どこまで続くコロナ禍ぞ~専業ミュージシャンの苦境を憂う・続き2021年04月29日 06時31分47秒

★日本のフォークシンガーはコロナ危機を乗り越えられるか

 物心ついてからだけでも半世紀以上生きていると、モノゴト、世の中の移り変わりとは、まさに栄枯盛衰、次から次へと新たな流行が生まれ、またすぐに「時代遅れ」となって廃れていくことの繰り返しだと思い至る。
 そして日の光の下に真に新しいもの、真に変わらないものなど何もないと虚しくも思う。
 が、人が生きるとは、その生きていた「時代」の中だけのことなので、その時々の出来事、知る限りのことは記しておかねばならない。

 小・中学生の頃、ラジオの深夜放送で流れてきた「日本のフォークソング」と出会ってから、そう、かれこれ半世紀、50年が過ぎる。
 日本のフォークソング、以下「フォーク」は、関西フォークムーブメントに端を発し、70年前後に爆発的人気を若者たちに得ていた。
 中でも70年代前半、よしだたくろう、井上陽水という二大スターがメジャーシーンでヒット曲を連発するとそれまでの歌謡曲とは一線を画すフォークは、フォークギターと共に広く若者たちの必須必修必聴アイテムとなった。
 ひとつの流行、ファッションとして多くの若者たちが彼らに憧れ倣って自らもギターを手に取り拙くとも唄うことを試みた。

 かくいう、この我もそうであった。一陣最初は、質屋のショールームにぶら下がっていた白い中古ギターを父に請うて買ってもらったのだった。
 たぶんそれが1972年か73年頃のはずだから、その中坊の頃からちょうど半世紀に至るわけだ。感慨深い。※そして吉祥寺のぐゎらん堂で、実際のフォークシンガー、シバや友部の生のライブを観てますます夢中になったのだった。
 そうした音楽熱は、大学時代のロックバンドまで続いていた。
 以降途中、社会に出てしばらくは日本のフォークシーンと離れていた時期も長かったが、高田渡の死の前後から熱は再燃し、今の活動に至っていることは拙ブログでは何度も遂次そのときどきの経過と共に書いて来た。

 振り返れば、フォークは、一時期は広く若者たちに支持され人気もあったが、iユーミンらのニューミュージック勢の台頭、さらに70年代後半~80年代前半、サザンらの第一次バンドブームの頃からしだいに人気を失い、特に1980年代末~90年代前半「イカ天」からの第二次バンドブームの頃には、完全に「時代遅れ」のカッコ悪いものとなってしまった。
 バブル期とも重なるその頃になると、フォークソングは四畳半的な貧乏くさく何か薄汚くダサい過去のものでしかなく、フォークギターを街で下げてるだけでも指さされ笑われたほどであった。

 それが2000年前後から、洋楽のアンプラグドブームなどで生ギター、つまりアコ―ティステックサウンドが再注目されると我が日本のフォークも人気を持ち直すのだが、それはさておき、80年代から90年代の頃は、フォークシンガーにとってどん底の時代であったとよく聞く。
 多くのシンガーが当然ながら「うた」だけでは食べていけずに他の仕事、定職に就かざる得なかった。何しろ唄う場がそもそもないし、ライブハウスはあってもそこはバンドのための場で、フォークシンガーには客がつかない。
  天才シンガーソングライター西岡恭蔵が自死したのも1999年で、その死の直前のライブに行った人から聞いたが、彼ほどの人気シンガーでも観客は 2人だけだったとか。
 
 芸術、なかでも「うた」や音楽などでそもそも食って行くことは当然ながら難しいわけだが、まして時代の風向きが変わると、人はそうした音楽に関心は向けない。そこにはその時時の流行している音楽があるのだから。
 人はかつて若い頃によく聞いたヒットソングには、青春の思い出が関連するから懐メロとして聴くことはあっても、今のうたなどには誰も関心を持たないしそういうシンガーがいたとしても足を運ばない。

 むろん趣味として、音楽、ギターやうたを唄っている人は今も昔もいくらでもいる。公民館などの学習室では音楽サークル、ギターサークルなどの活動は全国各地で今も盛んである。
 今の時代は、アマチュアとプロの境などないに等しく、アマの人でもプロ並、それ以上のテクニックを持って居る人もたくさんいる。
 そもそもそんな区分けこそが意味がなく、要は、音楽だけで、それを専業の生業として生活している人についてなのである。

 詩の世界や文学などはそもそもそれで食える人などまず存在しないから、日本の詩人は皆、本業を持っているのは当然だから自費出版で詩集を出して活動している。作家も米国では皆ほとんどが大学やカレッジコースの講師だと聞く。
 日本のシンガー、ミュージシャンも同様に、趣味の活動として「うたや音楽」をすべきなのだろうか。芸術とはそもそもそういうものなのか。
 ひとそれぞれ活動の仕方は多様だから結論は出ないが、我は、このコロナ危機を、専業ミュージシャン、シンガーたちは何とか乗り切ってもらいたいと切に願う。
 いまは、彼らにとってバンドブームの頃以上のどん底、生活の危機なのである。

 今、あちこちの老舗の名店が、このコロナ禍で客足も減り営業が成り立たないとして店を閉めている。
 そこには経営的な問題よりも後継者がいないとか、自らも年老いて店も老朽化してきているので、ここらが「潮時」だというまた別の要因も関係しているようだ。そう、コロナはきっかけ、なのである。
 日本のフォークシンガーも今や、そうした老舗と同じくこのコロナ禍によって廃業の瀬戸際に立っている。
 異論もあろうが、我は、日本のフォークソングの灯を絶やさずに今も未来へと受け渡し繋いでいくのは、パートタイムのミュージシャンではなく、「フルタイム」の彼らだと信じている。

 彼らは政府の支援などは受けられない。だからこそ、おんがくを愛する我らは、コロナ禍で苦境に陥っている彼ら専業ミュージシャンに対して精いっぱいの「できること」をしなければならないのではないか。
 うたを生業として、豊田勇造のように、半世紀の長きにわたり唄い続けてきた偉大なシンガーたちに、この時代だからこそ正しくスポットライトが当たることを願ってやまない。

どこまで続くコロナ禍ぞ~専業ミュージシャンの苦境を憂う2021年04月28日 19時46分12秒

★豊田勇造ライブ@宮沢さん宅4/26日

 明治の代に、漫筆家斉藤緑雨は、いみじくも「筆は一本、箸は二本」と喝破していたが、いつの時代でも芸術というものは食えないもので、文学にしろ絵画にしろ、そして音楽にせよ、それを趣味とするならともかく、生業としてそれだけで食って行くことは難しいのは言うまでもない。※斉藤緑雨(さいとうりょくう)の言わんとするところは、食べるための箸は二本必要なのに、筆は1本しかないのだから、そもそも文学などで生活が出来るはずがない、という意味。
 昨年来のコロナウィルス感染拡大・蔓延により、今もまたまた「緊急事態宣言」下である。

