いまが、最低最悪の時。この先にあるのは死。 ― 2023年08月29日 09時39分09秒
★ならばこそ、ここから這い上がらねば、戻さねば。
観測記録史上、最も熱い夏、2023年の8月も終わろうとしている。
間もなく、我が父母の命日が重なる、哀しみの月、9月が来る。
拙ブログ再開すると告知した手前、まずは、これまでの経緯を改めて記さねばならない。
もう本当に頭がおかしくなってしまっていた。何もできないし何もわからなくなってしまった。
何もかもが、いまそこにあって使ってたものもすぐになくなり見つからなくなり、今自分が何をしていたのかさえわからなくなった。混乱と混沌で今も家の内外は足の踏み場がなく、コバエが飛び交うゴミ屋敷のままだ。
今もまだバカは変わらないし身体もツラく動かないが、気持ちだけは前向きになった。よって、ブログも再開しようと思い直したのだ。
そう、このままだと、家の失火や事故を起こして我は間違いなくあっけなく死んでしまう。
そして、このブログは棚ざらしにされたまま、二度と更新されることない。
我個人を知る、ごく親しい友人知人たちには、野垂れ死んだ知らせは少し広がるかもしれないが、そうではない拙ブログ少数の読み手の方々は、時間も過ぎて、どうしたのか訝しく思うだけで自然消滅したか、ついに投げ出したと判断し、やがては完全に忘れ去られるだけだろう。
それもまた致し方ない結末ではあるけれど、そうなる前にもう一度、外の世界との唯一の窓口である我ブログで、できるだけ今の我の「生」を発信したいと思い直した。
どうしようもない失敗した人生、生きている価値もないと自分でも思うが、その人生の後始末、死ぬための「経過報告」を記していけたらと願う。もしかしたらそこに少しは何らかの読む価値もあるかもしれないと。
君たちは、どう生きるか、なる題名の本や映画が巷では話題であるが、その問いかけに、どう生きるか、ではなく、どう死んでいくか、こそが問題なのだと答えたい。この歳になると。
そう、どう死ぬかは、カンタンなことで、人は存外あっけなく自死でなくてもある程度老いればすぐに死んでしまう。不測の病気や転倒など迂闊な事故等で。
ならばこそ、死ぬために、どのような道筋を選ぶか、進むかこそが一番大事なことではないか。それは断捨離などという些末な身辺整理などですむ話ではない。
君は、いったいどう死んでいくか、との問いかけを前に、その報告を記していきたい。
観測記録史上、最も熱い夏、2023年の8月も終わろうとしている。
間もなく、我が父母の命日が重なる、哀しみの月、9月が来る。
拙ブログ再開すると告知した手前、まずは、これまでの経緯を改めて記さねばならない。
もう本当に頭がおかしくなってしまっていた。何もできないし何もわからなくなってしまった。
何もかもが、いまそこにあって使ってたものもすぐになくなり見つからなくなり、今自分が何をしていたのかさえわからなくなった。混乱と混沌で今も家の内外は足の踏み場がなく、コバエが飛び交うゴミ屋敷のままだ。
今もまだバカは変わらないし身体もツラく動かないが、気持ちだけは前向きになった。よって、ブログも再開しようと思い直したのだ。
そう、このままだと、家の失火や事故を起こして我は間違いなくあっけなく死んでしまう。
そして、このブログは棚ざらしにされたまま、二度と更新されることない。
我個人を知る、ごく親しい友人知人たちには、野垂れ死んだ知らせは少し広がるかもしれないが、そうではない拙ブログ少数の読み手の方々は、時間も過ぎて、どうしたのか訝しく思うだけで自然消滅したか、ついに投げ出したと判断し、やがては完全に忘れ去られるだけだろう。
それもまた致し方ない結末ではあるけれど、そうなる前にもう一度、外の世界との唯一の窓口である我ブログで、できるだけ今の我の「生」を発信したいと思い直した。
どうしようもない失敗した人生、生きている価値もないと自分でも思うが、その人生の後始末、死ぬための「経過報告」を記していけたらと願う。もしかしたらそこに少しは何らかの読む価値もあるかもしれないと。
君たちは、どう生きるか、なる題名の本や映画が巷では話題であるが、その問いかけに、どう生きるか、ではなく、どう死んでいくか、こそが問題なのだと答えたい。この歳になると。
そう、どう死ぬかは、カンタンなことで、人は存外あっけなく自死でなくてもある程度老いればすぐに死んでしまう。不測の病気や転倒など迂闊な事故等で。
ならばこそ、死ぬために、どのような道筋を選ぶか、進むかこそが一番大事なことではないか。それは断捨離などという些末な身辺整理などですむ話ではない。
君は、いったいどう死んでいくか、との問いかけを前に、その報告を記していきたい。
今あるものすべてときちんと向き合おう、応えよう ― 2023年08月26日 23時25分05秒
★ブログ再開します。
父が死んで間もなく一年となる。天涯孤独での初めての夏も終わろうとしている。
ウツもだが、ほんとうに人生が行き詰って、さらに様々な悪意ある嫌がらせも多々あって、生きている意味を問い続けた。自業自得にせよ、なんでこんなに苦しく辛いことばかり起こるのか!!
今も自分にはどこにも居場所がないと思えるし、ほんとにいつ死んでも構わない、もうすべてどうでもいいという気持ちでいる。が、だからといってもうこの人生をすぐさま投げ出しあの世へトンズラしようとは思わない。
さすれば、まさに、死後裁きにあう。いや、それだけでなく、けっきょく何度でもまた産まれては同じ地獄に出会うだけのことだ。自分はこれを必ず繰り返す。この現世で改めオシマイにしない限り。
死はすべての終わりではない。肉体は滅びても魂にとってまた新たなスタートとなるのだから。
そう、救いはないのである。けっきょく死ぬまで生きていくしかない。その中で何が、どれだけできるか、なのだ。
拙ブログもいろいろ考えたが、我を忌避・嫌悪して問題ある者として監視し糾弾しようとアクセス試みる奴らと、コメント頂いたように少なくても読み手として「再開」を心待ちにされてる方々とを比べて思うとき、悪意・敵意ある奴らに屈して我身の保身の為に、善き愛すべき人々を切捨ててはならぬと思い至った。それはあまりに身勝手であろう。
先にも書いたが、今このプラットフォームではない、別ブログの場とシステム自体を再考して新たなブログの場を探している。
が、それがみつかりそちらに安全に移行できるまでは、このブログを続けていく予定だ。
これまでの経緯も含めて、詳しいことは順次またこの場で書いていく。
もし少しでも我と我の書くことに関心やご興味ある方はどうかまたお読み頂きたい。
むろん、同時に我を貶めようと、失態・問題を探しては告発しようと目を光らす奴らも読むとは思う。なので細心の注意をもって、もう隣近所等の世間的なことや、書いたことが通報されるような足をすくわれるようなウカツことは記さないようにする。
このブログで書き記すのは、あくまでも個人的なこと、我が脳内のこと、つまり趣味嗜好、思想的なことだけとしていく。猫のことや我家の状況等については関心あらば個人名でお問い合わせ頂きたい。きちんと個々お伝えします。
自分は神の前において誰よりも不誠実な人間である。だからこそ、今あるものすべてにきちんと向き合い、応えたいと願う。この拙いブログを読まれる方とも。
そのための足がかりとして、このブログを用いたい。
すべて正直にありたいからこそ、すべてあからさまに書けないようになること(つまり世間的トラブルの種となること)は書かないことにした。
どうか改めてお付き合いください。
父が死んで間もなく一年となる。天涯孤独での初めての夏も終わろうとしている。
ウツもだが、ほんとうに人生が行き詰って、さらに様々な悪意ある嫌がらせも多々あって、生きている意味を問い続けた。自業自得にせよ、なんでこんなに苦しく辛いことばかり起こるのか!!
