イベントを終えて思うこと、続き ― 2024年10月31日 11時54分43秒
★あと、もう少し続けていく、種を蒔いていく。
27日の当日の朝、開場は、11時と告知していたから、その前にはフリマ用品の展示なども全て終えていなければならない。
が、7時半に会場へ行ったら、オーナーは既に来られて、自らの出品するものを並べたりしていたので、二人で細かく内部の物品の移動や片づけに追われて、すぐにスタッフが集まる時刻の9時となった。
じょじょに当日のお手伝いを頼んだ方は来てくれたのだが、あれこれ準備に追われるうちに気がつけば、いつしか開場時間となってしまい、気の早いご婦人方は、連れ立ってその前から来場してきた。
その時点で、まだ建物門柱に付ける立て看板もできていない有様で、ホール内は、テーブルに物品はざっと広げたものの、並べるどころかまだ値札も何もついてもいなかった。
幸い、この十数年来、疎遠となっていた旧友が訪れてくれたので、彼はすぐさま値札などの展示物の貼り紙類を担当してくれたし、女友達たちも売り子として来てくれたので、何とかかっこうはついてきた。※彼の家にチラシを撒いたからだ。
フォークソングのほうも、I氏がPAを担当してくれてたので、我は、フリマなど他のことに専念することが出来てほんとうに助かった。
ともかく始まってしまえば、人出も人手もあり音楽のほうも含めて何とか盛況となった。我がかけこみ亭でイベントを企画していたときからの友人もわざわざ足を運んでくれた。有難いことだ。
そんなこんなで、当日開始時間まで、もうどうなることかと危ぶみ、パニック障害の発作起こす寸前だったが、多くの人たちのご協力で何とか無事に終えることが出来た。改めてこの場で深く感謝いたしたい。
後片づけも人手があったので、一時間も足らずに、あっという間に皆で片づけてもらえ、ほんとうに助かり楽できた。
今回の収益は、実質のところ千円にも満たぬ微々たるもので、まさに楼多くして、の感が強いが、元より儲けようとか、収益のためにやろうとしたわけではないから、それはまったくかまわない。
ともかく青梅線という辺境の街で、市の行政や企業に頼ることなく場をつくり場を活かし、その地元の人だけでなく、他所からも人が集うよう呼び掛けるためにやっているのだから、これからももう少し続けていきたいと願う。
親たちを喪い、一人となって生活も人生もハタンしてしまい、猫たちは増え続け、家は内外ゴミ屋敷となって一時期は、自らこの人生を終えることも考えた。
が、ともかく死ぬのはまだ早い、もう少し生きて人生をもう一度やり直そう、取り戻そうと決意して未だその再建途中なのだ。
正直なところ、こんなことをやってる、関わる余裕はないのである。自らの人生にもっと手をかけてきちんと「再生」させねばならないはずだ。
またご近所から、嫌がらせの電話もかかってくる。じっさい、またも市の環境課に文句の電話したらしく、イベントの直前に、市職の若い男女がウチを訪れてきて、ご近所から苦情が出ているから何とかしろと申し入れしてきた。
そう、本来はまず、自らのこと、家の片づけや新たな収入先の確保など、そちらを最優先すべきなのである。が、それと同時に、自分のことだけではない、別のこと何かをやらねばと思う。
このまま死んでしまえば、たとえ家の片づけは終わったとしても、さんざんモノを増やしただけのヒト、でしかない。世をお騒がせしたたけで何も生み出すことなく。
我には子もなく金も仕事もなく、友も少なく、才能も力も何も何一つない。だからこそ、自らのためではなく、人と人が出会い結びつけるような場、その仕掛けを作っていきたい。
それは若い時からずっと願いやってきたことだ。そして老いてきた今、これが最後の、自らができることだと考えている。すべきことかどうかはともかくも。
次回は、12月の15日の日曜。どうかこのブログをお読みの方よ、ぜひ一度はご来場願い、我に声をかけて頂きたい。我には何もないが、その場所は在るのだ。
27日の当日の朝、開場は、11時と告知していたから、その前にはフリマ用品の展示なども全て終えていなければならない。
が、7時半に会場へ行ったら、オーナーは既に来られて、自らの出品するものを並べたりしていたので、二人で細かく内部の物品の移動や片づけに追われて、すぐにスタッフが集まる時刻の9時となった。
じょじょに当日のお手伝いを頼んだ方は来てくれたのだが、あれこれ準備に追われるうちに気がつけば、いつしか開場時間となってしまい、気の早いご婦人方は、連れ立ってその前から来場してきた。
その時点で、まだ建物門柱に付ける立て看板もできていない有様で、ホール内は、テーブルに物品はざっと広げたものの、並べるどころかまだ値札も何もついてもいなかった。
幸い、この十数年来、疎遠となっていた旧友が訪れてくれたので、彼はすぐさま値札などの展示物の貼り紙類を担当してくれたし、女友達たちも売り子として来てくれたので、何とかかっこうはついてきた。※彼の家にチラシを撒いたからだ。
フォークソングのほうも、I氏がPAを担当してくれてたので、我は、フリマなど他のことに専念することが出来てほんとうに助かった。
ともかく始まってしまえば、人出も人手もあり音楽のほうも含めて何とか盛況となった。我がかけこみ亭でイベントを企画していたときからの友人もわざわざ足を運んでくれた。有難いことだ。
そんなこんなで、当日開始時間まで、もうどうなることかと危ぶみ、パニック障害の発作起こす寸前だったが、多くの人たちのご協力で何とか無事に終えることが出来た。改めてこの場で深く感謝いたしたい。
後片づけも人手があったので、一時間も足らずに、あっという間に皆で片づけてもらえ、ほんとうに助かり楽できた。
今回の収益は、実質のところ千円にも満たぬ微々たるもので、まさに楼多くして、の感が強いが、元より儲けようとか、収益のためにやろうとしたわけではないから、それはまったくかまわない。
ともかく青梅線という辺境の街で、市の行政や企業に頼ることなく場をつくり場を活かし、その地元の人だけでなく、他所からも人が集うよう呼び掛けるためにやっているのだから、これからももう少し続けていきたいと願う。
親たちを喪い、一人となって生活も人生もハタンしてしまい、猫たちは増え続け、家は内外ゴミ屋敷となって一時期は、自らこの人生を終えることも考えた。
が、ともかく死ぬのはまだ早い、もう少し生きて人生をもう一度やり直そう、取り戻そうと決意して未だその再建途中なのだ。
正直なところ、こんなことをやってる、関わる余裕はないのである。自らの人生にもっと手をかけてきちんと「再生」させねばならないはずだ。
またご近所から、嫌がらせの電話もかかってくる。じっさい、またも市の環境課に文句の電話したらしく、イベントの直前に、市職の若い男女がウチを訪れてきて、ご近所から苦情が出ているから何とかしろと申し入れしてきた。
そう、本来はまず、自らのこと、家の片づけや新たな収入先の確保など、そちらを最優先すべきなのである。が、それと同時に、自分のことだけではない、別のこと何かをやらねばと思う。
このまま死んでしまえば、たとえ家の片づけは終わったとしても、さんざんモノを増やしただけのヒト、でしかない。世をお騒がせしたたけで何も生み出すことなく。
我には子もなく金も仕事もなく、友も少なく、才能も力も何も何一つない。だからこそ、自らのためではなく、人と人が出会い結びつけるような場、その仕掛けを作っていきたい。
それは若い時からずっと願いやってきたことだ。そして老いてきた今、これが最後の、自らができることだと考えている。すべきことかどうかはともかくも。
次回は、12月の15日の日曜。どうかこのブログをお読みの方よ、ぜひ一度はご来場願い、我に声をかけて頂きたい。我には何もないが、その場所は在るのだ。
人生再起動後、初のイベントを終えて ― 2024年10月30日 23時45分52秒
★相変わらず労多くして益(儲け)無しのことだが・・・
10月27日のイベントのあと、翌日は、さほど疲れは出なかったのだが、じょじょにどっと疲労感がつよくなり、この数日は、朝昼兼の昼食後は、いつしか倒れ込むように夕方まで昼寝するという毎日。
夜も昼もひたすら眠ってようやく疲れはとれてきた。
終えていま思うことと、これからのことについて記す。
ともかく何とか無事に終えられて良かった、ということに尽きる。出品者も出演者も時間も何もかも足りない状況ではまあ健闘したのではないか、とオーナーとも確認し合った。
繰り返しになるけれど、時間も人手もないままに、当日が来てしまい、その前の数日間は不安と心配で眠っても悪夢にうなされていた。
ほんとうは、もう少し後に日時を伸ばしたかった。が、諸事情から10月末の日曜ということになってしまい、実質、当日まで一か月も準備期間がないところからのスタートだった。
電気が点いたのが、やっとその週の月曜で、水道は火曜日からだったのだ。
おまけに石破変節新首相の独断で、急遽、総選挙は前倒しになってしまいその投票日とも重なり、音響の担当の方は、何回かセッティングに来てくれて設営は助かったものの、後は、ほぼ我一人ですべてのこと、会場の掃除・片づけから建物の外の草むしり、宣伝告知のチラシ作成と配布、出品者などの手配までやらざる得なかった。
