皆さんの励ましとご支援で2025年06月01日 23時59分14秒

★何とか今日ここまで生きてこれた。

 6月に入った。今年も今月が終われば半分過ぎてしまうわけだが、昨年の12月からの半年間、自分にとって生涯とことん破綻、滅茶苦茶になってしまった6ヶ月であった。ともかく忙しく慌ただしかった。
 以前から記している、家の片づけも進むどころかさらに行き詰まり、増えすぎた猫たちによって落とされ崩され破壊尽くされ、まさに家中どこもかしこも足の踏み場がない惨憺たる状態となってしまっている。
 先のことはまたどうなるかわからないが、この半年のこれまでのこと、カンタンに報告したい。
 というのは、まだ何も解決はしていないがやっとほぼ一段落してきたと思えるからだ。

 昨年の12月、近隣の施設で我は、フリマとフォークソングのイベントを企画し開催した。そこで2回目である。
 が、先に当ブログで報告したように、お客も出演者も誰も来ず、サンタンたる結果に終り大きなダメージを受けた。
 労多くして益なしという言葉どおり、ご支援受けて新たに大型の音響セットも購入したのに、聴き手も歌い手もほとんど来ない。
 それなりに準備や宣伝に時間もとられ、その時点で全力を尽くしたつもりであったが、自分の非力さと人望、人脈の無さに情けなくて深く絶望した。

 で、オーナーとは、冬の間はともかく春になったらもう一回やることだけ合意して、新たな年を迎えて我は今年こそはの思いで、その広いスペースを利用して今後の人生展開に向けて準備していこうと決意した。

 そのためにライブイベントとは別にして、これまで溜まりたまった我の様々な未整理のもの、本や雑誌、自ら書き溜めた書類も何もかもそこに運び込んで、すべて目を通して、不要なものは捨てて、使うもの、価値あるものはきちんと保存・活用するなどの分別作業をやっていくつもりであった。
 我が家ではもうモノがいっぱいでとてもそれを開陳して確認していく作業スペースがなかったからだ。
 そこにはカセットコンロも持ち込んでたから、軽食もとれるよう飲食物もあれこれ運び込んだ。プレーヤーもないのにレコードの箱までも何箱も。
 予定では、未検索の本などもそこで販売可能か確認選別して、古本稼業再開の礎とするつもりであった。
 そう、かつて社員寮であった場所の食堂スペースならば、一人でそこを作業場にして何でもできたはずだった。

 が、じっさいのところ、ほとんど何もできなかったのである。

 というのは、そこは電気が停められていたので日中、外の外光があるときしか使えなかったことと、2月の頭から老いた愛犬が病になり早朝からの病院通いに我は疲れ果ててしまい、他の動物たちの世話するだけで手いっぱいでとても自分のことなどやる時間も気力もなかったのだ。
 犬のベルコの病気とは、カンタンに言えば、以前からあった肩の皮膚の腫瘍に雑菌が入り、それが化膿して破裂してしまい、その後は、その剥き出しとなった傷口をほぼ連日消毒してもらいに通う羽目となった。
 傷口は一時は、大人のこぶし大ほどもあったのだから、感染症で死んでもおかしくはなかった。
 今はもう完全に傷口は癒えて、毛も生えてそこは跡形も見えない。結局全治二か月で治癒できたわけで、年齢を考えれば一命をとりとめたと言えよう。治療費は保険もないから総額で何十万かかったのか計算もしていないが、皆さんのご支援と励ましがあってのことで、今さらながら改めて有難く感謝いたしたい。

 そんんなこんなで気がつけば春が来てしまい、オーナーから言われたのは、5月から別の人がそこを使うから、第三回目のイベントは、4月末までに、ということで大型連休の初日、27日となった。
 そして、終わったらイベント関係の物も、我の置いてある私物もすべて片づけておくように、と。

 その4月27日のフリマとフォークコンサートの集いは、三回目にしてやっと手応えあるものとなった。新たな出演者や懐かしい出会いもあって、どうにかカタチになってきたという思いを得た。※そのことについてもこの場できちんと報告すべきなのだが、慌ただしくて未だできていない。
 が、それからの後片づけがまさに地獄であった。そしてそれはまだ今もまだ続いている。

 実は、かつては某会社の社員寮だったその広いスペースを、近く行われる都議選の候補者が、選挙事務所に使うとのことで、5月の10日までにすべてどかしてカラにしておけということだったのだ。
 フリマの物品やコンサート関連の機材のなどもそれなりに残っていたが、それよりも自分が持ち込んだ私物がボーダイにあって、その二つを合わせた総量はものすごいものであった。
 五月の大型連休中も年下の友人と共に連日ともかく一切合切箱に詰める作業に追われ、連休最終日には一回、山梨の倉庫へ車で日帰りで運んで少しは減らしたが、とてもまだ家に収まる物量ではないし、そのスペースもない。
 5月の10日も、その都議選候補者たち、選挙のスタッフが集まる夕刻まで必死に片づけ作業をやって何とかスペースをつくることができた。

 山梨の倉庫ももはやほぼいっぱいだし、我が家はモノが溢れいっぱいだったから、その寮のホールで分別作業をやって減らそうと考えたわけだし、フリマの物品も加わってはとても家にも戻せない。
 情けない話、今もクルマは後部座席から荷台まで後方は何も見えないほど満杯だし、庭先もブルシートで覆った段ボール箱でいっぱいで、クルマを停めるスペースがない。
 仕方なく近くの24時間貸しのパーキングに連日停めている。せめて庭先にある分だけでも早く片づけなくてはと焦っているが、このところ雨が多くてなかなか作業も進まない。
 知人からは、レンタル倉庫を借りたらとアドバイスを受けたが、これ以上出費が増えたら、現在無収入の我は、まさに生活破綻してしまい猫たちの餌代にも困窮してしまう。それにどこかに押し込んでも何も解決にはならないのである。
 ともかく早く再度分別して捨てるモノは捨てて減らしていかない限り何もはじまらない。