今も自分にはどこにも居場所がないと思えるし、ほんとにいつ死んでも構わない、もうすべてどうでもいいという気持ちでいる。が、だからといってもうこの人生をすぐさま投げ出しあの世へトンズラしようとは思わない。
さすれば、まさに、死後裁きにあう。いや、それだけでなく、けっきょく何度でもまた産まれては同じ地獄に出会うだけのことだ。自分はこれを必ず繰り返す。この現世で改めオシマイにしない限り。
死はすべての終わりではない。肉体は滅びても魂にとってまた新たなスタートとなるのだから。
そう、救いはないのである。けっきょく死ぬまで生きていくしかない。その中で何が、どれだけできるか、なのだ。
拙ブログもいろいろ考えたが、我を忌避・嫌悪して問題ある者として監視し糾弾しようとアクセス試みる奴らと、コメント頂いたように少なくても読み手として「再開」を心待ちにされてる方々とを比べて思うとき、悪意・敵意ある奴らに屈して我身の保身の為に、善き愛すべき人々を切捨ててはならぬと思い至った。それはあまりに身勝手であろう。
先にも書いたが、今このプラットフォームではない、別ブログの場とシステム自体を再考して新たなブログの場を探している。
が、それがみつかりそちらに安全に移行できるまでは、このブログを続けていく予定だ。
これまでの経緯も含めて、詳しいことは順次またこの場で書いていく。
もし少しでも我と我の書くことに関心やご興味ある方はどうかまたお読み頂きたい。
むろん、同時に我を貶めようと、失態・問題を探しては告発しようと目を光らす奴らも読むとは思う。なので細心の注意をもって、もう隣近所等の世間的なことや、書いたことが通報されるような足をすくわれるようなウカツことは記さないようにする。
このブログで書き記すのは、あくまでも個人的なこと、我が脳内のこと、つまり趣味嗜好、思想的なことだけとしていく。猫のことや我家の状況等については関心あらば個人名でお問い合わせ頂きたい。きちんと個々お伝えします。
自分は神の前において誰よりも不誠実な人間である。だからこそ、今あるものすべてにきちんと向き合い、応えたいと願う。この拙いブログを読まれる方とも。
そのための足がかりとして、このブログを用いたい。
すべて正直にありたいからこそ、すべてあからさまに書けないようになること(つまり世間的トラブルの種となること)は書かないことにした。
どうか改めてお付き合いください。
己の罪と罰 ― 2023年07月15日 22時40分35秒
★なかなか「撤収」作業は進まない
「断捨離」などという大層なことではなく、自らの人生を終わらせる、つまり撤収に取りかかっているわけだが、相変わらずどうにも進まない。
家は内外、相変わらずゴミ屋敷のままで、まったくもってどうしようもない。
気分は一時のひどい鬱状態は脱しているものの、また心と頭痛める事態が起きてしまい、憂鬱というか、心静めて何かに向き合える状況とは程遠い。※この1~2週間、コロナに罹ったかと思うほど体調も悪かった。
何が起きているのか、昔ならば逐一、このブログの場で書いて、曝け出すこともできたが、今は、基本としてブログは書かない、書けないというスタンスでやっているので、やはり吐き出せず、苦しいところもある。
が、下手に、某タレントさんのように、世に向けて近況や日々思い考えたことを「発信」してしまうと、無名の我でさえも悪意ある「反応」「反響」が返ってくることもあるし、誹謗中傷ならずとも世間の顰蹙をさらに買うことに繋がるので、やはりもうSNSは、原則としてやるべきではないと、そのタレントの自死に強く思った。
この世は、自らの正義の名を借りた「悪意」に満ちているのだから。
むろん、基本仲間内、友人知人関係だけに特化したフェイスブックのようなものならば、その「悪意」の度合いは、軽いとは思うが、やはり誰が常に目にするかわからない場、SNSは、怖くて迂闊かつ気軽に、私的、個人的なことは、情報も含めて書けない、書いては危険だと改めて思った。
が、我にとっては書くという行為、内心の思いの内を、文字として文にして現わすことこそが、唯一のストレスや悩みの解消法であり、拙ブログをやめるまでは、鬱にはならなかったはずだ。
その心のうち、悩みも含めて、「思い」を外に出す場がなくなったときから、我の苦しみが始まったのだと今痛感している。
このところ日々願い思うことは、もう何もかもどうでもいい、もう何もいらない、ともかく早く何もかもすべてを終わらせたい、ということで、始終そのことをお題目のように呟いている。
が、先にも書いたが、全てモノゴトには手順と段取りがあり、こんな我にも多少は責任感もあるわけで、すぐさま突発的に自死する気はない。いや、できやしない。
いまの状態で、この世からトンズラしたら、死後の裁きだけでなく、唯一の肉親である、最愛の妹やその子たちに多大な迷惑がかかる。
失敗した人生だからこそ、最後は何とかできるだけ関わりある他者を悩み苦しめることのないよう、うまく収めたいと願う。立つ鳥後を濁らず、の謂いの通りに。
今朝方、テレビのドキュメンタリー番組で、見るともなく見てたら、瀬戸内海?の島の水産加工業者の男が、そこの名産・小鰯の加工品「いりこ」作りの仕事に関し、大変だが「やめたら終わりだから」と語っていた。
そう、何であれ「やめたら終わり」なのだと思う。すべてはともかく続けていくことだ。
終わりにすることは存外カンタンで、命などごく簡単に断つことができる。何よりも大変なのは、始めることもだけど、「続けていく」ことで、それはけっこう正直しんどい。
ましてたった一人で、多くのモノを抱え、維持していくことは。ほんとうに辛く苦しい。
しかし、自らやめずとも、終わりの時は必ず嫌でも来るわけで、不本意でもその「終わり」のときが来るまで、人生は続けていかねばならぬと心する。
すべては自業自得でもあるわけだが、今、我に起きていることは、まさに己の罪に対する罰なのだとつくづく思う。まさに自らの不徳が招いたことだ。
むろん、さらに死後にまた裁きにあうことも間違いないわけで、その「罪」と罰のカクゴを決めてともかく生き続けていくしかない。
ともかくもうできるだけ人には会わず、どこにも出かけず、ネット上の情報に振り回されることなく、粛々と自らが犯した罪に向き合っていく。
それこそが生きていくこと、人生を続けていくこと。償いにもならないが、せめて人として最低限の義務は果たしたい。
「断捨離」などという大層なことではなく、自らの人生を終わらせる、つまり撤収に取りかかっているわけだが、相変わらずどうにも進まない。
