ガリガリ君と高田渡「値上げ」2016年04月01日 18時11分47秒

★お時間のある方は、今日からのテレビCMをご覧下さい。

 我が勝手に私淑している、京都の詩の師匠・有馬敲御大から今日もまたファックスが届いた。先日もほぼ同様のものを頂いたのだが、あまりの忙しさにかまけて「無視」していたので、再送信されたのだ。
 冷菓ガリガリ君のCM放送の件である。

 今の若い人、もしくは孫や子供をお持ちの方は、「ガリガリ君」なるアイスキャンデーをご存知かと思う。かなりのヒット商品で、いろんな種類も出ていたと、何事にも疎いこの我ですらその存在を知っているどころか、暑い夏などは食した記憶がある。確かに売れるにはワケがある安さと美味しさであったかと思う。

 そのガリガリ君のCMのバックに高田渡の「値上げ」を使いたいと、メーカーの代理店広告会社から有馬御大に連絡があったという。子息の漣君は承諾して、あとは「詞」のほう、つまり原詩「変化」の作者である有馬さんの許可を仰いできたとのことだった。
 それが確か年明けの話で、御大から、どないしたらええんか、と電話がかかってきた。
 それはオモロイ、ええんとちゃいまっか、と答えて、二人でそのCMの使用料はどんぐらいやろかと話が盛り上がった。

 しかし、いったい高田渡の「値上げ」と冷菓ガリガリ君とがどうコラボするのかそのときは皆目見当も付かなかった。が、どうやら、それは・・・おっと、ともかくまずそのCMをご覧いただきたい。

 もたもたしていたのでお知らせが遅くなった。今日4月1日である。
まず紙媒体では、日本経済新聞の本日1日付け朝刊、全国紙で、34面に掲載されているらしい。ただそれでは当然のこと音は聴こえない。

 テレビCMスケジュールは
以下の通り

①番組:「世界フィギュアスケート選手権2016女子ショート」
 局:フジテレビ(全国28局ネット)
 日程:4月1日(金)時間:19:00~21:30の内 60秒

②番組:「金曜プレミアム『映画 エイプリルフールズ』
 局:フジテレビ(全国29局ネット)
 日程:4月1日(金)時間:21:30~23:52の内 60秒(CMチャンスは23: 30まで)

③番組:「マツコ会議」
 局:日本テレビ(全国29局ネット)
 日程:4月2日(土) 時間:23:30~24:00 の内 60秒

 アイスキャンデーのガリガリ君と高田渡の歌声がどうコラボするのか、ぜひぜひご確認頂きたいと有馬敲氏に代わって喧伝いたします。

ガリガリ君の「値上げ」CM話題沸騰!2016年04月02日 21時47分11秒

★ネット上で話題沸騰の失笑するしかないCM

 ガリガリ君「値上げ篇」
https://www.youtube.com/watch?v=3rfU3zaoRz8

満開の桜の花の下で2016年04月03日 22時27分01秒

★桜の花の下でひたすら眠る夢をみた。

 書くのが辛いとは思わないが、どう書くべきか迷うこともある。

 実は、また母は入院してしまった。昨日2日の土曜日、急患扱いで立川のかかりつけの病院に行き、いろいろ検査の結果そのまま即入院となった。
 まだ退院のメドどころか、これからどうなるのか、この土日ということもあって担当医も不在で全く先行きが見えない。昨日の朝、いや、一昨日の夜の夕食後から胃の不調を訴え、口からは水さえも痛くて飲めなくなったので慌てて昨日の昼に病院に連れて行ったのだ。

 今はっきりしているのは、どうやら肥大した癌が、小腸など他の臓器に転移?だかしてきて癒着を起こしたらしく、まずはその炎症を抑えるため一切口からは飲食物は取らさずひたすら点滴だけで栄養を入れている。幸い当初の痛みは収まったと母は言うが、また元のように口から食事をとれるのか我は不安な気持ちでいる。

 このブログで適宜そうした母の状況は書いてきたので、どこから記すべきか迷いもするが、先に、3月の後半、ずっと熱が出ていたことは書いたかと思う。風邪だと当人も家族も考えていた。
 風邪薬を呑むと、朝は平熱に下がるが、午後になると必ず38度台に上がって来る。で、心配になって、かかりつけの立川の病院の支店的な近くの診療所に行って診断を受けた。
 そして血液採って調べたら、白血球の数値がかなり高いことが判明して、医師からは、体の中のどこかで炎症を起こしているのではないかと言われた。そして抗生剤を出してもらって帰ってきた。それが3月25日の金曜だった。
 その薬を飲みだしたら、熱は下がってきて、迷いもしたが、前からまた予約入れていたこともあり、山梨の北杜市増冨のラジウム温泉の旅館・金泉閣へ、二度目の温泉治療に二泊三日で先月の28日から行ったのだ。

 そこまでは書いた。が、実は、母は向うで体調を崩して、行った日はともかく、翌日の昼頃から胃が痛くなってきて、二日目の晩は食事はとれず、翌朝も何も食べられなくなってしまった。
 お茶ぐらい飲まないと脱水症状になると無理して呑んでたら、30日の朝、吐いてしまったとのことで、迎えに行った我は慌てて東京に連れ帰って来た。現地滞在時間はほぼゼロで、家を出てから戻るまで約3時間という新記録であった。

 その後、家でお粥食べさせたり様子見ていたら、いったんは体調は戻ったのだが、今月に入った金曜の夜、夕食食べてから胃がチクチクすると言い出し、その晩は気持ち悪くて一睡もできず、胃薬飲ませても治らないままで、また吐きそうだと苦しむので、土曜日だったのでかかりつけの立川の総合病院に慌てて連れて行ったのだ。

