4月27日のイベントは、無事に終わりました。2025年04月29日 16時12分52秒

★おかげさまでまあまあの盛況となりました。

 一昨日、27日の日曜、昭島で我が企画・開催したフリマとフォークソングのコンサートのイベントは、三回目にしてやっと何とかイベントらしくなった。
 売り上げなどはともかくも人の出入りはかなりあり、フリマも含めてコンサートも今回はカタチになってきたというか、それらしいものにようやくなってきたと思えてきた。やれやれである。

 特に、コンサートの部は新しい参加者、歌い手も来てくれたし、これまででいちばん満足のいくものとなったかと我自身思える。
 売り場担当してくれたスタッフの話だと、来られたお客さんからも、これまでになく、次回はいつやるのかという、「問い合わせ」も多かったとのことで、このイベントは相応の反響はあったのかと思える。
 実に有難いことだ。スタッフの方々、出演者の方々、そして来られなくても宣伝・告知などにご協力頂いた方も多いかと思う。今さらながら改めてこの場で心より皆様に感謝御礼申し上げたい。
 けっきょくのところ、どれほど呼びかけしたとして、来る人は来てくれるし、来ない人は来ない、ただそれだけなのだ。もう期待も失望もしないしただ日々はたんたんと過ぎゆく。
 また再び会える人もいれば、もう今後も二度と会えぬ人もいる。そして新たに出会える人も。

 イベントの今後のことについては、今の時点では未定だとするしかないし、じっさいの我個人の気持ち、考えなどはまた別稿で書こうと思っている。
 今思うのは、何とか今回は成功の裡に無事終えられて良かった、というそのことだけだ。前回がひどすぎた。
 そしてこれでようやく真に自分のことにやっと向き合える、取り組めるという喜びに満たされている。

 今日も晴れて陽射しは強いが、湿度は低く吹く風は爽やかだ。見上げれば、庭の樹々は緑の新芽吹いて目に鮮やか。間もなく風薫る最良の季節の月、五月が来る。
 いまの春一番コンサートが催される、大阪服部緑地の野外音楽堂へと向かう道を思い出しながら、我はこの地、この場所で、もう一度我のうたと音楽にしっかり向き合いたいと思っている。
 そう、先ずは我が疾患、手の指を動くよう、ギターが再び弾けるように治してからだが。

 私ごとだが、先日25日に、吉祥寺の武蔵野公会堂で開催された、高田渡没後20年の記念イベントコンサート『高田渡うたまつり』に予約も前売りもしなかったが、季節的に何とか参加することができた。
 まさに神のはからいと思えた。

 これまでも繰り返しあちこちで記してきたことだが、今我がこうしてここでこうやっているのは、すべて20年前、追悼イベントで亡き高田渡に呼ばれたことがきっかけだった。
 そしていま再び20年目にしてまた彼に呼び戻された気がしている。
 
 聖書外典中、聖ペトロが、ローマを見捨てて逃げ出そうとしたときに、アッピア街道で、再び主イエス・キリストに出会ったときのように。

ようやく人生がほんの少しづつだけど動き出した感2025年04月23日 23時22分10秒

★ともかくまずは、27日のイベントを終えてから

 なかなか拙ブログ更新できず申し訳ない。
 27日の昭島でのフォークソングとフリマ&猫カフェの準備に追われていることと体調ももう一つで、休み休みすぐに横になってしまうので、気は焦れども何事も思うように進まず、なかなかこの場で状況説明に至る時間さえとれないでいる。
 誠に申し訳ないが、ようやく、ほんの少しだけどモノゴトが動き出した感がこのところしている。
 というのは、そのイベントについて問い合わせも少しだが届き、今の感触では前回よりはお客も含めて参加者は増えそうな気がしてきたからだ。

