には帰って来ていた。そして金曜は終日我が家で過ごしていた。
 だから不在がちでもまた必ず帰って来ていたわけなのだが、もうその肉体は帰っては来ない。七月半ばの入院を境に、その日常は永遠に失われてしまったのだ。
 もう何年もずっと続いてきたその定期的な日常、習慣がとつぜん終わってしまい、体の一部は骨となって家には今在るのだけど、じっさいのはなし、父はもうこの世のどこにもいないし、もう二度とウチには帰ってこない、のだ。

 今更ながら、そのことを思うと、外の滝のように断続的に降る強い雨を窓から見ながら、この「現実」にどう向き合うか、どう、これからその不在の日常を受け容れていくか、涙垂れ流しながらこれを書き記している。
 そう、我が父は本当に死んでしまったのだ!! 骨になって体の一部は帰ってきたけれど、あの大きかった男はもうこの世のどこにもいないのだ。

 いっぽう、これでやっと不自由な肉体から解放されて、最愛の妻の待つところに行けたのだから、それはとてもつなく良いことだとも思える。
 我の哀しみは哀しみとして、これからも続くだろうが、父にとってはこれは善いこと、正しい、あるべきことだったと思わねばならない。

 癌で先に逝った母とは7年も離れてしまっていたが、ようやく再びあの世で今頃は手を取り合い再会を喜んでいることだろう。
 そして旅行好きの夫婦だったから、今頃は二人でまた新たな旅の計画を立てたり、いや、まずはこの7年間の間の出来事を二人して語り合っていることであろう。

 我は来世や前世はともかく、あの世、天国のようなところや、魂の存在は確実に在ると信じている。
 ただ残念なことは、今我らがいるここ、肉体の世界の現実とは、また別の世界のはなしであり、彼らは自由にこちらに来たり、こちらの様子を窺い知ることはできるのかもしれないが、我らに姿は見えない、声も聞こえない。残念ながら完全な没交渉でしかなく、いかんせん相互に関わり合うことはできやしない。
 届くのはこちらの思いだけであり、彼らの思いや気持ちも時に夢を通したり、神の手を借りて顕れ守り慈しみ憐れんでくれたりはしてくれるが、はっきりと現実世界には現れてはこない。
 どんな宗教であれ、だからこそ彼ら亡き人たちを思い偲び、その人がいたからこそ、と忘れないよう常に語りかけ感謝を忘れてはならない。   

 某怪しき邪教では、先祖や亡き人が祟っていると称して供養のためにと、高額な商品を買わせたりして残された家族を経済的にも破滅破綻させたりもするが、それは宗教以前のはなしであり、亡き人たちがどうして子々孫々に恨みを抱いたり不幸を願うであろうか。
 彼らは別の世界からではあるが、常に我らの安寧と幸福を願い、神と共に我らを見守ってくれている。
 ならばこそ我らも彼らに感謝して、その亡き人の思いを応えるようしっかりと正しく生きていかねばならぬと気づく。

 いつかもう一度、必ず我らは先に逝ってしまった人たちと再会できる。母も父も、そして多くの先に逝った友人、仲間たちの顔が思い浮かぶ。
 この世はまさにひとときの仮の世界であり、肉体は単なる魂の入れ物にしかすぎない。
 全ての物が朽ちて終わりの日が来るように、この現実世界では永遠のものなど何一つない。
 ただ、肉体に入っていた魂だけは不滅であり、死に臨んではこの不自由な肉体から解き放たれて自由に、全てのものを作り与えてくれた御方の元へと旅立つ。
 その世界の姿は、我らは決して窺いできない。が、魂だけの姿となってまた再び皆と会え、喜び語り合える時が来るのなら「死」もまた怖くなどない。

 亡き人のことを思い、今世の別れの悲しみは哀しみとしてただただ深く哀しみながら、この現実世界を、父がいなくなった日常をこれからもしっかり生きていかねばならないと誓う。
 我のどうしようもない人生だが、投げ出さずしっかり丁寧にこれからも維持していこう。父や母の愛と恩に報いるためにも。再開したとき、胸張って会えるために。
 そしてこんな弱く愚かな我を哀れみ支え、常に助けてくれた有難き友たち、愛する人たちのためにも。