 幸い休日の急患扱いということで、待たされることも少なく、エコーからCT、レントゲン、血液採って尿検査まで徹底的に調べてもらった。
そしてわかってきたことは、当人は胃が痛いと訴えていた場所は、みぞおちであってそもそも胃ではなく、小腸であって癌が肥大してきたので押されて?癒着を起こしている可能性が高く、腸が腫れて腸閉塞を起こしているとのことであった。
 それで何か食べると腸が動き出して痛み出すから、しばらくは一切口からは何も採らずに腸を休ませることとまずは炎症を沈めることからだと説明を受けた。
 いずれにせよ、今後の治療は土日を挟んでいる間は、担当医もいないので月曜から内科、外科、婦人科の医師皆で相談して決めていくということで、昨晩は母を入院させて帰って来た。

 そして今日、日曜も入院のための日用品などを持って母の病室に行ってきた。幸い、痛みも薬が効いたのか収まって来たし、少しなら水分ならば口からも採れるようになっておならも出たりして腸は動き出して来たらしい。先はまだ見えないがやや安堵した。

 考えてみれば、5年前、いや、母が癌の手術したのが、あの2011年の3.11の直前だったからそのもっと前のこと、最初体の不調を訴え出して来たときも同様に胃や腹が痛くなり、しだいに食べられなくなり、どんどん痩せて来た。
 当初は原因がわからず、あちこち病院や漢方医にかかったが、何の病気か判明せず、もう腹水も溜まりガリガリに痩せてからようやく、卵巣が原発と思われる癌で、大腸が癒着してしまい腸閉塞を起こしていることが確認された。
 そのときもあまりに体力が落ちているので、すぐに外科手術はできずに、しばらくの間は点滴と鼻からチューブ入れて体内の水分を出す処置が行われやや体力がついてきたのでやっと手術で一命をとりとめたのだった。
 今回もまたそのときとほぼ同様の事態となってきたと言えるわけで、先月末に熱が続いて、医者から体のどこかで炎症を起こしていると言われたのも、やはり腸の一部が、腸閉塞を起こしていたからだと今さらながら得心できた。

 ならば山梨の温泉に行くどころではなかったとも考えるが、抗生剤で熱も下がっていたのだから、おそらくはどっちにせよ今回のような事態が起きない限り医者にはかからなかったかもしれないわけで、これはこれで仕方なかったかとも思える。向うで体調崩すのは想定外だったが、少しでも温泉に浸かれたのは幸いだったわけで、今回は急患扱いで行って、あれこれ徹底的に検査してもらったから事態の深刻さが判明したわけでもあり、これもまた良い方向に考えたいと思っている。

 ただ今回の件で学んだことは、体の全て異常なことには必ず何か原因があるわけで、特に癌患者にとっての発熱は、単なる風邪だとか考える前に、徹底的に検査すべきだということだ。熱が上がるというとは、風邪のそれもあるけれど、たいていは体内で炎症を起こしているからだと疑ってかからねばならないのである。

 母の容体と状況については良いことも悪いことも遂次記していくつもりでいる。勝手なお願いだが、神を信ずる方は共に祈って頂ければと願う。我もまた貴方の安寧を心から祈ろう。どこかに共に祈ってくれる方がいると思うことが今は救いである。心が安らぐ。

 そんなことを考えながら今日の午後は母の病院から戻って昼食後はひたすら泥のように眠った。先だって五日市街道の玉川上水沿いから、千鳥ヶ淵も含めて、東京じゅうの桜の名所を車で走り回ったからか、満開の桜の花の下にいる夢をみた。その桜の花に埋もれて眠っているような夢であった。

当たり前のことが当たり前でなく、当たり前にできなくなったときに2016年04月04日 11時34分11秒

★当たり前のことができなくなれば人も国家も死んでいく

 我も含めて、いちおう健康な人は、口から物を食べて、それを便や尿として出している。それは意識せずとも普通は自然に誰でもができることだ。
 しかし老いてくると、あるいは病む者は、そんな当たり前のことができなくなってくる。
 まず歩くこと、近所に買い物や散歩に行くこと、夜は自然に眠くなって朝までぐっすり眠ること、暑い時に自然に汗をかき、寒い時は寒いと当たり前に感じることだって同じだ。それができなくなってきて、先ほどの食事で何を食べたかすら思い出せなくなったりと、誰もが苦もなくできている当たり前のことが、当たり前でなくなってきてしだいにできなくなってしまう。
 そしてそれが極まると人は死ぬのである。死ぬということは、つまるところは息をすること、心臓は働き続けているという、当たり前のことができなくったとき結果として死ぬのだとわかる。

 今、老いた者、そして老いて病む者と暮らしていてつくづくそのことを深く理解する。
 食べること、そして食べさせることも含めて、そして次いでそれをうまく適切に出すことまでも実に大変なのである。むろん彼らは若い時はごく自然に、当たり前のこととしてできていた。
 食事時には自然に腹が空いただろうし、便意も薬などに頼らずとも自然に起きてまず滞りなく排泄できていただろう。夜だって眠るのに苦労することなんかなかったはずだ。
 が、老人はおそらく大部分が、そんな当たり前のことができなくなっていて、歩くのだって自力では難しい人もかなりいる。
 そして「老人」という特殊な人種がいるのではなく、それは人として生きた「結果」、「末期」の状態なのだから、この我もまた同様な状態になることも間違いない。じっさい今は、恥ずかしい話、頻尿や不眠気味になり始めている。それは改善されることはないだろうから、やがては親たちと同じく、膨大な量の様々な薬に頼ることになるのであろう。

 悲しくもないし絶望もしないが、憂鬱である。亡き友の口癖だった「暗澹たる気持ち」というのは、こんな感じかと思う。

 だが、嘆き悲しんだり怒り苛立っていても仕方ない。肯定はできないが、人の死に行く道、いや、これからも死ぬまで生きていく道筋だと認識して、そうした「当たり前でないこと」をそれも老人にとっては「当たり前のこと」なんだと受け入れていくしかない。
 病んだ老人にとっては、少しでも口から食べられるように、食べやすいよう料理を工夫しないとならないし、排泄に関しても当人任せにせず、介護側が常に細かく面倒見ないとならない。
 また、眠れないと騒ぐからと迂闊に睡眠導入剤を呑ませてしまうと、結果として意識朦朧となって失禁など増えるからまた要注意である。

