人生、混乱と混沌の「本と音楽の日々」は終わった2022年05月15日 07時42分24秒

★さあ、次の人生のファイナルステージへ

 2022年5月14日の「フォーク・クラスターズ」解散&結成コンサートは昨夜無事終わった。
 毎度ながら失態失敗の嵐は吹き荒れ、個人的には苦い悔やむ思いもワインの底の残滓のように心に残るけれど、ともかく成し終えられて良かった。
 これも場に来られた皆さん、親愛なる気心知れた仲間たちのおかげだと今心から思う。終えられて満足している。

 自分の実力、つまりじっさいの姿をそのまま曝け出すことはできた。音楽にこれからも関わり続けたいと思うけれども、もう人前で演ること、唄うことはないと今は思っている。まあ、当面の気持ちだが。
 高田渡の盟友かつ主治医でもあった故藤村直樹氏は、医師として自らの死期を前にして「中休みコンサート」と題して京都拾得でラストコンサートを企画しそのダンディな姿を観客の前に永遠に残してくれたが、今回の「解散・結成コンサート」も我マスダにとって、それに倣い臨んだつもりだった。
 ただ、直前になって我の老父の体調に異変があったり、予定していた出演者が急病で不参加となったり、いつものことながら不休不眠、多事多難な状況のなか、練習も準備何もかも思う存分に取り組むことができなかったことが心残りである。
 しかしそれもまた神の計らいであり、問題はその苦い杯を我はきちんと感謝の上で飲みほせたかどうかだ。我の罪はまだ深い。

 「うた」とは、つまるところその人の人生そのものなのだと今は思う。人生とは人柄、人間性、生き方も含めてのことで、「本」と「音楽」とを比べれば、本は、その人生の外側に在るもので、うた、は、内側、内面のものだと言えよう。
 本は、自己表現とはならぬが、読み手自らに多大な影響を与えてその人の人生を変え新たな道への指針となり動かしていく。
 うたは、やはり自らの表現でまずあって、一人自宅でカラオケでマイク握るのはともかくも、やはり他者を前に「聴いてもらう」限り、こうした文章と同様に、その人の内面、表現も含めて大きな発出と言えよう。※文章はすぐその場で反応、反応は返ってこないが・・・。
 そして、我は、その混沌、混乱の人生そのままに、自らの「うた」も、自らが出るライブの場も含めて、ただ拙く混乱と混迷の極みであることを今回今更ながら確認できた。
 つまるところ、これが自分のうた、そして人生なのだと得心した。情けないがこの現実を受け容れていこう。

 世の中には、本当に唄うことが好きで、どれほど喰えているのか知らないが、こうしたフォークの世界でも専業シンガーが多々いる。
 そうしたプロのシンガーを数多く観てきて、その精神的タフさと共に、やはり本当にこうした表現行為そのもの、唄うことが心から好きなんだと気づかされる。
 残念ながら我にはそれはなく、表現行為だけ捉えれば、やはり書く側、つまり「本」や文章の人間なのだと思える。恥ずかしくも今さらそれがはっきり認識できた。
 また、それは、「編集」や「企画」などプロデュースの仕事とも近しく、よって音楽のコンサートなどを企画すること等は、そうした流れの一環としてやってきたのだとも気がついた。
 これからも時間的、体力的、そして経済的な余裕もあれば、そうしたライブ企画はやっていくとも思えるが、ともかくこれで我は「唄う側」とは「中休み」して当面終わりとすることをこの場で記したい。

 人生の折り返し地点はどこにあるのか、何歳なのかは、その人が死んでみないとわからない。70歳で棺の蓋を覆えば、35歳前後がその人の折り返しの年齢だとわかろう。そこに意味はない。
 ならば、折り返しではなく、人生をある年代ごとに分けて考えれば、青年期、壮年期、そして老年期とするのが正しいとして、三つに分別できる。
 我の人生があとどれぐらいあるかは神のみぞ知るとしても、我が父と亡き母の歳を合わせて、二で割れば、我も90歳までは生きるとして、少し通り過ぎてしまったが、いま、三分の二を過ぎたとしよう。
 ならば残りの三分の一を、これから、心新たにして「今日から」スタートさせようと思う。