そして改めて思ったのは、自分には何もない、誰もいないという無力感と無能さ、そして孤独感であった。まあ、それを再確認できたの良いことだったが。
前日の土曜も、中野坂上の学生時代の女友達の家に出向いて、近く引越しするので不用品の雑貨類を、リュックと袋三つ、持てるだけ頂いて、何とかフリマの出品するものは集まった。
その夜も夜の11時過ぎまで、自らの出品する、ますだあーと書店の文庫本などを平箱に6箱詰めて並べたりして、戻ってブログアップしてから寝たのは午前3時頃だったか。
10月27日のイベントのあと、翌日は、さほど疲れは出なかったのだが、じょじょにどっと疲労感がつよくなり、この数日は、朝昼兼の昼食後は、いつしか倒れ込むように夕方まで昼寝するという毎日。
夜も昼もひたすら眠ってようやく疲れはとれてきた。
終えていま思うことと、これからのことについて記す。
ともかく何とか無事に終えられて良かった、ということに尽きる。出品者も出演者も時間も何もかも足りない状況ではまあ健闘したのではないか、とオーナーとも確認し合った。
繰り返しになるけれど、時間も人手もないままに、当日が来てしまい、その前の数日間は不安と心配で眠っても悪夢にうなされていた。
ほんとうは、もう少し後に日時を伸ばしたかった。が、諸事情から10月末の日曜ということになってしまい、実質、当日まで一か月も準備期間がないところからのスタートだった。
電気が点いたのが、やっとその週の月曜で、水道は火曜日からだったのだ。
おまけに石破変節新首相の独断で、急遽、総選挙は前倒しになってしまいその投票日とも重なり、音響の担当の方は、何回かセッティングに来てくれて設営は助かったものの、後は、ほぼ我一人ですべてのこと、会場の掃除・片づけから建物の外の草むしり、宣伝告知のチラシ作成と配布、出品者などの手配までやらざる得なかった。
そして改めて思ったのは、自分には何もない、誰もいないという無力感と無能さ、そして孤独感であった。まあ、それを再確認できたの良いことだったが。
前日の土曜も、中野坂上の学生時代の女友達の家に出向いて、近く引越しするので不用品の雑貨類を、リュックと袋三つ、持てるだけ頂いて、何とかフリマの出品するものは集まった。
その夜も夜の11時過ぎまで、自らの出品する、ますだあーと書店の文庫本などを平箱に6箱詰めて並べたりして、戻ってブログアップしてから寝たのは午前3時頃だったか。
人生が動き出した感あり・続き ― 2024年09月25日 23時30分58秒
★漏水騒動は、意外に簡単に解決した。が・・・・
我が家は、公道に面して、前と後ろの棟を時間差で建てて、連結した建物なのだが、水道の止水栓もそれぞれ別になっている。
二つの止水栓をそれぞれ閉めて、どちらの棟で漏水が起きているのかを確認してみた。
すると、裏の方の栓を閉めれば、表側の棟では水漏れしていないことがわかった。水道のメーターのパイロットのコマは回らない。
となると裏側のどこかで、地中も含めて漏れていることとなる。
で、また再度トイレから風呂場、流しなど裏側の棟の中の水回りをすべてくまなく調べてみた。むろん、いったん水は停めてである。
そしたらば、裏の棟一階のキッチンの流しのレバーが原因のように思えてきた。
裏の棟は、一階、二階ともワンルームのような作りで、それぞれガス台、水道、トイレがあり、小さいキッチンも付いている。
親たちが生きていた頃は、その部屋は、彼らの寝室だったのだが、いまは、一階はフロア全体が、完全に猫部屋と化して何匹もの猫たちがそこで暮らしている。我は、そこに餌を運ぶのが日課なのだ。
そこのキッチンの水道の蛇口は、昔ながらの廻して捻るノブ式ではなく、簡便な上げ下げだけですぐ水が出るレバー式の新型のものであった。
水を元栓から停めているので確認できなかったが、それが上がってた気がした。※確かレバーを上げると水が出る仕組みだったと覚える。
ともかくそれがもう二度と動かないように、ガムテープでぐるぐる巻いて固定して、また庭に出て検針メーターを確認した。止水栓を開いてもパイロットは回っていない。
それからしばらく時間おいて何度も確認してみたが、もう漏水は起きていない。ということは、その一階裏の部屋のキッチンの流しから、ずっと水が出ていたのだ、流れてる水はそのままシンクに落ちてるから、床とか水浸しにはならない。
漏水騒動の原発箇所は、そこであった。では何故にレバーが動いたのか。原因というか、犯人は、猫であろう。その部屋には猫しかいないのだから、レバーを動かしたのは猫しかいない。我はもう何年もそのキッチンは使っていいのだから。
で、その漏水した水道代、使用料は、通知の紙を確認したら、なんとなんと、約18万5千円とあった。
二か月ごとの支払いとしても18万5千円!!!!!!!!!!!!!! まさにアンビリバボー である。
水道局に電話して、まず水漏れ自体は、原因がわかり解決したことを伝えて、とてもそんな金額では払えないと伝えた。何とか料金減免処置はないものか、と。
対応した局員の話だと、地中などでの漏水の場合は、その工事対応した業者が作業を終えた後で、申請書類を出せば、いくらか減免はあるとのこと。
しかし、今回は、家屋の中でのことなので、業者にも頼んでいないし、全てこちら側の過失なのだから、減免は無理だと言う。まあ、それも通りだ。抗っても仕方ないか。
けっきょく分割払いにしてもらうことにして、7月から4回だかに分けて、届いた振込用紙で支払うことに合意した。既にもう一回目の4万弱は金かき集めて支払った。
しかし、いったいいつから水は流れ出ていたのだろう。毎日、短時間でもその裏の猫部屋に入っていたのだから、流し台は奥のほうにあるとしてもずっと水が出ている音に我はどうして気がつかなかったのか、自問しても答えにならない。
実は、先のパソコンのモニター交換も原因は、猫であった。今だから明かすと、猫がモニターのディスプレイ画面にマーキングの尿をかけたのが壊れた原因だった。
百害あって一利なし、という言葉があるが、猫の利はいくらかあるとして百害とは言わないまでも、いったいどれだけ猫たちの為に被害金額がかさむのであろうか。嘆息するしかなかった。
我が家は、公道に面して、前と後ろの棟を時間差で建てて、連結した建物なのだが、水道の止水栓もそれぞれ別になっている。
二つの止水栓をそれぞれ閉めて、どちらの棟で漏水が起きているのかを確認してみた。
すると、裏の方の栓を閉めれば、表側の棟では水漏れしていないことがわかった。水道のメーターのパイロットのコマは回らない。
となると裏側のどこかで、地中も含めて漏れていることとなる。
で、また再度トイレから風呂場、流しなど裏側の棟の中の水回りをすべてくまなく調べてみた。むろん、いったん水は停めてである。
そしたらば、裏の棟一階のキッチンの流しのレバーが原因のように思えてきた。
裏の棟は、一階、二階ともワンルームのような作りで、それぞれガス台、水道、トイレがあり、小さいキッチンも付いている。
親たちが生きていた頃は、その部屋は、彼らの寝室だったのだが、いまは、一階はフロア全体が、完全に猫部屋と化して何匹もの猫たちがそこで暮らしている。我は、そこに餌を運ぶのが日課なのだ。
そこのキッチンの水道の蛇口は、昔ながらの廻して捻るノブ式ではなく、簡便な上げ下げだけですぐ水が出るレバー式の新型のものであった。
水を元栓から停めているので確認できなかったが、それが上がってた気がした。※確かレバーを上げると水が出る仕組みだったと覚える。
ともかくそれがもう二度と動かないように、ガムテープでぐるぐる巻いて固定して、また庭に出て検針メーターを確認した。止水栓を開いてもパイロットは回っていない。
それからしばらく時間おいて何度も確認してみたが、もう漏水は起きていない。ということは、その一階裏の部屋のキッチンの流しから、ずっと水が出ていたのだ、流れてる水はそのままシンクに落ちてるから、床とか水浸しにはならない。
漏水騒動の原発箇所は、そこであった。では何故にレバーが動いたのか。原因というか、犯人は、猫であろう。その部屋には猫しかいないのだから、レバーを動かしたのは猫しかいない。我はもう何年もそのキッチンは使っていいのだから。
で、その漏水した水道代、使用料は、通知の紙を確認したら、なんとなんと、約18万5千円とあった。
二か月ごとの支払いとしても18万5千円!!!!!!!!!!!!!! まさにアンビリバボー である。
水道局に電話して、まず水漏れ自体は、原因がわかり解決したことを伝えて、とてもそんな金額では払えないと伝えた。何とか料金減免処置はないものか、と。
対応した局員の話だと、地中などでの漏水の場合は、その工事対応した業者が作業を終えた後で、申請書類を出せば、いくらか減免はあるとのこと。
しかし、今回は、家屋の中でのことなので、業者にも頼んでいないし、全てこちら側の過失なのだから、減免は無理だと言う。まあ、それも通りだ。抗っても仕方ないか。
けっきょく分割払いにしてもらうことにして、7月から4回だかに分けて、届いた振込用紙で支払うことに合意した。既にもう一回目の4万弱は金かき集めて支払った。
しかし、いったいいつから水は流れ出ていたのだろう。毎日、短時間でもその裏の猫部屋に入っていたのだから、流し台は奥のほうにあるとしてもずっと水が出ている音に我はどうして気がつかなかったのか、自問しても答えにならない。