 こうした先人たちの人生の末期に立ち会えることは、「我がこと」の行く末としても決して悪くはない。受験生の子を持てば嫌でも受験制度に詳しくなりあれこれ考えるようになるように、今後の我が人生の想定問題集なのでもある。

 翻ってこう思う。人の場合は、当たり前のことが当たり前でなくなって、当たり前にできなくなって死んでいくのだとすれば、それは仕方ないと許容できる。肯定は出来なくとも。
 が、国家はどうであろうか。議会制民主主義、憲法を守る立憲主義、そうした歴代の自民党政権ですら当たり前のこととして遵守し擁護してきた「当たり前のこと」を前面否定して、数の力に驕り、議会の中の少数意見には一切耳を貸さず、議会の外=国民の大多数が異論を唱えようとも無視し続ける傲慢さはもはや異常の極みだと言うしかない。

 そしてそうした政治にとってこれまで当たり前のことが当たり前でなくなったときに、国家もまた死ぬのだと断ずる。
 むろん、彼らの取り巻き、大富豪や大企業たちは我が世の春を謳歌しているのであろう。が、戦争法を強行し、世界のどこでも紛争には軍事力で臨む国策は、かつてのナチスドイツや大日本帝国と同じく国内には強権であろうとも国家としては破滅、滅亡へと向かっていく。それは過去の歴史がはっきり示している。
 力と力のぶつかり合いの先には、死と破壊しかありえない。ならば「当たり前のこと」に戻り、「当たり前のこと」を取り戻していくしかない。

 人は死ぬのは当たり前だが、国家は当たり前でないことを容認して行けば、国家もまた死ぬ、=破滅していくのだと断言する。

明後日、まずは腸管のバイパス手術する2016年04月05日 23時20分09秒

★癌の前に、まずは癒着した腸の手術をすることに

 手短に記す。母の容体、いろいろご心配おかけして申し訳なく思います。そして様々な励まし、心からただ有難く思うしだいです。

 昨日は担当医が所要で不在で、今日火曜日の午後遅くようやく詳しい話が聞けた。
 要するに、母は今、肥大してきた癌の固まりに内臓、腸管が押されてきて癒着を起こしてしまい、腸閉塞を起こしている。ただ、まだ完全に不通、詰まってはいなく、押しつぶされて細くなっている状態で、硬いものや消化の悪いものを食べたりすると食べた物がうまく腸管を通らず、痛みや炎症を起こすらしい。
 この数日入院して一切何も食べず飲まずで腸を休めたおかげで、その炎症はだいぶ収まって来たとのことで、今日の昼はやっと薄いお粥が出たとのことだった。ただ、食べると腸が刺激されるらしく、何度も下痢をしたとのことであった。が、ともかく少しでも口から食べられ便として出せているなら状態はだいぶ改善されたとは思える。

 ただこのままにしておくと、完全に機能不全となって口からは水さえとれなくなってしまう。で、まずは、開腹してその癒着した部分はそのままにして、潰れていない腸管部分を繋いで、通りを良くする、いわばバイパス手術を行うことになった。
 肥大してそうした悪さを起こしている癌部位に対しては、放射線治療しか手はないが、まずはそのバイパス手術が先決で、あまり時間的余裕はないとのことで、明後日の午後に急きょ決まった。

 実はその母は今家に戻ってきている。医師に頼み込んで、手術を前に一晩だけ特別に帰宅させてもらったのだ。というのも先日の救急外来で即入院となってしまったため、母でないとわからない書類や入院中の申し送り事項などが溜まっていて、先の予定が立たないからこそ、手術する前に母に確認してほしかったからだ。

 今日の夜から明日朝までのわずか10数時間の自宅滞在だが、それでも母が戻って来て今家人は皆ほっとしている。認知症の夫は当然のこと、犬猫たちまでもコーフンして大騒ぎである。いつも母のベッドで一緒に寝ていた猫は久々に安心して甘えて眠れることであろう。

 手術も含めて先のこと、あれこれ不安に思うことも正直たくさんあるが、今は、汝明日のことは明日思い煩らうべし、という気持ちでいる。すべては神のみ心のままにだと。

おかげさまで手術は無事終了!2016年04月07日 22時30分27秒

★共に祈ってくれた方々にただ深く感謝を!

 母の癌が招いた腸管癒着による腸閉塞を改善させるため、癒着した腸の箇所を迂回させるべく、腸管を新たに中途で繋ぐバイパス手術が今日4月7日の午後行われた。
 予定では、午後1時頃からと言われて、昼過ぎには病室に行き母と手術室に呼ばれるのを待っていたが、前の手術が延びたとのことで、結局2時半にやっとその階に上がって、廊下を挟んだ待合室でただひたすら手術が終わるのを待っていた。

 実は最も心配していたのは、そのバイパスを作る手術ができるかどうかで、医師から事前に念入りに了解とられたのは、開腹してみてもし癒着している箇所が一か所ではなく、他にもいくつもあって、その手術をしたとしてもまたすぐ別のどこかが癒着して腸が機能しなくなるのなら、手術は中止にしてすぐに閉めてしまうこともあり得るので、ということだった。
 いわば、開腹してみてもう手遅れならばそんな手術しても意味がないので、バイパスをつくる手術自体、果たしてできるのかどうか、出来ない可能性もあるからと因果を含められていたのだ。
 むろんのことCTとかの画像判断でそうではないだろうと診断されていたから、この手術の話が決まったわけで、たぶん問題ないと思いもしたが、医師からは、開けてみないとわからないからと言われるとやはり不安が頭をもたげてくる。

