太田三造コンサート2024年12月06日 12時59分11秒

!★いよいよ明後日12月8日です!!

11月も今日で終わる。残すは今年もあと一か月2024年11月30日 22時21分35秒

★自らに問いかける、まず為すべきことを終えてからではないのかと

 気がつけばもう真冬の寒さに。朝夕は吐く息が白く見えるほど寒くなった。トレーナーだけでは風邪をひく。慌てて冬用のコート、ジャンパー類をいま探しまくっているところだ。

 今日で11月も終わり今年も残すはあと一か月となる。
 その12月には、8日、15日と、我が責任者として関わるイベントが日曜ごとに続いている。
 これをともかく無事に盛況のうちに終わらせないと、年も越せないし年末年始の気分どころではない。
 が、このところブログも空いてしまっていたのは、パソコンの不具合もあるけれど、ややウツウツとして気持ちが内向していたからだ。

 きっかけの一つは、友人からのメールで、何故働きもしないのに、あれこれ苦境を言い立てつつもまた新たなイベントや企画をするのか、という苦言というか、お叱りのご意見であった。
 まさに忌憚ないご意見お言葉で、我を思っての忠言だと有難く思い頂く。実際そういう耳に痛いお言葉を我に面と向かってきちんと忠告してくれる人はまずいない。
 そう、まず為すべきことは、きちんと新たな稼ぐ道筋を築いてからだと自分でも思う。収入も途絶えている状態で、なんでまた新たに金のかかる、時間とられることに手を出すのか。そんな余裕はどこにあるのか。
 友は言う、たとえ障害があろうと、皆それぞれ何とか働いているし、まず生活の基盤を築いてからすべては始めるべきでないのか、と。
 まさに正論であり、実のところ我が内にいる、良心というべき社会性ある人格は常にそのことを我に問いかけ、責め続けているのだ。
 まず為すべきことを終えてからではないか、何事も、と。
 あるいは、まず仕事しつつその傍ら、やりたいことを時間つくってその時間あるときにやるべきだと。

 が、我の脳内の病気というか、性向として、それが出来たことはない。世の中には同時進行的に、いくつもの難題課題を抱えてそれぞれに適切的確に関わり進めて処理対応できている人はいるし、じっさい知人にもいる。
 我は、脳の機能障害、発達障害なのかともかく、物心ついたときから常に一つのことだけしかできないのだ。いや、一つのことすらきちんとできたことがない。
 もし我が、どこかに仕事に出かけて、一つの仕事を責任もって任されたりすれば、まず当面はそのことだけで手いっぱい、精神的にも精一杯となってしまい、とても趣味としも責任あるイベントの企画など不可能であろう。それはこれまでの人生経験からも間違いない。
 何であれ常に一つのこと、一つづつ順にしかできないのが我であり、自分でも何でこうなのか!!と呆れ自問するが、何か眼前のことに囚われてしまうともうそれしか考えられないのである。
 つまり、まず今気になる頭悩まず目前のこと、喫緊のことを終えない限り、次のこと、別のことには頭も行動も切り替われない。
 今は、我のような年代、高齢者でも、人て゛不足の社会だからおそらく選り好みしなければ仕事はいくらでもあるだろう。が、まずそうして定収を得たとして、休みの日に我は自らの趣味のことに向き合えるかと考えるとまずそれは不可能だと思える。
 おそらくその週一、あるいは二日の休日には疲れ果てて、ひたすら寝坊して、溜まった家事や掃除などだけで一日が終わり、とてもイベントの企画やその本番当日を迎えられるとは絶対に思えない。その確信がある。
 そんな器用な、いくつも同時同様にこなせる体力気力、能力も我には昔からないのは自分こそわかっている。そう、一つのことすらきちんとできない人間が、だ!!

