祖父母の地を訪ねて~渡良瀬遊水地と旧谷中村・後 ― 2016年05月18日 23時31分19秒
★人は求められてこそ生きながらえる。
いろいろ書きたいことはあるけれど、今回の母と我がルーツの地を訪れた報告記はひとまず終わりにしたい。
今回の旅は、母も会員となっている『谷中村の遺跡を守る会』の本年度の総会があり、その中での記念行事として、「岩波正作屋敷跡顕彰碑について」という題で、その子孫である母の従妹の講話が予定されていたからだ。
実は、元々その従妹より年上の我が母にそうした依頼があったのだが、母は癌で体調が悪くて、とても栃木市藤岡まで行くことはできそうにない。それで、その従妹とあれこれ電話で一族の歴史を伝え話して、まず無理だけどもし元気になって行けたら行くからということで、お願いした。本人も従妹も主催側でも母の参加は無理だと思っていた。
しかも今月に入ってもまた二回目の入院をしてしまい、退院できたのが直前の11日水曜で、その総会は15日の午後からだった。常識では二日前まで入院していた者がご近所ならともかくも栃木まで来るとは思ってもないしありえない。
が、今回の入院は病状が軽かったことと逆に病院にいた方が一切の雑事から解放され休養もとれ栄養も満たされて体力があったことも幸いして、退院後は存外体調も良く、当人もならば何としても行きたいと強く希望したので、急遽、前日土曜日の午後から出発することにしたのだ。
従妹のところに泊めてもらうことも考えたが、より会場に近い、「遺跡を守る会」の前会長宅に泊めてもらうことをお願いした。前会長は先年亡くなられてしまったが、その家とはかねてより親戚同様の付き合いさせて頂いて、我の祖母も四半世紀前に谷中村に「里帰り」した際に泊めて頂いたご縁がある。むろんのこと、そこの方たちも旧谷中村の出である。
現地は、東北自動車道、佐野藤岡インターか、館林インターで降り、栃木市藤岡町、私鉄の藤岡という駅に近い。
以前、今いるウチの犬、ベルコを佐野までもらいに行ったことがあるが、そのときは圏央道が東北道まで繋がってなくて、桶川北本までしか行けなかったのだ。高速道はともかく下の一般道でやたらに時間がかかってうんざりした記憶がある。
が、先日、その部分も東北道まで通ったので、今回は実に早かった。行きは母の体調を見ながら二回休憩でSAに入ったものの、午後出て夕方早めに着いてしまった。
帰りは、休憩なしで時速80キロでゆっくり走っても、向うのお宅を出て自宅まで戻るのにかかった時間はジャスト2時間に過ぎなかった。じっさいわかったのは、日の出インターから入って、館林インターまでの圏央道と東北道を合わせても片道90キロもない。
山梨の古民家に行くために、八王子インターから須玉インターまで走るのに、片道約110キロだから、山梨へ行くより佐野藤岡に行く方がはるかに近かったのだ。何か拍子抜けしてしまった。これならもっとビュンビュン走れば、ウチから一時間半ほどで渡良瀬遊水地~谷中村跡まで行けるではないか。
今までは、高速が繋がっていなかったこともあるが、何かもっと遠くて行くのが面倒だと何となく思い込んでいた。これならもっと気軽に行けるし、また母を故郷に連れて行けるとうれしくなった。※佐野は、戦時中、母が女学生の時に東京から疎開していた地で、母の最終学歴は、佐野高女卒である。
向うに着いたら、その迎えてくれた前会長夫人も、向うの知人、親戚たちも皆全員が母が元気なのに驚いていた。すっかり痩せてはしまったけれど、向うに着いたら意外なほど母は元気で、旧知の人たちとの再会が嬉しかったこともあるが、興奮してひたすらしゃべりまくりである。
翌日も、朝からその家の畑に出向いて手伝ったり、ひたすら精力的に動いている。自宅だと、たいてい午後は疲れが出てきて横になって仮眠とるのが日課なのだが、まったく疲れも見せず元気である。こちらのほうも驚かされたし、やはり無理してでもこっちに連れてきて良かったと思った。
会場でも皆に歓迎され、マイクを握り予定されていた時間を超えて話すこともできた。見ていてどこにこんな体力が残ってたのかと不思議なくらいに元気である。
終わって皆に無事と再会を誓い、また前会長宅に戻っても多くの知人、縁者たちと話はいつまでも尽きなかった。これ以上遅くなると母の体力も尽きてしまうと心配になり促して夕方皆と名残り惜しい中、何とか別れを告げ藤岡を後にした。
それから帰って来ても数日母はずっとコーフン気味で元気であった。父祖の地に今生の別れかはともかく、久々に行けたことはそれほど嬉しかったのであろう。懐かしい人たちも再会できた。どちらももはや半ば諦めていたことであった。
しかし、それよりも母を元気にさせたのは、皆から歓迎され求められたからだ。人からどんなことでもいい、求められ居場所と役割を与えられると、嬉しくて人は元気になれるのである。
今回も、向うに行って親類縁者、旧知の人たちから大歓迎、歓待されて、谷中村のこと、母がその母たちから聞いたこと、覚えていることを話し、それに皆が耳を傾けてくれた。それこそが母の役割であり居場所であったのだ。
これが逆に、誰からも相手にされず、話したくても話すことに誰も耳を貸さず、どこにも居場所がなければ人は生きていても生きている意味は無いに等しい。それでは絶望してしまいまさに厭世的になり生きていても仕方ないと死を待ち臨むようにさえなるかもしれない。
今回の短い旅で、今さらながら人間とは何か、生きていくこと、生きているとはどういうことかいろいろ考え示唆と指針を得ることができた。
求められ居場所と役割のあることの有難さ。人は人から求められるから生きていけるのである。そして、人はその思いを人に伝えて、託して、そして死んでいく。しかし、そうした確かな関係があれば死もまた無意味ではないのだと思い至った。
生きていくとは、人とそうした関係を築くことに他ならない。
我もまた四半世紀ぶりに訪れた先祖の地で、我の中に今も流れる彼らの思いをはっきりと自覚できた。昨日(過去)を今日に、そして明日(未来)へと繋げて、託して行かねばならないのである。それこそが人が生きること、人類の歴史なのだと、確信を得た。
★旧谷中村の史跡とその苦難の歴史については、折あらばまた書き記したいが、ご関心、興味持たれた方は、連絡ください。ご都合つくようならば、渡良瀬遊水地までご一緒して私が案内、説明いたします。
いろいろ書きたいことはあるけれど、今回の母と我がルーツの地を訪れた報告記はひとまず終わりにしたい。
今回の旅は、母も会員となっている『谷中村の遺跡を守る会』の本年度の総会があり、その中での記念行事として、「岩波正作屋敷跡顕彰碑について」という題で、その子孫である母の従妹の講話が予定されていたからだ。
実は、元々その従妹より年上の我が母にそうした依頼があったのだが、母は癌で体調が悪くて、とても栃木市藤岡まで行くことはできそうにない。それで、その従妹とあれこれ電話で一族の歴史を伝え話して、まず無理だけどもし元気になって行けたら行くからということで、お願いした。本人も従妹も主催側でも母の参加は無理だと思っていた。
しかも今月に入ってもまた二回目の入院をしてしまい、退院できたのが直前の11日水曜で、その総会は15日の午後からだった。常識では二日前まで入院していた者がご近所ならともかくも栃木まで来るとは思ってもないしありえない。
が、今回の入院は病状が軽かったことと逆に病院にいた方が一切の雑事から解放され休養もとれ栄養も満たされて体力があったことも幸いして、退院後は存外体調も良く、当人もならば何としても行きたいと強く希望したので、急遽、前日土曜日の午後から出発することにしたのだ。
従妹のところに泊めてもらうことも考えたが、より会場に近い、「遺跡を守る会」の前会長宅に泊めてもらうことをお願いした。前会長は先年亡くなられてしまったが、その家とはかねてより親戚同様の付き合いさせて頂いて、我の祖母も四半世紀前に谷中村に「里帰り」した際に泊めて頂いたご縁がある。むろんのこと、そこの方たちも旧谷中村の出である。
