近況を記す と2024年03月26日 11時31分01秒

★今すぐ死ねない、まだ死なないならば

 毎年のことだが、春は雨もよいの日が多く、降らずとも曇天が続く。
 このところ数日おきに雨の日が続くが、降っても春の雨だから傘が要らない程度の弱く短い時間のことも多い。
 が、今日は、昨夜から久々に本格的に音立てるほどの強い雨が降っている。予報では、このまま終日、夜半過ぎまで降り続くとのことだ。暖房もないから当然寒い。冷え込んでいる。
 外仕事は雨では何もできないので、溜まりに溜まった紙類の片づけ・整理分別処分など、足の踏み場のない室内の掃除・片づけを少しでも進めていくしかないのだが、今日は久々に腰据えてパソコンに向き合い当ブログを書き進めていくことにする。
 またまた更新がずっと滞っていた。ご心配おかけして申し訳ない。

 理由はともかく体調が悪く、心身ともに不調で、書けたとしても毎度の愚痴のような訴えにしかならないからだ。
 そんなものは誰も読みたくないし、心ある人には嗤う以前にご心配かけるだけだろう。ならば、書きたい気持ちはあっても書くべきではないではないか。

 自分でもいったいどうなってしまったのか、どうしたら良いのかと思うけれど、ウツウツとした気持ちと右腕全体の痛みと痺れがまた再発して酷く何一つきちんとできずに時間あれば横になってばかりいる。
 世の人から見れば、たんなる怠け者、頭がおかしくなってると思われるだろう。もうどこにも行かないし誰とも会わないし誰からも連絡はない。

 届くメールは、我は持ってもいないカードや口座などに不正利用があったので、確認の返信をしろという詐欺メールばかりだし、かかってくる電話は、給湯器の点検にこの地域を回っているから伺いたいというこれまた詐欺商法のアクセスだ。
 まっとうな電話は、先日、不動産会社からの、お宅の持ってる空家を借りたい、売ってほしいという方がいると言うので、訊けば、我がいま住むこの家のことであった。
 世間ではこの荒れ果てたゴミ屋敷の庭先を見て、この家はヒトが住んでいないと判断するのだろう。
 そう思われても仕方ないが、売れば多額の金は入ってきたとしても行先もないし、だいいち全てあるものを処分することなんか我が生きている限りできそうにない。右から左にそれが出来ていたらこんな悲惨かつ最悪の状況にならなかったのだ。

 我が今乗っている車もまた同じことで、庭先で作業していたらば先日は浅黒いアジア系外国人が来て、このクルマ、使ってないなら売ってクダサイと言われた。
 確かに、雨のたびに濡れてはならない庭先に出ているものなどを車内に満載しているから、荷物でいっぱいのボロ車を見ればフツーは、もう廃車状態だと判断するのであろう。何度もそうした買取のチラシがワイパーなどによく挟まっている。
 が、こんな車でもないことには山梨の倉庫には行けないし、猫たちを動物病院に連れて行くことも難しくなる。何より荷物運ぶのに自転車だけでは限界がある。移動の手段として、クルマはガソリン代も含めて今はやたら金がかかるけれど、ないと本当に困るので売るわけにはいかないのだ。

 先日は、そこに市役所から介護保険の担当の男が来て、ずっと未納になっている介護保険代を支払えと言ってきた。このままだと利用するときに制限が出るとも。
 しかし、払いたくても今は、一円も収入がないのだから払えないと正直に伝えたら、ともかく少しづつでも払ってください、と言い残して帰って行った。
 「外」の世界からのこと、世間とは今の自分にとってそれだけのもので、届く郵便は諸税金類の督促状だけだし、友人知人からの楽しい便りなど全く途絶えた。
 ご近所付き合いもないから、都会に住んでても世捨て人のようなもので、今は唯一ごく親しい知人がウチの片づけなどに来てくれたときに会うだけで、あとは猫や犬など動物相手だから誰とも話すこともない。

 以前はそうした中でも心の内を日々拙ブログに書き記し鬱気分を散らすこともできたが、それも近隣からの悪意ある嫌がらせにより控えるしかなく、ますます鬱は悪化傾向にある。
 日中も昼寝しているからか、夜も早く眠くなっても真夜中に尿意などで起きてしまうとそれからしばらく眠れずにそれがまたツライ。
 うんと昔の学生時代の仲間とのことや、もう死んでしまった人たちのことがあれこれ次々思い出されて何時間も眠れず、そのうち外も明るくなってくる。
 夏だったら早暁でも散歩に出たり、外で何かできるのだけれど、まだ今はとても寒くて起き出せずに、布団の中で枕元の文庫やスマホを繰ったりしてもうひと眠りするまで苦労する。
 そして思うのは、こうしてこんな風にしか生きられないまま、なし崩し的に死んでいくのかな、と。
 何一つきちんと為し終えずに。時間だけは無常に過ぎて浦島太郎のように気がつけば齢だけとって老いさらばえた。
 最愛の親たちも逝き、我には妻も子孫もないのだから、何故にこの地獄のような状況を一人生きて行かねばならない?
 自らが蒔いた種だとしても刈り取らねばならない義務はあるのだろうか。

 だが、それでも目覚めてまた一日が始まり、腹をすかせ騒ぐ猫たちにご飯あげて思うのは、彼らがいる限りまだ死ぬわけにはいかないし、動物の世話という義務があるからこそまだ我は生きているのだと。
 そしてまたこんな人間にも支援してくれ時に助けてくれた奇特な友人知人が少なからずいることを思うとき、彼らの愛、恩義に報いることなくして死んではならないと気づく。
 そう、まだ今すぐに死ねない、まだ我に時間が少しでも残されているのならば、死ぬまでの間に、今在るものすべてにきちんと向き合いこれまでに我が受けた「愛」を感謝と共に少しでも少しづつでも返していくことだけだろう。
 嫌でも終わりの時は来る。それまでもう少しだけ頑張らねばと思う。

 どうしようもない人生だからこそ、どうにかしないとならない。それは、この社会、世界だって同じことで、どうしようもないからといって「そのまま」にしていては、その悪しきこと、状態は永遠に続いていく。
 どうにかできる、できないかではなく、やっていくしかない。誰の人生でも生きて行くとは、そうしたものではないのか。
 どうにかしていく。誰よりもどうしようもない人生だからこそ。

