昨日の子猫の譲渡会、誰も来ませんでした2022年09月12日 22時32分15秒

★仕切り直してもらってもらうニャ

明日9/11日、谷保かけこみ亭で「子猫の譲渡会」やります!!2022年09月10日 13時40分50秒

毛長の黒とマスク柄の子
★午後1時頃から参加費無料、どなたでも冷やかし大歓迎!!!

 我、マスダの父のことはさておき、その介護やらいろいろ多忙のため、ついついやるべき「処置」を怠っていたため、またまた子猫が産まれてしまいました。

 柄や模様は、画像以外にも、黒、キジ系いろいろおります。以前からお伝えしましたが、拙宅の「多頭飼育崩壊度」はさらに高まり、いよいよ「持続可能」な域を超える状態となってきました。
 すべて、私の不徳の致すところですが、せっかく生まれてきた命、何としても一匹残らず幸せにしてあげたいと思ってます。

 近年のコロナ禍日常社会で、このところ在宅での暮らしが多くなり、ペットと共に暮らす生活の意義、価値が高く見直されていると聞きます。
 猫が既におられる方も、まだ猫を飼ったことのない方も、まずは子猫たちに会いに来て、見て抱いてその愛らしさを慈しんでみてください。

 基本無料で差し上げます。問い合わせも含めて詳しくは、マスダの携帯か、拙ブログにコメント書き込んでください。非公開で確認後、その連絡先に連絡いたします。090-8175-8479

 どうか我の苦境、苦難から抜け出せるようお力貸して頂ける方はご協力のほどお願いいたします。

七年目の母の命日に2022年09月08日 19時28分12秒

★そして父はまだ生きている

 拙ブログ、私事ばかり記して申し訳ない。が、父のこの世での去就が定まらぬうちは、他のことについて落ち着いて書くほど我は余裕もなく気が回らない。どうかご容赦願いたい。

 今日、9月8日は、我が母が逝った日、命日である。
 2016年の今日未明、明け方というよりまだ外は暗い頃、母は我が家で全身衰弱し精魂尽き果ててその生を終えた。それからちょうど7年が過ぎたことになる。
 今思うと、八十代半ばまで生きたわけだし、一度は、癌を克服してほぼ元通りの生活も送れていたのだから、それは早死にとかは言えないし、十分にその人生を生き尽くしたと思えなくもない。
 が、我としては、ご近所、隣界隈の母の友人知人であった婆さんたち、つまりほぼ同世代の老婦人たちが、今もまだ90歳前後でも皆さん元気で健在であることを思うとき、やはり母は癌にさえならなければ、今もまだこの世にいてくれたはずだと残念に思えなくもない。
 生きていれば、母は今92歳かそこらの歳で、母の母、我の祖母は、98歳まで生きたことを思うと、決して不可能な歳ではないと思える。
 しかし、それは今さらもう考えても仕方ないことであり、全ては神の計らいなのだとして、母が癌に罹ったこともその死のありかたも、意味のある、我にとって大きなメッセージだったと今は受け容れている。
 そして、母の死後、残された我と父である。

 ウチの大黒柱的存在というより、司令塔であった母が先に逝き、家事家計全てを父と我の二人、男世帯でやっていかなくなってしまった。
 父は、その時点でもう90歳を過ぎて、かなり認知症も進んでいたし、言われれば動けたとしても自らの判断で、何かきちんと維持管理などはもうできない状態だったから、我がけっきょく一人で全部何もかも家のことと父の世話までやらなくてはならなくなった。
 その後のことは、拙ブログで折々愚痴をこぼすように書いてきたから今さら繰り返さないが、今思うと、まだ母の死後当初は、父もずいぶん元気だったと気がつく。
 母の葬儀、関連行事では、自ら歩いてその場所に行けたと記憶するし、人前でもきちんと応対も話もできていたのだから、頭もかなりクリアであった。
 そして身体もまだかなり動けたから、その後も時に深夜寝ぼけて自室の戸を壊して抜け出し庭先に出て徘徊したことすらあった。
 今思うとその頃は、我もおちおち眠ってもいられずタイヘンだったが、父もまだそれだけ妄動もできる体力があったのだと気づく。
 近年はもうすっかり動けず、自ら一人で歩くこともままならぬようになって、一度寝かせれば朝まで大人しくそのままベッドでひたすら眠っていたのだから、それだけ確実に全身の衰弱は進んだのだった。