家は内外、相変わらずゴミ屋敷のままで、まったくもってどうしようもない。
気分は一時のひどい鬱状態は脱しているものの、また心と頭痛める事態が起きてしまい、憂鬱というか、心静めて何かに向き合える状況とは程遠い。※この1~2週間、コロナに罹ったかと思うほど体調も悪かった。
何が起きているのか、昔ならば逐一、このブログの場で書いて、曝け出すこともできたが、今は、基本としてブログは書かない、書けないというスタンスでやっているので、やはり吐き出せず、苦しいところもある。
が、下手に、某タレントさんのように、世に向けて近況や日々思い考えたことを「発信」してしまうと、無名の我でさえも悪意ある「反応」「反響」が返ってくることもあるし、誹謗中傷ならずとも世間の顰蹙をさらに買うことに繋がるので、やはりもうSNSは、原則としてやるべきではないと、そのタレントの自死に強く思った。
この世は、自らの正義の名を借りた「悪意」に満ちているのだから。
むろん、基本仲間内、友人知人関係だけに特化したフェイスブックのようなものならば、その「悪意」の度合いは、軽いとは思うが、やはり誰が常に目にするかわからない場、SNSは、怖くて迂闊かつ気軽に、私的、個人的なことは、情報も含めて書けない、書いては危険だと改めて思った。
が、我にとっては書くという行為、内心の思いの内を、文字として文にして現わすことこそが、唯一のストレスや悩みの解消法であり、拙ブログをやめるまでは、鬱にはならなかったはずだ。
その心のうち、悩みも含めて、「思い」を外に出す場がなくなったときから、我の苦しみが始まったのだと今痛感している。
このところ日々願い思うことは、もう何もかもどうでもいい、もう何もいらない、ともかく早く何もかもすべてを終わらせたい、ということで、始終そのことをお題目のように呟いている。
が、先にも書いたが、全てモノゴトには手順と段取りがあり、こんな我にも多少は責任感もあるわけで、すぐさま突発的に自死する気はない。いや、できやしない。
いまの状態で、この世からトンズラしたら、死後の裁きだけでなく、唯一の肉親である、最愛の妹やその子たちに多大な迷惑がかかる。
失敗した人生だからこそ、最後は何とかできるだけ関わりある他者を悩み苦しめることのないよう、うまく収めたいと願う。立つ鳥後を濁らず、の謂いの通りに。
今朝方、テレビのドキュメンタリー番組で、見るともなく見てたら、瀬戸内海?の島の水産加工業者の男が、そこの名産・小鰯の加工品「いりこ」作りの仕事に関し、大変だが「やめたら終わりだから」と語っていた。
そう、何であれ「やめたら終わり」なのだと思う。すべてはともかく続けていくことだ。
終わりにすることは存外カンタンで、命などごく簡単に断つことができる。何よりも大変なのは、始めることもだけど、「続けていく」ことで、それはけっこう正直しんどい。
ましてたった一人で、多くのモノを抱え、維持していくことは。ほんとうに辛く苦しい。
しかし、自らやめずとも、終わりの時は必ず嫌でも来るわけで、不本意でもその「終わり」のときが来るまで、人生は続けていかねばならぬと心する。
すべては自業自得でもあるわけだが、今、我に起きていることは、まさに己の罪に対する罰なのだとつくづく思う。まさに自らの不徳が招いたことだ。
むろん、さらに死後にまた裁きにあうことも間違いないわけで、その「罪」と罰のカクゴを決めてともかく生き続けていくしかない。
ともかくもうできるだけ人には会わず、どこにも出かけず、ネット上の情報に振り回されることなく、粛々と自らが犯した罪に向き合っていく。
それこそが生きていくこと、人生を続けていくこと。償いにもならないが、せめて人として最低限の義務は果たしたい。
死ぬ前に果たすべきいくつかのこと ― 2023年06月26日 20時15分32秒
★そして、「音楽」に関して
何としても若き日に、友人仲間と撮った八ミリ映画を、デジタル化して御礼として「青春の記録」としてお届けしたい。
さらに、もう一つ、心に残っているのは、我が若き頃から録り溜めた「音楽」に関する事である。
大阪の春一をはじめ、世の人たちから度々ひんしゅくを買い、トラブルの種になってきたが、我は、若い頃から記録収集マニア的気質があり、雑誌からチラシから何であれ手元に来たもの、関わったモノゴト、行って見たものは、どんなものであれ、何でも捨てずにとってきた。
同時代同世代のみうらじゅん氏も同様の気質の方であり、彼もまたあらゆる身辺に届いたものをともかくひたすら収集してはスクラップして、膨大なコレクションを誇っている。
彼のエライことは、きちんとその集めたものものを、整理してスクラップブックに貼付けるなり保管して、すべて自ら管理できていることだ。
我は、収集はするが、その能力は人並み以上だと自負しても、それをきちんと博物館的に整理分別保管することは全くできない。
ただ集めるだけ集めて、物は増えるが、いったい何がどこにあるのか、その全体像も個々の状態、状況も自分では皆目わからない。
我はカセットテープ時代も含めて、1970年代から様々なイベントやコンサートの音を録音・記録してきた。また、テレビ番組も、80年代からずっと多々録画してきた。※当初は、ベータで、次いでVHSで、近年は、ブルーレイディスクで。
さの他、宣伝広告やチラシ類など紙もの、紙ごみ類も膨大に未整理のまま残っている。
そうした長年録り溜めたものの中でも、テレビやラジオの放送番組は、他にも録音録画した方が多々おられ、保存され、また世に流れていくと思うから惜しいとは思わないが、我が個人的にその場に立ち会い録音や撮影した映像についてである。
たぶん、他に誰も録ったりしていなければ、我の手元にあるものが唯一の記録であろう。
そこにどれだけの価値や意義があるかはともかく、そのコンサートやシンガー、ミュージシャンの知名度や人気は関係なく、やはりある時代と場の記録として、このまま我の死と共に消えてしまうのはいかがなものか。
むろん、時というものは、一過性で、二度と戻らないし再現も復元もできやしないが、幸いにしてその一瞬を記録したものが今残っているのならば、それは、やはりきちんと後世へ伝えていくべきもの、残すべき価値があるのではないか。
そうしたものを、我の死と共に雲散霧消させてしまうのは忍び難い。モッタイナイ気がする。
むろん、誰か後を託せる人が現れ、その同好の士が、きちんとその「遺産」を活かしてくれるのならば良いけれど、現実的には、我にはそんな仲間はいない。誰にも託せない。
我が死ぬば、最終的には、何もかも我が妹や甥っ子たちが全部ゴミとして処分してくれるはずだ。しかもさんざん我に悪態つきながら。