現地は、東北自動車道、佐野藤岡インターか、館林インターで降り、栃木市藤岡町、私鉄の藤岡という駅に近い。
以前、今いるウチの犬、ベルコを佐野までもらいに行ったことがあるが、そのときは圏央道が東北道まで繋がってなくて、桶川北本までしか行けなかったのだ。高速道はともかく下の一般道でやたらに時間がかかってうんざりした記憶がある。
が、先日、その部分も東北道まで通ったので、今回は実に早かった。行きは母の体調を見ながら二回休憩でSAに入ったものの、午後出て夕方早めに着いてしまった。
帰りは、休憩なしで時速80キロでゆっくり走っても、向うのお宅を出て自宅まで戻るのにかかった時間はジャスト2時間に過ぎなかった。じっさいわかったのは、日の出インターから入って、館林インターまでの圏央道と東北道を合わせても片道90キロもない。
山梨の古民家に行くために、八王子インターから須玉インターまで走るのに、片道約110キロだから、山梨へ行くより佐野藤岡に行く方がはるかに近かったのだ。何か拍子抜けしてしまった。これならもっとビュンビュン走れば、ウチから一時間半ほどで渡良瀬遊水地~谷中村跡まで行けるではないか。
今までは、高速が繋がっていなかったこともあるが、何かもっと遠くて行くのが面倒だと何となく思い込んでいた。これならもっと気軽に行けるし、また母を故郷に連れて行けるとうれしくなった。※佐野は、戦時中、母が女学生の時に東京から疎開していた地で、母の最終学歴は、佐野高女卒である。
向うに着いたら、その迎えてくれた前会長夫人も、向うの知人、親戚たちも皆全員が母が元気なのに驚いていた。すっかり痩せてはしまったけれど、向うに着いたら意外なほど母は元気で、旧知の人たちとの再会が嬉しかったこともあるが、興奮してひたすらしゃべりまくりである。
翌日も、朝からその家の畑に出向いて手伝ったり、ひたすら精力的に動いている。自宅だと、たいてい午後は疲れが出てきて横になって仮眠とるのが日課なのだが、まったく疲れも見せず元気である。こちらのほうも驚かされたし、やはり無理してでもこっちに連れてきて良かったと思った。
会場でも皆に歓迎され、マイクを握り予定されていた時間を超えて話すこともできた。見ていてどこにこんな体力が残ってたのかと不思議なくらいに元気である。
終わって皆に無事と再会を誓い、また前会長宅に戻っても多くの知人、縁者たちと話はいつまでも尽きなかった。これ以上遅くなると母の体力も尽きてしまうと心配になり促して夕方皆と名残り惜しい中、何とか別れを告げ藤岡を後にした。
それから帰って来ても数日母はずっとコーフン気味で元気であった。父祖の地に今生の別れかはともかく、久々に行けたことはそれほど嬉しかったのであろう。懐かしい人たちも再会できた。どちらももはや半ば諦めていたことであった。
しかし、それよりも母を元気にさせたのは、皆から歓迎され求められたからだ。人からどんなことでもいい、求められ居場所と役割を与えられると、嬉しくて人は元気になれるのである。
今回も、向うに行って親類縁者、旧知の人たちから大歓迎、歓待されて、谷中村のこと、母がその母たちから聞いたこと、覚えていることを話し、それに皆が耳を傾けてくれた。それこそが母の役割であり居場所であったのだ。
これが逆に、誰からも相手にされず、話したくても話すことに誰も耳を貸さず、どこにも居場所がなければ人は生きていても生きている意味は無いに等しい。それでは絶望してしまいまさに厭世的になり生きていても仕方ないと死を待ち臨むようにさえなるかもしれない。
今回の短い旅で、今さらながら人間とは何か、生きていくこと、生きているとはどういうことかいろいろ考え示唆と指針を得ることができた。
求められ居場所と役割のあることの有難さ。人は人から求められるから生きていけるのである。そして、人はその思いを人に伝えて、託して、そして死んでいく。しかし、そうした確かな関係があれば死もまた無意味ではないのだと思い至った。
生きていくとは、人とそうした関係を築くことに他ならない。
我もまた四半世紀ぶりに訪れた先祖の地で、我の中に今も流れる彼らの思いをはっきりと自覚できた。昨日(過去)を今日に、そして明日(未来)へと繋げて、託して行かねばならないのである。それこそが人が生きること、人類の歴史なのだと、確信を得た。
★旧谷中村の史跡とその苦難の歴史については、折あらばまた書き記したいが、ご関心、興味持たれた方は、連絡ください。ご都合つくようならば、渡良瀬遊水地までご一緒して私が案内、説明いたします。
祖父母の地を訪ねて~渡良瀬遊水地と旧谷中村・中 ― 2016年05月17日 10時51分45秒
★谷中村と田中正造、そして父祖たちのこと
当ブログの読者の方に今さら説明不要かと思うし、ネットで調べればたちどころに出てくるので手短に書くが、今はその大部分が湖の底に沈んでしまった栃木県下都賀郡旧谷中村はかつてはとても豊かな村であった。
大河渡良瀬川が度々氾濫はしたが、水はその地に肥沃な土壌をもたらしたのである。だから、世界三大文明が、大河流域のデルタ地帯から生まれたように、御神楽や農村歌舞伎も盛んで、祖父母のまた親たちの代には関西のほうまで学びに出向いた者もいたそうだ。
が、明治の世になり、産業振興、富国強兵の国策ため足尾銅山の採掘、精錬が進められ、洪水の度に上流からの鉱毒によって川は汚染され作物は採れなくなり村は疲弊していく。祖母の話では子供も生まれても次々死んでいったという。
その窮状を訴えるべく、流域の農民たちは田中正造をリーダーに、日本初の反公害闘争を始める。何千人も集まって集団で東京まで、請願に出向く「押出し」、つまり農民一揆のように、銅山の操業停止と補償を求めて政府に解決を迫るため何度も直接行動をとった。※その頃、二十代で血気盛んだった曾祖父正作も、押し出しに参加し阻止する警官隊を振り切って東京まで辿り着いたと聞く。
だが、彼らは凶徒と扱われ官憲の阻止にあい、流血事件となり何十人も逮捕拘束の目に遭い(1900年川俣事件)、やがて国は、運動の弱体化と鉱毒沈殿のためにその地を遊水地として用いようともくろみ谷中村は強制廃村とされた。
谷中の農民たちは非常に低い額の補償金で村を出て一部は那須、北海道にまで移住した。人々の関心も冷えてしまい田中正造も含め最後まで村に残って抵抗した農民もいたが、三里塚の成田闘争のように家屋は破壊され谷中村は消滅。運動は権力の前に終えるのである。
が、この日本の公害闘争の原点である谷中村の存亡と田中正造の思想と行動は、戦後高く評価され出し、3.11の大震災による原発事故でフクシマを強制的に追われた住民が新たに生まれている今日、公と民の関係、国家(国策)と環境のあり方は今もまた問い糾されていると思う。
今や広大な自然パークのようになっている渡良瀬遊水地の入り口正門近くに、旧谷中村住人合同慰霊碑の一角がある。中に入ると周囲の壁面はぐるっとかつて村にあった道祖神などの石碑で囲まれている。その一角はひんやりとして実に厳かで息を呑むものがある。
中央に四角い石碑があり、廃村時の谷中村の住人、四百余名の名前が石に刻まれている。そこに、我が母の父方、母方双方の祖父たちの氏名、母にとって大叔父たちの名前がいくつも刻まれていた。
母は彼ら石碑に名を残す正作たち、彼女の祖父母であった人たちには幼児の頃に数度会ったもののほとんど記憶はない。が、その刻まれた名前を指でたどり、まさに感無量の面持ち、感慨深げであった。そう、その母に流れている谷中村の血は我にも流れているのだ。
何とか母が生きているうちに再び父祖の地に連れてくることができた。田中正造と共に闘った我が祖先たち、谷中村からの命脈は今も、これからも我は受け継いでいかねばならない。そう誓い直した一泊二日の栃木市藤岡町の旅であった。
当ブログの読者の方に今さら説明不要かと思うし、ネットで調べればたちどころに出てくるので手短に書くが、今はその大部分が湖の底に沈んでしまった栃木県下都賀郡旧谷中村はかつてはとても豊かな村であった。
