持つ者と持たざる者と・後2016年01月11日 18時24分44秒

★不安と憤るような気持ちは消えやしないが      アクセスランキング: 122位

 トラブルは我が影法師 とは言ったもので、バカでだらしなく考えが甘い故に、いつだってどこかしらで必ず失態失敗をしでかす。繰り返す。
 まあ、今回の山梨の古民家の空き巣騒動も、ある意味起こるべくして起きたことだと今つくづく思う。そして被害は今のところないに等しい(と思う)わけで、ならばこの程度で気づき済んだことはとても良いことだと考えている。
 ただ、こうしたことを書くと読まれた方が心配し心痛めてしまうことも多々あり、それもまた本意でなくただ申し訳なく思う次第だ。貴方のやさしさこそ貴方の宝であり大切にして頂きたい。

 このところずっと頭の中で、寝ても起きても念仏のように唱えていることがある。それは「全てを受け入れ全てを赦し、全てに感謝していく」ということで、どんなことが起ころうともただそれを受け入れていこうと覚悟した。
 この世のこと、起こることはすべてに意味と理由があり、無駄や無意味なことは一つもない。事故や老いも病も死すらもそれはメッセージであり、そのことから気づき学び得ることは必ずある。
 ならばそれは悪いこと、否定すべきことだと考えるべきではないし、そのトラブル、難事の中において、意味を問い、成すべきことを模索し全力で対処したり立ち向かうだけの話だ。

 しかし、そう頭ではわかって言い聞かせていても何かトラブルや事件、頭を痛める問題が起こると心は乱れ激しく動揺し気は転倒、パニック状態に陥ってしまう。
 もっと何ごとにも動じない肝の座った男でありたいと願うが、こればかりは我の根本的資質の部分のところにある弱さ、問題点なわけでどう矯しようもない。できることはそうした弱い人間だと深く自覚し弱さをみつめていくだけだ。
 そして何より注意しないとならないのは、我の場合、いや、人はおうおうにして、不安や哀しみなど負の感情を怒りや憤りに転嫁させてしまうことが多々あることだ。そしてその怒りやイラつきで他者を傷つけてしまう。
 起きないことは起きないわけで、起きてしまったことは誰のせいでもないし、しいて言えば起こるべくして起きたことだったり、まったく理解できない想定外のことすらまま起こる。その気持ちは胸に溜まり心が張り裂けそうになると、大声で泣くならばともかくも怒りや憤りとして爆発させてしまうことが我もまたよくあった。

 今もまだ、古民家のこと以外にも憤るような思いやうまく処理できない哀しみ、説明できない不安が心の中に渦を巻いている。だが、だからこそ、そうした感情を外へと他者へ転嫁させるのではなく、不安は不安として、哀しみは哀しみとして真正面から見つめていきたい。
 まあ一番よいことは、そうしたことは意識せずに、あまり深くは考えず囚われ縛られることなく、時間に任せてやり過ごすことだろう。

 元旦に来た年賀状に、今年は断捨離に徹底します、と新年の抱負を記された方がいた。もう何年も前からそうした「捨てる技術」がブームになり、今やそれが「終活」まで行きついた感がある。
 むろんそうしたい方、その時間があってそうできる方はそうすべきであろうし、とやかく人様のことは言う資格もない。が、ものでも何でもあれこれ抱える身として、今まで何でも捨てないで抱えて来た者として、嗤われるだろうが捨てないこと、抱えていくことへのプライドがある。覚悟もできた。
 溜め込み死蔵することは論外だが、あれこれ持っていて、あれこれあったとしてもそれはそれで決して悪いことではないだろうと。誰にも迷惑かけなければ。そう、ない、よりも、ある、ことのほうが良いに決まっている。違いますか。

 このところ、D・ソローの本などをまた折々目を通しているが、まさに正論だと思うし彼のようにシンプルに生きたいとも思うが、それは孤独に耐えうる強さがあってのことだと気づく。
 我のように、万事何ごとにも弱い人間は、人間関係も含めて多くの人と関わり有象無象の多くのものを抱えていきていくしかないのかと思う。
 それで後に残されたものがどれほど苦労するかって!? 確かに妻や子孫がいれば彼らに迷惑もかけるだろう。が、やがて天涯孤独の身となる者として、生きることが捨てていくことならばそもそも生まれてくる意味なんかないじゃん、と今は思っている。
 嫌だって人は裸で生まれて裸でまた死ぬのである。わざわざ断捨離などというブームは家族あっての人に向けた政府のマスコミ操作ではないかと訝しく思っている。

持つ者と持たざる者と・中2016年01月09日 22時41分03秒

★空き巣事件の経過報告             アクセスランキング: 122位

 先にも記したが、年明け早々、今月半ばより母が抗癌剤投与のため入院するので、その前に少しでも免疫力を高めようと、昨年秋より時間があればせっせっと山梨へ、増冨ラジウム温泉に通っていた。だが、認知症の父は東京に残してのことなので、常に慌ただしく朝出て夜早めに戻る日帰り行であった。

 クリスマスの忘年会ライブパーティのあとに、久々に一人で、向うの古民家の中を片付けに泊まり込みで行った。そのことは既に書いたが、実はそのとき、向うの家の玄関の鍵がかかってなかった。着いたとき玄関の引き戸は閉まってはいたが無施錠であった。おやっ?と思った。
 帰るときはいつだって、電気のブレーカーを下して、水道の元栓も凍結しないよう閉め、カギも施錠して後にする。ただ、そのときは、不審に思ったが、何しろ古い家で、玄関は引違いのアルミ戸だが、カギの調子も悪いので帰るときにかけたつもりだがよくかかってなかったのかと思った。
 むろん室内も確認して、何か盗られたものや荒らされたり異常はないか二階も含めてよく確認した。しかし、何も変化はなく、元々そこに現金や貴金属類など金目のものは一切何も置いてないこともあり、もし誰かに入られたとしても盗まれるものはないと考え気にはしなかった。
 帰るときは、もちろん鍵はかかったか、しっかり確認して東京に戻った。
 