 国民が上からの要請に従わないからいけないと我ら民に責任転嫁する以前に、菅政権や都や府、各県知事など為政者の施策が本当に効果があったのか、何度でも繰り返される感染拡大の波を見る限りまず問われるべきと考えるが、それはさておき。
 感染者がさらに増え続け医療が崩壊し死者がとれだけ増えようと、どんな状況であろうとも、まるでGHQバッハ会長の命令には抗えないから東京五輪は開催すると言うのだから、まさに狂気の沙汰である。自国民の命と健康よりもオリンピックというスポーツのお祭が優先される国って!?噴飯モノであろう。そんな政権を支持し五輪開催を心待ちにする人はそれはそれで見識だと呆れつつもカンシンするしかない。
 ともあれ、東京五輪開催ありき故、民には今もまた様々な自粛しろという「要請」という名の「強制」が政府や都から出されている。
 正直我はうんざりだ。もういい加減にしろと言いたい。

 このコロナ感染拡大と「自粛の嵐」で様々な業種が多大な影響を受けて企業や店舗ならば売り上げが減少し、結果として職を失う人も増え続けいる。収入も減少し住まい自体失う人も多いと聞く。
 ※医療従事者のご苦労と負担は今回あえてふれない。

 マスク業者?とかコロナ禍で儲かっている人も少しはいるのかと思いもするが、多くの国民がさまざまな不便と収入の減少、生活の困窮に悩み苦しんでいるものと我は想像する。
 じっさいこの我の古本稼業も、本などは、そもそも実用書以外、不要不急の傾向が強いものだから、特定給付金が出た頃はともかくも最近では注文がばったり途絶えている。たまにあったとしてもごく安い価格のものしか動かない。

 そして今いちばん我が気になるのは、観光業、居酒屋などもだが、音楽、イベント関連のライブハウスのような店舗や企業とミュージシャンやスタッフなど関係者たちのことだ。
 アルコールなどを提供するそうしたライブハウスは、軒並み「休業」要請が出たため、営業は「臨時休業」するしかない。
 スズメの涙ほどでもそれに対して協力金が出るならまだしも、ライブに出演する予定のミュージシャン、シンガーはどうであろう。彼に何らかの補償があるのか。

 店ならば前年度の売り上げなどにより、一定の額が算出もでるのかもしれないが、ミュージシャン、それもフリーランスの人はどうなのだろう。
 何らかの申請しお金が出たという話は寡聞にして訊いたことはないし、そもそもシンガー、ミュージシャンでそれだけで喰っている人、喰っていけていた人はどれほどいるのだろうか。
 我が知己を得たシンガーたちの多くは、専業ミュージシャンと言うべき人は数えるほどしかいない。

 専業というのは正しいかわからないが、うたや音楽活動以外に、大概の人は、別の「本業」を持っている。たとえば、介護ヘルパーや交通整理の誘導員であったりして、別に「定収」があってこそ、収入が不安定な音楽活動が成り立つわけである。
 しかしごく少ないが、音楽活動だけ、つまりシンガーならば、コンサート活動や自らのCD、物販の売り上げだけで、とにもかくにも生活している人たちも確かにいる。
 それは彼には熱烈なファンや支援者がいるということであり、つまるところ音楽だけで生活できる人気があるという証でもある。
 そうした人気ミュージシャン、シンガーの筆頭が、我らが豊田勇造であることは誰も異論はないだろう。

 しかし、このコロナウィルス感染拡大によって彼だけでなく専業のミュージシャンたちは、そうしたライブツアーそのものが困難となり、場としてのお店の休業要請、時短と客席数削減により大きなダメージを受け、専業ミュージシャンゆえ苦境に陥っているというのは広く知るところであった。
 ※この回、長くなってきたのでもう一回だけ続きます。

禁酒法と灯火管制を嗤い憤る2021年04月24日 10時17分46秒

★三度目の緊急事態宣言を受けて

 どうやらコロナウィルスとは、アルコール飲料と街の明かりで感染拡大するらしい。アルコールを飲ませなければ、夜の街を真っ暗にすれば感染拡大は抑えられる。貴方は、そう考えますか!?
 そんなバカなことは、子供だって思わない。が、小池都知事や菅政権の為政者たちは真面目にそう思い込んでいるらしい。
 呆れ果てた。頭がオカシイのではないか!!

先の「緊急事態宣言」から、「蔓延防止何タラ」やらしたものの、一月でまた再再度宣言「発出」となったのは、要するに為政者の判断が誤っているからなのである。
 何が何でも開催ありきの東京五輪に向けて、聖火リレーとかを決行し、感染予防の人心を緩めるという「誤ったメッセージ」を、昨年のGoToキャンぺーン同様に国が出すから、感染者はぶり返し増えていつまでたっても何度でも何度でも「緊急事態」が続くのである。

 そして今回は、明日25日から5月11日までの僅か17日間という短期間で、とれほど効果が現れて来るのか。
 多少感染者数は減少したとしても、またそこで解除してしまえば、また即、一か月もしないで、今回と同様の事態となろう。 
 今回、三回目の宣言はより厳しく短期間で効果を出すとして小池都知事は、酒類提供の飲食店の休業要請、イベントなどの原則無観客、さらに夜の街の明かりは、午後8時以降は消灯を要請して来た。

 この女性は何故か、コロナ発生当初から「夜の街」を目の敵にしていて、コロナ発生源は、そこだっ!と。そこへは行くな、利用するな、と飲食店やそこで働く人々を苦しめてきた。
 そしてついに今回もアルコールを提供する店は休業しろ、夜の街は明かりを消せと来た。
 むろんそういう場所から感染者やクラスターも出たことはあった。が、今は、各店舗万全の感染防止策はとっているからまずそうした事例は報じらないし、そもそもコロナは、日中だろうがいつでもどこでも人が集まる場所なら感染拡大するのである。
 図書館や映画館、劇場から、ましてデパートから感染するなんて事例は聞いたことはないし、それは人流抑制のためだとしても、ならば人はまた家や、路上、公園や河川敷などで集まって飲んだり食べたりするだけであろう。ゴールデンウイークの長い休みの期間、いったいどこで何をしていろと国は言うのか。家でじっとお茶飲みながら座禅ですか。
 アルコール飲料が発生元ならば、いっそコンビニでもどこでも一切アルコール類はとうぶんの期間は販売停止とすれば良いでないか。

 そもそも自分たち為政者の対応の遅れ、失態、判断の遅れに反省することなく、要請を守らない都民が、国民が悪いからと責任を押し付け、またさらに抑圧的手段に出て来るとは、まさにはらわたが煮えくり返る。
 国民は何も悪くない。この一年ずっと政府や医師会の言うことを粛々と言いなりに守って来たではないか。特に、これ以上飲食店を苛め苦しめて、彼らに責があるとするのは絶対に許せない!!!