実は、先のパソコンのモニター交換も原因は、猫であった。今だから明かすと、猫がモニターのディスプレイ画面にマーキングの尿をかけたのが壊れた原因だった。
百害あって一利なし、という言葉があるが、猫の利はいくらかあるとして百害とは言わないまでも、いったいどれだけ猫たちの為に被害金額がかさむのであろうか。嘆息するしかなかった。
ようやく再び人生が動き出した感あり ― 2024年09月23日 15時19分14秒
★ご心配おかけしましたがもう大丈夫かと
9月も半ば過ぎたというのに、いっこうに涼しくならず連日の猛暑が続く。一昨日も朝から熱中症警戒警報が市のスピーカーから流れていたが、ようやく昨日から朝の雨の後、曇りがちで気温も下がり涼しい風も吹いてやや秋めいてきた。
むろんまだ晴れれば真夏の陽射しが戻るだろうし、本格的に秋めいてくるのは、来月になるかとも思う。それでも少し今日は涼しくてほっと一息ついている。
このところまたライブ通いが始まった。かけこみ亭での敬愛する、佐藤GWAN博さんに続いて、一昨日の土曜は、豊田勇造の荻窪の民家でのライブに顔出してきた。
勇造さんから元気と勇気をもらったということもあるが、父の死後、昨年から続いていた我の多事災難、トラブルからようやく抜け出しつつあるのでまずそのことを書いていきたい。
そして年内の我が企画などについても。
人生にはツイテないとき、トラブルが多発し不運、不遇の時が誰にも来るのかわからないが、我には去年から今夏にかけて、なんで次々とどうしてトラブルが多発するのか、神を呪いたい気持ちにさえなるようなことが続いた。それも経済的に痛いことばかり起きた。
とても全部はあからさまに書けないが、増えすぎた猫問題に関するトラブルや、我を敵視するご近所からの嫌がらせ騒動などは既にここにも少し書いたが、それ以外に個人的な、家内のトラブルがさらに相次いだ。
年明けの、今使っている富士通のパソコンのモニターが壊れて、交換修理となり、保証期間内だから無料と思ってたら、画面の交換だけで10万近くかかったことは書いたかと思う。
以後も次々と家電が壊れて、電子レンジは今も壊れたままだし、居間のテレビも長年使ってきて、スイッチがなかなか入らなかったり画面がちらつきだしたのを我慢して視ていたら、7月の頭に、突然画面が暗くなって切れて、いくらスイッチ入れ直しても全く何も映らなくなった。今もテレビは見れないままだ。
さらに初夏6月のある日、水道が蛇口をひねっても出なくなり、これは水道代を滞納してるから止められたか!!とキレて水道局に電話したらば、そうではなく「漏水」が激しいことが分かったから検針係の人が元栓を停めたことだとわかった。
電話したのですぐに水道局の職員が来て、庭先地中の検針メーターを開けて、中のバルブを回して開いてくれた。
見ると確かにメーターのパイロットの銀色のコマがくるくると激しく回っている。
職員曰く、「この回り方は、たらたら漏れているとかではなく、蛇口を全開にしているとしか思えないほど」と言う。よって、検針の人が異常な使用量に気づいて、その場で緊急的に止めたのだった。
実際聞かれたが、その時どこも水道は使っていない。ということは、どこか床下とか地中で今もずっと漏れていることになる。
また面倒な事になった。
ともかくまたバルブは閉め直して、まず家の中じゅうくまなく水回りをキッチンからトイレ、風呂場などあちこち確認していくことにした。増築したこの家には風呂もトイレもキッチンも上下何か所もある。
が、どこも水漏れしている様子はない。だいたいそんな大量に勢いよく漏れているとしたらば、いつからかわからなくても家のどこであろうと辺り一面水浸しになってすぐさま気がつくはずだろう。
ということは、やはり地中とかのどこかで配管が破断したのか、これはまた確認するのに業者を呼ばねばと、暗澹たる気持ちになった。
ともかくすごい勢いで水漏れしているのを知りながら水道を使うことはできない。
仕方なく空の4リットルの焼酎のペットボトル何本かに水を溜めて、それを使うことにしてまたバルブは停めた。しかし早く何とかしないとトイレも使えないではないか。いったいどこから漏水してるのか。
《もう一回続く》
9月も半ば過ぎたというのに、いっこうに涼しくならず連日の猛暑が続く。一昨日も朝から熱中症警戒警報が市のスピーカーから流れていたが、ようやく昨日から朝の雨の後、曇りがちで気温も下がり涼しい風も吹いてやや秋めいてきた。
むろんまだ晴れれば真夏の陽射しが戻るだろうし、本格的に秋めいてくるのは、来月になるかとも思う。それでも少し今日は涼しくてほっと一息ついている。
このところまたライブ通いが始まった。かけこみ亭での敬愛する、佐藤GWAN博さんに続いて、一昨日の土曜は、豊田勇造の荻窪の民家でのライブに顔出してきた。
勇造さんから元気と勇気をもらったということもあるが、父の死後、昨年から続いていた我の多事災難、トラブルからようやく抜け出しつつあるのでまずそのことを書いていきたい。
そして年内の我が企画などについても。
人生にはツイテないとき、トラブルが多発し不運、不遇の時が誰にも来るのかわからないが、我には去年から今夏にかけて、なんで次々とどうしてトラブルが多発するのか、神を呪いたい気持ちにさえなるようなことが続いた。それも経済的に痛いことばかり起きた。
とても全部はあからさまに書けないが、増えすぎた猫問題に関するトラブルや、我を敵視するご近所からの嫌がらせ騒動などは既にここにも少し書いたが、それ以外に個人的な、家内のトラブルがさらに相次いだ。
年明けの、今使っている富士通のパソコンのモニターが壊れて、交換修理となり、保証期間内だから無料と思ってたら、画面の交換だけで10万近くかかったことは書いたかと思う。
以後も次々と家電が壊れて、電子レンジは今も壊れたままだし、居間のテレビも長年使ってきて、スイッチがなかなか入らなかったり画面がちらつきだしたのを我慢して視ていたら、7月の頭に、突然画面が暗くなって切れて、いくらスイッチ入れ直しても全く何も映らなくなった。今もテレビは見れないままだ。
さらに初夏6月のある日、水道が蛇口をひねっても出なくなり、これは水道代を滞納してるから止められたか!!とキレて水道局に電話したらば、そうではなく「漏水」が激しいことが分かったから検針係の人が元栓を停めたことだとわかった。
電話したのですぐに水道局の職員が来て、庭先地中の検針メーターを開けて、中のバルブを回して開いてくれた。
見ると確かにメーターのパイロットの銀色のコマがくるくると激しく回っている。
職員曰く、「この回り方は、たらたら漏れているとかではなく、蛇口を全開にしているとしか思えないほど」と言う。よって、検針の人が異常な使用量に気づいて、その場で緊急的に止めたのだった。
実際聞かれたが、その時どこも水道は使っていない。ということは、どこか床下とか地中で今もずっと漏れていることになる。
また面倒な事になった。
ともかくまたバルブは閉め直して、まず家の中じゅうくまなく水回りをキッチンからトイレ、風呂場などあちこち確認していくことにした。増築したこの家には風呂もトイレもキッチンも上下何か所もある。
が、どこも水漏れしている様子はない。だいたいそんな大量に勢いよく漏れているとしたらば、いつからかわからなくても家のどこであろうと辺り一面水浸しになってすぐさま気がつくはずだろう。
ということは、やはり地中とかのどこかで配管が破断したのか、これはまた確認するのに業者を呼ばねばと、暗澹たる気持ちになった。
ともかくすごい勢いで水漏れしているのを知りながら水道を使うことはできない。
仕方なく空の4リットルの焼酎のペットボトル何本かに水を溜めて、それを使うことにしてまたバルブは停めた。しかし早く何とかしないとトイレも使えないではないか。いったいどこから漏水してるのか。
《もう一回続く》
.ウディさんとの思い出・続き ― 2024年09月03日 11時37分01秒
★まさに我と同類・同好の士であった。
その後、我はそこ、かけこみ亭で、護憲と反戦平和のための「共謀コンサート」なるものを企画・開催することになり、ウディ氏にも声をかけた。
彼はきさくに応じてくれて、何回か登場し、ステキな歌声に加えてブルースハープを吹きまくってくれた。
そして次第に彼個人についてもわかってくる。氏の本業は植木屋さんであった。
あるときのコンサートのとき、彼は、仕事帰りとのことで、作業着といいうか、仕事着のまま現れた。その姿に驚いた。
手甲脚絆というのだろうか、今でも消防士たちが正月など昔の火消しの姿で、高いハシゴの上でアクロバットな舞を披露するときのような恰好、つまりタイトなパッチ姿であった。おまけに、足元は地下足袋であったと記憶する。
フツー、そういう恰好は、ダサいというかあまりカッコ良くないはずだが、無駄な贅肉など一切ない引き締まったウディ氏のその姿は、見惚れてしまうほどカッコよかった。
今でも植木屋にはそうした姿で作業する人は多いのか我は知らない。が、まさに彼には似合っていて恰好からも彼の仕事ぶりが想像された。素晴らしく的確な仕立てを颯爽とされるに違いないと。
また打ち上げや幕間のとき話しているうちに、彼はギターの愛好家というか、収集家、つまりコレクターであることもわかった。訊けば手持ちのギターは、100本!!!だと言う。びっくりした。