 青年期の狂騒と混乱、そして壮年期の混迷と混沌、ただただ愚かさと内的衝動のまま突き動かされその場しのぎで生きてきたと振り返って気づかされる。まさに愚かであった。多くの人に迷惑かけた。
 それは我の根源的ビョーキであり、治せるものではないのだろうが、カレー沢薫の謂いではないが、「治りはしないがマシにはなる」かもしれない。
 残りの人生、本と音楽は傍らに置いて、もう一度人生そのものにとことん正面から取り組みたい。
 まず父を送り、我が人生も総括し見つめ直して、若き日から続けてきた混乱と混沌の日々と今度こそ決別しよう。

 新しい恋はもうしないだろうが、新しい人生は始められる。もう自らの愚かさに端を発する多事多難の混乱、収拾のつかない状況とは本当に終わりにしていきたい。
 昨日唄った高坂一潮さんの「バイバイ」といううたの歌詞ではないが、町の明かりが見えなくなるまで手を振って、「バイバイ」さ。

 我マスダを支えてくれた心優しい多くのみんな、太田三造、三留まゆみ、槙篤、藤しんいちろう、詩人の奥主夫妻、ぼけまる、館野公一、そしてみほこん、さらに篤志ある温かい観客の皆さん本当に長い間有難うございました。
 皆様の人生に幸と神の恵み、ご加護がありますように!!

ああ、とうとう終わった~「共謀コンサート」最終回終演す。2021年12月20日 10時47分13秒

★ただただ、すべてに感謝、多謝!! 長い間お付き合い有難うございました。

 昨日のかけこみ亭での「共謀コンサート」最終回を無事終えて翌朝これを記している。
 幸せの中にも一抹の不安がよぎるように、逆にどんなに大変で苦しいことでも、終わってしまえば淋しさを覚えるものだとされている。
 そう、楽しい祭りならばなおさらである。
 が、今の我には、淋しさや残す思いはほとんどない。やがて時がたてば、終わりにしたことへの悔いや、それがなくなったことの淋しさを感じるのかもしれないが、直後のいまは、あるのは安堵の喜びのだけである。
 ともかく父が生きている間に、けんあんの抱えていることが一つ終わったという「喜び」だ。※父が逝けば、その後に予定していたコンサートは当然のこと中止となろう。
 むろん、コンサートは、当日も含めて我にとってとてつもなく楽しい楽しみであり、気の合った仲間たちと好きなことして濃厚な時間を過ごせるのだから至福の時である。
 しかし、もう本当に今は全てに余裕がなくなってしまい、体力気力ともに低下して、こうした多人数の人と関わるイベントはもう限界だとひしひしと感じていた。

 我が老父のことを案じてくれた方々も多々おられ、百歳近い老人を抱えているから我マスダはもうイベントはできないと思われたかもしれないが、それだけではない。
 容量の元々少ない古いパソコンが、長年使っていると作動が遅くなりやがては動かなくなるように、要するに我が人生がもう「いっぱいいっぱい」となってしまい、こうしたイベント企画が重く負担というよりも、処理できなくなってしまったからだ。
 家のことも、古本商売もすべてモノが増えすぎて何もかも溢れ散乱、混乱して滞り、とても以前のようにイベント企画に気持ちも時間も専念できなくなってしまった。そこに父の介護も加わるけれど、いまは基本的には施設に預けている時間も多いので、我自身は決して時間がないわけではない。
 しかし、このところ老いて体調も悪くなってきたこともだが、ともかく我は処理能力が遅く、残りの人生を無事快適に生きるためにもまずはともかく抱えているモノゴトを少しでもなくす、減らしていくことを切望していた。
 多くの方々からまたの再開やこれからも続けていくことを要請されたが、そんな個人的理由から誠に勝手ながら今回でこの連続企画は「終了」としたわけだ。我の拙い音楽活動もまた同時に。