 はっきり言う。このままでは永遠に感染者は減らない。医療体制は逼迫、崩壊する。よって何度でも何度でも緊急事態宣言は繰り返し出される。いったいいつまで「自粛」すれば良いのだろうか。我慢にもほどがあろう。
 もう誰も政府や都知事の言うことは聞かなくなる。感染者、死者はさらに爆発的に増え続ける。

 それでもバッハ会長が決めることだからと、五輪開催は変更ないと、強行、いや、狂行するのならば、この国はコロナウイルスではなく、為政者、つまり自公政権によって崩壊・滅亡していくことは間違いない。
 やがて生き残った人々はこう呟くはずだ。悪夢のような安倍・菅政権時代だったと。

 さて、では5月9日の「共謀コンサート」、どうしたものか、今思案中だ。近くお知らせする。

持続可能な人生を生きていくために2021年04月18日 08時52分22秒

★老いには老いの憂いあり

 昨日17日、土曜日は、雨が朝から断続的に終日降り続き、特に夜になってからは夜半までかなり強くたっぷり降った。
 今、日曜の朝は、雨も上がり強い陽射しが出て濡れた街並みを照らしている。空は雲ひとつなく降り続いた雨ですべてが綺麗に洗い流された感がある。
 ひんやりしているが晴れて雨後の瑞々しい気持ちの良い朝だ。開けた窓からは爽やかな風が吹き込んでくる。

 昨日は、日中も雨の音を聴きながらひたすら眠り続け、昨夜も夜中まで起きることなくたっぷり眠ったのでやっと頭も気持ちもようやくスッキリした。
 16日のかけこみ亭のイベントに次回の「共謀コンサート」のチラシを持っていくため、木曜から作成に取り掛かってたのだが、父も施設から帰宅し在宅だったことと、金曜の昼過ぎには訪問介護があったり、ともかく他のやらねばならぬことも多々あってともかく慌ただしかった。
 
 いつもの金曜は、その父は、終日家に居てウチで一泊し、翌土曜の朝にまた介護施設に送り出すのだが、16日はその金曜の夜開催のイベントだったので、けっきょく施設に無理言って前倒しで夕方から父を預かってもらうことにした。
 一泊多くの利用となるため、また利用料はかさむが仕方ない。父を一人で家に残しておくと何をしでかすかわからず、おちおちライブなど楽しめない。徘徊も火の元も猫たちのことも心配となる。
 その夕方、父を車で施設に連れて行き、それから大慌てで荷物まとめて即急で印刷したばかりのチラシも持ってかけこみ亭に向かったのだった。

 そのイベント、感想などは先に別項で書いたので割愛するが、数年ぶりにシバや村上律氏、のろの加藤さん他、敬愛する方々とお会いできお話もしほんとうに懐かしく嬉しかった。
 お互いさまと言えば、この我もだが、皆またさらに以前より少し老いた感もあり、この先いつまた会えるかも定かではなく感慨深いものがあった。そう、60代、70代ともなると、皆さん元気そうに見えたとしても先のことは何もわからずまさに一期一会の思いが強くわいてくる。

 そろそろ人生の終演の時期にさしかかり、残りの時間はあとどのくらいあるのか、誰もがその長さを勝手に予測、想定しながら、「その中」で何をどれだけ、どうすべきか手探りで模索している感がある。
 若いときは、時間はたっぷりそこにあり、常にいつでも明日は来るし、人生はこの先も続いていくと「確信」もあるから、ある意味、先のコトは考えず、その日その時、思いのまま刹那的にも生きられる。
 また、我はともかく誰もが人生設計のようなものも立てる。どう生きていくか、ということはまさに若き日の目的・主題であろう。

 が、誰もが相応に老いて、還暦を越したあたりからは、主題は、どう生きるかではなく、どう死ぬか、どう死んで行くか、という自らの終末の有様に移っていく。
 本当に日々刹那的、無計画に、まさに「アリとキリギリスの寓話」中のキリギリス的に生きてきたこの我でさえもこのところよくそのことを考えるようになった。
 人生が二度あればとか、あの日に帰りたい、若い頃に戻りたいとかは考えても意味がない。
 人生は一度きりで、イエスが説いたように「永遠の命」があるとしても、ともかくこの今皆と生きている人生、つまり現世はこれだけ、ここで終わりなのである。

 世界はこの先もある意味、永遠に続いていくが、死んでしまえば死んだ人はそこで終わりで、百年もすれば同時代的な人たちも皆すべて死に絶えて、何もかも消えてなくなり、そこにそんな人たちが生きていたことすら誰一人知る人はない。
 古代ローマの遺跡は今も残って、当時の人たちの暮らしは窺い知れるが、そのときそこには実際どんな人が生きていたのかその個々の姿はもはや誰もわからない。

 断捨離とか考える以前に、我は、自らの人生の「店じまい」について、さてどうしていくべきかさすがにこのところ考えるようになった。
 妻や子、子孫がいる方は、幸運、幸福なのである。自らにある日突然不測の事態が起きたとしても、彼ら家族が対応してくれて事後処理もしてくれよう。
 死後に家族を煩わせたくないとかよく聞くが、その家族をつくり養い守り育ててきたのだから、彼らはその恩に報いるためにもそれは当然なのである。それを拒み厭う者は恩知らずの人でなしであろう。

 我にはそれらはいない。今も昔も一人者だから。そして今さらながら結婚したいとか老後のパートナーが欲しいなんて気持ちもさらさらない。
 とことん自分勝手に生きてきたのだから、一人のほうが今も昔も心地がいい。我にとって人生とは=生活であり、生活とは自分だけのものだ。むろん友達や気の合う仲間は求めるし、多いに越したことはないのは当然だが。
 父を看取った後、ではどう生きていくのか、いや、どう死んで行くか、真剣に考えるときが来ている。
 ただ、まずは、そのためにもそのときまで、いかにこのどうしようもない人生を「持続可能」なものにしていくかだ。

ようやく心が戻った。日常も戻りつつある。ブログ再開します。2021年04月13日 21時43分07秒

★ご心配おかけしましたが・・・

 まったく申し訳ない。またまたずっと拙ブログ、間が空いてしまった。
 父の体調は幸い特に悪いわけではなく、いつも通り介護施設に預け、お泊りさせているのだが、それとは別に、家庭内でトラブルというべきか、まさに想定外の事態が起きてしまい頭が混乱し不安に囚われて夜も眠れなかった。

 何が起きたか、包み隠さず書こうと思ったし、そうすべきなのだが、迂闊に起きたことをここに公に書き記すべきではないと秘としておく。
 通りすがり的に目にした人が、正義感にかられた諸団体に通報したりして、行政など赤の他人が我が人生に関与して来て事態はさらに面倒に悪化していく。
 その場合、我は自分の人生は自らで落とし前をつける覚悟を決めている。そう、自らすべてを終わりにさせる。

 そうならないためにも、何が起きたのか、は、申し訳ないがここに書くわけにはいかない。個人的に問い合わせや、友人知人などに訊かれればお答えも説明もする。基本、我を知る人には今さら隠し立てはしない。
 が、ブログなりSNSの世界の怖いのは、どこの誰だかわからない無記名の他人がそれを読んで取り上げたりして、やがて広くカクサンしたり結果として「炎上」や、ときに当人を追い詰めるような事態に発展する可能性が高いことだ。
 芸能人などの自殺も多くの場合、ネット上からの誹謗・中傷的コメントが要因で、自らの身勝手な「正義感」にかられて他者を糾弾していく人が世間には多いからだとされる。