じっさいに彼のご自宅などて見たわけでもないし、どういうギターをお持ちであるのかは知らないしわからない。
ただ、高級なそれではないようで、彼が語るのを聴く限り、ハードオフや古道具屋、リサイクルショップ等で安値になってるジャンクギターの中から掘り出し物をみつけては買い集めてくるようであった。
あるときのコンサートのとき、仕事帰りに偶然立ち寄ったリサイクルショップで、かなり昔のものだが、国産のビンテージギターをバカ安で二本手に入れられたと嬉しそうに話していたのを思い出す。
むろんそういうワケありのギターは、そのままでは使い物にならない。だから店頭でジャンク品として格安で出されている。
彼は、それらを自ら手を加えて、ペグの修理、ブリッジの高さから反りまで細かく調整してきちんと鳴るよう、使用できるように仕立てるのである。そういうことが出来る方で、それを趣味としてのギター収集であったと我には思える。素晴らしいことだ。
実は私事だが、我もまた中古ギターは約30本持っている。きちんと数えたわけではないし、全体数はいったい何本なのか定かではないが、完全なジャンクも含めればおそらくその数はあるだろう。氏の100本にはとてもかなわないが。
我もまた以前はあちこちのリサイクルショップやハードオフの類の店に出向いては、格安に出ているジャンクギターの中から、出物を探し出し買い求めるのがとても好きだった。
が、ウディ氏と違うのは、我はとことん不器用で、そうしたギターを修理したり調整することは苦手で、いじってはみたものの直せないでいるギターも多々ある。時間が無くなったこともあるが、我には元々そういうメンテナンスや調整する能力が欠落していると気づく。
今思うと、ハーモニカもだが、我と彼とは趣味嗜好がほぼ同じで、違うのは、テクニックも含めて彼の方が全てが上でさらにマニアックであったということだ。我は足元にも及ばない。
マニアックという以前に、何もかも全てにこだわりのある、誰よりもスタイリッシュかつダンディな素敵で偉大な生き方の人であった。そんな人は我には他にいなかった。
コンサートの時だけでなく、もっと個人的にも親しくなり、ジャンクギターの修理修繕のノウハウ等をもっと指南してもらえば良かった、と今心から思う。じっさいちょっと話した限りでは、カンタンな事だよ、まず弦のバランスを確認して云々とか話してくれたが、ライブの最中で慌ただしくそのままになってしまった。
いま、我以外にそんな趣味の人はまずいないと思っていた、ハーモニカとギター収集という希少かつ偉大な同好の仲間を失い、哀しみ以前に深い欠落感というか、もっと個人的にも関りを持っておくべきであったのだ、と強い後悔の念に苛まれている。
彼のフェイスブックに、ご家族が告知された情報によると、突然の心筋梗塞での急逝だそうで、まさに突然起こった予期せぬ不測の事態にさぞや当人も驚き戸惑い苦しまれたことかと思う。
主は何故にあんな素晴らしい善い人にこんなことをされるのかと問い憤りさえ覚える。ウディ氏の魂よ、安かれとただ祈るしかない。
思い出を書きながら少しだけ泣いた。
一つだけ気になるのは、その100本の遺されたギターは、友人知人たちが遺品として持ち帰られると訊いたが、もしもどうしても残ってしまい、ゴミとして処分するしかないものが出たのならば、我もまたそれらを頂きたい、捨てられるのならば全て引き取りたいと思っている。
それが偉大な亡き同好の友に報いることだと思ふ。
その後、我はそこ、かけこみ亭で、護憲と反戦平和のための「共謀コンサート」なるものを企画・開催することになり、ウディ氏にも声をかけた。
彼はきさくに応じてくれて、何回か登場し、ステキな歌声に加えてブルースハープを吹きまくってくれた。
そして次第に彼個人についてもわかってくる。氏の本業は植木屋さんであった。
あるときのコンサートのとき、彼は、仕事帰りとのことで、作業着といいうか、仕事着のまま現れた。その姿に驚いた。
手甲脚絆というのだろうか、今でも消防士たちが正月など昔の火消しの姿で、高いハシゴの上でアクロバットな舞を披露するときのような恰好、つまりタイトなパッチ姿であった。おまけに、足元は地下足袋であったと記憶する。
フツー、そういう恰好は、ダサいというかあまりカッコ良くないはずだが、無駄な贅肉など一切ない引き締まったウディ氏のその姿は、見惚れてしまうほどカッコよかった。
今でも植木屋にはそうした姿で作業する人は多いのか我は知らない。が、まさに彼には似合っていて恰好からも彼の仕事ぶりが想像された。素晴らしく的確な仕立てを颯爽とされるに違いないと。
また打ち上げや幕間のとき話しているうちに、彼はギターの愛好家というか、収集家、つまりコレクターであることもわかった。訊けば手持ちのギターは、100本!!!だと言う。びっくりした。
じっさいに彼のご自宅などて見たわけでもないし、どういうギターをお持ちであるのかは知らないしわからない。
ただ、高級なそれではないようで、彼が語るのを聴く限り、ハードオフや古道具屋、リサイクルショップ等で安値になってるジャンクギターの中から掘り出し物をみつけては買い集めてくるようであった。
あるときのコンサートのとき、仕事帰りに偶然立ち寄ったリサイクルショップで、かなり昔のものだが、国産のビンテージギターをバカ安で二本手に入れられたと嬉しそうに話していたのを思い出す。
むろんそういうワケありのギターは、そのままでは使い物にならない。だから店頭でジャンク品として格安で出されている。
彼は、それらを自ら手を加えて、ペグの修理、ブリッジの高さから反りまで細かく調整してきちんと鳴るよう、使用できるように仕立てるのである。そういうことが出来る方で、それを趣味としてのギター収集であったと我には思える。素晴らしいことだ。
実は私事だが、我もまた中古ギターは約30本持っている。きちんと数えたわけではないし、全体数はいったい何本なのか定かではないが、完全なジャンクも含めればおそらくその数はあるだろう。氏の100本にはとてもかなわないが。
我もまた以前はあちこちのリサイクルショップやハードオフの類の店に出向いては、格安に出ているジャンクギターの中から、出物を探し出し買い求めるのがとても好きだった。
が、ウディ氏と違うのは、我はとことん不器用で、そうしたギターを修理したり調整することは苦手で、いじってはみたものの直せないでいるギターも多々ある。時間が無くなったこともあるが、我には元々そういうメンテナンスや調整する能力が欠落していると気づく。
今思うと、ハーモニカもだが、我と彼とは趣味嗜好がほぼ同じで、違うのは、テクニックも含めて彼の方が全てが上でさらにマニアックであったということだ。我は足元にも及ばない。
マニアックという以前に、何もかも全てにこだわりのある、誰よりもスタイリッシュかつダンディな素敵で偉大な生き方の人であった。そんな人は我には他にいなかった。
コンサートの時だけでなく、もっと個人的にも親しくなり、ジャンクギターの修理修繕のノウハウ等をもっと指南してもらえば良かった、と今心から思う。じっさいちょっと話した限りでは、カンタンな事だよ、まず弦のバランスを確認して云々とか話してくれたが、ライブの最中で慌ただしくそのままになってしまった。
いま、我以外にそんな趣味の人はまずいないと思っていた、ハーモニカとギター収集という希少かつ偉大な同好の仲間を失い、哀しみ以前に深い欠落感というか、もっと個人的にも関りを持っておくべきであったのだ、と強い後悔の念に苛まれている。
彼のフェイスブックに、ご家族が告知された情報によると、突然の心筋梗塞での急逝だそうで、まさに突然起こった予期せぬ不測の事態にさぞや当人も驚き戸惑い苦しまれたことかと思う。
主は何故にあんな素晴らしい善い人にこんなことをされるのかと問い憤りさえ覚える。ウディ氏の魂よ、安かれとただ祈るしかない。
思い出を書きながら少しだけ泣いた。
一つだけ気になるのは、その100本の遺されたギターは、友人知人たちが遺品として持ち帰られると訊いたが、もしもどうしても残ってしまい、ゴミとして処分するしかないものが出たのならば、我もまたそれらを頂きたい、捨てられるのならば全て引き取りたいと思っている。
それが偉大な亡き同好の友に報いることだと思ふ。
亡き人たちへの思いを書き記す・ 1.ウディ石川さん ― 2024年09月02日 23時01分40秒
★石川さんと我
このところ友人知人の訃報が相次いでいる。
皆、我よりは幾分年上だが、何で彼であって我ではないのか、ずっと自問している。
どうして善い誰にも愛され惜しまれる人は先に逝き、我のような誰からも疎んじられ無価値な人間が臆面なくもまだ生きているのか、いつもその死の知らせの都度思う。
しかしそれは、もし神の計らいだとしてもそこに答えは出ない。言えることはただ一つ、我はまだその時でなく、まだ生きて為すべきことがあるからだとしか思えない。
かの漱石に、『長谷川君と余』と題する短編、というより随筆がある。そこに出てくる長谷川君とは、あの二葉亭四迷のことであり、漱石は、二葉亭とは親しい間柄ではなかったのに、出版社からだったか二葉亭の死後、追悼号に請われて筆をとり亡き人の思い出を記した名短編である。