 今思うのは、まったく自分は愚かであったという悔いと共に、そんな我を哀れみ、見捨てずに励ましやご支援を頂いた方々へのご恩にきちんと報いねばならぬということだ。
 恩返し、という言葉をいかにしてカタチにしていくべきか。お金にはお金で返すべきかとも思うが、それでは単なる融資であろうし、むろん今は返せないならば、別な形でとりあえずの感謝を示さねばならないはずだ。

 ともかくも彼らがいなかったら、この苦難のときは越えられなかった。ほんとうに有難いことである。
 イベントと動物たちの病院通いに時間と金と心を奪われている間に、猫たちは好き勝手し放題で家は内外さらにものすごい状態になってしまっている。
 が、まだ命が続くならば、ここからもう一度人生を取り戻したいし、生活を再建したいと願う。
 そしてそれはきっとできる、かなうと信じて一つ一つ、一日一日少しでも少しづつでもやっていくしかない。

 そしてほんとうに懸案のこと、太田三造さんのCD作成や音楽とブンガクのための新たなサイト開始などにも取り組み進めていく。
 皆の思いにきちんと向き合い応えていく。
 がんばりたい。

やっとネットに繋がった!!!2025年05月29日 10時45分15秒

★ご心配おかけしました。

 ほぼ一か月ぶりのブログ更新となる。
 いったいどうしてしまったのか、とご心配された方も多々いるかもしれない。まったく申し訳ない。情けない事態が起きていた。

 簡潔に言えば、イベントの後片づけと、また猫たちが病気になりその通院などに追われてともかく慌ただしく忙しくブログも含めて自らのことは何一つできなかったのだ。
 そうこうしているうちに、パソコンの置いてある部屋に大人猫たちが入り込み、窓の網戸は曲げて外して落とすは、パソコンのモデムやルーターはコードごと棚から落としたりとまさに落花(落下)狼藉のし放題。
 こちらもブログやフェイスブックで報告したいことや書きたいことは山ほどあったが、まず回線をつなぎ直すことからと、事態に気がついてはいたが、他の喫緊の用事に振り回されてなかなか修復作業までいかなかった。
 情けない申しわけない。

 実は一週間ぐらい前に一度回線は繋がった。それもあちこち何度も線やコード、電源を繋ぎ直したりして2時間ぐらいかかったが。
 そのときメールだけは確認したら、1300通以上もたまっていて、ほとんどはスパムだとはいえ呆れ果てた。
 そのときすぐに当ブログにもアクセスして更新すれば良かったが、メール確認だけで疲れ果てて、後で、と思ったらまたまたイベント関係の事後処理に新たな問題が起きて忙しくなってしまい時間がとれないでいた。
 やっと5月も終わり近くの今日、垂れさがっていた回線コードを猫たちがじゃれてまた引き落としたり齧ったりしないよう天井に這わせるよう設置してから、パソコン開けたらまた回線がつながらない。
 前回と同様に何度も線やコード、電源コンセントを繋ぎ直してまたかなり苦労し、悩んだ。NTTに電話して相談する事すら頭をよぎったものの、幸い偶然?的に回線はネットに繋がったので今大慌てでともかく現況報告をしている。

 いま思うことは、ただ一つ。もうこれ以上何も奪われない。失わない。損なわない。もう一度、人生を取り戻していく、ということだ。
 そのためには猫にも誰にもこれ以上好き勝手はさせてはならないし、そのためにもすべてきちんと溜めずに、何事も一つ一つ迅速に処理していくことだけだ。

 回線の具合はちょっとまだ不安定だが、できるだけこれからは間をおかずに短くてもこまめに更新していきます。
 ご心配おかけしてほんとうにスミマセン。

愛犬の病気に関して、経過報告3・とりあえず終り2025年03月13日 00時29分58秒

★やっと一段落~ほっと一息

 2月のあたま、愛犬ベルコの身体の異変に気がついてから一か月以上過ぎた。
 元からあった左肩のコブ=腫瘍に雑菌が入り、化膿してついに破裂した。その後、コブだった袋は、乾いて干し柿のようになり、やがて外れ落ちてコブのあったところは丸く、そのまま赤向けの肉が剥き出しの状態となった。

 コブ自体が、大人のこぶし大ほどもあったから、その赤みの肉が丸見えの状態、傷口はかなり大きく痛々しく、ヒトを驚かせて目のやり場に困るほどだったが、今月に入ってから周りの肉が盛り上がって来て、だいぶ小さく縮んできた。
 これまで一か月以上、朝晩飲ませていた抗生剤も先日やっと中止になったので、心配していた水の多飲と結果として多尿も収まるかと思える。
 やれやれである。おそらく今月中には、その傷口もふさがり、やがては毛も生えてくるだろう。
 いろいろご心配おかけしたかと思うが、とりあえず現時点では、回復の一途であることを報告したい。高齢の犬であるから今後また新たな異変や異常も起こることは覚悟しているが、今はホッと一息ついている。
 病膏肓に入る、という言葉もあるが、今回は、肉と皮膚の間の腫瘍で良かった。もし体内、内臓だったらその腫瘍が破裂したら即死していたことだろう。
 今回は、生き永らえた。我もまた一日でも長く生き永らえたい。