 じっさい、去年2021年一年間だけで、父は年明けには60キロ台あった体重が一年で、12月には50キロまで落ちてしまった。母の最期のときも同様だが、裸にしてみるとまさに骨と皮となってしまった。
 それでもこの春以降は、経口栄養缶飲料を食事があまり進まないときなど施設でも出してもらったりして、体重はやや戻って来ていたし、ウチではまあまあ食欲もあったので、介助してきた我としては今年一年、まずはこの秋、父の誕生日である10月21日を無事過ぎたら、来年の正月もきっと迎えられるだろうと漠然と「予測」していた。
 確かに頭も身体も全身の衰弱は進んでしまったが、元から頑健な大男の偉丈夫だから、百歳は無理だとしてもそこに限りなく近くまで生きるだろう、まだまだ大丈夫だと思い込んでいた。

 そこに通っていた介護施設内でのコロナ感染である。コロナ蔓延・感染拡大中の医療崩壊の最中であったが、幸いにして奇跡的に空きベッドがあり、父は7月の半ばに入院できた。
 しかし、コロナ自体は癒えたものの、長引く入院生活で心身が衰弱してしまい、8月1日に、別の病院に転院、以後、今日9月過ぎても退院できる兆しがないどころか、口から食事も摂れなくなり先だっては、担当医から呼び出され、死期の宣告も告げられてしまったのだ。
 余命は先月末、8月30日頃までかも、とのことで、我は以降、日々いつその知らせが病院から届くか、待ち望むとは違う意味で怖れつつ毎日何度も携帯電話を確認し常に傍らに置いて毎日ただ過ごしてきた。

 九州在の我の妹は、仲の良い夫婦だったから父は母の命日頃に、母が迎えに来て逝くのではないかと言っていた。
 そして先月が終わり、9月に入って、その母の命日が近づくにつれて、我自身も一日づつ命が削られるような思いでその日を迎えた。
 しかし、今日、8日の夜の段階ではまだ病院からは何も連絡はない。
父は有難くもまだこの世に在る。迎えに来た母と、はぐれてしまったのか、それともまだその時ではないと、母はいったん父を置いてあの世へ戻ったのか。
 それとも父は無意識下でも我の行く末も含めて思うところがあり、死ぬに死ねないのか。

 ともあれ人の生き死には、人知では測り知れない。ただ我は父がまだこの世に在ることに感謝して、その日その時に備えて全てを整えていこう。
 まだまだやること、やるべきことはいっぱいなのだから。まず生きている者こそがきちんと生を律していかねばならない。
 我としては、今日の8日が一つの目安にしていた。それが過ぎた先どう何を見据えていけばいいのだろうか。

夢の啓示を受け容れていく2022年09月03日 11時58分24秒

★その不思議な夢の話を
 
 コロナの後遺症なのか、それとも自分の持病である、季節の変わり目に出る「寒暖差アレルギー」のせいなのか、このところ咳の発作が起きて体調すぐれない。
 一度何かのきっかけで、突然咳が出始めると、激しい発作のように止まらなくなり、鼻水は垂れるは、痰は出るは、喉は痛むは、とかなり体力奪われる。
 このブログもそんなでなかなか一回で書き終える気力と体力がなく、昨夜も続きを書き足そうと思いつつ、咳が出る予感もして早めに床に入ってしまった。喉は痛いものの昨夜は咳は出なかった。

 さておき、昔から「夢の知らせ」とか「夢のお告げ」ということが知られているが、それは「夢占い」とか「夢分析」以上に確かに、はっきりあるもので、迷信や偶然だと我は退けはしない。
 9月1日の早朝、いや、まだ深夜といっていい午前3時頃、尿意もあって突然目覚めた。
 そのとき見ていた夢は、前半部は、はっきり覚えてはいないのだが、自分が関わっている「クラブ」の友人知人たちも出てきて、我も彼らから何回もいろいろ誘われるのだが、何故か一緒の行動はとらず距離置いて頑なに拒んでいた。
 ただ、目覚める前にハッキリ覚えているのは、自分は不思議な帽子を手にしていたことで、それは薄い金物でできていて、縁はなくただ丸くて頭にすっぽり被るようにできている。
 色も赤茶けていて、かなり古いものらしい。
 それをしげしげと眺め手にして、我は、これは誰かの遺品でとても大事なものなのだと思っていた。