大河渡良瀬川が度々氾濫はしたが、水はその地に肥沃な土壌をもたらしたのである。だから、世界三大文明が、大河流域のデルタ地帯から生まれたように、御神楽や農村歌舞伎も盛んで、祖父母のまた親たちの代には関西のほうまで学びに出向いた者もいたそうだ。
が、明治の世になり、産業振興、富国強兵の国策ため足尾銅山の採掘、精錬が進められ、洪水の度に上流からの鉱毒によって川は汚染され作物は採れなくなり村は疲弊していく。祖母の話では子供も生まれても次々死んでいったという。
その窮状を訴えるべく、流域の農民たちは田中正造をリーダーに、日本初の反公害闘争を始める。何千人も集まって集団で東京まで、請願に出向く「押出し」、つまり農民一揆のように、銅山の操業停止と補償を求めて政府に解決を迫るため何度も直接行動をとった。※その頃、二十代で血気盛んだった曾祖父正作も、押し出しに参加し阻止する警官隊を振り切って東京まで辿り着いたと聞く。
だが、彼らは凶徒と扱われ官憲の阻止にあい、流血事件となり何十人も逮捕拘束の目に遭い(1900年川俣事件)、やがて国は、運動の弱体化と鉱毒沈殿のためにその地を遊水地として用いようともくろみ谷中村は強制廃村とされた。
谷中の農民たちは非常に低い額の補償金で村を出て一部は那須、北海道にまで移住した。人々の関心も冷えてしまい田中正造も含め最後まで村に残って抵抗した農民もいたが、三里塚の成田闘争のように家屋は破壊され谷中村は消滅。運動は権力の前に終えるのである。
が、この日本の公害闘争の原点である谷中村の存亡と田中正造の思想と行動は、戦後高く評価され出し、3.11の大震災による原発事故でフクシマを強制的に追われた住民が新たに生まれている今日、公と民の関係、国家(国策)と環境のあり方は今もまた問い糾されていると思う。
今や広大な自然パークのようになっている渡良瀬遊水地の入り口正門近くに、旧谷中村住人合同慰霊碑の一角がある。中に入ると周囲の壁面はぐるっとかつて村にあった道祖神などの石碑で囲まれている。その一角はひんやりとして実に厳かで息を呑むものがある。
中央に四角い石碑があり、廃村時の谷中村の住人、四百余名の名前が石に刻まれている。そこに、我が母の父方、母方双方の祖父たちの氏名、母にとって大叔父たちの名前がいくつも刻まれていた。
母は彼ら石碑に名を残す正作たち、彼女の祖父母であった人たちには幼児の頃に数度会ったもののほとんど記憶はない。が、その刻まれた名前を指でたどり、まさに感無量の面持ち、感慨深げであった。そう、その母に流れている谷中村の血は我にも流れているのだ。
何とか母が生きているうちに再び父祖の地に連れてくることができた。田中正造と共に闘った我が祖先たち、谷中村からの命脈は今も、これからも我は受け継いでいかねばならない。そう誓い直した一泊二日の栃木市藤岡町の旅であった。
祖父母の地を訪ねて~渡良瀬遊水地と旧谷中村・前 ― 2016年05月16日 22時13分08秒
★今いる我はどこから来たのか
ひと頃、そして今も?「自分探し」というのがあちこちメディアなどで取り上げられ流行ったことがある。
いわく、「本当の自分」とは何なのか、知りたいと、いろんな自己啓発の本を読んだりセミナーに通ったり、カウンセラーを訪ねたりして真の「自分」を知ろうと考えたりした人が多いらしい。
我に言わせれば、自分に本当も嘘もなく、今いる自分こそが良くも悪くもそのまんま自分でしかないわけで、探すも何もそんなのは青い鳥がどこかにいると信じるようなバカなことだと思わざる得ない。
そんなことよりも、我=自分はどうしてこうなんだろう、どうしていつもバカなことばかりしでかすのか、こんな自分はいったいどこから来たのかということこそが関心ある。いったいこんな男はどうして生まれたのかだ。
趣味嗜好、そして思考までも遺伝によってもたらされるとは思わないが、こんな人間がいるのにはそこに、何かしらの前提条件があったことは間違いない。
つまり原因と結果の法則で言うところの、「今」こうしている「我」がいるのには、その「前」の人たちが大きく関係しているはずなのである。
むろん、それは当然、生み育ててくれた両親たちによるところが一番大きいわけだが、そのまた前の祖父母たちの影響もかなりあるように思える。それは見えない地下水脈のように代々受け継がれてきた資質なのではないのか。
じっさい、メンデルの法則によらずとも我に関しては、遺伝学的にも祖父の遺伝子を受け継いだ障害があるし、父方の祖父母はわりと早く死んだこともあり、共に過ごした時間は母方の方が長く、特に祖母は長命だったので、人間的にもずいぶん影響を受けた。
今回のはなしは、その母の母である、我にとって母方の祖母が生まれ育った栃木県の谷中村という、歴史に翻弄され廃村となった村の跡と祖母の屋敷跡を訪れたことの報告である。
その前に・・・
人は男と女から生まれてくるから、それぞれ父方、母方の彼らのまた親たち、つまり祖父母を二組持っている。我の場合、父も母も東京都内で生まれた東京人であるが、その親たちは地方から出てきている。
じっさいのところ、代々父も祖父母もずっと東京生まれだという「江戸っ子」はごく少ないはずで、おそらく数代さかのぼればたいてい皆それぞれ東京以外から東京に出てきたという地方出身者であるかと思う。今は皆東京生まれの顔してすましているが、実は東京は地方出身者たちの集う街なのである。
父のほうは、九州佐賀の出で、その父の父、我の祖父は上京し苦学して早稲田を出て、最後は新聞記者のようなことをやっていた。その妻、祖母も同郷の人だったらしいから、我が父などは、東京生まれなのにアクセントはやや九州人的で昔からヘンだと思っていた。
その家系についても「ファミリーストーリー」としてかなり多事多難で面白く記す価値はあるかと思うが、今回は関係ないのでふれない。
母方のほうは、我の祖父母共に、今は渡良瀬遊水地、谷中湖に水没してしまった、足尾の古河銅山からの鉱毒によって強制的に廃村にさせられた谷中村の出身である。
祖母は、幼児の頃に、一家でその村を離れたが、その家をよく訪れていた田中正造の思い出を晩年まで常々語っていた。明治33年の生まれで、百歳近くまで存命だったから、生前は、谷中村の生き証人として、新聞等に取り上げられたこともある。死ぬまで頭脳明晰、記憶力抜群でほぼ20世紀をまるまる生きた人だ。
我は、その祖母から「田中のおじやん」の話は何度も聞かされて育った。祖母にとって、いや、渡良瀬河流域の農民たちにとって、田中正造るはまさに義人、ヒーローであり、誰もが死ぬまで慕い続けていた。
その祖母からもっと谷中村でのことや田中正造の思い出などよく聞いて記録しておけば良かったと今にして思うが、日本の公害闘争の原点、鉱毒によって廃村にさせられて村を追われた祖父母たち農民の無念の思いは、今も我の中に流れていると今頃になって思うことがある。
我が母は、若い時は生活に追われ忙しくて、彼女のルーツである谷中村や正造翁のことなど、祖母が話しても関心があまりなかったらしいが、我が成人した頃からは、祖母を連れてその一族出身の地である旧谷中村があったところの「遺跡」を訪れている。祖母の死後も遺言にあった散骨するために行っている。
谷中村の大部分は水没して、今は渡良瀬遊水地として、首都圏最大の野鳥のサンクチュアリ、貴重な野生生物の宝庫として知られる渡良瀬遊水地の底に沈んでしまっている。
が、幸いにして、旧出身者たちの強い要望がかない、今も、村の共同墓地や雷電神社があった辺りは水没から逃れて誰でも訪れ散策することができる。
そして我が祖母の生家、その屋敷があったところも、むろん家らしきものは何一つないけれど、やや小高い地形が土台として確認でき、跡地には竹が生い茂りしっかり残っている。他にも数件そうした「屋敷跡」とされるかつて家があった場所はあるけれど、ウチがいちばんはっきりとわかる。村でも屈指の篤農家で土台をしっかり高く盛り上げたからだ。晩年の田中のおじやんは家まで上がってくるのに苦労したらしい。
ちょうど西暦2000年、そこの場所に、祖母の兄弟たちの子、母も含めて、つまり母の甥っ子ら子孫たちで、御影石で祖母の父の名前、廃村時の当主の名を刻んで、『岩波正作屋敷跡顕彰碑』という記念の碑を建てた。正作は我にとって曾祖父になることになる。