 つまり、友が我に求める、平日はそうしたどこかに働きに出つつ、傍ら休日にイベントやコンサートの企画や出演も、など両立は我には絶対不可能であり、もし、我もどこかに仕事に就き、警備員でも交通誘導の仕事でも仕事を今し始めたら、もはや音楽活動も含めて、その仕事している期間は一切何もできないことは間違いないのである。

 そう、確かに、ヒトとしてまず為すべき当たり前のことをきちんとやって、生活の基盤を確立してから、趣味的な事にとりかかるべきなのである。それは我が内なる「社会的良心」、常識人が常に我に問い求めていることだ。
 が、これまでの内職的な仕事、家でできるネット上の仕事ならともかくも、どこかに出かけて他者と共に働く仕事に今就いたら、もう我はその期間は一切何もイベントの企画のみならずおそらくブログのようなことすら何もできないだろう。
 むろんこれでいいなんて毫も思っていない。ともかくどんな手段にせよ早く金を稼ぐ手法を見つけない限り、ほんとうに生活できなくなるし人生は終わりになってしまう。まさに困窮死して死まう。
 それはわかっているからこのままでいいとかなんとかなるなんて思っていない。ただ、先のことはわからないからこそ、先延ばしにせず、今できる、すべきことをまず優先しただけのことだ。
 このところやや年上ではあったけれど、周りの友人知人たちが相継いで鬼籍に入り、我の人生も残りすく無くなってきた感がひしひしとしている。
 人生が生きているウチの間のものだからこそ、どれほど生活が困窮しようとも、我は我の人生を形ある、為すべきものにしたいと願う。
 自らの生活だけではなく、カタチや行為としてその思いを世に残したいと願う。いや、残らなくてもかまわない。そうしたアクションをしたいと思う。
 人生が残りすくなくなってきた今だからこそ、我ができる、為すべきことを一つでもしていきたい。むろんそれが実を結ばなくても仕方ない。が、大事なことは、結果よりも、まず種を蒔くことではないのか。
 まだ蒔きたい種や、耕したい土地はいくらでもある。我の生活や実人生なんて本当にどうでもいい。そこに意味も価値も未練も我には何もない、
 我をとりまく、この無意識の悪意や敵意に満ちた世界に対して、まだ為すべきことと異議申し立てしたいことがいっぱいある。
 ます゛それを誰よりも無能で不器用な我だけれど、一人でやっていく。

12月15日のフリマとフォークコンサートのお知らせ2024年11月27日 20時50分03秒

★第二回目のフライヤーです↑

 先の11月27日の初回に続いて、同じ場所で、再度フリーマーケットとふゃーくコンサートのイベントを行います。
 今回の音楽のゲストは、ご存じ、笑えるダンディ・藤しんいちろうさんです。
 入場無料・投げ銭制ですので、どなたでもお気軽にご来場ください。なお、イベント自体は、午前11時から開場してますが、コンサートは、昼過ぎの12時半頃から午後4時過ぎまで休憩を挟んでやっております。
 ご来場者には、三留まゆみ特製のカレーライスが振舞われる予定です。
 音楽の出演者及びフリマの出店、出品者も募集中です。コンサートのほうは、当日飛び入りも可能かと思いますが、事前に連絡頂けると助かります。
 フリマだけでなく玄米や野菜の販売もありますので、バックご持参のうえお気軽にお越しください。

誰よりも愚かで非力な我だからこそ2024年11月02日 23時25分54秒

★残りの人生に何かを残したい。

 11月になった。自らの人生の先行きも見通せぬ者が、また何をやっているのか、と自問する自分がいる。
 世間的に言えば、悠々自適の自由気ままな年金生活者となる齢の我なのだが、若い頃からの放埓の挙句、ほぼ無年金で、今は、古本稼業も休止しているため、金の入る当てが一切ないニンゲンが、また金の出ることをやっている。

 生きてるだけで丸儲け、という言葉がある。確かに死んでしまえば何もかも終わりとなって無意味、無価値に全てがなってしまうのだから、どんなに苦しく大変な状況、状態であろうとも生きていることは素晴らしく価値と意味がある善いことだと同意する。
 今がどんなに苦しくても生きていれば、また新たな良い状況も起こるかもしれないし、その可能性はゼロである「死」に比べて確かに常にプラスである。
 が、このところの我の経済的状況、次々支払わねばならぬ出費を思うとき、丸儲けどころか、生きているだけで丸損ではないかと、思えてきた。そう、死んでしまえば、もう金はかからないのだから。