ならば、せめてもう少しできるところまで、そうした「音源」を整理して、
何が入っているのか、中身がわかるようにして、せめて誰かモノ好きな人に、「形見」として貰われていくようまとめなければならない。
むろんそこに価値があると思うのは我一人なのかもしれないが。
何としても若き日に、友人仲間と撮った八ミリ映画を、デジタル化して御礼として「青春の記録」としてお届けしたい。
さらに、もう一つ、心に残っているのは、我が若き頃から録り溜めた「音楽」に関する事である。
大阪の春一をはじめ、世の人たちから度々ひんしゅくを買い、トラブルの種になってきたが、我は、若い頃から記録収集マニア的気質があり、雑誌からチラシから何であれ手元に来たもの、関わったモノゴト、行って見たものは、どんなものであれ、何でも捨てずにとってきた。
同時代同世代のみうらじゅん氏も同様の気質の方であり、彼もまたあらゆる身辺に届いたものをともかくひたすら収集してはスクラップして、膨大なコレクションを誇っている。
彼のエライことは、きちんとその集めたものものを、整理してスクラップブックに貼付けるなり保管して、すべて自ら管理できていることだ。
我は、収集はするが、その能力は人並み以上だと自負しても、それをきちんと博物館的に整理分別保管することは全くできない。
ただ集めるだけ集めて、物は増えるが、いったい何がどこにあるのか、その全体像も個々の状態、状況も自分では皆目わからない。
我はカセットテープ時代も含めて、1970年代から様々なイベントやコンサートの音を録音・記録してきた。また、テレビ番組も、80年代からずっと多々録画してきた。※当初は、ベータで、次いでVHSで、近年は、ブルーレイディスクで。
さの他、宣伝広告やチラシ類など紙もの、紙ごみ類も膨大に未整理のまま残っている。
そうした長年録り溜めたものの中でも、テレビやラジオの放送番組は、他にも録音録画した方が多々おられ、保存され、また世に流れていくと思うから惜しいとは思わないが、我が個人的にその場に立ち会い録音や撮影した映像についてである。
たぶん、他に誰も録ったりしていなければ、我の手元にあるものが唯一の記録であろう。
そこにどれだけの価値や意義があるかはともかく、そのコンサートやシンガー、ミュージシャンの知名度や人気は関係なく、やはりある時代と場の記録として、このまま我の死と共に消えてしまうのはいかがなものか。
むろん、時というものは、一過性で、二度と戻らないし再現も復元もできやしないが、幸いにしてその一瞬を記録したものが今残っているのならば、それは、やはりきちんと後世へ伝えていくべきもの、残すべき価値があるのではないか。
そうしたものを、我の死と共に雲散霧消させてしまうのは忍び難い。モッタイナイ気がする。
むろん、誰か後を託せる人が現れ、その同好の士が、きちんとその「遺産」を活かしてくれるのならば良いけれど、現実的には、我にはそんな仲間はいない。誰にも託せない。
我が死ぬば、最終的には、何もかも我が妹や甥っ子たちが全部ゴミとして処分してくれるはずだ。しかもさんざん我に悪態つきながら。
ならば、せめてもう少しできるところまで、そうした「音源」を整理して、
何が入っているのか、中身がわかるようにして、せめて誰かモノ好きな人に、「形見」として貰われていくようまとめなければならない。
むろんそこに価値があると思うのは我一人なのかもしれないが。
最後に残った友たちの恩義に報いてから ― 2023年06月22日 17時49分11秒
★未だ我を見捨てじ、友たちよ
もういつ死んでもいいと書いた。が、だからといって、今日明日にもパパっとすぐさま死ねるわけではない。
死ぬためには、それなりの手順、つまり準備や支度がある。そう、中村とうようや加藤和彦のように準備万端としないとならない。
立つ鳥跡を濁さず、である。
むろんまた隣近所からの嫌がらせやトラブルなど、我を非難糾弾する外的圧力にキレて、突発的に暴発するようなハメツ的事態を起こして終わりが来るかもしれないが、まあ今は、あえて急いで歩を進める気はない。
心置きなく死ぬためには、死後、我の親族たちに迷惑かけぬよう、最低限の゛後片づけ」はしないとならない。
それは、遺産と呼べるような金目の物ではなく、我家のほぼゴミ的がらくた類、つまり本やレコード、オーディオ類など大量のモノの「処分」もとうぜんながら、それよりも個人的には、自分がかつてしたこと、未だ果たせていないこと、つまりそのままにしたまま、関係された方々にきちんと「お返し」が出来ていないモノゴトが気にかかっている。
我は、学生時代に、むろんバンド活動など音楽もやったが、同時並行的に、8ミリフィルムでの映画製作もやっていた。
きちんと完成させて公開したものもあるが、けっきょく撮り終えたものの、「完成版」はできず、中途半端というか、作品として「そのまま」にしてしまい、指折り数えてみると、半世紀近くたつ「未完成」の映画もある。
今さらそれを完成させ公開しようとか、できるとも思えないが、せめて、その中途のものでも出てもらった友人たち、関係した人たちに、青春の記録としてデジタル化してお渡ししたい。
今思うと、呼び出しては無償で役者やスタッフとして使いまわしただけでなく、交通費さえもお渡しししていなかった。当時は、まったくそうしたことに頭も気も回らなかった。
自分は今もどうしようもないバカだが、今振り返ると、かつてのさらにどうしようもないバカだった若い頃、してきた悪事に思い至り、まさに申し訳なさに胸が張り裂けそうになる。思い出すと真夜中でも思わず叫び声あげてしまう。
彼らの善意というか、ご厚意にただ甘えて、当時はその有難さにまったく気がつかないでいたのだ。あの頃は。
もういつ死んでもいいと書いた。が、だからといって、今日明日にもパパっとすぐさま死ねるわけではない。
死ぬためには、それなりの手順、つまり準備や支度がある。そう、中村とうようや加藤和彦のように準備万端としないとならない。
立つ鳥跡を濁さず、である。
むろんまた隣近所からの嫌がらせやトラブルなど、我を非難糾弾する外的圧力にキレて、突発的に暴発するようなハメツ的事態を起こして終わりが来るかもしれないが、まあ今は、あえて急いで歩を進める気はない。
心置きなく死ぬためには、死後、我の親族たちに迷惑かけぬよう、最低限の゛後片づけ」はしないとならない。
