祖父母の地を訪ねて~渡良瀬遊水地と旧谷中村・後 ― 2016年05月18日 23時31分19秒
★人は求められてこそ生きながらえる。
いろいろ書きたいことはあるけれど、今回の母と我がルーツの地を訪れた報告記はひとまず終わりにしたい。
今回の旅は、母も会員となっている『谷中村の遺跡を守る会』の本年度の総会があり、その中での記念行事として、「岩波正作屋敷跡顕彰碑について」という題で、その子孫である母の従妹の講話が予定されていたからだ。
実は、元々その従妹より年上の我が母にそうした依頼があったのだが、母は癌で体調が悪くて、とても栃木市藤岡まで行くことはできそうにない。それで、その従妹とあれこれ電話で一族の歴史を伝え話して、まず無理だけどもし元気になって行けたら行くからということで、お願いした。本人も従妹も主催側でも母の参加は無理だと思っていた。
しかも今月に入ってもまた二回目の入院をしてしまい、退院できたのが直前の11日水曜で、その総会は15日の午後からだった。常識では二日前まで入院していた者がご近所ならともかくも栃木まで来るとは思ってもないしありえない。
が、今回の入院は病状が軽かったことと逆に病院にいた方が一切の雑事から解放され休養もとれ栄養も満たされて体力があったことも幸いして、退院後は存外体調も良く、当人もならば何としても行きたいと強く希望したので、急遽、前日土曜日の午後から出発することにしたのだ。
従妹のところに泊めてもらうことも考えたが、より会場に近い、「遺跡を守る会」の前会長宅に泊めてもらうことをお願いした。前会長は先年亡くなられてしまったが、その家とはかねてより親戚同様の付き合いさせて頂いて、我の祖母も四半世紀前に谷中村に「里帰り」した際に泊めて頂いたご縁がある。むろんのこと、そこの方たちも旧谷中村の出である。
現地は、東北自動車道、佐野藤岡インターか、館林インターで降り、栃木市藤岡町、私鉄の藤岡という駅に近い。
以前、今いるウチの犬、ベルコを佐野までもらいに行ったことがあるが、そのときは圏央道が東北道まで繋がってなくて、桶川北本までしか行けなかったのだ。高速道はともかく下の一般道でやたらに時間がかかってうんざりした記憶がある。
が、先日、その部分も東北道まで通ったので、今回は実に早かった。行きは母の体調を見ながら二回休憩でSAに入ったものの、午後出て夕方早めに着いてしまった。
帰りは、休憩なしで時速80キロでゆっくり走っても、向うのお宅を出て自宅まで戻るのにかかった時間はジャスト2時間に過ぎなかった。じっさいわかったのは、日の出インターから入って、館林インターまでの圏央道と東北道を合わせても片道90キロもない。
山梨の古民家に行くために、八王子インターから須玉インターまで走るのに、片道約110キロだから、山梨へ行くより佐野藤岡に行く方がはるかに近かったのだ。何か拍子抜けしてしまった。これならもっとビュンビュン走れば、ウチから一時間半ほどで渡良瀬遊水地~谷中村跡まで行けるではないか。
今までは、高速が繋がっていなかったこともあるが、何かもっと遠くて行くのが面倒だと何となく思い込んでいた。これならもっと気軽に行けるし、また母を故郷に連れて行けるとうれしくなった。※佐野は、戦時中、母が女学生の時に東京から疎開していた地で、母の最終学歴は、佐野高女卒である。
向うに着いたら、その迎えてくれた前会長夫人も、向うの知人、親戚たちも皆全員が母が元気なのに驚いていた。すっかり痩せてはしまったけれど、向うに着いたら意外なほど母は元気で、旧知の人たちとの再会が嬉しかったこともあるが、興奮してひたすらしゃべりまくりである。
翌日も、朝からその家の畑に出向いて手伝ったり、ひたすら精力的に動いている。自宅だと、たいてい午後は疲れが出てきて横になって仮眠とるのが日課なのだが、まったく疲れも見せず元気である。こちらのほうも驚かされたし、やはり無理してでもこっちに連れてきて良かったと思った。
会場でも皆に歓迎され、マイクを握り予定されていた時間を超えて話すこともできた。見ていてどこにこんな体力が残ってたのかと不思議なくらいに元気である。