母はその石碑を建てたとき訪れているが、我は一緒に行った記憶がない。その屋敷跡には、四半世紀近く前に、まだ祖母が存命だったとき一緒に訪れたが、その頃は今ほど我も関心が薄くてあまり印象にも記憶にも残っていない。祖母はその地でどうであったか。何を語ったのか。
今回、実に、その時以来かと思うが、再びその地に出向き、病み衰えた母の手をひいてその屋敷跡に立ち、石碑を前にしたときに、不思議な気分に襲われた。
我はこの場所、ここ谷中村の、ここから出たのだと喜びとも恐怖ともつかない感動のような高まりに満たされた。我のうち流れる血の何パーセントはこの地のものなのだ。
何十年か前、A・ヘイリーの小説『ルーツ』が米国のみならず日本でも大きな話題になった。そして山口瞳の『血族』や佐藤愛子の『血脈』など同様の、自ら一族のルーツを探す伝記小説がベストセラーになった。
その頃は、我もそのようにもっと一族の歴史、我が出自に関心を持てば良かったのだが、まだ若すぎてとてもそんな大昔の、自分どころか親さえも生まれる前のことにちっとも興味がわかなかった。
残念だが、そのときはまだ機が熟さなかったのだと思うしかない。
今我も老いてきて、ちょうど母が晩年近い祖母を連れて今は葦が茂るだけのその谷中村の屋敷跡を訪れた年代になり、自分も母の手を引き我がルーツの地に再び立ち、まさに感無量、言葉もなかった。
ひと頃、そして今も?「自分探し」というのがあちこちメディアなどで取り上げられ流行ったことがある。
いわく、「本当の自分」とは何なのか、知りたいと、いろんな自己啓発の本を読んだりセミナーに通ったり、カウンセラーを訪ねたりして真の「自分」を知ろうと考えたりした人が多いらしい。
我に言わせれば、自分に本当も嘘もなく、今いる自分こそが良くも悪くもそのまんま自分でしかないわけで、探すも何もそんなのは青い鳥がどこかにいると信じるようなバカなことだと思わざる得ない。
そんなことよりも、我=自分はどうしてこうなんだろう、どうしていつもバカなことばかりしでかすのか、こんな自分はいったいどこから来たのかということこそが関心ある。いったいこんな男はどうして生まれたのかだ。
趣味嗜好、そして思考までも遺伝によってもたらされるとは思わないが、こんな人間がいるのにはそこに、何かしらの前提条件があったことは間違いない。
つまり原因と結果の法則で言うところの、「今」こうしている「我」がいるのには、その「前」の人たちが大きく関係しているはずなのである。
むろん、それは当然、生み育ててくれた両親たちによるところが一番大きいわけだが、そのまた前の祖父母たちの影響もかなりあるように思える。それは見えない地下水脈のように代々受け継がれてきた資質なのではないのか。
じっさい、メンデルの法則によらずとも我に関しては、遺伝学的にも祖父の遺伝子を受け継いだ障害があるし、父方の祖父母はわりと早く死んだこともあり、共に過ごした時間は母方の方が長く、特に祖母は長命だったので、人間的にもずいぶん影響を受けた。
今回のはなしは、その母の母である、我にとって母方の祖母が生まれ育った栃木県の谷中村という、歴史に翻弄され廃村となった村の跡と祖母の屋敷跡を訪れたことの報告である。
その前に・・・
人は男と女から生まれてくるから、それぞれ父方、母方の彼らのまた親たち、つまり祖父母を二組持っている。我の場合、父も母も東京都内で生まれた東京人であるが、その親たちは地方から出てきている。
じっさいのところ、代々父も祖父母もずっと東京生まれだという「江戸っ子」はごく少ないはずで、おそらく数代さかのぼればたいてい皆それぞれ東京以外から東京に出てきたという地方出身者であるかと思う。今は皆東京生まれの顔してすましているが、実は東京は地方出身者たちの集う街なのである。
父のほうは、九州佐賀の出で、その父の父、我の祖父は上京し苦学して早稲田を出て、最後は新聞記者のようなことをやっていた。その妻、祖母も同郷の人だったらしいから、我が父などは、東京生まれなのにアクセントはやや九州人的で昔からヘンだと思っていた。
その家系についても「ファミリーストーリー」としてかなり多事多難で面白く記す価値はあるかと思うが、今回は関係ないのでふれない。
母方のほうは、我の祖父母共に、今は渡良瀬遊水地、谷中湖に水没してしまった、足尾の古河銅山からの鉱毒によって強制的に廃村にさせられた谷中村の出身である。
祖母は、幼児の頃に、一家でその村を離れたが、その家をよく訪れていた田中正造の思い出を晩年まで常々語っていた。明治33年の生まれで、百歳近くまで存命だったから、生前は、谷中村の生き証人として、新聞等に取り上げられたこともある。死ぬまで頭脳明晰、記憶力抜群でほぼ20世紀をまるまる生きた人だ。
我は、その祖母から「田中のおじやん」の話は何度も聞かされて育った。祖母にとって、いや、渡良瀬河流域の農民たちにとって、田中正造るはまさに義人、ヒーローであり、誰もが死ぬまで慕い続けていた。
その祖母からもっと谷中村でのことや田中正造の思い出などよく聞いて記録しておけば良かったと今にして思うが、日本の公害闘争の原点、鉱毒によって廃村にさせられて村を追われた祖父母たち農民の無念の思いは、今も我の中に流れていると今頃になって思うことがある。
我が母は、若い時は生活に追われ忙しくて、彼女のルーツである谷中村や正造翁のことなど、祖母が話しても関心があまりなかったらしいが、我が成人した頃からは、祖母を連れてその一族出身の地である旧谷中村があったところの「遺跡」を訪れている。祖母の死後も遺言にあった散骨するために行っている。
谷中村の大部分は水没して、今は渡良瀬遊水地として、首都圏最大の野鳥のサンクチュアリ、貴重な野生生物の宝庫として知られる渡良瀬遊水地の底に沈んでしまっている。
が、幸いにして、旧出身者たちの強い要望がかない、今も、村の共同墓地や雷電神社があった辺りは水没から逃れて誰でも訪れ散策することができる。
そして我が祖母の生家、その屋敷があったところも、むろん家らしきものは何一つないけれど、やや小高い地形が土台として確認でき、跡地には竹が生い茂りしっかり残っている。他にも数件そうした「屋敷跡」とされるかつて家があった場所はあるけれど、ウチがいちばんはっきりとわかる。村でも屈指の篤農家で土台をしっかり高く盛り上げたからだ。晩年の田中のおじやんは家まで上がってくるのに苦労したらしい。
ちょうど西暦2000年、そこの場所に、祖母の兄弟たちの子、母も含めて、つまり母の甥っ子ら子孫たちで、御影石で祖母の父の名前、廃村時の当主の名を刻んで、『岩波正作屋敷跡顕彰碑』という記念の碑を建てた。正作は我にとって曾祖父になることになる。
母はその石碑を建てたとき訪れているが、我は一緒に行った記憶がない。その屋敷跡には、四半世紀近く前に、まだ祖母が存命だったとき一緒に訪れたが、その頃は今ほど我も関心が薄くてあまり印象にも記憶にも残っていない。祖母はその地でどうであったか。何を語ったのか。
今回、実に、その時以来かと思うが、再びその地に出向き、病み衰えた母の手をひいてその屋敷跡に立ち、石碑を前にしたときに、不思議な気分に襲われた。
我はこの場所、ここ谷中村の、ここから出たのだと喜びとも恐怖ともつかない感動のような高まりに満たされた。我のうち流れる血の何パーセントはこの地のものなのだ。
何十年か前、A・ヘイリーの小説『ルーツ』が米国のみならず日本でも大きな話題になった。そして山口瞳の『血族』や佐藤愛子の『血脈』など同様の、自ら一族のルーツを探す伝記小説がベストセラーになった。
その頃は、我もそのようにもっと一族の歴史、我が出自に関心を持てば良かったのだが、まだ若すぎてとてもそんな大昔の、自分どころか親さえも生まれる前のことにちっとも興味がわかなかった。
残念だが、そのときはまだ機が熟さなかったのだと思うしかない。