それは、遺産と呼べるような金目の物ではなく、我家のほぼゴミ的がらくた類、つまり本やレコード、オーディオ類など大量のモノの「処分」もとうぜんながら、それよりも個人的には、自分がかつてしたこと、未だ果たせていないこと、つまりそのままにしたまま、関係された方々にきちんと「お返し」が出来ていないモノゴトが気にかかっている。
我は、学生時代に、むろんバンド活動など音楽もやったが、同時並行的に、8ミリフィルムでの映画製作もやっていた。
きちんと完成させて公開したものもあるが、けっきょく撮り終えたものの、「完成版」はできず、中途半端というか、作品として「そのまま」にしてしまい、指折り数えてみると、半世紀近くたつ「未完成」の映画もある。
今さらそれを完成させ公開しようとか、できるとも思えないが、せめて、その中途のものでも出てもらった友人たち、関係した人たちに、青春の記録としてデジタル化してお渡ししたい。
今思うと、呼び出しては無償で役者やスタッフとして使いまわしただけでなく、交通費さえもお渡しししていなかった。当時は、まったくそうしたことに頭も気も回らなかった。
自分は今もどうしようもないバカだが、今振り返ると、かつてのさらにどうしようもないバカだった若い頃、してきた悪事に思い至り、まさに申し訳なさに胸が張り裂けそうになる。思い出すと真夜中でも思わず叫び声あげてしまう。
彼らの善意というか、ご厚意にただ甘えて、当時はその有難さにまったく気がつかないでいたのだ。あの頃は。
覚悟を決めて、ともかく生き続けていく ― 2023年06月20日 22時18分04秒
★人生撤収の作業の流れの中で為すべきこと
もういつ死んでもいい、すぐにでも、とカクゴを決めたが、かといって、自堕落に、今あるったけの金を湯水のように使い果たして、とことん自堕落に、好き勝手な放蕩の果てに死ぬことはできない。
じっさい、そんな風に生きて、金を全て使い終えて、ついには泥酔のままどこかで野垂れ死にできたらば、それはそれで素晴らしいことだろうが。
結局、死ぬためにも、その手順、道順があり、それをある程度は果たさないと、我の係累、それはとりもなおさず、地方にいる我が実妹とその家族、子達のことなのだが――、彼らに多々迷惑がかかるので、人生撤収に向けて、その作業をまず始めないとならない。
今回、父の死後の書類上の様々な継承・相続等「後片づけ」に手を焼いて、頭悩ましてつくづくそう思った。実にめんどくさいのだ。まさに立つ鳥、後を汚してはならないのである。
さらに我家には、今も抱えている多々大量のモノもあるし、大量の生き物たちもまだこの家にはいるのだ。
それらを片付けて、いや、どうするか目途つけないことには、まさに死ぬに死ねないではないか。特に動物たちには何の罪もない。
自分が急死したらば、閉じ込められた家の中で彼らは餓死してしまうか、何とか逃げ出したとしても路頭に迷い、最終的には殺処分ともなろう。これ以上不幸にしてはならない。
そう、気軽にはおいそれと死ねないのである。覚悟は決めたとしても。
また、さらにそこに、我の数少ない友人たちへの恩義のようなものもある。例えて言うと、長年借りていたものを返していく、未だ果たしていない「約束」を果たしていく、ということだ。
それだけは生きている間に、自分の意識と記憶がはっきりしているうちに返し終えておかないと、我も気になって死後も成仏できないだろう。
いや、聖書の中の逸話、ラザロと金持ちの喩え話のように、死んでからも地獄で苦しみ、悔いだけが残る。死んでしまえば一切もう手遅れなのだから。
そうしたことをいくつか、備忘録的にここに記していこう。
もういつ死んでもいい、すぐにでも、とカクゴを決めたが、かといって、自堕落に、今あるったけの金を湯水のように使い果たして、とことん自堕落に、好き勝手な放蕩の果てに死ぬことはできない。
じっさい、そんな風に生きて、金を全て使い終えて、ついには泥酔のままどこかで野垂れ死にできたらば、それはそれで素晴らしいことだろうが。
結局、死ぬためにも、その手順、道順があり、それをある程度は果たさないと、我の係累、それはとりもなおさず、地方にいる我が実妹とその家族、子達のことなのだが――、彼らに多々迷惑がかかるので、人生撤収に向けて、その作業をまず始めないとならない。
今回、父の死後の書類上の様々な継承・相続等「後片づけ」に手を焼いて、頭悩ましてつくづくそう思った。実にめんどくさいのだ。まさに立つ鳥、後を汚してはならないのである。
さらに我家には、今も抱えている多々大量のモノもあるし、大量の生き物たちもまだこの家にはいるのだ。
それらを片付けて、いや、どうするか目途つけないことには、まさに死ぬに死ねないではないか。特に動物たちには何の罪もない。
自分が急死したらば、閉じ込められた家の中で彼らは餓死してしまうか、何とか逃げ出したとしても路頭に迷い、最終的には殺処分ともなろう。これ以上不幸にしてはならない。
そう、気軽にはおいそれと死ねないのである。覚悟は決めたとしても。
また、さらにそこに、我の数少ない友人たちへの恩義のようなものもある。例えて言うと、長年借りていたものを返していく、未だ果たしていない「約束」を果たしていく、ということだ。
それだけは生きている間に、自分の意識と記憶がはっきりしているうちに返し終えておかないと、我も気になって死後も成仏できないだろう。
いや、聖書の中の逸話、ラザロと金持ちの喩え話のように、死んでからも地獄で苦しみ、悔いだけが残る。死んでしまえば一切もう手遅れなのだから。
そうしたことをいくつか、備忘録的にここに記していこう。
このところずっと鬱がひどい ― 2023年06月13日 14時11分40秒
★人生を自ら終わらせる前に
鬱状態がひどくてずっと死のことばかり考えている。
昨日など、我をここまで追い込んだその隣近所の奴らを共に道連れにして、彼らを皆殺しにしてこの家に火をつけて、この失敗しハタンした人生を終わりにしようと真剣に考えた。
が、そう考えて、思い描いた時点で、気持ちは落ち付いて何とか思い留まった。
しかし、いつまた突発的にそうした事態が起こるか、自分でもわからない。あえてここにそのことを「示唆」しておく。
もし、報道でそうした事件が報じられたらば、当ブログの読み手の方は、「いつか起こると思ってたよ」と胸を張るがよろしい。
若い時から、自分はどこにもいない、自分の居場所はどこにもない、とずっと感じてました。
ただ、若い頃は、それでも他者の視線や批判など無視して、我がままに好き勝手に、好きなことだけして生きてきました。また、周りにもそれを赦す状況、寛容さがあったと思う。何も考えない。それが若さという強さです。