 当たり前のことだが、生きていくのにはともかく金がかかる。自給自足で何もかも自らやっていけたとしても、住民税、市民税、固定資産税などこの国はやたらと諸々の税金がかかるし、最低限でも電気、水道代、ガス代等は毎月出ていく。
 ほんとうにホームレスのような状態にならぬ限り、金は生きている限り必ず出ていく。そしてそのための金を稼ぐかどこからか工面せねばならない。
 どこかの無人島のようなとこで、人知れず一人で真に自給自足で電気も使わず生きていければ、金はかからないだろうが、この世界、社会で生きていくのにはともかく金がかかる。その意味で、老後働けなくなったときに、年金が支給される制度は、実に賢い知恵であり、素晴らしい制度だと今になって気がつく。ほぼ無年金者の我としては。

 何でまたこんな愚痴話を書いているかというと、また膨大な額の水道代の分割支払いの二回目が近づいて来て、憂鬱だからだ。どこからどうやって工面するか。
 バカ猫がしでかしたといいえ、気づかずにうっかり水道を出しっぱなしにしていたことから、夏前に18万円を超す使用料の請求が届いた。水道局と交渉の末、分割で支払うこととなって一回目は何とか振り込んだ。
 が、また近く二回目の4万円弱の水道料金をコンビニで払わねばならない。

 よく、金を無駄にしたときなど、金をどぶに捨てたようなものだ、とか人は言う。まさに今の我は、どぶではなく、下水に水を流しっぱなしにした結果がこの高額の水道料金なのだから、金を下水に捨てたというのが当てはまる。
 世にこんなバカはいないと思うし、自分でも呆れ果てる。
 たとえば、夏にエアコンなど使って、電気代が4万円を超したとしても、それは意味ある金の使い途であろう。高いと嘆いても、昨今の地球沸騰化の時代、そこをケチってクーラーを適切に使わねば命にかかわる。ならばそれは意味ある支払い、金の使い道だ。
 だが、我のようにただ無意味に、いや気づかずに、いったいどのくらいの期間、水道の蛇口から水が出しっぱなしになっていたかわからないが、そんな失態の結果、水道代が20万円ちかくとなったバカ者は、まさに金をドブならぬ下水に捨てたと言えよう。
 ほんとうに情けない。そんな金があったならば、ボブ・ディランの武道館のライブCD、コンプリートボックスセットだって買えたし、ギターもオーディオも欲しいものが何でも買えたはずだ。
 我はその金額を下水に流してしまったのだ。

 が、これが水だから良かったものの、火ならば、失火となり場合によっては火災が起きてこの家自体何もかも失う可能性があったわけで、その丸損の度合いが違う。
 世の誰よりもウカツで考えなしの我としては、この程度の損害で済んだならば、そして我はまだ生きてここに在るとするならば、善いことではなくても良しとするしかない。
 金を下水に流したとしても金はまた手に入れることはできる。もっとかけがえのない大切なものや、命や健康などを失ったわけではないのだから、愚かさの教訓、戒めとしてこれはこれで受け容れるしかない。この程度で済んで幸いだったと。

 かの良寛和尚も言っている。災難に遭うときは遭うがよろし、と。敬愛した色川武大も、禍福の量は人皆同じ、だと。ならば、災いのぶんだけまた 善いこともまたあると信じて人生を続けていくしかない。
 しかし、こんなバカは他にいないと思う。こんな過ちはフツ-の人は絶対に起こさない。他山の石にもならぬが嗤ってもらうためにもこれを書き記す。
 オレは本当にどうしようもない。

