愛犬の病気に関して、経過報告3・とりあえず終り ― 2025年03月13日 00時29分58秒

★やっと一段落~ほっと一息
2月のあたま、愛犬ベルコの身体の異変に気がついてから一か月以上過ぎた。
元からあった左肩のコブ=腫瘍に雑菌が入り、化膿してついに破裂した。その後、コブだった袋は、乾いて干し柿のようになり、やがて外れ落ちてコブのあったところは丸く、そのまま赤向けの肉が剥き出しの状態となった。
コブ自体が、大人のこぶし大ほどもあったから、その赤みの肉が丸見えの状態、傷口はかなり大きく痛々しく、ヒトを驚かせて目のやり場に困るほどだったが、今月に入ってから周りの肉が盛り上がって来て、だいぶ小さく縮んできた。
これまで一か月以上、朝晩飲ませていた抗生剤も先日やっと中止になったので、心配していた水の多飲と結果として多尿も収まるかと思える。
やれやれである。おそらく今月中には、その傷口もふさがり、やがては毛も生えてくるだろう。
いろいろご心配おかけしたかと思うが、とりあえず現時点では、回復の一途であることを報告したい。高齢の犬であるから今後また新たな異変や異常も起こることは覚悟しているが、今はホッと一息ついている。
病膏肓に入る、という言葉もあるが、今回は、肉と皮膚の間の腫瘍で良かった。もし体内、内臓だったらその腫瘍が破裂したら即死していたことだろう。
今回は、生き永らえた。我もまた一日でも長く生き永らえたい。
それにしても先のことはまったくわからないと改めて思う。新しい年になり、今年こそはと昂る気持ちはあったのに、タチの悪い風邪に罹り、咳が止まらず1月はずっと寝込んでしまい、さあ2月からは、と思ったとたん愛犬の病気である。
早朝からの病院通いと薬のせいで連日連夜の水の多飲による排尿の散歩で家の片づけや自分のことどころか猫たちの世話以外のことは何一つできなかった。
我もいつでも起きれるよう服のまま横になって、自らの食事もろくにとれないほど慌ただしく忙しかった。睡眠不足でいつも頭が痛くふらふらだった。
母が死ぬ前も、ウチで我が看護していたから同様な状況で、下の世話の都度真夜中でも起きたことを今回思い出した。
こうしたときいつも思うのは、我も妻帯して家族がいたら、ということだ。結婚しなかったことを後悔はしていないが、現実の話、我一人で誰か他者を介護するのは限界がある。
介護や看護ということは、ワンオペでは当然無理なことで、老老介護でなくても昼夜それを一人でやってると疲れ果て気持ちも倦み、やがてはこちらも倒れてしまうのは間違いない。
妻でなくても他に誰か家人がいたら分担してやれるはずだし、金さえあれば看護士のような人にヘルパーとして長時間来てもらうことも可能だろう。
むろん今でも人間ならば介護保険の範囲内で、訪問看護など来てもらうこともできるが、ペットなどはそうはいかない。動物病院やそのたぐいの施設に預けることも可能だけれど、保険がないのでものすごく費用がかかる。
そして他者を介護する以前に、一人暮らしならば自らが体調を崩したときいったいどうしたら良いのか、だ。
コロナでなくても風邪などで高熱が出たときなど、一人暮らし等で辛く苦しい心細い経験をしたことは多くの人があるかと思う。
自ら身動き取れない状況、状態に陥った時、いったい誰に助けを求めるのか。ケガであろうが病気であろうが、自分で救急車など呼んで通報できるときはまだ良い。
高熱や脳梗塞などで意識がなく、おそらくそれもできないときは、自力でどうにかすることは不可能なのだからそのときはただ結果として死あるのみか。
♪自由とは失うものがなにもないことさ、というフレーズがあるが、一人は気ままでとことん自由だけれど、失うものがないのではなく、最後は一人で命を失うのだと今は気がつく。
その覚悟はできているか。自問している。
我には両親という家族があった。が、親はとうぜん子より先に死んで、我は人間一人になってしまった。
幸い唯一の家族である犬はいて、大病はしたけれど無事に回復しつつある。有難いことである。命の大切さを今かみしめている。
これから一日一日、我にとっても残された日々を大切にして生きていきたいと今さらながら思っている。
独り者の方、ご自愛ください。我もまた。
2月のあたま、愛犬ベルコの身体の異変に気がついてから一か月以上過ぎた。
元からあった左肩のコブ=腫瘍に雑菌が入り、化膿してついに破裂した。その後、コブだった袋は、乾いて干し柿のようになり、やがて外れ落ちてコブのあったところは丸く、そのまま赤向けの肉が剥き出しの状態となった。
コブ自体が、大人のこぶし大ほどもあったから、その赤みの肉が丸見えの状態、傷口はかなり大きく痛々しく、ヒトを驚かせて目のやり場に困るほどだったが、今月に入ってから周りの肉が盛り上がって来て、だいぶ小さく縮んできた。
これまで一か月以上、朝晩飲ませていた抗生剤も先日やっと中止になったので、心配していた水の多飲と結果として多尿も収まるかと思える。
やれやれである。おそらく今月中には、その傷口もふさがり、やがては毛も生えてくるだろう。
いろいろご心配おかけしたかと思うが、とりあえず現時点では、回復の一途であることを報告したい。高齢の犬であるから今後また新たな異変や異常も起こることは覚悟しているが、今はホッと一息ついている。
病膏肓に入る、という言葉もあるが、今回は、肉と皮膚の間の腫瘍で良かった。もし体内、内臓だったらその腫瘍が破裂したら即死していたことだろう。
今回は、生き永らえた。我もまた一日でも長く生き永らえたい。
それにしても先のことはまったくわからないと改めて思う。新しい年になり、今年こそはと昂る気持ちはあったのに、タチの悪い風邪に罹り、咳が止まらず1月はずっと寝込んでしまい、さあ2月からは、と思ったとたん愛犬の病気である。
早朝からの病院通いと薬のせいで連日連夜の水の多飲による排尿の散歩で家の片づけや自分のことどころか猫たちの世話以外のことは何一つできなかった。
我もいつでも起きれるよう服のまま横になって、自らの食事もろくにとれないほど慌ただしく忙しかった。睡眠不足でいつも頭が痛くふらふらだった。
母が死ぬ前も、ウチで我が看護していたから同様な状況で、下の世話の都度真夜中でも起きたことを今回思い出した。
こうしたときいつも思うのは、我も妻帯して家族がいたら、ということだ。結婚しなかったことを後悔はしていないが、現実の話、我一人で誰か他者を介護するのは限界がある。
介護や看護ということは、ワンオペでは当然無理なことで、老老介護でなくても昼夜それを一人でやってると疲れ果て気持ちも倦み、やがてはこちらも倒れてしまうのは間違いない。
妻でなくても他に誰か家人がいたら分担してやれるはずだし、金さえあれば看護士のような人にヘルパーとして長時間来てもらうことも可能だろう。
むろん今でも人間ならば介護保険の範囲内で、訪問看護など来てもらうこともできるが、ペットなどはそうはいかない。動物病院やそのたぐいの施設に預けることも可能だけれど、保険がないのでものすごく費用がかかる。
そして他者を介護する以前に、一人暮らしならば自らが体調を崩したときいったいどうしたら良いのか、だ。
コロナでなくても風邪などで高熱が出たときなど、一人暮らし等で辛く苦しい心細い経験をしたことは多くの人があるかと思う。
自ら身動き取れない状況、状態に陥った時、いったい誰に助けを求めるのか。ケガであろうが病気であろうが、自分で救急車など呼んで通報できるときはまだ良い。
高熱や脳梗塞などで意識がなく、おそらくそれもできないときは、自力でどうにかすることは不可能なのだからそのときはただ結果として死あるのみか。
♪自由とは失うものがなにもないことさ、というフレーズがあるが、一人は気ままでとことん自由だけれど、失うものがないのではなく、最後は一人で命を失うのだと今は気がつく。
その覚悟はできているか。自問している。
我には両親という家族があった。が、親はとうぜん子より先に死んで、我は人間一人になってしまった。
