「共謀」コンサート、終わり始まる2019年10月20日 21時08分05秒

★第一章の「最後の回」は、半世紀前からの「首謀者」中川五郎を迎えて10/.19日無事大盛況で終了。

 谷保かけこみ亭での連続企画コンサート『護憲と反戦平和のための「共謀」コンサート』は、昨日19日、御大中川五郎をメインに据えて、大盛況のうちに終了した。
 安倍自公政権による「共謀罪」が強行的に成立してから、我・マスダは、かけこみ亭の店主ら友人知人と相談し、共謀罪ができても護憲と反戦平和のために、ミュージシャン、音楽家たちが音楽を通してできることとして、『「共謀」コンサート』をやろうとカクサクし始めた。※同様の企画は、ぱぎやんたちが大阪で今も続けている。

 そして2017年8月11日、李政美with矢野敏弘さんをメインに迎えて、まず第一回を開催。その後も数か月おきに回を重ねて、番外編も加えれば計約10回、この2年間に同所で、「共謀」コンサートを続けてきた。
 そして、とりあえずの最終回は、今年70歳の古希を迎え、音楽活動歴も半世紀を越えた、まさにフォークソングのレジェンド御大中川五郎をお迎えして、彼を慕い敬愛する、彼からの薫陶を受けたミュージシャンたちが前半を務めて、たっぷりとフォークソングの神髄をうたって頂いた。
 思えば、「護憲と反戦平和」ということは、市民の「自由」と「権利」と同義であって、中川五郎は、高校生のとき、あの関西フォークムーブメントの時代からずっとそれを歌い続けている。※一時期うたを離れた期間があったとしても、文筆活動でそれを続けていたのだ。

 同時期に活動し始めたシンガーたちでまだ健在の方もいるにはいるが、当初の志を変わらず抱いて同じスタンスで今も現役で精力的に活動続けている人はもはや五郎氏以外には見当たらない。
 そうした意味で、護憲と反戦平和のための「共謀」~という趣旨からすれば、彼こそが元祖その「首謀者」であり、我も今回前座役を務めたミュージシャンたちも皆彼のうたを聴き、彼の撒いた種から育ったと言えよう。五郎ズ・チルドレンなのだ。

 ならば最後の回は彼をお迎えするしかないと思い、折しも今夏古希70歳となられる記念の年に、そのバースデーの頃に、彼の住む地元国立のかけこみ亭で、開催したいと考えていた。だが、今春早々彼のスケジュールを確認した時点で、超お忙氏の彼は、夏はもう土日祝日は全部埋まっていて、かろうじて直近で空いていたのが、10月19日だけで、この日となったというわけだ。

 この秋はやたら台風も次々こらちにやってきて、先週であったら19号直撃の当日であったから、開催中止となっていたことは間違いなく、雨上がり曇り空の日であったが、多くのミュージシャン仲間も来てくれて熱く大盛況の一夜となった。
 「共謀」コンサートは、今回で、とりあえずまずは「終了」とするけれど、それは第一章が終わったということで、五郎氏の昔のアルバムのタイトルの如く、「終わり始まる」ということにすぎない。また始めるために終わるのである。
 近くもう一度コンセプトも含めて態勢を立て直して「共謀コンサート」、より盛大に、エキサイティングに、小泉環境大臣的に言うならば「クールでセクシー」に、第二章再開したいと考えている。そう、口先やスローガンではなく真に効果的に、じっさいの威力となるにはどう企画開催していくか、だ。

私的に最後のサマークリスマス大盛況で終了す2019年08月25日 22時08分24秒

おススメ映画を紹介する三留まゆみ
★やっと一つ荷を下ろせたか

 落とし前をつけるという言葉がある。つまるところ自分のしたことにケリをつけるということだろう。
 故林美雄さんにかこつけて、当時の彼の深夜放送リスナーたちとの集い、「メモリアルクラブ」はやっととりあえず今日で私的には終了したと思う。ほっと肩の荷を下ろせた感がしている。

 亡き林美雄さんは、TBSのアナウンサーで、1970年代、深夜放送、それもほぼ誰も聴かない深夜も午前3時からの時間帯を受け持つパーサナリティであった。
 当時、中坊だった我は、人気の金曜パック一部の、深夜午前1時からの野沢那智、白石冬美の『金曜那智・チャコパック』のリスナーで、ほぼ毎週その深夜放送を聴いていた。
 そしてついうっかりその後の午後3時からの林アナの「みどりぶたパック」も聴いてしまったのだ。
 人生には、誰にもその後の人生を決定づけてしまうような出会い、きっかけが確かにあるわけだが、その放送と、後に高田渡の死直後、追悼の小金井公会堂の「お別れ会」に行かなければ、今とは全く別の人生を生きていたと断言できる。
 