表現の自由と「差別用語」考~「買い物ブギ」をテレビで再演することについて2024年03月03日 14時07分04秒

★つんぼ、は、その歌の中で使うべきではない、と。

 個人的に気になっていることを書く。
 いま、NHKで放送している、笠置シヅ子をモデルにした、朝の連続ドラマについてだ。
 正直、このドラマに対しては多々違和感というか、書きたいこともあるのだけれど、それはまた置いとくとして、いま、いちばん気になるのは、劇中で主人公が唄う、服部良一作詞作曲の『買い物ブギ』である。

 ご存じの方には説明不要だろが、様々な買い物に街に出て、いろいろ買った挙句、ラストにおっさん、これなんぼ?と何度も訊いても、訊かれた主人は何も応えずに、オッサン、オッサン、オッサンという繰り返しのフレーズの挙句、帰ってきた返事は、「わしゃ、聞こえまへん」で、その歌は終わりとなっていく。
 が、元々の原曲、つまり唄われた当時は、何で返答がないかというと、「わしゃ、つんぼで聞こえまへん」であった。
 ただ、現代では、その「つんぼ」という言葉が、差別用語というのだろうか、聴覚障碍者に対して問題があるとの認識からか削除されていて、我の持っている彼女の当時オリジナル音源の復刻CDでも、その部分は、ピーと伏字ならぬ、伏音がかかってたように記憶する。
 で、今回のドラマの中でも、「つんぼ」という言葉が削られて、ただ「聞こえまへん」とされて唄われた次第だ。
 これでは、元々のうたの意味がよく伝わらず、これは無意味な言葉狩り、過剰な自粛だという意見もあちこちで見かける。
 確かにそうも思える。が、我としては、やはりいまこのうたを唄うならば、まして広く誰もが見聞きする公共放送の場ならばなおさら、「つんぼ」は使うべきではないと思う。

 むろん、つんぼ、めっかち、我の母たちがよく口にしていた、おっちんぼ、ちんば、びっこ、などという言葉自体は、使うことの是非如何ではなく、言葉として残すべきものだと考える。
 その言葉を無くしたからといって、その障害自体がこの世からなくなるわけではないし、文化的伝承としても、昔の書物中の言い換えなどはすべきではない。
 今日でも例えば、手塚治虫の漫画本などでは、巻末に、「今日では差別にあたる表現が見られるが、オリジナルを大切にしてそのままにしました」というような「お断り」が付けたしされているが、それは正しいと断言する。
 あくまでも当時は、差別意識云々とは別に、表現としてそれは確かに広くに世間にあったわけで、差別している意識は検証すべき必要は多々あれど、それはそのままにして伝え残すべき事例であろう。
 よって、CD復刻などでは、できるだけ当時のままで、出すべきだと我は考えている。じっさい、近年では、一時期よりそうした意識の元に、ヘンなピー音など被せずに出されている昔の音源も多いと思われる。
 それは本にしろ、なんであれオリジナル尊重として大いに喜ばしい。

 が、では、今のテレビの劇中で、『買い物ブギ』を昔のまま、当時のオリジナル歌詞そのままで唄うのはいかがなものか。
 我は、以前もちょこっと書いたかとも思うが、色覚障害があり、色の一部が健常者のように正確に判断できない。昔で言う「色盲」なのだ。
 そうした障碍ある者としてこのうたの「つんぼ」を考えたとき、やはりこれは非常に複雑な気持ちにならざる得ない。
 昨今ではどうかわからないが、都心の地下鉄の路線図など、我にはほとんど見ても判別できないし、数年前、拙宅のプリンターが壊れたとき、修理相談にメーカーのオペレーターとの電話対応にも苦労したことを思い出す。
 電話口の女性は、プリンターの上部に点滅しているごく小さなランプの色が、いま何色か、緑なのか赤なのかと我に聞く。
 が、その単独のランプの色が、我には、何色なのか色盲である我には全く判別ができない。だから、正直にそのことを伝えるしかなかった。
 街中の信号だって、昨今では、ほとんどLEDのものに替わり、昔のランプ式のモノは少なくなったので助かるが、以前はほんとうに判別に常に苦労していた。特に背から夕陽を浴びたりしていると、昔の信号は我にはほとんど何色が点いたのか判別できなかった。仕方なくランプの位置で判断していた。

 一部の色がうまく判別できないということは、多々生活の中で不便なことはかなりある。が、かの乙武氏の名言ではないが、障害は、不便だが不幸ではない、とはまさにその通りで、それはそれで我の個性であり、不便なことが多い社会だが自らを不幸だなんて考えたことはない。
 と、自分では思う。そうしてそのことを自ら書いたり公言はできる。が、では、それを他人に、しかも障害のない人間に、それを「うた」にされて、さらにうたの中の「オチ」に使われたらどうだろう?
 「オッサン、オッサン、これ何色?」と繰り返し問われて、「わし、色盲でわかりまへん」と歌われたら、当時でもそれを笑って受け流すことができるだろうか。

 自分が、地下鉄の職員で、○○駅へここから一番てっとり早く行くには何線と何線を乗り換えて行けばいいか聞かれる「地下鉄ブギ」といううたがあったとする。
 「オッサン、オッサン、オッサン、このカラー路線図のどの線に乗ればよろしいんか?」と何度も訊かれて、挙句に「わし、色盲でわかりまへん」というオチはやはり考えただけでもツライ。
 そして気がつく。ツライのは、つんぼとか色盲という「言葉」自体が原因なのではなく、その不自由かつ不便な状態、=障害を、笑いの対象、うたのオチにされたということだと。言葉は言葉でしかない。
 むろん、オリジナルの音源は、そのままでもちっともかまわない。いくら訊いても返事がないのは、つんぼだったというオチは、コミックソングとしてあまり上質なギャグとは思えないが、それもまた仕方なく過去の「時代」なのだと理解できる。

 ただ、一部に、オリジナルを重視しろ、は、ともかくも、言葉狩りだとか、今のテレビ放送でも、それを昔のまま唄うべきだという意見にはあえて異を唱える。むろん、ただ「きこえまへん」だけでは意味がよくわからない。ならばこそ、当時はその歌の中に「つんぼ」という言葉があり、それらが使われていた時代にも思いをはせるべく、世に伝えていきたい。それこそが当時を知る者の義務ではなかろうか。
 ※このドラマ中に、「パンパン」とか「パンパンガール」という言葉が平然と出てきたが、パンパンは差別用語ではないのだと、今回思い知った。むろん、パンパンこそ、当時は差別、蔑み用語の筆頭であり『銀座カンカン娘』という映画も「パンパン娘」では、あんまりだということで、全く無意味な「カンカン娘」に替えたという逸話を思い出したことを記し終わりにする。映画そのものは、パンパンそのものの映画ではなく、たわいもない楽しく明るいものだが。