 昨日は、6時間過ぎる長時間の音楽イベントを何とか終えられることができたが、途中から頭痛もひどく、ヘンな汗が出、喉がやたら乾いて卒倒寸前であった。前夜は、歌集プログラムづくりでほとんど寝ていないこともある。
 昔、両国フォークロアセンター40周年の記念コンサートを、浅草の木馬亭で開催したときも、企画した裏方、責任者として時間配分と進行に心底苦労した。
 あれも中川五郎氏から「たま」の知久さんまで多人数の高名ミュージシャンが出るイベントだったが、終了時間は迫っているのに、中には時間配分を守らない方もいて、幕間で見ている我は、時計見つめながらはらはら焦り苛立ち胃が痛くなった。
 客が集まらずコンサートの赤字の件も含めて、失ったものも多く、その後は一か月も冗談ではなく疲労と落ち込みで寝込んでしまった。

 今回も司会進行役を務めながら、久しぶりにそのときのことを思い出した。いや、そのときの気分がすこし蘇った。
 予定している終演時間は迫っているのに、先が見えずどんどん遅れてしまい焦り苛立ったことも今だからここに告白する。
 むろん多人数出られる企画なのだから想定内のことだけど、9時半を過ぎてもさらに続くとなると、遠路から参加している人は、打ち上げ以前に慌てて帰らないとならなくなる。
 このところはコロナ禍もあって早く始めて終演も午後8時頃ということが続いていたので、我としては、昨夜は久々の遅延にかなり焦った。
 それでもコンサートは何とかその9時半少し過ぎたぐらいで無事終演でき安堵したし、最後の最後に我は花束を受け取るという思わぬサプライズというウレシイ驚きもあった。

 まあ、その最終回も毎度のことながら我としては慌てふためき、あたふたしたが、ともかく終わって本当に良かった。いつもながら満足のいく良いコンサートだったと自分は思う。
 良いうたと良いシンガー、ミュージシャンと出会え我は幸福であった。我のワガママをやさしく快くいつも赦してくれたかけこみ亭ぼけまる氏にまず心から感謝をささげたい。
 その望外の幸福を今後とも維持、続けていくためにもまずは、混沌と化したわが人生を、少しでも少しづつでも整理し直して、やがては新たな音楽にかかわる人生をスタートさせたい。
 そう、こんな自分にもまだ夢がある。

 いっぱいいっぱいとなってコップから溢れ出たミルクを、まず溢れ出た分から拭き取っていくことだ。そのうえで、その中身を飲み干し減らして少しづつ減らしていく。カラにはできなくてもその行為こそが老後を生きることだろう。
 なんであれ、それはできる、きっとかなうと信じて。

 ※これからはブログできるだけ定期的にきちんと更新していきます。お時間のある方、ぜひお付き合いください。
 季節は本格的冬に変わったけれど、自分の中の季節もこれでやっと一つ先へと動いた。

感染爆発中の帰省中止要請についてコント2021年08月04日 19時50分27秒

★ネットで拾った、秀逸なコメントを載せます↓By ABEMA TIMES PONさんのコメント採録

 政府「頼むからお盆の帰省は止めてください」

 国民1「中止の考えはない。強い警戒感を持って帰省に臨む」
 国民2「バブル方式で帰省する。感染拡大の恐れはないと認識している」
 国民3「帰省を中止することは一番簡単なこと、楽なことだ。帰省に挑戦するのが国民の役割だ」
 国民4「安全安心な帰省に向けて全力で取り組む」
 国民5「コロナに打ち勝った証として帰省する」
 国民6「(帰省は)今更やめられないという結論になった」
 国民7「『帰省するな』ではなく、『どうやったら帰省できるか』を皆さんで考えて、どうにかできるようにしてほしいと思います」
 国民8「もしこの状況で帰省がなくなってしまったら、大げさに言ったら死ぬかもしれない。それくらい喪失感が大きい。それだけ命かけて帰省する為に僕だけじゃなく帰省を目指す国民はやってきている」
 国民9「家族に希望を与えたい。帰省はコロナ禍収束の希望の光」
 国民10「我々は帰省の力を信じて今までやってきた。別の地平から見てきた言葉をそのまま言ってもなかなか通じづらいのではないか」
 国民11「(帰省中止要請は)自主的な研究成果の発表ということだと思う。そういう形で受け止めさせていただく」
 国民12「言葉が過ぎる。帰省中止を決める立場にない」
 国民13「帰省が感染拡大につながったエビデンスはない。中止の選択肢はない」
 国民14「(帰省について)政府は反発するだろうが、時間がたてば忘れるだろう」
 国民15「帰省することで、緊急事態宣言下でも帰省できることを世界に示したい」
 国民16「帰省については限定的、統一的な定義は困難」
 国民17「実家を訪問するという認識。帰省するという認識ではない」