 それにしても先のことはまったくわからないと改めて思う。新しい年になり、今年こそはと昂る気持ちはあったのに、タチの悪い風邪に罹り、咳が止まらず1月はずっと寝込んでしまい、さあ2月からは、と思ったとたん愛犬の病気である。
 早朝からの病院通いと薬のせいで連日連夜の水の多飲による排尿の散歩で家の片づけや自分のことどころか猫たちの世話以外のことは何一つできなかった。
 我もいつでも起きれるよう服のまま横になって、自らの食事もろくにとれないほど慌ただしく忙しかった。睡眠不足でいつも頭が痛くふらふらだった。
 母が死ぬ前も、ウチで我が看護していたから同様な状況で、下の世話の都度真夜中でも起きたことを今回思い出した。

 こうしたときいつも思うのは、我も妻帯して家族がいたら、ということだ。結婚しなかったことを後悔はしていないが、現実の話、我一人で誰か他者を介護するのは限界がある。
 介護や看護ということは、ワンオペでは当然無理なことで、老老介護でなくても昼夜それを一人でやってると疲れ果て気持ちも倦み、やがてはこちらも倒れてしまうのは間違いない。
 妻でなくても他に誰か家人がいたら分担してやれるはずだし、金さえあれば看護士のような人にヘルパーとして長時間来てもらうことも可能だろう。
 むろん今でも人間ならば介護保険の範囲内で、訪問看護など来てもらうこともできるが、ペットなどはそうはいかない。動物病院やそのたぐいの施設に預けることも可能だけれど、保険がないのでものすごく費用がかかる。
 そして他者を介護する以前に、一人暮らしならば自らが体調を崩したときいったいどうしたら良いのか、だ。

 コロナでなくても風邪などで高熱が出たときなど、一人暮らし等で辛く苦しい心細い経験をしたことは多くの人があるかと思う。
 自ら身動き取れない状況、状態に陥った時、いったい誰に助けを求めるのか。ケガであろうが病気であろうが、自分で救急車など呼んで通報できるときはまだ良い。
 高熱や脳梗塞などで意識がなく、おそらくそれもできないときは、自力でどうにかすることは不可能なのだからそのときはただ結果として死あるのみか。
 ♪自由とは失うものがなにもないことさ、というフレーズがあるが、一人は気ままでとことん自由だけれど、失うものがないのではなく、最後は一人で命を失うのだと今は気がつく。
 その覚悟はできているか。自問している。

 我には両親という家族があった。が、親はとうぜん子より先に死んで、我は人間一人になってしまった。
 幸い唯一の家族である犬はいて、大病はしたけれど無事に回復しつつある。有難いことである。命の大切さを今かみしめている。
 これから一日一日、我にとっても残された日々を大切にして生きていきたいと今さらながら思っている。
 独り者の方、ご自愛ください。我もまた。

3月に入った。ようやく季節も動き出した。2025年03月05日 23時35分45秒

★久々の本格的な雨が降り続く

 なかなか拙ブログ、更新できずに申し訳ない。
 先月、2月中は、記憶にある限り雨らしい雨は一回も降らなかったが、今月に入り一昨日から久々に本格的な雨が降り出し、ときに霙や雪交じりの雨が雨が降り続き、ようやく季節は春へと動き出した感がある。

 昨日は、午後から粉雪が降り続き、我が多摩地方では数センチは降り積もったが、やがてすぐに霙や雨に変わったので、朝起きたら道には雪は残っていなかった。
 この先も雨もよいの日が予報では続くようだ。春は三日の晴れなしと昔から言われるが、ようやくカラカラに乾いていた冬は終わり、本格的に春へと季節は動き出した。
 我もまた今さらだが、気持ち新たにがんばろうと思っている。

 まず我が愛犬、ベルコのことを記す。

 2月の2日に、前からあった左肩のコブの異変に気がつき、病院通いが始まってもう一か月が過ぎた。
 当初は、人間の大人のこぶし大にまで大きくなり、膨れて固くなっていたコブ、腫瘍は、破裂して中身が飛び出し、その後、その袋の中の部分をひたすら洗浄、消毒の治療を続けていたが、やがてそのコブ部分も干し柿のように乾いて縮んできて、今はそれがとれて赤い肉の部分が剝き出しになっている。
 大きさは、8㎝×6㎝はあるだろうか。、コブがあったところ、ほぼ円形の穴が肩に大きく開いている。画像をアップして載せても良いのだが、痛々しくギョッとさせてしまうのであえて言葉で説明するにとどめておく。
 当人は特に痛がってはなく、医師の話では、しだいに肉が盛り上がってその穴=傷口が小さくなっていくのを待つしかないとのこと。やがてはそこに毛も生えたとき、完治したと言えよう。まだまだ一か月はかかるだろうが。

 体調的には、もうほぼ以前と同じく体力も食欲も戻り、心配はなくなったのだが、相変わらず薬のせいで、異常とも思えるほど水の多飲とその結果として多尿が相変わらず続いている。
 ただ多少はそれも減ってきたのか、以前は真夜中でも一度起きて、水飲みと排尿の散歩に起きなくてはならなかったのが、このところは朝6時半~7時頃まで、ベルコは騒がずに寝てくれるようになってきた。
 また動物病院が開いている日はほぼ連日通っていた傷口の洗浄、消毒のための診察も、やっと3~4日おきに、と間があくようにもなった。
 むろん日に二回、感染症の抗生薬を飲ませるのと、自宅での消毒作業は続けなくてはならないが、当人も以前と同じく元気になったし、今回の病気は経過観察の段階に入ったと言えよう。