 このブログを読まれている人は、有難くも良識ある心優しい方々ばかりだと我は心から信じているが、世の中はそんな善き人ばかりでないことは皆さんもご存じの通りであって、悪意はなくても結果として悪い、悲惨な結末に至る事だけは避けたいと願う。

 そんなで、何が起きたのか、何が起きているのかはともかくも、この何日か、いや、先月半ば来、ずっと心が落ちつかず何も手に着かず、まさに「心ここにあらず」状態であった。
 いま、ようやくこうしてブログを書きだして、内なる積もる思い、悩みというべきか、苦しい気持ちを吐きだせてずいぶん楽になった。
 一時は、もうブログは終わりにしようとも考えた。
 その余裕が精神的にも時間的にもないのである。かつてのようにつらつらと、まさに徒然なるままに昔話も含めて、思いつくまま好き勝手に書き散らせたらどんなに楽しいかと回顧する。
 父の世話だけでなく、あまりに抱えているモノが多すぎて、まさにいっぱいいっぱいとなってしまい人生そのものの維持が難しくなってきた。
 そこにまたさらに予期せぬ新たな問題ゴトが突発的に起きる。

 我はすべて起こることは良いことも悪いことも全部受け容れていくと決心しているが、正直揺らいだ。しかし、それでもまだ人生は続くし続けないとならない。それはまたしんどい気がするが。

 尾藤イサオの名曲『悲しき願い』のサビの部分、漣健児の超訳詞である「♩誰のせいでもありゃしない、みんなおいらが悪いのさ」、がずっと頭の中で鳴り響いている。

春、四月、まだこちら側にいるうちに2021年04月01日 12時35分15秒

★気がつけば、早や春爛漫、四月に。

 つい先日、年が明けたと思っていたのに、早やくも三か月が過ぎ、今日から4月、新年度である。もう1年の四分の一が終わってしまった。

 このところ日中は、外の陽射し浴びていると汗ばむほどの陽気で、今春は異常に早くも気温が高い日がこのところ続いている。先日、東京では夏日を迎えた。我はこのところ昼間はTシャツ一枚だ。
 ともあれ、コロナ渦中であろうとも季節は冬から春へと、今年も厳冬を乗り越えて新しい春、快適な季節が迎えられたことをまず心から喜びたい。
 春は出会いと別れの季節、と昔から言われる。が、歳とって来ると、出会いなどまずなく、次々と季節を問わず別ればかりが増えていく。そして最後は、自らもこの世界と別れを告げる側となるのであろう。
 
 今日から、4月。先月はずっと体調がすぐれず、微熱程度でも風邪のような症状が続いていて、もしやついに我もコロナに罹ったかもと不安な憂鬱な気分でずっといた。なので時間あらば、大事をとってひたすら寝てばかりいた。
 が、今はやっとその不調も収まり、やはりそれは我の持病、毎年恒例の季節の変わり目に起こる、寒暖差アレルギーだったのだろうと思うことにして気持ち新たに、まさに心機一転がんばろうと今は思っている。

 家のことも、我が実生活ももうスゴイ状況になってしまったままなのだが、幸いにしてこのところは我が父は、体調が安定しているので、介護施設にも滞りなく通ってくれているので、本当に助かる、有難いことである。
 年明け、一時期は、父の呆けが悪化して、歩けないとか食べられないとか体力低下以前に、何故か、真冬でも睡眠中に衣服を全部脱ぎ捨てて素っ裸で寝ていたりで、結果、糞尿をベッドに撒き散らすことになり、その対応に我は大いに苦慮した。毎日毎日洗濯に明け暮れた。
 何より、困るというか、情けないのは、施設から帰宅してもここが自分の家かどうかよくわからなくなって、病院だとか施設だとか言いはったり、ここではなく別のところに家があるとか、記憶が混乱し騒いだことだ。むろん我、息子のことも誰なのか認知できない。

 一時期のように、徘徊朦朧として、深夜に戸を破壊して外に出たりする体力気力はなくなったものの、そもそも基本的なことが何一つわからなくなっているときもあって、起こしてトイレに連れて行っても、そこで何をすべきなのかも、食事のとき、料理をテーブルに出しても、食べる、という意味、行為そのものが「わからない」状態のときもあって、こちらとしては本当に情けなかった。これ、どうするのか?、といった態で、ぼうっとして自らでは何もアクションを起こさない。
 仕方なく介助して口元までスプーンで運んで付きっきりで食べさせないとならないわけだが、食べたくないとべっと吐きだしたり、苦労して食べさせたと思ったとたん、全部吐き戻したりもして、もうこの家で暮らすのは、「限界」だと、覚悟も決意もした。

 まあ、いま、96歳。百歳にもう手が届くほど齢を重ねてきたのだから、生きているだけで奇跡ともいえるわけで、ついに我が1人で世話することは終わりが来たと思えたものの、どうしたことかこのところは持ち直し頭の方もクリアで、受け答えもまっとうのことも多く人間味がまた戻っている。
 実際のところ、息子として老父の汚れたお尻を拭いたりオムツ替えしたりすることは今はちっとも苦痛ではない。逆に、そういうした行為をしてあげられることこそ「有難い」ことだと思っている。
 母のときもだが、こうした下の世話は、我を我がままし放題に育ててくれて、世間的常識からすれば親不孝の極みをしてきた我だからこそ、その恩返しであり、ある意味、すべての帰結なのだとわかった。

 しかし、それもこれもそこに当人間の意識、意思が通い合ってこそであり、実際、介助されている側が、今、自分はどこにいて、誰がそれをしているのかもわからない状態になってしまっているならば、あえて我がそれをやる意味はあまりないと考える。
 つまり特養とか、介護老人施設で、我ではなく専門の職員たちがしたとしても同じことなわけで、家族が介護するとは、当事者とまず意思の疎通があってこその話だと我は思うが・・・。
 ともかく今は、そんなわけで、我が体調悪かったときは、いつもより長めに施設に預けられて、おかげで息子も何とか体調取り戻せたという次第である。
 いまは、体力はともかくも気力は元通りに立ち直ったことを報告したい。

 何もできないまま、相変わらず片付けはちっとも進まないまま、季節は進み、時間だけが過ぎていく。まさに忸怩たる思いにもなる。
 しかし、ともかく父も我もまだここに、こちら側に共にいられるのならば、犬猫たちも含めて今在るものたち、モノゴトも含め全てに感謝して、関わるすべてを慈しみ大事にしてとことん愛していこうと思う。
 ときに倦み疲れて、すべてを投げ出したり全てもうどうでもいい、どうなってもかまわない、という投げやりな気分、ネグレクト衝動に囚われることも多々あるが、終わりは近いし残された日々も僅かなのだから、一日一日丁寧に生きて行こうと思う。

 コロナはいつまで続くかはともかく、こんな大変な時代でもすべては神の計らいだとすれば今はそこに意味を見出したい。そして「その中」で何ができるか、何をすべきか、自問していく。 
 毎度のことながら、いろいろご心配おかけして申し訳なく思う。 
 だからこそ「その中」で、今、自分ができること、まだすべきことがあると信じて頑張っていこう。