友と呼べるほど親しい関係でなかったものの、漱石はたんたんと彼との少ない出逢った機会を思い出しつつ、偉大な文筆家の死を深く悼んでいる。
漱石には、盟友子規をはじめ、多くの友人知人への追悼、思い出文が残されているが、中でもこの長谷川君こと、二葉亭に関する一文は押さえた筆致ながらその哀しみと亡き人の人柄と偉大さ、敬愛が伝わる名文である。
我も拙くもそれに倣って、この2024年夏、8月の初旬に急逝した石川さんと我について記しておこうと思ふ。
ウディさんと記すか、ウッディさんと記すか迷うものの、彼は素晴らしく奇特な不思議な人であった。あんな人はもう二度と他に会うことはないだろう。※以下、「ウディ」として記す。
彼を知ったのは、まだ谷保かけこみ亭で、月一?でだったか、誰でも参加できるオープンマイクのライブが開催していた頃で、その場で見知ったのだと思う。
テン・ホールズのハーモニカを西部劇のガンマンの如く、ベルトにいくつもホルダーに入れ、たくさん下げていてまず驚かされた。そんな人は初めて見た。
と言ってもテンホールズのハーモニカとは、何かまずそこから説明しないとならないか。
小学校などの音楽教育で嫌でも買わされ吹かされる複音のハーモニカとは違い、穴が10個しかないごく小ぶりなハーモニカのことをテンホールズと呼ぶ。またはブルースハープとも。
フォークソングやブルース、ロックでは、そのテンホールズのハーモニカをライブや録音で用い多用されている。
ただ、問題は、キーごとにそのキーのハーモニカを使わねばならないことで、ハ調、つまりCの曲ならば、Cのキーのそのハーモニカを用いないないと合わすことが難しい。
ということは、各キーごとに合ったハーモニカが必要となる。しかも曲には、マイナーとメジャー、つまり長調と短調があるので、ハーモニカもまたマイナーの曲には、マイナーのそれをキーごとに使わないと合わすことはできないのだ。
マイナーのも入れれば、全部で20本以上揃えないとならないのである。まあ、あまり使われないキーも当然あるが。※FとかFmとか。
我も下手くそながらそのブルースハーブをギター弾きながらホルダーに挟んで吹くので、そのキーごとに、マイナーもすべて揃えて持っている。
が、それをホルダーに入れてベルトに下げて全てを腰に巻いている人がいるとは仰天した。
確かに、曲ごとにキーは違うのは当然だから、曲が変われば我など常に慌てて合うキーのハーモニカを数ある中から探し出すのにいつも苦労している。
それを、キーごとに順にホルダーに入れて常に腰にベルトで下げておけば探し迷うことは少なくなるはずだ。
ライブの後だったか前だったか、ウディ氏に、そのベルトハーモニカホルダーについて尋ねたら手作りだと言う。そう、すべてにわたって彼はそうした創意工夫のハンドメイドの人であった。
そしてその時は知らなかったのだが、氏は、ハーモニカのみならずフォークギターの稀代のコレクターであったのだ。
《長くなるのでもう一回続きます》
※昨夜は、友人久我さんの訃報が届き、彼と知り合ってから約20年のことがあれこれまさに走馬灯の如く思い出され、気がついたら一睡もしないうちに朝となった。ので寝不足で今目がかすんできている。
このところ友人知人の訃報が相次いでいる。
皆、我よりは幾分年上だが、何で彼であって我ではないのか、ずっと自問している。
どうして善い誰にも愛され惜しまれる人は先に逝き、我のような誰からも疎んじられ無価値な人間が臆面なくもまだ生きているのか、いつもその死の知らせの都度思う。
しかしそれは、もし神の計らいだとしてもそこに答えは出ない。言えることはただ一つ、我はまだその時でなく、まだ生きて為すべきことがあるからだとしか思えない。
かの漱石に、『長谷川君と余』と題する短編、というより随筆がある。そこに出てくる長谷川君とは、あの二葉亭四迷のことであり、漱石は、二葉亭とは親しい間柄ではなかったのに、出版社からだったか二葉亭の死後、追悼号に請われて筆をとり亡き人の思い出を記した名短編である。
友と呼べるほど親しい関係でなかったものの、漱石はたんたんと彼との少ない出逢った機会を思い出しつつ、偉大な文筆家の死を深く悼んでいる。
漱石には、盟友子規をはじめ、多くの友人知人への追悼、思い出文が残されているが、中でもこの長谷川君こと、二葉亭に関する一文は押さえた筆致ながらその哀しみと亡き人の人柄と偉大さ、敬愛が伝わる名文である。
我も拙くもそれに倣って、この2024年夏、8月の初旬に急逝した石川さんと我について記しておこうと思ふ。
ウディさんと記すか、ウッディさんと記すか迷うものの、彼は素晴らしく奇特な不思議な人であった。あんな人はもう二度と他に会うことはないだろう。※以下、「ウディ」として記す。
彼を知ったのは、まだ谷保かけこみ亭で、月一?でだったか、誰でも参加できるオープンマイクのライブが開催していた頃で、その場で見知ったのだと思う。
テン・ホールズのハーモニカを西部劇のガンマンの如く、ベルトにいくつもホルダーに入れ、たくさん下げていてまず驚かされた。そんな人は初めて見た。
と言ってもテンホールズのハーモニカとは、何かまずそこから説明しないとならないか。
小学校などの音楽教育で嫌でも買わされ吹かされる複音のハーモニカとは違い、穴が10個しかないごく小ぶりなハーモニカのことをテンホールズと呼ぶ。またはブルースハープとも。
フォークソングやブルース、ロックでは、そのテンホールズのハーモニカをライブや録音で用い多用されている。
ただ、問題は、キーごとにそのキーのハーモニカを使わねばならないことで、ハ調、つまりCの曲ならば、Cのキーのそのハーモニカを用いないないと合わすことが難しい。
ということは、各キーごとに合ったハーモニカが必要となる。しかも曲には、マイナーとメジャー、つまり長調と短調があるので、ハーモニカもまたマイナーの曲には、マイナーのそれをキーごとに使わないと合わすことはできないのだ。
マイナーのも入れれば、全部で20本以上揃えないとならないのである。まあ、あまり使われないキーも当然あるが。※FとかFmとか。
我も下手くそながらそのブルースハーブをギター弾きながらホルダーに挟んで吹くので、そのキーごとに、マイナーもすべて揃えて持っている。
が、それをホルダーに入れてベルトに下げて全てを腰に巻いている人がいるとは仰天した。
確かに、曲ごとにキーは違うのは当然だから、曲が変われば我など常に慌てて合うキーのハーモニカを数ある中から探し出すのにいつも苦労している。
それを、キーごとに順にホルダーに入れて常に腰にベルトで下げておけば探し迷うことは少なくなるはずだ。
ライブの後だったか前だったか、ウディ氏に、そのベルトハーモニカホルダーについて尋ねたら手作りだと言う。そう、すべてにわたって彼はそうした創意工夫のハンドメイドの人であった。
そしてその時は知らなかったのだが、氏は、ハーモニカのみならずフォークギターの稀代のコレクターであったのだ。
《長くなるのでもう一回続きます》
※昨夜は、友人久我さんの訃報が届き、彼と知り合ってから約20年のことがあれこれまさに走馬灯の如く思い出され、気がついたら一睡もしないうちに朝となった。ので寝不足で今目がかすんできている。
近況と、このところ思うところを何回かに分けて・② ― 2024年09月01日 23時32分47秒
★ようやく長い夢から覚めたような
9月に入りました。
昨日も。また今日も、終日一昨日のような猛烈な雨が降るような予報は出ていたが、小雨が断続的に降った程度ですんだ。
夕方には、晴れて来て西の空には夕焼けが見えた。
雷雨や強風などの被害がなかっただけでも良しとしたいが、何かはぐらかされたような、天気予報に振り回された気がしている。
ただ、気温も下がってきているはずだが、湿度が高いせいか今夜はともかく蒸し暑い。窓も開けられず室内にいるだけでも汗ばむほどだ。
まずパソコンのことだが、先日ついにウインドウズ11にアップデイトした。
これで以前より起動からブログを書くまで早くなった気がしたが、未だ新しいOSに慣れていないせいもあってか、完全にシャットダウンしていない状態から立ち上げようとしてもやはりかなり時間がかかる。
今夜も、更新が進行中です、電源を入れたままにしてください、との表示が出て、またやたらしばらく待たされた。
やはりパソコン本体自体を買い替えねばならないのかと今思案中だ。
何が苛立つと言って、書きたいことがあり、早くこのブログの書き込み画面を出したいのに、パソコンに向かってもそこまでに漫然と十数分?じっと待たされることだ。そうこうしているうちにその意欲が萎えてきてしまうではないか。
さておき、先ず何から書くべきか。このところ友人知人の訃報が相次いでいる。その方たち一人づつ書いても一回のブログに収まらないと思うので、様々な悼む思いはあるもののまずは自分のことから書いていく。
ドコモかしこも足の踏み場もないゴミ屋敷と化した家の内外のことや、増えすぎた猫問題など未だ解決に至らぬことは相変わらずだが、このところようやく自らの身体にきちんと向き合えるようになってきた。
猛暑の夏でもあることだが、このところ日に何度もシャワーを浴びたり、週に一度は近くの銭湯に通ったりして、素っ裸の吾身の姿を浴室、浴場の鏡に映して見ている。
これは自惚れや贔屓目ではなく、我が身の肉体は、その年齢のわりにはまだじゅうぶん若々しいと思えてきた。