 そんなこんなで、2月中は、愛犬の看病、病院通いに毎日振り回された。毎日数時間おきに散歩と夜中も起きるのと、朝も早くから病院前に並ばねばならず、そこに猫たちの世話もあって多忙というか断続的に眠るしかなく、睡眠不足でふらふらで何一つできなかった。
 ベルコの治療費、一回行くと3300円である。保険もないから仕方ないのだが、それに薬代や検査代も加わり、カード払いで支払い終えてまだ合算計算していないが、先月だけで10数万かかったことは間違いない。
 収入のない身には予想外の出費で、まったくもってカード引き落とし日には頭が痛いが、それもまたベルコの命のためなのだが仕方ない。
 いまの我にとってもはや唯一の家族は犬のベルコさんしかいないわけで、その命を伸ばすためならば、どれほど金がかかろうと惜しくはない。

 お前には、たくさんの猫たちもいるではないか、と言われようが、猫は家族ではない。例えていえば、賄い付きの下宿人、しかも家賃も払わず自由気ままに好き勝手し放題の手のかかる下宿人でしかなく、彼らは家族ではない。
 家族というのは、互いに気遣い認め合い信頼し合う関係があるかどうかで、犬は、昨今人気の超小型犬はどうか知らないが、常に人間のことを思い愛情もってこちらに返してくれる。こんな我を心配してくれている。

 先年、母に続き父を亡くし、唯一の血縁は、遠く離れた九州大分の山奥に妹が一人いるが、今この家で共に暮らす家族は犬のベルコしかいない。
 その家族がいなくなってしまえば、我は、本当に一人となってしまう。今、毎朝きちんと起きて散歩したり買い物に行くのもベルコがいるからで、彼女がいなくなれば、我は果たしてそうしたルーティンの日課をそれからも築くことが出来るかわからない。その自信がない。
 朝も起きることなく、猫たちが空腹で大騒ぎしようともう一切何もきちんとやらなくなるのではないか。

 ベルコもまだ本格的老いは見せてはないが、もう若くはない老犬なのだ。今回の病気が癒えたとしてもあと何年生きるかはわからない。
 残された共に過ごす日々を一日一日大切にして我も生きたいと願う。

 ともかく突然の愛犬の病気に先月は戸惑い振り回されたが、ようやく春三月、気持ち新たにもう一度人生再建に取り組んでいきます。

愛犬の病気に関して、経過報告12025年02月17日 00時15分43秒

★まずはこの冬を乗り切り、春を迎えてから

 まったく人生、先のことは何が起こるかわからない。
 新しい年、2025年を迎えて、今年こそはと破綻した人生再建の礎となるよう気合い入れていたのだが、クリスマスイブからの激しい咳を伴う「風邪」に罹り、年末年始どころか1月も半ばまで寝込んでしまい、早くも出鼻を挫かれた感がしていた。
 ようやく体調も戻って来たらもう2月。さあ、今月こそ頑張って家の片づけをはじめ、このブログも含めてこれからのこと、懸案のことに腰据えて取り組んでいこうと思っていた。

 が、2月2日の日曜の朝、立川の教会に行こうとクルマを出そうと思い、犬のベルコを助手席に乗せて身体を見たら異変に気がついた。
 この犬には、左の前足の上、肩のあたりに以前から触るとわかる柔らかいコブがあった。それは、毎年、ワクチン接種のときにかかる獣医の先生の話では、柔らかいから脂肪の塊で悪性のものではないだろう、しこりのように固ければ、癌など悪性の可能性もあるからできれば検査したほうが・・・と言われていた。

 我としてはもう10歳を軽く超す齢でもあるし、仮に悪性のものだとしても老犬だから手術も危険だからと、忙しさにかまけて気にはなっていたが、ずっとほったらかしにしてきたのだ。
 そのコブが、触ったらものすごく硬くカチンカチンになっている。大きさは、鶏卵よりも大きいように思えた。
 ふにゃふにゃと触ると揉めるほど柔らかかったそのコブがいつから固くなったのかまったく気がつかなかった。しかし、つい先日まではこんな状態ではなかった。いったい何が起きたのか。いつからこんなになった?
 そういえば、その日の朝、散歩の時もあまり歩きたがらず元気がなかった。何かおかしいなと思ったのだ。
 この異変に慌てふためいて、教会へ行くのを急遽変更して、猫たちのかかりつけの動物病院にともかくすぐさまクルマを走らせた。

 日曜ということもあって、かなり先客で混んでいて、2時間近く待たされたか。その間、ベルコは待合室の床に横になったままじっと動かない。
 やっといつも猫たちを診てくれる女性医師に診察してもらえたが、そのコブ、固いしこりに驚いて、検体をとれて検査に出せるかどうか・・・と迷われたが、ともかくまずは針を刺して中のものを採ってもらえた。
 待合室で待つことしばし、医師から言われたことは、針をそのコブに刺したとたん、中から臭いガスと液体が噴き出したとのことで、どうやら中で細菌が繁殖してそれで膨れて固くなったのだろうと。
 で、そのコブも中身が出たからか、触ってみるとまた前のようにやや柔らかくなっている。
 ただ、また中で細菌が繁殖して膨れてくる可能性が高いとのことで、まずは抗生剤を出してもらいその日は帰宅した。
 検体は無事採取出来て、専門検査施設に出せることになったが、その費用も含めて、その日だけで2万5000円~。トホホではあるが愛犬のためだから仕方ない。