 学生時代の友人の父親が、肝臓だったか膵臓のだったかその癌で早く亡くなられたのだが、その人も手術する予定で開腹したところ、もはや手遅れで結局手術もできなくて何の処置もできなかった話を思い出す。
 だからまずは、果たして手術自体が始められたのか、ひたすら腕時計を見ながら時間が過ぎるのを待っていた。看護師に確認したところ、麻酔が効くのに30分ほどで、医師からは開けてみて手術不可能とならばすぐに中止すると言われていたからだ。
 だから母が手術室に入って一時間を過ぎてからは、しだいに気持ちも落ち着いて来た。中止の報がないならば手術は始まり進んでいるわけで、今の医学のレベルならまずミスは起こらず終わるだろうと考えた。しかし、前回の手術のときも思ったが、針の筵というほどではないが、時間の経つのがこんなに重く感じたことは他に比べようがない。

 そして当初おそらくかかる時間は2時間から3時間ぐらいと言われたように、夕方5時に、執刀した女医が来て、今手術は終わって、母は集中治療室、ICUに入った、無事終わったと告げられた。ほっと肩の力が一気に抜けた。
 出血もなく、輸血もしないで済んだ。これでたぶんまた元のように食事ができるようになると。ただ、これからも癌が他の臓器に浸潤したり影響を与えて痛みを発することがあるかもしれないからそのときはモルヒネなどで痛みを和らげるような処置をとっていくしかないとも。

 それから少しまた待たされたが、ICUに招かれ、ベッドに寝て酸素マスクを付けている母と対面した。
 もう麻酔から覚めているとのことだったが、まだ反応はほとんどなく、もう大丈夫、無事手術は終わった、成功したよと声かけたが、目もほとんど開けずに弱く頷くだけだった。その弱弱しさに胸が塞がれた。
 会話にもならないので、そそくさとその病棟を後にしたが、今晩はそこで常駐している看護師たちに24時間面倒をみてもらって、明日の午後にまた元の病室に戻されるとのことなので、明日また来ることにして、ただ看護師さん皆に頭下げて足早に病院を出た。もう時刻は6時であった。

 とにもかくにも今はただほっとしている。この手術が無事に終わったとしても果たしてまた元のように食事ができるようになるのかだって今はまだ半信半疑の気持ちでいる。が、ここまで大変ではあったが、手術ができたこと、そしてとりあえず事態を先へと進められたことは本当に良かった。
 そしてそれもこれもこのブログの読者や友人たちのおかげだと声を大にして言いたい。皆さんが共に祈ってくれたから手術はできたし無事に終えられたのだと思う。

 祈りや心配する思い、人の思いやる気持ちは見えやしない。が、そうしてその方にとっては他人でしかない我が母のことを思ってくれる人たちがいるということが、力になり支えになったと今気がつく。
 小心で勇気がなく、常に不安や怖れに苛まれ弱気になりがちの我が何とか耐えて持ちこたえられているのは、我が神と我が良き隣人たちがいてのことだ。
 逆境ということではないが、人は辛く困難に出会うとき、その苦しみに一人で耐えねばならないとしても、側に誰かが、いや、共にいなくとも、誰か他者がその困難な時にある者のことを知って思いやり、気遣い、そして一瞬でも祈ってくれているのだと思い、そう知ることがどれほど救いになるか今回深く知った。

 気休めに過ぎないという声もあろう。だが、人を救い、励まし、力になるのは、じっさいの行動以前に、たとえ離れていたとしても他者を、つまり汝の隣人を思いやる気持ちなのである。そしてそのことこそが祈りであり、祈りとは「愛」そのものなのだと今ははっきりとわかる。
 そう、お金や行動以前に(残念だが人は人に対してじっさいのところ何の力にもなれやしない。何故なら別固体の別人格という他人だからだ)、誰か他者が、苦境にある我のことを案じて思ってくれていること、誰か共に祈ってくれている人がいると思うことこそが、どんなに苦しく大変でもたった一人ではないんだという認識に繋がり、救いに、そして力になるのである。それは損得でも利害関係でも見返りでもない。
 
 それこそが「愛」なのだと。愛の本質はそこにあるのだ。皆さんにも神のご加護を。愛こそすべてだと。そう、愛しあってるかーい!?

とりあえずまた少し生きながらえたかと2016年04月08日 23時54分00秒

★人の死に行く道を思う
 
 今日は午後、母の入院している立川の総合病院に行ってきた。昼頃に集中治療室からまた元の病室に移されたとのことで、昨晩は麻酔が切れたり、両隣のベッドの人が夜中に騒いだりしたとかで良く眠れず、母は午睡から目覚めたところだった。
 医師の話だと、まあ経過は良好で、腸の手術をしたばかりだというのに、今晩からは重湯も出る予定で、口から少しづつ摂れるよう慣らしていくらしい。この感じなら存外早く退院できるかもしれない。我の希望的観測であるけれど。

 昨日の夕方、手術を終えたときの母は意識朦朧で、痛みもあったのか閉じた瞼の端にうっすら涙もにじんでいて、酸素マスクをあてられたその姿は子として見てもあまりに痛々しく弱弱しくて帰り道思い返しては胸が痛んだ。
 86歳の痩せ衰えた老人に、こうした開腹手術をせねばならないことはそもそも良いことであったのかとあれこれ考えてしまった。しかし、そうもしなければ、口から食物を摂れない状態はさらに悪化し痛みも増し痩せ衰えてしまうのは間違いなく、癌の進行以前に衰弱して死期を待つだけとなっただろう。
 ならば体に負担はかかることでも少しでも何か手が打てること、できることはすべきなわけで、やはりそれは良かったのだと今は思うしかない。
 まあ、それは今日、ほぼ元気が戻ってきた母と会い話したからで、ようやくだが、手術は無事終わった実感を持つことができた。登山ならば辛く急な上り坂だった峠道を越えて、後は緩やかな下り道に入って来たという感じであろうか。もう山坂はないと思いたいが先のことは案じても仕方ない。
 ただ、母はとりあえずこれでまた少し生き永らえるようになったかと思える。そしてそのことは我もまた同様に。