幸い唯一の家族である犬はいて、大病はしたけれど無事に回復しつつある。有難いことである。命の大切さを今かみしめている。
これから一日一日、我にとっても残された日々を大切にして生きていきたいと今さらながら思っている。
独り者の方、ご自愛ください。我もまた。
3月に入った。ようやく季節も動き出した。 ― 2025年03月05日 23時35分45秒

★久々の本格的な雨が降り続く
なかなか拙ブログ、更新できずに申し訳ない。
先月、2月中は、記憶にある限り雨らしい雨は一回も降らなかったが、今月に入り一昨日から久々に本格的な雨が降り出し、ときに霙や雪交じりの雨が雨が降り続き、ようやく季節は春へと動き出した感がある。
昨日は、午後から粉雪が降り続き、我が多摩地方では数センチは降り積もったが、やがてすぐに霙や雨に変わったので、朝起きたら道には雪は残っていなかった。
この先も雨もよいの日が予報では続くようだ。春は三日の晴れなしと昔から言われるが、ようやくカラカラに乾いていた冬は終わり、本格的に春へと季節は動き出した。
我もまた今さらだが、気持ち新たにがんばろうと思っている。
まず我が愛犬、ベルコのことを記す。
2月の2日に、前からあった左肩のコブの異変に気がつき、病院通いが始まってもう一か月が過ぎた。
当初は、人間の大人のこぶし大にまで大きくなり、膨れて固くなっていたコブ、腫瘍は、破裂して中身が飛び出し、その後、その袋の中の部分をひたすら洗浄、消毒の治療を続けていたが、やがてそのコブ部分も干し柿のように乾いて縮んできて、今はそれがとれて赤い肉の部分が剝き出しになっている。
大きさは、8㎝×6㎝はあるだろうか。、コブがあったところ、ほぼ円形の穴が肩に大きく開いている。画像をアップして載せても良いのだが、痛々しくギョッとさせてしまうのであえて言葉で説明するにとどめておく。
当人は特に痛がってはなく、医師の話では、しだいに肉が盛り上がってその穴=傷口が小さくなっていくのを待つしかないとのこと。やがてはそこに毛も生えたとき、完治したと言えよう。まだまだ一か月はかかるだろうが。
体調的には、もうほぼ以前と同じく体力も食欲も戻り、心配はなくなったのだが、相変わらず薬のせいで、異常とも思えるほど水の多飲とその結果として多尿が相変わらず続いている。
ただ多少はそれも減ってきたのか、以前は真夜中でも一度起きて、水飲みと排尿の散歩に起きなくてはならなかったのが、このところは朝6時半~7時頃まで、ベルコは騒がずに寝てくれるようになってきた。
また動物病院が開いている日はほぼ連日通っていた傷口の洗浄、消毒のための診察も、やっと3~4日おきに、と間があくようにもなった。
むろん日に二回、感染症の抗生薬を飲ませるのと、自宅での消毒作業は続けなくてはならないが、当人も以前と同じく元気になったし、今回の病気は経過観察の段階に入ったと言えよう。
そんなこんなで、2月中は、愛犬の看病、病院通いに毎日振り回された。毎日数時間おきに散歩と夜中も起きるのと、朝も早くから病院前に並ばねばならず、そこに猫たちの世話もあって多忙というか断続的に眠るしかなく、睡眠不足でふらふらで何一つできなかった。
ベルコの治療費、一回行くと3300円である。保険もないから仕方ないのだが、それに薬代や検査代も加わり、カード払いで支払い終えてまだ合算計算していないが、先月だけで10数万かかったことは間違いない。
収入のない身には予想外の出費で、まったくもってカード引き落とし日には頭が痛いが、それもまたベルコの命のためなのだが仕方ない。
いまの我にとってもはや唯一の家族は犬のベルコさんしかいないわけで、その命を伸ばすためならば、どれほど金がかかろうと惜しくはない。
お前には、たくさんの猫たちもいるではないか、と言われようが、猫は家族ではない。例えていえば、賄い付きの下宿人、しかも家賃も払わず自由気ままに好き勝手し放題の手のかかる下宿人でしかなく、彼らは家族ではない。
家族というのは、互いに気遣い認め合い信頼し合う関係があるかどうかで、犬は、昨今人気の超小型犬はどうか知らないが、常に人間のことを思い愛情もってこちらに返してくれる。こんな我を心配してくれている。
先年、母に続き父を亡くし、唯一の血縁は、遠く離れた九州大分の山奥に妹が一人いるが、今この家で共に暮らす家族は犬のベルコしかいない。
その家族がいなくなってしまえば、我は、本当に一人となってしまう。今、毎朝きちんと起きて散歩したり買い物に行くのもベルコがいるからで、彼女がいなくなれば、我は果たしてそうしたルーティンの日課をそれからも築くことが出来るかわからない。その自信がない。
朝も起きることなく、猫たちが空腹で大騒ぎしようともう一切何もきちんとやらなくなるのではないか。
ベルコもまだ本格的老いは見せてはないが、もう若くはない老犬なのだ。今回の病気が癒えたとしてもあと何年生きるかはわからない。
残された共に過ごす日々を一日一日大切にして我も生きたいと願う。
ともかく突然の愛犬の病気に先月は戸惑い振り回されたが、ようやく春三月、気持ち新たにもう一度人生再建に取り組んでいきます。
なかなか拙ブログ、更新できずに申し訳ない。
先月、2月中は、記憶にある限り雨らしい雨は一回も降らなかったが、今月に入り一昨日から久々に本格的な雨が降り出し、ときに霙や雪交じりの雨が雨が降り続き、ようやく季節は春へと動き出した感がある。
昨日は、午後から粉雪が降り続き、我が多摩地方では数センチは降り積もったが、やがてすぐに霙や雨に変わったので、朝起きたら道には雪は残っていなかった。
この先も雨もよいの日が予報では続くようだ。春は三日の晴れなしと昔から言われるが、ようやくカラカラに乾いていた冬は終わり、本格的に春へと季節は動き出した。
我もまた今さらだが、気持ち新たにがんばろうと思っている。
まず我が愛犬、ベルコのことを記す。
2月の2日に、前からあった左肩のコブの異変に気がつき、病院通いが始まってもう一か月が過ぎた。
当初は、人間の大人のこぶし大にまで大きくなり、膨れて固くなっていたコブ、腫瘍は、破裂して中身が飛び出し、その後、その袋の中の部分をひたすら洗浄、消毒の治療を続けていたが、やがてそのコブ部分も干し柿のように乾いて縮んできて、今はそれがとれて赤い肉の部分が剝き出しになっている。
大きさは、8㎝×6㎝はあるだろうか。、コブがあったところ、ほぼ円形の穴が肩に大きく開いている。画像をアップして載せても良いのだが、痛々しくギョッとさせてしまうのであえて言葉で説明するにとどめておく。
当人は特に痛がってはなく、医師の話では、しだいに肉が盛り上がってその穴=傷口が小さくなっていくのを待つしかないとのこと。やがてはそこに毛も生えたとき、完治したと言えよう。まだまだ一か月はかかるだろうが。
体調的には、もうほぼ以前と同じく体力も食欲も戻り、心配はなくなったのだが、相変わらず薬のせいで、異常とも思えるほど水の多飲とその結果として多尿が相変わらず続いている。
ただ多少はそれも減ってきたのか、以前は真夜中でも一度起きて、水飲みと排尿の散歩に起きなくてはならなかったのが、このところは朝6時半~7時頃まで、ベルコは騒がずに寝てくれるようになってきた。
また動物病院が開いている日はほぼ連日通っていた傷口の洗浄、消毒のための診察も、やっと3~4日おきに、と間があくようにもなった。
むろん日に二回、感染症の抗生薬を飲ませるのと、自宅での消毒作業は続けなくてはならないが、当人も以前と同じく元気になったし、今回の病気は経過観察の段階に入ったと言えよう。
そんなこんなで、2月中は、愛犬の看病、病院通いに毎日振り回された。毎日数時間おきに散歩と夜中も起きるのと、朝も早くから病院前に並ばねばならず、そこに猫たちの世話もあって多忙というか断続的に眠るしかなく、睡眠不足でふらふらで何一つできなかった。