 そこで夢は途切れるように終わり、我は夢から覚めた。トイレに行き、しばらく夢のことを考えていたら、次いで突然我に啓示と言うか、ある新たな思いが降りてきた。
 それは、父に関することだ。
 父は、もうずいぶんすぎるほど長く生きた。十分に生きたどころか、十二分にまで生きた。何しろこの秋10月で満98歳になるのである。
 その父のために日夜我は神に祈ってきたが、ならばそれ以前に祈るべきことはもっとあることに気がついた。

 いま、世界では、ウクライナ情勢を見るまでもなく、戦禍に傷つき苦しむ人々が数多くいる。また、飢えや貧困、病、孤独に苦しみ悩む人も何億人といるはずだ。
 優先順位というわけではないが、身近な人たちへの愛や思いも大切なことだが、自分達のことだけでなく他の、今苦しんでいる人達が救われるように祈り願うべきだと突然気がついた。強い思いがわいてきた。
 父の無事や回復を祈る以前に、父のことだけではなく、まずは今苦しんでいる人たち、特に若い人たち、幼い子供たちが救われるよう祈り願うべきだと気づかされた。
 我がこと、自分のことばかり考え囚われていた身勝手さと愚かさに恥じ入った。そう、父はもう存分に生きたのである。もういつ死んでもいいじゃないか。
 神に祈り願うべきことはもっと他にたくさんある。

 このところ、旧ソ連のゴルバチョフ氏や京セラの稲盛和夫氏ら、偉大な仕事を成し遂げ一時代を築いた人たちが九十代高齢で亡くなっている。
 しかし我が父は彼らよりもさらに年上なのである。それなのにまだ更なる長寿を神に祈り願うのはあまりに傲慢、身勝手、欲深であろう。
 今まで父が生きてこれたことも、我の介護の成果なんかではなく、全ては神の意思、神の計らいなのだから、その最期のときもまた神に委ねて我はただそれを粛々と受け容れていくだけのことだ。

 そしてその我が手にしていた不思議な鉄の帽子は、一体何かと考えていたらば、ふいに兵隊の被る鉄カブトではないかと気がついた。
 古く赤茶けてところどころサビも出ていたようだったから、たぶんそれは、父が中国大陸で被っていたものなのかもしれない。
 何故そんな夢を見たのか、そこにどういう意味合い、メッセージがあるのかまだわからないが、我は、その夢以後、日々の祈りは確かに変わった。
 その夢は、いま病床で死に臨み意識朦朧としている父が我に示してくれたことかもしれない。

 もう覚悟はできた、とは正直言えやしないが、その鉄カブトの夢で我はずいぶん救われ楽になったことを記しておく。

新しい月、新しい季節に・続き2022年09月02日 11時23分30秒

★夢の啓示を、真摯に受け容れていく

 不思議な夢を昨日の朝方見た。月も季節も変わった9月1日の早朝のことだ。その有難き啓示について書く。

 古代より夢とは、異世界もしくは神のような人智を超えた何かがもたらすメッセージ、啓示だと人々は重く大切に受け止めてきた。
 近代の精神分析家たちは、夢とは、人のたんなる心中の悩みや願望など、つまり脳内に考えたり気になっていることが、睡眠中も頭の中にあって、そうした意識の反映に過ぎないと考えたが、我はそうは思わない。
 聖書にも多く記されているが、主は、幻や預言者の言葉、そしてまず夢を通して、自らはその姿は現さなくとも、多くのメッセージを聖人たちに与えてくれている。

 むろん、日ごろ気にかかっていることや、悩み心配事がそのまま夢に出てきて、ほぼ現実の反映という夢も確かにある。
 我も学生時代とそれ以後も、学校に関係する夢をかなり度々見た。
 たいていは、不登校で落ちこぼれだった自分が久々に学校に行っても自分の教室がみつからなくて焦る夢とか、つまるところ居場所のない不安からの悪夢のようなものばかりだったが、さすがに歳とってからはもう見なくなった。
 代わりに、ライブの企画をやったりしてた頃は、開演時間が近いのに、まだ何の準備もできていないとか、出演者が来ないなどのトラブルが次々起き、さあ、どうしたものかと慌て焦る夢は何度となく見た。