終わって皆に無事と再会を誓い、また前会長宅に戻っても多くの知人、縁者たちと話はいつまでも尽きなかった。これ以上遅くなると母の体力も尽きてしまうと心配になり促して夕方皆と名残り惜しい中、何とか別れを告げ藤岡を後にした。
それから帰って来ても数日母はずっとコーフン気味で元気であった。父祖の地に今生の別れかはともかく、久々に行けたことはそれほど嬉しかったのであろう。懐かしい人たちも再会できた。どちらももはや半ば諦めていたことであった。
しかし、それよりも母を元気にさせたのは、皆から歓迎され求められたからだ。人からどんなことでもいい、求められ居場所と役割を与えられると、嬉しくて人は元気になれるのである。
今回も、向うに行って親類縁者、旧知の人たちから大歓迎、歓待されて、谷中村のこと、母がその母たちから聞いたこと、覚えていることを話し、それに皆が耳を傾けてくれた。それこそが母の役割であり居場所であったのだ。
これが逆に、誰からも相手にされず、話したくても話すことに誰も耳を貸さず、どこにも居場所がなければ人は生きていても生きている意味は無いに等しい。それでは絶望してしまいまさに厭世的になり生きていても仕方ないと死を待ち臨むようにさえなるかもしれない。
今回の短い旅で、今さらながら人間とは何か、生きていくこと、生きているとはどういうことかいろいろ考え示唆と指針を得ることができた。
求められ居場所と役割のあることの有難さ。人は人から求められるから生きていけるのである。そして、人はその思いを人に伝えて、託して、そして死んでいく。しかし、そうした確かな関係があれば死もまた無意味ではないのだと思い至った。
生きていくとは、人とそうした関係を築くことに他ならない。
我もまた四半世紀ぶりに訪れた先祖の地で、我の中に今も流れる彼らの思いをはっきりと自覚できた。昨日(過去)を今日に、そして明日(未来)へと繋げて、託して行かねばならないのである。それこそが人が生きること、人類の歴史なのだと、確信を得た。
★旧谷中村の史跡とその苦難の歴史については、折あらばまた書き記したいが、ご関心、興味持たれた方は、連絡ください。ご都合つくようならば、渡良瀬遊水地までご一緒して私が案内、説明いたします。
いろいろ書きたいことはあるけれど、今回の母と我がルーツの地を訪れた報告記はひとまず終わりにしたい。
今回の旅は、母も会員となっている『谷中村の遺跡を守る会』の本年度の総会があり、その中での記念行事として、「岩波正作屋敷跡顕彰碑について」という題で、その子孫である母の従妹の講話が予定されていたからだ。
実は、元々その従妹より年上の我が母にそうした依頼があったのだが、母は癌で体調が悪くて、とても栃木市藤岡まで行くことはできそうにない。それで、その従妹とあれこれ電話で一族の歴史を伝え話して、まず無理だけどもし元気になって行けたら行くからということで、お願いした。本人も従妹も主催側でも母の参加は無理だと思っていた。
しかも今月に入ってもまた二回目の入院をしてしまい、退院できたのが直前の11日水曜で、その総会は15日の午後からだった。常識では二日前まで入院していた者がご近所ならともかくも栃木まで来るとは思ってもないしありえない。
が、今回の入院は病状が軽かったことと逆に病院にいた方が一切の雑事から解放され休養もとれ栄養も満たされて体力があったことも幸いして、退院後は存外体調も良く、当人もならば何としても行きたいと強く希望したので、急遽、前日土曜日の午後から出発することにしたのだ。
従妹のところに泊めてもらうことも考えたが、より会場に近い、「遺跡を守る会」の前会長宅に泊めてもらうことをお願いした。前会長は先年亡くなられてしまったが、その家とはかねてより親戚同様の付き合いさせて頂いて、我の祖母も四半世紀前に谷中村に「里帰り」した際に泊めて頂いたご縁がある。むろんのこと、そこの方たちも旧谷中村の出である。
現地は、東北自動車道、佐野藤岡インターか、館林インターで降り、栃木市藤岡町、私鉄の藤岡という駅に近い。
以前、今いるウチの犬、ベルコを佐野までもらいに行ったことがあるが、そのときは圏央道が東北道まで繋がってなくて、桶川北本までしか行けなかったのだ。高速道はともかく下の一般道でやたらに時間がかかってうんざりした記憶がある。