ベルコの治療費、一回行くと3300円である。保険もないから仕方ないのだが、それに薬代や検査代も加わり、カード払いで支払い終えてまだ合算計算していないが、先月だけで10数万かかったことは間違いない。
収入のない身には予想外の出費で、まったくもってカード引き落とし日には頭が痛いが、それもまたベルコの命のためなのだが仕方ない。
いまの我にとってもはや唯一の家族は犬のベルコさんしかいないわけで、その命を伸ばすためならば、どれほど金がかかろうと惜しくはない。
お前には、たくさんの猫たちもいるではないか、と言われようが、猫は家族ではない。例えていえば、賄い付きの下宿人、しかも家賃も払わず自由気ままに好き勝手し放題の手のかかる下宿人でしかなく、彼らは家族ではない。
家族というのは、互いに気遣い認め合い信頼し合う関係があるかどうかで、犬は、昨今人気の超小型犬はどうか知らないが、常に人間のことを思い愛情もってこちらに返してくれる。こんな我を心配してくれている。
先年、母に続き父を亡くし、唯一の血縁は、遠く離れた九州大分の山奥に妹が一人いるが、今この家で共に暮らす家族は犬のベルコしかいない。
その家族がいなくなってしまえば、我は、本当に一人となってしまう。今、毎朝きちんと起きて散歩したり買い物に行くのもベルコがいるからで、彼女がいなくなれば、我は果たしてそうしたルーティンの日課をそれからも築くことが出来るかわからない。その自信がない。
朝も起きることなく、猫たちが空腹で大騒ぎしようともう一切何もきちんとやらなくなるのではないか。
ベルコもまだ本格的老いは見せてはないが、もう若くはない老犬なのだ。今回の病気が癒えたとしてもあと何年生きるかはわからない。
残された共に過ごす日々を一日一日大切にして我も生きたいと願う。
ともかく突然の愛犬の病気に先月は戸惑い振り回されたが、ようやく春三月、気持ち新たにもう一度人生再建に取り組んでいきます。
愛犬の病気に関して、経過報告2 ― 2025年02月25日 11時42分39秒
★愛犬ベルコは今は回復中です
我の愛犬というか、今は唯一の家族である犬のベルコさんが病気となり三週間が過ぎた。
気がつけば今月も終わりに近づいている。犬の介護と猫たちの世話だけで自分のこと、家の片づけもだが、何一つできなかった。
拙ブログできちんと報告していきたいのだが、ともかく慌ただしいというか、忙しくてパソコンに向き合う時間がとれない。誠に申し訳なく思う。
多々ご心配おかけしているとも想像するが、ベルコも我も元気ではある。ようやくだが、ベルコはやっと今後の展望も見えてきた。病院通いもそろそろ一段落しそうだ。
そう、ともかく忙しかった。この間、欠けていた月は満ち、満月となり、また再び欠けていまは、新月であろうか。
前回、ベルコのそのコブが破裂したところまで書いた。その続きから。
日曜にベルコのコブの異変に気づき、慌てふためいて動物病院に連れて行った。いったんは、針をいれて中の液体とガスを抜いて、コブというか腫瘍は小さく柔らかくなった。
が、医師の言葉どおり、翌日からまたコブは膨れ始めて、当人も痛がって過敏になってるのでまた翌々日再診受けた。
わかってきたことは、元々あったコブに何かのとき傷がついて、そこから雑菌が入り繁殖して巨大に膨れて硬化したらしいということで、しばらく通うことになった。
が、その動物病院は、このところ休診の日が多くて、月曜と水曜は休みで日曜も午後はやっていない。だからすごく患者で込み合う。
そこは猫の診察でこの数年ずっと利用していたのだが、以前は、正月以外は、年中無休であった。
医師たちも男性院長以外にも常時若い女性医が2~3名常にいて、看護助手も含めれば、我の知る限り、市内でも指折りの大きな動物病院だった。
それが昨年の12月だったか、風邪ひいた猫を連れて行ったとき、貼り紙があり、来年から水曜日が定休となるのと診療時間の短縮が告知されていた。
そして今回行ったらば、またさらにスタッフの体制からか診療日の変更の貼り紙があり、月曜も休みとなってしまった。受付時間も短縮された。だから当然すごく混みあう。受付時間内に行けたとしても2時間は待たされてしまう。それだと午前中は病院だけで潰れる。
仕方なく、開院時間の前に行き、開くまで外で待つことにした。
診療開始は、午前9時からだから、順番の番号札をもらうために、一時間は早く行って、外で受け付け開始の8時45分まで並んで待たねばならない。
さすれば、ほぼ1番から2番の順で、診察室も二つあるから待たずにすぐに診てもらえることがわかってきた。会計済ませても10時にはならない。
しかしともかく寒い。陽射し浴びればさほどではないのだろうが、病院は、建物自体北向きなので日陰ゆえ陽が射さない。車の中で待っていればいいのだけど、最初は一番でもじょじょに犬猫連れた患者は並ぶのでやはりドアが開いて受付済ますまでじっと外で待たねばならない。
温かい穏やかな日もあったけれど、北風が強く寒さで手足の感覚がなくなる日もままあった。むろんベルコは診察開始時間まで車の中にいたけれど。
そんなこんなで、まず最初に日曜に診てもらってから、月曜休診で、火曜に行って、水曜また休みなので、木曜日の朝のこと、朝起きたらそのコブが潰れてペッちゃんこになって、コブがあった辺りは褐色の液体でぐっしょり濡れている。びっくりした。
まさにコブは破裂したらしく、放射線状に汚れが体毛に飛び散っている。
どちらによ行くつもりだったが、すぐさまベルコを病院に連れて行った。
担当医師は、処置として、その破れて中身の出てしまったコブだった袋の中に、生理食塩水を何度も注入して綺麗に洗い流してその洗浄、消毒作業に丁寧に約30分かけてくれた。※最初はベルコの痛がって鳴き吠える声が待合室まで響いていた。
それからが、ほぼ毎週5日、病院が休診日以外、毎朝早起きして、8時前に車出して、日中はだいぶ春めいてきたとはいえ、この酷寒の早朝、ベルコ連れての病院通いが本格化したのだった。
しかも大変なのは、それだけではなかった。抗生剤薬によるものだと言われているが、異常なほど水を飲みたがることで、とうぜん小便もすごくしたがる。
その水の多飲と多尿のため、日中は2~3時間おきに散歩させて排尿させなくてはならないだけでなく、真夜中でも一度は起きて、いや、起こされて近場をぐるっと散歩しなければならない。
一度深夜に起きてしまうと身体も冷えて目も冴えてしまいまたすぐには寝付けない。それから少しウトウトしたかと思うと、また病院に通う時間となる。
慢性的な睡眠不足と不規則な生活で、ゆっくり食事を作る時間もなく、疲れもたまり、ただ少しでも長く眠りを貪ることを望み願う日々が続いていたのだ。
※もう一回続きます。
我の愛犬というか、今は唯一の家族である犬のベルコさんが病気となり三週間が過ぎた。
気がつけば今月も終わりに近づいている。犬の介護と猫たちの世話だけで自分のこと、家の片づけもだが、何一つできなかった。
拙ブログできちんと報告していきたいのだが、ともかく慌ただしいというか、忙しくてパソコンに向き合う時間がとれない。誠に申し訳なく思う。
多々ご心配おかけしているとも想像するが、ベルコも我も元気ではある。ようやくだが、ベルコはやっと今後の展望も見えてきた。病院通いもそろそろ一段落しそうだ。
そう、ともかく忙しかった。この間、欠けていた月は満ち、満月となり、また再び欠けていまは、新月であろうか。
前回、ベルコのそのコブが破裂したところまで書いた。その続きから。
日曜にベルコのコブの異変に気づき、慌てふためいて動物病院に連れて行った。いったんは、針をいれて中の液体とガスを抜いて、コブというか腫瘍は小さく柔らかくなった。
が、医師の言葉どおり、翌日からまたコブは膨れ始めて、当人も痛がって過敏になってるのでまた翌々日再診受けた。
わかってきたことは、元々あったコブに何かのとき傷がついて、そこから雑菌が入り繁殖して巨大に膨れて硬化したらしいということで、しばらく通うことになった。
が、その動物病院は、このところ休診の日が多くて、月曜と水曜は休みで日曜も午後はやっていない。だからすごく患者で込み合う。