 確かに、その時々の心中、つまり脳内にある不安や悩み、心配事がそっくりそのまま現実の続きとして夢になることは確かにある。
 我も亡き母が出てくる夢や、母との暮らし、生前の頃のことは何度も見た。幸いなのは、夢に出てくる母は、死の間際の弱り痩せ衰えた姿ではなく、いつも元気な姿でいちばんよい状態のときだから、我は母は天国?、あの世では今も変わらず無事に幸せでいると思い、そう確信できその夢で安心できた。
 そうした善きメッセージもある反面、当然ながらまさに「悪夢」や哀しい夢もまた多々ある。

 ただ夢は、まさに夢の中の出来事だから、現実に目覚めると同時にそれまで見ていたこと、つまり夢の中の前のこと、最初のほうのことから忘れていく。
 夢を見たことは確かでも、起きたらよく思い出せず、ごく最後の部分だけだったり、夢の名残の気分だけ残っていることも多いだろう。つまり何か楽しい夢の心持ちだったり、哀しみの気分だったり、思い出せないが確かに見た夢が残した感情、感想だけが目覚めてもずっと残っていたりもする。
 しかし人は起きて目覚めるとそうした夢の中のことは、すぐに忘れて日々の現実に向き合わざるえない。そしてそうして人生は進んでいく。

 が、我が先日見た夢とその後にもたらされたメッセージは、不可思議かつ大きな転機になるものだった。

新しい月、新しい季節に2022年09月01日 22時18分27秒

★いま、苦しんでいる全ての人たちに、実際の救いを。

 秋9月に入りました。
 ご覧いただき有難うございます。私事ですが、昨夜から咳の発作が起きてしまい、体調すぐれず今日は終日寝込んで大事をとっておりました。
 当ブログ、書きたいのですが、夜遅くなるとまた咳が出、悪化しそうで、今晩はいったん早めに床につきます。、
 書きたいことも含めて、やるべきこと、したいことは多々あるのですが、情けないことに身体が思いについていかない。

 今思うのは、もう十分に長く生きた我が父のことよりも、まさに祈るべきは、今苦しみの中にいる、戦禍の人たち、病の渦中、適切な治療受けられず苦しんでいる人、そして飢えと貧困に苦しむ人たち、さまざまな虐待や差別の渦中にある人たち、特にそうした子供たちのために神の哀れみと慈しみがありますように、そして実際の助けが早く届くように。

 そう気づき、思い至ったことについて書き記したい。

行く夏に逝く人を思う2022年08月31日 10時20分42秒

★夏8月の終わり末日に

 季節の変わり目の前線が停滞しているとかで、このところずっと雨模様、曇りがちの日が続いている。弱いけれど日に何度も雨がぱらつく。
 おかげでいくぶん涼しい日もあったが、今日など湿気がすごくてともかく蒸し暑い。メガネかけている我は、買い物に出、冷房の効いた店から出るとメガネが曇ってしばらく何も見えないほどだ。

 父のこと他、今月を振り返り、これからについて書いていきたい。

 この一か月、正確には、七月の半ば過ぎからだが、父が突然いなくなり、その父不在の生活、新しい日常とどう向き合うか、どう理解し対応していくか、今後のことについてもずっと自問しつつ答えがなかなか見いだせなかった。
 正直なところ、施設内でのコロナ感染は仕方ないとしても、運よくこの病床逼迫の中、コロナ専門病棟に入れたわけで、コロナさえ癒えればまた再び元の生活、これまでの日常に父も我も戻れると思っていた。
 まさか、そのコロナ感染がきっかけで老衰が進み、死の床に就くとはまさに想定外であった。
 むろん百歳近い超高齢であり、この一年ほど急に瘦せ衰えてきて、頭も身体も老衰から死期は迫ってきていることはよく認識しその覚悟もしてはいた。が、このところはやや食事量も増え体重も戻って来ていたので、この夏をまず乗り切れば、98歳の誕生日を迎えられ、来年の正月までまあ何とか過ごせるのではと安易に考えていたから、この突然の新たな事態に正直動揺した。
 こうして父の死期は来るのか、それをただ受け容れるしかないのか迷い悩み悶々鬱々とした。

 これまでも書いたが、何より辛いのは、今もまだコロナ禍中ということで、一切見舞にも行けず、父に対して我は何もできないことだ。
 繰り返しになるが、これまでも父は誤嚥性肺炎と大腿骨の複雑骨折で長く入院し、一時期はかなり痴呆と全身の衰弱も進んだことがあった。それが90歳を過ぎた頃で、医師も看護師も誰もがもう回復して再び自宅に戻ることは難しいと思っていた。
 が、そのとき我は日々昼夕時の食事介助に病院に通って、父に食べさせながらその都度声かけて励まし刺激を与え、その甲斐もあってその時は、頭も身体も回復し再び自宅に戻ることができた。そして今までさらに生きてこれた。

