2011.秋の京旅行の記録・中・42011年11月10日 23時23分27秒

★京都最終日はほんやら洞で有馬さんと会った。

 今年の京都はいつまでも暖かい日が続いていて黄葉も遅れていたし、雨が降っても梅雨時のように蒸し蒸しした暖かい雨であった。
 京都にいた三日間、連日天気はすっきりせず、春雨のような雨が断続的に曇り空の下降り続いていた。毎度のこと自分は傘もささずTシャツ姿でうろついていたのだが、最終日の月曜になったらようやく秋本来の気温に下がり寒くて閉口した。比叡降ろしの冷たい風が時どきザッーと吹いては冷たい雨を運んできた。

 前日、福知山から戻ったのはもはや夕方であり、それは向こうの道の駅で特産の黒豆のお土産買ったり、おっちゃんの車がパンクしてタイヤ交換したりと毎度もたもたしていたからでもあるが、自分もさすがに疲れてきていた。

 行きのバスではほとんど寝ていなかったし、むろん着いたその日の晩もネットカフェで仮眠とったようなものであるから、そろそろふとんと熱い風呂が恋しくなってきた。夜久野の帰りに京都駅前で下ろしてもらい毎度行きつけの安ホテルでその晩の予約を入れた。素泊まりで5000円弱で以前よりずいぶん高くなっていたが、もう観念した。夜久野で買ったおみやげをフロントに預け、おっちゃんのアパートの近くのお好み焼き屋でその日のことを語らい酒をだらだら呑んだ。
 そしてまた駅前のホテルに歩いて戻り、久々にゆっくり風呂に入り、缶ビール1本空けたらいつしかすぐに寝込んで気がついたら明け方であった。いったん起きてテレビを小さな音で付けて、NHKのニュース聞きながらうつらうつらして8時頃ようやく布団から出た。体力は戻っていた。


 フロントで千円払ってレンタル自転車を借りて、三日目最終日の京都が始まった。東京へ戻る夜行バスは零時頃の発車だから丸々一日ある。
 増坊には京都に行って一日時間があれば必ず立ち寄る定番のコースがある。それは駅地下から始まって、錦市場や古川橋商店街などいくつかの市場であり、新京極、寺町通りなどの繁華街であり、河原町通りに点在する古本屋であり、フォークギターを並べた何軒かの楽器屋、それにオクノ修さんがマスターやっている六曜社や、出町のほんやら洞などのユニークな喫茶店等で、前は北大路の古川豪さんの薬屋までも京都の町を下から上へと借りた自転車で朝から晩まで走り回っていた。ときにそこにのんや拾得などのライブハウスも加わる。
 今回もさすがに上は出町柳までしか上がれなかったが、行ったり来たりときに上ってもまた下がったりと京都の市街をひたすら自転車で走り回った。自分にとって京都の楽しみとは歩くこともだが、バスなどに頼らずあちこちうろつくことに尽きる。

 その他に四条通の無料で公開されている京町家など自分の家作りに参考にした古い家々も京都には沢山ある。町家を再生した喫茶店、ショップなども多く存在しているので、通りすがりに覗いてみるのも楽しい。そこで今回は午前の空いた時間にまだ訪れたことのなかった河井寛次郎旧居へ行こうとふと思い立った。以前その前まで行ったことがあったが、ちょっと迷いようやく発見したものの月曜定休日で徒労に終わった。
 そうこうしているうちに昼時となってしまい新京極裏の食堂で昼飯食べて、河原町通りをひたすら上る。荒神口近くの楽器屋でまた心引かれる中古ギターをみつけ試奏させてもらったりして、有馬敲さんと2時に会う約束をしているほんやら洞へと慌てて向った。

 幸い2時前にその昔から今出川通りにある「ほんやら洞」にたどりついた。やはり予想通りまだ店主の甲斐さんは来ていなく店は開いていない。仕方なく出町の商店街をぶらつき再度行ったら彼も来たところで既に仏人の女性客が訪れていた。甲斐さんと新刊の写真集について話していたら有馬さんも来られ、それから1時間半あれこれ彼が問わず語りに話す言葉に耳を傾けた。
 有馬さんは間もなく八十、傘寿になるわけで、その記念祝いのイベントなどの企画も多々あるそうだが、当人にとっては面倒だとあまり乗り気ではないようで、一昨日の彼原作の公演の成功でもうそのお祝いは終わった気分だと伺った。そんなことよりもまたこれからのことについて彼が今考え思考している事柄に話の熱が入り、また次に東京に来るときまでにこちらもしっかり準備や手配しておかねばと気が引き締まる思いがした。来る前に歯医者へ行きかなり待たされ、やや体調も悪かったようではあったが、終わった公演の熱まだ覚めやらぬという風であった。
 あーしんど、話し過ぎた、と呟いて店を出て出町方面の糺の森の方へ去っていく彼の後姿を見送りながら、これで今回の京都旅行の目的は全て果たせたとほっと肩の荷をおろしたのは言うまでもない。