 しかし、これはまさにプロローグでしかなかった。そのコブはまた肥大してついには破裂してしまったのだ。

 ※長くなるのでもう一回か二回続きます。

人生の価値と意味は、生の長短にあるのではないこと2025年02月03日 19時35分13秒

★「タラントの教え」を我もまた心に刻んで

 昨年のクリスマス~年末年始、正月明けまで体調を崩してずっと寝込んでいたこともあるけれど、気がついたらもう早や二月である。
 このところずっと亡くなられた森永さんのことを考えている。様々な人が彼の死を惜しみ追悼の言葉を語り綴っている。
 苦しい癌治療を続けながらその死の前日まで精力的に仕事していたことも驚かされるが、何よりもその人生の濃密さである。

 俗に、長生きも芸のうち、という言葉もあるけれど、それは落語とか歌舞伎とか芸能の世界の人に当てはまることで、人生の意味と価値は、決してその生きた長さ短かさとは関係ないことを森永さんの死から考えさせられた。
 恥ずかしながら我もようやくこの歳になって、それがわかってきた。

 彼のように、本来は東大出のエリートの家系の人で、安逸安泰な人生が送れるはずだったのに、そこに満足せず、コレクターとしての趣味も含めて、とことん好き勝手にやりたいことをしまくった人は珍しい。
 メディア択ばず自由に言いたいことを言い、書きたかったことを本に書いて次々と出して、そして迎えた60代での早すぎる人生の終焉は、無意味でも無価値どころかとてつもなく濃密な充足した満足のいくものではなかったか。
 氏のご子息が語っていたが、癌が判明した後も彼は好きなタバコもやめずに、ほとんど眠らずにひたすら仕事をしまくっていたそうだ。
 周りもやりたいことをガマンして長生きさせるよりも彼がやりたいことを自由にさせたとのことで、それもまた一つの人生哲学であろう。

 そう、人生の価値とは、長生きしたかにあるのではなく、いかにその人が自由に生きて好きな事を思い通りに成し得たかにあるのだと気づく。そこに生まれてきた「使命」がある。

 キリスト教を少しでもかじった人ならご存じかと思うが、イエスが語ったとされる喩え話の一つに、『タラントの喩え』というのがある。
 我はそれを思い出した。※やや長くなるので、もう一回続きます。関心ある方は、検索してみてください。聖書~タラントですぐみつかります。

さっきまでそこにいた人が、もう今はいない2025年01月29日 13時52分59秒

★森永さん死んじゃった・・・と、

 昨夜、女友達からのショートメールで、経済アナリストの森永卓郎さんの訃報が届いた。

 容態が悪化してきたのは、知っていたし、その覚悟もしてはいたが、まさかこんなに早く突然亡くなるとは思いもしなかった。
 ※彼は、その前日まで、ラジオ番組にリモートで出ていて、体調悪化が進み、もう長くないとの報告を自ら語っていたのだ。

 直接の友人知人ではないし、顔や声は知っていても会ったこともない。が、その女友達の友達の方で、もう数十年も前から彼のことはよく知っていたし、近年の活躍と政権に対しての歯に衣を着せぬ発言には深く共感し、常に注視していた。
 その彼が原発不明の癌にかかり、見る影もないほど痩せてしまい、その闘病の過程を包み隠さず生放送のラジオをはじめ、様々なメディアで「発信」していたので、我も日々その動向、お身体の状態は気にかかっていた。
 治ることはないとしても今年もまた桜の咲く頃までは何とか持ちこたえてほしいと祈っていたのだが・・・

 いまの時代、70代でも若い頃と全く変わらず元気に、精力的に活動している人もたくさんいる。また、80歳過ぎでも現役の政治家も多い。
 が、やはり齢と共にとうぜん死ぬ人は増えて来るし、森永さんのように癌に罹り、闘病を続けた末に亡くなる方も実に多い。高齢になる以前に。
 彼なんて、我と同世代なのである。では、何で我でなく、彼は死んでしまったのか。

 そして、ついさっきまで、昨日までそこに生きて「居た」人が、もう今はいない、消えてしまった喪失感に不思議ささえ覚える。
 もう会えないどころか、声も聞けない。二度と何も死者は我らに語りかけない。
 我は、キリスト者のはしくれとして信仰上は、命の復活、死後の生、死者の復活を教会では祈り唱えはしている。
 が、ほんとうにそれがあるのか、かなうのか、死後の世界も含めて正直確信は持てないことを告白する。
 結局のところ、死んでみないとその先のことはわからないし、何一つどうなるのか、死者たちは皆どこに行くのか、どこにいるのか語ることはできない。
 そう、死後の世界は果たしてあるのか、だ。

 つまるところ一つだけ確実なことは、死んでしまえば、その人の人生はその時点で全て終わりとなり、もはやこの現世とは一切の関わりを失うということだけだ。
 残された者たちも同様で、死者にはもう何一つ為すべきことはできない。
 もう森永さんの得難い、鋭いご意見が聞けなくなることは哀しいし残念でならない。できれば、日本経済のご意見番として、あと20年は舌鋒鋭く、今の経済、好景気はバブルであること、市場に踊らされてはならないこと、資本主義の虚妄を訴え続けてほしかった。
 癌にさえならなかったら、それは十分可能であったはずなのに・・・

 彼がまたエライのは、今日誰もが罹る国民病となった癌の罹患に対して、自らの状態を数値も含めてまったく包み隠さず常に世に、公に発表してきたことだ。
 世には、「死者は生者を煩わすべからず」という美学というか理念が広く出回っている。我の周りにも死ぬまで不治の病となったことを隠し続けていた人もいた。そして突然死の報に驚かされたが、それはある意味、身勝手な死に方ではないか。
 ヒトは誰でも死ぬし、必ず死んでいくイキモノなのだから、死への道筋を避けたり隠しても全く意味がない。