 今回もそのときよりは歳もとり、かなり父の老衰は心身進んでいたが、息子である我が食事の都度、自宅と同じく声かけ毎食介助していけばまた再び口からの食欲も戻り、痴呆も回復し体力も戻り再び元のように、我家に帰れたはずだっただろうと今も確信している。が、現実は・・・
 父はコロナ入院の10日間で、刺激のないベッド生活が続いたため痴呆と全身の衰弱が進み、徐々に自ら食べられなくなって意識もはっきりしなくなってしまった。
 コロナは癒えて別の病院に転院したものの、やはり一切外からの刺激はなく、意識も朦朧とする状態が進み、もう口からは何も食べられないからと点滴だけで命を繋ぐような状態に進んでしまい、ついに担当医から余命宣告を受けるような事態になってしまったのだ。

 父がそうした事態に陥り我の気持ちは、というと、ただただ、どうすることもできなくて何とも情けない、やるせなく泣きたいような気持ち、としか言いようがないものだった。
 今でも願うのは、思い切り大きな声上げて泣けたらどれほど楽だろうか、ということだ。
 そして日々、いつ病院から父の異変を知らせる「そのとき」の連絡がくるか、携帯を常時手元に置いて、昼夜問わず耳を澄まし、怖れつつ日々待ち続けた。
 そして今日で、その「宣告」のリミットである。医師は、今のままでは、今月末、30日頃までもつかどうか、と8月12日の面談のとき我に伝えてきたのだった。
 しかし、今日8月末日夜の時点では病院からは何も連絡はない。父はまだこの世に在る。

 大きな犯罪を犯して刑が確定した死刑囚は、その後、その日、そのときをどう待ち、日々生きているのだろうか。執行日までどんな気持ちで過ごしているのか。我は彼らの心情を心より憐れむ。
 死刑が悪しき忌むことだと思うのは、刑罰だとしても人が人を殺すという、異常な悪しきことが意義ある正義として行われることもだが、一番残酷なことは、「そのとき」がいつ突然訪れるか、死刑囚当人には伝えられないことだろう。
 たとえ全て覚悟して、虚心坦懐の気持ちで心静かに日々動じずそのときを淡々と受け容れる人もいるのかもしれないが、もし我ならば、いつそれが訪れるか、その恐怖で発狂するかノイローゼになってしまうことは間違いない。

 自分は当事者ではないし、今、その宣告を受けた当人、我が父も今はもう何も知らずほぼ何もわからずうつらうつら夢うつつの状態にあるのかもしれないが、待ち望みはしなくても、「その日」が近く来ると思い考えて「待つ」のは本当に辛く苦しい。※いや、父の内面内心は誰にもわからない。もう何も心置きなく、全て理解してただ心静かにその時を待ち望んでいるのか、あるいは今も我が家に何としても戻りたいと強く願っているのか、それを思うと我も心苦しい。死にゆく人の傍らにいられないのが辛く悲しい。

 母の時も思い返せば、実際のところほぼ同様の状況だったわけだが、その時は常に母は、在宅のベッドに、つまりこの家にいたし、ずっと我らは共に一緒に過ごせていた。
 だから我もその日が来るなんて、まったく考えも想定もしなかった。最期の時まで、我はまさか母が死ぬなんて、その時のことなんてあえて想定も考えもしなかった。

 ただ今は違う。このコロナ禍、自分は父に対して何一つできないし、できることはただひたすら神に祈ることだけしかない。
 それも当初は、無事回復して再び家に戻れることを祈願したが、今は、ともかくできるだけ苦しまずに、その生を一日でも長く保ち、全うできることだけをただ祈っている。
 そして今朝方はまた別な気持ちに、我に新たな啓示があった。長くなるので、そのことをもう一回書かせてください。