 それにしても、誰もが人は死に行く身なのだが、子の立場として我が親は誰よりも長生きしてほしいと当然望むものの、死ぬまでにこうした山坂をあとどれだけ越えていくのであろうか。
 死ぬのも楽じゃないと、我が祖母だったか誰かがよく言っていたことを思い出す。そう、死ぬまでも一苦労する。死ねば楽になるかはともかくも、死ぬまでが波乱万丈とまでは言わないまでも一波乱どころかいろいろ様々な展開は常にあるものだと今さらながら考えてしまう。

 むろんのこと、風呂の中で急死するとか、脳梗塞、脳卒中で倒れてそれきり意識が戻らず数日後死ぬというようなパターンもよくある。そうした長患いをしない、周囲に介護の手間をかけないのが良い死に方なのかはわからない。ただ、それではあまりに当人も家族も突然過ぎて、特に周りはショックを受けるばかりでなく後々もあれこれ後のことが困るのではないか。
 ならば、緩やかに時間かけて少しづつ衰えて死に向かうというようなスタイルが理想かとも考えるが、何にしろそこに何らかの身体的苦痛や死ぬ辛さが伴うのは仕方ないことなのであろうか。

 どんな死に方が良いかとか考えたって意味がない。とにもかくにも人は最後の日まで一日一日とことん精いっぱい頑張って貪欲に生きて行かねばならないはずだ。そして家族、周りはそれを支え応援していくだけだ。

 人は誰もが必ず死ぬ。メメント・モリというラテン語で、「死を想え」という言葉はある。死は当然こうなってくると嫌でも意識してしまう。が、こうも思う。いつ、どう死ぬかではなく、今さらだが残りの人生をどう生きるかこそが今問われているのではないのか。

 すべては神の愛、神の御心の現れだとするならば、日々願い祈りはしたとしても人は何一つ自らでは選べないし決められない。ならばこそまず一日一日を一期一会の気持ちで、明日は来ないものとしてまで思って、今日を、今という日を丁寧に愛おしく生きて行けば良いだけの話ではないのか。
 それは母のことではなく、今の自分の気持ち、自分のことだ。

 このところずっと母の病のことを「報告」してきた。まだ先のことはどうなるのか何ともわからないが、とりあえずいったんこれで終わらせることにしようと思う。むろんまた何か新たな事態や展開があればお知らせするが、何もなければ無事でいるとご判断頂いてかまいません。
 いろいろご心配おかけしてごめんなさい。多くの方から励ましと祈りのご声援頂きました。申し訳なくも有難うございました。私は自分が思っていたよりも幸福者だったと気づきました。本当に有難いことです。

 死ぬために生きる、死ぬまで生きるのではなく、まず生きて生きて、ともかく何がなんでも生き抜いて、その先に電池が切れるように、終わりとしてやってくるのが死だと、今は思いたいし、そう思っている。
 とことん生きて、結果として死ぬ。それで良いのだ、と。ならばそこに悔いはないはずだと思うのだが・・・

我が父のことも少し記す2016年04月10日 22時14分04秒

★最後の帝国軍人とはこうしたものか

 今日は日曜で、入院している母の病院へは行かず午後はひたすら眠った。おかげで少し疲れはとれたし頭もスッキリしてきた。

 昨日の夕方、見舞いに行ったときは、酸素はとれたものの母はまだチューブだらけで、一応口から摂れるよう「食事」も出るようにはなったものの、まだ固形物は重湯さえ出されずに、三度ともドリンク剤にやたら栄養素を詰め込んだ小さな栄養補助食品1パックづつだけだとのことだった。それは200カロリーはあって、ヨーグルト味とかバナナ味など数種類風味は異なるとのことだが、ともかくしつこくてとても全部飲みきれないとこぼしていた。まあ、静脈から栄養は点滴で流し入れられているからそれはあくまでも「補助」なのである。

 食いしん坊の母としては、同室の他の患者たちと同じように、早く一般食が出ることだけが目下の楽しみであるが、腸管のバイパス手術を木曜にしてからまだ間もないのだからそれもまた仕方あるまい。なだめて早々に帰って来たが、毎日来るのは大変だし日曜は医者も少なく何の検査もないだろうから来なくていいと言われ、甘えて今日は一日家で、我もひたすら眠って鋭気を養った。
 じっさい、先週はあれこれあって気が休まらず心身疲弊した。手術を無事終え、その後も容態は安定しているようなので、ようやくほっと安堵した。気が緩んだというわけではないが、一気に疲れが出た。昨日は右のこめかみが夜になってズキズキ痛み出し、起きていられず薬飲んで早めに寝てしまった。
 後はもうあれこれ気を病んでも仕方ないわけで、傷が癒えてあちこちのチューブが外され、口から再び自力で食べられるようになる目安がつけば退院となるだろう。来週末は難しいかもしれないが、今月20日頃までには放免されるのではと期待している。

 さて、母のことではなく、我がこと、これからのことを書かねばならない。あれこれ「次のこと」「なすべきこと」はあって、早く準備も含めて取り掛からねばならないのだが、今はともかく身動きが取れない。母が家に戻らない限り我が用事で家を空けることができやしない。その理由は何と言っても認知症の父、ボケ老人がいるからだ。

 近く還暦を迎える年となって、老親たち、特に母に依存しているのは実に情けなく恥ずかしい事態だが、あえて記す。依存と言っても飯を作ってもらったり洗濯してもらうわけではない。そうした家の用事、家事はこの十年来ほとんど我が担当である。そしてそうした家事は好きではないが、特に苦だとは思わない。
 母が不在で困るのは、父の世話というか、面倒を見ること、相手してやることで、今は母が入院していないので、父と息子の二人だけの生活はほぼ限界となってきている。先週はそれもあってキレて疲れた。母は入院して先が見えずこちらは苦慮しているのに、そんな状況も考えず「通帳、ツーチョー」と騒ぎまくるのでさすがに頭に来てキレた。

 アクティブ系認知症の父はともかく目が離せない。ほったらかしにしておくと何をしでかすかわからない。先日の銀行通帳の件でも、また電話かけようとしたり、禁じたら一人で駅前のその支店まで行こうとしているのをけんめいに静止している。たぶん行ったら帰ってこれなくなって行方不明として放送されるしかないだろう。
 何か一つのことに囚われるとそのことで頭がいっぱいになり、同じことを何度でも繰り返し言い出し煩くしつこくこちらはいつもキレてしまう。そして父の挑発に感応してしまう我の堪えのなさと人間性の低さ、醜さに必ず自己嫌悪となる。