 そして正月明けて、四日の月曜に、甥っ子もそこ山梨へ行ってみたいと言うので、彼を連れて母と三人で新年早々だが出かけた。
 向うに着いて鍵とりだして閉まっているかと戸を引いたらまた鍵はかかっていない。暮れに来たときしっかり閉まったか確認したことは間違いない。ということは誰かが開けて中に侵入している。前回のことも考えればこれで二度目ということだ。そして鍵かけずに出て行ったのだ。いや、もしかしたらまだ中にいるのかもしれない。ドキドキした。
 甥っ子を伴い室内を全部確認した。誰もいないし前回と同じく荒らされたりなくなっているものなどの変化は感じない。しかし、二階の窓には鍵がかかっていなかったことが判明した。

 それから皆で増冨の湯に行ったが、風呂の中であれこれ考えた。旧い家で、鍵は前の持ち主のつけたままだから誰か他にも持っている者がいたとしてもおかしくない。だが、ならばきちんと鍵かけて出るだろう。開けっ放しにはしないはずだ。
 ということは、鍵を持っていない人間が、窓からとか入って、何食わぬ顔で玄関から出たということの可能性が高い。あるいはピッキングの可能性もある。鍵はないから戸には鍵がかかっていないままなのだ。

 以前、やはり空き巣に入られた経験を持つ女性に戻ってから電話で相談したら、(警察からの話として)泥棒は入ったところから出ることはなく玄関から帰ること、そしてプロこそ現金や貴金属以外のものなど一切手を付けないことを知らされた。そして二回も鍵が開いていたことは、もしかしたら二回、別々の空き巣が入っているのではないかと。あるいはそこに住み着いて泊まりに来ているのではないかと。

 生活臭は何もなかったから、留守の間に入り込み誰かが勝手に泊まっているとは思えないが、やはり不気味である。世間から見れば無価値の古本や古雑誌が山積みされた室内の散乱さに呆れて何も手つけず盗られたものはないとしたとしても勝手に無断で入られるのは愉快ではない。対策を立てねばならぬ。このままほっておけない。

 その日は、二階も含めて全ての窓や戸が中から閉まっているか執拗なほど確認して、玄関には鍵閉めたうえ透明テープでサッシ枠に引き戸を固定させた。そのテープを剥がさない限り中には入れない。鍵を持つものが入ればテープは剥がされているはずだ。

 小心な我は、戻ってもともかく古民家のことが気になっておちおち夜もよく眠れなかった。玄関戸のテープが剥がされている様や、入れなくなったことに腹を立て?放火されている夢すら見た。引き戸自体取り換えることや、付いている錠前部分を外し新しいしっかりしたものに換える方法などもネットで調べ確認した。その場合、自前でその交換作業をやっても部品代だけで一万円は軽くする。
 けっきょく、今ここではどんなシステムか明かせないが、ネット上で調べたさほど高くはないが、堅牢な引き違い戸用ロックキーを取り寄せて、それが到着したので大急ぎで出向いた次第。

 幸い向うに着いても今回は鍵はかかったままだったし、貼っておいたテープも剥がされずそのままだった。
 着いてすぐ早速新しいロックキーをアルミ戸に取り付けた。これで、鍵はダブルとなったわけで玄関の合鍵を持っていたとしても、ピッキングで開けたとしても新たな鍵がない限り玄関先からは入れない。不安な気持ちは収まったが、考えてみれば絶対安全安心なんてことは不可能だと気づいた。

 常時そこに住んでいたとしても、近隣に人家はあったとしても元々がシャッターもない旧くてボロい日本家屋なのである。入ろうと思えば、ガラス窓を叩き割ればわけもなく入れてしまう。高い金払って24時間監視体制のセコムなどのセキュリティシステムを導入でもしない限り、いや、それだって空き巣が入らないのではなく、入った後通報が行くだけの話で抑止力になるかすら定かでない。

 つまるところ、常にきちんと戸締りだけは確認したうえで、何が起きても仕方ないと覚悟を決めるしかないのである。人生に不慮の出来事、予期せぬ事件や事故、災難はつきものだし、それ自体は起きても仕方ないことなのだ。
 しかしそれを起こるべくして起こることにしてしまうかは、関係当事者たちの心構えも大きく関係している。空き巣に入られないよう、一目で不在の人家だと目星をつけられないよう隙を作らないことも大事だし、とにもかくにも庭木なども手入れして外から見た庭先をきちんと綺麗にしておくことだ。
 毎度のことだが、今住んでいるこの家もだが、ゴミ屋敷として化して外から見て荒れ果てていることは一目瞭然だ。ここは常に住んでいるから誰か不審者に入られないだけの話で、同様にして不在のままにすれば今回のような事件はこれからも常に起きよう。

 すべてをネグレクトせず、ほったらかしにせずに、すべてをきちんとスッキリとさせていくしかなかったのだ。それができなければどのような規模、レベルの家であれ、別宅など持つべきではない。
 冒頭に、「持つ者と持たざる者と」と記した。言うまでもないが、これは、経済的、金銭的に我が「持つ者」だという意味ではない。昔から、貧乏人の子沢山などという言葉と意味同じく、経済的側面とは別個にあれこれ「持つ」人間と「持たない」人間がいる。それだけの違いの話なだけだ。
 そして「持つ者」は、持つことで得られる喜びや利点利便以上に、「持つこと」の不安や維持管理に苦労するのだと今さらながら今回の件で学ばされた。

 持たない者は不便なことも多々あるかもしれない。が、金ですら沢山抱えている者は、それを失う不安を抱え盗られるのではと日々怯えなくてはならない。ならば最初から持たない者のほうがどれほど気楽であろうか。
 しかしそれは人それぞれの特性のようなものであり、持たないで生きられる人間もいれば、持つことでしか生きられない人間もまたいる。我もまた、持たない人間に憧れはするが、持つ者としてこれからも多々あれこれ抱えながら生きていくしかない。

 だが、それに汲々として、失う不安に囚われて頭や心いっぱいにしてはならない。良寛和尚の言葉であったか「災難にあうときは遭うのがよろし」と心して、覚悟してすべてを受け入れていくだけだ。

持つ者と持たざる者と・前2016年01月08日 23時26分31秒

★持つ者の悩みと不安、不自由さ             アクセスランキング: 145位

 このところずっと囚われ頭を悩ましていたことがある。山梨の古民家のことだ。当ブログに書くべきか悩んだし書こうにも事態が宙ぶらりんで書けないでいた。
 今日8日また行って今、帰って来た。とりあえずいちおう一段落はしたと思うので、やはり正直に書こう。