 結局その晩は、夕方友人壬生のおちゃんの古本倉庫を覗いてから、売り物にならないキリスト教関連書籍を頂いて、二人行きつけの小料理屋へ向った。そこは左京という店で、おっちゃんのマンション近く壬生にある。懇意にしているママが一人でやっている店で、いろんな京都の味をお任せで出してくれる。このところママも事情で店閉めていることも多かったのとこちらも忙しかったので1年ぶりの来店であった。客は誰も来ない。増坊が東京から来たのでわざわざ開けてくれたのかもしれない。歓待されたらふく食べて呑ませてもらい、9時過ぎ二人と別れて京都駅前のホテルへ戻った。

 自転車を返して預けた荷物をとって、バスの出る京都駅南口の八条口へ。まだバスが出るまで何時間かあった。ぼんやりこの旅を振り返り、楽しかったが、行けなかった所、会えなかった人たちのことを思い浮かべた。が、もし生があり機会あればいつかまた来れるだろう、またそのとき、と自らを慰撫した。

 こうして三日間の秋の京旅行は終わって無事東京に戻ってきたのだ。まだまだ書きたいことはいっぱいある。が、またの機会に。

2011.秋の京旅行の記録・中・32011年11月09日 22時39分47秒

夜久野教会全景
★京都二日目は福知山市夜久野(やくの)教会に行った。

 朝、夜行バスで京都に着いて公演を観た日の夜は、生まれて初めてインターネットカフェなるところに泊まって一夜を明かした。この歳でのネットカフェ初体験はある意味、衝撃と感動、そして地獄であった。そのことは別項で書き記しておきたいが、朝になり店を出たところから6日のことは始まる。

 増坊はこう見えても人徳があるので、皆に慕われ全国に友人知人がいる。※むろんウソであるので信じないように。なっわけねーだろ!中川五郎曰く「問題児」が。
 中でも京都には、ネット古本屋仲間の親友がいて、もう5、6年になるか、京都に行くたび会っては商売のことを肴に痛飲している仲である。もともとは、商売仲間を通して知り合い、いつしか親しくお付き合いするようになった。彼は「壬生のおっちゃん」としておくが、歳は還暦を過ぎているものの何故か不思議に気が合う。増坊がネット古書店の世界に参入し始めた頃、彼もまた本好きが昂じてネットで古本商いをやり始め、定年後の今はそれが「本業」となったのだ。まあ似たもの同士なのである。

 どううまく説明したら良いか迷うところだが、彼は若い頃からのクリスチャンであり同志社大出身、今はキリスト教関係の本を中心にネット古書店をやっている。その関連で、京都府の西のはずれ、今は福知山市に編入されてしまった夜久野(やくの)というところに古いが立派な教会があり、行くことも多いとのこと。山中の田舎なのになかなか素晴らしいその教会の話は会うたびよく聴かされていて、増坊も行けたらと心動かされていた。今回5日の用事も終わり、オフの6日は日曜であったので、彼に頼んで夜久野へ連れて行ってもらうことになったのである。

 壬生のおっちゃんとは八条口のそのネットカフェの前で朝8時に落ち合う約束をした。
 増坊はいなかもんではあるが、東京の田舎者、つまり地域限定の田舎者でしかなく、他所の田舎、まして遠く京都の田舎はまったく詳しくなかった。京都の地方といえば日本海側の若狭や舞鶴の名前は存じ上げる程度で、夜久野と聞いてもいったいそれがどこなのか想像もつかない。しかし、車は一路京都の市街を西へ西へと進み山に入る。有馬さんの出身地亀岡を過ぎてさらに丹波笹山の名前だけは知っている丹波の山中を抜けて福知山へ入る。夜久野はまたその奥の、兵庫県の境であった。道路標識には鳥取100キロと出ていて東京人はエライ遠くへ来たと怖気づいた。途中高速を使っても2時間以上走っている。

