久しぶりにうたと音楽に満たされた日2016年05月29日 21時09分19秒

★うたよ、我が内に再び戻れ

 今日は、午後から犬連れて隣町八王子の浅川河原で例年この季節開催されている多彩なイベント「みんなちがってみんないい」に行ってきた。
 そして久々に生のライブを堪能した。行けて良かった。観れた限り全て満足できた良い人たちばかり登場した。
 天気は下り坂との報だったが、晴れて、かなり気温も上がったが、雲もあり暑いことは暑かったが、炎天下で熱射病になるほどではなく、素敵な音楽とノンアルコールビールを片手に川風に吹かれているのは至福の時であった。
 生の音楽にじっくり耳を傾けるのは、三月末のかけこみ亭での「高坂一潮追悼企画」以来だから我にとって実に、二か月ぶりのライブ観覧ということになる。本当に楽しく満足できた。

 もっとこの素晴らしいイベント企画、多くの友人知人に宣伝して同行参加を働きかけなくてはならなかったのだが、この自分自身そのものが、果たして今日そこに行けるものか何ともはっきりせず、誰も誘えないでいた。
 当ブログであれこれ記したのでご存知の方もいるだろうが、今、我が父は、大腿骨付け根の骨折で入院中。母も先日癌性腸閉塞から腸の手術は終えて退院したのだが、未だ体調不調というか、体力が落ちて衰弱激しく、容体が全然安定しない。食事も少量しか摂れないだけでなく、もたれたり消化不良で下手すると吐いたり下したり騒動を起こす。よっていつまた急患扱いで病院に連れて行くことになるか定かでない。
 そんなで母の体調をみつつ待って、今日の昼まで様子見て、昼食をとらせてから慌てて車で八王子に向かった次第だった。

 実は、先週の水曜日の夜、父の見舞いの後に、そのついで谷保まで車で足伸ばして久々にかけこみ亭に顔出した。
 その日は、誰でも参加の「ゆる~くライブ」の日だったので、我もつい二曲ほど開始早々唄わせてもらった。
 が、この二か月、ほとんどギターも手にとらず唄うこともないだけでなく、音楽は自らは全く聴いていなかったこともあって、トチるとか以前に、全く唄うことができなかった。恥かいたとか以前に愕然とした。
 自分の中に、まったく音楽がなくなっていること、うたが消滅してしまったことに気づかされた。

 うたに思いや願いを託すとか、音楽で自己表現するとか俗にいう。が、自分の場合は、そんな気持ちは全くなく、それが目的だとしたら音楽とは、全てを動かすための手段でしかない。
 手段というと語弊があるが、パソコンで言うところのOSのようなもので、まずそれが起動しないことには何も動かず始まらない。
 それは外部にあるものではなく、我が内に在るべきもので、それがいつの間にか枯渇してしまっていることにショックを受けた。
 枯れた井戸を復活させる方法として、これは大工から聞いたのだが、上から呼び水をひたすら流し込むのだという。さすれば、地下水が湿った地層に戻ってきて、枯れた井戸でも再生し水を汲むことができる場合もあるのだそうだ。

 街にはむろんのこといろんな音楽が溢れている。我が日常が介護などに追われて多忙であろうと日々あちこちで買い物の折など音楽は我が耳に飛び込んでくる。が、それは流行りのJ・ポップであり、AKBの唄うドラマの主題歌や西野カナのヒットチューンだったり、中にはときどき良い曲もなくはないけれど、残念ながら我が心の枯れた井戸の呼び水にはならないでいた。
 逆に入った店で、リズム重視の激しい日本語ラップの類や、けったくそわるい応援ソング、甘っちょろいラブソングが流れていると少しそこいただけで体は拒絶反応で頭痛がし堪え切れず買い物も落ち着いてできやしない。
 我が井戸が求める「呼び水」としての音楽はそんなものではなかったのである。

 が、今日久々に、かつての春一番のように、野外の芝生の上でのんびりとアコギを中心とした我の好きな音楽の数々、――つまるところそれは中川五郎的フォークソングということに尽きるのだが、――を堪能し、それが呼び水となって心の奥底の、乾ききっていた水脈に水が浸み透り流れ始めてきたと感じた。
 今日はほんとうに行って良かった。

 水はまだ井戸からは出て来はしていない。が、これでやがて再び我が井戸からも音楽という我にとって最も大切な水を汲み上げることが゛できるかと思える。
 もともと水量が豊富な井戸ではないのだ。敬愛する中川五郎やシバという方々からたっぷりと呼び水を受けた。そしてこれからポンプを押し漕いでたとえチョロチョロとでも我が井戸から「うた」という冷たい、鮮烈な水が新たに出れば幸いだ。
 その確信も得た。

 今回、お誘いとお知らせ頂いたスタッフとして関われているMM氏に心から感謝記したい。