 山梨の古民家に泥棒が入った。いや、正確に記せば窃盗目的に誰かに勝手に入られた。いわゆる「空き巣狙い」である。特に被害はないと思うが事態そのものに悩んでいた。今日その後始末に行ってきた。といっても主に目的は新たな鍵を取り付けたことぐらいだが。

 ブログに何でもあからさまに書くと、それを目にした心無い人が、また新たに何か仕掛けてくるかもしれない。あのロス疑惑事件の三浦和義氏は、自らのブログに迂闊にもハワイ旅行へ行くことを記したため待ち構えていた向うの警察に現地で逮捕され結果として獄中で自死と繋がった。
 だから全部書くとまた新たなトラブルの火種を撒くことにもなるかとも考える。詳しく知りたい方は個人的に問い合わせてもらいたい。何でも話す。が、このまま何もなかった顔はしてられない。
 これもまた一つの啓示、メッセージであり、きちんと受け止めてフィードバックさせていかねばならない。

 山梨県北杜市に、倉庫として格安の古民家を入手して数年となる。断っておくが、別宅、別荘の類や、古式格式ある農家といったものでは全然ない。ただ単に古く、何年も空き家となっていたボロい民家であり、戸建てだが、周囲は空き家も多いが人家も並んでいる山里のほぼ限界集落の中にある。
 目的は、溜まった古本の収納場所と、母が癌治療目的に通う増冨温泉が近く、東京からも日帰りで行って帰れない距離であったので、縁あってその地でその家と関わり持つことができた。そのことは奇縁であり良かったことは間違いない。

 が、今住んでいる東京の多摩地区にあるこの家でさえも、老いて病む両親を抱えて一人で孤軍奮闘する初老の独身男としては維持に持て余しているのだから、もう一軒、山梨に家を抱えるなんてそもそも無理があった。
 家とは、マンションやアパートとは違い、戸建てとなれば、屋内、室内だけ掃除や管理すれば良いわけではない。庭から屋根、家に面した道路までが、管理と責任の範囲となり、狭い庭でも植栽の剪定から草むしりまで、さらに冬季は雪搔き、雪下ろしまでやらないとならない。それに猿対策なども含めてともかくやるべきことがいっぱいある。
 バカだから、夏の快適さとある程度の部屋の数と広さだけで即決してしまい、そうした不測面、面倒かつ大変な点は全く考慮していなかった。
 周囲に商店などは一つもなく、いちいち麓まで車で降りてインター近くのスーパーまで行かないと何一つ買えないなんてことは不便でも大した問題ではない。

 家を一つだけでも維持管理難しい人間が、もう一つ、しかも近所の歩いて行けるところならばまだしも、いちいち高速道で往復約5千円かかる、山梨県北部に老朽した家をもう一つ抱えて、そちらも常に気に掛けなくてはならないことは予想外の心労であった。

 世間から見れば、どうせゴミ同様の、価値のない古本、古雑誌、それにビデオテープやカセットテープ、ラジカセなどの旧いオーディオ類しかそこには運んでいないのだから、ゴミ屋敷然としようとほったらかしで構わない気もしていた。じっさい、庭先などウチから持って行った不要な瀬戸物類など山積み、出しっぱなしにしていた。目先の問題に気がとられ山梨の古民家のほうは半ばネグレクトしてしまっていたのだ。
 特にこのところは、ともかく慌ただしく行っても日帰りで、中に積んでいった本など投げ込んで、ろくに家にも上がらずに増冨で風呂だけ入って直帰するということが続いていた。

 だから、そうした雑然とした様を見て、これは空き家か、ほとんど住んでいない家だと目星をつけて空き巣が入ったのだ。そもそもだらしがないから、最初は空き巣が入ったことすら気がつかないでいた。ほんと恥ずかしく情けない。
 ※長くなるので回を改めて記していく。

屋根の上には猿が2015年11月27日 23時56分56秒

★我が人生にお猿が絡んでくるとは           アクセスランキング:97 位

 来年は申年であるが、今日フツーの日本人でじっさいに猿と関わりを持つ人はまずいないであろう。我もそうであった。
 大昔、半世紀以上も前の幼児の頃、立川の伊勢丹デパートの屋上に、何故か猿の檻があって、バカな子供だったから金網から手を出して、その猿に噛まれたか引っかかれて血が出るケガをした。それ以来お猿とは関わらないよう注意して生きてきたが、まさか還暦近くになって再びまた猿と接近遭遇するとは人生は皮肉なものである。

 我家の屋根には猿が、それもたくさん・・・と書いてもフツーはそんなバカなことがと誰もが思う。我もここに来るまでそうだった。
 山梨の北部、北杜市須玉町江草という山里の古民家と関わるまでは、今住む東京多摩地区では野生動物は狸程度の付き合いしかなく、猿や鹿という「本格派」の野生動物たちとは遭遇したことがなかった。※幸い凶暴な猪とはまだ出会っていないが。
 が、まず古民家の屋根裏を歩き回るハクビシンに頭を悩まし、何とか入ってこないよう天井裏の補修を終えたのがこの夏のこと。そしたら次は秋には猿軍団の襲来である。まだ家の中には入って来はしないが、うかつに鍵かけなければ彼らのことだから間違いなく押し入って来てこの山梨の古民家はお猿に占拠されてしまう。
 じっさい、外の軒下に出しっ放しにしてあった、不要な食器類の入った缶や包みはお猿に荒らされて散乱してしまっていた。我がそこに住み常に常駐していれば、そんな悪さはさせないし来たら怒鳴りつけて追いやるのだが、なにぶん行くのは月に数日なのでお猿たちにとってはほぼ常に空き家なのである。だから彼らはこの季節はウチの屋根に上り庭を荒らしやりたい放題の狼藉を繰り替えしている。

 ひところ、「想定外」という言葉がマスコミやらあちこちで飛び交った。猿害というべきか、お猿の問題もまさに我にとっては「想定外」だったのだが、考えてみれば、こんな人家もまばらな山里の限界集落なのだから猿たちが人家に出て来てもちっともおかしいことでも珍しいことでもなかったのだ。ちょっと想像すれば、いや、事前に調べて考えを巡らせば野生のお猿たちが人家に来ることは「想定」できたかと思える。
 この世のほぼすべてのことは、事前に過去の歴史を知り調べ、そこから予想と想像すれば確実でないまでも「想定」はできる。ならば「想定外」などと口に出すのは己の不明を示し愚かさの証として恥ずべきであろう。