 途中、前夜の寝不足と移動の疲れもあってうとうとしてしまったが、何とか10時半前に夜久野教会に着くことができた。町の奥まった小高い山を背にし高台にある立派な教会は遠くからでも目をひく。日曜礼拝に間に合い、壬生のおっちゃんと共に地元信者の方と礼拝に預かった。残念なことに過疎化で今では信者数も少なく常駐の方はなく、ここの牧師さんは日曜ごとに大阪から来てくれるのだという。お年を召されてはいたが、大変お元気で立派な牧師先生であった。

 それにしても外観以上に内部は広く、カトリックとは違いプロテスタントの教会はきわめてシンプルで天井も高く、木の祭壇とオルガン以外何も置いていない。窓際のテーブルにイスを並べての僅か数人での礼拝は薄ら寒く申し訳ない気さえした。時折賛美歌をはさみながら聖書を開き牧師先生の講話と祈りは続いた。

 礼拝は終わり、教会の中や外を写真を撮りながらぶらついたのだが、雨も上がったが町に人は誰もいない。ただ静かであり、穏やかであり、遠く走る山陰線の電車の音がたまに聴こえるだけで、小鳥の声もない。京都市内の喧騒や大阪や東京でのこれまでのことを忘れて心が洗われる気がした。また、教会堂一階の、昔は幼稚園でもされていたかと想像する小さな木の机とイスが並ぶ「教室」はただただ懐かしく忘れていた匂いを嗅ぎ懐かしさのあまり胸が痛くなる思いがした。思わず感激の涙が出てきた。
 というのは自分もまた幼ないときに通った幼稚園は「子羊幼稚園」といってキリスト教のものだったから今はなきその場所を思い出したのだ。夜久野を訪れてよかった。ようやく救われたと思った。全ては神の思し召し、はからいであると思った。
 今は朽ちて信者数も少ないが、素晴らしい教会である。ぜひまた京都に、いや関西を訪れる機会あらばこの地と夜久野教会に来たいと心に誓った。※内部の様子などは後日別ブログでアップしたい。ぜひ関西在住の方々は足を運んでもらいたく望む。

2011.秋の京旅行の記録・中・22011年11月08日 23時19分00秒

前方:主演の人気若手狂言師杉山茂、後方古川豪さん
★「京の森のものがたり」を観た5日のこと

 思い返すと今年、自分が京都に行くのはこれで三度目であった。
 
 まず春のゴールデンウィークの中日、大阪での春一番コンサートのついでに、毎年恒例として京都にも立ち寄った。春一の空白日である。しかし、その頃のブログをご確認頂ければお分かりのように、いろいろ問題を抱えていて、その時の京都は全く楽しめなかった。
3.11の大震災の直後でもあり観光客も少なく、全体的に活気もなく、黄砂のせいかすべてが白っちゃけて味気なく見えたことだけが記憶にある。一泊したはずなのだが、何をしたのか。
 自分も癌摘出手術直後の母をおいて、最後となるかもしれない春一番だから何としてもという思い人に彼らを託して無理に無理して関西に来たのに、結果として徒労に終わったことで、しばらく後々悔いばかりが残る結末となった。

 そして二度目は夏、8月頭、三重県津で友人が主催するフォークシンガーによるコンサート「ええかげん祭り」が最後となるとのことで、海辺のライブ小屋「ええかげん」に終演後一泊して、翌日京都まで足を伸ばしたのだった。
 そのときも有馬敲さんに呼ばれ彼がゲストとして出られる朗読ディナーショー参加のためで、夕刻に京都に着いたものの寝不足もあり、そのイベント自体にもあまり気が進まず、会場のライブハウスまで重たい足を渋々運んだのだ。まあ、そのショーはいろんな意味で大いに考えさせられ興味深く、刺激受けた。観たことで大いに勉強となったことは拙ブログでも既に書いてある。
 ただ、その晩の夜行バスでトンボ帰りしたので、その日もともかく慌しく朗読ショーが終わり有馬さんと挨拶もそこそこに必死でバスの出る京駅八条口に向って走った。それでも夏の京都は修学旅行以来であり、浴衣姿の若い女性も多く見かけて、なかなか風情があった。

 そんなこんなで既に今年二回京都に来ているといってもどちらも慌しかったり心中に悩みを抱えていたりと京都の町をゆっくり味わう余裕が全くなかった。そしてようやく今回、訪れる目的は一日だけに留めて、今度こそ秋の京都をゆっくり堪能してこようと出かけた次第であった。その思いは十分に果たせた気がしている。