 ※大昔、戦後すぐの頃、NHKラジオで三木鶏郎の『日曜娯楽版』という政治や世相を風刺するショートコントとうたのラジオ番組があった。
 それを思い出しました。

新曲「いやなものは嫌ですと」2021年07月12日 11時06分14秒

★三密クラスターズ7月新曲 「嫌なものはいや」

※いやなものは嫌ですと はっきりと
 口にできる社会で あってほしい
 いやなものは嫌ですと どうどうと
 口にできる勇気を 私にください

1,そのワクチンは打ちたくありません
 理由はともかく 打たれたくない
 私のからだは わたしだけのもの
 他人にあれこれ 強制されたくない ※

2.その法律には従いたくない
 理由はともかく 自分勝手と言われようとも
 私の心は わたしだけのもの
 他人に絶対 売り渡したくない ※

3,じぶんの生き方はじぶんで決めていく
 周りの皆は従っているけれど
 世間に合わせる理由はない
 じぶんの人生 とことんじぶんらしく
 たとえどんなに 非難されようとも
 大きな力に 押し潰されそうになっても
 私のじんせいは わたしだけのもの 
 自分の信念は曲げたくない 
                     ※
 いやと言える勇気を 私にください

♪コロナは続くよ いつまでも 【歌詞】2021年05月11日 12時38分29秒

★コロナは続くよ どこまでも  ※線路は続くよ のメロディで
                         keyG ※いやいやそうに

コロナは続くよ どこまでも 野をこえ 山こえ 国こえて
世界のどこでも 僕たちに 新しい日常を押しつける
三密を避けよう 三密を避けよう 人との距離はとろう
密室は避けよう 密集はやめよう 密接になるのはよそう 

コロナの時代は 便利だな 仕事も 買い物も 出かけずに
何から何まで オンラインで 新しい日常は引きこもり
オンラインでやってこう オンラインでやってこう
面接から葬式まで オンラインで
オンラインですまそう オンラインですまそう 
ライブから飲み会までオンラインで

百合子やガースは気楽だな お酒を出す店は営業するなと
街の明かりも消せと 電車も減らせと
コロナ対策は 場あたり思いつき
オリンピックは開催する オリンピックは中止しない
感染者がどれほど増えようと
オリンピックは金のため オリンピックは金のため
コロナで死ぬ人が増えようと
コロナは続くよ いつまでも

無事「無観客」で終了。ご協力、ご支援有難うございました。2021年05月10日 06時19分16秒

★これでようやく「次」へ行ける

 昨夜の「無観客」イベントは、無事に終えられました。幸いにして「ほどほど」の関係者、冷やかしの人は来られましたが、無観客ながらも盛り上がり、このコロナ禍中、感染防止対策を徹底したうえでの「開催」、成功いたしました。
 改めて参加者、関係者のご支援、ご協力をこの場で心より感謝いたします。
 出られた方々個々について、詳細は割愛しますが、御大さこ大介大兄をメインにとても楽しい素晴らしい一夜となりました。
 
 今終えて一夜明けて、朝陽の中でこれを書き記している。
 充足感に満ちた、というのはオカシナ表現だが、一つの難事を成し終えて深い満足感に浸っている。
 この数日、父のこととイベントの準備もあってあまり寝てないのと、昨日はハツカネズミのように早朝から夜遅くまで一日動き回ったので、身体は鉛のように重く怠いが、気持ちだけはこの朝日のように爽やかだ。
 
 音楽家として人として我が心から敬愛する希代のシンガー、さこ大介さんを我の手がける企画にやっとお迎え出来、ソロながらもたっぷり唄って頂いた。
 無観客のため、ギャラなどはお車代程度しかお渡しできなかったが、幸いにして、CDなど物販はほぼ完売したとのことで、そのことも喜びに繋がっている。
 この終わりの見えないコロナ危機、多くのシンガー、ミュージシャンが活動の場を失い、今苦境に喘いでる。
 その苦難の時だからこそ、支援と言うのはおこがましいが、力になれることはないかと考えたとき、つまるところ我が出来ることはいつも通りにライブの場を設けることしかない。