 道一本挟んで昔戦国時代は頂きに山城があったという小山の斜面、山肌がすぐそこまで迫っているところにこの家は建っているのだ。猿軍団が群れで大挙して襲ってきても仕方あるまい。この辺りは本来彼らのテリトリーでもあるのである。
 そんな山の斜面に、戦国の頃からか人間が住みつき家を建てた。いや、その山城の城下町でもあったようだ。近くに関所の跡もあるから、元々は信州の方に抜ける街道筋だったらしい。しかし、今日、中央線と中央高速道沿いに人々は集まり移り住み、その江草の辺りはまったくの過疎地帯、高齢者と空き家ばかりの寒村となってしまった。そして人に代わってお猿たちが今や群れをなして我が世の春を謳歌しているのである。
 だからこそ、そんな猿たちを見て羨ましくてならない。そしてつくづく思う。もし今度生まれ変わるとしたら私は人でなくお猿に生まれたいと。

明日を前にして2015年08月29日 08時47分34秒

★8月も終わりとなって思うところと近況を少し 
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 八月も間もなく終わる。今日も曇り空、ときおり小雨が降り半袖半ズボンではもう寒いほどだ。あれほどの暑さが急に収まったかと思うと、一気に秋が来た。しかも10月だかの気温となった。これでは体調がついていかない。風邪ひいている方も多いかと思われる。どうかご自愛ください。
 マス坊は疲れも溜まったからか、またメマイがややひどくなって今日は一日静養に努めている。

 私ごとだが、近況を記すと、今週は、火水とまた山梨へ友人と行っていた。件の笠間に住む社員氏である。彼を招いて、かなりの作業を成し終えた。
 これは書くべきか迷ったことだが、向うの家、古民家の天井裏にハクビシンなる野生動物が住み着いて、一階奥の部屋の天井板を踏み破って糞をまき散らしたりして大変な有様となっていたのだ。
 以前、記した深夜の屋根裏の散歩者は、どうやらその動物らしく、一度天井裏を覗いてその姿を確認した。真っ白い大きな尻尾をひるがえして逃げて行ったので間違いなくハクビシンだと思う。リスやネズミの類の小動物ではない。かなり大きく、ウチの犬ほどもある。

 で、屋根裏にバルサンなど薬剤をたいたり、対策はとったが、屋根と軒の間に小さな隙間があって、彼はそこから入り込むらしい。ものの本によるとこの動物は、頭さえ入る穴があれば体も全部入るとのことで、犬はそんな芸当はできやしないからおそらくイタチの仲間ではないか。
 こちらもいつもその古民家に常駐していれば、ハクビシンが来るたびにどやしつけ、追い払えば来なくなるだろうが、基本ほとんど空き家状態で手のうちようがない。

 今回は、端材を持ち込んで、まずその入って来る隙間を塞ぐことと、ハクビシンが踏み破って垂れ下がった一回の天井の補修であった。
 狭く暗く埃だらけの屋根裏に入り込んでの難作業と、天井を見上げて釘を打ち込むという慣れない面倒な大工仕事を二人で何とか成し終えバテバテとなった。

 果たしてこれでもうハクビシンは悪さしないかはわからないが、古民家というのは、こうした面倒な手間や補修作業が欠かせない。今もまだ手を加えねばならない箇所があちこち山ほどあって、いちいち地元の大工に頼むわけにもいかず、基本自分でやらねばならない。

 古民家に住むということは、園芸や庭造りも含めて、大工仕事とか何でも自分でやってみることを厭わない、手仕事好きの人でなければ務まらないと知った。「生活」とは、単に飯作ったり掃除したりするだけではない。古い大きな家や広い庭そのものを管理し常に手を加えて良い状態に維持しないとならないのであった。自然の中にただそこに住むならリゾートマンションをお勧めする。

 古民家の暮らし、田舎暮らしに憧れる人もいよう。が、現実はほぼ行くたびに掃除と草むしり、そして補修、ゴミ捨てなどに追われ単に疲れに行くだけに思える。良いのは面倒な人間関係がそこにはないだけだ。
 自分の今住む家だって片付かず、ゴミ屋敷寸前なのである。他にも物件を抱え維持する余裕など体力的経済的にも本来無理であったかと作業しながらこのところよく考える。

 しかし、これもまた経験であり、もしここ、須玉の古民家がない場合、これまでの人生がうまく収まったかまた怪しくも思う。もう一つ別な場所が今あるからこそ、何とか気分転換も含めて心の置き場所が持ち得た。今住む多摩の自宅だけでは老親とガラクタいっぱいで逃げ場がなく、息詰まり発狂してしまったかもしれない。
 ならば、あれこれたくさん抱えて大変だが、それを維持できるうちはがんばって維持していくしかない。
 そしてまだ夢がある。その須玉の古民家が快適な住まいに変えることができたら、おそらく自分は山梨に居を移すかと思う。つまりごくたまに東京に来ることはあっても山梨県民として、八ヶ岳の麓で晩年は生きるということだ。

 ようやくわかって来たことだが、近所にはやはりユニークなミュージシャン一家も暮らしているし、ごく最近近場に面白そうな食堂や廃校を利用した喫茶店などもできた。そうした人たちとはかって、そこ北杜市でもまた何か面白いことを発信できると信ずる。

 木曜は、女友達と東中野ポレポレで、沖縄のドキュメンタリー映画、「うりずんの雨」と「戦場ぬ~」をまた観てきた。
 大いに考えさせられ、また大きな刺激を受けた。道は一つ、はっきりと見えてきた。もう何も怖れないし迷いはしない。沖縄は捨石となり要石とされつねに時の権力に翻弄され苦難を背負わされてきた。が、彼らは屈しなかった。負けはしなかった。ならば彼らに倣い連帯し闘いの輪を広げていくだけだ。まず力をつけて人間関係をさらに豊かに確かに広げていく。焦りも諦めも迷いもしない。

