祖父母の地を訪ねて~渡良瀬遊水地と旧谷中村・前2016年05月16日 22時13分08秒

★今いる我はどこから来たのか

 ひと頃、そして今も?「自分探し」というのがあちこちメディアなどで取り上げられ流行ったことがある。
 いわく、「本当の自分」とは何なのか、知りたいと、いろんな自己啓発の本を読んだりセミナーに通ったり、カウンセラーを訪ねたりして真の「自分」を知ろうと考えたりした人が多いらしい。
 我に言わせれば、自分に本当も嘘もなく、今いる自分こそが良くも悪くもそのまんま自分でしかないわけで、探すも何もそんなのは青い鳥がどこかにいると信じるようなバカなことだと思わざる得ない。

 そんなことよりも、我=自分はどうしてこうなんだろう、どうしていつもバカなことばかりしでかすのか、こんな自分はいったいどこから来たのかということこそが関心ある。いったいこんな男はどうして生まれたのかだ。
 趣味嗜好、そして思考までも遺伝によってもたらされるとは思わないが、こんな人間がいるのにはそこに、何かしらの前提条件があったことは間違いない。
 つまり原因と結果の法則で言うところの、「今」こうしている「我」がいるのには、その「前」の人たちが大きく関係しているはずなのである。
 むろん、それは当然、生み育ててくれた両親たちによるところが一番大きいわけだが、そのまた前の祖父母たちの影響もかなりあるように思える。それは見えない地下水脈のように代々受け継がれてきた資質なのではないのか。

 じっさい、メンデルの法則によらずとも我に関しては、遺伝学的にも祖父の遺伝子を受け継いだ障害があるし、父方の祖父母はわりと早く死んだこともあり、共に過ごした時間は母方の方が長く、特に祖母は長命だったので、人間的にもずいぶん影響を受けた。
 今回のはなしは、その母の母である、我にとって母方の祖母が生まれ育った栃木県の谷中村という、歴史に翻弄され廃村となった村の跡と祖母の屋敷跡を訪れたことの報告である。

 その前に・・・
 人は男と女から生まれてくるから、それぞれ父方、母方の彼らのまた親たち、つまり祖父母を二組持っている。我の場合、父も母も東京都内で生まれた東京人であるが、その親たちは地方から出てきている。
 じっさいのところ、代々父も祖父母もずっと東京生まれだという「江戸っ子」はごく少ないはずで、おそらく数代さかのぼればたいてい皆それぞれ東京以外から東京に出てきたという地方出身者であるかと思う。今は皆東京生まれの顔してすましているが、実は東京は地方出身者たちの集う街なのである。

 父のほうは、九州佐賀の出で、その父の父、我の祖父は上京し苦学して早稲田を出て、最後は新聞記者のようなことをやっていた。その妻、祖母も同郷の人だったらしいから、我が父などは、東京生まれなのにアクセントはやや九州人的で昔からヘンだと思っていた。
 その家系についても「ファミリーストーリー」としてかなり多事多難で面白く記す価値はあるかと思うが、今回は関係ないのでふれない。

 母方のほうは、我の祖父母共に、今は渡良瀬遊水地、谷中湖に水没してしまった、足尾の古河銅山からの鉱毒によって強制的に廃村にさせられた谷中村の出身である。
 祖母は、幼児の頃に、一家でその村を離れたが、その家をよく訪れていた田中正造の思い出を晩年まで常々語っていた。明治33年の生まれで、百歳近くまで存命だったから、生前は、谷中村の生き証人として、新聞等に取り上げられたこともある。死ぬまで頭脳明晰、記憶力抜群でほぼ20世紀をまるまる生きた人だ。

 我は、その祖母から「田中のおじやん」の話は何度も聞かされて育った。祖母にとって、いや、渡良瀬河流域の農民たちにとって、田中正造るはまさに義人、ヒーローであり、誰もが死ぬまで慕い続けていた。
 その祖母からもっと谷中村でのことや田中正造の思い出などよく聞いて記録しておけば良かったと今にして思うが、日本の公害闘争の原点、鉱毒によって廃村にさせられて村を追われた祖父母たち農民の無念の思いは、今も我の中に流れていると今頃になって思うことがある。

 我が母は、若い時は生活に追われ忙しくて、彼女のルーツである谷中村や正造翁のことなど、祖母が話しても関心があまりなかったらしいが、我が成人した頃からは、祖母を連れてその一族出身の地である旧谷中村があったところの「遺跡」を訪れている。祖母の死後も遺言にあった散骨するために行っている。
 谷中村の大部分は水没して、今は渡良瀬遊水地として、首都圏最大の野鳥のサンクチュアリ、貴重な野生生物の宝庫として知られる渡良瀬遊水地の底に沈んでしまっている。
 が、幸いにして、旧出身者たちの強い要望がかない、今も、村の共同墓地や雷電神社があった辺りは水没から逃れて誰でも訪れ散策することができる。

 そして我が祖母の生家、その屋敷があったところも、むろん家らしきものは何一つないけれど、やや小高い地形が土台として確認でき、跡地には竹が生い茂りしっかり残っている。他にも数件そうした「屋敷跡」とされるかつて家があった場所はあるけれど、ウチがいちばんはっきりとわかる。村でも屈指の篤農家で土台をしっかり高く盛り上げたからだ。晩年の田中のおじやんは家まで上がってくるのに苦労したらしい。

 ちょうど西暦2000年、そこの場所に、祖母の兄弟たちの子、母も含めて、つまり母の甥っ子ら子孫たちで、御影石で祖母の父の名前、廃村時の当主の名を刻んで、『岩波正作屋敷跡顕彰碑』という記念の碑を建てた。正作は我にとって曾祖父になることになる。
 母はその石碑を建てたとき訪れているが、我は一緒に行った記憶がない。その屋敷跡には、四半世紀近く前に、まだ祖母が存命だったとき一緒に訪れたが、その頃は今ほど我も関心が薄くてあまり印象にも記憶にも残っていない。祖母はその地でどうであったか。何を語ったのか。

 今回、実に、その時以来かと思うが、再びその地に出向き、病み衰えた母の手をひいてその屋敷跡に立ち、石碑を前にしたときに、不思議な気分に襲われた。
 我はこの場所、ここ谷中村の、ここから出たのだと喜びとも恐怖ともつかない感動のような高まりに満たされた。我のうち流れる血の何パーセントはこの地のものなのだ。

 何十年か前、A・ヘイリーの小説『ルーツ』が米国のみならず日本でも大きな話題になった。そして山口瞳の『血族』や佐藤愛子の『血脈』など同様の、自ら一族のルーツを探す伝記小説がベストセラーになった。
 その頃は、我もそのようにもっと一族の歴史、我が出自に関心を持てば良かったのだが、まだ若すぎてとてもそんな大昔の、自分どころか親さえも生まれる前のことにちっとも興味がわかなかった。
 残念だが、そのときはまだ機が熟さなかったのだと思うしかない。

 今我も老いてきて、ちょうど母が晩年近い祖母を連れて今は葦が茂るだけのその谷中村の屋敷跡を訪れた年代になり、自分も母の手を引き我がルーツの地に再び立ち、まさに感無量、言葉もなかった。