そこは猫の診察でこの数年ずっと利用していたのだが、以前は、正月以外は、年中無休であった。
医師たちも男性院長以外にも常時若い女性医が2~3名常にいて、看護助手も含めれば、我の知る限り、市内でも指折りの大きな動物病院だった。
それが昨年の12月だったか、風邪ひいた猫を連れて行ったとき、貼り紙があり、来年から水曜日が定休となるのと診療時間の短縮が告知されていた。
そして今回行ったらば、またさらにスタッフの体制からか診療日の変更の貼り紙があり、月曜も休みとなってしまった。受付時間も短縮された。だから当然すごく混みあう。受付時間内に行けたとしても2時間は待たされてしまう。それだと午前中は病院だけで潰れる。
仕方なく、開院時間の前に行き、開くまで外で待つことにした。
診療開始は、午前9時からだから、順番の番号札をもらうために、一時間は早く行って、外で受け付け開始の8時45分まで並んで待たねばならない。
さすれば、ほぼ1番から2番の順で、診察室も二つあるから待たずにすぐに診てもらえることがわかってきた。会計済ませても10時にはならない。
しかしともかく寒い。陽射し浴びればさほどではないのだろうが、病院は、建物自体北向きなので日陰ゆえ陽が射さない。車の中で待っていればいいのだけど、最初は一番でもじょじょに犬猫連れた患者は並ぶのでやはりドアが開いて受付済ますまでじっと外で待たねばならない。
温かい穏やかな日もあったけれど、北風が強く寒さで手足の感覚がなくなる日もままあった。むろんベルコは診察開始時間まで車の中にいたけれど。
そんなこんなで、まず最初に日曜に診てもらってから、月曜休診で、火曜に行って、水曜また休みなので、木曜日の朝のこと、朝起きたらそのコブが潰れてペッちゃんこになって、コブがあった辺りは褐色の液体でぐっしょり濡れている。びっくりした。
まさにコブは破裂したらしく、放射線状に汚れが体毛に飛び散っている。
どちらによ行くつもりだったが、すぐさまベルコを病院に連れて行った。
担当医師は、処置として、その破れて中身の出てしまったコブだった袋の中に、生理食塩水を何度も注入して綺麗に洗い流してその洗浄、消毒作業に丁寧に約30分かけてくれた。※最初はベルコの痛がって鳴き吠える声が待合室まで響いていた。
それからが、ほぼ毎週5日、病院が休診日以外、毎朝早起きして、8時前に車出して、日中はだいぶ春めいてきたとはいえ、この酷寒の早朝、ベルコ連れての病院通いが本格化したのだった。
しかも大変なのは、それだけではなかった。抗生剤薬によるものだと言われているが、異常なほど水を飲みたがることで、とうぜん小便もすごくしたがる。
その水の多飲と多尿のため、日中は2~3時間おきに散歩させて排尿させなくてはならないだけでなく、真夜中でも一度は起きて、いや、起こされて近場をぐるっと散歩しなければならない。
一度深夜に起きてしまうと身体も冷えて目も冴えてしまいまたすぐには寝付けない。それから少しウトウトしたかと思うと、また病院に通う時間となる。
慢性的な睡眠不足と不規則な生活で、ゆっくり食事を作る時間もなく、疲れもたまり、ただ少しでも長く眠りを貪ることを望み願う日々が続いていたのだ。
※もう一回続きます。
愛犬の病気に関して、経過報告1 ― 2025年02月17日 00時15分43秒
★まずはこの冬を乗り切り、春を迎えてから
まったく人生、先のことは何が起こるかわからない。
新しい年、2025年を迎えて、今年こそはと破綻した人生再建の礎となるよう気合い入れていたのだが、クリスマスイブからの激しい咳を伴う「風邪」に罹り、年末年始どころか1月も半ばまで寝込んでしまい、早くも出鼻を挫かれた感がしていた。
ようやく体調も戻って来たらもう2月。さあ、今月こそ頑張って家の片づけをはじめ、このブログも含めてこれからのこと、懸案のことに腰据えて取り組んでいこうと思っていた。
が、2月2日の日曜の朝、立川の教会に行こうとクルマを出そうと思い、犬のベルコを助手席に乗せて身体を見たら異変に気がついた。
この犬には、左の前足の上、肩のあたりに以前から触るとわかる柔らかいコブがあった。それは、毎年、ワクチン接種のときにかかる獣医の先生の話では、柔らかいから脂肪の塊で悪性のものではないだろう、しこりのように固ければ、癌など悪性の可能性もあるからできれば検査したほうが・・・と言われていた。
我としてはもう10歳を軽く超す齢でもあるし、仮に悪性のものだとしても老犬だから手術も危険だからと、忙しさにかまけて気にはなっていたが、ずっとほったらかしにしてきたのだ。
そのコブが、触ったらものすごく硬くカチンカチンになっている。大きさは、鶏卵よりも大きいように思えた。
ふにゃふにゃと触ると揉めるほど柔らかかったそのコブがいつから固くなったのかまったく気がつかなかった。しかし、つい先日まではこんな状態ではなかった。いったい何が起きたのか。いつからこんなになった?
そういえば、その日の朝、散歩の時もあまり歩きたがらず元気がなかった。何かおかしいなと思ったのだ。
この異変に慌てふためいて、教会へ行くのを急遽変更して、猫たちのかかりつけの動物病院にともかくすぐさまクルマを走らせた。
日曜ということもあって、かなり先客で混んでいて、2時間近く待たされたか。その間、ベルコは待合室の床に横になったままじっと動かない。
やっといつも猫たちを診てくれる女性医師に診察してもらえたが、そのコブ、固いしこりに驚いて、検体をとれて検査に出せるかどうか・・・と迷われたが、ともかくまずは針を刺して中のものを採ってもらえた。
待合室で待つことしばし、医師から言われたことは、針をそのコブに刺したとたん、中から臭いガスと液体が噴き出したとのことで、どうやら中で細菌が繁殖してそれで膨れて固くなったのだろうと。
で、そのコブも中身が出たからか、触ってみるとまた前のようにやや柔らかくなっている。
ただ、また中で細菌が繁殖して膨れてくる可能性が高いとのことで、まずは抗生剤を出してもらいその日は帰宅した。
検体は無事採取出来て、専門検査施設に出せることになったが、その費用も含めて、その日だけで2万5000円~。トホホではあるが愛犬のためだから仕方ない。
しかし、これはまさにプロローグでしかなかった。そのコブはまた肥大してついには破裂してしまったのだ。
※長くなるのでもう一回か二回続きます。
まったく人生、先のことは何が起こるかわからない。
新しい年、2025年を迎えて、今年こそはと破綻した人生再建の礎となるよう気合い入れていたのだが、クリスマスイブからの激しい咳を伴う「風邪」に罹り、年末年始どころか1月も半ばまで寝込んでしまい、早くも出鼻を挫かれた感がしていた。
ようやく体調も戻って来たらもう2月。さあ、今月こそ頑張って家の片づけをはじめ、このブログも含めてこれからのこと、懸案のことに腰据えて取り組んでいこうと思っていた。
が、2月2日の日曜の朝、立川の教会に行こうとクルマを出そうと思い、犬のベルコを助手席に乗せて身体を見たら異変に気がついた。
この犬には、左の前足の上、肩のあたりに以前から触るとわかる柔らかいコブがあった。それは、毎年、ワクチン接種のときにかかる獣医の先生の話では、柔らかいから脂肪の塊で悪性のものではないだろう、しこりのように固ければ、癌など悪性の可能性もあるからできれば検査したほうが・・・と言われていた。
我としてはもう10歳を軽く超す齢でもあるし、仮に悪性のものだとしても老犬だから手術も危険だからと、忙しさにかまけて気にはなっていたが、ずっとほったらかしにしてきたのだ。
そのコブが、触ったらものすごく硬くカチンカチンになっている。大きさは、鶏卵よりも大きいように思えた。
ふにゃふにゃと触ると揉めるほど柔らかかったそのコブがいつから固くなったのかまったく気がつかなかった。しかし、つい先日まではこんな状態ではなかった。いったい何が起きたのか。いつからこんなになった?