特別なことだが、誰にでも必ず起こる、ごく当たり前のこと2022年08月25日 17時39分49秒

★母の死から七年目の夏の終わりに

 父がコロナ感染・発熱で専門病院に搬送されて以後一か月が過ぎた。それが7月21日のことで、当初我は、気楽に、コロナが治ればまた再び父はこの家に戻れる、そしてまた再びこれまでの日常が続いていくと安易に考えていた。
 が、コロナ自体は、幸いにして10日間の入院で癒えたものの、その間の入院生活で父は心身の衰弱が進み、このまま家に帰って来ても元の生活は難しいだろうと、別のリハビリ&療養型専門の系列病院へと転院を勧められた。
 口からも食べることがなかなか難しくなっているのと、長引くベッド上の生活で、コロナ禍中のため我も面会が一切できず、刺激がなく認知症も進んでしまい意識もはっきりせず、結局今は点滴だけで命を保っている、という状態になってしまった。
 そして先にも記したが、8月12日、担当医から呼び出しがあり、父の余命は、今月30日頃までかも、と宣告されてしまったという次第だ。

 この一か月間、常に携帯電話を持ち歩き、昼夜傍らに置き、「もしも」の事態に備え、電話がいつあるかと常に気持ちを傾注していた。
 幸い、今日の現時点では、まだ有難くも父はこの世に在る。そして実は、一昨日23日午後のこと、我は東京に住んでいる父の孫、我の甥っ子と共に、父の見舞い、面会に行ってきた。
 前日、病院から電話があり、特別に短時間だが、面会は許可する、と伝えられ、即、明日行くことにしたのだった。
 そしてその甥っ子に電話かけたら、彼も普段は超多忙なアニメ業界の人なのだが、幸いにして一仕事終わったところで、その日なら時間の都合がつくと良い返事があり、息子と孫の二人して、暑さがまたぶり返した夏日だったが、生きている我が父と面会できたのだった。
 まさに神の善きはからい、と思うしかないのだが、要するにそれだけ父の死が迫り来て、病院側として気をきかせて特別に許可してくれたということだろう。
 
 病床の父は、確かにまたさらに痩せて、意識もはっきりしない状態であったが、完全な昏睡状態ではなく、こちらの声かけや手を握り揺すると、目は開けなかったが、口を少し動かして何らかの意思表示を示してくれたようであった。
 こちらの贔屓目かもしれないが、行った時よりも別れ際は顔色も良くなり、穏やかな落ち着いた顔つきになった気がした。つまり、彼の意識には我らが来たことも声かけもこちらの思いも伝わったのだと信じたい。
 帰路その甥っ子と軽く食事して話したが、ともかくまだ生きてこの世に在る父と、彼にとっては祖父と、もう一度会えたことはまさに僥倖だった、運よく今日行けて良かったと喜びを語り合えた。

 そう、コロナ禍で面会さえも禁止されて、もうこのまま父と会えるのは遺体となったときなのかと、暗澹たる気分でこのところずっといた。
 今もまだ父が奇跡的に回復して再び短時間でも意識が戻り、我が家に一日でも帰らすことができればと日々神に祈るが、それは神と父自身の意思であり、ならば全ては神の御心に委ねるしかない。
 ただ、我は、その死が避けられないとしても、せめて一度は生きている父と会い、我の愚かさをまず詫びて彼の人生を慰労し感謝の気持ちを伝えたいと心から願っていたから、その思いは果たせたわけで、有難いことだと深くただ感謝している。

 ようやくこれで気持ちも一段落というか、一区切りついた。タイトルに書いた、特別なことだが、誰にでも必ずいつか起こる、ごく当たり前のこと、つまり「死」に対して、ことさらに脅え悩み畏怖するのではなく、起こるべくして起きることとして気持ちを整理していこう。

 母が死んだのは、2016年の9月8日であった。その日、その年から奇しくもちょうど7年目、しかも季節も近しい。
 居間の壁には、その年2016年の、12か月が載っている一枚の大判カレンダーが今も貼ってある。当然だが、週の曜日回りもその年と今年は全く同じである。
 九州在の我の唯一の妹は、父の容態を伝えたらば、ともかく仲が良かった夫婦だったから、その母の命日頃に母が迎えに来て逝くのではないか、と言ってたが、それもあながち迷信ではなく有り得ることと思えてきた。
 呆けて足腰も衰弱した父も母に手を引かれれば無事にあの世に行けると思うと泣けてきた。