むろん背中は丸く厚くなり、だいぶ猫背気味だが、腹もまだせり出すほどには出ていないし、スポーツはまったくしないから筋肉はないものの贅肉は少なく肉体だけ見れば、二十代の頃とほとんど変わらないように見える。
今は体重も5キロほど増えてはいるが、多忙で一時期より落ちたので、肥満とかメダボとは言われることはない。
ただ顔と白髪だけは年相応の爺むさい風貌で、それに比べれば身体はまだ若々しいということだ。
嗤われるかもしれないが、身体だけ見れば、とても70歳近い老人のそれではない。そのことに気づいてこのところ自信を取り戻している。
あとは、意識的に背筋伸ばして姿勢を常に正していけば、腰の曲がったジジイになることはないだろう。
機能的にも、今はまだ先日のコロナで、まだ咳が残り痰も絡み苦しい時もあるが、体調的にはほぼ万全となってきた。
この2年、いや、もっとかもしれないが、ずっと悩みの種だった右腕の痺れと機能障害もこのところようやく癒えて、まだ筋肉痛的な痛みはあるものの、問題なく自由に動かせる状態になってきた。
腰痛も今はないし、身体だけは今は何も問題ない。
で、なんでこんなしょうもないことを書いてるかというと、ほぼこの10年は、風呂に入ろうが、シャワー浴びようが自分の身体をまじまじと見ることさえなかったからだ。いや、顔すらも鏡にきちんと映したことがなかった。
我が母は、2016年に癌が再発して死んだのだが、その死の前年頃から、介護と世話に追われて、認知症気味の父も健在だったので今よりもともかく忙しかった。
特に死の一年前からは、在宅で我は一人で母を看病していたので、落ち着いて自らがゆったりゆっくり入浴する事すらできなかった。
そして母の死後は、急速に認知症と身体の衰弱が進んでいく超高齢の父の世話にまた追われて、一昨年秋の父の死まで同様の状況が続いていた。
そして今、父の死からまる二年を迎える今に至り、犬猫の世話や家の片づけ等に今も追われてはいるものの、ようやく吾身の肉体を鏡に映してまじまじと見つめ直す余裕も出てきたのだ。
いま思うのは、最愛の母と父の死と、その後の多々後始末と、何もかも一人でやらねばならない孤独な生活への移行と、悪夢とは言えないが、まさにずっと長い夢を見ていた気がする。
そしてようやく、今頃になってその夢から覚めた、のだと。
今もまだともかくやることは山積して目が回るほど慌ただしいし、何ひとつ解決も先も見えはしないが、この吾身、身体だけはまだここにあり、自らに取り戻した気がしている。
内臓はわからないが、アルコールさえ飲みすぎなければ、あと10年はともかくも5年は大丈夫だろう。
先のことは何が起こるかわからないし油断や過信は禁物だが、まだこの身体さえあれば、何でもできると思えてきた。そう、70歳過ぎようとも。※むろん、交通事故や災害など不測の事態に遭い命を落とす可能性も多々あるわけだが、それはそれとして。
親しい方はご存じだろう。我は誰よりもウカツでバカだから、これまで何度も命にかかわるようなケガや事故は起こしてきた。が、幸いにして病気も含めて入院するほどの大ケガ、大病には遭わなかった。
そこに我が神、我が主のご加護があったからだと思うし、ただ神頼みに生きるのではなく、自らも節制して細心の注意で一日一日を丁寧にいきていこうと思う。
こんな我にもまだできること、すべきことがあると信じて。そしてそれは誰にとっても善い喜ばしいことであるように。
9月に入りました。
昨日も。また今日も、終日一昨日のような猛烈な雨が降るような予報は出ていたが、小雨が断続的に降った程度ですんだ。
夕方には、晴れて来て西の空には夕焼けが見えた。
雷雨や強風などの被害がなかっただけでも良しとしたいが、何かはぐらかされたような、天気予報に振り回された気がしている。
ただ、気温も下がってきているはずだが、湿度が高いせいか今夜はともかく蒸し暑い。窓も開けられず室内にいるだけでも汗ばむほどだ。
まずパソコンのことだが、先日ついにウインドウズ11にアップデイトした。
これで以前より起動からブログを書くまで早くなった気がしたが、未だ新しいOSに慣れていないせいもあってか、完全にシャットダウンしていない状態から立ち上げようとしてもやはりかなり時間がかかる。
今夜も、更新が進行中です、電源を入れたままにしてください、との表示が出て、またやたらしばらく待たされた。
やはりパソコン本体自体を買い替えねばならないのかと今思案中だ。
何が苛立つと言って、書きたいことがあり、早くこのブログの書き込み画面を出したいのに、パソコンに向かってもそこまでに漫然と十数分?じっと待たされることだ。そうこうしているうちにその意欲が萎えてきてしまうではないか。
さておき、先ず何から書くべきか。このところ友人知人の訃報が相次いでいる。その方たち一人づつ書いても一回のブログに収まらないと思うので、様々な悼む思いはあるもののまずは自分のことから書いていく。
ドコモかしこも足の踏み場もないゴミ屋敷と化した家の内外のことや、増えすぎた猫問題など未だ解決に至らぬことは相変わらずだが、このところようやく自らの身体にきちんと向き合えるようになってきた。
猛暑の夏でもあることだが、このところ日に何度もシャワーを浴びたり、週に一度は近くの銭湯に通ったりして、素っ裸の吾身の姿を浴室、浴場の鏡に映して見ている。
これは自惚れや贔屓目ではなく、我が身の肉体は、その年齢のわりにはまだじゅうぶん若々しいと思えてきた。
むろん背中は丸く厚くなり、だいぶ猫背気味だが、腹もまだせり出すほどには出ていないし、スポーツはまったくしないから筋肉はないものの贅肉は少なく肉体だけ見れば、二十代の頃とほとんど変わらないように見える。
今は体重も5キロほど増えてはいるが、多忙で一時期より落ちたので、肥満とかメダボとは言われることはない。
ただ顔と白髪だけは年相応の爺むさい風貌で、それに比べれば身体はまだ若々しいということだ。
嗤われるかもしれないが、身体だけ見れば、とても70歳近い老人のそれではない。そのことに気づいてこのところ自信を取り戻している。
あとは、意識的に背筋伸ばして姿勢を常に正していけば、腰の曲がったジジイになることはないだろう。
機能的にも、今はまだ先日のコロナで、まだ咳が残り痰も絡み苦しい時もあるが、体調的にはほぼ万全となってきた。
この2年、いや、もっとかもしれないが、ずっと悩みの種だった右腕の痺れと機能障害もこのところようやく癒えて、まだ筋肉痛的な痛みはあるものの、問題なく自由に動かせる状態になってきた。
腰痛も今はないし、身体だけは今は何も問題ない。
で、なんでこんなしょうもないことを書いてるかというと、ほぼこの10年は、風呂に入ろうが、シャワー浴びようが自分の身体をまじまじと見ることさえなかったからだ。いや、顔すらも鏡にきちんと映したことがなかった。
我が母は、2016年に癌が再発して死んだのだが、その死の前年頃から、介護と世話に追われて、認知症気味の父も健在だったので今よりもともかく忙しかった。
特に死の一年前からは、在宅で我は一人で母を看病していたので、落ち着いて自らがゆったりゆっくり入浴する事すらできなかった。
そして母の死後は、急速に認知症と身体の衰弱が進んでいく超高齢の父の世話にまた追われて、一昨年秋の父の死まで同様の状況が続いていた。
そして今、父の死からまる二年を迎える今に至り、犬猫の世話や家の片づけ等に今も追われてはいるものの、ようやく吾身の肉体を鏡に映してまじまじと見つめ直す余裕も出てきたのだ。
いま思うのは、最愛の母と父の死と、その後の多々後始末と、何もかも一人でやらねばならない孤独な生活への移行と、悪夢とは言えないが、まさにずっと長い夢を見ていた気がする。
そしてようやく、今頃になってその夢から覚めた、のだと。
今もまだともかくやることは山積して目が回るほど慌ただしいし、何ひとつ解決も先も見えはしないが、この吾身、身体だけはまだここにあり、自らに取り戻した気がしている。
内臓はわからないが、アルコールさえ飲みすぎなければ、あと10年はともかくも5年は大丈夫だろう。
先のことは何が起こるかわからないし油断や過信は禁物だが、まだこの身体さえあれば、何でもできると思えてきた。そう、70歳過ぎようとも。※むろん、交通事故や災害など不測の事態に遭い命を落とす可能性も多々あるわけだが、それはそれとして。
親しい方はご存じだろう。我は誰よりもウカツでバカだから、これまで何度も命にかかわるようなケガや事故は起こしてきた。が、幸いにして病気も含めて入院するほどの大ケガ、大病には遭わなかった。
そこに我が神、我が主のご加護があったからだと思うし、ただ神頼みに生きるのではなく、自らも節制して細心の注意で一日一日を丁寧にいきていこうと思う。
こんな我にもまだできること、すべきことがあると信じて。そしてそれは誰にとっても善い喜ばしいことであるように。
世界の終わりが来たような豪雨が降り続き ― 2024年08月30日 13時13分08秒
★ケータイの土砂災害警戒情報に起こされて
昨夕からの滝のような豪雨は朝まで降り続いていた。ちょっと記憶にない、まさに世界の終わりが来たような不安になる激しい雨が長く降り続いた。
箱舟に乗れない、いや、乗る資格のない者として、一晩中不安な思いで深く寝入ることなく、屋根を叩く豪雨、壊れた雨樋から激しく流れ落ちる雨水の音に耳を澄ませていた。