 前回のときは、それなりに自分としては、宣伝告知に努めた気でいたのだが、結果としてお客もうたの場の出演者も誰も来ず、実に惨憺たる有様であった。
 それはつまるところ、自分のしていること、存在自体が不要、無用ということに他ならず、そのことを眼前に突き付けられると、さすがに生きるのが辛くなる。
 というのは、我は、昔から自らが常々自分の存在、やっていることに対して懐疑的であり、無能・不要の存在ではないかと疑って生きてきたわけで、それが現実の事態として「証明」されてしまうと、それでも平然とこの先生きていけるか自信が揺らぐ。
 願わくば、前回より一人でも参加者が増えて、盛況に近づければとただ祈り願うが、そのための努力はまだまだ足りないしできていない。

 相変わらず、両手の指は痛くてろくに動かないし、体調ももう一つで、やるべきことは山積しててもそれを片付けるのは、この非力な我一人だからなかなかその山は崩せない。
 いまこれを記すのは、水曜23日の深夜で、幸いまだ本番当日までは3日あるから、会場設営も含めて、もう少し宣伝告知など呼びかけの準備も進められるかと思う。
 願わくば、前日までにフリマの部だけは、商品展列など設営だけは終えて、後は当日になすべきことだけのところまで進められたらと願う。
 幸い明日は、近くに住む友人が午後からその作業のお手伝いに来てくれるので、明日中にフォークソングの部も、スピーカーのセッティングまで終えられたらと思っている。

 フランシスコ教皇の逝去、カトリックでは、「帰天」と呼ぶのだが、様々な思いがわく。哀しみ以前にその生き方に今更ながら感嘆驚嘆している。
 菊池枢機卿もかねがね語っていたが、ほんとうに気さくな清貧そのものの人柄だった。本来保守本流のカトリックという堅苦しい組織の中で、高齢ながらあれほど自由にかろやかに、この歪んだ社会に対して多々発信し自らも行動し、まさに主の御心のままに生きた教皇はもう二度と出ないのではないだろうか。
 我もまた、主のしもべの端くれであるとしたら、彼のように死の前日までも愛と慈しみ、寛容の精神で、残りの人生を生きられたらと思い新たにしている。

 何はともあれ、まずはその27日の昭島での我がイベントを何とか実りあるものにできたらと願っている。
 そして終えたら、きちんと医者に通って痛風も含めてとことん身体全体を治して、これから精力的に「発信」していこうと考えている。
 思いは多々あれど、それは内に抱えているだけでは、誰にも伝わらないし届かない。
 自分にできることなどたかが知れているが、もう一度この拙い人生を動かして、外に繋いでリンクさせて、ほんの少しでもこの歪んだ世界を変えたい、動かせたらと願う。
 思いは多々ある。そして何よりこの我の裡には多くの「物語」がある。そうした思いを秘めて抱えたままで死ぬわけにはいない。

 我は非力ではあるけれど、無能だとは思わない。自分には自分だけの思いと「物語」がある。
 そうしたものを、文字に、うたにして、誰も読まない、聞かなくてもカタチにしていきたい。世に示していきたい。
 そう。亡きフランシスコ教皇に倣って。アクションあるのみだ。

 27日のイベントも含めて、お付き合いして頂ける方は有難い。

まずは、自分を、健康を取り戻していくことから2025年04月16日 16時26分42秒

★節酒して、まず痛風の指を矯してからだ。

 これまで我の破綻した、いや自らハタンさせてしまった生活を取り戻すとか、人生をやり直したいとか散々書いてきた、と思う。
 が、いまはともかく手の指の腫れと痛みを治すことが先決だとつくづく思い至っている。

 昨年の暮れ、谷保かけこみ亭での太田三造コンサートを企画した。
 みほこんや館野公一さんら、我らの盟友もかけつけてくれて、熱心な太田ファンと共に、楽しい善いときを過ごせたのだが、打ち上げ終えて帰り際のこと、店内でみほこんから指摘された。
 「マスダさん!! その手の指、どうしたんですか!?」と遠目からだったが、我の手を見た彼女が叫んだ。
 そんな指ではギター弾けないでしょう、とも言われたが、確かにその頃も今もギターは弾けていない。指が腫れて関節が曲がらず痛くてコードが抑えられないのだ。
 ケアマネージャーでもある、彼女はそのとき、そんな指になる理由として三つあげてくれて、そのどれかだからすぐに病院に行って、まず血液検査しなさいと強く忠告、進言してくれた。
 そのとき言われた三つの「原因」のうち、先の二つは失念してしまったが、最後の一つは、「お酒の飲みすぎ」とのことで、今頃になって、まさに正鵠を射たご指摘だったと有難く思う。
 要するに、尿酸値が上がってしまい、それが指の関節部位に溜まって痛みを伴う腫れとなり、指が全体として膨れてしまっていたのだ。