そういえば、その日の朝、散歩の時もあまり歩きたがらず元気がなかった。何かおかしいなと思ったのだ。
この異変に慌てふためいて、教会へ行くのを急遽変更して、猫たちのかかりつけの動物病院にともかくすぐさまクルマを走らせた。
日曜ということもあって、かなり先客で混んでいて、2時間近く待たされたか。その間、ベルコは待合室の床に横になったままじっと動かない。
やっといつも猫たちを診てくれる女性医師に診察してもらえたが、そのコブ、固いしこりに驚いて、検体をとれて検査に出せるかどうか・・・と迷われたが、ともかくまずは針を刺して中のものを採ってもらえた。
待合室で待つことしばし、医師から言われたことは、針をそのコブに刺したとたん、中から臭いガスと液体が噴き出したとのことで、どうやら中で細菌が繁殖してそれで膨れて固くなったのだろうと。
で、そのコブも中身が出たからか、触ってみるとまた前のようにやや柔らかくなっている。
ただ、また中で細菌が繁殖して膨れてくる可能性が高いとのことで、まずは抗生剤を出してもらいその日は帰宅した。
検体は無事採取出来て、専門検査施設に出せることになったが、その費用も含めて、その日だけで2万5000円~。トホホではあるが愛犬のためだから仕方ない。
しかし、これはまさにプロローグでしかなかった。そのコブはまた肥大してついには破裂してしまったのだ。
※長くなるのでもう一回か二回続きます。
申しわけない ― 2025年02月13日 11時02分37秒
パソコンのキーボードがおかしくて入力がなかなかできません。
ニンゲンは元気です。直り次第再開します。
ニンゲンは元気です。直り次第再開します。
まったく申し訳ない ― 2025年02月11日 17時56分32秒
★愛犬ベルコが体調崩して治療が忙しくてパソコンに向かえませんでした。おまけにキーボードが壊れてきたのか、入力がなかなかできずに苦慮してます。
回復に向けてがんばります。もうしばらくお待ちください。
回復に向けてがんばります。もうしばらくお待ちください。
人生の価値と意味は、生の長短にあるのではないこと ― 2025年02月03日 19時35分13秒
★「タラントの教え」を我もまた心に刻んで
昨年のクリスマス~年末年始、正月明けまで体調を崩してずっと寝込んでいたこともあるけれど、気がついたらもう早や二月である。
このところずっと亡くなられた森永さんのことを考えている。様々な人が彼の死を惜しみ追悼の言葉を語り綴っている。
苦しい癌治療を続けながらその死の前日まで精力的に仕事していたことも驚かされるが、何よりもその人生の濃密さである。
俗に、長生きも芸のうち、という言葉もあるけれど、それは落語とか歌舞伎とか芸能の世界の人に当てはまることで、人生の意味と価値は、決してその生きた長さ短かさとは関係ないことを森永さんの死から考えさせられた。
恥ずかしながら我もようやくこの歳になって、それがわかってきた。
彼のように、本来は東大出のエリートの家系の人で、安逸安泰な人生が送れるはずだったのに、そこに満足せず、コレクターとしての趣味も含めて、とことん好き勝手にやりたいことをしまくった人は珍しい。
メディア択ばず自由に言いたいことを言い、書きたかったことを本に書いて次々と出して、そして迎えた60代での早すぎる人生の終焉は、無意味でも無価値どころかとてつもなく濃密な充足した満足のいくものではなかったか。
氏のご子息が語っていたが、癌が判明した後も彼は好きなタバコもやめずに、ほとんど眠らずにひたすら仕事をしまくっていたそうだ。
周りもやりたいことをガマンして長生きさせるよりも彼がやりたいことを自由にさせたとのことで、それもまた一つの人生哲学であろう。
そう、人生の価値とは、長生きしたかにあるのではなく、いかにその人が自由に生きて好きな事を思い通りに成し得たかにあるのだと気づく。そこに生まれてきた「使命」がある。
キリスト教を少しでもかじった人ならご存じかと思うが、イエスが語ったとされる喩え話の一つに、『タラントの喩え』というのがある。
我はそれを思い出した。※やや長くなるので、もう一回続きます。関心ある方は、検索してみてください。聖書~タラントですぐみつかります。
昨年のクリスマス~年末年始、正月明けまで体調を崩してずっと寝込んでいたこともあるけれど、気がついたらもう早や二月である。
このところずっと亡くなられた森永さんのことを考えている。様々な人が彼の死を惜しみ追悼の言葉を語り綴っている。
苦しい癌治療を続けながらその死の前日まで精力的に仕事していたことも驚かされるが、何よりもその人生の濃密さである。
俗に、長生きも芸のうち、という言葉もあるけれど、それは落語とか歌舞伎とか芸能の世界の人に当てはまることで、人生の意味と価値は、決してその生きた長さ短かさとは関係ないことを森永さんの死から考えさせられた。
恥ずかしながら我もようやくこの歳になって、それがわかってきた。
彼のように、本来は東大出のエリートの家系の人で、安逸安泰な人生が送れるはずだったのに、そこに満足せず、コレクターとしての趣味も含めて、とことん好き勝手にやりたいことをしまくった人は珍しい。
メディア択ばず自由に言いたいことを言い、書きたかったことを本に書いて次々と出して、そして迎えた60代での早すぎる人生の終焉は、無意味でも無価値どころかとてつもなく濃密な充足した満足のいくものではなかったか。
氏のご子息が語っていたが、癌が判明した後も彼は好きなタバコもやめずに、ほとんど眠らずにひたすら仕事をしまくっていたそうだ。
周りもやりたいことをガマンして長生きさせるよりも彼がやりたいことを自由にさせたとのことで、それもまた一つの人生哲学であろう。
そう、人生の価値とは、長生きしたかにあるのではなく、いかにその人が自由に生きて好きな事を思い通りに成し得たかにあるのだと気づく。そこに生まれてきた「使命」がある。
キリスト教を少しでもかじった人ならご存じかと思うが、イエスが語ったとされる喩え話の一つに、『タラントの喩え』というのがある。
我はそれを思い出した。※やや長くなるので、もう一回続きます。関心ある方は、検索してみてください。聖書~タラントですぐみつかります。
さっきまでそこにいた人が、もう今はいない ― 2025年01月29日 13時52分59秒
★森永さん死んじゃった・・・と、
昨夜、女友達からのショートメールで、経済アナリストの森永卓郎さんの訃報が届いた。
容態が悪化してきたのは、知っていたし、その覚悟もしてはいたが、まさかこんなに早く突然亡くなるとは思いもしなかった。
※彼は、その前日まで、ラジオ番組にリモートで出ていて、体調悪化が進み、もう長くないとの報告を自ら語っていたのだ。
直接の友人知人ではないし、顔や声は知っていても会ったこともない。が、その女友達の友達の方で、もう数十年も前から彼のことはよく知っていたし、近年の活躍と政権に対しての歯に衣を着せぬ発言には深く共感し、常に注視していた。
その彼が原発不明の癌にかかり、見る影もないほど痩せてしまい、その闘病の過程を包み隠さず生放送のラジオをはじめ、様々なメディアで「発信」していたので、我も日々その動向、お身体の状態は気にかかっていた。
治ることはないとしても今年もまた桜の咲く頃までは何とか持ちこたえてほしいと祈っていたのだが・・・
いまの時代、70代でも若い頃と全く変わらず元気に、精力的に活動している人もたくさんいる。また、80歳過ぎでも現役の政治家も多い。
が、やはり齢と共にとうぜん死ぬ人は増えて来るし、森永さんのように癌に罹り、闘病を続けた末に亡くなる方も実に多い。高齢になる以前に。
彼なんて、我と同世代なのである。では、何で我でなく、彼は死んでしまったのか。
そして、ついさっきまで、昨日までそこに生きて「居た」人が、もう今はいない、消えてしまった喪失感に不思議ささえ覚える。
もう会えないどころか、声も聞けない。二度と何も死者は我らに語りかけない。