 森永さんのように癌罹患を発表して堂々としかも悲観的にならず、その時々の状態、体調を冷静に世に曝す生き方というか、発信していく「死に方」はまさに画期的かつ立派だと我は思う。
 さすれば、やがて後を追う者にとって大いに参考と指針にもなる。
 そうした意味でも得難い人を喪った。ただ、彼自身としてはもはや何も悔いはないのではないか。
 多趣味多才の人だったから、病が癒えたらまだまだいくらでもやりたいことはあったかと思うが、癌とわかり、「死」を見据えてからやるべきこと、したいこと、つまり死ぬまでになすべき、やりたい懸案のことはほぼ全て為し終えたと思える。書きたかった本も何冊も出した。まさに驚異的スピードで。
 苦しい治療を続けながらわずか1年間でそれを為し終えたこと。それは実にすごい偉大なことだと感嘆する。
 そうして社会的にも家庭的にも恵まれて、好きなこと、やりたいことは何でもやって、短くても満ち足りた素晴らしい一生だったのではないか。
 彼の魂よ、安かれ。その志を継いでいくことこそが供養だと我は信ずる。

 これからも世の動向、そのときどきに、森永さんがまだ生きていたら何て言うだろうかと何度も思うだろう。そのときこそ、彼の教えというべきか、心の内の指針として彼のことを思い自ら問い考え続けていきたい。
 森永卓郎さん、ご苦労様でした。迫りくる「死」を克服した生き方、後を追う者たちに、大きな励ましと勇気となりました。

病の床で、夜の音を聞きながら考えたこと・②2025年01月27日 21時09分08秒

★悔いばかり残るが、ヒトは必ず死ぬ、全てに終わりが来るのだから

 一昨年から続いていた、我の家の内外での混乱、トラブルは、昨年ピークに達した。
 以前も書いたが、我が家の家電製品のほとんどが壊れて使えなくなり、パソコンは、モニター画面を交換してからは、まだ問題なく使えてはいるが、エアコンにはじまり、テレビ、電子レンジ、宅電の他家中のほぼすべての家電が壊れてしまった。
 おまけに猫が原因だと思うが、室内での漏水騒動で、請求された水道代が20万円ちかくとなって、分割払いとなり今年ようやく二回目の四万弱を先日何とか支払ったところだ。
 そこに山梨からもウチにわざわざ固定資産税を督促に来る。嗚呼!!

 唯一の収入元であったAmazonマーケットプレイスでの古本稼業も、購買者とのトラブルがあってから休止したままで、無収入なのに金は湯水のように出ていく。そこに次々税金や介護保険などの督促の請求が届く。ただ頭を抱えた。
 そんなこんなで以前は定期的に、かけこみ亭で催していたコンサートの企画も時間的にも経済的にも、何より精神的余裕がなくなりもう断念するしかなかった。
 まずは、生活再建、人生をきちんとさせてからだ。きちんと定収を得ることからだ。その思いは今も変わらない。

 そうした窮状に、心配して友人たちから支援カンパが届き、親たちの遺してくれた預金を取り崩したうえで何とかこれまで凌いでいる。
 改めてそのお志に深く感謝するしかない。ほんとうに助かっている。

 また何人かの友からは、我の収入方法として、今住むこの家を担保のようなカタチにして、月々収入を得ることを勧められた。我の死後、この家は明け渡す:契約として。
 また、山梨の倉庫のような古民家でも生活はできるのだから、そちらに拠点を移して、この家は売るなり貸すなりすれば良いという声も。
 いろいろご心配かけて本当に有難く思う。我もあれこれの良い悩み検討いたした。
 が、現時点では、ともかくもう少しこの家で、まず片づけを進めながら収入を得る道を模索したいと思ってる。
 ともかく溜まりに溜まった古本、レコード類だけでなく、猫たちも含めて抱えているモノが多すぎて、まずそれを処分していかないことにはまさに身動きとれないのだ。

 そんな状況の中、亡き母の知り合いで、市内あちこちに家作を持っておられる高齢の方から、今は空家となっている寮の食堂ホールを使って、何かフリマでもやらないかね、という話があった。
 そこは名門スピーカーメーカー、フォステックスの元社員寮だった建物で、三階建てでかなりデカく、食堂も広い。が、かれこれもう20年?以上そこは空家状態となっていた。

 正直、当初は気乗りが進まず話半分に聞いていたが、ふと、フリマはともかくもそこに空いてる広いスペースがあり、自由に使えるのならば、ライブイベント、フォークコンサートもできるではないか、と気がついた。
 フリマは、あくまでも客寄せとして、コンサートを定期的に続けていけば、やがては、春一番で知り合った友が、三重県河芸の漁師小屋で、(今も?)毎年夏に続けている『ええかげん祭り』のように、多くのプロシンガーも登場する音楽イベントを地元でやれるかもしれない。
 夢は広がった。で、地元でアマチュアミュージシャンたちに声かけて毎月野外で無料フォークコンサートを続けている方に相談したら、それは良いことだとご協力の快諾も得た。

 で、まず昨年10月に、大慌てで第1回目の、そのフリマ&フォークコンサートを開催したのだ。
 準備期間が短く、宣伝も市内に住む知人たちに声かけたりチラシを撒く程度しかできなかったが、初回としてはまあまあ人は集まった。旧い友もかけつけてくれて急遽手伝ってくれて大いに助かった。
 で、二か月先として、12月に二回目をやったのだが、何故か客どころか歌い手自体も我が声かけた方以外には、ほぼ誰も来ない。客も初回より少なく、いや、数えるほどしか来なくてコンサートは大失敗に終わった。
 ただフリマ自体は、一回目のときよりはまとめ買いの方が来てくれたので売り上げは良く、経費自体はまあ補填はできたが。