 そのときは、正直なところ、大した事態ではないと思っていた。痛みもさほどではなかったし。
 が、今年に入って、自らもコンサートの場でギター弾いて唄おうと考えて久々にギターの練習を再開してみたのだが、まず左手でコードが押さえられない。指が痛くて曲げられないのである。
 ※我は、元々は左利きだったが、右利きに矯正して今は、文字を書くのもギター弾くのも、右手用でやっている。
 だから、左手でコードを抑えるわけだが、人差し指が腫れて痛みがあり、曲げられないと言うべきか、痛くてうまく抑えられないのである。
 敬愛するさこ大介大兄のように、ぜんぶハイコード、バレーで抑えれば何とか弾けなくはないと思えるが、問題は、爪弾く右手の指もまた痛くて、うまく動かせない。
 思えば、昨年?の何月だったか、どこそこで一度ギター弾いて唄った時も、何かうまくコードが押さえられなかった。今思うとその頃からこの症状は始まっていたのだ。

我が最後のイベント、最後の企画にどうかご参加ご協力を2025年04月06日 23時41分57秒

★4月27日(日)、もう一回だけまた昭島でやります。

 ようやく体調は戻ってきた。というか、小康状態で、この先のことは何とも言えない。
 いま、ちょうど桜が満開である。その花を眺め見上げては、今さらだが、新しい年の新しい春が来たとしみじみ感じている。
 何とかまだ生きている。

 先にもちょっと載せたが、今月末の日曜、4月の27日に、また昭島で、フォークソングとフリマのイベントを企画している。
 毎度のことだが、犬も我も体調悪かったりしてたので慌ただしくて取り組みがまたもや遅れてしまい宣伝告知もままならない状況だが、ともかく第3回目をこれまでと同じく空き家となっていた社員寮ビルのホールで開催する。
 前回のときは、一回目よりも参加者もお客も少なくて、イベントは大失敗となったわけだが、懲りずにもう一回だけ企画して、やはり同様の状況ならばたぶんこれで最期となるかと思う。
 個人的には、地元でこうしたイベント企画を続けていきたいと願う気持ちは強いが、我個人でやっていくには、体力的にも経済的にも時間的にももはやそろそろ限界に思えてきている。

 気持ちとしては、どこでやるにせよ、不特定多数の人を集めるこうしたイベント企画は、もうこれで終わりだろうとそんな気持ちでいる。
 そして、音楽との関わりにおいて言えば、盟友太田三造の初CDを何をさておきまず完成させてその先のことは何も考えていない。
 たぶん、古本屋に戻らなくても本に囲まれて、誰にも会わずにでかけずに在庫処分というか、ひたすらたまりに溜まってしまった物ものを処分・片づけに専念して残りの人生を費やすべきかと考えている。

 今日、大学時代の友人の訃報が届いた。学生時代はとても仲良く、彼の下宿のみならず実家にも遊びに行ったほど親しかった友だ。
 が、近年は疎遠となり、もう十数年音信不通だった。だいたい我には今も連絡とってる学生時代の友は数人しかなく、同窓会的な集いや連絡網はないので何も誰も一切連絡してこない。※まして、こちらから連絡とろうとすると、もう連絡してくるな、というメッセが逆に届くほどに。
 年下の後輩から、もうご存じのことだと思うけど、という前起きのメールが今日来て初めて知った。闘病中だったことも何一つ知らなかった。