近況報告~父は幸いまだ有難くも生きてますが・・・2022年08月18日 11時44分36秒

★自らの弱さと愚かさにただ向き合う日々

 先だって12日、父が入院している病院の担当医から、余命宣告受けたことは記しましたが、その後のことを・・・

 いまの状態では、おそらく今月30日まで持つかどうか、と医師から告知されて一週間。幸い今日、8月18日の時点では、病院からの通報はないので、ともかくまだ我が父は生きながらえてるということだ。
 ただただ、有難い、神に感謝!!としか言葉はない。

 が、この一週間、ひたすら日々、朝も昼も寝ている間も、携帯を常に傍らに置いて、いつ、その「知らせ」があるかと、高鳴る心で待ち続けるのは、ほんとうに辛いことだと告白する。
 信仰を持つ者として、主、つまり神に全てを委ね任せて、ただあとは、祈り続け、善き計らいを心静めて待てばよいと頭ではわかっている。そう、それが神の意思、思し召しなのだから。
 しかし、この弱く愚かな我は、父の迫りくる死という、不安と怖れとで、そのときを思うと、本当に夜も眠れなくなってしまう。
 自分の信仰の弱さと卑小さに呆れ果て、情けなく恥じ入るばかりだが、これが正直なところ、自分という人間の実際なのだからどうしようもない。
 しかし、そうした自らの弱さと愚かさと日々ひたすら向き合うことは、とてつもなく辛いが、おそらくきっとそこにも何か意味があるのであろう。

 考えてみれば、人は木の又から生まれてくるのではないのだから、子のない人はいても親のない人はいない。
 皆、誰もがいつかどこかで、その親の死と出会い、最愛の親であろうとなかろうと喪うときが来る。
 ほぼ全ての人が、ある程度歳をとれば、必ず自らの死の前に親を失う別れの時が来る。
 それは、自然災害や交通事故のような、ある日突然のまったく予期せぬ不測のときのこともあるかもしれないし、我のように老いた両親を順に看取り見送ることもまた多いはずだ。
 そう考えれば、何も特別なことではないし、そうした「突然の別れ」に比べれば、余命宣告を受けて、死に臨むほうがよほど幸いかもしれないと気づく。
 しかし、死刑囚が執行の日がいつ来るか、ただ待つのと同様に、その当人はもう何もわからない状態だとしても、周囲の者、特に家族は、そのときが来るのが怖い。そして恐ろしく不安である。
 とうぜんのこと、永遠の別れは哀しく辛い。

 だが、それも自然摂理であり、いつかは必ずそのときが自らも含めて誰にでも訪れるのだから、ただ脅え畏怖しても仕方のないことだと気づく。
 「そのとき」を前にしてまだ家の片付けも終わっていない。あと、果たして一週間の期間が残されているのかわからないが、まだすべきことがあれば、まずそれこそができることなのだから、それだけに専念していこう。

 辛いのは、神以外にこうした怖れと不安を告げ、語り合える「家族」が我にはいないことだ。肉親は、遠く九州に実妹が一人いるけれど、今思うと、我も同性異性を問わず、共に暮らす「家族」を作っておけば良かったと悔やむ。一人はやはり本当に辛い。
 我自らを介護や看護してくれとは望みもしないが、そうした不安と怖れに囚われたときに、それを言葉にして語り合える「ニンゲン」が傍らにいるかどうか、それこそ人生のいちばん大事な、生きていく秘訣ではなかろうか。
 動物は思いやりもあり、我の哀しみに寄り添ってはくれるけれど、そこに残念ながら「言葉」はない。神もその存在は信じるもののまだ我に、いまはまだ言葉は届かない。
 しかしだからこそ、慈しみ深い主に、祈り信じ語らい、心静めて「そのとき」をできるだけ動じずに受け容れられるよう、我らに哀れみを、とただ願うしかない。

 我が父は有難くもまだ生きてここに在る。願わくばできるだけ苦しむことなくその最期の日まで、その生を全うできますように。

死にゆく人に何ができるか、何をすべきか2022年08月12日 18時40分20秒

★余命二週間と告知されて

 我が父のことを書かせてください。
 先にも報告しましたが、今月の頭に、我が父は、コロナ病棟から治療を終えて別病院に退院、転院となった。
 が、その後もコロナによる10日間の入院生活から元の状態には戻れず、認知症もだが、全身の衰弱が進み、口から食べることができなくなってしまった。
 我としては、コロナが癒えればまた再び元の生活へと、つまり家に戻れて介護施設に再び通えるようになると考えていたのだが、現実のはなし、もうそれは難しいと次第にわかってきた。
 今は、父はかろうじて点滴で命を繋いでいる状況で、本日12日、病院に出向き担当医との面談で、現状の容態と今後について説明を受けた。
 かろうじて意識はまだあるようだが、衰弱は進み、このままだと今月末、30日頃までもつかどうかとのことだった。そう、長くてあと二週間である。