 さて、ではその今回の旅「目的」である、観覧に来た公演「京の森のものがたり」についてふれないとならない。
 これは詩人有馬敲の同名の童話を原作にしてはいるものの、―平成の散楽ミュージカル―茂山茂が舞う と副題が付き、チラシのコピーには、「現代詩と狂言と現代音楽、現代アートのコラボレーションが実現する」と記してあるように、今流行の異ジャンルの芸術がミックスされた意欲的なコラボ劇であった。全く存じ上げてはいなかったが、今京都では人気の若手狂言師が主役である。観客席前方は彼のファンと思しき若い女性で埋め尽くされていた。

 このミュージカル、今年の京都での国民文化祭の催しの一つとして、2年も前から企画が進んでいて、かねてより有馬さんからお会いしたときに話は興味深く伺っていた。増坊が深く敬愛している地元京都在住のフォークシンガー古川豪さんも音楽を担当するとも。有馬さんご自身はあくまでも原作者の立場でしか関わっていないようであった。ただ、いったい現代詩と狂言が一体となったミュージカルとはどんなものであるか想像もつかなかった。なので今回果たしてどんなものに仕上がっているか観るからには楽しみであった。そして観覧して思ったことは・・・・。

 忌憚なく書かせてもらうと、なかなか意欲的で興味深いものがあったが、面白いのかつまらないのか正直なところ自分にはよくわからなかった。若手狂言師が老雌猫に扮して、まさに狂言回しとして進行役を務め、合間合間に解体されたものがたりの個々のシーンが脈絡なく配置されている。若者たちの詩の朗読あり、子供たちによる合唱あり、猫に扮した古川豪さんのギター弾き語りもある。しかしそこに一本通った筋はないから全てが総花的であり、結果原作にあったメッセージ性は弱まったことは否めない。
 最後は大勢の障害者たちの合唱で幕を閉じたのだが、何か全て中途半端な薄べったい感じがして残念ながら自分には求めていた感動はそこになかった。個人的にいちばん気になったのは音楽であり、BGMはともかくも何で今さら手垢の付いた出来合いの歌「例:僕らはみんな生きている」とかをせっかくの意欲的なミュージカルで臆面もなく唄うのかとても不満であった。時間があったはずなのに安直過ぎる。もっと凝れないものか。俺なら楽曲を新たに書き下ろす。※誤解あると困るので、ここでいう「音楽」と古川豪さんは全く関係なく書いている。豪さんは一出演者として彼の出番に登場し自らのうたを唄った。

 と書くと「失敗作」ととられてしまうかと危惧する。これは自らもライブコンサートを企画し手がけた経験のあるプロデューサー的者の私的感想である。会場の府民ホール・アルティはかなり大きなキャパシティであるのにほぼ満席となったことに感心したしお客様の多くは楽しまれたようであった。この意欲的コラボは高く評価すべきであり、現代詩も狂言ももっともっと自らの狭い枠内に留まらず広く別の大きな世界に飛び出さねばならない。こうした試みにより別の層の観客に関心と興味を喚起し、新しい参加者とファンは増えていくと確信する。どんなことでも常に現状に満足すべきではなく、新たな方向性を模索しないと明日はない。実は芸術自身も観客もそれを求めている。外に向けて開いて変わっていくことは自明の理なのだ。
 そうした視点に立てば、この他に類がなく説明が難しい不可思議なミュージカル?は、沢山の観た人、関わった人たちに後々まで深い忘れ難い印象を残したかと思える。

 個人的には、終演後古川豪さんとロビーでご挨拶でき、我が家の柿等おみやげも少しだが手渡すことが出来た。彼はちょうど今お仕事が忙しくて、今回はゆっくり雑談する時間とれないとのことであったが、素晴らしい歌声も少しだが久しぶりに聴けたし、お会いできたので満足した。新たな仕事に移ってから少し痩せたようではあったが、お元気でやさしい笑顔は相変わらずで安心した。別れ際交わした握手は暖かい柔らかい手であった。今もその感触が残っている。こちらまで暖かい気持ちになれた。人柄であろう。何だかほっと安心して急に肩の力が抜けた。ご無沙汰していたので叱られるかと覚悟もしていたのだ。今回京都に来れてつくづく良かったと思った。