 昨日今日とさすがに疲れがどっと出て、メマイふらつきがまたひどく起きているのがしんどかったが、安静にしていたら体調は戻った。
 明日の雨が心配だが、すべては神のみ心のままに、という気分でいる。問題はギターが雨に濡れることだが・・・

山梨から2015年08月11日 22時54分44秒

★今年はこちらも暑い              110位     

 また親たち連れて山梨に来ている。昨日の夕方着いて二泊三日の予定だ。

 昨年の夏はこちらは山里ゆえ来れば涼しい記憶があるのだが、今年は異常気象なのか東京多摩地方と大して変わりはない。まして途中の甲府盆地を通るのが蒸し暑くてうんざりする。

 まあ、人が少なくまず誰にも会わない静かな環境が好ましいわけだが、それもお盆休みの序盤に重なっていたためか、農協の直売センターや温泉用施設はどこも子供連れの人がいっぱいで、夏休みの時期は外して来るべきだったと少し悔やんだ。何しろ八ヶ岳山麓は夏場の観光客で成り立っていたのだ。

 前回、7月の頭に来た時はホントに暑かったが、ここは高原なので早ややや秋めいてきてススキの穂も出始めもう夏も終わりの感があった。
 が、植物の生命力は激しく、大して広くない敷地は雑草やつる草や勝手に生えてきたケヤキの苗などで鬱蒼としてしまい、今日は朝から草むしりに追われた。※多摩の自宅も時間なく、木々は鬱蒼とし庭もゴミ屋敷化しているのに、いくつも抱えてどう維持できると思ってたのだろうかと己の考えなさを自問しつつ。

 そして午後から行った増冨の湯も夏休みとあって、普段の平日はがらんとしている風呂の中は、子供連れた若い親たちでいっぱいで芋の子を洗うようであった。湯船に入っても込み合いすぎて足が思うように動かせない。
 それでも我慢して3時間は入ってきた。これも母の癌治療のためだ。

 じっさいのところ、今は丸山ワクチンしかやっていないし、それを続けてもまたしだいに少しづつでも癌の固まりが肥大し始めているのだから、後はできる治療といえば、ここ増冨のラジウム泉に浸かるしかないのだ。
 医師からは、手術はもうできなく、高齢ゆえ抗がん剤を使うのは癌部位に効果があっても体全体が衰弱するから勧められないと言われ、し若ければ他の方法もあったとしても母はもう処置なしなのである。
 ならば丸山ワクチンとここ増冨のラジウム温泉という民間療法に頼るしかない。そうしてだらだら生き続ければ、うまくすれば癌で苦しんで死ぬより先に自然死、老衰で穏やかに死ねるかもしれない。

 そのためにはもっとひんぱんに来るとか、親たちだけでもこちらに置いてということも考えたが、温泉までの移動の足がないことと、認知症の父も一緒だと母の負担が大きく治療よりも疲労とストレスで逆効果となる可能性もある。
 仕方なく時間つくって一泊二日だとあまりに慌ただしいので、このところ二泊三日で、完全に一日中こちらにいる日を一日作って来るようにしている。
 今はともかく暑く、来ても今年はあまり避暑にもならないが、もう少しすれば静かな過ごしやすい山里に戻ることであろう。

 本当は、読者の皆さんも招いて、向うで泊りがけで慰安の温泉ツアーでもやりたいと思っているのだが、今は室内も本でいっぱいで、中の整理が終わっていない。
 人を招き集めて何かできる状態にないというのが正直なところだ。9月も国会情勢もあり慌ただしいとは思うけれど、無理はせずにマメに母連れて来ては片付けを進め、願わくば今秋あまり寒くなる前には昨年のように古民家探訪ツアーを何としても企画したい。

 がんばりたい。 またお知らせします。

この夏をともかく無事に乗り切ろう2015年07月30日 22時35分53秒

★山梨も蒸し暑かった。        アクセスランキング: 160位

 実は一昨日から二泊三日で、親たち連れて山梨、須玉の江草にある古民家に行っていた。むろんのこと猛暑を逃れ涼を求めてだ。

 が、ちっとも涼しくなかった。むろん東京よりは人家やニンゲンがいない分だけ過ごしやすいが、期待したほどでなく、軽井沢の別荘地のような爽やかさはまったくなかった。何でだろうか。たぶん湿気である。
 その家があるのは、須玉インターからかなり上った、山間部というか、茅が岳に連なる小山の中腹にある。標高はたぶん700mはあるかと思う。里山ではなく山里である。お猿や鹿もよく現れる。

 東京でいえば、高尾山や御岳山の山頂と等しい高度だろう。ならば当然のこと麓よりは涼しいはずだ。じっさい季節などは東京より向うは一か月遅れている。冬が来るのも早いし春が来るのも遅い。冬の寒さははんぱじゃない。
 そこに倉庫としての家を手に入れ通うようになって二度度目の夏となる。去年などは涼しく爽やかで、行けばクーラーの必要など全くなく、快適至極だったと記憶している。が、今年は違う。
 室内に古本など大量に運び入れたことも関係して空気の流れが悪くなったということもあろう。しかしそれより今年の夏は例年と違い妙に湿気があり、蒸し暑いからだ。そこの家々は山腹の急斜面に、貼りつくがごとく、ひな壇のように崖の斜面を平らに切り崩して建っている。だから家の裏面は切り立つ土の壁であり、すこぶる水はけが悪い。当然湿気が強い。また、森の中だからあたり全体湿度も高い。

 今回、着いたのは夕方で、まず鍵を開けた瞬間、もわーんとしたよどんだ熱気が建物の中から出てきた。本来、古い昔ながらの家だからひんやりとした冷気が満ちているはずなのにだ。
 慌てて窓という窓を全部開け放したが、ちょうど雨も降った後で、建物の内も外も日中の熱気と湿気でともかく蒸し暑く東京多摩地域とほとんど変わらなかった。これではいったい何のために来たのか。

 その晩は窓開け放してて何もかけずに寝たが、また外は雨も降り出し湿度が高くともかく寝苦しかった。まあ、親たちは朝方うすら寒いと騒いでいたが。

 次の日はしだいに雨も上がり、午後からそのさらに山奥にある、増冨ラジウム温泉峡へ、母の癌治療のために車を走らせた。父はまだ温泉には医者から禁止されていたので留守番。
 向うは標高千メートル。さすがに汗ばむような湿気はなかったが、晴れれば日中はとうぜん暑い。それでも夕刻に温泉から上がれば爽やかで来てよかったと思えた。