さあ、3月、ここから本当に再スタートだ。2024年03月01日 21時21分52秒

★キリギリスはキリギリスのまま、どうやってこれからも生きて行くか。

 今日からあっという間に3月。冬の間、年明けからだらだら自分事を書いてきたが、これで終わり、オシマイとしたい。

 結論だけ書けば、要するに、怠け者、若い時から享楽的に生きてきた我、寓話の中のキリギリスに喩えられる者が、人生の冬の時期、晩年を前にしてどうやってその季節を乗り越えられるか、ということに尽きる。
 そう、キリギリスは一日でも長く、冬が来た今、どうやったら生きて行けるか、だ。

 げんじつの話、もう行き詰ってきて、今日は、市役所に行って様々な税金の支払いに、延期を願い分割の誓約書を書いてきた。
 今のまま、ほんとうの無収入状況が続けば、もはや親たちの遺してくれた蓄えも完全に尽きてくるので、早晩、生活は破綻してしまうだろう。
 幸い、ホームレスの方々とは違い、今住んでる持ち家はあるので、路頭に迷うことはないが、日々、その家にもかかる諸税金は溜まり督促され、差し押さえへと流れは進むので、事態はさらに悪化していく。

 我自身は、衣食など何もこだわりはしないが、案ずるのは、共に暮らす動物たちの生活費の工面できないことで、ほんとうにそろそろ1円でも稼ぐ方法を真剣に求めないとならない。
 いま、模索しているのは、ネットで古本を売る稼業以外に、ネットを利用して、少しでも収益を得る方法は何かということだ。
 ブログも、ブロガーとして金を稼いでいる人も多々いるようだ。それはカンタンなことではないと思うが、自ら書くことが、少しでもお金に繋がるのなら、まずはチャレンジしてみるべきではないだろうか。

 たとえば、本であれ、何かについて我がブログなどで書いて、その画像なりを宣材として貼り付ければ、アフェリエイトって言うのか、それを読んでくれた方が、またそれを購入してくれれば、我のほうにいくらかはキックバックがあると訊く。
 良くないもの、内心、価値がないと思うものを取り上げて、褒め上げる気はないが、我自身が良いと思い、もっと売れて世に知られることを望むものを載せて、もしそれで金が入るのなら、それは正しいことではないかと考えるようになった。
 幸い、我は書くことだけは、質はともかくまったく苦にならない。いろいろ誤認識や、勘違いはあるかもしれないが、書きたいことは本や音楽についていくらでもある。
 まずは、そうした様々なネット上での金を稼ぐ手段を模索していこうと思っている。
 その場合、当ブログではない、別のブログで活動となろう。また、そのときは、この場所でそちらへのアクセス方法はお知らせしたいと考えている。
 ともかく、今年、2024年度中に、キリギリスがこれからも生きて行く処方を何としても見つけ出さないとならない。
 もう季節は今年も春が来た。が、我が人生の冬の時期を、一日でも長く、いかにして生き延びるか、まさにそこに、最大の課題、目的がある。

 これからもおいおい、そうした状況は、まずはここで、できるだけ正直に、包み隠さず書いていく。何であれトラブルにまた繋がらぬようなことは書き記していきたい。
 まだまだ、もう少しだけ人生は続く。そう信じてやっていく。

これからのこと⑦2024年02月24日 13時23分54秒

★どのように、どんな音楽に向き合っていくか

 これから、残りの人生はオンガクとブンガクにきちんと向き合うと書いてきた。
 むろんそれは何事もすべて同じで、我はすべてに不真面目で、だらしなくテキトーだったと今更にして思う。友人関係においてもだ。本来きちんと成すべきいろんなモノゴトを放擲、つまりほったらかし投げ出してきた。

 さておき、では、向き合うとはどういうことか。つまるところもっと関わりを深めて、少しでも究めて「自分のもの」にしていくことだ。
 音楽はなんでも好きだとしても、ジャズやクラシックは、あまりに敷居が高く難解で、その素養もない人間が、おいそれと究められるはずもない。あくまでも鑑賞にとどめて愛聴する1リスナーでありたいと考える。

 我がもっと究めたいと願うのは、ボーカルを主体としたポピュラーソング、それもスタンダード曲についてで、フォークソングや歌謡曲であれ、そうした楽曲は、いくつも存在している。
 一言でそれらを括れば、時代をこえて残る、残すべき、多くの人に愛好される「うた」ということに尽きる。それは売れたか、ヒットしたかという次元の観点ではない。良い「うた」ゆえに、誰もに愛聴、愛唱される価値がある楽曲であるかだ。
 我は、そういううた、スタンダード曲をもっと深く勉強して、願わくば、自らも表現できるようになれたらと夢想する。
 一例をあげれば、服部良一なら、「蘇州夜曲」や「胸の振り子」であり、中村八大でいえば、「上を向いて歩こう」「黄昏のビギン」、いずみたくなら「見上げてごらん夜の星を」等々、説明せずとも誰もに知られて後世にこれからも永遠にのこる名曲である。
 畏友「さこ大介」さんの創るうたの数々も、フォークソングとかブルースの枠に収まらない、まさにスタンダードとなり得る楽曲で、我も死ぬまでに1曲でいいからそうした「うた」を作り遺せたらと願う。

 洋楽で、ザット・ラッキー・オールド・サン (That Lucky Old Sun)」という曲がある。
 日本では、さほど知られていないと感じるが、この曲は、ビーズリー・スミス (Beasley Smith) 作曲、ヘイヴン・ガレスピー (Haven Gillespie) 作詞による、1949年のポピュラーソングの楽曲だそうで、我も拙いながら、聴き覚えた日本語詞で唄っていた。
 ♪朝っぱらから仕事に出かけ 悪魔のように金儲け なのに1日中ゴロンゴロンとお空にゃおてんとさん ~という出だしのうただ。