 今、新・新型ウイルスの感染爆発の最中、ガースや女帝都知事の「要請」と言う名の「強制」に従い、ただただじっと出かけずに誰もが各自の家の中で、感染拡大が収まり終息しまた元の日常が戻るまで大人しく「自粛」すべきなのかもしれないと思い迷った。
 が、それでは経済もだが、全てが回っていかない。人の流れ、交流や関係を止めてしまえば、文化も芸術もそれ以前に人間社会、その関係そのものが崩壊してしまう。
 特に「音楽」は、一方的に流れる川の流れのようなものではなく、演者と聴き手双方との「交流」のものだから、ライブ配信だけではなく、まずそこに人的な集う場がなくてはならない。
 その場が今「禁止」されてしまっているからこそ、あえてつくるべきだと考えた。

 今オリンピックを筆頭に、スポーツ関連イベントは容認されて、自粛するどころかしきりにマスメディアで喧伝されている。一方、音楽イベントや文化・芸術施設、人々の交流の場である居酒屋などの飲食店は休止、休業を余儀なくされている。
 何度でも繰り返し出される「緊急事態宣言」下、出口の見えない状況だから、まさに仕方なく、それにしても打てる対策はそんなものしかないのかと憤るが、あまりにも不合理、不平等であり、場当たり思いつきではないか。
 このままでは美術館、映画館も含めた文化、芸能、大衆娯楽施設は消えてしまう。コロナウイルスが真に収束したとき、人類が有史以来築き挙げてきた「人間社会」はそこには存在していない。
 スポーツも文化の一つだと思うけれど、芸能文化というもののすそ野はもっと広く大きい。
 コロナはこれからも続く。おいそれと人類は打ち勝つことはできやしない。
 ならばこそ、アフターコロナではなく、ウイズコロナとして、このコロナ禍の中で、出来る活動を維持、継続していくしかない。

 先が見えないからこそ、いったん火を消すのではなく、ほそぼそとでもその火を灯し続けていくことだ。
 我はその聖火ランナーにはなれないが、その火を人から人へと繋ぐきっかけ、仕組みは考えられるし「その場」の手配もできよう。
 昨日も来られた方々の間で新たな出会いと交流が多々あったようだ。何が嬉しいと言って、そもそもこの我がその「場」を設けなければそうした「出会い」はなかったわけで、まさに企画側冥利に尽きよう。

 余談だが、昨日のさこさん、久々のライブにも関わらず、声も良く出、自在な語りも健在、全開でともかく安心した。その健在ぶりを確認できただけでも嬉しかったが、個人的なことだが、その彼から、我らが創ったうた『二人恋はアフターコロナ』は高得点を付けて頂いた。
 誰だって人から褒められれば嬉しくないわけはないが、我にとって歌の師、音楽の師匠であり、心から尊敬し憧れている天才シンガーソングライターに認められてこそ、との思いがあり、自らの自信とこれからの糧となったことをここに記しておく。ほんとうに嬉しい!!

 ともかく無事「三密回避」のうえで「盛況」となって本当に良かった。
 これを終えてやっと次へと行ける。
 タイヘンだったけれどやるべきことを一つ成し終えた。いまは何の不安も悔いも心にかかることもない。

 さあ、次へ行こう。我には素晴らしい音楽の仲間たちと傍らには音楽の神が常にいる。
 若き日の南沙織のうたの一節ではないが、「私はいま、生きている」。

高田渡の命日にかけこみ亭で2021年04月16日 23時59分49秒

★懐かしい人たちと久々に会えた、が・・・

 あれこれあって、いまの自分は本当に薄情で、いちおうフェイスブックとかに登録はしていても、我の数少ないオトモダチ、つまりお仲間たちが、何かアップしようと、その通知が届いてもろくに確認もしないだけでなく、見たとしても「いいね!」とかレスポンスも返すこともなく、一切放擲して、ごくたまに自分の都合で身勝手にも我が企画などの宣伝告知だけしているわけで、まったくもって社会的に非常識と言うべきか心苦しく申し訳ない気もしている。