 まっ、渡氏はさておき、その深夜放送、林美雄アナウンサーのラジオを聴いてから、東京の片田舎のボンボンだった我の人生は大きく耳目を開かされた。映画から音楽・演劇まで、世にはこんなに多様なユニークでヘンなものがあるのだと、広く彼から紹介された。
 むろん、ちっとも良いと思えないものもあったけれど、今の自分の素養、構成しているものの半分以上は、当時彼から知らされたものだ。局アナ風情と言うのは失礼だが、彼から生き方や考えた方すら教わった気がする。
 しかし、あれだけ自由に好き勝手な放送させていたのは、TBSという社風であり、それもまた時代だったんだろう。今ではまず難しいはずだ。
 それは反体制ということであり、庶民・市井の暮らしの大切さであり、何であれ、最初から偏見や色メガネでモノゴトを見てはならないという戒めであった。
 彼は言葉に出さなかったが、常に自由と平等、差別撤廃を説いていたと思う。命の大切さ、真剣に生きることの大事さを彼から教わった。
 そして人がじっさいに足を運んで、行動することの大切さも。いまの我マスダがやっていることは、ある意味林さんへのオマージュ、遺訓にそったものだと気づく。


 そして、彼が58歳の若さで亡くなり、それからまたずいぶん経って、ふとある夏の終わりのこと、伊豆への家族旅行の帰り途、真鶴辺りの海沿いを車で走っていたら突然一つのうたが頭の中に流れて来た。
 それが林さんが大好きだった日活の映画『八月の濡れた砂』のテーマ曲であり、昔彼の放送で頻繁に流れていた石川セリが物憂く歌うそのうたを、鄙びた海岸通りの光景で不意に思い出されたのだった。

 もどってさっそく、『林美雄さんを覚えてますか』と題して彼のことをブログに書いた。そしたらばすぐ見知らぬ方から反応があり、少し年上のその方も林パックの熱烈なリスナーだったことからすぐお会いして意気投合、彼が管理人として林さんと彼の放送、パックインミュージックのファンクラブのHPを拵えてもらった。
 そしてじわじわとかつてのリスナーたちがその場に集い、最終的には40人を超したかと記憶している。そこから今も親しくしている方もたくさん生まれた。
 毎年8月25日の林さんの誕生日には、かつて放送が流れていた時代、代々木公園でリスナーたちとの親睦の集いがあったことから、その日に毎年我らも集うことにしてこれまでも10回近くあちこちで「サマークリスマス」を開催して来た。5年?ぐらい前、阿佐ヶ谷のアルポランでやったときが最盛期であったか。
 この近年は、お店ではなく吉祥寺のパントマイマーの方のスタジオをお借りしてそこで打ち上げまで自主開催していた。

 しかし、管理人の方が病魔に倒れたりしたこととクラブ自体も活動が停滞してしまい、けっきょく一昨年クラブは発展的解散とした。
 ただ、窓口として今も非公開での旧会員間の連絡場所としてフェイスブックはできているし、今もそちらもじわじわと増殖中である。
 それで今回は、日曜日ということもあり、久々に、皆で集うことを企画したというわけだ。
 じっさいのところ、我もだが、皆高齢化が進みこうしてたまに集まることも、イベントを企画することも大変になってきている。フェイスブックで、各自近況を綴る程度は負担もかからないが、クラブ活動もそれ自体維持していくことはいろいろ労力をとられる。何しろ我も体力と時間が無くなって来た。
 こうした集いをすべきか今回も迷いもしたが、前回は参加者が事前に少なかったので中止した手前、やはり今回はこそ日曜でもあり、「決行」としたのだった。

 当初は、裏方、出演者も含めて10名も来ないかと案じていたが、けっきょく当日は飛び入り的に初めて来られた方も何人もいて、二部だけ参加された方も含めると約15名近くの盛況となった。