 その晩は初日ほどの蒸し暑さは収まったが、この湿気のやたら強い古民家は長い目で見れば本の倉庫としては失格だと今さらだが考えさせられた。根本的に湿気対策の工事をやらないとならないなあ。

 今年の夏は五月の連休の頃に異常な暑さに一時的見舞われたが、当初は梅雨の頃、7月の頭までは妙に涼しく、ときにうすら寒いほどであった。それが度重なる台風が南の海の熱波を連れて来て梅雨明けから連日記録的猛暑が続き暑い夏となった。
 例年の夏ならば、気温は高くなってもこれほど湿度はなく、ウチのほうだと東京でも田舎なので日陰ならば我慢もできた。それが違うのは、山梨も同様になぜか今年は湿気が異常にあるからだ。気温の高さよりも湿度が高いほうが体にこたえる。

 今ウチは老犬と老人たちを抱え、特に人間のほうはボケが甚だしく、うっかり目を離すと、冷房なしの部屋で水分もとらずに布団かけてただじっとうつらうつらしてたりする。
 犬たちも外気温が30度を過ぎてくるとハアハア息が荒く外には出しておけない。まともなオツムなら自らこまめに水分を摂り、暑さ寒さに敏感だから心配ないが、老人はそもそもそうしたセンサーがろくに働かない。夏でもそのままコタツ入れていたりする。ほったらかしにしたりうっかり目を離すと、簡単に熱中症となり救急搬送ならまだしも運悪ければ死んでしまう。
 山梨からの帰り道、中央道を走りながら、その古民家があれば避暑として夏場は親たちだけでも向うに置いておく計画が頓挫したわけで、さてどうしたものかと考えた。

 今晩の天気予報だと、まだ当分この猛暑は続き、お盆の頃までまだずっと厳しい暑さだと報じていた。果たして無事にこの夏を乗り切れ秋を迎えられるのかと不安になる。
 が、ともかく無理せずにまずはこの「危機」をやり過ごすしかない。老いた犬も親たちも今年も暑い夏を越せるかはこの我の手腕にかかっている。いろいろあれこれ思うことはあるけれど、家族全員無事で秋を迎えられたらそれだけでも良しとしようじゃないか。
 まずこの猛暑に負けずに生き抜くことだ。それからまた全てが始まるし始められる。そう信じてがんばろう。

 皆様もどうかご自愛のうえ、無理せず記録的猛暑を乗り切って素敵な季節を共に迎えましょう。まず生きていくことから始めなければ。すべてのことはそれからだ。

しばらく山梨にこもります。2015年05月25日 07時40分28秒

★収拾のつかなくなっている人生を整理しに          アクセスランキング:153位

 昨日は良い一日であった。様々な出会いがあり、音楽を通しての「仲間」というものと自分の存在を確認できた。

 次なる企画確定と今抱えている事案達成にすぐさま向かわねばならないわけだが、4月の倉庫移動などの無理がたたって今もまだ本調子でない。
 昨日は特に何かしたわけでもないのに、長時間野外で陽射しを浴びただけで、体調に異変が生じて、今朝がたは布団から出ようとしたら強いめまい、アルコールを呑み過ぎた時のように視界がグルグル動いて定まらず歩くどころかとても立ち上がることもできなかった。湯あたりならぬ陽あたりしてしまったのか?
 気持ち悪くても幸い吐きはしなかったが、仕方なく目を閉じてもう一眠りしたら幸いその眩暈は収まった。メルエールの端緒でないことを祈りたい。
 何にしろ無理はきかない。怠けてはならないが、体調伺いつつやるべきことを少しでも少しづつでも進めていくしかない。

 先にも記したが、倉庫から運んできた古本や雑誌、そして様々なガラクタ類で、今我が家はゴミ屋敷と化している。これではとても人を招いてイベントなど始められない。
 また山梨の古民家の方も同様に、運び込んだ本の山で部屋がどんどん塞がってしまっている。今なすべきことは、とりあえず運び込まれた、それら無分別のままの紙類を、もう一度個々に確認し仕分けしどう処理するかである。じっさいの話、紙ゴミとして捨てられるものもかなり含まれている。今まではきちんと分別も整理整頓もできずともかく括って倉庫に詰め込んでいたのだから。
 そうした「後始末」が、自宅無頼庵も山梨の古民家も山積みとなってしまった。ともかく少しづつ減らす、片付け作業を進めていく。これは他人に手伝ってやる作業ではない。

 今回は親たちは連れて行かず、一人でともかく腰据えてクラシックでも流しながらコツコツそうした仕分け作業をやろうと思う。疲れたら温泉に浸かりぼーと心身の疲れを癒してくる。

 戻る頃には、反戦フォークライブの日程も告知できるかと思います。

世界をもっと大きく広く、そして深く・前2015年01月30日 20時26分11秒

★一月終わりの雪の日にまず古民家のこと       アクセスランキング: 179位

 今日は朝から雪が降りだし、一時は一面白く積もるほどであったが、幸い午後からは雨に変わり夕方にはその雨もやみ雪も大方溶けたようだ。
 実は昨日からまた山梨へ行く予定でいたのだが、関東甲信でも積雪との予報だったので断念した。向こうに行けても中央道はチェーン規制が出ていたから今日中に帰ることは難しかったかもしれない。

 東京で積もる雪ならば長野よりの北杜市の山間部では10㎝近くは降っただろう。タイヤは冬用のスタッドレスタイヤに先日替えたばかりだが、裏道には除雪車も入らないので果たしてタイヤの問題以前に車が通れたかどうかだ。
 自然の中で暮らすということはその自然の脅威を間近に実際問題として受け止め受け入れることに他ならないと気づく。快適かつ便利な生活を望むならば自然や田舎ではなく都市生活に限る。それでも少しの雪に皆が大騒ぎし大変だと騒ぎうんざりもするのだ。