今我も老いてきて、ちょうど母が晩年近い祖母を連れて今は葦が茂るだけのその谷中村の屋敷跡を訪れた年代になり、自分も母の手を引き我がルーツの地に再び立ち、まさに感無量、言葉もなかった。
祖父母の地を訪ねて~渡良瀬遊水地と旧谷中村・1 ― 2016年05月15日 22時05分18秒
★我のルーツを求めて
この土日、14日~15日は、栃木県栃木市藤岡町へ母連れて行っていた。ラムサール条約登録で知られる渡良瀬遊水地の中にある、谷中村である。そこは、母方の先祖代々の地である。
足尾銅山がもたらした鉱毒で、明治政府により村民全員が強制的に移転させられ「廃村」にさせられた。「谷中村」は義人田中正造の名と共に、日本の公害闘争の原点としても知られている。
2011年の3.11大震災による原発事故で、放射能という毒で、生活の場を奪われ故郷を追われた町民たちが今もたくさんいるという「現実」を思うとき、この地とそこに住んでいた者たちの無念の思いに今一度スポットをあてるべきではないかとも思う。
今日はその遊水地の近くの藤岡の公民館で、「谷中村の遺跡を守る会」の総会があり、谷中村の旧住民の子孫の一人として、母を講演会のパネラーとして出席させるべく連れて行ったのだ。
母は病み上がりとかいう以前に、退院してまだ2日しか経っていない。以前よりこのイベントに参加できるか何度も打診があった。が、癌を患い体調がはっきりしないこともあって、行くのはまず無理だろうと連絡してきた。
しかも、今月に入ってから一週間またしても入院していたばかりであり、体力も戻らず本来はまだ家で静養に努めなければならないはずである。しかし、母の強い希望で、生きているうちにもう一度親たちの生まれ育った地、母のルーツと言える谷中村の地に立ちたいという願いをかなえるため無理を承知で連れて行ったのだ。
先だって、圏央道も東北道に繋がり、行くのに所要時間も大幅に短縮されたことと、向うで親戚や多くの知人方に再会できたこともあり、母は幸いなことにすこぶる元気で体調も良く、皆に嬉しい驚きを与えることができた。
今回急に泊めて頂いた藤岡町の「遺跡を守る会」の前会長宅を夕方出て、約2時間で無事帰宅できたが、今もまだ母はコーフン冷めやらぬ上機嫌である。
正直なところ、果たして今の体調で行けるか、行けたとしても向うで容体悪くしてご迷惑かけるのでは、と金曜日の夜まであれこれ案じて、迷っていたが、結果として行って大正解、大成功であった。こんなに元気な母は久しぶりに見た。
今は、母より我の方が、疲労困憊と睡眠不足でもう限界なので、後ほど画像を交えて何回かに分けて、今回の母との我が一族を辿る度について記しておきたい。※ちなみに父は立川の病院に今も入院中で、この二日、見舞いに顔出せなかった。いちおう、出かけることは前日の金曜に伝えたが、明日行って理解しているだろうか。
この土日、14日~15日は、栃木県栃木市藤岡町へ母連れて行っていた。ラムサール条約登録で知られる渡良瀬遊水地の中にある、谷中村である。そこは、母方の先祖代々の地である。
足尾銅山がもたらした鉱毒で、明治政府により村民全員が強制的に移転させられ「廃村」にさせられた。「谷中村」は義人田中正造の名と共に、日本の公害闘争の原点としても知られている。
2011年の3.11大震災による原発事故で、放射能という毒で、生活の場を奪われ故郷を追われた町民たちが今もたくさんいるという「現実」を思うとき、この地とそこに住んでいた者たちの無念の思いに今一度スポットをあてるべきではないかとも思う。
今日はその遊水地の近くの藤岡の公民館で、「谷中村の遺跡を守る会」の総会があり、谷中村の旧住民の子孫の一人として、母を講演会のパネラーとして出席させるべく連れて行ったのだ。
母は病み上がりとかいう以前に、退院してまだ2日しか経っていない。以前よりこのイベントに参加できるか何度も打診があった。が、癌を患い体調がはっきりしないこともあって、行くのはまず無理だろうと連絡してきた。
しかも、今月に入ってから一週間またしても入院していたばかりであり、体力も戻らず本来はまだ家で静養に努めなければならないはずである。しかし、母の強い希望で、生きているうちにもう一度親たちの生まれ育った地、母のルーツと言える谷中村の地に立ちたいという願いをかなえるため無理を承知で連れて行ったのだ。
先だって、圏央道も東北道に繋がり、行くのに所要時間も大幅に短縮されたことと、向うで親戚や多くの知人方に再会できたこともあり、母は幸いなことにすこぶる元気で体調も良く、皆に嬉しい驚きを与えることができた。
今回急に泊めて頂いた藤岡町の「遺跡を守る会」の前会長宅を夕方出て、約2時間で無事帰宅できたが、今もまだ母はコーフン冷めやらぬ上機嫌である。
正直なところ、果たして今の体調で行けるか、行けたとしても向うで容体悪くしてご迷惑かけるのでは、と金曜日の夜まであれこれ案じて、迷っていたが、結果として行って大正解、大成功であった。こんなに元気な母は久しぶりに見た。
今は、母より我の方が、疲労困憊と睡眠不足でもう限界なので、後ほど画像を交えて何回かに分けて、今回の母との我が一族を辿る度について記しておきたい。※ちなみに父は立川の病院に今も入院中で、この二日、見舞いに顔出せなかった。いちおう、出かけることは前日の金曜に伝えたが、明日行って理解しているだろうか。
新潟でのフーテナニー報告記・序 ― 2013年06月10日 13時55分14秒
★心地よい疲れに身を任せつつ
新潟から帰ってきて一夜明けた。
もっと疲れがどっと出て腰痛悪化となることも覚悟したが、腰のほうは大したことなく、昨晩は倒れこむように早く寝たせいか、毎度の早朝に目覚めても疲労感なくスッキリ起きられた。
今はけだるさは残っているが、それも無事に終わり帰って来れた安堵感からの心地よい疲れである。それにしても事故らず、今回は大きな失敗もしでかすことなく無事に帰ってこれて本当に良かったと今つくづく思う。
実は昨日の朝は、睡眠不足と前日の運転の疲れと残ったアルコールで頭痛がひどく、目もかすみ時おりぼーとして意識がとぶほど最悪の体調だった。寝たのは午前1時過ぎで、起きたのは6時である。ともかくだるいし眠くてしんどかった。しかし帰らねばならぬ。運転では事故を起こさぬよう自ら叱咤しつつ、大きな不安と緊張感を抱えて帰路のハンドルを握り続けた。
同乗の男性二人も運転免許は持っているとのことだったが、1人はもう何年も運転したことのないペーパードライバーであり、もう一人も自分の車は持ってない、日頃運転し慣れていない方だったから初めての車を、それもまして高速道の運転は代わってお任せできない。向こうを午前10時頃に出たかと思う。
幸いなことは急いで帰らねばならぬ用事は誰もなかったので、二か所SAでゆっくり休憩して極慎重運転でとばさずに帰ってきた。静かだとすぐ居眠りしそうだったのでひたすら大声でバカ話しつつ皆疲れてはいたがお付き合い頂いて、自分は睡魔と闘った。
ただ、新潟側は水と緑あふれて空気もしっとりしてとても爽やかだったのに、湯沢から谷川岳下の全長11キロものトンネルを抜けて関東平野側に出たとたん強い陽射しとカラカラに乾いた空気が待っていて雨が少ないから風景も白茶けたような荒涼とした砂漠感が強くあった。あとで知ったのだが、関東はあちこちで30度の真夏日となる暑い日だったのだ。
そこをガソリン節約のため冷房を入れずに窓を少し開けながら走り続けた。ともかく暑くてたまらず濡れタオルを頭に巻いてハンドルを握り続けて夕刻に無事帰ってこれたのだが、どうやら軽い熱射病にかかったようで昨晩は喉が渇き火照り感が収まらず、冷却剤を首や額に乗せて何とかクールダウンさせながら寝たのだった。
それにしても一泊二日で全740キロの走行距離を運転した。運送などの仕事をしている人なら一日でそれぐらい走ってしまうだろうが、自分としては新記録である。以前、三重県津市での似たようなフォークイベント、「ええかげん祭り」に参加したときもこの車で行き、距離だけはもっと走ったはずだが、運転は同乗の友人にほとんど任せてしまったので、もっと遠方でも自分は全く楽ちんであった。