我は、キリスト者のはしくれとして信仰上は、命の復活、死後の生、死者の復活を教会では祈り唱えはしている。
が、ほんとうにそれがあるのか、かなうのか、死後の世界も含めて正直確信は持てないことを告白する。
結局のところ、死んでみないとその先のことはわからないし、何一つどうなるのか、死者たちは皆どこに行くのか、どこにいるのか語ることはできない。
そう、死後の世界は果たしてあるのか、だ。
つまるところ一つだけ確実なことは、死んでしまえば、その人の人生はその時点で全て終わりとなり、もはやこの現世とは一切の関わりを失うということだけだ。
残された者たちも同様で、死者にはもう何一つ為すべきことはできない。
もう森永さんの得難い、鋭いご意見が聞けなくなることは哀しいし残念でならない。できれば、日本経済のご意見番として、あと20年は舌鋒鋭く、今の経済、好景気はバブルであること、市場に踊らされてはならないこと、資本主義の虚妄を訴え続けてほしかった。
癌にさえならなかったら、それは十分可能であったはずなのに・・・
彼がまたエライのは、今日誰もが罹る国民病となった癌の罹患に対して、自らの状態を数値も含めてまったく包み隠さず常に世に、公に発表してきたことだ。
世には、「死者は生者を煩わすべからず」という美学というか理念が広く出回っている。我の周りにも死ぬまで不治の病となったことを隠し続けていた人もいた。そして突然死の報に驚かされたが、それはある意味、身勝手な死に方ではないか。
ヒトは誰でも死ぬし、必ず死んでいくイキモノなのだから、死への道筋を避けたり隠しても全く意味がない。
森永さんのように癌罹患を発表して堂々としかも悲観的にならず、その時々の状態、体調を冷静に世に曝す生き方というか、発信していく「死に方」はまさに画期的かつ立派だと我は思う。
さすれば、やがて後を追う者にとって大いに参考と指針にもなる。
そうした意味でも得難い人を喪った。ただ、彼自身としてはもはや何も悔いはないのではないか。
多趣味多才の人だったから、病が癒えたらまだまだいくらでもやりたいことはあったかと思うが、癌とわかり、「死」を見据えてからやるべきこと、したいこと、つまり死ぬまでになすべき、やりたい懸案のことはほぼ全て為し終えたと思える。書きたかった本も何冊も出した。まさに驚異的スピードで。
苦しい治療を続けながらわずか1年間でそれを為し終えたこと。それは実にすごい偉大なことだと感嘆する。
そうして社会的にも家庭的にも恵まれて、好きなこと、やりたいことは何でもやって、短くても満ち足りた素晴らしい一生だったのではないか。
彼の魂よ、安かれ。その志を継いでいくことこそが供養だと我は信ずる。
これからも世の動向、そのときどきに、森永さんがまだ生きていたら何て言うだろうかと何度も思うだろう。そのときこそ、彼の教えというべきか、心の内の指針として彼のことを思い自ら問い考え続けていきたい。
森永卓郎さん、ご苦労様でした。迫りくる「死」を克服した生き方、後を追う者たちに、大きな励ましと勇気となりました。
昨夜、女友達からのショートメールで、経済アナリストの森永卓郎さんの訃報が届いた。
容態が悪化してきたのは、知っていたし、その覚悟もしてはいたが、まさかこんなに早く突然亡くなるとは思いもしなかった。
※彼は、その前日まで、ラジオ番組にリモートで出ていて、体調悪化が進み、もう長くないとの報告を自ら語っていたのだ。
直接の友人知人ではないし、顔や声は知っていても会ったこともない。が、その女友達の友達の方で、もう数十年も前から彼のことはよく知っていたし、近年の活躍と政権に対しての歯に衣を着せぬ発言には深く共感し、常に注視していた。
その彼が原発不明の癌にかかり、見る影もないほど痩せてしまい、その闘病の過程を包み隠さず生放送のラジオをはじめ、様々なメディアで「発信」していたので、我も日々その動向、お身体の状態は気にかかっていた。
治ることはないとしても今年もまた桜の咲く頃までは何とか持ちこたえてほしいと祈っていたのだが・・・
いまの時代、70代でも若い頃と全く変わらず元気に、精力的に活動している人もたくさんいる。また、80歳過ぎでも現役の政治家も多い。
が、やはり齢と共にとうぜん死ぬ人は増えて来るし、森永さんのように癌に罹り、闘病を続けた末に亡くなる方も実に多い。高齢になる以前に。
彼なんて、我と同世代なのである。では、何で我でなく、彼は死んでしまったのか。
そして、ついさっきまで、昨日までそこに生きて「居た」人が、もう今はいない、消えてしまった喪失感に不思議ささえ覚える。
もう会えないどころか、声も聞けない。二度と何も死者は我らに語りかけない。
我は、キリスト者のはしくれとして信仰上は、命の復活、死後の生、死者の復活を教会では祈り唱えはしている。
が、ほんとうにそれがあるのか、かなうのか、死後の世界も含めて正直確信は持てないことを告白する。
結局のところ、死んでみないとその先のことはわからないし、何一つどうなるのか、死者たちは皆どこに行くのか、どこにいるのか語ることはできない。
そう、死後の世界は果たしてあるのか、だ。
つまるところ一つだけ確実なことは、死んでしまえば、その人の人生はその時点で全て終わりとなり、もはやこの現世とは一切の関わりを失うということだけだ。
残された者たちも同様で、死者にはもう何一つ為すべきことはできない。
もう森永さんの得難い、鋭いご意見が聞けなくなることは哀しいし残念でならない。できれば、日本経済のご意見番として、あと20年は舌鋒鋭く、今の経済、好景気はバブルであること、市場に踊らされてはならないこと、資本主義の虚妄を訴え続けてほしかった。
癌にさえならなかったら、それは十分可能であったはずなのに・・・
彼がまたエライのは、今日誰もが罹る国民病となった癌の罹患に対して、自らの状態を数値も含めてまったく包み隠さず常に世に、公に発表してきたことだ。
世には、「死者は生者を煩わすべからず」という美学というか理念が広く出回っている。我の周りにも死ぬまで不治の病となったことを隠し続けていた人もいた。そして突然死の報に驚かされたが、それはある意味、身勝手な死に方ではないか。
ヒトは誰でも死ぬし、必ず死んでいくイキモノなのだから、死への道筋を避けたり隠しても全く意味がない。
森永さんのように癌罹患を発表して堂々としかも悲観的にならず、その時々の状態、体調を冷静に世に曝す生き方というか、発信していく「死に方」はまさに画期的かつ立派だと我は思う。
さすれば、やがて後を追う者にとって大いに参考と指針にもなる。
そうした意味でも得難い人を喪った。ただ、彼自身としてはもはや何も悔いはないのではないか。
多趣味多才の人だったから、病が癒えたらまだまだいくらでもやりたいことはあったかと思うが、癌とわかり、「死」を見据えてからやるべきこと、したいこと、つまり死ぬまでになすべき、やりたい懸案のことはほぼ全て為し終えたと思える。書きたかった本も何冊も出した。まさに驚異的スピードで。
苦しい治療を続けながらわずか1年間でそれを為し終えたこと。それは実にすごい偉大なことだと感嘆する。
そうして社会的にも家庭的にも恵まれて、好きなこと、やりたいことは何でもやって、短くても満ち足りた素晴らしい一生だったのではないか。
彼の魂よ、安かれ。その志を継いでいくことこそが供養だと我は信ずる。
これからも世の動向、そのときどきに、森永さんがまだ生きていたら何て言うだろうかと何度も思うだろう。そのときこそ、彼の教えというべきか、心の内の指針として彼のことを思い自ら問い考え続けていきたい。
森永卓郎さん、ご苦労様でした。迫りくる「死」を克服した生き方、後を追う者たちに、大きな励ましと勇気となりました。
祝・発刊!!! 村瀬春樹著『あのころ、吉祥寺には「ぐゎらん堂」があった: 1970年代のカウンターカルチャー、その痛快な逆説』 ― 2025年01月28日 12時00分30秒

★こうした思い、記憶を我も世に記し残していこう!!