が、自らも年老いて、唯一の擁護者である母と父を失い、もう周りには恃む人、頼れる人は誰もいなくなって、たった一人で何一つできない生活無能者が生き続けていくのはかなりしんどくなりました。
そして取り囲む悪意に打ちのめされ、日々排斥されて、若い時から感じていたこの世に居場所の無さ、その感じはますます強まり、誰からも嫌われ疎まれるだけの人生ならば、生きていく意味があるのかずっと自問し続けました。
失敗した人生です。もう少し若ければ、そして誰か傍らにいてくれたらば、まだその人生をやり直せたかとも思いますが、もう70歳も見えて来て、体調も次第に落ちて朽ちて来て、我一人でその人生をもう一度やり直せる自信がありません。
ただ、突発的にここでいきなり死んでしまうのは、残す飼い猫や愛犬たち、ウチの生き物たちや、我が実妹を筆頭に血縁ある者たちのことを思うとあまりに無責任であり、それはできませんでした。
ただ、昨日など、終日、もういつ死んでもいい、とそのことばかり考えていました。
そして死ぬならば、この我を追い詰めてきた、この隣近所の奴らをまず皆殺しにしてから、と考えたら少しだけ気が楽になりました。
世の中には、積年のご近所間のトラブルから、ついには殺人事件発生に至り、悲惨な結末のニュースが報じられるのも心底よくわかります。※まあ、あいつは独りぼっち、だと揶揄されたぐらいで、近所の婆たちを殺そうとは思いませんが、我の場合はもっと直接的嫌がらせですから。
正直な気持ち、今でも自分もいつそうした「衝動」に駆られるかわからないけれど、ともかくまずこれを書くことで、そのストレス、フラストレーションは、いちおう発散、昇華できるような気がします。
これを読んで、また「御託をならべてやがる」と嫌がらせ電話をかけてくるならば、あんたをすぐさま殺しに行くので、そのつもりでいてください。どこの誰なのかは検討ついているので。我もその場で死んで共に全てを終わりにしましょう。その覚悟でいてください。
鬱状態がひどくてずっと死のことばかり考えている。
昨日など、我をここまで追い込んだその隣近所の奴らを共に道連れにして、彼らを皆殺しにしてこの家に火をつけて、この失敗しハタンした人生を終わりにしようと真剣に考えた。
が、そう考えて、思い描いた時点で、気持ちは落ち付いて何とか思い留まった。
しかし、いつまた突発的にそうした事態が起こるか、自分でもわからない。あえてここにそのことを「示唆」しておく。
もし、報道でそうした事件が報じられたらば、当ブログの読み手の方は、「いつか起こると思ってたよ」と胸を張るがよろしい。
若い時から、自分はどこにもいない、自分の居場所はどこにもない、とずっと感じてました。
ただ、若い頃は、それでも他者の視線や批判など無視して、我がままに好き勝手に、好きなことだけして生きてきました。また、周りにもそれを赦す状況、寛容さがあったと思う。何も考えない。それが若さという強さです。
が、自らも年老いて、唯一の擁護者である母と父を失い、もう周りには恃む人、頼れる人は誰もいなくなって、たった一人で何一つできない生活無能者が生き続けていくのはかなりしんどくなりました。
そして取り囲む悪意に打ちのめされ、日々排斥されて、若い時から感じていたこの世に居場所の無さ、その感じはますます強まり、誰からも嫌われ疎まれるだけの人生ならば、生きていく意味があるのかずっと自問し続けました。
失敗した人生です。もう少し若ければ、そして誰か傍らにいてくれたらば、まだその人生をやり直せたかとも思いますが、もう70歳も見えて来て、体調も次第に落ちて朽ちて来て、我一人でその人生をもう一度やり直せる自信がありません。
ただ、突発的にここでいきなり死んでしまうのは、残す飼い猫や愛犬たち、ウチの生き物たちや、我が実妹を筆頭に血縁ある者たちのことを思うとあまりに無責任であり、それはできませんでした。
ただ、昨日など、終日、もういつ死んでもいい、とそのことばかり考えていました。
そして死ぬならば、この我を追い詰めてきた、この隣近所の奴らをまず皆殺しにしてから、と考えたら少しだけ気が楽になりました。
世の中には、積年のご近所間のトラブルから、ついには殺人事件発生に至り、悲惨な結末のニュースが報じられるのも心底よくわかります。※まあ、あいつは独りぼっち、だと揶揄されたぐらいで、近所の婆たちを殺そうとは思いませんが、我の場合はもっと直接的嫌がらせですから。
正直な気持ち、今でも自分もいつそうした「衝動」に駆られるかわからないけれど、ともかくまずこれを書くことで、そのストレス、フラストレーションは、いちおう発散、昇華できるような気がします。
これを読んで、また「御託をならべてやがる」と嫌がらせ電話をかけてくるならば、あんたをすぐさま殺しに行くので、そのつもりでいてください。どこの誰なのかは検討ついているので。我もその場で死んで共に全てを終わりにしましょう。その覚悟でいてください。
嫌がらせ電話を受けてから・2 ― 2023年03月21日 17時24分06秒
★世間は、こんなバカをほっといてはくれなかった。
それにしても我は迂闊だった。誰でも自由に目にできるブログというSNSに対して認識が至らなかった。誰が読んでいるか、誰に読まれるか、より慎重にならねばならなかったのだ。
一番悔やまれるのはまずそのことだ。
我は性善説というか、そもそも考えが甘いから、このブログを読んでくれているのは、皆、我の書いたものやブログの書き手である我自身に興味や共感、関心がある同類、もしくは同傾向の善い人たちだと漠然と考えていた。
そう、我や書いた内容に興味も関心もないお方はまず読まないはずだし、スルーするものだと思っていた。※トップページにもそうお断りしてある。
しかし、現実はそうではなかったのである。
このブログを、我を監視するためチェックしている人が少なからずいたのだ。
この我を多々問題を起こす悪しき要注意人物として、その動向を確認するために、その内容とは関係なく(彼らには単なるゴタクを並べているとしか思わないのだろう)読んでいる人がいることは正直ショックだった。
むろん我だって、どこの誰であるか、どこに住んでいるか、できるだけ明かさぬよう細心の注意で臨んでいた。
住まいの市町村も、本名も一切明かさず、むろん顔写真も最低限に留めていた。メルアドなどはいったん載せれば、すぐさまスパムメールの餌食になることは経験済みである。
だから、この近所の人がこのブログを読む可能性は低い、まず有り得ないと思い込んでいた。
その男、その家の人たちがどうして拙ブログを読み、こいつはあの家のあいつではないか、と気づいたのか、それは定かではない。