 レイチャールズやF・シナトラ、ルイ・アームストロング他、多くのシンガーに唄われているスタンダード曲だが、我は、このうたを10年以上前、春一番コンサートなどで大阪に行ったとき、向こうのライブハウスで地元ミュージシャンが唄ってるのを聴いてまず知ったと記憶する。
 また、その後、東京に来た関西系シンガーが唄っているのを聴いて、いい曲だなあと思い、覚えてコピーし我も持ち歌にした経緯がある。
 日本では大西ユカリのバージョンが特に知られているかと思う。

 ボブ・ディランも近年のアルバムの中で、同曲を唄っているのだが、まったく違うメロディーに我は聞こえて戸惑い、同名だが、別の曲だと思っていた。※まあ、近年のディランさんは、自分のうたでも、とことん崩して唄っていて、ファンでもすぐに何の曲かわからないそうだから、無理もなかったわけだが。
 それが、先日テレビで、NHKの番組『街角ピアノ』で、米国・ニューオリンズの回のとき、道端の芝生に置かれたピアノでこの曲を弾くミュージシャンが現れ、テロップで曲名とカンタンな解説が流れた。
 メロディーは、我が知り唄っているものとはだいぶ違ってはいたが、それでやはりこの曲は、同じものだと思い至り、気になってあれこれネットで調べてみた。
 そして以下のことがわかった。

 先の日本語での歌詞は、京都の老舗の蔵造りのライブハウス、拾得のオーナーのテリーさんがつくったもので、久保田誠と夕焼け楽団のアルバムにこの歌詞でまず収録されたという。※そのアルバム、我は未聴だった。たぶんウチにはそのLPはあると思うけれど。
 向こうでのオリジナル曲というか、最も早く録音したのは、フランキーレインらしく、そのバージョンを聴くと女性コーラスが大きく取り入れられていて今のそれとはだいぶ違うアレンジである。※彼は、大昔のテレビ西部劇『ローハイド』の主題歌で有名な歌手で、♪ローレン、ローレン、ローレン~で、始まるその歌は、我らの世代なら誰もがご存じであろう。
 他にもいろいろな向こうの歌手が唄っているバージョンをYouTubeで聴いて、ようやく基本的なメロディーがはっきりわかった。
 個人的にもっとも参考になり、良いと思えたのは、k.d.ラングのそれであった。

 ともあれ、今の我が唄っているメロディーは、元々の原曲とはだいぶ違うことがわかってきた。それはつまるところ、日本でも様々な歌い手が唄い次ぎ、それぞれが耳で覚えて唄っていたため、伝言ゲームのようにいつしか微妙に変わっていったのだと思える。
 むろんうたは、そうしたもので、長い間に多くの人に歌われているうちに、本来のオリジナル曲からメロディーも歌詞も変わってしまうことはよくある。それはけして悪いことではない。
 ただ、我としては、やはり当初のメロディーにできるだけ近づけて、いや、忠実に唄いたいと思う。崩すことはカンタンだが、まずは原曲を知ることからだろう。
 また、何故に関西系のシンガーたちに多く唄われたかというと、そこに拾得のテリーさんが訳したということも大きいはずで、そうか、そうだったのか!!と長年自分でも唄ってきたこの歌のルーツというか、背景がやっと判明した。

 それにしても呆れるほど驚くのは、こうしたことは全てネット上ですぐさまわかることだ。原曲、及び訳詞の歌詞もコードも内外問わず様々な歌手が唄ってる画像さえも無料で視て調べ得ることができる。
 つまりケイタイ1台あれば、昔なら図書館に行ったりあちこちに確認すべきことが、たちどころに判明するのである。まさにこれが21世紀だとその安逸さ、利便さにただただ驚かされた。

 これからは、テリー氏の訳したバージョンだけでなく、原詩をもう少し取り入れて、我なりに日本語詞で基本のメロディーに則った「ザット・ラッキー・オールド・サン」をぜひ完成させて唄いたいと願う。
 我が言う、音楽に向き合い、自らのものにしていくというのは、一例だがこうした行為であり、世の多くの人にはまったく無関係な、興味のないことだと思えるが、こうした掘り下げと再確認は個人的には為すべき大事なことだと考えている。
★フランキー・レインのバージョン↓
https://www.bing.com/videos/riverview/relatedvideo?&q=%e3%82%b6%e3%83%83%e3%83%88%e3%83%a9%e3%83%83%e3%82%ad%e3%83%bc%e3%82%aa%e3%83%bc%e3%83%ab%e3%83%89%e3%82%b5%e3%83%b3%e3%80%80%e3%83%95%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%82%ad%e3%83%bc%e3%83%ac%e3%82%a4%e3%83%b3&&mid=CF671CAC3E145B4ACC5DCF671CAC3E145B4ACC5D&&FORM=VRDGAR
★k.d.ラング ※CMが最初にあるかも
https://www.youtube.com/watch?v=pXJBih_QqLQ

★おまけ、忌野清志郎 https://youtu.be/gj8EO9N9sQ0

これからのこと⑥2024年02月23日 11時28分25秒

★どのように、再び人生に向き合っていくか

 我は、音楽、=音の出るモノならば何でも好きで、子供の頃の鉱石ラジオから昨今のデジタルオーディオ類まで機器類も偏愛、愛用している。
 音楽そのものに関して言えば、一部の騒音・爆音、雑音の類のもの以外は、うたものに限らずジャンルを問わず何でも聴く。
 ジャズやクラシックのレコードだけでも合わせれば、千枚に軽く届くと思うほどあるのに、残念ながらそのほとんどはこのところ聴いていない。
 ご存じだと思うが、レコードというのは、針を落として鳴らすまでが、かなり面倒な手間が多々かかる。よほど落ち着いた時間がないとかけるのは難しい。
 思えば、この10年、母の癌再発以降は、レコードのみならず、CD、ラジオの類も家ではまったく聴くことがなかった。
 家で介護していた母の世話などで忙しかったこともあるが、昼夜問わず母の下の世話が必要で、母が我を枕元のチャイムで呼ぶため、常に耳を澄ませていなくてはならなかったからだ。
 我は、眠っていても母にオムツ交換で呼ばれれば、深夜であろうと起きて駆けつけないとならない。とても音楽をかけたり、じっくり耳を傾ける時間も余裕もなかったからだ。