 こんな人間が、他の人様のこと、たとえ菅首相や、小池都知事のなさることとか、あれこれ批判したりとやかく物言いする資格があるのかと自問するが、今日、敬愛する高田渡の命日に、それに関係したイベントに参加して思い感じたこと等を書かせてもらう。
※でないともやもやして今晩は眠れない。

 高校生の頃から、吉祥寺の「武蔵野火薬庫・ぐゎらん堂」に出入りしていて、渡氏元より友部正人や、シバと、そこで出会い知った者として、今日のイベントは何とも物足りないというか、この表現が適切かわからないが、「片手落ち」であった。
 様々な事象が説明不足で、我ら年寄りはともかく、当時を知らない今の若い人たちにどれだけ伝わったのだろうか。
 オーナーの村瀬兄弟のこともきちんと語られなかったし、そこから、「のろ」とのつながりも、あの頃の吉祥寺のことも、のろの加藤氏ご当人がそこにいながら掘り下げが浅い気がしたのは我だけか。

 こうした企画こそ、かつてあった過ぎたときを、後の世に語り継ぐためにも大いに意義あると我も考えるし、そもそも我が今やっているライブ企画活動自体が、「昔語り」として、その頃、その時代、そこに誰がいたか、そのときどんなうたが流れていたか、ということを主題に、うたとしての場として「表現活動」を企画しているわけで、あえて言うが、いやはや何とも今日の企画は・・・物足りない気がした。
終始全てのツメが甘い、というか中途半端、企画者の立ち位置、目論見がよく見えない。渡氏の命日にかこつけて何がしたいのかよくわからない。
 むろん出られた方々、シンガーは皆さん素晴らしかった。この企画のおかげで久々に旧知の、我が敬愛するシンガーや、亡きライブハウスのろオーナー加藤氏にお会いできて本当に良かった、嬉しかった。そうしたお手配に感謝と共にご苦労様と労いたい。

 じっさい我に、人様の企画をあれこれ批判なり、とやかくいう資格があるのだろうか、ずっと今も自問している。何はともあれひとつの企画が、満席、盛況になれば、このコロナ禍、ヤボなことは言うな、であろう。
 が、ときにはダメなものはダメ、ときちんと誰がが言う、もしくは書き示すべきではないのか。我にその資格の有無はともかく。

 ならば、個人的には、自分なりにもう一度、あの頃、あの時代を、リアルタイムで生きて知る者として、ぐゎらん堂がどこにあったのか、そのビルは姿は変えても同じ場所に残っていることも含めて今の人たちにはっきり示し語り伝えたい。そこで何があったのか、と。どんな人たちが屯していたのかと。それも使命であろう。

 自分には、そうした店で知り合った恩人がたくさんいる。当時、実際にお付き合いしていた頃は、若くバカだったから、その人に対し有難くも「恩」ということがよくわからなかった。
 今老いて、年寄りになってその若き日の出会いを思い出し、ほんとうに彼らは「恩人」なのだとはっきりわかる。
 それは、まず何より、ぐゎらん堂の村瀬春樹氏、わが師・鈴木翁二、のろの加藤さん、京都の六曜社のオクノさん、偉大なる古川豪さん、詩人・有馬敲氏、御大中川五郎、そして両国フォークロアセンター国崎さん。もちろんぐゎらん堂で初めて観たシバも。&メーニーモアである。
 彼らと出会わねば、今の自分はなかった。本当に今の自分はここにいない。
 彼らがまだ健在のうちに、その偉大さをもっともっと世に知らしめたい。実の親に対してもだが、その「恩返し」しないで我も死ねようか。弟子は師を越えることは常にかなわないならば。

 我、マスダがまだ生きてこれからもやれることがあるとしたら、お世話になった方々への心からの恩返しだけなのである。
 恩、とは、つまるところ「愛」なのだ。愛を返していく。

新装「共謀コンサート」盛況・大熱唱で無事終了す2021年03月01日 11時45分05秒

★圧巻!!!初登場「バラッドショット」、最強の三人組!!