予約注文していた本が今朝方届いた。早速手に取り、パラパラと中身を開きざっと目を通した。
まだきちんと読み始めてもないが、今ともかくコーフンしている。この本が出たこと、手に入って良かった。
生きていて良かった、というのが今の気持ちだ。我も村瀬さんも。さっそく缶チューハイで昼前から乾杯してブログでまず報告と宣伝いたしたい。
吉祥寺の東急の裏手にあった三階建ての小さなビルの三階、そこに秘密基地のような喫茶店、居酒屋があった。
名は、「武蔵野火薬庫・ぐゎらん堂」。我は十代半ば、高校に入った頃にその店を知り出入りするようになり、多大な影響を受けた。多くの人に出会えた。多感な十代の人生がそこで交差した。
毎週水曜日、その店での生ライブで、目の前で友部正人やシバを聴いて衝撃を受けた。そして十代の少年は、大垣行きの夜行列車でキセルして大阪に行き、天王寺公園でやっていた春一番コンサートにまでのめり込むようになるのだ。
改めて今思うが、そこで、ラジオから流れる人気の吉田拓郎や井上陽水とかではない日本のフォークソングなるものを、生で知ることなければ、今の自分はここにいない。つまりこのブログすら書いていない。
もっと真っ当になり、きちんと学校を出て、就職してカタギの人生を送り、結婚もして今頃は、孫に囲まれ定年後の悠々自適の日々を送っていたかもしれない。
この本は、その店を始めたマスターだった、後にライターとして多くの素晴らしい本を多く出されている村瀬春樹氏が、当時の時代のこと、店の様子から出来事、人間関係まで、豊富な写真を交えて総括的に振り返りまとめ上げた大部の本だ。
村瀬さんからのお知らせでこの本が出ることを知り、さっそく予約して届くのを心待ちにしていた。
平凡社刊行の実に400ページをゆうに超す分厚い装丁もしっかりした本で、値段も税別で4500円と高額だが、その価値はしっかりある。我にとって死ぬとき棺桶に入れてもらいたいと思える一冊だ。
こうした本は、昨今やがては書かれるべきはずであったし、大概の場合、そのときは現場にいなかったルポライター的物書きが、執筆に際しその当時を知る関係者たちに細かく取材して、その時代と状況をうまくまとめ上げるというカタチの本も多い。※19○○年の何々~と題して。
が、何よりこれは当事者自身による、その店と、その時代の「総括」本である。他でもないご本人が豊富な資料を用いて、あの頃を振り返りまとめ上げたということが素晴らしく有難い。そこには今も変わらぬ熱気がしっかり記されている。
まだ文章は読まなくてもそこに載せられた店内や知人たちの若き日の写真に、だ懐かしく胸が熱く痛くなるほどだった。
この本を亡きやなぎ氏に捧げたい。「中卒」はどうしてるかな。
予約注文していた本が今朝方届いた。早速手に取り、パラパラと中身を開きざっと目を通した。
まだきちんと読み始めてもないが、今ともかくコーフンしている。この本が出たこと、手に入って良かった。
生きていて良かった、というのが今の気持ちだ。我も村瀬さんも。さっそく缶チューハイで昼前から乾杯してブログでまず報告と宣伝いたしたい。
吉祥寺の東急の裏手にあった三階建ての小さなビルの三階、そこに秘密基地のような喫茶店、居酒屋があった。
名は、「武蔵野火薬庫・ぐゎらん堂」。我は十代半ば、高校に入った頃にその店を知り出入りするようになり、多大な影響を受けた。多くの人に出会えた。多感な十代の人生がそこで交差した。
毎週水曜日、その店での生ライブで、目の前で友部正人やシバを聴いて衝撃を受けた。そして十代の少年は、大垣行きの夜行列車でキセルして大阪に行き、天王寺公園でやっていた春一番コンサートにまでのめり込むようになるのだ。
改めて今思うが、そこで、ラジオから流れる人気の吉田拓郎や井上陽水とかではない日本のフォークソングなるものを、生で知ることなければ、今の自分はここにいない。つまりこのブログすら書いていない。
もっと真っ当になり、きちんと学校を出て、就職してカタギの人生を送り、結婚もして今頃は、孫に囲まれ定年後の悠々自適の日々を送っていたかもしれない。
この本は、その店を始めたマスターだった、後にライターとして多くの素晴らしい本を多く出されている村瀬春樹氏が、当時の時代のこと、店の様子から出来事、人間関係まで、豊富な写真を交えて総括的に振り返りまとめ上げた大部の本だ。
村瀬さんからのお知らせでこの本が出ることを知り、さっそく予約して届くのを心待ちにしていた。
平凡社刊行の実に400ページをゆうに超す分厚い装丁もしっかりした本で、値段も税別で4500円と高額だが、その価値はしっかりある。我にとって死ぬとき棺桶に入れてもらいたいと思える一冊だ。
こうした本は、昨今やがては書かれるべきはずであったし、大概の場合、そのときは現場にいなかったルポライター的物書きが、執筆に際しその当時を知る関係者たちに細かく取材して、その時代と状況をうまくまとめ上げるというカタチの本も多い。※19○○年の何々~と題して。
が、何よりこれは当事者自身による、その店と、その時代の「総括」本である。他でもないご本人が豊富な資料を用いて、あの頃を振り返りまとめ上げたということが素晴らしく有難い。そこには今も変わらぬ熱気がしっかり記されている。
まだ文章は読まなくてもそこに載せられた店内や知人たちの若き日の写真に、だ懐かしく胸が熱く痛くなるほどだった。
この本を亡きやなぎ氏に捧げたい。「中卒」はどうしてるかな。
病の床で、夜の音を聞きながら考えたこと・② ― 2025年01月27日 21時09分08秒
★悔いばかり残るが、ヒトは必ず死ぬ、全てに終わりが来るのだから
一昨年から続いていた、我の家の内外での混乱、トラブルは、昨年ピークに達した。
以前も書いたが、我が家の家電製品のほとんどが壊れて使えなくなり、パソコンは、モニター画面を交換してからは、まだ問題なく使えてはいるが、エアコンにはじまり、テレビ、電子レンジ、宅電の他家中のほぼすべての家電が壊れてしまった。
おまけに猫が原因だと思うが、室内での漏水騒動で、請求された水道代が20万円ちかくとなって、分割払いとなり今年ようやく二回目の四万弱を先日何とか支払ったところだ。
そこに山梨からもウチにわざわざ固定資産税を督促に来る。嗚呼!!
唯一の収入元であったAmazonマーケットプレイスでの古本稼業も、購買者とのトラブルがあってから休止したままで、無収入なのに金は湯水のように出ていく。そこに次々税金や介護保険などの督促の請求が届く。ただ頭を抱えた。
そんなこんなで以前は定期的に、かけこみ亭で催していたコンサートの企画も時間的にも経済的にも、何より精神的余裕がなくなりもう断念するしかなかった。
まずは、生活再建、人生をきちんとさせてからだ。きちんと定収を得ることからだ。その思いは今も変わらない。
そうした窮状に、心配して友人たちから支援カンパが届き、親たちの遺してくれた預金を取り崩したうえで何とかこれまで凌いでいる。
改めてそのお志に深く感謝するしかない。ほんとうに助かっている。
また何人かの友からは、我の収入方法として、今住むこの家を担保のようなカタチにして、月々収入を得ることを勧められた。我の死後、この家は明け渡す:契約として。
また、山梨の倉庫のような古民家でも生活はできるのだから、そちらに拠点を移して、この家は売るなり貸すなりすれば良いという声も。
いろいろご心配かけて本当に有難く思う。我もあれこれの良い悩み検討いたした。
が、現時点では、ともかくもう少しこの家で、まず片づけを進めながら収入を得る道を模索したいと思ってる。
ともかく溜まりに溜まった古本、レコード類だけでなく、猫たちも含めて抱えているモノが多すぎて、まずそれを処分していかないことにはまさに身動きとれないのだ。
そんな状況の中、亡き母の知り合いで、市内あちこちに家作を持っておられる高齢の方から、今は空家となっている寮の食堂ホールを使って、何かフリマでもやらないかね、という話があった。
そこは名門スピーカーメーカー、フォステックスの元社員寮だった建物で、三階建てでかなりデカく、食堂も広い。が、かれこれもう20年?以上そこは空家状態となっていた。
正直、当初は気乗りが進まず話半分に聞いていたが、ふと、フリマはともかくもそこに空いてる広いスペースがあり、自由に使えるのならば、ライブイベント、フォークコンサートもできるではないか、と気がついた。
フリマは、あくまでも客寄せとして、コンサートを定期的に続けていけば、やがては、春一番で知り合った友が、三重県河芸の漁師小屋で、(今も?)毎年夏に続けている『ええかげん祭り』のように、多くのプロシンガーも登場する音楽イベントを地元でやれるかもしれない。