 自分はいったい何をやっているのだろう? これからいったいどうすれば良いのか。この年末年始、咳の発作に苦しみながらベッドであれこれ考えた。
 友人に金を融資してもらい、ライブ用のかなり大きい本格的なヤマハ製のスピーカーとPAのセットも二回目に向けて購入しホールにセットしたのに。宝の持ち腐れとはこのことだ。

 そして改めてまた考えたのは、こんなことをやる余裕が自分にあるのか、ということだ。経済的な事はともかく、当日だけでなく宣伝や下準備などで、イベントにはかなり時間と体力が奪われる。
 こんなことよりもまずは、家の片づけと、まず生活安定のための糧を得るための活動をすべきではないのか。
 はっきり言って、フリマにせよフォークソングにせよ、それで飯が食えることなんてありえないのだから。

 ただ今はこう思う。自分の人生は何につけても悔いばかり常に残り結果として、「失敗」の苦い味を噛みしめる。
 が、何であれ先送り、先延ばしにして、先ずは自らの生活を安定させてから、このゴミ屋敷が片づいてからだ、とひたすら家にこもり自分のことだけに向き合っていたら、おそらくもうそれだけで、時間切れとなるだろう。
 たぶんどんなイベントにせよCD製作にせよ、何一つできないまま関係者も自らも死んでしまい、すべては未遂に終わるのではないか。愚図な我だから間違いない。
 これがまだ30代、40代ならまだしも、我の周りは、我も含めて皆アラ還ならぬ、アラ古希、つまり70歳前後なのである。
 昨年も親しくして頂いた友人知人二人突然亡くなった。どんなことでも、いつかそのうちとか、これが終わってからと、先延ばしや後回しにしている余裕はもはや誰にもないのである。

 ヒトは必ず死ぬ。どんな結果結末になろうと、ともかく生きているうちに、何ができるか、何をすべきか、だと気がついた。
 そう、自分はいったい何がしたいのか、自分に何ができるのか。すべてに終わりが来る前に。

病の床で、夜の音を聞きながら考えたこと・①2025年01月24日 11時39分03秒

★我が、「生活と意見」のバランスをどう築いていくか

 と、今週頭に北杜市の税務課職員から未払いだった固定資産税の徴収を受け、我家まで突然の強制訪問を受けてから情けないことにまた体調崩していた。
 こんなことで振り回されて気持ちや時間を奪われるのは本当にバカバカしい。しかしそれも我の弱さの「現実」であり、無理して包み隠すとますます鬱々してくるかと思える。
 体調は戻ってきたので、書くべきことを書いていく。

 本のタイトルや文の表題などでよく(~氏の)「生活と意見」という題名や見出しをみかける。
 「生活と意見」とは、どうカンケイしているのか。それについて考えている。
 そうした文の内容は様々だろうが、要するに、「生活」というものを根底にした上で、「意見」、つまり思想のようなものがあるとみて間違いないだろう。
 つまり日々の「生活」をきちんとさせて、まずそれを述べたうえで、考察として自らの「意見」を開陳していくわけだ。

 これは古今東西昔から広く常識的に人々に認められた考え方である。一概に間違いではない。
 が、かつての学生運動などで、若者たちが、時の社会の不正や欺瞞、体勢組織に悲憤慷慨して、それを問題視し問い変革を求める運動、行動をとったとしても、批判された側、つまり既存の体制側の大人たちの多くは、まだ社会に出ていない、自らきちんと稼いでもいない嘴の黄色い若者たちが何を勝手なことを言うのか、まず社会に出て自分で稼いでから言え!と退けたように、閉塞的関係に終わることも多い。
 今日でも地球温暖化について憂い怒り、急進的な発言と活動を続けている少女に対して、こんな小娘が何を言うか、という視点で、問題提起自体を無視している風潮がある。
 論は脱線しそうだが、大切なことは、その個々の立場の「生活」や「体験」と同時に、「意見」は意見として耳を傾け尊重され検討されなくてはならないということだろう。

 で、今日の社会はどうか。
 インターネットが普及し、誰もが気軽にSNSで自ら情報を発信できる時代ではあるけれど、その多くは、主に「生活」の部分だけのように思える。
 インスタグラムやツイッターなどで、(私は)どこどこへ行きました、店で何々を食べました、今晩は夕食に我家では何々を手作りしました、とか、短いコメントを付けてその画像を上げているのを見かけるが、それは「意見」ではなくまさに「生活」の部分での情報でしかない。
 かといって、「生活」を記さずに、「意見」だけを述べるのは、思索家、思想家のようなもので、哲学の領域になってくる。そこに説得力はあるかも問われる。
 ならばやはり「生活と意見」は切っても切り離せない。

 世の中にあるごく一般的な考え方、ご意見として、まず己の「生活」をきちんとさせてから文句や「意見」、そして行動をとれ、というものがある。
 我も心ある友人知人から今に始まらず昔からよくそうした苦言を頂いた。
 今回も働いてもいないのにまた新たな企画やイベントを開催しようと決めて告知したところ、やはり友から、まずは生活、つまり収入をきちんとさせてからすべきではないか、と諭された。実に有難い得難いご意見だと思う。我自身の中にもそれに同感する自分がいる。

