2020年の良かったこと・その4.キジ子のこと2021年01月13日 11時12分16秒

★50万円もの猫の借金を完済できたこと

 これまでも折々お知らせしてきたが、一昨年の秋、原因は不明だが大怪我をし大手術をして三本脚となっても九死に一生を得たキジ猫「キジ子」の治療費、未払い分総額約50万を昨年一年間かけて何とか完済できた。
 ある意味、昨年いちばん良かったことかもしれない。
 詳しいことは、2019年11月あたまの当ブログで詳しく書いたが、改めてカンタンに経緯をふれておく。

 我が家で一昨年の秋口に生まれた子猫のうち、雌のキジ猫が、どこで何が起きたか不明ながら、左足を太ももから失うという大怪我をして帰って来た。
 隣家の人が、その家の庭先、車の下で騒いでいるのを発見して知らせてくれたのだ。
 泣き叫ぶのを捕まえて見たらば、血だらけで脚が1本ない。太ももから折れて残った骨が見えていた。
 どうやら車に轢かれたか、線路で通過する電車に巻き込まれたらしい。痛がってギャーギャーすごい声で鳴いていた。
 仰天して、ともかく動物病院へ連れて行こうとしたが、かかりつけの近所の病院はあいにく休診日で、少し離れた立川寄りの大きな動物病院に駆け込んだ。
 そこは何人も医師がいて設備も整っている。すぐに診てもらえて検査したりして言われたのは、「かなりの大ケガで、失血しているだけでなく事故に遭ってから時間がたっている。手術しても感染症とかで助かるかどうか保証できない。どうしますか?」と。
 一瞬、このまま安楽死すべきか迷ったが、すぐさま我は、ともかくできるだけのことは してやってください、と頼んだ。そして入院し、あの大きな台風19号が襲来の日だったと思うが、何時間もかかる手術を終えた。猫でも輸血もして、けっきょくキジ子の脚は、残っていた部分も根元から全部除去されて、下半身は包帯で覆われた。
 当初の二週間、血液検査の数値も悪く、いろいろな薬も用いたが、生死の境目にいた。
 が、若かったこととその病院の高度な治療が効を奏して、じょじょに回復、自らも口から食事をとれるようになり、一月程度で何とか退院もできた。
 しかし問題は、支払いであった。

 動物だから人間のような保険はそもそも入っていない。手術代だけで最初に20万円~と聞いていたが、検査も一回ごと1万近くもかかっただけでなく、薬代も高く入院宿泊費だけで一日六千円はかかってしまう。
 けっきょく、既に支払った分を差し引いても退院した時に、未払いの治療費が総額50万円も残っていた。
 幸いその病院では、いくらかづつでも毎月支払ってくれればいい、と言ってくれ、我はともかく来年一年間、つまり2020年中に完済しようと心に誓った。

 そうして毎月ごと、3万から4万円づつ月末に何とか工面しては支払いに行った。当初は貧乏な我に、そんな額の余裕はなく、とても一年では不可能に思えた。なかなか残額が減らず金を用意するのに頭痛め憂鬱にもなった。
 が、まさに有難いことに、この件を知って大学の後輩をはじめ多くの友人知人からかなり多額の支援のカンパが届き、さらにコロナ「特定給付金」もあったので、総額の半分程度はまかなうことができた。
 今さらだが、この場でお名前は挙げないが、皆さんの厚いお志に心から感謝したい。遅ればせながら「完済」終えた報告をいたす。
 そもそもろくに仕事もしていない我と年金生活の父の収入だけではそんな余裕はどこにもなく無理な借金だった。
 多くの仲間たちに支えられてキジ子は今も元気で生きているというわけだ。

 ときに思うのは、雑種の猫に、50万円もお金をかけるのならば、その50万円があれば、新しい快適な車も買えただろうし、もっと有効な使い道はあったのではないか、ということだ。
 しかしこう、すぐに思い返す。もし、あのとき、そんなにお金がかかるのならばこの子は「安楽死」させてください、と頼んだら我はどんな思いで今在るだろうか、と。たぶんその「罪」の重さでノイローゼになっていたかもしれない。あるいは、もっとひどい何か悪いことが起きたり引き寄せていたかもしれない。
 たかが猫である。どこでもいる猫なのだ。告白するとその後もキジ子と同時に生まれた姉妹は、あろうことかウチの前の道で大型トラックに轢かれたのか事故死してしまった。
 勝手に生まれて、そんな風に勝手に死んでしまうのが、外にも自由に出入りしている猫の宿命なのである。
 しかし、それもまた縁あって我と関わり、助けをもとめて来たのならば、我はその助けを無視することはできやしない。お金のことはさておき、ともかく出来るだけのことはすべきだと考えるし、我の今回の判断に一切迷いはない。
 よく、そんな「障害者」になって可哀想、三本脚で苦労するのでは、ならば死なせたほうが・・・というような声もどこかでしてくる。
 でも、動物は実に逞しく立派で、キジ子は三本でもほとんど不自由することなく、どこにでも駆けあがって自由に走り回っている。
 普段閉じ込めている部屋から何度も脱走して外へ逃げ出てしまい、我は心配で何度真夜中探し回ったかわからない。まあ、利口な子だから遊び疲れると自分でちゃんと戻ってくるのだが・・・

 動物は人間のように同情もしないかわりに差別も偏見もなにも持たない。他の猫たちと一緒にキジ子は堂々と何一つ臆することなくしっかり元気に生きている。
 その猫の姿から我は多くを学んでいる。もし、我の判断で、キジ子を安楽死させてしまっていたら、この「喜び」は得られなかった。いつまでも悔やみ自ら非常を苛んだろことだろう。
 我は、けっきょく50万円で、この「生きている喜び」と「有難さ」を手に入れたのだと気づく。
 ならば安いものだ。そう、命はお金では買えないのだから。

 キジ子の唯一不便なことは、左脚が完全にないため、左側の耳の後ろとかは痒くても自分ではかけないことだ。だから飼い主は、キジ子を抱きかかえては、代わりにそこを掻いてあげてやる。キジ子もうっとりして身を任せてくる。
 障害は不便だが不幸ではない、とは乙武洋匡氏の言葉だが、まさにそう思う。ともかく生きている。まだ生きてそこにいる。それだけで良いのである。有難いことだ。

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