 母の死後、父の場合は、在宅よりもショートステイやデイサービスに行ってる日の方が多かったわけだが、それでも留守の間にやるべきことがともかく多くて、やはり音楽をかけたり聴くことはできなかった。
 そして今、その二人ともいなくなったのだから、我は一人ゆっくり思う存分、スピーカーを鳴らして好きな音楽三昧ができるわけなのだが、やはり多々やるべき雑事がともかく多くて、とてもまだそんな気分にもなれないし時間もとれない。
 我にとって音楽は、ただ流すだけのBGMではなく、じっくり向き合いそのためだけに耳を傾けるものだから、片手間では聴けやしない。

 若い頃の夢は、老後を迎えたとき、長年買い集めたレコードを真空管アンプなど最高のシステムで、長椅子に凭れてコーヒーカップ片手にじっくりのんびり、ジャズ喫茶やクラシック喫茶のごとく大きな音で鳴らして過ごすことだった。
 が、いま、その老後の歳となっても我が不徳によって、その夢はかなわないままとなっている。
 しかし、レコードやCDに限らず、読みたいと思ってても未だ読めていないたくさんの本も多々ある。我には永久にゆとりある余生など来ないのだから、これからはできるだけ時間をつくってそれらと向き合わねばならない。

 若い時から、いつか時間ができたら、そのときに、と何につけても先延ばしにしてきた。しかし、そんな時間はもう来ないし、何よりその時間そのもの、持ち時間はもはや残り少ないのである。
 死後の人生、あの世があるとしても、今、この世の人生、現世は我が肉体においては一度きりなのだけは間違いない。
 片づけなどやるべきことをやっていくのは当然のことだが、生活に必要な最低限の金で、最低限の生活をしつつ、これからは音楽と文学に向き合っていく。我が人生、敗残処理だけでなく、残りの時間を我の「芸術」のためにも用いていかねばならぬ。

 よく、日々倹約して貯蓄に励み、つましい生活をし、旅行など一切の贅沢はせず、その人生を終えたとき、膨大な貯金を残す人がいる。我の母の知り合いのそういう方は、身寄りもなかったのでその金は全て国庫に没収されたと訊いた。
 しかし、我に言わせれば、その人には失礼だが全くナンセンスであり、死ねば一切何もあの世に持って行けないのだから、お金は使うためにあり、願わくば、社会のため、人に役立つに為に使ってこそ金であろう。我に在るたくさんのモノだって同様に。ただ死蔵して我が死後、ゴミとして雲散霧消させてはならない。

 我は昔からろくに収入もないのに、ずいぶんあれこれモノやイベントなどに金を使ってきた。近年は猫たちに、日々の餌代以外にも病気やケガの為に何十万円も費やした。※この5年、何匹もの猫の治療費だけで100万円は軽く超すと思う。
 しかしそこには何も悔いはない。何とかそのお金が工面できたことこそ僥倖、有難いと思える。彼らの命のためにお金と時間が使えて良かった。※心優しき友人たちからの支援カンパもあってのことだ。改めて感謝御礼申し上げます。

 そしてこれからはまず自分のためにも、時間を用いたいと願う。金はともかくモノは、もはや何でもあるので、新たに必要なものはほとんどない。日ごとの糧程度あれば。
 だからお金は使わずに、今我に在るものすべてにきちんと向き合い、オンガクとブンガクの為にも時間をつくっていく。
 僭越を承知で記せば、そのことが、結果として他者のため、社会や後の世の為になると信じて。

これからのこと④2024年02月21日 11時54分42秒

★残りの人生、もう一度文学と音楽に向き合っていく

 昨年のことは、先にくどくどとあれこれ書き記したが、ともかくそんな多事多難のトラブル最中12月9日に、主催・企画したコンサートを無事為し終えたことだけは僥倖だったと今思える。
 半年ぐらい前から企画立てて、旧知の気心知れた音楽仲間に声かけて、コンサート自体は、彼らの熱演・熱唱もあって盛況、成功したと思いたい。

 が、我自身の出来というべきか、それはもうサンタンたるもので、今も深く悔いている。今の気持ちとしては、もう人前でギター弾いて唄うことは、終わりにすべきだとさえも。
 むろん、腕が動かず練習もできず、足はケガしてろくに歩けず、頭は記憶が続かず、パソコンは不具合を起こそうとも、時間はあったわけだし、それこそもう何年もやってきたのだから、本番では何とかなるかと思って臨んだ。
 しかし、コードは押さえられないどころか多々間違えるし、歌詞は出てこないし今更ながら我は何一つできやしないのだと思い知った。
 まあ、収穫があるとしたらば、今現在の我の実力、状況を人前で曝け出せ自ら確認できたことだろうか。
 今もまだその苦い味は残っている。

 では、もう音楽のこと、ライブ企画やうたの活動などは終わりにするとして、今後一切、音楽とはかかわりを絶って終わりにするのではなく、逆にもっと音楽についてきちんと勉強したいと思っている。
 と同時に、文学についても同様に、「本」に関わることだけでなく、書くこと、書き記していくことをさらに深めたいと考えている。もちろん読むことも。
 つまり、ブンガクとオンガク、このブログのタイトルとも大いに関わることを、今更ながらもっと究めて我がものとしたいと願う。

 今放送しているNHKの朝ドラは、笠置シヅ子と服部良一をモデルにしたもので、我も観られるときは常に見て、多々思うところもあるがそれはさておく。
 嗤われるだろうが、我の中には、その偉大な服部良一の百分の一、いや、千分の一にも満たないが、ごく小さな服部良一がいる。
 そいつは、あのドラマ中の羽鳥先生の如く、ジャズソングが大好きで、頭の中には常にそうしたリズムとメロディーが流れていて、機会あらばそれを世に披露したいと願っている。
 羽鳥先生と違うのは、我はピアノも弾けず、譜面も書けず、その歌が出来たとしてもそれを巧みに唄ってくれるシンガーもいないということだ。
 で、仕方なく拙いギター爪弾き、コードを探しては曲を完成させて、仕方なく自ら唄う羽目となる。
 が、我自身のつくるうたは、難しすぎて自分でも弾きながらきちんと歌えたためしがない。情けないがそれは事実だ。※私淑した京都の詩人・有馬敲さんの詩に我が曲をつけたものも、結局、師の前で失敗せずにきちんと歌えないままに昨年逝去されてしまった。悔恨の思いしかない。
 プロのシンガーからも、よくそんなにコードを使うね、と皮肉言われるし、自分でも未だかつて自らのつくったうたで思う通り満足できたライブは一度もないのではどうしようもない。
 先のコンサートを経て、そうした我の現状をこのままにしてはならぬということだ。

