おかげさまで手術は無事終了!2016年04月07日 22時30分27秒

★共に祈ってくれた方々にただ深く感謝を!

 母の癌が招いた腸管癒着による腸閉塞を改善させるため、癒着した腸の箇所を迂回させるべく、腸管を新たに中途で繋ぐバイパス手術が今日4月7日の午後行われた。
 予定では、午後1時頃からと言われて、昼過ぎには病室に行き母と手術室に呼ばれるのを待っていたが、前の手術が延びたとのことで、結局2時半にやっとその階に上がって、廊下を挟んだ待合室でただひたすら手術が終わるのを待っていた。

 実は最も心配していたのは、そのバイパスを作る手術ができるかどうかで、医師から事前に念入りに了解とられたのは、開腹してみてもし癒着している箇所が一か所ではなく、他にもいくつもあって、その手術をしたとしてもまたすぐ別のどこかが癒着して腸が機能しなくなるのなら、手術は中止にしてすぐに閉めてしまうこともあり得るので、ということだった。
 いわば、開腹してみてもう手遅れならばそんな手術しても意味がないので、バイパスをつくる手術自体、果たしてできるのかどうか、出来ない可能性もあるからと因果を含められていたのだ。
 むろんのことCTとかの画像判断でそうではないだろうと診断されていたから、この手術の話が決まったわけで、たぶん問題ないと思いもしたが、医師からは、開けてみないとわからないからと言われるとやはり不安が頭をもたげてくる。

 学生時代の友人の父親が、肝臓だったか膵臓のだったかその癌で早く亡くなられたのだが、その人も手術する予定で開腹したところ、もはや手遅れで結局手術もできなくて何の処置もできなかった話を思い出す。
 だからまずは、果たして手術自体が始められたのか、ひたすら腕時計を見ながら時間が過ぎるのを待っていた。看護師に確認したところ、麻酔が効くのに30分ほどで、医師からは開けてみて手術不可能とならばすぐに中止すると言われていたからだ。
 だから母が手術室に入って一時間を過ぎてからは、しだいに気持ちも落ち着いて来た。中止の報がないならば手術は始まり進んでいるわけで、今の医学のレベルならまずミスは起こらず終わるだろうと考えた。しかし、前回の手術のときも思ったが、針の筵というほどではないが、時間の経つのがこんなに重く感じたことは他に比べようがない。

 そして当初おそらくかかる時間は2時間から3時間ぐらいと言われたように、夕方5時に、執刀した女医が来て、今手術は終わって、母は集中治療室、ICUに入った、無事終わったと告げられた。ほっと肩の力が一気に抜けた。
 出血もなく、輸血もしないで済んだ。これでたぶんまた元のように食事ができるようになると。ただ、これからも癌が他の臓器に浸潤したり影響を与えて痛みを発することがあるかもしれないからそのときはモルヒネなどで痛みを和らげるような処置をとっていくしかないとも。

 それから少しまた待たされたが、ICUに招かれ、ベッドに寝て酸素マスクを付けている母と対面した。
 もう麻酔から覚めているとのことだったが、まだ反応はほとんどなく、もう大丈夫、無事手術は終わった、成功したよと声かけたが、目もほとんど開けずに弱く頷くだけだった。その弱弱しさに胸が塞がれた。
 会話にもならないので、そそくさとその病棟を後にしたが、今晩はそこで常駐している看護師たちに24時間面倒をみてもらって、明日の午後にまた元の病室に戻されるとのことなので、明日また来ることにして、ただ看護師さん皆に頭下げて足早に病院を出た。もう時刻は6時であった。

 とにもかくにも今はただほっとしている。この手術が無事に終わったとしても果たしてまた元のように食事ができるようになるのかだって今はまだ半信半疑の気持ちでいる。が、ここまで大変ではあったが、手術ができたこと、そしてとりあえず事態を先へと進められたことは本当に良かった。
 そしてそれもこれもこのブログの読者や友人たちのおかげだと声を大にして言いたい。皆さんが共に祈ってくれたから手術はできたし無事に終えられたのだと思う。

 祈りや心配する思い、人の思いやる気持ちは見えやしない。が、そうしてその方にとっては他人でしかない我が母のことを思ってくれる人たちがいるということが、力になり支えになったと今気がつく。
 小心で勇気がなく、常に不安や怖れに苛まれ弱気になりがちの我が何とか耐えて持ちこたえられているのは、我が神と我が良き隣人たちがいてのことだ。
 逆境ということではないが、人は辛く困難に出会うとき、その苦しみに一人で耐えねばならないとしても、側に誰かが、いや、共にいなくとも、誰か他者がその困難な時にある者のことを知って思いやり、気遣い、そして一瞬でも祈ってくれているのだと思い、そう知ることがどれほど救いになるか今回深く知った。

 気休めに過ぎないという声もあろう。だが、人を救い、励まし、力になるのは、じっさいの行動以前に、たとえ離れていたとしても他者を、つまり汝の隣人を思いやる気持ちなのである。そしてそのことこそが祈りであり、祈りとは「愛」そのものなのだと今ははっきりとわかる。
 そう、お金や行動以前に(残念だが人は人に対してじっさいのところ何の力にもなれやしない。何故なら別固体の別人格という他人だからだ)、誰か他者が、苦境にある我のことを案じて思ってくれていること、誰か共に祈ってくれている人がいると思うことこそが、どんなに苦しく大変でもたった一人ではないんだという認識に繋がり、救いに、そして力になるのである。それは損得でも利害関係でも見返りでもない。
 
 それこそが「愛」なのだと。愛の本質はそこにあるのだ。皆さんにも神のご加護を。愛こそすべてだと。そう、愛しあってるかーい!?

コメント

_ ふく助 ― 2016/04/08 18時04分27秒

手術が無事に済んで良かったですね。
お大事に。

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