イベントを終えて思うこと、続き2024年10月31日 11時54分43秒

フリマに出品した文庫本など
★あと、もう少し続けていく、種を蒔いていく。

 27日の当日の朝、開場は、11時と告知していたから、その前にはフリマ用品の展示なども全て終えていなければならない。
 が、7時半に会場へ行ったら、オーナーは既に来られて、自らの出品するものを並べたりしていたので、二人で細かく内部の物品の移動や片づけに追われて、すぐにスタッフが集まる時刻の9時となった。
 じょじょに当日のお手伝いを頼んだ方は来てくれたのだが、あれこれ準備に追われるうちに気がつけば、いつしか開場時間となってしまい、気の早いご婦人方は、連れ立ってその前から来場してきた。
 その時点で、まだ建物門柱に付ける立て看板もできていない有様で、ホール内は、テーブルに物品はざっと広げたものの、並べるどころかまだ値札も何もついてもいなかった。
 幸い、この十数年来、疎遠となっていた旧友が訪れてくれたので、彼はすぐさま値札などの展示物の貼り紙類を担当してくれたし、女友達たちも売り子として来てくれたので、何とかかっこうはついてきた。※彼の家にチラシを撒いたからだ。
 フォークソングのほうも、I氏がPAを担当してくれてたので、我は、フリマなど他のことに専念することが出来てほんとうに助かった。
 ともかく始まってしまえば、人出も人手もあり音楽のほうも含めて何とか盛況となった。我がかけこみ亭でイベントを企画していたときからの友人もわざわざ足を運んでくれた。有難いことだ。

 そんなこんなで、当日開始時間まで、もうどうなることかと危ぶみ、パニック障害の発作起こす寸前だったが、多くの人たちのご協力で何とか無事に終えることが出来た。改めてこの場で深く感謝いたしたい。
 後片づけも人手があったので、一時間も足らずに、あっという間に皆で片づけてもらえ、ほんとうに助かり楽できた。
 今回の収益は、実質のところ千円にも満たぬ微々たるもので、まさに楼多くして、の感が強いが、元より儲けようとか、収益のためにやろうとしたわけではないから、それはまったくかまわない。
 ともかく青梅線という辺境の街で、市の行政や企業に頼ることなく場をつくり場を活かし、その地元の人だけでなく、他所からも人が集うよう呼び掛けるためにやっているのだから、これからももう少し続けていきたいと願う。

 親たちを喪い、一人となって生活も人生もハタンしてしまい、猫たちは増え続け、家は内外ゴミ屋敷となって一時期は、自らこの人生を終えることも考えた。
 が、ともかく死ぬのはまだ早い、もう少し生きて人生をもう一度やり直そう、取り戻そうと決意して未だその再建途中なのだ。
 正直なところ、こんなことをやってる、関わる余裕はないのである。自らの人生にもっと手をかけてきちんと「再生」させねばならないはずだ。
 またご近所から、嫌がらせの電話もかかってくる。じっさい、またも市の環境課に文句の電話したらしく、イベントの直前に、市職の若い男女がウチを訪れてきて、ご近所から苦情が出ているから何とかしろと申し入れしてきた。

 そう、本来はまず、自らのこと、家の片づけや新たな収入先の確保など、そちらを最優先すべきなのである。が、それと同時に、自分のことだけではない、別のこと何かをやらねばと思う。
 このまま死んでしまえば、たとえ家の片づけは終わったとしても、さんざんモノを増やしただけのヒト、でしかない。世をお騒がせしたたけで何も生み出すことなく。
 我には子もなく金も仕事もなく、友も少なく、才能も力も何も何一つない。だからこそ、自らのためではなく、人と人が出会い結びつけるような場、その仕掛けを作っていきたい。
 それは若い時からずっと願いやってきたことだ。そして老いてきた今、これが最後の、自らができることだと考えている。すべきことかどうかはともかくも。

 次回は、12月の15日の日曜。どうかこのブログをお読みの方よ、ぜひ一度はご来場願い、我に声をかけて頂きたい。我には何もないが、その場所は在るのだ。

人生再起動後、初のイベントを終えて2024年10月30日 23時45分52秒

★相変わらず労多くして益(儲け)無しのことだが・・・

 10月27日のイベントのあと、翌日は、さほど疲れは出なかったのだが、じょじょにどっと疲労感がつよくなり、この数日は、朝昼兼の昼食後は、いつしか倒れ込むように夕方まで昼寝するという毎日。
 夜も昼もひたすら眠ってようやく疲れはとれてきた。
 終えていま思うことと、これからのことについて記す。