PCR検査の結果は・・・陰性とのことでした2021年03月29日 23時10分29秒

★正直、ほっとしている

 自分事ではないわけだが、先に書いたように、先週拙宅に来られて、我と半日共に過ごした人が、その翌日から体調崩し発熱もあり、その後もコロナかと疑われPCR検査を受けたわけだが、本日連絡があり、結果は陰性と出たとのことであった。
 我としては、彼女が陽性だとしてもそのときは、そのときだと覚悟もしていたけれど、やはりほっと安堵し胸を撫で下ろしている。

 というのも、もし陽性であった場合、我も濃厚接触者は間違いなく、となるとPCR検査はもちろんのこと、10日~は自宅待機で様子見となるだけでなく、この我とまた濃厚接触している父も関連してしばらく自宅で様子見、となることもまた予想された。
 さらにそうなると、今父が通っている二か所の介護施設までもが対応を迫られることになるかもしれなかったわけで、一人感染者が身近に出た場合、感染拡大を怖れ濃厚接触の輪はどんどん広がっていく恐ろしさと深刻さをひしひしと実感できた。やれやれだ。

 癌とか進行性の特効薬のない病気も怖いと思うけれど、そうした病気はそもそも他者にはうつらない。だから安心して接触して看病も見舞いにも行ける。母のときのように死に行く人を抱きしめることもできる。
 コロナのような感染症が真に怖いのは、いつどこからうつったかわからないことと、また自らが感染している自覚もないまま、また他者にも新たにうつすかもしれないということだ。
 PCR検査を受けたとしても発症まで時間もかかるし、陽性者と昨日今日会ったとして、すぐさま検査受けて陰性と出ても発症しない保証はないと聞く。そう、この感染症は潜伏期間も勘定にいれて予測しないと真に感染していないか即断できやしないのだ。

 コロナは確かに風邪のようなものだとも思うが、インフルエンザも含めて風邪の方がもっとわかりやすい。
 二、三日様子見ていれば、罹ったかそうでないかはだいたい予測がつく。発症まで時間はそんなに長くかからないし、その症状が出なければ他者にうつすこともまずない。
 そもそも無症状の感染者という定義が風邪の場合あるのであろうか。

 思うに、今さらながらだが、コロナという感染症はとてつもなく面倒だということに尽きる。目に見えないものが人から人へ感染していく。そして無症状的に軽い人もいれば、急激に悪化して死に至る人も多々出て来る。ゆえに甘く見てはならないし、油断してはならないのだと今改めて思い知った。
 ともかく自らも含め、感染者が1人出てしまえば、そこから水面の波のように濃厚接触~陽性?~発症かもというさらなる影響が周囲に恐怖と共に広がっていく。

 今また、緊急事態宣言解除後、またもや第四波が起きていると報じられている。野党からはまたも再度「緊急事態宣言」を、との声も出ている。
 だが、我は思う。いったい誰にとっての「緊急事態」であるのか、だ。医療体制ばかりスポットが当てられるが、その専用入院ベット数だけが問題視されることではないと思う。
 それよりまず、コロナの真の恐ろしさ、感染症の本質として人間関係そのものを壊していくということ、まずそのことをきちんとはっきりと国民に伝えて知らしめ誰もが自覚しない限り、いくら違反者を取り締まろうとも無意味だと感染は抑止できないと断言する。

 コロナは怖い。病気としてよりも感染した場合、人間の心と人々の繋がり、これまでの関係を結果として破壊することこそが怖い。
 コロナが病み壊しているのは人間がこれまで連綿と築き挙げてきた信頼と秩序ある人間社会そのものなのである。

やっと父をまた送り出して「続き」を記す2021年03月27日 10時31分59秒

グリコ、在りし日の姿
★コロナではないと思うがこの一週間ずっと寝込んでいた

 また間が空いてしまい、多々ご心配おかけした。申し訳ありません。

  また週末である。今週は、思うところあって、父をいつもより長めに一泊多く介護施設に預けて、水木金と山梨へ、年明け後に初めて行く予定でいた。さすがに山里でももう雪はないだろうと。※今年はスノータイヤに交換していない。

 が、風邪なのか、コロナではないと思いたいが、我は咳や鼻水、頭痛など風邪の初期症状が出て、大事をとってひたすら安静にして結局山梨行きは中止にした。

 実は、20日の春分の日の土曜、猫関係の件で、長年付き合いある女友達がウチに来て、昼過ぎから夜まで一緒に過ごした。
 ところが、その人が、その後、週明けに、風邪をひいたらしいと連絡があり、38度の発熱があったとのこと。
 と、同時に我も何か寒気がしたり咳が出たり風邪っぽくなってきて、父は介護施設に無事送り出せたものの、我はやや微熱もあるようで、さてどうしたものかと考えた。
 たぶん行っても問題ないと思ったが、やはり不要不急の外出は極力控えたほうが良いと考えなおし、結局、ひたすら家にずっと籠っていた。

 その彼女本人はまだ微熱が続いて体調すぐれないとのことで、やっとかかりつけの医院に行き、発熱外来で受診しPCRと血液検査を受けたと言う。
 その結果が届くのが、来週明けとのことで、我もこの日曜、出かけて人と会う用事もあったのだけれど、もしコロナ陽性だと判明したらば、我も濃厚接触者に違いないから、今は、事情を話してすべてキャンセルにしてもらった。

 というわけで、父は不在だし、我も一人で家にずっといるのだから時間はいくらでもあったのだけれど、夜になると頭痛もしてきて起きていられず、心身共に何か倦み疲れた感じで、朝はいつもどおり起きても午後も断続的に仮眠をとって寝てばかりいた。
 鬱ではないが、いろいろあれこれ思うところあって、気持ちもやや沈んでいた。そう、こんどは長年飼ってきた、我家でいちばん古くからいる猫がもう二週間帰って来ない。あちこち探したり近所の猫過ぎのオバサンたちに尋ねもしたが、情報はない。忽然と姿を消してしまった。歳も歳なので、今は諦めもついた。
 ※猫神社で知られる砂川の阿豆佐味天神に詣でれば、と迷ったが・・・

 灰色だから、グレー、だからグリコと言う名の雌猫は、調べてみたら15歳ほどで、思ったほど高齢ではなかったが、近年は歯も悪いらしく食べるのが大変なようで痩せて来てしまってヨボヨボな感じがしてきていた。
 その猫は、それまでいた猫たちが一度死に絶えて、我家に猫がいなくなったとき、猫好きの父が淋しがっていたので、我が近くの公団住宅の野良猫一家からもらい受けてきた猫だった。
 雑種のはずなのだが、どこかで洋猫ロシアンブルーの血が入っているらしく、一見すると、その青灰色の高い値の付く洋猫に見えて、父はそれもご自慢だった。だから父のお気にいりの猫で、以前はずっと父と一緒に夜はいつも抱かれて寝ていた。
 今は、父自身があまり家に帰らず、代わりに他の猫たちが父の部屋に同居しているので、グリコは、一緒には眠れなくなったけれど、父が施設から戻る日は、必ず庭先で父の乗って帰る車を待っていた。
 そしてコタツで父の膝に乗って甘えるのが好きだった。

