祖父母の地を訪ねて~渡良瀬遊水地と旧谷中村・中2016年05月17日 10時51分45秒

★谷中村と田中正造、そして父祖たちのこと

 当ブログの読者の方に今さら説明不要かと思うし、ネットで調べればたちどころに出てくるので手短に書くが、今はその大部分が湖の底に沈んでしまった栃木県下都賀郡旧谷中村はかつてはとても豊かな村であった。

 大河渡良瀬川が度々氾濫はしたが、水はその地に肥沃な土壌をもたらしたのである。だから、世界三大文明が、大河流域のデルタ地帯から生まれたように、御神楽や農村歌舞伎も盛んで、祖父母のまた親たちの代には関西のほうまで学びに出向いた者もいたそうだ。
 が、明治の世になり、産業振興、富国強兵の国策ため足尾銅山の採掘、精錬が進められ、洪水の度に上流からの鉱毒によって川は汚染され作物は採れなくなり村は疲弊していく。祖母の話では子供も生まれても次々死んでいったという。

 その窮状を訴えるべく、流域の農民たちは田中正造をリーダーに、日本初の反公害闘争を始める。何千人も集まって集団で東京まで、請願に出向く「押出し」、つまり農民一揆のように、銅山の操業停止と補償を求めて政府に解決を迫るため何度も直接行動をとった。※その頃、二十代で血気盛んだった曾祖父正作も、押し出しに参加し阻止する警官隊を振り切って東京まで辿り着いたと聞く。
 だが、彼らは凶徒と扱われ官憲の阻止にあい、流血事件となり何十人も逮捕拘束の目に遭い(1900年川俣事件)、やがて国は、運動の弱体化と鉱毒沈殿のためにその地を遊水地として用いようともくろみ谷中村は強制廃村とされた。

 谷中の農民たちは非常に低い額の補償金で村を出て一部は那須、北海道にまで移住した。人々の関心も冷えてしまい田中正造も含め最後まで村に残って抵抗した農民もいたが、三里塚の成田闘争のように家屋は破壊され谷中村は消滅。運動は権力の前に終えるのである。
 が、この日本の公害闘争の原点である谷中村の存亡と田中正造の思想と行動は、戦後高く評価され出し、3.11の大震災による原発事故でフクシマを強制的に追われた住民が新たに生まれている今日、公と民の関係、国家(国策)と環境のあり方は今もまた問い糾されていると思う。

 今や広大な自然パークのようになっている渡良瀬遊水地の入り口正門近くに、旧谷中村住人合同慰霊碑の一角がある。中に入ると周囲の壁面はぐるっとかつて村にあった道祖神などの石碑で囲まれている。その一角はひんやりとして実に厳かで息を呑むものがある。
中央に四角い石碑があり、廃村時の谷中村の住人、四百余名の名前が石に刻まれている。そこに、我が母の父方、母方双方の祖父たちの氏名、母にとって大叔父たちの名前がいくつも刻まれていた。
 母は彼ら石碑に名を残す正作たち、彼女の祖父母であった人たちには幼児の頃に数度会ったもののほとんど記憶はない。が、その刻まれた名前を指でたどり、まさに感無量の面持ち、感慨深げであった。そう、その母に流れている谷中村の血は我にも流れているのだ。

 何とか母が生きているうちに再び父祖の地に連れてくることができた。田中正造と共に闘った我が祖先たち、谷中村からの命脈は今も、これからも我は受け継いでいかねばならない。そう誓い直した一泊二日の栃木市藤岡町の旅であった。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://masdart.asablo.jp/blog/2016/05/17/8091130/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。