 ともかく何とか無事に終えられて良かった、ということに尽きる。出品者も出演者も時間も何もかも足りない状況ではまあ健闘したのではないか、とオーナーとも確認し合った。
 繰り返しになるけれど、時間も人手もないままに、当日が来てしまい、その前の数日間は不安と心配で眠っても悪夢にうなされていた。
 ほんとうは、もう少し後に日時を伸ばしたかった。が、諸事情から10月末の日曜ということになってしまい、実質、当日まで一か月も準備期間がないところからのスタートだった。
 電気が点いたのが、やっとその週の月曜で、水道は火曜日からだったのだ。

 おまけに石破変節新首相の独断で、急遽、総選挙は前倒しになってしまいその投票日とも重なり、音響の担当の方は、何回かセッティングに来てくれて設営は助かったものの、後は、ほぼ我一人ですべてのこと、会場の掃除・片づけから建物の外の草むしり、宣伝告知のチラシ作成と配布、出品者などの手配までやらざる得なかった。
 そして改めて思ったのは、自分には何もない、誰もいないという無力感と無能さ、そして孤独感であった。まあ、それを再確認できたの良いことだったが。
 前日の土曜も、中野坂上の学生時代の女友達の家に出向いて、近く引越しするので不用品の雑貨類を、リュックと袋三つ、持てるだけ頂いて、何とかフリマの出品するものは集まった。
 その夜も夜の11時過ぎまで、自らの出品する、ますだあーと書店の文庫本などを平箱に6箱詰めて並べたりして、戻ってブログアップしてから寝たのは午前3時頃だったか。

27日のイベント、無事終わりました!!2024年10月28日 13時01分21秒

会場ホールの様子
★何とか盛況、成功したかと。

いよいよ明日、イベント当日だ。2024年10月26日 23時59分01秒

★やっと場所づくりはほぼ終わった。

 夜の11時近くまで、フリマで売る本を分別、箱に並べ終えた。あとは、他の売るもの、衣類や雑貨類をテーブルの上に明日朝から広げていくだけ。
 ようやく全体が見えてきた!

僕だけしかいない街で2024年10月24日 23時33分41秒

★今さらだが、もう一度、1から世界を作り直している。

 『僕だけがいない街』という、傑作SFサスペンス漫画があるが、この一週間、たった一人で、27日のイベントの会場となる、広い食堂ホールや建物内、庭先などを掃除していると、僕だけしかいない街で、という気分になってくる。

 その当日は、何人か我のごく親しい友人知人が、スタッフ要員として短時間でも来て手伝ってくれると思うが、会場設営までの下準備、掃除から宣伝まで実質ほぼ我一人でやらねばならない。
 そしてつくづく思うのは、我には何もない、誰もいない、という現実認識であり、この地に幼少期から住み続けて中学まで学校もこの街だったのに、我には友とか仲間と言うべきか、この事態に際し誰も助けを請う人は皆無だという事実である。
 改めてそのことに気がつきつくづく自分らしいと思えた。

 今回のイベントは、幸いにして音響関係は、地元公園で長く野外音楽イベントを開催しているI氏が、担当・協力してくれるので、我は「フォーク」に関してはお任せでき肩の荷はその分軽くなり大変有難いことだが、実際のところ、他のことは全て、場所の掃除から設営、宣伝、当日の進行、会計、そして後片づけまでほぼ全ては我一人でやらねばならないのだ。
 まあ、辛いとか大変だとか愚痴をこぼしたいわけではないし、我のようなどこでもいつでも嫌われ疎んぜられた者は、どんなに困窮した事態であろうと誰も助けてくれる人は昔からいないのだから、何を今さらである。
 そのI氏から言われたことだが、下準備で疲れ果ててる我を見て、どんなに大変かもしれないが、自らが蒔いた種なんだからしっかり刈り取れ、と諭され、正直なところずっとう~む。そうなのか!?と自問している。・
 そもそも種をまいたという気は毛頭ないし、行きがかり上、常に愚かで何も深く考えない我は、そうした空きスペースを使えて、何かできるのは誰にとっても善いことだと安易に思い、持ち込まれた話を安易に快諾して今に至ってるだけなのだ。
 そして刈り取るも何も、まだ種は芽も出ていないわけで、それを自己責任ということで求められても今は何とも返答もできない。