 と同時に、自分はこれまで長年コンサートを企画し催してきたわけだが、プロデュースする側として、自らは何一つできないのに、歌い手の方々にあれこれ注文つけたり、指示してきたことは、まさに僭越しごく、傲慢であったと今回気づかされた。
 まず、隗より始めよ、ではないが、音楽として、これこれこうしてほしいと他者に望み求めるのならば、まずは、そういう自らが範を示すべきであろう。
 それがきちんとできるようになってからこそのコンサートの企画である。

 今の自分は、(音楽について)何もわからない、まだ何もできないという現実に向き合い、これから少しでもわかるよう、できるように努めていく。楽器も他にもできるようになりたい。うたもギターも練習あるのみだ。
 そして音楽、うたをほんとうに自分のものにしたいと心より願う。
 こんな我にも我の音楽=サウンドが確かにある。それをしっかりカタチにしていきたい。
【この稿続く・乞うご意見ご批判】

これからのこと②2024年02月17日 09時40分08秒

★残りの人生、どう生きて行くか

 今の気分は、ポケットには小銭が少し---どこにも行けないのなら、この場所でどうしたらいいのだろうか--だ。

 実はまた私ごと、些末なことだが、先週末から拙宅の猫が一匹、体調を崩し、月曜に動物病院に連れて行ったら、即入院となった。幸い治療は効しこの週末には退院できそうとのことで、今やっと心落ち着いてパソコンに向き合えるようになった。
 父が、死の前に、コロナ感染して入院していた時もだが、たとえ動物であろうとも、家族の一員が入院してしまうと、やはり気持ちは落ちつかず不安に囚われウツウツとしてしまう。
 これが我の弱さというか、病的なところで、病院に預けたのだから、こちらはできることは何もないわけで、医者に任せ安心して気持ち切り替え自らのこと、家のことに向き合えばいいのに、それができない。
 父が救急車で家から搬送されて病室で逝くまでの約二か月、我は情けないことに家のこと、自分の事は何一つできなかった。いや、手につかなかった。
 まあ、今回の猫は、間もなく無事に帰ってくると信じたいが、それでも心の底には澱のように不安がまだ潜んでいる。
 
 さておき、本題である。
 映画や本のタイトルにもあるように『君たちはどう生きるか』ということは、年齢を問わず誰にとってもきちんと向き合うべき課題であろう。
 十代には十代の、老齢世代にはその世代の「どう生きるか、どう生きていくべきか」という問いは常に問われているはずだ。
 ただ、未来というべきか、先行きの時間がまだたくさんある若者にとっては、まさにこの先の人生、どう生きていくか、何を為すべきか、であるが、我の歳にもなると、どう死んでいくか、に替わってくる。
 つまり、死までの残りの人生を、まさに、どう生きて行くか、であり、我の場合はそこに経済的問題も大きく絡んでくる。つまり、まずどうやって生きて行くか、なのだ。

 人として、60代も後半ともなれば、世間一般としては、老後とか余生といった言葉が不随してくる。
 つまり、これまで続けてきた仕事や勤めは終わり、残りの人生を貯めた金や年金受給で暮らしていくことを意味している。
 我と違い、まっとうな勤め人の方や、きちんとお仕事に就いて常時働いてきた方は、たぶん皆さん老後の生活資金については、多少の不安があろうともまあ何とか困窮することはないだろう。
 しかし、我は、これまで真っ当に勤めたことはほとんどなく、フリーターという言葉など無い頃から、金に困れば多くのバイトはしたものの、きちんとした定職にほとんど就くことなく、仮に就職できたとしても長続きせず、また会社自体も我を雇うようなヤクザな会社だから潰れたりと、ほぼ無年金のままこの歳になったのである。

 では、そのことに悔いはないか、と自問してみれば、ある意味、何も考えずにただそうして好き勝手に、したいことをして行きたいところに行き、心のままに自由に生きてきたのだから、結果としてそれもこれも良くも悪くも仕方ない。
 つまり寓話『アリとキリギリス』のように、自由気ままに楽しいことだけ追い求めたものの、ついに冬が来てしまい蓄えがなく困窮しているのである。高田渡のうたで言えば、まさに『生活の柄』なのである。そう、冬が来れば、浮浪者のままではいられない、のだ。
 ただ、もし人生を若い時からやり直せるとしたら、間違いなく我はまた性懲りもなくキリギリスの生き方を選ぶだろう。
 元より、生き方に良い生き方とか正しいということは決められないし決まってるわけではないはずだ。※むろん犯罪に手を染めることは論外として。

 我は、蟻的な生き方、つまりコツコツと真面目に常に働き続けて冬が来た時、つまり老後にきちんと蓄えを備えておく、という生き方を否定するわけではないし、逆にキリギリス的な自由・享楽的な生き方が正しいとか、そこにも価値があるなんて思いもしない。
 つまるところ、我にはこんな風にしか生きられなかったわけで、昔、月刊漫画雑誌ガロで読んだ、増村ひろしの描く猫マンガの中で、いみじくもその中の一人の猫が呟いていたように「ビートルズを聴いたとき、自分は、9時から5時までの人生は送らない誓った」ということに尽きる。

 前回、冬が来てしまい、キリギリスである我は、さて困った。これからどうしよう。どうしていこうか、と書いた。
 が、今思うのは、果たしてキリギリスは今さら(この歳で)蟻のように生きられるのか、だ。
 そもそもそれはまさに変節ではないか。生き方として。いや、そもそも無理無理無理なのである。

これまでのこと、これからへの思い⑧2024年02月06日 10時44分19秒

庭の棟物たちの眠る墓にも積もる雪
★まとめ・追記2

 雪は、北国の人にしたら大雪どころか鼻先で笑われるほどの降りではあったが、湿った重たい雪が、関東・多摩地区でも本格的にそれなりに積もった。
 いまは、また冷たい雨が降っていて道や屋根に積もった雪を溶け流している。
 春の雪である。間もなく溶けて、何日も凍りつき残ることはないだろう。

 我が人生、最低、最悪だった去年、2023年についてだらだら書き続けている。誰かに読んでもらいたく、伝えるためにではない。
 記憶が続かない自分のために、備忘録として書き記している。
 おそらくまたさらに酷い大変なことが起きて辛い年も来るだろうが、大事なことはその都度、誰のためでもなく書き遺すことだと信ずる。