 そんな親と同居したくないというのが本心だが、まだ母がいればそうした父の狂気は鎮まることが多い。今は、近く退院して戻ってくるという期待と希望がこの家に見えたから、父も我も破滅に至らずに何とか持ちこたえられている。
 しかし、もし母が父より先に逝くこととなれば、我は一人でこの父と二人では絶対暮らせない。少しは我慢しててもやがて間違いなくキレて、実の父だが、この男を殺して家に火を放ち我も自殺すると確信している。
 そうならないためには、家の全財産を費やしてもどこかの特養ホームに父を預けるしかない。今までは母がいてくれて、母がクッションとなって父と息子の合いは相食む諍いはマックスにならないで何とか持ちこたえていた。
 もちろん、母だってそんな男と始終向き合っているのは苦労だし疲れてしまうことは同様のはずだ。だから母の癌もストレスで大きくなったのだと思うしそれもこれも言ってもしかたないことだ。

 ただ、この大正の末に生まれた、戦争にも行った戦中派世代の男のメンタリティには非常に興味深いものがある。というのは、この世代の父を持つ者、持っていた者に訊くと、非常にその性格が彼らは似通っているのである。
 まず非常に利己主義、自己中心主義で、他者をまったく評価も相手もしない。唯我独尊、常に自分だけが正しく他は皆卑下の対象でしかない。そして酷薄で、ニヒリスト。何事も執着するが、反面それが無くなった途端、一転して全く関心を失う。世間や社会への関心は皆無と言っていいほど無関心。興味と関心は自らのこと、財産と身の回りのものだけ。他はすべてどうでもいいのである。自分の体や健康だって無関心なのだ。
 一言でいえば身勝手なニヒリスト、執着はするが愛情は薄い人だ。

 母方の兄弟姉妹が今も常に連絡とって互いに気遣っているのに対し、父方のそれはほとんど没交渉だから、そこにその彼の家系的性質もあるのかもしれないが、それにしても我が父は特異な性格である。何しろ友人というのは若い時から一人もいない。親しい他人は妻となった女、つまり我が母だけで、後は職場関係などでの知人はいても友人、つまり誘い合わせてどこかへ行ったり会って吞むような仲間は彼の性格もあってだろう一人もいないのである。そしてそのことを寂しいとか苦にもしないのだから我とは全く違っている。

 そうした異常性格とも呼べる特異な性格には、戦争とその時代が多かれ少なかれかなり関係していると思うが、どうであろうか。ただ、彼らにとって戦争がどう影響して結果どうなったかは心理学者でさえも解明は出来ないと思う。何故なら今のいまさらであり、しかも認知症も進んでしまっているのだから。
 この世代の男たちには知る限り、皆同様の匂いがし、そこに「狂気」が見え隠れしている。父は若い時からかなりおかしかった。ただ歳とって呆けて来てさらにその度が進んだのである。彼ら自身はその性格で悩むことはまったくない。そして苦労するのは、まずそうした男たちと生活を共にした女たちなのだと思う。

よもやの老父母W入院2016年04月11日 22時44分09秒

★あまりの事態にもはや笑うしかない。

 もう親たちのことは書かないと記したのに、昨日付のブログに我が父のことを書いたのがいけなかったのか。あろうことかその父も本日、母の入っている立川の病院に緊急入院してしまった。今帰って来て、帰り道に買ってきたホカ弁食べ終えてこれを書いている。まいったまいったとしか言うしかない。まったく人生はどうなるかわからない。

 内田百閒だったか色川武大だったか、昔読んだ本に書いていたが、人はあまりに大変な事態、それも予期しないような出来事に出くわすと嘆き悲しむのではなく思わず笑ってしまうとあったと記憶するが、まさにその通りだと我が身で知った。
 まさか我が両親、夫婦そろって入院するとはまったく考えもしないことで、想定外なんてもんじゃない。これで我も倒れれば、皆で入れる我家のため専用に個室病室を頼めるかもしれない。じっさいたぶん父のことだから、婆さんと夫婦一緒の部屋にしてくれとしつこく看護婦さんに頼んでうんざりさせていることであろう。

 父はこの数日ずっとゴホンゴホンと妙な咳をしていた。いちおう朝起きた時や食事時など体温計で熱を測ってみると、熱は全然なく、気にはなっていたが、母のこともあったので、ほったらかしにしていた。
 が、昨晩は、夜中も何度も咳が彼の寝ている部屋から2階まで聞こえて何か気になってこちらまで深く眠れなかった。今日、月曜は、父はデイサービスに午後から半日行く日である。
 朝が来て、自らは起きてこない人なので、声かけて起こしたところ、風邪ひいたから今日は休む、電話してくれと、布団の中から小学生のような返事が返って来た。
 そのままベッドにいてもしょうがないと無理やり起こして、熱を測ると、37度はないが、それに近く、いつもは35度台しかない冷血動物の父としてはやや高い。
 で、まず葛根湯を飲ませてパンで軽く朝食をとらせて、風邪薬も飲ませて昼まで寝かせることにした。それで体調戻れば午後からのデイサービスには行かせるつもりでいた。さすれば、父を送り出してから我は母の入院している立川の病院にゆっくり行けると。

 が、昨晩も良く眠れないところに、風邪薬を飲ませれば普通は深く眠り込むはずなのに、父の咳は収まらずまだゴホンゴホンとベッドから咳しているのが聞こえたので、これはデイサービスは無理だと電話かけて休むことを伝えた。
 それから我も一時間ばかし昼まで横になって、午後1時近く父を起こした。で、体温を確認するとやはりやや高いものの平熱の範囲であったが、父はどうにもスッキリしないと不調を訴えている。
 風邪だと当人も言い、咳も続いているが熱はないのでどうしたものかと迷ったが、近くの病院で診察受ける時間はなく、母の見舞いにも行く時間となってしまったので、父もその立川の病院で診てもらおうと考えて、家で寝ていれば大丈夫だと言い張る父を着替えさせ保険証とか病院通いのセット持たせて車に乗せて一緒に立川へ連れて行った。
 実は家を出る前に、なかなかベッドのほうで何やらやって来ないと思ったら、目を離した隙に失禁し、一人であたふた着替えていたのた。