 ただ、何であれ一回こっきりで終わらせる気はないし、やるからには、何から何まで一人でタイヘンだとしても、せめて一年は続けたいと考えている。むろんそのイベントのスタッフ、関係者の多寡よりも、参加者の数と反応のほうが重要なわけで、いくらお茶お菓子をたくさん用意したとしても誰も来てくれなければ、イベントは失敗というだけのことだ。
 つまるところ撒いた種は芽を出さずにその地に埋もれたということだが、それもまたまったくの無意味だとは我は考えない。

 選挙も同様に、当選することや当選圏に肉薄することだけが価値や意味があるわけではない。
 どんな「泡沫候補」であろうと、その人を見てくれている人、一票を入れてくれる人は必ずいる。ならば我もまた、きっと誰かが来てくれると信じて、このブログもだが、見てくれている人がどこかに必ずいると願い信じてやっていくだけだ。
 誰よりも拙い我だが、今さらながら我のこの小さな世界を新たに作り直したいと考えている。

「泣いた赤鬼」のような気持で2024年10月23日 23時01分00秒

★一人で会場ホールの片づけを進めていく

 27日の日曜、本番当日まで残すは三日となった。が、未だ会場設営以前の状態、つまり場の片づけ、掃除にただ追われている。
 そして改めて思うのは、自分一人では何一つできないニンゲンが、たった一人でいったいどこまで何ができるのか、だ。

 『泣いた赤鬼』という童話がある。おそらく誰もが一度は読んだことがあるだろう。
 赤鬼は、人間と友達になりたくて、お茶とお菓子を用意して、人間が来るのを待っている。が、人間たちは赤鬼はとうぜん鬼だから、怖れて赤鬼のところへは誰も行かない。
 哀しむ赤鬼を憐れんで友人の青鬼は、一計を案じ悪役を演じて赤鬼を引き立て結果として人間たちは、赤鬼のところへ通うようになる。が、青鬼は、赤鬼の前から姿を消してしまう。赤鬼はその友の自らを犠牲にした友愛に気がつき哀しみ深く泣いた、というお話だ。

 一人で会場となる食堂ホールの床にモップかけしたり、折りたたみ椅子を雑巾で拭いたり、荒れ果て草ぼうぼうの駐車スペースの草むしりなどをしながら、ふとその童話を思い出した。
 そもそも何で、鬼のくせに赤鬼は、人間たちと友達になろうなんて考えたのだろうか。鬼は鬼だけで、人間などと交わらわずに山奥で静かに隠れて暮らしていればよいはずなのに。
 お茶とお菓子を用意して待ってます、と貼り紙したとしても鬼のところへは人はカンタンに足を運ぶはずがない。
 が、友人青鬼の一計が功を奏して、人間とはやっと友達になれたものの、赤鬼は、大切な友を失ってしまったのである。

 そしてまた思う。自分の今やってることは、その赤鬼の願いのようなものではないのか。しかも自分には彼を助けてくれる青鬼はいないのである。
 いや、我にも少ないが数人はそうした友はいる。が、今回はそれぞれ諸般の事情で、助けにも手伝いにも誰も来てくれない。いや、忙しく来ることが出来ないのだ。それもまた仕方ない。結果として青鬼を失わずに済む。

 そして気がついた。赤鬼は、なんで人間と友達になりたいなどと思ったのか。
 彼は自らの世界を広げたい、外の世界と繋がりたいと願ったからだったのだと。その気持ちは今の自分は痛いほどわかる。
 我もまたこの人間社会とは相容れない「鬼」のくせに、愚かにもまた外の世界とつながることを夢想してしまった。
 ならば青鬼のいない赤鬼は、たった一人で場を拵えて「フリマとフォークソングのライブ」をやります、皆さん来てください、とお客の来るのを待つしかない。