 増えすぎてしまった猫たちを巡るトラブルや、ご近所との諍い、無言電話などの嫌がらせ等についてはこれまでも書いた。
 また、その面倒な事態から当ブログも閉鎖、休止せざるを得なくなったわけで、そうした事案もツライことではあった。何より、書く場を失ってしまったことが。
 しかし、最も大変だったのは、我が身体のことで、そのことを書いて、「これまでのこと」を書き終わらせたい。

 それがいつから起こったのか、いま確認できないが、確か夏前のこと、ある朝突然、右腕が動かなくなった。
 激しい痛みと痺れ感で腕を上げることもできない。
 思ったのは、脳梗塞か何か起きたと思い、ついにそのときが来たか、と驚いた。
 が、冷静に身体をあちこち確認してみると、動かないのは、右の腕だけで、頭痛などはしないし、右足も含めて下半身もまったく異常はない。痺れも痛みもなく、痛くて動かないのは右手だけだとわかった。
 幸い、我は、生来は左利きで、むろん右利き社会では、文字を書いたりギター弾くのは、右利きでやっているが、左手でも箸とかは使えて食事などはさほど不便はない。
 しかし、右手が動かない、使えないのはやはり困った。
 結局、脳梗塞などの疑いは持ちつつも様子見て、医者にも行かないうちに、右腕はしだいに動くようにはなってきた。しかし、強い凝りのような痛みは消えずに、今もまだ残っている。
 今思うと、五十肩、いや、六十肩のようなものなのだろうか。思い当たる原因はなくもない。
 増えすぎた猫たちの餌にやるために、近くのスーパーにほぼ毎朝出向いては、凍ったマグロの血合いのアラのパックを買ってくる。
 それを、台所用のハサミで、細かく切って、安いドライフードに混ぜて腹をすかせた猫たちに与えている。
 それがほぼ日課であり、そのハサミによる右腕の筋肉の酷使が原因のようにも思える。
 本来は左利きなのだから、左手でその作業をやればいいのだが、ハサミというものは、右利き用にできているようで、左手でやるとどうにも捗らない。仕方なく右手を酷使し続けた。
 で、筋肉痛、筋肉疲労が悪化して、ある朝突然動かなくなったと今思える。

 医者に通うことも当然考えた。ただ、経験上我は待たされて、じっと診察まで座って待つことはできない性質であるのと、けっきょく湿布薬と、電気パットを当てるぐらいしか治療はないと思えたので、自力で何とかしようと、近くの銭湯に週一で通い、そこの電気風呂のマッサージを利用して何とかじょじょに回復させていった。
 ただ、何より困ったのは、日常生活もだが、パソコンのキーボード操作とギターが弾けないことで、特にギターは、コンサートの日程を、ずいぶん早くに12月に決めたものの、その一か月前まで練習どころかギターを手にすることまでいかなかった。
 そして、さらにそこに、我が愚かさ故に失態が起こる。

 11月の後半、先に書いたように、ゴミ屋敷と化した室内の、とっちらかった台所で、モノが積み重なったところを歩き、流しに行こうとしたら、何か刃物のようなものを裸足で踏んだ。
 思わず痛みに大声上げた。最初はガラスのコップなどが割れて、その割れた断面を踏んだと思った。
 が、踏んだのは、フードプロセッサーの螺旋状の刃だとわかった。
 右足の裏、土踏まずの上あたりに、ぐっさり深く刺さって、抜くのもかなり力が必要だった。
 そのプロセッサーなるものは、野菜などをみじん切りにしたりするミキサーのようものらしく、フリマか、リサイクルショップで未使用?の中古品を手に入れたと思うが、まだ使ったこともなかった。
 箱に入ったまま、台所の棚にほったらかしにしてあったのを、バカ猫が落として、中身が散乱していたのだ。
 実は、箱が落とされたことは気が付いていた。が、相変わらず我はそのままに、毎度のほったらかしにしてしてあったのだ。
 そして気づかぬままその鋭利な螺旋状刃物を体重かけて踏んづけたのだ。

 去年は晩秋になっても温かい汗ばむような陽気が長く続き、とうぜん我は、室内では常に素足のままだった。
 それで、そのまま落ちていた螺旋状の刃を踏んだのだ。
 何とか抜いたら、自分でも驚くほどの血が噴き出した。
 痛みより以前に、その血を止めないとならない。が、足の裏である。病院に行くにしてもまずその出血を抑えてからだ。
 幸い手近にあったキッチン用ハンドペーパーで、その傷口を抑えて、その足をつかないようにして二階に上がり、トイレ前のシンクで、足を上げて足の裏に水道の水を流して傷口を洗い流した。しかし血は止まらない。
 よくケガしたときは、傷口を心臓より上に上げないと血は止まらないと言われる。が、足の裏なのだ。どうしたらいい?

 けっきょく、ペーパーをを何枚重ねにして、血が出たままの傷口を押さえつけベッドに行き、横になって足を上げることにした。むろんガムテープで、ペーパーで抑えた傷口はグルグル巻きにした。
 しかし血がかなり出たものの、痛みはほとんどない。足を上げたまま少しだけうつらうつらしただろうか。巻いていたペーパーを交換したら血は止まり始めていた。
 医師に診てもらうことも考えたが、ズキズキした強い痛みもなく、足の裏だから、縫合もできないと考えて様子見ることにした。
 むろん腫れてきたり化膿して痛みが強くなったら医者に行くつもりだった。
 ただ、じっと傷口をかばって横になってはいられない。犬の散歩や、猫たちの餌を買いに外に出ないとならない。
 我が父は、我より大きな大男だったから、父の靴は、我の足より当然大きい。その父の遺したサイズの大きな靴と靴下を履いて、傷口は厚紙を巻いて、右足をかばいつつ、傷口で踏まぬよう踵で歩くようにして、最短の距離で買い物と散歩などの用を済ませて、数日様子見ていた。
 当初は、コンサートのときも歩くことは難しいだろうと思えたが、幸い化膿することもなく、ほぼ一週間程度で、傷の痛みも消えて日常生活は、10日ほどで戻ることができた。
 その刃物自体は新品で雑菌などなかったのと、切れのいい細い刃だったから、深くても傷口もすぐにくっついたのだと思える。
 ただもっと太い血管とか切れてしまっていたら失血死していたかもしれないわけで、相変わらず運が良いというか、毎度のことながら神のご加護があったというとかない。
 今も階段には、そのとき我が流した血があちこち垂れたまま残っている。見る都度、自らの愚かさ、だらしなさを噛みしめ、ほんとうの大事に至らなかったことの僥倖を思う。