 こうして櫛の歯が欠けるように、一人ひとり死んでいく。我も近いうちに
 我は、若い時からこれまで野放図に好き勝手、自由気ままに生きてきた。が、親たちもいなくなり、その保護下で許された自由だったのだから当然行き詰った。
 そして今、どうにもならなくなった人生に今更ながら向き合い、もう一度人生をやり直す、というべきか、きちんと生き直す、取り戻したいと強く願い思っている。
 世の人ならば、もはや悠々自適の余生の齢になってからだ。笑い話にもなりゃしない。

 玉手箱を開けた浦島太郎のその後の人生はいったいどんなだっだろうか。海の底で遊び惚けて気がついたら老人になった太郎は、それから先もどんなふうにどれだけ生きたのか。
 我もまた「その先」、いや、この先について今さらながら真剣に考え始めている。
 
 ともかく我の最後のイベント、4月27日、何とか盛況・成功させて幕を下ろしたい。また無能と非力さの苦い味は噛みしめたくないが・・・
 お時間のある方、どうかぜひご来場お願いします。

さあ、もういっぺん2025年04月01日 23時53分20秒

★気がつけば今日から4月

 そう、もたもたしていたら、新年になったと思ったら、早や三か月が過ぎてしまい今日から4月である。もう今年も四分の一が終わってしまった。

 愛犬の病気、傷も癒えたので先月の23日、久々に都心に出て、東中野じみへんでの太田三造さんの定例ライブに顔出してきた。
 彼のCD製作に向けて、下準備のためにも久々のじみへんである。
 コンサート自体は、何も問題なく、善い旧知の仲間たちと太田さんのうたを共に楽しんだのだが、何故か終わってものすごく疲れた。

 コンサートが始まったのが、諸事情で遅れたため、終わったのも遅くなったこともあるが、こちらは何もせずただ座って観ていただけなのに、強い疲労感に囚われて帰りはフラフラで意識朦朧気味で何とか無事家路についた。
 まあ、朝から何も食べずに昼には家を出て、店でも何も口にしなかったから空腹と脱水症状に襲われたのかもしれない。
 しかし、実はそれから一週間もずっと体調が悪かった。ともかく疲れやすくて起きていられないのである。さておき・・・
 
 そのライブで、彼は、最後のほうで観客のリクエストに応えて、『唄う古本屋』という曲を唄った。
 ご存じの方もいるかと思うが、その曲は、今から十数年前、彼と我が知り合って間もない頃に、彼が我のことをモデルにつくった歌で、当時の我の有様や心境をうたにしてくれたものだ。
 その頃は、毎年年末のクリスマスの頃には、拙宅の大広間で、誰彼かまわず声かけて謝恩パーティを開いてよく唄ってくれていた。

 が、ひさびさにそのうたを、じみへんのライブでじっくり聞いて、我は非常に居心地が悪いというか、この身が切り刻まれるように辛く苦しい気持ちになった。
 というのは、その頃はそうだったのに、今の自分はそうではなくなってしまった、その唄にはもはや我はいないということだ。
 当時は確かにその唄の通りに思っていたはずなのに、この歳月の間にすっかり何もかも変わってしまったのだ。

 正直な気持ちを言えば、もう本はその唄に歌われるようにはさほど好きではないし、何より古本屋でも今いまはないし、なにより我はもう唄ってもいないのである。今の我が、昔の自分のことやその心境を思い返すとき、現実、現況とのギャップに傷つき苦しむという気持ちか。
 もはや親たちもいなくなってしまったし、そのパーティを開催できたスペースの部屋は、崩れた本の山で足の踏み場もない有様のままで、入ることもままならない。その当時の頃を思い出すとほんとうに情けないに尽きる。
 いったいどうしてこんなことになってしまったのか。

 その理由をあれこれ書いたとして何一つ解決も改善もしやしない。
 ただ、その歌を久々に改めて聴いて、本に対する気持ちや状況は変わってしまったとしても、もう一度あの頃のように、再び拙宅で友たちと集い、楽しい音楽の場を持てたらなあと思い直した。
 唄う古本屋でなくなってしまったとしても、「うた」とは死ぬまで関わっていきたい気持ちは変わらないし、唄う何者かにはなれるかもしれない。
 今さらながらだが、もう一度この人生を取り戻したい。生き直したいと今強く希う。そのことをこの歌は思い知らせてくれた。