 外は小雨が降り続いていたが、暖かい気持ちでそれから京の町をさらに北に、傘もささずにひたすら歩いた。

2011.秋の京旅行の記録・中・12011年11月08日 21時11分42秒

今年の秋は異常に暖かくまだ東本願寺のイチョウも色づいていなかった。
★今回の旅のあらましから

 今回の京都行、その目的は、このところ親しくさせて頂いている京都在住の世界的詩人、有馬敲さんからお誘いがあり、彼の原作のミュージカルが5日にあるので、その観劇がまず第一であった。

 しかしそれは表向きの理由でもあり、それがなければ行くことは今期なかったはずだが、ついでに人と会ういくつかの用事もそれに合わせて入れた。そもそも拙ブログで先に書いたように、一回限りとはいえ公演に何が何でも行かねばならぬというわけではなく、あくまでも家のことや親たちの体調など様子を鑑み、まあそのときはそのときだと腹を括っていた。行けたらこしたことはないが、行けなくてもそれもまた仕方ないと。

 幸い、プレ・開店イベントは先月29日盛況の内終わり、問題の親たちの入院は明日9日からで、ちょうどぽっかり時間が空いた。なので、その入院前でやや慌しいが、抗癌剤投与が始まればもはや旅行どころではないので、行くなら今という思いで出かけることにしたのだ。

 今帰ってきて思うのは、行ったことは正解であったし、何よりも今回の京都の旅はこれまでに増して多くのことを得た。先にも書いたが、いつも家を空けるたび、旅行中も不安と怖れに苛まれ、なかなか気が休まらないのがこのところの常であったのだが、今回は覚悟決めて出たせいか全くそれはなかった。全ては神の御意思のままにであり、それ自体旅の目的の一つでもあったこともある。

 早朝着いた初日、5日は、その有馬敲原作の公演が午後にあり、その後も友人と呑んだりしたりしたので一日が終わったが、翌日6日は、朝早くから友人の車で京都府のはずれ、福知山市に入る夜久野町というところに出かけた。そこに夜久野教会というプロテスタントの古い大きな教会堂があり、そこを訪れ日曜礼拝にも参列してきた。その町も教会も素晴らしく、予想以上で感激した。今回のいちばんの収穫であった。

 そして最終日、東京に深夜のバスで帰る7日は、朝からレンタル自転車で京の町をあちこち下から上へ上から下へと何往復もした。その晩も友人と旧知の小料理屋で呑み、深夜のバスで京都駅を発ったのだ。京都滞在はまるまる賞味三日である。それでも京の町を堪能した。

20011.秋の京都旅行の記録・前書き2011年11月08日 14時37分22秒

★旅とは「外」の目ですべてを見直すこと。

 今これを記すのは11月8日火曜日の午後。
 外は明るく晴れて穏やか、暖かく風もない。静かな庭先を眺めしみじみしとした心持ちでいる。金もないが悩みもない、とは友部正人の曲の一節だが、疲れはしているが、悩みも囚われるものも何もなく、気持ちは秋の空のように澄み切って落ち着いている。そう、無事帰ってきたのだ。そしてまだみんな生きている。

 帰ってきたとき親達は所用で出かけていて家には誰もいなかった。犬たちの散歩すませて、餌を作り与えて、荷物を開いて確認してから自分もカップうどんを食べてシャワー浴びて少しだけ寝た。
 親たちも午後遅く帰ってきたので、今さっそく夜久野の荒茶をいれ昨日買ったおみやげ、京の生菓子、老舗出町ふたばの「名代 豆餅」を分け合って食した。賞味期限は買った当日のうちというぐらい手作り無添加の餅菓子だから、一晩たってやや固くなってはいたが、老親と共に実においしく味わって食べた。京都に出向くたび気になっていた、やはり始終行列が出来る店だけある。上質とはこのことを言うのだと思い至る。京の都はやはり素晴らしい。

 老いた父母、そして旅から戻った息子の三人で、晩秋の午後おみやげに求めた和菓子でぼんやりお茶を飲む。何でもないことであるが、果たしてこんな日がいつまで続くかという思いもあり、言葉にならない思いが沸いてくる。嬉しいよう哀しいような・・・。