 そんなこんなで、右手の不具合と足裏のケガ、さらには記憶断絶などで、久しぶりの我が企画するコンサートは、当日までの時間は多々あったのに、ほとんど練習も準備も満足にできぬまま、本番を迎えた。
 ※今回は、Amazonでの古本稼業も11月末から休止して、コンサートのみに向き合ったつもりだったが・・・そこにパソコンの不具合まで加わった。
 結果は、何とかなるかと思ったものの、コンサート自体は成功だとしてもやはり自らの出来については、これまでで一番情けないものとなり、苦い悔いの思いだけで終わった。

 そして今思う。これまでの人生で最も多事多難で、ケガやトラブル、病気も含めていろいろあった年だったが、ともかくまだ生きて我はここに在る。
 先のことを思うと経済的な事から、一人でやっていくことはあれこれ次々不安にもなるが、まだもう少し人生は残っている、続くだろうと信じて、その残りの人生を丁寧に大事にしていこうと思う。
 もう本当に、自分のようなバカで愚かな、どうしようもない人間は、とうに死んでもおかしくなのいのである。
 それでもまだ性懲りもなく生きているのは、まさに生かされているわけで、その意味を深く考え、有難さを噛みしめて、その恩に応えていかねばならない。
 死ぬまでにまだやるべきことが我にはある。嘲笑うものは笑え。もう何にも屈しない。

これまでのこと、これからへの思い⑥2024年02月01日 20時19分47秒

★この稿、とりあえず終わります。

 元旦の能登半島大地震から慌ただしかった1月も終わり2月に入った。
 今も続く、被災された方々の先の見えない避難所暮らしと生業や家屋再建の道筋、さらには、生き残ったものの家族を失った人たちの悲嘆や苦しみの報道を見ては言葉にできない思いが続く。
 よりによって正月の家族皆が帰省して勢揃いした幸せの最中のこの激甚災害、何故こんな悲惨かつ不幸な出来事が起こるのか、ずっと神に問い続けている。
 と、同時に、こんな私的な、どうでもいい自分のことばかり書き続けている自らに、情けなく嫌悪の気持ちが湧いてくる。
 が、ともかくこれまでのことをきちんと書き記しておくことから始めないと
「これから」へ気持ちも行動も移れない。ご理解頂けないことは承知で、書き終えることにしていく。

これまでのこと、これからへの思い⑤2024年01月31日 13時24分38秒

★何があろうと起ころうと、ともかく生き続けていく

 この大変な世相、状況の最中に自分のことばかり書いていて申し訳なく思う。が、このビョーキの性質上、一つ一つきちんと書き終えていかないことには次に進めないのでご理解頂きたい。
《前回の続き》
 自分でも不思議に思うのだが、超だらしない人間のくせに我は様々な事に奇妙なこだわりがあって、それも大いに関係して片づけ、掃除が進まないのだと気がついた。

 ゴミなどもウチの市では、再生する紙類、可燃物、新聞類、プラ類、缶リサイクル類などとやたらこまかく分別が求められ、それぞれ専用の回収袋に入れて、それぞれ別の回収日に出さねばならないのだが、我はそれに非常に細かくこだわってしまう。
 プラスチックなど小さいものは、可燃ごみ袋に入れて出しても実のところ問題はないのだが、それができない。我はいちいちごく小さいカケラでも細かく分別してそれぞれの袋に仕分けしてゴミ出ししている。当然ものすごく時間がかかる。

 また、靴下なとでも、洗濯した後、干して取り込むと片方づつになってしまうことは誰もがよくあると思うが、我は、そうなると全く同じ相方同志の靴下に合わないと履くことができない。
 だらしないから洗濯しても靴下は、すぐに同じ柄が合わない、みつからない。友人の女史に聞いたら、家の中で履くのだから、色が違ってたってかまわないし、外に履いて出たとしても誰も気にしないし、気がつかない、と豪語していたが、我には絶対できない。
 靴下の柄など、色は同じでも丈も含めて微妙に違っているものだから、我は、全く同じものだと確認、確信できないと履けないのである。
 そんなだから、基本的には、履ける靴下がなかなかみつからず、夏場は履かないし、冬になっても同じ柄のがみつからないと、さすがに寒さに耐えかねてまた新たに買い足していく。
 これでは、万事モノは片づかないどころか常に増えていくのも当然のことだった。

 自分ではそれが当たり前だと思い、これまでずっと生きてきたが、先にあげたNewton別冊の発達障害の本を読んで、それもまたこのビョーキというか、障害の特性だと載ってあって、はたと気がついた。
 溜まった古新聞もだが、どうせ古紙回収に出すのだから、右から左に袋に詰めていけば時間かからないのである。
 ところが、我は、溜まってしまった古新聞はそれぞれ月ごとにまず全てきちんと分別し終えないことにはゴミに出せない。
 考えてみれば、何であれ、ゴミとして処分するのだから、そんな細かいこだわりは不要無用のはずなのにだ。
 このこだわりは、今気づくと全くおかしい。柄が合わないからといって、寒い中、裸足でいる方があきらかにおかしい。
 けっきょく、何につけ我は、自らのつくった勝手なおかしなこだわり、ルールによって、自縄自縛となり、何か作業や企画を行うにしろ、まず一つ一つ、手順を踏んで、まずそれを終わらせないと次のことに移れないのである。

 と、同時に、また逆に、一つ気になることや、とある思い付きに囚われると、もう我慢できず待つことが出来ず、イベントなど何も深く考えずにすぐにそれに突っ走ってしまう。そして当然、まず必ず失敗し後悔することになる。
 家の作業などでは、そうして次々とあれこれ移り気となるから腰据えて落ち着いてやるべきことが進まない。気がつくと次々から次へ、我はうろちょろして席が温まる暇がない。何事も長続きすることがない。
 アタマがおかしいのである。しかし、それが脳の不具合からくる性格であり、自分なのだから仕方がない。これは直らないし治せない。
 苦労はしたが、それでもともかくこの歳まで生きてきたし、生きてこれた。そしてこれからも生き続けないとならないのである。