 自分がモデルになってるからといって、たかが歌なのである。自分とは関係ないと一笑するなり高を括ることができれば済む話なのだ。
 が、歌い手が力があると、そのままこちらにその当時のことがありありと迫って来て、我は責められる思いで苦しくなったのだと今気づく。
 そう、たかが歌なのだ。がされど、それも歌なのである。太田三造恐るべし。

もう一度「人生」を取り戻したい2025年04月01日 23時39分27秒

★『うたう古本屋』の頃に戻していく

 昨日の夕方から、春の雨らしいさほど強くない雨が今夜もずっと降り続いている。
 春先は雨が多いのは毎年のことだが、雨の日はやはりうすら寒い。が、先日までの晴れた日中は汗ばむほどの夏日よりは、自分にとっては好ましい。これが本来の今の季節の気温だろう。
 あのまま春など来ないで暑くなって、それが今年も11月頃まで続くのではないかと非常に危ぶんでいた。
 そうなると一年のうちの四分の三は、夏ということになり、冬は来るだろうが短く、春と秋は合わせても一か月あるかないか。
 じっさいこのまま地球沸騰化が進めば、近い将来そうなる可能性は高いだろう。異常気象は恒常化し、災害は多発して水不足と食糧危機がさらに世界中を覆う。
 我々はいまほんとうに大変な危機的な時代に生きている。そのことに思い至らぬ者は、米国の現大統領を筆頭に大国の為政者に多い。情けないこっちゃ。
 戦争などやっている場合ではないのだ。自分の国だけが栄えたところで、他国も含めて地球全体が衰亡していけば一国だけでどうやって生きていくのか。
 ほんまエライことでっせ、責任者出てこい!! と昔の上方漫才のように叫ぶ以前に、そう、何をエラソーに言ってる自分、我が身のことがまず先決である。

イベント2025年03月29日 16時02分41秒


ようやくすべてが一段落2025年03月25日 17時33分17秒

★今さらながらがんばります!!

 慌ただしいのは相変わらずだけど、犬の傷も癒えて今は梅干し大の大きさにまで小さくなり回復してきました。やれやれ。ご心配多々おかけしました。
 そんなこんな年明けからいろんなことに囚われて、何一つ自らの為すべきことはできなかったのだけど、ようやくやっと自分のことに向き合えると思います。

 まずは、また昭島でのフォークソングライブのイベントが来月の27日にあります。たぶんもうそれで終わりの回となるかもしれないので、ぜひ皆さんのご来場、ご支援、ご協力お願いします。
  
 詳しくは後ほどチラシを掲載します。

愛犬の病気に関して、経過報告3・とりあえず終り2025年03月13日 00時29分58秒

★やっと一段落~ほっと一息

 2月のあたま、愛犬ベルコの身体の異変に気がついてから一か月以上過ぎた。
 元からあった左肩のコブ=腫瘍に雑菌が入り、化膿してついに破裂した。その後、コブだった袋は、乾いて干し柿のようになり、やがて外れ落ちてコブのあったところは丸く、そのまま赤向けの肉が剥き出しの状態となった。

 コブ自体が、大人のこぶし大ほどもあったから、その赤みの肉が丸見えの状態、傷口はかなり大きく痛々しく、ヒトを驚かせて目のやり場に困るほどだったが、今月に入ってから周りの肉が盛り上がって来て、だいぶ小さく縮んできた。
 これまで一か月以上、朝晩飲ませていた抗生剤も先日やっと中止になったので、心配していた水の多飲と結果として多尿も収まるかと思える。
 やれやれである。おそらく今月中には、その傷口もふさがり、やがては毛も生えてくるだろう。
 いろいろご心配おかけしたかと思うが、とりあえず現時点では、回復の一途であることを報告したい。高齢の犬であるから今後また新たな異変や異常も起こることは覚悟しているが、今はホッと一息ついている。
 病膏肓に入る、という言葉もあるが、今回は、肉と皮膚の間の腫瘍で良かった。もし体内、内臓だったらその腫瘍が破裂したら即死していたことだろう。
 今回は、生き永らえた。我もまた一日でも長く生き永らえたい。