今回は行きも帰りも全て一人で運転したのだから笑われるかと思うが自分でもなかなか大したもんだと感心している。まあ、ともかく事故らずに行って無事に帰れたのだからこれも神のご加護があったと思わねばならない。何はともあれ終わりよければすべて良しである。新潟での今回のフーテナニー、行けて参加して帰れて良かった。
そして今日は一転して梅雨らしい久々の曇り空。先ほど昼過ぎザーと強いにわか雨が降ったら急に涼しくなった。雨上がりしっとりとして水のにおいがしている。
さて、いつもなら何回かにわけて、拙ブログではこうして参加したイベントの報告記を何日かかけてだらだらちまちま「報告」していくのだが、今は多忙ゆえにゆっくりそうした作業はできないかと思う。それを始めるとどれほど時間がかかるか自分でもわからない。なので撮った画像などは別のブログのほうで近日まとめてアップさせるとして、文字枠のまとめというか今回の報告と感想などは後ほど一気に一回のブログで書き上げることを約束する。
ぜひご笑覧いただきたい。
新潟から帰ってきて一夜明けた。
もっと疲れがどっと出て腰痛悪化となることも覚悟したが、腰のほうは大したことなく、昨晩は倒れこむように早く寝たせいか、毎度の早朝に目覚めても疲労感なくスッキリ起きられた。
今はけだるさは残っているが、それも無事に終わり帰って来れた安堵感からの心地よい疲れである。それにしても事故らず、今回は大きな失敗もしでかすことなく無事に帰ってこれて本当に良かったと今つくづく思う。
実は昨日の朝は、睡眠不足と前日の運転の疲れと残ったアルコールで頭痛がひどく、目もかすみ時おりぼーとして意識がとぶほど最悪の体調だった。寝たのは午前1時過ぎで、起きたのは6時である。ともかくだるいし眠くてしんどかった。しかし帰らねばならぬ。運転では事故を起こさぬよう自ら叱咤しつつ、大きな不安と緊張感を抱えて帰路のハンドルを握り続けた。
同乗の男性二人も運転免許は持っているとのことだったが、1人はもう何年も運転したことのないペーパードライバーであり、もう一人も自分の車は持ってない、日頃運転し慣れていない方だったから初めての車を、それもまして高速道の運転は代わってお任せできない。向こうを午前10時頃に出たかと思う。
幸いなことは急いで帰らねばならぬ用事は誰もなかったので、二か所SAでゆっくり休憩して極慎重運転でとばさずに帰ってきた。静かだとすぐ居眠りしそうだったのでひたすら大声でバカ話しつつ皆疲れてはいたがお付き合い頂いて、自分は睡魔と闘った。
ただ、新潟側は水と緑あふれて空気もしっとりしてとても爽やかだったのに、湯沢から谷川岳下の全長11キロものトンネルを抜けて関東平野側に出たとたん強い陽射しとカラカラに乾いた空気が待っていて雨が少ないから風景も白茶けたような荒涼とした砂漠感が強くあった。あとで知ったのだが、関東はあちこちで30度の真夏日となる暑い日だったのだ。
そこをガソリン節約のため冷房を入れずに窓を少し開けながら走り続けた。ともかく暑くてたまらず濡れタオルを頭に巻いてハンドルを握り続けて夕刻に無事帰ってこれたのだが、どうやら軽い熱射病にかかったようで昨晩は喉が渇き火照り感が収まらず、冷却剤を首や額に乗せて何とかクールダウンさせながら寝たのだった。
それにしても一泊二日で全740キロの走行距離を運転した。運送などの仕事をしている人なら一日でそれぐらい走ってしまうだろうが、自分としては新記録である。以前、三重県津市での似たようなフォークイベント、「ええかげん祭り」に参加したときもこの車で行き、距離だけはもっと走ったはずだが、運転は同乗の友人にほとんど任せてしまったので、もっと遠方でも自分は全く楽ちんであった。
今回は行きも帰りも全て一人で運転したのだから笑われるかと思うが自分でもなかなか大したもんだと感心している。まあ、ともかく事故らずに行って無事に帰れたのだからこれも神のご加護があったと思わねばならない。何はともあれ終わりよければすべて良しである。新潟での今回のフーテナニー、行けて参加して帰れて良かった。
そして今日は一転して梅雨らしい久々の曇り空。先ほど昼過ぎザーと強いにわか雨が降ったら急に涼しくなった。雨上がりしっとりとして水のにおいがしている。
さて、いつもなら何回かにわけて、拙ブログではこうして参加したイベントの報告記を何日かかけてだらだらちまちま「報告」していくのだが、今は多忙ゆえにゆっくりそうした作業はできないかと思う。それを始めるとどれほど時間がかかるか自分でもわからない。なので撮った画像などは別のブログのほうで近日まとめてアップさせるとして、文字枠のまとめというか今回の報告と感想などは後ほど一気に一回のブログで書き上げることを約束する。
ぜひご笑覧いただきたい。
男三人、犬と新潟阿賀野へ往復740キロの旅 ― 2013年06月09日 17時00分26秒
★無事帰宅できました。
日曜日の夕方。先ほど新潟で催されたフーテナニーから帰って来た。片道370キロ、往復で実に740キロの行程をこの自分一人で行きも帰りも運転してきた。フーテナニーは大盛況で終わったし初めての会場まで迷わずに行けて事故もなく帰ってこれて本当に良かった。
全く初めての地で濃密な時を過ごしてきたこととあまりに疲れたのでもう頭の芯が痺れたように痛くぼーとして足は鉛のように重く痛いが気分は昂揚している。
待ちくたびれた留守番の犬たちの散歩を済ませたらいったん寝てそれから今回の小旅行の報告記をあげていく。
日曜日の夕方。先ほど新潟で催されたフーテナニーから帰って来た。片道370キロ、往復で実に740キロの行程をこの自分一人で行きも帰りも運転してきた。フーテナニーは大盛況で終わったし初めての会場まで迷わずに行けて事故もなく帰ってこれて本当に良かった。
全く初めての地で濃密な時を過ごしてきたこととあまりに疲れたのでもう頭の芯が痺れたように痛くぼーとして足は鉛のように重く痛いが気分は昂揚している。
待ちくたびれた留守番の犬たちの散歩を済ませたらいったん寝てそれから今回の小旅行の報告記をあげていく。
久々に都心を車で走って西新井大師へ ― 2013年03月30日 21時50分40秒
★西新井大師に初めて参詣した。
今日はそんなわけで、女友達に請われて足立区西新井まで車で出向いた。さすがに疲れたし腰も痛いが、明日の「無頼庵映画塾」の準備も何もしていないのですぐに寝るわけにはいかない。
明日はどうやら参加者少ないかもしれないが、多かろうが少なかろうが人を迎え入れるのは同じことで、部屋を片付けたり料理を仕込まないとならないのである。頑張らねば。
生まれて初めて足立区西新井という街に行った。西新井大師で知られているが自分にとっては地の果てという感覚である。まあ、この辺りに住んでいる人たちにすれば、東京の西のはずれ、奥多摩こそ人外魔境の地の果てだと思っているだろうが。
痔分は根本的に、出不精というべきか、用事がなければ都心に出ることなど絶対しないし、車だって目的なきドライブなど考えたこともない。用件があり仕方なく出る羽目となる。
だから東京でも真逆に位置する荒川を越えた先などへまさか車で行くとは考えたこともなかった。だが、友人の頼みなら仕方ない。今日は朝9時から車の中を片づけて、まず引き腹亜学校のある大泉学園へ向かった。彼女とは、西武線柳沢駅前で待ち合わせた。
で、まず大泉の中学校から段ボール箱を積み込んで、谷原から環八、さらには環七に出て、ひたすら東に向かって、新たな赴任先の中学がある西新井へ向かったのだ。
以外だったのは、ウチから西新井までは、メーターを見る限りわずか55キロしか走っていない。帰りもウチに戻って確認すると、今日の走行距離は総計110キロで、何だ、そんな少ししか走っていない、つまりそれほど遠くはないことに驚かされた。まして都内に入ってから、大泉から西新井まではあっと言う間だった。