 それでも午後3時半過ぎには病院に着いた。受付の手続きをして診察の順番が来るまでの間、道路を挟んだ向かいの入院及び緊急外来の棟にいる母のところへ行った。ようやく薄い粥状のご飯も出るようになったものの、下痢が続いて少し食べるとすぐ便意を催して大変だとこぼしていたが、まあ先日に比べればだいぶ意識もしっかりしてきて元気に思えた。父のことを話して、母の話もそこそこに切り上げてまた父のいる棟に慌てて戻った。

 やや待たされたものの、まず内科医の診察を受けて、念のためにレントゲンを撮って、それが上がってから医師が見て再度受診ということになった。
 立川で父は血圧を測ったり、体温を検診したところ、家ではなかったのに、37度半ばまで上がってきて、当人も寒気がすると言いだし、咳も続いて困ったなあと思っていたら、突然立ち上がったかと思うと気持ちが悪いらしく、慌ててトイレに連れて行こうとしたが、その待合室でドバっと吐いてしまった。看護師たちを呼んだが既に遅く、衣類や靴下まで床一面に反吐を撒き散らしてしまった。
 それで、処置室の奥のベッドに横にしたが、それからも吐き気は断続的にやってきて、いちおうポリ袋は渡されていたが、昼も大して食べていないのに胃液を何度も繰り返し吐いてこちらもまいった。
 最初は、父を責めて、気持ち悪いなら早めに何で言わないのかと叱ってしまった。が、苦しいらしく反応もほとんどなく、そうこうしているうちに、看護師が来て点滴で吐き気止めを入れると、右腕からまず血液も採って、点滴で水分補給しながらそのベッドに二時間寝かされることになった。幸い薬が効いて来たのか、父の吐き気は収まり、呼吸も静かになった。

 ようやくこれで落ち着いたかと安心したとたん、目が覚めた父はトイレ行きたいと騒ぎ出し、看護師に伝えたところ、尿瓶を持ってくるからとひと騒動に。しかし、当人は自分でやると言い張り、ベッドの上で体を横にしてやっていたが、尿瓶はカラのままで返されおしっこは出ないと言う。
 看護師が行った後、父の下着を直そうとよく見たら、ベッドはびっしょりと黒くなっている。出ないのも当たり前で、既にその前に寝小便をたっぷりベッドの上でした後だったのだ。また看護師を呼んで着替えさせてもらい、父は大人用オムツに履き替えさせられた。ズボンも濡れたので病院の貸パジャマに替えてもらう。
 そんな合間に母の病室に行ったりしていたら、先に診察受けた医師がレントゲンを確認したとやって来て、肺炎の疑いもあると告げ、今いるこの棟は外来専門なので、急患扱いがある向いの別棟に移動してくれと頼まれ車椅子に乗せられ、母も入っている向いの病棟へと移動した。

 そこで、今日の当直医にまた診察を受け、血液検査の結果も出て、やはり肺炎の疑い濃厚だから、入院するかCT撮ってみてどうするか決めることになった。そして点滴室で座って点滴を入れていたら父は突然またトイレに行きたいと立ち上がったらしく、チューブを引っ張ったのか見た瞬間、腕に刺した点滴のチューブが外れて、辺り一面血がポタポタ垂れている。椅子からパジャマまで血まみれである。
 むろん看護師たちが駆けつけてすぐ処置したから大事には至らなかったが、待合室での嘔吐、処置室での失禁、さらには点滴のチューブを外すという重なるトラブルに、我はもう何だか思わずニコニコして来てしまった。
 本当は情けないやら呆れるやらで悲しくなるはずかと思う。しかし、こんなに予期しない事態が続けて起こると、個々は負の出来事のはずが、何か楽しい面白いイベントみたいに思えて来た。さあ、次に何が来るか、何が来てももう驚かないぞという気持ちになった。

 で、医師からはけっきょく、肺炎に加え一部肺気腫もあると診断うけ、約二週間ぐらい入院したほうが安心だと言われた。当初は抗生剤出すから家で様子見ますかと言われていたが、もうこのまま病院に入れておいたほうが安心だと思え、迷うことなく、入院お願いしますと大声で答えていた。

 幸いベッドも空いていたからだが、少し支度までいろいろ手続きで待たされ、用意された病室に案内されたのは、夜の9時であった。
 もう今度は点滴の管を絶対に抜かないようにと我からも看護婦さんたちからも何度も言い渡されたが、果たして彼は理解したのかどうにも心許ない反応であった。
 帰る間際に、もう一度同じ棟の三階の母の病室に行き、今日の経緯と父は5階に入院したことを伝えた。そしたらば、母も自分の点滴を下げながら父のところに行くと言い、また二人で父の病室に行った。
 母が来たよ、と言うと、父は開口一番、「久しぶりにやっと会えた!お前元気か!」 という反応であった。まあ、母と会えて喜んでホッとしたことは間違いないわけで、階や科は違えど同じ病院で良かったと我もつくづく思った。これで今晩は安心してやっと深く眠れるに違いない。

 帰り道いろいろ考えた。やはり父を今日の午後、立川の母の入っている病院に連れて行ったのは良かった。もし、これで近くの病院でレントゲン検査程度で、風邪ではないかとざっと診断され咳止め薬だけ出されて帰ってきてしまえば、肺炎はもっと悪化していたかもしれないし、父が熱で?突然吐いたことにより、症状は深刻だと血液検査やCTまでとることになったわけで、さんざんトラブルはしでかしたが、結果としていち早く入院という手が打てたわけで、適切かつ幸甚ではなかったのか。
 もし、今晩でも家で、今日のような異変が急に起きてしまえば、救急車を呼ぶしかなく、そうなれば近くの緊急病院に運ばれてしまい、我はその父の病院と母の立川と二つを交互に毎日行く羽目となるところであった。