 グリコも一度は子を産んだが、その子たちは猫風邪だったがすぐに死んでしまい、その後は避妊手術も終えて、常に猫ドアから出入りは自由にさせていた。
 先年も一度食が細くなって弱って来た感じがしたので、かかりつけの動物病院で、まず点滴と投薬してもらい持ち直したこともあった。
 以後、定期的に点滴に連れて行ってたのだけど、そろそろまた、と考えて先日も他の避妊手術予定の猫と一緒に車に乗せたら、運悪くバッテリーが上がってしまっていて、その日はけっきょく行けず、グリコは自ら車から出て逃げてしまった。
 ただ、このところは、好物のカツオのたたきをたらふく食べていたし、いつも通り雨の日でさえも猫ドアから出たり入ったり自分でしていたから、まあまだ元気だと思っていた。

 最後に姿を見たのは、3月14日、日曜の夜であったと思う。猫ドアから自ら出ていく後ろ姿を覚えている。
 が、翌朝、いつもならいつも朝は寝ているソファーにその姿がなく、その日は、父が施設から戻る日なのに、グリコは迎える姿を見せなかった。その日は終日帰らず、何か胸騒ぎというか、不安な気持ちになった。そして以後今も帰らない。
 というのもその数日前、やはり家と外を出入りしていた、一番若い雌の黒猫ミーが線路で死んでいた件があったから、まさかまたもやという怖れも強く感じた。
 むろん猫のことだからこれまでも何日も帰ってこないこともあった。
 他の、後からウチに来た若いメスが子を産んで、グリコが追い出されてしまい、近所の家でご飯をもらっていて、姿みかけてもなかなか戻らないときもあった。
 しかし近年はそんなことはなく、今いる他の黒系猫たちともお互い我関せずという良好な関係が出来ていた。

 正直なところ、まだ病み衰えて急逝するほど体調が悪いとは思えない。元々人見知りが激しく慎重な性格の猫だったから、線路で事故に遭うとか、誰かに連れ去らわれるということは考えにくい。
 が、我は線路も探してみたし、この近所界隈も日々目で終えるところは探して見廻ってみた。が、やはりいつもよくいるところ、いつも見かけたところにその姿はない。

 よく父に冗談で、グリコと父とどっちが先に逝くか、わからないほどこの猫ももう年寄りなんだぞ、と言ったりもしたが、我としては猫のほうが先に逝くとは予想も予測もしていなかった。
 いや、死んだのかもわからない。まだひょっこりまた帰ってくる気もするし、そうだったらどれほど良いだろうか、もう何度もそうしたグリコが帰って来る夢も見た。

 今まで、この家では何十匹という数の犬猫を送った。事故死することも多いのだが、やはり長年共に暮らして最後は老衰的に家の中で眠るように死ぬ猫や犬も多々いた。むろん失踪してそれきりとなる者も。
 が、今回のグリコのように、老いて姿を忽然と消した例は記憶に思い浮かんでこない。ずいぶんフラフラしていたが呆けていたとは思えない。
 いったい何が起きたのか。いや、何が起ころうとしているのか。
 そして我は、ことに及んでどうすべきなのか。どうすべきだったのか。

 勝手に思うに、グリコは、老いてこの先長くはない父の先達として、私が先に行って待ってますよ、あの世にはもうお母さんもいることだし、待ってますから、パパさん安心して来て下さいと、先に旅立ってしまったのだろうか。

 こうしていなくなってしまうのならば、ケチらずにもっとちゅ~るとか存分にあげれば良かったとか、あれこれ悔いも残る。
 それでもほぼ15年間、我家で我らと共に自由に暮らして来た猫の人生はどうであったか。幸せだったか。満足できただろうか。
 もっと愛せば、もっと優しくしてあげればよかったと失ってから、その姿が消えてからいつも思う。
 そう、いつだって思うのは失ってからだ。ならばこそ、今、在るうちに、今ある全て、いまここに共に在る彼らすべてを愛し慈しもう。
 我もまだ生きているうちに。

 そう、大事なことは、いかに愛したか、どれほど愛せたか、なのだ。

いったい今、何が起きているのか~続き2021年03月20日 12時23分01秒

★ご心配おかけして申し訳ないが

 いま、ウチは、室内飼いの猫、つまり外には出さずに家の中だけにいる猫のグループと、外と出入りしている猫たちがいる。
 いまは、基本、雌猫はこれ以上新たに妊娠しないよう家の中で、それ以外の避妊手術した猫たちは、猫ドアを通して野外との出入り自由として、昔からいる猫たちも老猫グリコを筆頭に「外」のグループである。
 今回、線路で事故死した黒猫は、いちばん最近生まれた三匹のうちの一匹で、当初は雌1、雄2の兄妹だと思っていた。黒2、銀1であった。
 そのうち黒ではない雌は、早めに室内に隔離保護して、残りはオスの兄弟だと思い、外と出入り自由としていたのだが、最近になって、その黒2匹のうち小柄のほうが、メスだと判明して、どうしたものかと考えていた。※猫の雄雌は、ある程度大きくならないとなかなか判明しにくい。
 なかなか慣れっ来い甘えてくる猫で、首輪も付けていなかったが、そろそろ捕獲して他の雌たちと一緒の室内に入れるべきか迷っていた矢先であった。
 このところは、その黒猫兄妹は、八高線の線路を渡って、向かいの畑で遊んだりもしているのを見ていたので、危ないなあとは思っていたが、忙しさにかまけてほったらかしにしていたのである。
 そしてまたしても事故が起きてしまった。

 一昨年のキジ子のときもだが、この単線の八高線の線路では電車に撥ねられこれまで何匹の犬猫が命をおとしたことだろうか。
 キジ子だけは、大怪我はしたものの、幸いにして後ろ脚1本を根元から切断する手術で奇跡的に生還できたものの、またしても犠牲者が出たというわけだ。
 むろん今は、鉄のフェンスで遮断されて人間はカンタンには線路内に立ち入れないようJRの対策はとられている。
 が、猫などは身体が小さく、しかも頭さえ通れば少しの隙間からでも線路内に潜り込んでしまうようで、平気で線路内に降りて渡っている。それでキジ子以来また新たな事故が発生してしまったのである。

 フェイスに脚立を立てかけて線路に降りて、ともかくそのまま遺骸をそこに置いておくわけにもいかないから、我が家の庭に運んで、昨秋の降り積もった落葉の中にとりあえずそっと安置した。まさに泣きたい気分である。何でこんなことが・・・、可哀想だと言うしかない。
 即死は間違いないのだから、早く庭に埋めたかったが、遅くとも昼前には、父の訪問診察で担当医たちが来てしまうので、まずは彼らを迎え入れる準備が先だ。
 その医師と看護婦たちは、午前10時半頃には来て、いつものようにカンタンに診察を済ませ、薬の処方箋を置いてすぐに帰った。