が、先日、その部分も東北道まで通ったので、今回は実に早かった。行きは母の体調を見ながら二回休憩でSAに入ったものの、午後出て夕方早めに着いてしまった。
帰りは、休憩なしで時速80キロでゆっくり走っても、向うのお宅を出て自宅まで戻るのにかかった時間はジャスト2時間に過ぎなかった。じっさいわかったのは、日の出インターから入って、館林インターまでの圏央道と東北道を合わせても片道90キロもない。
山梨の古民家に行くために、八王子インターから須玉インターまで走るのに、片道約110キロだから、山梨へ行くより佐野藤岡に行く方がはるかに近かったのだ。何か拍子抜けしてしまった。これならもっとビュンビュン走れば、ウチから一時間半ほどで渡良瀬遊水地~谷中村跡まで行けるではないか。
今までは、高速が繋がっていなかったこともあるが、何かもっと遠くて行くのが面倒だと何となく思い込んでいた。これならもっと気軽に行けるし、また母を故郷に連れて行けるとうれしくなった。※佐野は、戦時中、母が女学生の時に東京から疎開していた地で、母の最終学歴は、佐野高女卒である。
向うに着いたら、その迎えてくれた前会長夫人も、向うの知人、親戚たちも皆全員が母が元気なのに驚いていた。すっかり痩せてはしまったけれど、向うに着いたら意外なほど母は元気で、旧知の人たちとの再会が嬉しかったこともあるが、興奮してひたすらしゃべりまくりである。
翌日も、朝からその家の畑に出向いて手伝ったり、ひたすら精力的に動いている。自宅だと、たいてい午後は疲れが出てきて横になって仮眠とるのが日課なのだが、まったく疲れも見せず元気である。こちらのほうも驚かされたし、やはり無理してでもこっちに連れてきて良かったと思った。
会場でも皆に歓迎され、マイクを握り予定されていた時間を超えて話すこともできた。見ていてどこにこんな体力が残ってたのかと不思議なくらいに元気である。
終わって皆に無事と再会を誓い、また前会長宅に戻っても多くの知人、縁者たちと話はいつまでも尽きなかった。これ以上遅くなると母の体力も尽きてしまうと心配になり促して夕方皆と名残り惜しい中、何とか別れを告げ藤岡を後にした。
それから帰って来ても数日母はずっとコーフン気味で元気であった。父祖の地に今生の別れかはともかく、久々に行けたことはそれほど嬉しかったのであろう。懐かしい人たちも再会できた。どちらももはや半ば諦めていたことであった。
しかし、それよりも母を元気にさせたのは、皆から歓迎され求められたからだ。人からどんなことでもいい、求められ居場所と役割を与えられると、嬉しくて人は元気になれるのである。
今回も、向うに行って親類縁者、旧知の人たちから大歓迎、歓待されて、谷中村のこと、母がその母たちから聞いたこと、覚えていることを話し、それに皆が耳を傾けてくれた。それこそが母の役割であり居場所であったのだ。
これが逆に、誰からも相手にされず、話したくても話すことに誰も耳を貸さず、どこにも居場所がなければ人は生きていても生きている意味は無いに等しい。それでは絶望してしまいまさに厭世的になり生きていても仕方ないと死を待ち臨むようにさえなるかもしれない。
今回の短い旅で、今さらながら人間とは何か、生きていくこと、生きているとはどういうことかいろいろ考え示唆と指針を得ることができた。
求められ居場所と役割のあることの有難さ。人は人から求められるから生きていけるのである。そして、人はその思いを人に伝えて、託して、そして死んでいく。しかし、そうした確かな関係があれば死もまた無意味ではないのだと思い至った。
生きていくとは、人とそうした関係を築くことに他ならない。
我もまた四半世紀ぶりに訪れた先祖の地で、我の中に今も流れる彼らの思いをはっきりと自覚できた。昨日(過去)を今日に、そして明日(未来)へと繋げて、託して行かねばならないのである。それこそが人が生きること、人類の歴史なのだと、確信を得た。
★旧谷中村の史跡とその苦難の歴史については、折あらばまた書き記したいが、ご関心、興味持たれた方は、連絡ください。ご都合つくようならば、渡良瀬遊水地までご一緒して私が案内、説明いたします。
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