そんなことに驚いたのは、このところ新潟にライブツアーでよく行くことがあって、時間的にはさほど変わらずとも、片道300キロぐらいは常に走っていたので、東京都内がそんなに近いというか、狭いことを忘れ、その距離感覚が狂っていたのだ。ただ時間的には、かなりとられた。信号のない高速道路を時速100キロで走るのと信号で常に止まってちんたら一般道を走るのの違いである。満タンにして出たガソリンも全量の四分の一しか使っていない。運転する身としては都内の方が車が多く道もよくわからず疲れたが。
もう昼過ぎには西新井の中学に大泉からの荷物は下ろして、用件は終わった。時間もあったので、西新井大師の参道のパーキングに車停めて、二人で大師を参詣して参道の店屋に入って食事してお土産なども買い求めた。
その後、2時に、向こうを出て、中野坂上の女友達の家に残りの荷物を下ろしてお茶飲んで少し休んでからまた青梅街道で帰った。しかし、信号ごとに必ず停まらされ、ともかく時間がかかって4時前に別れたのにウチに戻れたのは、夕方6時近くとなった。中野から2時間もかかったことになる。改めて自分は都心から離れた田舎に住んでいることにうんざりさせられた。
ともあれ、西新井は大師も含めてなかなか落ち着いた趣のある良い街だった。大師様も柴又の帝釈天に似てはいるが、あんなに派手さはなく、かといって寂れてもなく、ほどほどの頃合の小体な観光地という雰囲気は好感がもてた。また願わくば折々訪れてみたい。特に「花の寺」として有名だそうだ。
明日のこともあり、正直今日は気が乗らなかったが、見知らぬ土地に行って良い気分転換となった、もっと遠いところ、大移動かと覚悟したが都内に入ったらすぐ近くて全然そんなことはなかった。辛かったのは中野からの帰り道だけで、青梅街道にはホント辟易、うんざりである。まあ、そんな遠い西のハズレに住んでいる自分がいけないのであるが。
もう今晩は疲れて起きていられない。明日うんと早く起きてそれから「映画塾」の準備がんばろう。どうかまた一人でも多くのお客様が来てくれるよう祈りながら寝るとして。
今日はそんなわけで、女友達に請われて足立区西新井まで車で出向いた。さすがに疲れたし腰も痛いが、明日の「無頼庵映画塾」の準備も何もしていないのですぐに寝るわけにはいかない。
明日はどうやら参加者少ないかもしれないが、多かろうが少なかろうが人を迎え入れるのは同じことで、部屋を片付けたり料理を仕込まないとならないのである。頑張らねば。
生まれて初めて足立区西新井という街に行った。西新井大師で知られているが自分にとっては地の果てという感覚である。まあ、この辺りに住んでいる人たちにすれば、東京の西のはずれ、奥多摩こそ人外魔境の地の果てだと思っているだろうが。
痔分は根本的に、出不精というべきか、用事がなければ都心に出ることなど絶対しないし、車だって目的なきドライブなど考えたこともない。用件があり仕方なく出る羽目となる。
だから東京でも真逆に位置する荒川を越えた先などへまさか車で行くとは考えたこともなかった。だが、友人の頼みなら仕方ない。今日は朝9時から車の中を片づけて、まず引き腹亜学校のある大泉学園へ向かった。彼女とは、西武線柳沢駅前で待ち合わせた。
で、まず大泉の中学校から段ボール箱を積み込んで、谷原から環八、さらには環七に出て、ひたすら東に向かって、新たな赴任先の中学がある西新井へ向かったのだ。
以外だったのは、ウチから西新井までは、メーターを見る限りわずか55キロしか走っていない。帰りもウチに戻って確認すると、今日の走行距離は総計110キロで、何だ、そんな少ししか走っていない、つまりそれほど遠くはないことに驚かされた。まして都内に入ってから、大泉から西新井まではあっと言う間だった。
そんなことに驚いたのは、このところ新潟にライブツアーでよく行くことがあって、時間的にはさほど変わらずとも、片道300キロぐらいは常に走っていたので、東京都内がそんなに近いというか、狭いことを忘れ、その距離感覚が狂っていたのだ。ただ時間的には、かなりとられた。信号のない高速道路を時速100キロで走るのと信号で常に止まってちんたら一般道を走るのの違いである。満タンにして出たガソリンも全量の四分の一しか使っていない。運転する身としては都内の方が車が多く道もよくわからず疲れたが。
もう昼過ぎには西新井の中学に大泉からの荷物は下ろして、用件は終わった。時間もあったので、西新井大師の参道のパーキングに車停めて、二人で大師を参詣して参道の店屋に入って食事してお土産なども買い求めた。
その後、2時に、向こうを出て、中野坂上の女友達の家に残りの荷物を下ろしてお茶飲んで少し休んでからまた青梅街道で帰った。しかし、信号ごとに必ず停まらされ、ともかく時間がかかって4時前に別れたのにウチに戻れたのは、夕方6時近くとなった。中野から2時間もかかったことになる。改めて自分は都心から離れた田舎に住んでいることにうんざりさせられた。
ともあれ、西新井は大師も含めてなかなか落ち着いた趣のある良い街だった。大師様も柴又の帝釈天に似てはいるが、あんなに派手さはなく、かといって寂れてもなく、ほどほどの頃合の小体な観光地という雰囲気は好感がもてた。また願わくば折々訪れてみたい。特に「花の寺」として有名だそうだ。
明日のこともあり、正直今日は気が乗らなかったが、見知らぬ土地に行って良い気分転換となった、もっと遠いところ、大移動かと覚悟したが都内に入ったらすぐ近くて全然そんなことはなかった。辛かったのは中野からの帰り道だけで、青梅街道にはホント辟易、うんざりである。まあ、そんな遠い西のハズレに住んでいる自分がいけないのであるが。
もう今晩は疲れて起きていられない。明日うんと早く起きてそれから「映画塾」の準備がんばろう。どうかまた一人でも多くのお客様が来てくれるよう祈りながら寝るとして。
これから出発 ― 2012年10月21日 07時11分28秒
詩人とミュージシャンとの間に① ― 2012年06月04日 16時37分05秒
★大まかな報告記を記していく
新潟から帰ってきて一夜明けた。今、翌月曜の夕方。
足が笑う、という言葉があるが、ウチから新潟まで行きに332キロ、向こうで向こうでガソリン入れて帰りに329キロ、往復で650数キロ走り続け、その間ずっとアクセルを踏み続けた右足の膝はもうガクガクである。その他、何もしていないのに同じ格好をしていただけで、腰や肩は凝り固まって痛い。体の節々がだるく痛い。でも気分はすっきり爽快である。行って良かった、終わって良かったと今心は満足している。
昨晩は、枕元のスタンドの明りもつけたままあっと言う間に眠りに落ちた。泥のように深く眠り気がついたら朝だった。今日月曜は、母の血液検査で立川へ連れて行く用事があり、午前はそれで潰れたが、昼食にそうめん茹でて食べさせてから、親たちはデイサービスに行ったので午後少しだけまた昼寝しようとベッドに衣服のまま横になった。そしてまた再び深く眠ってしまい夕方に起きたというわけだ。
これから何回かに分けて今回の新潟行のことをまずは文章で報告していきたい。お付き合い下さい。
今回の新潟の旅、旅と言うほどの長さもなく、たった一泊二日間であり、それも土曜日の朝出て、その日に肝要のイベントがあって、一晩泊って翌日はもう昼には帰路についたのだからごく簡単なものであった。それでも大いに気分転換になったし、この程度の長さで助かったと思っている。
というのは、自分にとってどこへでも行くこと、旅という類のことは癒しでも休養でも全くなく、真逆の苦行のようなものであり、ともかく現地ではのんびりできずあれこれ動き回って忙しく、夜は夜で呑んで騒いで深夜まで起きて、それでいて朝は早朝から起こされたり起きねばならず、期間が長くなるほど疲労は蓄積してくる。まるで疲れ果てに行くようなものなのだ。
特に前回の新潟公演旅行は思い返しても辛かった。残してきた老犬のことで気が休まらないこともあったが、そもそも行く日の前の晩もほぼ徹夜状態で、向こうでも初日は多くの皆は先に眠ったのにずっと明け方まで話して起きていて、寝たかと思うと朝6時過ぎ起こされ近くの日帰り温泉施設に連れられて行き、二日目は、もう頭痛がひどく起きていられず開場時間までの間、その公演施設の倉庫にもぐりこんで仮眠をとってなんとか体力回復できた。そしてその晩、主催者の家で布団敷いて頂きようやくぐっすり短時間だけれど深く眠れた。