 それからまだ父に朝食も食べさせてなかったので、カンタンにパン類をスープで摂らせてから暖かい昼過ぎ、父を表に連れ出して我はミカンの木の下近くに穴を掘り、可哀想なミーを埋めた。まだ一歳にもなっていなかったかと思う。毛並みも手触りも生前のままだったが、身体はもう固くなっていた。
 2017年の春に、老衰で死んだ愛犬ブラ彦も、柿の木の下に埋めたらその年の秋は、柿の実はたわわに成った。ミーもまたみかんの木を成らせてくれるに違いない。猫の魂よ、安かれ、である。
 それから父にサポートさせて、上がってしまった車のバッテリーを復帰させる作業にとりかかった。しかしこれまた一苦労であった。

 自慢できることではないが、我は、生来の不器用で、工作やメカニックなことにはとことん弱い。何かモノを組み立てるということは、プラモデルどころか、学年誌の紙の付録でさえ完成させることかができないほどだ。
 小学校のときは、図画工作で通信簿が付けられてしまうから、我はずっと評価は1.であった。が、中学になって、美術だけに切り離されたら、評価はとたんに5になった。
 今は絵心とかそうした才能は枯渇してしまった我だが、元々絵画的センスは多少はあって、美大進学を目指したこともある。本来は5.の才能が、1.に下げられるほど木工などモノづくりの才はなく、とことん不器用なのである。
 そこに来て世の男子は、皆たいがい、鉄道や乗り物、車やロボットなどメカニックなものが好きなようだが、我はそうしたものは昔から一切関心がない。メカ類でもオーディオとか楽器は異常に好きだが、それは音が出るからであり、単に固いものや動くものには無関心だと言うしかない。だから車も自転車も単に動けば、実用的であればそれで良し、であり、自らいじることはまさに関心外であった。
 そんな男が、自ら車のバッテリーをいじるハメとなった。とことん不器用な男がボケ老人をアシストにして、どれほど苦労したことか想像できるであろうか。
 ※実は、我が父は、呆ける以前は、こうしたメカにはめっぽう強く、我と違って手先は器用で創意工夫の人として知られていた。腕時計からバイク、自動車まで父が修理できないものはなかった。が、それも今は昔であり、今は手も震え目も見えず頭も回らず頼りには全くならない。

 ボンネットを開けて、ネットの記事にあったようにまず、ウォーシャータンクのポリ容器を持ち上げないと肝心のバッテリーが姿を現さない。が、そのタンクにもとうぜんコードというパイプが付いていてそれを外さないとタンクは動かない。
 全てがキツキツでスペースがなく、手も入らず、ろくな工具も手元になく、その二本のパイプと線を外すのがまず大変であった。※また元に繋ぎ直すのも。
 やっとタンクは宙に浮いて、バッテリーも見えた。そしていよいよ小型モバイルバッテリーからジャンピングである。
 そのAmazonで注文したモバイルチャージャーは、その日の午前中に届き、既に充電しておいた。

 クリップをそれぞれプラスとマイナス、赤と黒それぞれで繋いで、車内に入ってエンジンをかける。が、ウンともスンともエンジンはかからない。
 外にいる父に、タンクと小型チャージャーを支え持ってもらったのだが、父がいて良かったとこの日ほど有難く思ったことはない。
 車内に入らないとエンジンはかけられないのだから、我一人ではそもそもこの作業は出来なかったのである。
 プラスとマイナスを繋ぐのが間違っているのかと、何度も付け替えてみた。説明書ではごく簡単に、エンジンはかかるとのことで、かかったら即バッテリーのクリップは外せとある。
 ほとほと困惑した。近所の懇意にしている家のご主人が、今日は休みなのか庭先にいるのが見えた。もう諦めて、彼にお願いして車を出してそれで繋いでもらおうかと大いに迷い考えもした。
 が、諦めずに10分ほど何回も何回も繋ぎ直してたらやっと反応がわずかにあり、エンジンが鳴りかかりそうな感じがした。何故か突然死んだ猫のことを思った。南無さん!!!
 そしたら突然エンジンがかかった。

 しばらくそのまま吹かしてから、切らないようにして即車を出した。助手席に着の身着のままの父を乗せてしばらく秋川方面まで走り、八王子の滝山街道から回って市内に戻って、行きつけのガソリンスタンドに入って給油した。そこで初めてエンジンを切った。
 スタンドに入ったのは、もしまたバッテリーが上がったとしても、そこなら店員にヘルプもお願いできると考えたからだ。
 給油してからエンジンを何回か掛け直したら問題なくすぐかかった。ほっとした。もう大丈夫だろう。

 並びの街道筋のかつ丼屋で遅い昼飯を父と食べて、家に戻ったらもう夕方、4時であった。実に長い一日であった。ともかくバッテリー問題は何とか解決した。みーは死んでしまったが、父がまだここに居てくれて助かったと心底感謝した。有難いことであった。
 しかしことはこれで終わらなかった。数日後、今度は、我家いちばんの老猫、灰色のグリコが姿を消してしまい、「行方不明」となってしまった。 
 今も帰らない。いったい何が起きてるのか。
 もう一回追記します。

一体何が起きているのか、今、まず何をどうすれば良いのか2021年03月17日 21時51分57秒

★また、申し訳ないが私事を書かせてもらう

 いま、夜も10時近くなのに、我家の頭上をオスプレスイが横田基地に向けて何機も飛び交い騒がしい。
 アメリカからバイデン政権の要人が横田基地から来日中とのことで、この数日米軍機が大小やたら飛び交って騒がしくてたまらない。
 これは書くべきか迷ったが、前回拙ブログを記してから様々なことが起きた。そして今もどうしたらよいのか悩み迷っている。

 父のことではない。幸い有難くも我が老いた父は、今晩も介護施設でお泊りなので、今こうして我は、父のことはさておき、パソコンに向かいこのブログに向き合えるわけだが、前回から毎度のことながら次々難事が起きた。
 トラブルは我が影法師、とはロス・マクドナルドのハードボイルド小説のタイトルだったと記憶する。我の場合、トラブルとは毫も思わないが、我が人生は常に次々多事多難が次々起きる。それは何故か自問すれば、要するにまさに我が身の不徳の致すところ、自業自得なのだと思うしかない。
 そしてまたしてもこのところそれが続いている。世間の人にとっては、一笑、もしくは嗤われるようなつまらない出来事であろうとも思うが。

 ウチには、今、猫がたくさんいて、三本脚猫のキジ子を筆頭に、約10匹~、面倒を見ている。それもこれもこの数年、我の持病、人生ネグレクトにより、何もかも猫たちのことをも放擲して、一切何の処置もしなかったからだが、さすがにこのままだと「多頭飼い飼育崩壊」、となって、ご近所の方々から非難されるだけでく、保健所やら行政が介入して来て警察沙汰やらメディアに報じられることとなってしまう。
 そんなで、いまは順次、雌猫は避妊手術を受けさせ、これ以上の増殖は終わりにすべく何とかこれでも対処している。
 そんなでできるだけ室内飼いとして今は二室、猫ちゃんたちのために専用の部屋を設けている。正直なところ彼らの餌代や、トイレの始末だけでもかなりの負担となっているが、それもこれも全て自分に責があるわけで、今はともかく縁あって関わったモノゴトにはとことん最後まできちんとせねばと、これでも奮励努力中なのである。
 何もせずにこれからもずっと放擲して行けば、その先に在るのは、ただ破滅だけであって、そんな風に自堕落、自暴自棄にして動物も含めて多くの人たちにご迷惑おかけして自滅・自死するのは本意ではない。