夢は広がった。で、地元でアマチュアミュージシャンたちに声かけて毎月野外で無料フォークコンサートを続けている方に相談したら、それは良いことだとご協力の快諾も得た。
で、まず昨年10月に、大慌てで第1回目の、そのフリマ&フォークコンサートを開催したのだ。
準備期間が短く、宣伝も市内に住む知人たちに声かけたりチラシを撒く程度しかできなかったが、初回としてはまあまあ人は集まった。旧い友もかけつけてくれて急遽手伝ってくれて大いに助かった。
で、二か月先として、12月に二回目をやったのだが、何故か客どころか歌い手自体も我が声かけた方以外には、ほぼ誰も来ない。客も初回より少なく、いや、数えるほどしか来なくてコンサートは大失敗に終わった。
ただフリマ自体は、一回目のときよりはまとめ買いの方が来てくれたので売り上げは良く、経費自体はまあ補填はできたが。
自分はいったい何をやっているのだろう? これからいったいどうすれば良いのか。この年末年始、咳の発作に苦しみながらベッドであれこれ考えた。
友人に金を融資してもらい、ライブ用のかなり大きい本格的なヤマハ製のスピーカーとPAのセットも二回目に向けて購入しホールにセットしたのに。宝の持ち腐れとはこのことだ。
そして改めてまた考えたのは、こんなことをやる余裕が自分にあるのか、ということだ。経済的な事はともかく、当日だけでなく宣伝や下準備などで、イベントにはかなり時間と体力が奪われる。
こんなことよりもまずは、家の片づけと、まず生活安定のための糧を得るための活動をすべきではないのか。
はっきり言って、フリマにせよフォークソングにせよ、それで飯が食えることなんてありえないのだから。
ただ今はこう思う。自分の人生は何につけても悔いばかり常に残り結果として、「失敗」の苦い味を噛みしめる。
が、何であれ先送り、先延ばしにして、先ずは自らの生活を安定させてから、このゴミ屋敷が片づいてからだ、とひたすら家にこもり自分のことだけに向き合っていたら、おそらくもうそれだけで、時間切れとなるだろう。
たぶんどんなイベントにせよCD製作にせよ、何一つできないまま関係者も自らも死んでしまい、すべては未遂に終わるのではないか。愚図な我だから間違いない。
これがまだ30代、40代ならまだしも、我の周りは、我も含めて皆アラ還ならぬ、アラ古希、つまり70歳前後なのである。
昨年も親しくして頂いた友人知人二人突然亡くなった。どんなことでも、いつかそのうちとか、これが終わってからと、先延ばしや後回しにしている余裕はもはや誰にもないのである。
ヒトは必ず死ぬ。どんな結果結末になろうと、ともかく生きているうちに、何ができるか、何をすべきか、だと気がついた。
そう、自分はいったい何がしたいのか、自分に何ができるのか。すべてに終わりが来る前に。
一昨年から続いていた、我の家の内外での混乱、トラブルは、昨年ピークに達した。
以前も書いたが、我が家の家電製品のほとんどが壊れて使えなくなり、パソコンは、モニター画面を交換してからは、まだ問題なく使えてはいるが、エアコンにはじまり、テレビ、電子レンジ、宅電の他家中のほぼすべての家電が壊れてしまった。
おまけに猫が原因だと思うが、室内での漏水騒動で、請求された水道代が20万円ちかくとなって、分割払いとなり今年ようやく二回目の四万弱を先日何とか支払ったところだ。
そこに山梨からもウチにわざわざ固定資産税を督促に来る。嗚呼!!
唯一の収入元であったAmazonマーケットプレイスでの古本稼業も、購買者とのトラブルがあってから休止したままで、無収入なのに金は湯水のように出ていく。そこに次々税金や介護保険などの督促の請求が届く。ただ頭を抱えた。
そんなこんなで以前は定期的に、かけこみ亭で催していたコンサートの企画も時間的にも経済的にも、何より精神的余裕がなくなりもう断念するしかなかった。
まずは、生活再建、人生をきちんとさせてからだ。きちんと定収を得ることからだ。その思いは今も変わらない。
そうした窮状に、心配して友人たちから支援カンパが届き、親たちの遺してくれた預金を取り崩したうえで何とかこれまで凌いでいる。
改めてそのお志に深く感謝するしかない。ほんとうに助かっている。
また何人かの友からは、我の収入方法として、今住むこの家を担保のようなカタチにして、月々収入を得ることを勧められた。我の死後、この家は明け渡す:契約として。
また、山梨の倉庫のような古民家でも生活はできるのだから、そちらに拠点を移して、この家は売るなり貸すなりすれば良いという声も。
いろいろご心配かけて本当に有難く思う。我もあれこれの良い悩み検討いたした。
が、現時点では、ともかくもう少しこの家で、まず片づけを進めながら収入を得る道を模索したいと思ってる。
ともかく溜まりに溜まった古本、レコード類だけでなく、猫たちも含めて抱えているモノが多すぎて、まずそれを処分していかないことにはまさに身動きとれないのだ。
そんな状況の中、亡き母の知り合いで、市内あちこちに家作を持っておられる高齢の方から、今は空家となっている寮の食堂ホールを使って、何かフリマでもやらないかね、という話があった。
そこは名門スピーカーメーカー、フォステックスの元社員寮だった建物で、三階建てでかなりデカく、食堂も広い。が、かれこれもう20年?以上そこは空家状態となっていた。
正直、当初は気乗りが進まず話半分に聞いていたが、ふと、フリマはともかくもそこに空いてる広いスペースがあり、自由に使えるのならば、ライブイベント、フォークコンサートもできるではないか、と気がついた。
フリマは、あくまでも客寄せとして、コンサートを定期的に続けていけば、やがては、春一番で知り合った友が、三重県河芸の漁師小屋で、(今も?)毎年夏に続けている『ええかげん祭り』のように、多くのプロシンガーも登場する音楽イベントを地元でやれるかもしれない。
夢は広がった。で、地元でアマチュアミュージシャンたちに声かけて毎月野外で無料フォークコンサートを続けている方に相談したら、それは良いことだとご協力の快諾も得た。
で、まず昨年10月に、大慌てで第1回目の、そのフリマ&フォークコンサートを開催したのだ。
準備期間が短く、宣伝も市内に住む知人たちに声かけたりチラシを撒く程度しかできなかったが、初回としてはまあまあ人は集まった。旧い友もかけつけてくれて急遽手伝ってくれて大いに助かった。
で、二か月先として、12月に二回目をやったのだが、何故か客どころか歌い手自体も我が声かけた方以外には、ほぼ誰も来ない。客も初回より少なく、いや、数えるほどしか来なくてコンサートは大失敗に終わった。
ただフリマ自体は、一回目のときよりはまとめ買いの方が来てくれたので売り上げは良く、経費自体はまあ補填はできたが。
自分はいったい何をやっているのだろう? これからいったいどうすれば良いのか。この年末年始、咳の発作に苦しみながらベッドであれこれ考えた。
友人に金を融資してもらい、ライブ用のかなり大きい本格的なヤマハ製のスピーカーとPAのセットも二回目に向けて購入しホールにセットしたのに。宝の持ち腐れとはこのことだ。
そして改めてまた考えたのは、こんなことをやる余裕が自分にあるのか、ということだ。経済的な事はともかく、当日だけでなく宣伝や下準備などで、イベントにはかなり時間と体力が奪われる。
こんなことよりもまずは、家の片づけと、まず生活安定のための糧を得るための活動をすべきではないのか。
はっきり言って、フリマにせよフォークソングにせよ、それで飯が食えることなんてありえないのだから。
ただ今はこう思う。自分の人生は何につけても悔いばかり常に残り結果として、「失敗」の苦い味を噛みしめる。
が、何であれ先送り、先延ばしにして、先ずは自らの生活を安定させてから、このゴミ屋敷が片づいてからだ、とひたすら家にこもり自分のことだけに向き合っていたら、おそらくもうそれだけで、時間切れとなるだろう。
たぶんどんなイベントにせよCD製作にせよ、何一つできないまま関係者も自らも死んでしまい、すべては未遂に終わるのではないか。愚図な我だから間違いない。
これがまだ30代、40代ならまだしも、我の周りは、我も含めて皆アラ還ならぬ、アラ古希、つまり70歳前後なのである。
昨年も親しくして頂いた友人知人二人突然亡くなった。どんなことでも、いつかそのうちとか、これが終わってからと、先延ばしや後回しにしている余裕はもはや誰にもないのである。
ヒトは必ず死ぬ。どんな結果結末になろうと、ともかく生きているうちに、何ができるか、何をすべきか、だと気がついた。
そう、自分はいったい何がしたいのか、自分に何ができるのか。すべてに終わりが来る前に。
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