幸いそのときは行き帰りも車は人様の運転で自分はただ座って道中バカ話をしているだけで良かったのでじっさいのところ体力的なことは何一つしなかったのに、戻ってから一週間は疲労感が残っていた。いや、それはもっと長く続いたのかもしれない。
今回は、行った当日にすぐイベントがあったことも勢いとして良かったし、睡眠不足は相変わらずとなっても一泊で向こうを発てたのも良かった。これがもう一泊あったらさらに疲労は蓄積して疲れのあまり帰り道の関越道で居眠り運転を起こしていたに違いない。有馬さんの教えであるが、ともかく無理はせずに一つのことに絞ってあれもこれもと詰め込むことはすべきではない。できるだけ要件だけ済ませたらば早く帰るに尽きると今回は痛感した。
さて、まだそんなどうでもいいことばかり書いて、肝心の有馬敲さんと新潟のシンガーたちとのコンサートについて何もふれていない。そのコンサートもいろんな意味で面白く、刺激を受けて考えさせられること大であったが、今回の収穫としてもう一つあった。
それは、コンサート会場に近い地元福井地区にある旧庄屋、佐藤家というわらぶき屋根の巨大な古民家に泊まれたことで、憧れだった農家の囲炉裏を囲んで食事もでき、大広間で寝て二日目の午前はそこで有馬さんとのんびり雑談もできたことだ。自分にとって望外というか、予期せぬ歓びであり、まさか本当の古い民家に宿泊できるとは思ってもいなかった。そこのこともきちんと報告しておきたい。また、ぜひ関心有る方は東京からご一緒してその佐藤家にお連れしたいと考えている。文化財級の築250年の農家に気軽に宿泊できる機会などまずこの辺ではありえない。内部の様子などもおいおい別ブログのほうでアップさせたい。
その他、詩と音楽の違いではなく、詩人とミュージシャンとの違いということについてもいろいろ考えされ気づくところ大きかった。自分にとっては詩も音楽も表現行為において全く差はなく違いも感じないのだが、それぞれの観客、聴き手は大きく異なる。その違いはいったいどこにあるのか答えはまだみつからないが、考えてみたいと思う。
今はいろいろ刺激を受けて、また今夏に向けて一つ一つきんとさせて頑張りたいと決意を新たにしている。まずは今月10日、ウチで催す手作り味噌作りパーティ、どなたでも気軽にご参加を。遊びに来てください。新潟のお土産も出します。
新潟から帰ってきて一夜明けた。今、翌月曜の夕方。
足が笑う、という言葉があるが、ウチから新潟まで行きに332キロ、向こうで向こうでガソリン入れて帰りに329キロ、往復で650数キロ走り続け、その間ずっとアクセルを踏み続けた右足の膝はもうガクガクである。その他、何もしていないのに同じ格好をしていただけで、腰や肩は凝り固まって痛い。体の節々がだるく痛い。でも気分はすっきり爽快である。行って良かった、終わって良かったと今心は満足している。
昨晩は、枕元のスタンドの明りもつけたままあっと言う間に眠りに落ちた。泥のように深く眠り気がついたら朝だった。今日月曜は、母の血液検査で立川へ連れて行く用事があり、午前はそれで潰れたが、昼食にそうめん茹でて食べさせてから、親たちはデイサービスに行ったので午後少しだけまた昼寝しようとベッドに衣服のまま横になった。そしてまた再び深く眠ってしまい夕方に起きたというわけだ。
これから何回かに分けて今回の新潟行のことをまずは文章で報告していきたい。お付き合い下さい。
今回の新潟の旅、旅と言うほどの長さもなく、たった一泊二日間であり、それも土曜日の朝出て、その日に肝要のイベントがあって、一晩泊って翌日はもう昼には帰路についたのだからごく簡単なものであった。それでも大いに気分転換になったし、この程度の長さで助かったと思っている。
というのは、自分にとってどこへでも行くこと、旅という類のことは癒しでも休養でも全くなく、真逆の苦行のようなものであり、ともかく現地ではのんびりできずあれこれ動き回って忙しく、夜は夜で呑んで騒いで深夜まで起きて、それでいて朝は早朝から起こされたり起きねばならず、期間が長くなるほど疲労は蓄積してくる。まるで疲れ果てに行くようなものなのだ。
特に前回の新潟公演旅行は思い返しても辛かった。残してきた老犬のことで気が休まらないこともあったが、そもそも行く日の前の晩もほぼ徹夜状態で、向こうでも初日は多くの皆は先に眠ったのにずっと明け方まで話して起きていて、寝たかと思うと朝6時過ぎ起こされ近くの日帰り温泉施設に連れられて行き、二日目は、もう頭痛がひどく起きていられず開場時間までの間、その公演施設の倉庫にもぐりこんで仮眠をとってなんとか体力回復できた。そしてその晩、主催者の家で布団敷いて頂きようやくぐっすり短時間だけれど深く眠れた。
幸いそのときは行き帰りも車は人様の運転で自分はただ座って道中バカ話をしているだけで良かったのでじっさいのところ体力的なことは何一つしなかったのに、戻ってから一週間は疲労感が残っていた。いや、それはもっと長く続いたのかもしれない。
今回は、行った当日にすぐイベントがあったことも勢いとして良かったし、睡眠不足は相変わらずとなっても一泊で向こうを発てたのも良かった。これがもう一泊あったらさらに疲労は蓄積して疲れのあまり帰り道の関越道で居眠り運転を起こしていたに違いない。有馬さんの教えであるが、ともかく無理はせずに一つのことに絞ってあれもこれもと詰め込むことはすべきではない。できるだけ要件だけ済ませたらば早く帰るに尽きると今回は痛感した。
さて、まだそんなどうでもいいことばかり書いて、肝心の有馬敲さんと新潟のシンガーたちとのコンサートについて何もふれていない。そのコンサートもいろんな意味で面白く、刺激を受けて考えさせられること大であったが、今回の収穫としてもう一つあった。
それは、コンサート会場に近い地元福井地区にある旧庄屋、佐藤家というわらぶき屋根の巨大な古民家に泊まれたことで、憧れだった農家の囲炉裏を囲んで食事もでき、大広間で寝て二日目の午前はそこで有馬さんとのんびり雑談もできたことだ。自分にとって望外というか、予期せぬ歓びであり、まさか本当の古い民家に宿泊できるとは思ってもいなかった。そこのこともきちんと報告しておきたい。また、ぜひ関心有る方は東京からご一緒してその佐藤家にお連れしたいと考えている。文化財級の築250年の農家に気軽に宿泊できる機会などまずこの辺ではありえない。内部の様子などもおいおい別ブログのほうでアップさせたい。
その他、詩と音楽の違いではなく、詩人とミュージシャンとの違いということについてもいろいろ考えされ気づくところ大きかった。自分にとっては詩も音楽も表現行為において全く差はなく違いも感じないのだが、それぞれの観客、聴き手は大きく異なる。その違いはいったいどこにあるのか答えはまだみつからないが、考えてみたいと思う。
今はいろいろ刺激を受けて、また今夏に向けて一つ一つきんとさせて頑張りたいと決意を新たにしている。まずは今月10日、ウチで催す手作り味噌作りパーティ、どなたでも気軽にご参加を。遊びに来てください。新潟のお土産も出します。
熊坂路得子新潟ツアー2012の報告記はこちら ― 2012年05月30日 23時59分47秒
http://masdart.exblog.jp/18038228/
遅くなりましたが、先に、4月末に、熊坂路得子さんのツアーで新潟へ行ったときの報告、一部ですが、ようやくアップいたしました。ぜひご覧下さい。今回の新潟旅行から戻りましたら続きをアップさせます。関係者の皆さん、遅れてごめんなさい。
遅くなりましたが、先に、4月末に、熊坂路得子さんのツアーで新潟へ行ったときの報告、一部ですが、ようやくアップいたしました。ぜひご覧下さい。今回の新潟旅行から戻りましたら続きをアップさせます。関係者の皆さん、遅れてごめんなさい。
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