 公私ともに、という言葉があるが、このコロナ禍中、誰もが様々な不自由や制約を強いられ、時短や自粛で生活も困窮余儀なくされている人も多いかと思われる。
 我もまた、そこに、同居している老父の認知症が年明けからさらに進んできてそろそろ自宅での介護は限界かと頭痛めその世話に疲れ果てていた。
 そんなおそらく誰もが多事多難の最中、緊急事態宣言が未だ続く状況下で共謀コンサートを再開させたことは、果たして適切であったか自分でも迷いもあった。

 しかし、昨日の夕刻から開始し、8時直前には終えた「季刊・共謀コンサート」は、そんな憂鬱気分を一新し吹き飛ばす熱い新たな風が吹いた感があった。
 多くの同じ志を持ったシンガーが今回も出られたわけだが、中でもトリをお願いした、かけこみ亭初登場の注目の三人組バンド「バラッドショット」の熱演熱唱には我を始めその場の観客全員が度肝抜かれた。
 音楽を文字や言葉で説明することは難しい以前に不可能なことだが、その疾走感、スピード、切れ、ドライブ感、そして歌声、全てが役半世紀近くになる我がライブ観覧人生最高のものであった。
 先に、去年の秋、砂川秋祭りで短時間ながら出られた彼らのステージを観聞きし驚嘆、すぐさまその場で連絡先を聞き、この2月28日のかけこみ亭「共謀」コンサートへの参加が決まった人たちだが、まさに世間は広い、天才的、画期的スゴいバンドはまだいることを思い知らされた。
 昨日も出られた我が盟友太田三造は、若い頃に、三人組時代のRCサクセションのステージを観ているそうだが、バラッドショットに対して、そのRC以来の衝撃だと評価していたが、我もまさにそう思う。
 フォーク時代の清志郎たち三人組は、当時のアルバムを聴くと、「僕の好きな先生」に代表される、のどかでほのぼのとした、ギター二本とウッドベースのフォークソング三人組というイメージが強い。
 が、じっさいのステージでの彼らは、ものすごく激しくアグレッシブで、ベースがブンブンスゴイ音で鳴り響き、ギターは激しく掻き鳴らされ、清志郎はシャウトし、失踪感あふれるパンキッシュなバンドであった。
 今回のバラッドショットの演奏を聴いて、太田さんの言ってたことがまさによく理解できた。
 バラッドショット、ともかくボーカルの声が良い。そしてコーラスも超絶ギターも実に的確で、ジャンベはスゴイ音で鳴り響き、ベースはいないのに、ベースの音が聞こえてくる。そう、ギター自体はアコギなのに、彼らは完全なフルのロックバンドの音なのである。構成だけはフォーク系なのに、信じられないがうたも演奏もこれは紛れもない真のロックである。
 気がついたらお願いした45分間の持ち時間はあっという間で、アンコール曲を1曲やって頂き今回のコンサートは幕を閉じた。
 まさにステージを猛スピードで一気に駆け抜けた感がある。スゴイ疾走感であった。
 本当に驚かれ魅了された。何よりコンサートを企画する者として、こうした新たな素晴らしい人たちをお招きして、またさらに多くの人々に認知してもらい新しい関係を築くきっかけをつくる場を設けることこそ、役割があるわけで、我としても大いに満足のいくコンサートとなった。
 そして何より良い音楽、素晴らしい芸能は、人を楽しませるだけでなく、勇気づけ奮い立たせるものだと確信できた。
 昨夜の「共謀コンサート」で、コロナ禍の憂鬱気分が吹き飛んだかと思う。
 こうした「共謀」こそ、新しい世界へのきっかけ、一歩となると信じたい。
 ぜひ多くの方々へ、こんな時代だからこそ次回のご参加を、今さらながら呼びかけたい。「答え」と「展望」を示せる場をつくっていきたいと切に願う。

フィル・スペクターを悼む2021年01月20日 22時12分22秒

★まさに天才!! 刑務所の中でのコロナ死とは

 また偉大な音楽関係者の訃報が海外から届いた。今日は一日頭の中で、ロネッツが唄う「ビー・マイ・ベイビー」が鳴り響いている。ときに、弘田三枝子バージョンも交えながら。