 何回も書いてきたことだが、以前は、拙ブログは、政治も含めて何つけても思ったこと考えたことなどを豊富や希望も含めて自由に好き勝手に書いてきた。ほぼ毎日かなりの分量を書き更新していた。我の唯一の楽しみ、生きがいでもあった。
 が、あるとき書いたことに対して、それを読んだ近くに住む男から、名前も名乗らず我に直に電話がかかってきた。
 内容は、お前は、ブログなどであれこれ「ゴタクを並べる前にまず家のことをきちんとしろ」ということで、衝撃を受けた。
 今は、それもまた一理はあると思う。が、自らは氏名を名乗らず嫌がらせ的にそうした「ご意見」を電話してくるのは、嫌がらせ以外のなにものでもないと今も思うし、そんな卑劣な声は本来は無視しても良いことであった。
 が、それ以降、もう当ブログは気軽に自由に何でも書けなくなってしまった。

 そうした嫌がらせに屈したとか電話が怖いからではない。先に記した新たなイベントや企画も同様に、仕事も含めてまず生活をきちんとさせてから「意見」や「行動」に臨むべきだという常識的気持ちがこんな我にもあり、今も常に迷い葛藤しているからだ。

 ※この件についてもう少し書き足します。

病の床で、夜の音を聞きながら考えたこと・序2025年01月20日 11時24分44秒

★一体自分は何をしているのか、何をまずすべきなのか

 ――というわけで、咳がひどく出るタチの悪い風邪?をひいて、クリスマスから年末年始とただひたすら寝込んでいた。
 新年が来ても正月どころではなく今年はまだ餅も一枚も食べていない。
 誰にも会わず出かけられず、最低限の動物たちの世話と、その餌などの買い物だけは何とか済ますと、後はひたすらニンゲンは何も食べずに時間あれば横になっていた。
 そうして眠ってばかりいると、当然ながら眠りも浅くなり、ヘンな時間に起きてしまい、その後はなかなか寝つけなくなる。

 辛いのは、咳が出ても出なくても真夜中の3時頃に、必ず尿意で目が覚めてしまい、それからしばらく眠れないことだ。
 夏場ならば、夜が明けるのも早いから、そのまま起きてしまい早朝から爽やかな朝の街を散歩することもできるが、今は一番寒い頃で、ただひたすら布団にくるまっているしかない。
 
 電気暗くして、そうしてベッドに横になっていると、まったく物音のしない深夜には、「夜の音」というものがあることに気がついた。
 掛け時計の刻むチクタクという音ではなく、まさに夜そのものが持つ無音の音だ。
 よく昔の漫画などで、誰もいない場所に書き文字などで、「シーン」と表示してあるが、まさにそれである。
 それは、深閑、森閑というしかなく、その「シーン」という文字はそれを示しているのであろう。
 その夜の音を聞きながら、思うのは、自らの死についてもだが、死んでいった友や知人たちのことである。
 昨年も何人か親しくしてお世話になった友が逝った。
 我よりはいくぶん年上だったとは思うが、我のように病弱ではなくはるかに頑健で、元気なイメージしかなかったからまさにその訃報に驚かされた。死というのは、決して弱い者から訪れるとは限らない。
 そして思うのは、みんなどこへ行ってしまったのか、我もやがてそこに行くのか、ということであり、今はまだ咳に苦しみながらも生きている自分はこれからどうなるのか、何をどうすべきなのかという自問であった。

 去年、24年は、暮れの12月に二つのイベントを企画して、ともかく成し終えられた。一つは、予想外の盛況というか、自らも多々学び得るところがあり成功したのだが、もう一つの近隣でやったイベントのほうは、惨憺たる結果に終始してしまい、今もそこをこれからどうしたら良いか、どうすべきか頭悩ましている。
 そう、失敗したのは、近場で企画したフリーマーケットとフォークソングの集いである。

 客も出演者もともかく誰も来ないのである。来ると言ってた友人知人が来なかっただけでなく、二回目となるのにお客も前回より少ないどころかほとんど誰も来なかった。
 その原因は多々あるとは思うが、要するに我の非力さ、人望と人脈の無さに尽きるというしかない。

 ずっと忘れていたツライ気持ち、昔、浅草で企画して、やはり客が入らずに大失敗に終わった某所の「40周年記念コンサート」の時の苦い気持ちを久しぶりに思い出した。
 そのときは、以降三か月ばかし鬱状態に陥り立ち直るのに時間がかかったが、今回は一週間程度でまあ落ち込んだ気持ちは戻った。

 そう、いったい自分は何をやっているんだ。まず何をすべきなのか、だ。

 ※と、ここまで書いていたら、玄関先が騒がしい。誰か来たと思い降りたらば、作業服姿の男二人がファイル持って我を待っていた。
 てっきりまた市の職員が、介護保険料やら未納付の税金の督促、もしくは、環境課や道路整備課の職員が、ご近所からの苦情を伝えに来たと思ったら、何と、北杜市の収納課の奴らであった。
 我には、その北杜市の山里に倉庫として使ってる古民家が在るのだが、そこの税金徴収である。
 固定資産税が今年度二期分未納付になっていたのだが、その徴収にわざわざ山梨県の最奥の市から東京まで来たのである。
 呆れ果てた。そしてこの山梨県の市は恐ろしいとも思った。

 いまここで払いますか、と言うが、当然そんな持ち合わせも余裕もない。とりあえずコンビニ支払いの用紙だけ受け取って帰ってもらった。他にもこちらに用事がありそのついでだそうだが、本当に理解に苦しむ。携帯に電話なりかけてからならまだしも、いきなりの急襲には恐れ入った。市内ならまだしもこんな収納督促対応は、他に聞いたことがない。
 異常であるとしか言いようがない。北杜市の対応、徴収方針には理解に苦しむ。あえて記しておく。たぶん彼らのここまでの高速代、ガソリン代だけで未納の一期分に当たるかと思う。