外も明るくなって、ようやく少しうとうとし出したら、8時過ぎ頃か、とつぜん枕元の携帯が激しくなり出し、警報音の後に女の声で、八王子市に土砂災害警戒警報が発令中、との緊急通報であった。
ウチのほうは、平地で水も出ない場所だからカンケイないと思い、また寝なおそうとしたら再度また携帯から同様の放送が届き、今度は、避難すべき地区に住む人たちへの小学校や公民館などのそれぞれ指定避難先のお知らせであった。
※急斜面の高台にお住いのシバ氏のところは無事であろうか、気になった。
もう眠れなくなって、外を伺ったら雨は小降りになってきている。今のうちに、昨夜は雨が強くてろくに散歩もできなかった室内飼いしている老犬を連れて小雨の最中、近くの公園まで散歩に出た。
九州や四国、神奈川のほうでも記録的な雨量となったようだが、多摩地区も八王子だけでなく、町田やこの近辺一体にものすごい量の雨が降ったらしい。
じっさい、外に出たら、道路は川のようになったらしく、かなり遠くまで我家の枯葉、小枝など庭先のゴミが流されていた、また、それらを溜めておく大きなポリタンクも、今朝見たら口まで雨水でいっぱいになっていて、その雨量におどろかされた。
皆さん、お住まいの地域では、被害はありませんでしたか。
確実に近づいている世界の終わりの前に、我は最低限の小さな箱舟を作りたいと願う。自分が乗るためではない。失いたくない、後の世に伝えるべく大事な、大切なものを積み込むために。
ようやくパソコンのほうも安定?し出したようなので、また外は雨が降り出し、庭仕事などは今日は何もできないと思うので、今日は一日パソコンに向かい、ブログ書き込みに専念しようと思う。
昨夕からの滝のような豪雨は朝まで降り続いていた。ちょっと記憶にない、まさに世界の終わりが来たような不安になる激しい雨が長く降り続いた。
箱舟に乗れない、いや、乗る資格のない者として、一晩中不安な思いで深く寝入ることなく、屋根を叩く豪雨、壊れた雨樋から激しく流れ落ちる雨水の音に耳を澄ませていた。
外も明るくなって、ようやく少しうとうとし出したら、8時過ぎ頃か、とつぜん枕元の携帯が激しくなり出し、警報音の後に女の声で、八王子市に土砂災害警戒警報が発令中、との緊急通報であった。
ウチのほうは、平地で水も出ない場所だからカンケイないと思い、また寝なおそうとしたら再度また携帯から同様の放送が届き、今度は、避難すべき地区に住む人たちへの小学校や公民館などのそれぞれ指定避難先のお知らせであった。
※急斜面の高台にお住いのシバ氏のところは無事であろうか、気になった。
もう眠れなくなって、外を伺ったら雨は小降りになってきている。今のうちに、昨夜は雨が強くてろくに散歩もできなかった室内飼いしている老犬を連れて小雨の最中、近くの公園まで散歩に出た。
九州や四国、神奈川のほうでも記録的な雨量となったようだが、多摩地区も八王子だけでなく、町田やこの近辺一体にものすごい量の雨が降ったらしい。
じっさい、外に出たら、道路は川のようになったらしく、かなり遠くまで我家の枯葉、小枝など庭先のゴミが流されていた、また、それらを溜めておく大きなポリタンクも、今朝見たら口まで雨水でいっぱいになっていて、その雨量におどろかされた。
皆さん、お住まいの地域では、被害はありませんでしたか。
確実に近づいている世界の終わりの前に、我は最低限の小さな箱舟を作りたいと願う。自分が乗るためではない。失いたくない、後の世に伝えるべく大事な、大切なものを積み込むために。
ようやくパソコンのほうも安定?し出したようなので、また外は雨が降り出し、庭仕事などは今日は何もできないと思うので、今日は一日パソコンに向かい、ブログ書き込みに専念しようと思う。
近況と、このところ思うところを何回かに分けて・① ― 2024年08月17日 12時07分44秒
★まず、近況~ぼけまる氏のバースデーコンサート行ってから
台風一過の青空である。今朝は、朝からカラっと晴れて、また焼けつくような暑さが戻ってきた。
が、木陰にいると吹く風は爽やかで、もう夏も終わり秋の訪れも近いと今朝方、愛犬との散歩で休憩した近くの公園のベンチで思えた。
私事だが、昨日は、我の誕生日であった。70歳という節目の歳までにはまだ少しいくらかは間はあるが、もう指呼の先であり、こんな感じで一年が過ぎていくならあっという間であろう。
それにしても自分がこんな歳になるとは、ここまで生きているとは若い時はまったく考えも想像もしなかった。感慨深い。
漠然と想像してたとしても、世間一般的な、子や孫に囲まれて暮らす穏やかな年寄りの姿であり、まさか今のような人生となるとは、本当に予想も予測もしていなかった。
恥ずかしい話、何が驚きかというと、若い頃、十代の頃から我は何一つ変わっていないのである。嗤われて仕方ないし、自分でも呆れ果てる。
結婚もしなかったから、妻も子も孫もなく、昔からの親の家に今も住み、収入もほとんどなく、状況も環境もまったく何も変わらないままなのである。
そんな人は他にいるだろうか。
むろん、体型とかは当然変わり、若い時より10キロ近く体重は増えたし、髪は白くなり、鏡に映る我の姿は、もはや確かに年相応の疲れた老人のそれである。そして、ただモノだけは膨大に増えた。それだけ長く生きて時間が過ぎたのだから当然の結果であった。
親たちは既に逝き、このところその増え過ぎたモノ、生き物たちも含めて、それらに囚われ身動きがとれなくなり、まさに人生そのものが行き詰ってしまっていた。
ネット古書店のほうも休止してしまったから、今は全くの無収入であり、親たちの残してくれた預貯金を取り崩して何とか生活してきたが、それもついに尽き果てて、破綻した人生は破滅寸前のところまで行きついた。
しかし、それでも数少ない奇特な友人知人たちが我を哀れみ、経済的に人力的にも多々支援して頂き、何とかその苦境を脱ししつつある。
まだ先は全く見えないし、果たして人生再建となるかは定かではないが、経済的問題のほうは、幸いしにして、亡き父の保険金が大きな額ではないが、先日やっと下りたので、今は毎月かかる光熱費や税金などの金の工面については、この先数か月は頭悩ませずにすみそうな状況だということを報告いたしたい。
ただ、無年金無収入の我なのだから、ともかく一日でも早くどのような手段でも金を稼がないことには生きて行けないわけで、何とか年内には新たな収入の手立てを確立させたいと今せつに願っている。
幸い鬱気分は脱して、今は非常にアグレッシブにどのような人生でも何とかなる、何とかしていけると強く思っている。主よ、憐れみたまえ。
それと、体調についてなのだが、先の日曜日、国立でのぼけまる氏のコンサートに行って以来、またコロナに罹ったらしくともかく喉が痛く咳も出て今も苦しい。
その、かけこみ亭主人・ぼけまる氏主催の、「バースデーコンサート」、みんな集まれ!!という呼びかけなので、我も猛暑の最中、無理して自転車で駆けつけた。
が、今回は、これまでの生前葬コンサートとは違い、端的に言えば、彼の個人的公開同窓会というべきもので、午後1時から夜の7時まで、正直に言えば、長時間ともかく疲れ果てた。
我は、もともと同窓会的なるもの、いや、学校関連のモノゴトには良い記憶がなく一切関心なく、嫌悪さえしている。どこでも常に落ちこぼれた者として、もし会開催の通知が届こうとも絶対に昔の仲間たちとは会う気もないし関係を持とうとは思わない人間なのだ。だいたいその頃の友達も知人も元より一人もいない。※学内サークルやクラブで出合った仲間たちはいます。
過去など全否定してきた人間にとって、今回のぼけまる氏のコンサート?、彼の学生時代の仲間から生協の職員であった頃の人たち、そしてかけこみ亭初期の頃に来ていた人たちと多々次々昔話を語らう彼のステージに、違和感というより、間違えて他校の同窓会の席に来てしまった気分になった。そう、自分の学校の同窓会にも行かない人間が。
しかし、それが面白いとかつまらないとかの以前に、氏は、こうした集いをやりたかったのだと伝わるし、何よりも多くの彼の知人友人が集まって彼を囲んだのだから、それはそれで良かったというしかない。最後の最後までかなりの人たちが席に残っていて驚かされたほどなのだから。
ぼけまるさんは、多くの人たちに慕われ愛されて、幸せな人だと改めて強く再確認した次第。ほんと幸運・幸福な人である。まさに人徳という言うしかない。
先週その日曜日、国立から汗まみれで疲れて帰ってきた頃から、何か喉が痛い。風邪ひいたかと思えたが、我が父が死ぬ前、彼から感染されたコロナウィルスの症状にすごく似ている。
うまく説明できないが、もしかしたらこれはコロナかもと思えた。訊けば、昨今流行しているコロナはまず喉に来るらしい。
ただ、前回は、すぐ高熱が出たが、今回は、我は免疫ができているのか、いくらか種類が変化してるのか、寝込むほどの発熱はなく、測ってはいないがたぶん37度台の微熱しかなく、ただ喉が痛く、今は咳も出て痰がからみ苦しい状況がこの一週間続いている。
今は、コロナだろうが、インフルエンザだろうが、風邪の一種でしかなく、かつてのように医師に即診断してもらい、安静にして自宅療養に努めるべく医療費はかからない状況ではないのだから、身体はしんどくても個人としてフツーの生活していくしかない。