 フィル・スペクターである。書くべきか迷ったが、あまり誰も「追悼」していないようなので、たぶん「知る人ぞ知る」人だということなんだろう。だが、彼の創ったサウンドは、まさに唯一無比の画期的なものだと認める故、ここに書き記しておく。

 我は、基本、今では洋楽は元より、日本の流行りのポップスもまったく聴かないしほとんど関心はないが、かつて子供の頃は、欧米のポップスのカヴァーソングで産湯を使ったほど浸りきっていた。
 我が父が、進駐軍務めをしていたこともあり、始めて手にしたシングル盤は、マーベレッツの『プリーズ・ミスター・ポストマン』の赤盤だったほど、向うの洋楽、そしてそれを日本語にしたものに夢中だった。
 日本テレビの『ザ・ヒットパレード』などで覚えた漣健児氏の「超訳」の日本語詞のから始まって、やがては原曲まで手を出して、今でも60年代から70年代にかけてのレコードは我の宝物である。
 まあ、山下達郎氏や亡き大瀧詠一氏と世代は少し後になるが、我も同様にそうした音楽に多大な影響を受けた。

 フィル・スペクターという人は、そうしたヒットソングのプロデューサーのはしりの人で、スペクターサウンドとも呼ばれた独特の、彼特有のサウンドで、まさに一世を風靡した人だ。
 プロデューサーという仕事が、音楽の場合、どういう役割をするのか定かではないが、彼自身は裏方としてエンジニア的に関わり、ミュージシャンたちが楽曲を録音するときに、何とも不可思議なサウンドを創り上げたのである。
 それは、「ウォール・オブ・サウンド」と呼ばれ、要するに多重録音を駆使したまさに「音の壁」であった。それは実に画期的で、平板な録音技術しかなかった当時、一聴すればすぐさま彼の仕事だとわかる深みのある大仰なサウンドであった。

 音楽についてあれこれ文字を連ねてもどうやったって伝わることはない。ともかく彼の仕事。その音を聴いてもらうしかないわけだが、我が国でも大きな影響を受けたミュージシャンはたくさんいて、特に後年の大瀧詠一は、まさに彼のサウンドの「継承者」として彼の手がけた多くの楽曲にその影響がはっきり聞き取れる。

 例えば、小林旭のヒット曲『熱き心に』など聴けば一目瞭然ならぬ、一聴了解で、あの大仰かつ重厚なサウンドこそ、スベクターサウンドの日本版なのである。真に名曲と呼ぶしかない。
 彼によって、音楽プロデューサーという仕事を意識し覚えて我は、後にトニー・ヴィスコンティとクリス・トーマスというやはり天才的音楽裏方人を知ることになるが、それは今回カンケイない。

 ただ、天才は奇行の人とも知られて、彼はドラッグに溺れ、2003年、自宅で友人を射殺して今も服役中であった。
 我は、彼が事件を起こした頃までは覚えていたが、今回ネットで訃報を知り、正直、まだ生きていたのかと驚かされた。まったく情報もなく残念ながらもはや過去の人でしかなかった。
 しかもどうやらコロナ感染、合併症での死らしい。まあ、81歳だとか年齢も年齢だから、刑期を終えて出て来ることは難しかったかもと思えるが、よりによってこんな死に方とは何とも哀切、言葉もない。
 いろんな死に方はあろうが、獄中でのコロナ死はただただ哀れである。何とも胸が痛む。あれだけの仕事をされた人の死がこんな形とは・・・

 フィル・スベクター、その名前を口にするとき、多くのガールズ・グループの楽曲と共に懐かしい甘酸っぱい思いが湧いて来る。我にとって音楽の神様の一人であった。誰よりも誰よりも。
 昔からほんとうに大好きなサウンドだった。数々の素晴らしい音楽を有難う。
 
 迷える彼の魂に安らぎを。どうか神のご加護を!!

「月刊・共謀コンサート」最終回、無事盛況のうちに終わりました!2020年12月26日 23時48分18秒

トリを務めてくれた五十嵐正史とソウルブラザーズ
★今年一年、全10回、無事終えられました!