 それにしても先のことはまったくわからないと改めて思う。新しい年になり、今年こそはと昂る気持ちはあったのに、タチの悪い風邪に罹り、咳が止まらず1月はずっと寝込んでしまい、さあ2月からは、と思ったとたん愛犬の病気である。
 早朝からの病院通いと薬のせいで連日連夜の水の多飲による排尿の散歩で家の片づけや自分のことどころか猫たちの世話以外のことは何一つできなかった。
 我もいつでも起きれるよう服のまま横になって、自らの食事もろくにとれないほど慌ただしく忙しかった。睡眠不足でいつも頭が痛くふらふらだった。
 母が死ぬ前も、ウチで我が看護していたから同様な状況で、下の世話の都度真夜中でも起きたことを今回思い出した。

 こうしたときいつも思うのは、我も妻帯して家族がいたら、ということだ。結婚しなかったことを後悔はしていないが、現実の話、我一人で誰か他者を介護するのは限界がある。
 介護や看護ということは、ワンオペでは当然無理なことで、老老介護でなくても昼夜それを一人でやってると疲れ果て気持ちも倦み、やがてはこちらも倒れてしまうのは間違いない。
 妻でなくても他に誰か家人がいたら分担してやれるはずだし、金さえあれば看護士のような人にヘルパーとして長時間来てもらうことも可能だろう。
 むろん今でも人間ならば介護保険の範囲内で、訪問看護など来てもらうこともできるが、ペットなどはそうはいかない。動物病院やそのたぐいの施設に預けることも可能だけれど、保険がないのでものすごく費用がかかる。
 そして他者を介護する以前に、一人暮らしならば自らが体調を崩したときいったいどうしたら良いのか、だ。

 コロナでなくても風邪などで高熱が出たときなど、一人暮らし等で辛く苦しい心細い経験をしたことは多くの人があるかと思う。
 自ら身動き取れない状況、状態に陥った時、いったい誰に助けを求めるのか。ケガであろうが病気であろうが、自分で救急車など呼んで通報できるときはまだ良い。
 高熱や脳梗塞などで意識がなく、おそらくそれもできないときは、自力でどうにかすることは不可能なのだからそのときはただ結果として死あるのみか。
 ♪自由とは失うものがなにもないことさ、というフレーズがあるが、一人は気ままでとことん自由だけれど、失うものがないのではなく、最後は一人で命を失うのだと今は気がつく。
 その覚悟はできているか。自問している。

 我には両親という家族があった。が、親はとうぜん子より先に死んで、我は人間一人になってしまった。
 幸い唯一の家族である犬はいて、大病はしたけれど無事に回復しつつある。有難いことである。命の大切さを今かみしめている。
 これから一日一日、我にとっても残された日々を大切にして生きていきたいと今さらながら思っている。
 独り者の方、ご自愛ください。我もまた。

3月に入った。ようやく季節も動き出した。2025年03月05日 23時35分45秒

★久々の本格的な雨が降り続く

 なかなか拙ブログ、更新できずに申し訳ない。
 先月、2月中は、記憶にある限り雨らしい雨は一回も降らなかったが、今月に入り一昨日から久々に本格的な雨が降り出し、ときに霙や雪交じりの雨が雨が降り続き、ようやく季節は春へと動き出した感がある。

 昨日は、午後から粉雪が降り続き、我が多摩地方では数センチは降り積もったが、やがてすぐに霙や雨に変わったので、朝起きたら道には雪は残っていなかった。
 この先も雨もよいの日が予報では続くようだ。春は三日の晴れなしと昔から言われるが、ようやくカラカラに乾いていた冬は終わり、本格的に春へと季節は動き出した。
 我もまた今さらだが、気持ち新たにがんばろうと思っている。