また回を改めて書くが、今トラブル続きで、パソコンは幸いこうしてブログ再開できるとほどに多少は回復したものの、居間のテレビは壊れて完全に視れなくなってしまった。
その他、金のかかるトラブル自体は今も多々あり続いてはいるが、幸い気分は落ち込んでなく前向きである。
しかし、喉も痛くてテレビも見れないならば、起きてるのもしんどくて寝るしかなく、ベッドでスマホいじっては今の出来事、ニュース等を確認してたら、ネットサーフィンというのか、偶然そこから新たな出会いと知識を多々得た。
その中で、最大は、今韓国からブレイクしている、奇跡の歌声・歌心りえさんというシンガーと出会えたことである。
この人を知り得たことは我にとって、まさにバースデープレゼントとなった。
台風一過の青空である。今朝は、朝からカラっと晴れて、また焼けつくような暑さが戻ってきた。
が、木陰にいると吹く風は爽やかで、もう夏も終わり秋の訪れも近いと今朝方、愛犬との散歩で休憩した近くの公園のベンチで思えた。
私事だが、昨日は、我の誕生日であった。70歳という節目の歳までにはまだ少しいくらかは間はあるが、もう指呼の先であり、こんな感じで一年が過ぎていくならあっという間であろう。
それにしても自分がこんな歳になるとは、ここまで生きているとは若い時はまったく考えも想像もしなかった。感慨深い。
漠然と想像してたとしても、世間一般的な、子や孫に囲まれて暮らす穏やかな年寄りの姿であり、まさか今のような人生となるとは、本当に予想も予測もしていなかった。
恥ずかしい話、何が驚きかというと、若い頃、十代の頃から我は何一つ変わっていないのである。嗤われて仕方ないし、自分でも呆れ果てる。
結婚もしなかったから、妻も子も孫もなく、昔からの親の家に今も住み、収入もほとんどなく、状況も環境もまったく何も変わらないままなのである。
そんな人は他にいるだろうか。
むろん、体型とかは当然変わり、若い時より10キロ近く体重は増えたし、髪は白くなり、鏡に映る我の姿は、もはや確かに年相応の疲れた老人のそれである。そして、ただモノだけは膨大に増えた。それだけ長く生きて時間が過ぎたのだから当然の結果であった。
親たちは既に逝き、このところその増え過ぎたモノ、生き物たちも含めて、それらに囚われ身動きがとれなくなり、まさに人生そのものが行き詰ってしまっていた。
ネット古書店のほうも休止してしまったから、今は全くの無収入であり、親たちの残してくれた預貯金を取り崩して何とか生活してきたが、それもついに尽き果てて、破綻した人生は破滅寸前のところまで行きついた。
しかし、それでも数少ない奇特な友人知人たちが我を哀れみ、経済的に人力的にも多々支援して頂き、何とかその苦境を脱ししつつある。
まだ先は全く見えないし、果たして人生再建となるかは定かではないが、経済的問題のほうは、幸いしにして、亡き父の保険金が大きな額ではないが、先日やっと下りたので、今は毎月かかる光熱費や税金などの金の工面については、この先数か月は頭悩ませずにすみそうな状況だということを報告いたしたい。
ただ、無年金無収入の我なのだから、ともかく一日でも早くどのような手段でも金を稼がないことには生きて行けないわけで、何とか年内には新たな収入の手立てを確立させたいと今せつに願っている。
幸い鬱気分は脱して、今は非常にアグレッシブにどのような人生でも何とかなる、何とかしていけると強く思っている。主よ、憐れみたまえ。
それと、体調についてなのだが、先の日曜日、国立でのぼけまる氏のコンサートに行って以来、またコロナに罹ったらしくともかく喉が痛く咳も出て今も苦しい。
その、かけこみ亭主人・ぼけまる氏主催の、「バースデーコンサート」、みんな集まれ!!という呼びかけなので、我も猛暑の最中、無理して自転車で駆けつけた。
が、今回は、これまでの生前葬コンサートとは違い、端的に言えば、彼の個人的公開同窓会というべきもので、午後1時から夜の7時まで、正直に言えば、長時間ともかく疲れ果てた。
我は、もともと同窓会的なるもの、いや、学校関連のモノゴトには良い記憶がなく一切関心なく、嫌悪さえしている。どこでも常に落ちこぼれた者として、もし会開催の通知が届こうとも絶対に昔の仲間たちとは会う気もないし関係を持とうとは思わない人間なのだ。だいたいその頃の友達も知人も元より一人もいない。※学内サークルやクラブで出合った仲間たちはいます。
過去など全否定してきた人間にとって、今回のぼけまる氏のコンサート?、彼の学生時代の仲間から生協の職員であった頃の人たち、そしてかけこみ亭初期の頃に来ていた人たちと多々次々昔話を語らう彼のステージに、違和感というより、間違えて他校の同窓会の席に来てしまった気分になった。そう、自分の学校の同窓会にも行かない人間が。
しかし、それが面白いとかつまらないとかの以前に、氏は、こうした集いをやりたかったのだと伝わるし、何よりも多くの彼の知人友人が集まって彼を囲んだのだから、それはそれで良かったというしかない。最後の最後までかなりの人たちが席に残っていて驚かされたほどなのだから。
ぼけまるさんは、多くの人たちに慕われ愛されて、幸せな人だと改めて強く再確認した次第。ほんと幸運・幸福な人である。まさに人徳という言うしかない。
先週その日曜日、国立から汗まみれで疲れて帰ってきた頃から、何か喉が痛い。風邪ひいたかと思えたが、我が父が死ぬ前、彼から感染されたコロナウィルスの症状にすごく似ている。
うまく説明できないが、もしかしたらこれはコロナかもと思えた。訊けば、昨今流行しているコロナはまず喉に来るらしい。
ただ、前回は、すぐ高熱が出たが、今回は、我は免疫ができているのか、いくらか種類が変化してるのか、寝込むほどの発熱はなく、測ってはいないがたぶん37度台の微熱しかなく、ただ喉が痛く、今は咳も出て痰がからみ苦しい状況がこの一週間続いている。
今は、コロナだろうが、インフルエンザだろうが、風邪の一種でしかなく、かつてのように医師に即診断してもらい、安静にして自宅療養に努めるべく医療費はかからない状況ではないのだから、身体はしんどくても個人としてフツーの生活していくしかない。
また回を改めて書くが、今トラブル続きで、パソコンは幸いこうしてブログ再開できるとほどに多少は回復したものの、居間のテレビは壊れて完全に視れなくなってしまった。
その他、金のかかるトラブル自体は今も多々あり続いてはいるが、幸い気分は落ち込んでなく前向きである。
しかし、喉も痛くてテレビも見れないならば、起きてるのもしんどくて寝るしかなく、ベッドでスマホいじっては今の出来事、ニュース等を確認してたら、ネットサーフィンというのか、偶然そこから新たな出会いと知識を多々得た。
その中で、最大は、今韓国からブレイクしている、奇跡の歌声・歌心りえさんというシンガーと出会えたことである。
この人を知り得たことは我にとって、まさにバースデープレゼントとなった。
何とかまだ生きてます。 ― 2024年08月10日 09時32分00秒
★日々てんやわんやの大騒ぎながらも
何から書けばいいのだろうか。買物ブギの歌詞ではないけれど、朝から晩までともかく忙しく慌ただしく様々なトラブルに追われて、まさにてんやわんやの大騒ぎ、である。
この猛暑の最中、日々汗みずくでふらふらで時に卒倒しながらも何とかまだ生きている。
ご心配おかけした方には今さらながらお詫びいたしたい。まだ生きています。
実は、パソコンも不調で、起動にやたら時間がかかり、根本的修復をしないとならないのだが、落ち着いてそれに向き合う時間がつくれず忙しさにかまけて放擲してしまっていた。
今日、久々に起動させてメールの確認などしたのだが、立ち上がりから溜まったメールの確認だけで既に一時間以上かかってる。電源入れてもトップの画面に辿り着くまで何十分も待たされる。
思えば、7月の終わりから一度もパソコンを起動させていなかった。かつて、ネットで商売をやっていた頃は、日に何度となくパソコンに向き合っていたのだからこんな日がくるとは、である。
のちほど、パソコンがうまく起動したら、これまでの経緯をお知らせいたしたい。
失礼します。
何から書けばいいのだろうか。買物ブギの歌詞ではないけれど、朝から晩までともかく忙しく慌ただしく様々なトラブルに追われて、まさにてんやわんやの大騒ぎ、である。
この猛暑の最中、日々汗みずくでふらふらで時に卒倒しながらも何とかまだ生きている。
ご心配おかけした方には今さらながらお詫びいたしたい。まだ生きています。
実は、パソコンも不調で、起動にやたら時間がかかり、根本的修復をしないとならないのだが、落ち着いてそれに向き合う時間がつくれず忙しさにかまけて放擲してしまっていた。
今日、久々に起動させてメールの確認などしたのだが、立ち上がりから溜まったメールの確認だけで既に一時間以上かかってる。電源入れてもトップの画面に辿り着くまで何十分も待たされる。
思えば、7月の終わりから一度もパソコンを起動させていなかった。かつて、ネットで商売をやっていた頃は、日に何度となくパソコンに向き合っていたのだからこんな日がくるとは、である。
のちほど、パソコンがうまく起動したら、これまでの経緯をお知らせいたしたい。
失礼します。
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