ただ、この家の写真や近所の光景などは折々画像をアップしていたから、何かの折、ネットサーフィンなどしていて偶然目にして気づいたのかもしれない。
そして、我の休止宣言を目にして、すぐさま(そんなことよりも)近所迷惑をまず何とかしろ、と名も名乗らずに嫌がらせという直接行動に出てきたのである。
そう、こんなバカをほっといてはくれなかったのだ。
それにしても我は迂闊だった。誰でも自由に目にできるブログというSNSに対して認識が至らなかった。誰が読んでいるか、誰に読まれるか、より慎重にならねばならなかったのだ。
一番悔やまれるのはまずそのことだ。
我は性善説というか、そもそも考えが甘いから、このブログを読んでくれているのは、皆、我の書いたものやブログの書き手である我自身に興味や共感、関心がある同類、もしくは同傾向の善い人たちだと漠然と考えていた。
そう、我や書いた内容に興味も関心もないお方はまず読まないはずだし、スルーするものだと思っていた。※トップページにもそうお断りしてある。
しかし、現実はそうではなかったのである。
このブログを、我を監視するためチェックしている人が少なからずいたのだ。
この我を多々問題を起こす悪しき要注意人物として、その動向を確認するために、その内容とは関係なく(彼らには単なるゴタクを並べているとしか思わないのだろう)読んでいる人がいることは正直ショックだった。
むろん我だって、どこの誰であるか、どこに住んでいるか、できるだけ明かさぬよう細心の注意で臨んでいた。
住まいの市町村も、本名も一切明かさず、むろん顔写真も最低限に留めていた。メルアドなどはいったん載せれば、すぐさまスパムメールの餌食になることは経験済みである。
だから、この近所の人がこのブログを読む可能性は低い、まず有り得ないと思い込んでいた。
その男、その家の人たちがどうして拙ブログを読み、こいつはあの家のあいつではないか、と気づいたのか、それは定かではない。
ただ、この家の写真や近所の光景などは折々画像をアップしていたから、何かの折、ネットサーフィンなどしていて偶然目にして気づいたのかもしれない。
そして、我の休止宣言を目にして、すぐさま(そんなことよりも)近所迷惑をまず何とかしろ、と名も名乗らずに嫌がらせという直接行動に出てきたのである。
そう、こんなバカをほっといてはくれなかったのだ。
嫌がらせ電話を受けてから・1 ― 2023年03月18日 06時12分31秒
★ブログを中止して心身共におかしくなった。
それにしてもこうした自らは名乗らず、脅し脅迫的なやり方は実に卑怯卑劣ではないか。恐怖と怒りで我の心はかき乱された。
むろん、彼が言う「近所迷惑を何とかしなさい」には故なく事実無根だとは思っていない。
この我のことだから、おそらくそのご近所の人に何らかの「ご迷惑」を常日頃かけているのであろう。それは間違いない。
しかし、漠然と「近所迷惑」と言われても何を指しているのか、何をどうすれば良いのかこちらは判断できないではないか。
何とかしてほしいならば、きちんと面と向かって我に、これが迷惑だから、これをこうしてくれ、と申し入れて来ればこちらも、スミマセンと詫びて「何とかする」のは当然のことだ。
こんな我だが他人様とトラブル起こしたくはないし、相手の困る、嫌がる事をそのままにして、すました顔ではいられない。その程度の社会常識はある。
我に不満があるからとして、どうして拙ブログを読んだうえで、こうした悪意ある、卑劣な行動に出るのであろうか。
何より頭にきているのは、その発言の中でのまず「貴方はゴタクを並べる前に」の部分である。
我の書いたことを「ゴタクを並べている」と一蹴したうえで、「何とかしなさい」という上から目線で命じている。「何とかしてください」ならまだしも。※「御託を並べる」とは、説明するまでもないだろうが、どうでもいいことを、くどくどと繰り返すことを指し、無価値なことを指す。
いったい何様のつもりなのか。
男の言った言葉を頭の中で何度も繰り返して、マグマが噴出するように強い怒りが込み上げてきた。
「犯人」が誰かわかったら、その時は殴りつけて殺すほど痛みを与えたかと思う。
この我は頭に血が上りやすい性分で、傷害事件さえ起こしてはないものの、若い時分はケンカ沙汰で警察や病院のお世話にもなったことがある。
誰かを突き止めて仕返しすら考えもした。そしてこんな悪意に屈してはならぬ、と誓った。
ただ、そんな奴が読んでいるのに、平然と今まで通り気楽に好き勝手なこと、個人的近況をここに記していくのは、とてつもなく危険だと思えてきた。
男は読んで、さらに何か「電話」以上のことをしてくるかもしれないではないか。嫌がらせはエスカレートする可能性も高い。以後、我はちょっとした近所への買い物でも外出時には必ず戸口に鍵をかけるようになった。
疑心暗鬼ではなく、行き交う近所の人たち誰もに、特に中高年の男に疑いの目を向けるようになった。
それにしてもこうした自らは名乗らず、脅し脅迫的なやり方は実に卑怯卑劣ではないか。恐怖と怒りで我の心はかき乱された。
むろん、彼が言う「近所迷惑を何とかしなさい」には故なく事実無根だとは思っていない。
この我のことだから、おそらくそのご近所の人に何らかの「ご迷惑」を常日頃かけているのであろう。それは間違いない。
しかし、漠然と「近所迷惑」と言われても何を指しているのか、何をどうすれば良いのかこちらは判断できないではないか。
何とかしてほしいならば、きちんと面と向かって我に、これが迷惑だから、これをこうしてくれ、と申し入れて来ればこちらも、スミマセンと詫びて「何とかする」のは当然のことだ。
こんな我だが他人様とトラブル起こしたくはないし、相手の困る、嫌がる事をそのままにして、すました顔ではいられない。その程度の社会常識はある。
我に不満があるからとして、どうして拙ブログを読んだうえで、こうした悪意ある、卑劣な行動に出るのであろうか。
何より頭にきているのは、その発言の中でのまず「貴方はゴタクを並べる前に」の部分である。
我の書いたことを「ゴタクを並べている」と一蹴したうえで、「何とかしなさい」という上から目線で命じている。「何とかしてください」ならまだしも。※「御託を並べる」とは、説明するまでもないだろうが、どうでもいいことを、くどくどと繰り返すことを指し、無価値なことを指す。
いったい何様のつもりなのか。
男の言った言葉を頭の中で何度も繰り返して、マグマが噴出するように強い怒りが込み上げてきた。
「犯人」が誰かわかったら、その時は殴りつけて殺すほど痛みを与えたかと思う。