 ウチから日帰りでも行けるその山里は夏は涼しく静かで本当に良いところだが、じっさいのところ冬の間はおいそれとは通えない。凍ったかなりの坂道を上り下りして行けたとしても少しの雪でも公道までも出られなくなる可能性があることと去年の冬の様な豪雪ともなれば一週間も完全に雪の中に集落ごと閉ざされ孤立してしまうのだ。ならば冬はもう行かないと決めるか、食料や燃料持参で籠城の覚悟で行くしかない。

 しょせん「別荘」暮らしなど夏だけのものと割り切るべきかとも考えるが、それではあまりにもったいない。ただ今の人は寒さには格段に弱いから冬など誰も同行してくれないし結局一人で映画「シャイニング」状態となって雪に閉ざされ孤独に耐えるしかない。
 今はテレビも電話も何一つないこともそうしたとき不安に思える。やがてはネット環境も取り入れて、その古民家からでも「発信」できるようにしなければと考えている。

 それと必須の生活道具は、薪ストーブである。向こうは山の中なので伐採して放置された丸太や枯れ枝などいくらでも道端に転がっている。燃料にはことかかない。薪ストーブさえあれば、たとえ電気やガスが切れたとしても凍死もしないし料理もできる。山の中で生きていくためにはまずは薪で炊くストーブが必要だと二年目の冬痛感した。

 今は2015年の1月の冬。がんばって生活を立て直して安くても鋳物のストーブを手に入れて設置して今年の新たな冬には薪ストーブをガンガン燃やして暖をとる快適な生活を夢想している。
 いちおう設置業者も薪ストーブ自体もほぼ選定は終わっている。問題は冬が来る前までに、秋口のうちにその資金が作れるかだけだ。

 しかし薪ストーブさえあれば広い家の大広間でもかなり温まるはずだから、友人仲間も誘い冬でも集えるはずだ。今のような自分でも寒くて耐え切れず夜は布団被ってひたすら寒さ我慢して早めに眠るしかない暮らしから早く脱したい。

 何にせよすべてはいかに機能的に暮らせるかであり、山里の古民家であろうと何とか改善を図るべく模索していくしかない。でないと冬は行かれず使えずもったいないに尽きよう。

 古民家再活用と言いながらちっとも再活用できていない。夏の間だけ行ってそこを倉庫代わりにしているだけでは真の活用ではない。

まだこちら側にいる喜び、有難さよ。2015年01月19日 21時04分40秒

停めた庭から道までもこの斜面が滑って上がれない!
★明日はスノータイヤを買いに行く                 アクセスランキング:177位

 よく、「死ぬかと思った」という言葉をきく。じっさいそうした体験集をまとめた本も出ている。まあ誰もが生きていれば一度ぐらいはそうした九死に一生的な怖い目に会うかとは思う。
 自分の場合、これまでの人生でかなりそうした体験が多く、まあ運が良いと言うべきか、愚かな事態を繰り返しつつも何とか無事に死なずに幸い生きている。しかし今回はかなり危なかった。そのときは必死になっているからあまりよくわかっていなかったが、今思い返してみるとまったく毎度ながら我は運が良かった、またも神のご加護があったとただ感謝するしかない。たとえ死にはせずとも事故って当然であった。

 昨日から山梨へ行ってきた。先日向こうではこちらが雨のとき雪になったようで、一般道には雪は全然ないのだが、道端とか路肩にはまだ集められた雪がところどころ残っていて、それは平地の話であって、ウチの古民家は須玉でも長野寄りの山間部にあるので日なたははともかくも畑も日陰もまだ一面雪が残って凍りついていた。
 それは覚悟していたし予想もして今回出掛けたのは、このところ借りている倉庫から大慌てで雑本や雑誌類をひたすら運び込んでいるので、向こうも玄関も含めてそれらを運び入れたままでどこも山積みになり収拾つかなくなってきたのでそれを整理する目的で行ったのだ。

 本当は動く本や雑誌、つまり、売れるものと商売的価値がなく処分するしかないものとを改めて分別していかねばならないのだが、それ以前に、今近くに借りている倉庫の撤収が最優先され、まずはきちんと場所決めて効率よく積み上げていかないことにはもうこれ以上新たに運び込めなくなってきている。むろんそこはかなり広いから場所はまだあるけれど、無駄にあちこち何部屋もそうした未整理の本類で埋めたくはない。そうした場所作り、整理整頓をする日もないと運び入れるばかりではまさにどこも足の踏み場もなくなってくる。

 今回は一人で、犬たち連れてウチの軽ワゴン車で行った。インターからの増冨に向かう街道筋は路肩に雪が残る程度で何も問題はなかったのだが、一般道から外れてウチの古民家のある集落へ行く裏道の、ところどころ山蔭になっている部分には雪がそのまま凍って道にへばりつきアイスバーン状になっていたのだ。
 その古民家は同行された方はご存知かと思うが昔戦国時代に山城があった小山の山麓に点在する集落の入り口にある。つまり山肌にへばりつくように登坂の細い道筋に昔ながらの農家、古民家が何軒かあり、ウチはその集落の下のほうに位置している。

 といってもそこに行くにも、街道からやや何度か坂道を登っていかねばならない。今回、まず街道からその裏道に入ったら日陰部分は一面雪がそのまま凍ってアイスリンクのようになっている箇所があり、ややハンドルをとられ軽くスリップしつつも何とかそこは乗り越えられた。時間は昼過ぎであった。
 ウチは急坂を登り切ってまたさらに車一台入る坂道を少し下った左側に位置している。幸い小道には雪はなく車はすぐ入れられた。むろん敷地内、庭先には一面雪がかちんかちんに凍って白く積もっていた。いつものように庭に車を入れた。が、じつはそこもその小道よりも一段低く坂になっていたことで後で大いに苦労するのである。

 クルマから荷物を下して家の中に運び入れて、時刻は夕刻、4時半頃であった。雪の上を吹く風は冷たく、外にいると上半身はともかく足が冷えて感覚がなくなってくる。
 まだ時間もあり、近くの温泉にでも入らないことにはこれでは体が冷えて眠れなくなる。その古民家には元からの風呂はあっても整備してなくて使えない。