 で、先日も、その雌猫一匹を、午前中からウチのかかりつけの拝島の動物病院に避妊手術のために連れて行った。
 が、昼過ぎ、病院から電話がかかってきて、何故か麻酔がうまく合わず、猫の体調がおかしく今回は手術は見合わせたいと連絡があった。
 それで引き取りに行ったのだが、その日はこちらも慌てていたこともあって、つい帰宅して車のキーを停車後に抜き忘れて、そのままにしていたらバッテリーが上がってしまってエンジンがかからない。
 以前も何回か、前の車のときにバッテリー上がりは起こしたこともあったが、近所に懇意にしていた個人営業の修理工場があって、そこの人に都度来てもらい「修復」させてもらっていた。
 その人に頼んで、以前の車がいかれたときに今のこの車、ホンダのバーモスを中古で格安の20万円で手配してもらったのだが、彼はいま、実家のある三重県に帰郷してしまってこちらにはいない。
 さて自分一人でどうしたものか。我はJAFとかに入っていないし、何とか自力で起動させるしかないのである。
 ご存じのように、車とは、いったんバッテリーが上がったとしても、エンジンさえかかれば、走らせているうちまたバッテリーは充電できる。
 ともかくエンジンがかかるようにするには、ライターを点火するごとく、他から、火ではなく、電気をもらってエンジンを動かせばいい。

 一番簡単なのは、他の車を側に招いて、その車のバッテリーと上がってしまった車のバッテリーをジャンピングという手法で接続して、電気を他の車からもらい、それでエンジンをかけて起動させる。※ジャンピングとは、バッテリーが上がってしまった場合に、他の車からジャンピングケーブル(ブースターケーブル)を使って電力を分けてもらい、エンジンを始動することをいう。
 あるいはバッテリ―チャージャーのような充電器から接続させて、それでエンジンをかけて修復させる。

 手順は、かつて何度も見ていたのでわかっているのだけど、自ら一人でやったことはこれまで一度もない。常に誰か他者にお願いしてやってもらっていた。
 ともかく、車自体まったく動かないのだから、誰かに来てもらい、ジャンピングするにせよ、他の車を側に寄せてもらわないとならない。
 ご近所にそれを頼める人もいなくはないが、まずはウチの車のバッテリーがどこにあるか、である。
 恥ずかしい話、自分の車のなのに、バッテリーがどこにあるのか知らないしその場所がそもそもわからない。何するにせよ、まずはバッテリーがどこにあるか、その位置を確認することからだ。※ボンネットの開け方すら実は知らなかった。

 と、同時に、考えたが、誰か他人様にお願いして、車出してウチの前まで来てもらい、ジャンピングさせてもらうのも気が引ける。ならば、小型のバッテリ―チャージャーを購入して、それでエンジンをかけようと考えた。
 早速Amazonで検索して、中国製だったが、高評価の「ポータブル・エマージェンシー・ジャンプ スターター」なる小型蓄電池を注文した。ブースターケーブルも付いている。値段は5千円もしなかったが、今の我にはやや出費であるが仕方ない。
 これがあると山梨の倉庫などへ行ったとき、もしまたバッテリー上がりのときなど、誰にも頼らずとも一人で対応できると考えたから。そう、向うは近くに民家はあってもそもそも車も人もいないのである。
 それを早速ポチってから、車の中をバッテリーがどこにあるのか探した。積んである荷物もどかして隅々まで。しかしどこにもみつからない。
 以前乗ってた車、ほぼ同型のミニバン、スバルのサンバーは、運転席だったか助手席だったか、前の座席の下に格納されていた。座席を上げればすぐにバッテリーは剥き出しになった。
 が、今の車、ホンダのバモスは、その下は空間となっていて、物入れとして使えるのである。となるといったいバッテリーはどこに?後部座席も同様に下は空いている。謎は深まるばかりだ。荷台部のさらに下であろうか。

 まずバッテリーがどこにあるか確認できない限り、人を呼んでジャンピングするにせよ、自力でジャンプスターターでやるにせよ、何も始まらない。いっそメーカーに電話して確認しようかとも考えた。
 が、ネットで、バモス、バッテリー、位置、とか検索入力していたら、とある、メカニックの人がやっているサイトがヒットした。
 見出しはこうである。『どうしてこんな場所にバッテリーが!?バモスHM2 バッテリー交換』という画像付きの記事であった。
 交換するわけではないが、ウチの車と同じ機種のバッテリーの場所がそこには写真付きで示されていた。
 それによると、まさに表題通り、バモスの場合は、どうしてこんな場所に!、と驚くほどのところにバッテリーは収納されていた。

 前のサンバーも同様に、この手の車は、前の部分、鼻っ面がほとんど出ていない。フツーの四輪車に比べて全体はほぼ四角いボックス型である。
 そのごく短い前面部、僅かに出ているボンネット部を開けると、そこにエンジンやら様々な機械がキツキツに収納されていることがわかった。
 まず見えるのは、ウオッシャータンクである。これはフロントガラスをワイパーで拭くときに出る水が入っているようだ。
 で、バッテリーは、信じられないことにそのタンクの真下、タンクを背負うように隠れて入っていたのである。となるとまずタンク自体を外して、いったん浮かせてどかさないことにはバッテリーに手が届かない。
 これはとてつもなく面倒だとまず思った。念のため、この車をウチに手配してくれた三重県の修理工場の人に電話して確認したらば、その通り、ホンダ車はそんな場所にバッテリーが入っているのだと言う。彼も当初、どこにバッテリーがあるか探すのに苦労したとも。
 ともかくこれでまずバッテリーの位置だけは判明した。ともかくタンクを外してやってみるとかない。

 そもそもバッテリーが上がったのが、火曜日9日のことで、やがて週末となり、11日木曜日の夕方には父が介護施設から戻ってきてしまい、翌金曜は、医師による訪問診察の日で、あれこれずっと慌ただしく車の件は、ひとまず後回しにして、来訪に向けて父の部屋の掃除や庭先の片付けに木、金と追われていた。

 そして金曜日12日。訪問診察は午前中、早めとのことなので、朝早くから父を起こして、朝食も摂らさずにまずは自室に閉じ込めて、我は玄関を掃いたり庭先の片付けに追われていた。
 そしたら近所の親しくしているオバサンが突然来て、泣きそうな顔で、また線路で猫ちゃんが死んでいる、と言う。
 示された場所を見たら、我家の前の八高線の線路内で、レールに沿って黒い塊が伸びている。すぐにウチの猫だとわかった。電車にはねられたのだ。
 慌てて線路のフェンスを乗り越えて降りてみたら、首輪していないが、うちで産まれたミーという名の若い雌の黒猫であった。内臓が飛び出していたから即死であっただろう。抱き起したらまだ少し身体は暖かった。
 【続く】