 まず我が愛犬、ベルコのことを記す。

 2月の2日に、前からあった左肩のコブの異変に気がつき、病院通いが始まってもう一か月が過ぎた。
 当初は、人間の大人のこぶし大にまで大きくなり、膨れて固くなっていたコブ、腫瘍は、破裂して中身が飛び出し、その後、その袋の中の部分をひたすら洗浄、消毒の治療を続けていたが、やがてそのコブ部分も干し柿のように乾いて縮んできて、今はそれがとれて赤い肉の部分が剝き出しになっている。
 大きさは、8㎝×6㎝はあるだろうか。、コブがあったところ、ほぼ円形の穴が肩に大きく開いている。画像をアップして載せても良いのだが、痛々しくギョッとさせてしまうのであえて言葉で説明するにとどめておく。
 当人は特に痛がってはなく、医師の話では、しだいに肉が盛り上がってその穴=傷口が小さくなっていくのを待つしかないとのこと。やがてはそこに毛も生えたとき、完治したと言えよう。まだまだ一か月はかかるだろうが。

 体調的には、もうほぼ以前と同じく体力も食欲も戻り、心配はなくなったのだが、相変わらず薬のせいで、異常とも思えるほど水の多飲とその結果として多尿が相変わらず続いている。
 ただ多少はそれも減ってきたのか、以前は真夜中でも一度起きて、水飲みと排尿の散歩に起きなくてはならなかったのが、このところは朝6時半~7時頃まで、ベルコは騒がずに寝てくれるようになってきた。
 また動物病院が開いている日はほぼ連日通っていた傷口の洗浄、消毒のための診察も、やっと3~4日おきに、と間があくようにもなった。
 むろん日に二回、感染症の抗生薬を飲ませるのと、自宅での消毒作業は続けなくてはならないが、当人も以前と同じく元気になったし、今回の病気は経過観察の段階に入ったと言えよう。

 そんなこんなで、2月中は、愛犬の看病、病院通いに毎日振り回された。毎日数時間おきに散歩と夜中も起きるのと、朝も早くから病院前に並ばねばならず、そこに猫たちの世話もあって多忙というか断続的に眠るしかなく、睡眠不足でふらふらで何一つできなかった。
 ベルコの治療費、一回行くと3300円である。保険もないから仕方ないのだが、それに薬代や検査代も加わり、カード払いで支払い終えてまだ合算計算していないが、先月だけで10数万かかったことは間違いない。
 収入のない身には予想外の出費で、まったくもってカード引き落とし日には頭が痛いが、それもまたベルコの命のためなのだが仕方ない。
 いまの我にとってもはや唯一の家族は犬のベルコさんしかいないわけで、その命を伸ばすためならば、どれほど金がかかろうと惜しくはない。

 お前には、たくさんの猫たちもいるではないか、と言われようが、猫は家族ではない。例えていえば、賄い付きの下宿人、しかも家賃も払わず自由気ままに好き勝手し放題の手のかかる下宿人でしかなく、彼らは家族ではない。
 家族というのは、互いに気遣い認め合い信頼し合う関係があるかどうかで、犬は、昨今人気の超小型犬はどうか知らないが、常に人間のことを思い愛情もってこちらに返してくれる。こんな我を心配してくれている。

 先年、母に続き父を亡くし、唯一の血縁は、遠く離れた九州大分の山奥に妹が一人いるが、今この家で共に暮らす家族は犬のベルコしかいない。
 その家族がいなくなってしまえば、我は、本当に一人となってしまう。今、毎朝きちんと起きて散歩したり買い物に行くのもベルコがいるからで、彼女がいなくなれば、我は果たしてそうしたルーティンの日課をそれからも築くことが出来るかわからない。その自信がない。
 朝も起きることなく、猫たちが空腹で大騒ぎしようともう一切何もきちんとやらなくなるのではないか。

 ベルコもまだ本格的老いは見せてはないが、もう若くはない老犬なのだ。今回の病気が癒えたとしてもあと何年生きるかはわからない。
 残された共に過ごす日々を一日一日大切にして我も生きたいと願う。

 ともかく突然の愛犬の病気に先月は戸惑い振り回されたが、ようやく春三月、気持ち新たにもう一度人生再建に取り組んでいきます。