 車出して一番近くの「高根の湯」という公共温泉施設に行こうとした。ところが、エンジンかけても凍った雪の上でタイヤは空回りするだけでまったく進まない。庭から道までも出せやしない。いくらアクセル踏み込んでもエンジンの焼ける匂いがするだけでダメである。道まではやや高低もあり庭の方が低い。つまり凍った雪で滑ってタイヤは回転はしてもクルマは前へ動かせないのである。
 仕方なくエンジン切って、凍った雪を堅い木の板で叩いて割って取り除いていくしかない。四つのタイヤの前方の雪を必死に叩いて砕いて少しづつ取り除いてはエンジンかけたが、もともと道まで緩い登坂になっているので、何度やっても滑ってしまい上がれずなかなか道までも出られない。そのたびにさらに雪を砕く。今思うとまだ外は明るかったので見ながらできたのだ。
 そうした作業を何度も何度も繰り返してやっと道に出られるまで30分もかかってしまった。もう右腕は棒のようで中腰になっての作業で腰も痛い。とにもかくにも車は出せたので、高根の湯まで行けたがつい足を伸ばして大泉まで出てしまった。

 そこの初めてであったが当地の温泉にゆっくり浸かって、体を温めてまた須玉の古民家近くまで戻っては来れた。しかし、来るときに使う街道から入る道はアイスバーン状だと来た時にわかっていたので、もう一つ違う別方向からの道を使おうと考えた。そこはやや遠くなるのだけれど、遠回りはしても直線でウチの前の小道に繋がるのである。古民家に来られた方はご存知の巨樹で知られる根古屋神社の前の道である。

 塩川という川を渡ってその道に入って右折した。が、そこもまた山蔭でところどころ道は雪がかちんかちんに凍っていた。そしてむろんゆるやかな登坂でもあった。一気にそこを登っていったらちょうど登りきる寸前で、凍った雪の道の上でタイヤはシュルシュルとヘンな音出してそのまままったく動かなくなってしまった。坂道の途中である。もう少しで雪のない平らなところに出られ、目の前なのだが立ち往生。
 ブレーキを踏んでいるので下がりはしないもののどうしたものかしばらく考えた。何度エンジンかけてアクセル踏み込んでも同様で空回りするばかりでまったく動かない。さてどうしたものか。
 他に誰か同乗していたら後ろから押してもらえればとも考えたがいるのは犬しかいない。自分が降りてエンジンかけながら押すことも考えもしたが危険であろう。

 さて困った、といろいろあれこれ考え迷ったが、他に助けを呼ぶことも誰一人通るわけでもないので、仕方なくそのままエンジン切ったまま自然走行で下までバックすることにした。経験上下手にブレーキを踏むとまた滑ってスピンする。夜道を慎重にゆっくりとバックで登ってきた橋のところまでずりずりとうまく滑り下ることができた。
 ほっと一息つくまもなく、向き替えてそのまま県道にまた戻り、いつもの道、昼間来た道から入ることにした。ウチに帰るにはそれしかない。

 しかし、覚悟はしていたが、県道から下って入るすぐのアイスバーン状のところはごくゆっくり慎重に走ったのに凍ってツルツルであったため、昼間来た時より激しくスリップしてまったく制御できない。一瞬ガードレールにぶつかることも覚悟したが必死にハンドルを握って何とかうまく戻して雪のない道のところまで上がれた。今思うと反対側は川がある崖なのである。高さはさほどなくとも、ガードレールがあっても落ちていたかもしれない。
 そうこうして最後の急坂も登り切り、ウチの前まで来た。このまままた庭に車を入れると出すときにはまた苦労するだろうと考えもしたが、もう一か所ある、家の裏の駐車スペースも坂になっているのは同様で、しかもそこは後ろは高さ10mの崖の上なのだ。そこにも雪がありガードするものは何もない。もしそこに車停めて滑って道に上がれなくなれば落ちてしまう。先に大工のカワムラさんのマニュアルのトラックで来た時も停めたら出すのに冷や汗かいたが、もうそれは繰り返したくないし今回は自分一人なのである。事故っても誰も救助や救急の連絡すらする人もいないのだから。

 仕方なくまた同様に庭先に車入れてとにもかくにも家に入った。温泉で暖まった体はもうすっかり冷めてしまっている。置いてあった缶ビールをカラカラに乾いた喉に流し込んで一息ついたが、しばらくの間震えが止まらなかった。寒いからではない。恐怖のあまり震えていることにようやく気づいた。こんな怖い思いはいつ以来だろうか。
 凍った道で激しいスピンしたことも恐怖だったが、凍った雪の坂道をバックで下ったことも思い返しても恐ろしかった。毎度のことながらつくづくよくも無事であったと自分でも振り返って改めて今も思う。
 古本稼業の師匠で、現在は松本に居を構えていらっしゃる北尾トロ氏からも進言されていたのだが、雪国では冬が来たらタイヤを冬用のに替えるのは常識だとはっきりとつくづく思い知った。

 山梨の古民家での冬は今年が初めてではない。ただ、去年は大雪であまり来れなかったことと、タイヤもすり減っていなかったのか凍った雪道もあったかと思うが今回のような恐怖は感じなかった。 
 しかし、これから春までまだ数か月、春が来るまで古民家には一切来ないならともかく、頻繁に来ては作業進めなくてはならないのだから、これでは凍った雪道が怖くて来ることすらできやしない。いや、古民家までたどりつけない。このまま今のタイヤでこんなこと繰り返していたら間違いなく事故る。山国で暮らすのには冬用のタイヤに代えるしかなかったのだ。

 相変わらず自分は全てにおいて考えが甘い。そして常にそれを自ら体験してみないとわからないのである。フツーの人は常識としてできることがどんなことでも失敗してみないと理解できないのだからバカのバカたる所以であろう。明日金かき集めて近くのカー用品も扱う巨大ホームセンターに行ってくる。もうあんな怖い思いはしたくない。今回は即懲りた。

 そう、家に帰ってきて思ったのは、たった一泊、一昼夜だけの出来事だったのに、見慣れたいつもの風景がどこか違って見えた。またこちら側に戻れた。自分はまだこちら側にいられた。こうして愚かな顛末を報告できる。まだ生きている喜びと有難さを噛みしめている。死ぬかと思ったが死なずにすんだ。
 いや、正確に書くと、死ぬとは思わなかったが死んでもおかしくないことをしでかした。幸い運よく神のご加護もあり死なずに済んだのである。全く有難いことである。たぶん次はない。今度こそ死んでそれきりだろう。何が起きたのか顛末を報告すらできないまま。