 たった実質正味三日間の短い旅行であったが、毎度全力であちこち歩き回り、人に会い自転車でも一日走り回った。それでも戻ってくると「旅の目」となっているから、東京でも見るもの会う人全てがこの自分の部屋すら目新しく興味深く思える。そう、旅の役割、意義と価値とはむろん観光、気分転換とか転地療養であるが、いちばんの目的は自分にとっては、自分の家と生活から離れて「人生」そのものを見つめなおすことなのだ。
 「日常」は常に倦んでくる。同じ顔ぶれ同じ風景の中で、ルーティンワークとしての生活の日々を繰り返していると当然マンネリ化もするし誰もがうんざりする。そしてそれに飽きてしまいときにネグレクトにさえしてしまう。人間関係もササクレ立ち、つまらぬことで苛立ち感情をぶつけ合うようになる。他者と付き合わない人も一人でどんどん自堕落になっていく。常に前向きに一日一日を新鮮な気持ちで迎えたいと誰よりも願ってはいるのだが、正直それは難しい。煩悩に心と頭がいっぱいになっていく。

 このところ旅の行きのバスの中で、寝付かれぬままよく考えることだが、人生とは自らが描く絵のようなものだと思う。昔、美術学校に通っていたとき、油絵だったか石膏デッサンの先生から指導されたことがある。あまりキャンバスに間近に向き合わってばかりいてはダメだ、時どき離れて距離をとって全体を眺めて確認しないと良い絵にならないと。
 描いているときは当然白いキャンパスに真剣に向き合い近距離で見詰め細かく描いていく。しかし、それだけだと全体的バランスはつかめないし、末梢末端のことに目をとられて全体像が疎かになっていく。だから時どき席を立ってアトリエの後ろの方から、他の人の絵と同時に自分の絵を眺めないとならない。距離を置いて眺めることによってその絵の全体がつかめていく。良し悪しがはっきりしてくる。

 人生もそれとまったく同じことだとつくづく思える。毎日、仕事や生活と向き合っていると、しだいに日々の瑣末なこと共、どうでもよい末端末節に囚われてしまいかんじん要の全体がわからなくなっていく。あれもやらなきゃ、これもせにゃと人間関係と仕事と生活で頭がいっぱいになってしまう。人生とはさづじの積み重ねであって良いはずはない。

 旅とはたとえ短時間でもそこから離れて、日常的煩雑事を忘れることに他ならない。そして新たな眼前の「今」の出来事に向き合い、心を奪われることだ。そして常にそれは新鮮であり、驚きでもあり刺激となっていく。それが「旅の目」を得ることだ。しかし、残してきた生活や日常はもとの場所にしっかりあるから、旅から帰った目でそれを眺めなおすとまた新たに気づくところ得るところ大となる。

 萩原朔太郎の小説に、近所のはずなのに突然見知らぬ町に迷い込み不思議な体験をする短編がある。訝り驚きつつ、じつは 何のことはない自分の良く知っている近くの町をいつもとは違う方向から見ただけだったと最後に明かされる話だが、そうした別の視点、別角度から自分の日常生活、つまり「人生」を眺めてみることは面白い。旅とは気分転換以前にそうした客観の目を養うことでもある。

 むろん旅も長期にわたり、そこで生活や仕事を始めてしまえば、またそこから「日常」が始まってしまい、旅は旅でなくなってしまう。生活に倦み飽きてしまうと自分はときどき短時間でも京都へ大阪へと出かけていた。しかし、このところの「旅」は仕事がらみというか、行く目的や用事があるからでそれもかなりの分量で、もはや旅ではなかった。別な場所で別な仕事と日常をおくることに過ぎなかった。
 だから告白するとずっと不安があり迷いもうんざりするところするあった。環境が変わるのは嬉しかったが、反面また今年もかという面倒な気分にさえなっていた。むろん現地の友人知人たいせつな仲間たちに会えるのは嬉しい。しかし、短期間とはいえ老親を抱えた者が家を空けることの不安は強く、残してきた家のことが気にかかり、行けば当然金も使うわけで行くべきか迷う気持ちもかなり強かった。

 しかし、これで今回でもう関西への旅はすべて終わった。もうルーティンワーク的にも行く用事はない。大阪春の恒例行事はまた来年もあろうが、自分はまったく関知するところないし自分のものではなくなってしまったからほっとしている。今思うと「潮時」でもあったのだ。風太から引導を渡されたことに今感謝したい気持すらある。そう、すべてのことには時がある。いつまでも同じく変わらないものはない。人の姿も人の心も。

 また次に京都や大阪、そして他の関西の街にいつまた行けるのかまったくわからない。しかしだからこそそれこそが本当の「旅」であるし、いつの日にかまたというその楽しみがある人生は素晴らしい。

 さて、前書きが長くなったが、今回の京都旅行順をおって「報告」していく。