 いつかその日は来ると覚悟もしていたし、じっさい超高齢なのだからいつ不意に死が訪れてもちっともおかしくないのだったが、まだ実感はわかないものの、こんな風にして最期のときを迎えるのか!という感慨のようなものがある。
 我としては、コロナが癒えて、少しでも口から食べられるようになり回復の兆しが見えれば、家に連れ帰ってとことん面倒を見て、父をまたコロナ前に戻してまた再びこれまでの日常が始まると考えていただけに、何とも無念と言うかやるせない、いや、哀しみしか感情はわかない。

 ブログもまた間が空いてしまったのは、どうにも何を書くべきか迷っていたからだ。
 タイトルにも書いたが、死にゆく父のために、いったい何ができるのか、我は今何をすべきなのかとずっとひたすら自問していた。
 コロナ禍でなければ、毎日でも父の病棟に見舞いに行き、これ以上呆けないよう声かけて、食事も介助して叱咤激励し少しづつでも食べさせて元に戻す自身もあった。

 じっさい、今から7年前、父が誤嚥性肺炎から入院中、院内でベッドから落ちて腰の大腿骨を複雑骨折したときも、一か月間も我は毎日父を見舞って、食事を日に昼夕二回介助して、父は奇跡的に呆けずに衰弱は進まず再び元のように歩けるようになって退院できた。
 が、今回はコロナ禍で我はまさに成す術がなく、見舞さえも禁じられてただ一切病院任せとなってしまい、病院側は当然のこと、できるだけの介護はしてくれたと思うけれども、結果として父の呆けと衰弱は進みもう戻らないような状況となってしまったのだ。
 我にできることは、ただ日々神に祈ることだけで、父が回復して父ともう一度この家で再び暮らせますように、とひたすら祈り続けるしかなかった。

 全能の神は、死人さえも生き返らすことができるのだから、父もまた再び元気になって家に帰れると信ずることもできる。
 が、またこうも思う。これが50代、60代の人ならば、そうした願いも意味があり、当人もそれを強く願うだろう。しかし、父は百歳近くまで生きてきたのである。
 これ以上の長寿は果たしてそこに意味があるのか、また当人もそれを望んでいるのか。我の勝手な思いと願いで父に存命を神に願うのが正しいことなのか。
 何よりまず父本人の意思と希望が優先されるべきであろうし、そこに神のご意思が働くのではないか。
 我自身の勝手な思いで父を生きながらせることは、たとえ可能だとしてもそれはまた自然の摂理や神の意志にかなうことなのか。

 心は今も千々に乱れるが、この一週間、ずっと自問してしだいに見えてきたのは、願うは、ともかく父の生をとことん一日でも長く、できるだけ苦しむことなく全うさせたい、ということだ。
 そして会えなくても離れていても父を思い父に語らい、繋がるように祈り願うこと。
 そのうえで、神はきちんと愛と慈しみ、哀れみをもって我らを計らってくれるだろう。
 今もまだ父が再び回復してこの家に帰って来てくれる望みは絶対に諦めはしない。が、今は、神にすべてを委ね任せていこうと思う。
 ともかく父はその生を、願わくば苦しむことなく全うできますように。

 ナガサキの原爆忌頃までは数日間今夏久々に涼しい日が続いていたが、また以後猛暑は再燃し、この数日また耐え難い暑さが続いていた。
 が、近く台風が来るとのことで、今日は曇りがちの晴れとなり風もあり少しは涼しく感じられた。
 そして今は、その台風の影響なのか外は雨が降っている。
 主は雨の日も晴れの日もまさに御心のままに我らに示して自然の摂理、不思議さを示してくれている。
 人の生死もまた同様に、人知のおよぶ範囲ではないと思い至らねばならないのかと思える。
 静かな雨の音を聴きながら、ずっと書けなかったこの「報告」ができてほっとしている。
 また状況に動きがあれば拙ブログに告知していきます。皆さまも暑さとコロナにどうかご自愛ください。罹るとやはり後遺症がタイヘンですから。