この我は頭に血が上りやすい性分で、傷害事件さえ起こしてはないものの、若い時分はケンカ沙汰で警察や病院のお世話にもなったことがある。
誰かを突き止めて仕返しすら考えもした。そしてこんな悪意に屈してはならぬ、と誓った。
ただ、そんな奴が読んでいるのに、平然と今まで通り気楽に好き勝手なこと、個人的近況をここに記していくのは、とてつもなく危険だと思えてきた。
男は読んで、さらに何か「電話」以上のことをしてくるかもしれないではないか。嫌がらせはエスカレートする可能性も高い。以後、我はちょっとした近所への買い物でも外出時には必ず戸口に鍵をかけるようになった。
疑心暗鬼ではなく、行き交う近所の人たち誰もに、特に中高年の男に疑いの目を向けるようになった。
当ブログ、一時的ですが「再開」します。 ― 2023年03月15日 14時15分19秒
★新しく別のブログの場を始める前に
ご無沙汰しております。
もう、当ブログは誰も読まないだろうと思いつつ、とりあえず一時的に「再開」することにしました。
できるだけ早く、このような形式の、ウカツに誰にでも読まれてしまうオープンな公開タイプではなく、真に読みたい方に、こちらも読まれたい方々だけに我の書いたものが届く方法を模索しています。
決まったら、新たな「移転先」とアクセス方法だけこの場で載せて、と思いつつ、あれから心身共に調子を崩してしまいまだ何一つ新たに動き出しておりません。
それまでは便宜的に、このブログは、残し続けていきますが、以前のような私的ゴタクや与太話、こちらの情報は控えさせて頂きます。
ウカツに、そうした「個人情報」や私的所感、近況を告知してしまうとまた様々な面倒な事態が起こる可能性があり、何卒ご理解願います。
まず、今さらですが、拙ブログを休止、もしくは終わりにしようと思った理由、その経緯から報告していきます。
これは書くべきかずっと迷ったのですが、じっさいに起きたことなので、今回の結末に至った直接の引き金になったご近所の男からの嫌がらせ電話のことからまず。
当ブログを「しばらく休止、もしくは終わりにします」と告知したのは、昨年の11月14日のことだった。それからちょうど3か月、いや4か月たつ。季節は秋から冬、冬から春へと変わった。
その理由は、その場に書いたようなことが一因だったのだけど、正直なところ、完全に「終わり」にしようとはその時点でははっきりと考えていなかったと思う。
この我のことだからほとぼりが済んだら、またぞろ再開する気持ちがそこに潜んでいたに違いない。
が、その回をアップしてから、当日少しして我の携帯に、番号は非表示で名前を名乗らぬ男から電話がかかってきたのだ。
電話を受けた我に男はいきなりこう言った
「あなたは、ゴタクを並べる前に、まず近所迷惑を何とかしなさい」と。
こちらの「貴方は誰ですか‼?」という問いかけに、男は何も返答せず、再度同じ言葉を繰り返すと電話を切った。
愕然とした。いや、呆然とした。そして恐怖のあまり鳥肌がたった。
「近所迷惑を何とかしろ」ということは、このご近所の住人に違いない。つまり、この我が誰であるのか、どこに住んでいる者か把握した上で、我のこのブログを読んでいたのだ。いや、読まれていたのだ。
我が携帯番号は、ご近所の人には誰にも知らせてないが、企画したイベントの告知などで、何度もその番号はここに載せている。
まさかこの近隣界隈の住人に、拙ブログが読まれているとは予想もしていなかった。本当にぞっとした。
そしてこの悪意ある卑劣な電話に対して、次いで怒りが沸々と湧き上がってきた。
※その後も無言電話や番号非表示でたぶんその男からの電話はあったけれどもう出なかった。
ご無沙汰しております。
もう、当ブログは誰も読まないだろうと思いつつ、とりあえず一時的に「再開」することにしました。
できるだけ早く、このような形式の、ウカツに誰にでも読まれてしまうオープンな公開タイプではなく、真に読みたい方に、こちらも読まれたい方々だけに我の書いたものが届く方法を模索しています。
決まったら、新たな「移転先」とアクセス方法だけこの場で載せて、と思いつつ、あれから心身共に調子を崩してしまいまだ何一つ新たに動き出しておりません。
それまでは便宜的に、このブログは、残し続けていきますが、以前のような私的ゴタクや与太話、こちらの情報は控えさせて頂きます。
ウカツに、そうした「個人情報」や私的所感、近況を告知してしまうとまた様々な面倒な事態が起こる可能性があり、何卒ご理解願います。
まず、今さらですが、拙ブログを休止、もしくは終わりにしようと思った理由、その経緯から報告していきます。
これは書くべきかずっと迷ったのですが、じっさいに起きたことなので、今回の結末に至った直接の引き金になったご近所の男からの嫌がらせ電話のことからまず。
当ブログを「しばらく休止、もしくは終わりにします」と告知したのは、昨年の11月14日のことだった。それからちょうど3か月、いや4か月たつ。季節は秋から冬、冬から春へと変わった。
その理由は、その場に書いたようなことが一因だったのだけど、正直なところ、完全に「終わり」にしようとはその時点でははっきりと考えていなかったと思う。
この我のことだからほとぼりが済んだら、またぞろ再開する気持ちがそこに潜んでいたに違いない。
が、その回をアップしてから、当日少しして我の携帯に、番号は非表示で名前を名乗らぬ男から電話がかかってきたのだ。
電話を受けた我に男はいきなりこう言った
「あなたは、ゴタクを並べる前に、まず近所迷惑を何とかしなさい」と。
こちらの「貴方は誰ですか‼?」という問いかけに、男は何も返答せず、再度同じ言葉を繰り返すと電話を切った。
愕然とした。いや、呆然とした。そして恐怖のあまり鳥肌がたった。
「近所迷惑を何とかしろ」ということは、このご近所の住人に違いない。つまり、この我が誰であるのか、どこに住んでいる者か把握した上で、我のこのブログを読んでいたのだ。いや、読まれていたのだ。
我が携帯番号は、ご近所の人には誰にも知らせてないが、企画したイベントの告知などで、何度もその番号はここに載せている。
まさかこの近隣界隈の住人に、拙ブログが読まれているとは予想もしていなかった。本当にぞっとした。
そしてこの悪意ある卑劣な電話に対して、次いで怒りが沸々と湧き上がってきた。
※その後も無言電話や番号非表示でたぶんその男からの電話はあったけれどもう出なかった。
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