 むろん先のことはどうなるか誰もわかりはしない。こうしてブログに記せばきっと皆さん心痛め我のことをもご心配されるであろう。マス坊こそ大丈夫なのかと。しかし、先ほども書いたが、あまりの予期せぬ事態に今はもうにやにや笑うしかない。じっさい今は何一つ不安な気持ちはない。何か遠足など大きなイベントの前の日のような、不安よりもワクワクするような高揚感に今はある。
 むろん今も無事を、二人の一日でも早い退院と家への復帰を心から祈っている。が、全ては神の計らい、御心のままに、という気持ちでいる。

 不思議なことに、一昨日からベッドサイドで、偶然出て来た本、森有正の「アブラハムの生涯」を読みだしていたところだ。その本はもう何年も前に読み終えた。が、偶然ふいっとまたどこからか出て来て、手に取って寝る前や、早く目覚めてまだ起きだすには時間のある早朝など少しづつ読み進めている。
 そして以前読んだ時にはまったくわからなかったこと、気づかずに読み落としていたことが、今ははっきりとそういうことなのかとひしひしとわかってきている。
 著者は信仰の祖、旧約聖書の義人アブラハムという個人を通して、信仰を持たない万人にとっても同様に、約束の地を求めることとそうしたものを希求するときが誰にも必ず来ることを説いている。

 その本と相俟って、今日の予期せぬ出来事は我にとって天啓のように思えた。考えてみれば老いて病む老人たちなのだ。夫婦二人して同時に入院することだって別に特異な話ではなかったのだ。
 そして、そうした父や母のしでかす失態やトラブルさえも子としてではなく、我は人として赦し受け入れて行かねばならなかったのだ。そしてそのことを神はまた我に「経験」として示してくれたのだと。有難いことではないか。ならば何を怖れる必要があろうか。
 すべては神の御心のままに。すべてを受け入れていく。

ご心配おかけして2016年04月12日 21時01分43秒

★老親二人とも来週中には退院できるかと

 ご心配おかけして心から申し訳なく思う。今日も病院に行ってきた。簡単な報告をいたしたい。

 父のほうの担当医、呼吸器、循環器系の女医先生と今日初めて会って、病状と今後の展開について説明受けた。
 案じていた肺炎は、誤嚥性肺炎で、本格的な重度のそれではなく熱も抗生剤が効いたのか一晩で下がったので、今晩から少しづつ食事も再開して様子を見ていくと言う。
 誤嚥から肺炎に至る、老人特有のこの病気は、要するに飲み込む力が衰えて、食べた物が食道から胃に落ちていくべきところ、呼吸器、肺の方に入ってしまい、当人も気づかぬうちに肺に炎症を起こすというものだ。

 実は5年ぐらい前にも父はそれで二回ほど入院していた。医者からはできるだけ柔らかい、食べやすく飲み込みやすいよう刻むか流動食を出すように言われていた。
 が、何故か近年は体調も良く、こちらも特に彼に向けて特別な食事は用意していなかったのだ。そしてそれにも増してこのところは癌を病む母の体調の方に気を取られて、父の食事にまで気と目が行き届かなかったのだ。迂闊であった。
 結果として、いつしか誤嚥がまた始まっていて、何か食事時などヘンなむせるような咳をし出して気にはしていた。ただ、特に熱はなかったので、単なる軽い風邪かなと様子見して、すっかり放擲してしまっていたのだ。

 だから、口から食べて肺に入っていないことが確認されれば退院できるとのことで、今週はともかくも来週明けにはその検査して、問題なければ退院できるだろうと説明を受けた。昨日の別の医師の話では、肺気腫の疑いも出されていたので存外軽い診断だったのでほっと安堵した。※肺気腫は不治の病で、父の母、我の父方の祖母はそれで早逝している。

 一方、母の方も、しだいに食事は平常のものへと移行して来ているとのことで、まだ下痢は続いているが、自ら上階の父=彼女の夫がいる病室へと今朝も出向いて様子見て来たとのことで、その担当医との面談の時も我と同席した。嫌でも父の病室に日に何度か通うことが、歩くリハビリにもなることだろう。

 その父は、今日は朝起きた時から、「ワシは何でここにいるのか!?」と、ここはどこ!?状態で、看護師たちにしつこく問いただし、熱もないのだから家に帰る、帰ると騒いでいたらしい。
 じっさいのところ、まだ鼻から酸素とっているし、点滴も下がってはいるが、おそらく口から食事が摂れるようになっていけば、それもなくなり、病院内を徘徊するようになるかと思われる。まあ、そうなれば看護師たちは手を焼くので、意外に早く退院させられる可能性もある。

 というわけで、また転んだり何か新たなトラブルや問題事態が起きない限り、二人ともおそらく順調に回復して、家に戻れるかと思えて来た。
 ただ、母はそしたら即癌の放射線治療が始まるし、父も母も今後の食事は柔らかく消化の良い、飲み込みやすいものにしていかねばならないわけで、我家は新たなライフスタイルに変えていかねばならない。
 まあ、生きていくためには環境も含めて工夫し状況に応じて適切に対処していかねばならないわけで、面倒でもそれもまた致し方ないことだ。その覚悟はできている。

 それにしても父と母、今回も実に運が良いというべきか僥倖であり有難いことだと今つくづく思う。それもこれも皆さんの愛と祈りのおかげである。
 さあ、親たちが不在の間に、溜まった自分のことが少しでも片付くよう専念していこう。まずはギターの弦を張り替えて。
 が、今日は疲労困憊、まるで登山を終えた後のように全身が倦怠感に包まれてしんどくて起きていられない。早く寝ることにしよう。このままだと我も倒れて冗談でなく父たちの病院に一緒に入院してしまう。