 これからだが、来年からは8/25日は平日となる。次の土曜か日曜の8/25日は、2025年、2026年だ。もし、フェイスブックが続いていて、会員皆が元気で多くが健在ならば、そのときまた企画したいと考えているが、まずこの身こそ果たして無事でいられるか定かでない。
 が、とにもかくにもこれでやっと一つだけ、自分が蒔いた種の刈り入れが終わった気がしている。かつての人間関係も含め、深く何も考えずこうしてあちこちに撒き散らした、自分のしてきたこの「後始末」をしていく。
 断捨離はモノだけではなく、本来人間関係にこそすべきことだろう? モノは後の者たちが処分してくれるが、人間とのことは、自らがケリをつけていくしかない。

靴に高い中敷き入れて東中野じみへんへ2019年07月28日 23時59分56秒

★みほこん&太田三造共演ライブ

 左足底が痛くなって「足底筋膜炎」と診断されてから初めて、久しぶりに電車に乗り東中野の「じみへん」へ行ってきた。お知らせしたように我らがみほこんと太田さんのジョイントライブである。

 昨日Amazonで注文して今朝がたさっそく届いた二千円近くする医療用のインソール(中敷き)を靴のカカト部分に入れて初の外出である。
 確かにその柔らかい中敷きを靴の中に入れるとだいぶ衝撃はやわらぎ痛みは軽くはなる。しかし元のようにスタスタ速足でフツーに歩けるわけではなく、やはり階段の上り下りには難儀した。
 登るのはともかく、降りる時が体重が足にかかるからどうしても慎重に、ゆっくりとなる。そんなで太田さんとライブ前に約束した打ち合わせの時間に間に合わず暑い中かなり待たせてしまった。ホームに降りることに時間とられ目の前で東京行きが出てしまったのだ。

 自由にスタスタ歩けないという障碍者、その身に自らなって気づくのは、駅にはもっとエスカレーターなどどの駅にも、どの階段の上り下りにも必要だということだ。
 我の最寄り駅は、橋上の改札口までの上りにはエレベーターがあるが、肝心のホームに降りるのには自ら階段を自力で一歩一歩下りねばならない。これが痛くて一苦労であった。
 何故か、JRの駅には、階段の上りにはエレベーターが多いが、逆にホームに下りるのにはそれがない。登山でも大変なのは実は上るより下りるほうだと膝や足の負担を顧ればわかるはずなのに、乗り換えの中野駅も東中野駅も下りのそれはない。これでは真のバリアフリーーではない。
 車椅子利用程でなくても歩くのに辛い人はかなりいると思う。21世紀はさらなる高齢化社会なのだから当然のこと公共機関は動く歩道はともかく、どこも全ての階段には上下ともエスカレーターを完備してほしいと望む。
 
 さておき、その「じみへん」でのコンサート、素晴らしい出来であった。我と長年親しくお付き合い頂いている旧知のお二方だが、二人だけの共演ライブは前回のじみへんが初めてで、今回はその再演である。
 非礼を承知で記せば、その前回ときは、二人はきちんと最低限の打ち合わせもできなかったことからもう一つうまくかみ合わなかった。
 悪い出来だったとは言わない。即興の天才みほこんは一生懸命唄う太田さんにバイオリンで合わせたが、我が望み期待していたものには至らなかったのだ。天分ある二人の持ち味が相乗効果とならないでいた。
 でセンエツながら今回は、事前に太田さんとシークレットライブを開き、彼の主な持ち歌をざっと歌ってもらい、それを編集してみほこんに送り、バイオリンやコーラスで共演できる曲をこれとこれと指定しておいた。イントロの入り方、間奏の位置なども。
 企画者ならともかくずいぶん出過ぎた行為だったと自分でも思う。しかしそうした事前に最低限の決め事がないと、ライブ本番ではうまく乗らないしまとまらない。我の大好きな、深く敬愛する素晴らしい才能あるお二人だからこそ、観客に最善のものを示してほしいと願いおこがましくもしゃしゃり出たのだ。※今かなり反省している。

 しかしそうした事前の根回しが効を奏したか、今回は実に素晴らしい、ちゃんとしたコンサートらしくなった。太田さんにとってもみほこんにとってもベストの出来となったのではないか。が、太田さんらしい自由闊達さを削いでしまったと言われればそうかもしれないし、我自身だけが満足してご当人をはじめ観客はご不満となったかもしれない。そもそもこれはマスダの身勝手な我がままかもしれない。我が企画進行するコンサートも含めて。

 ライブが成功して今思うのは・・・
 今後はもう事前にあれこれ口を挟むことはしないつもりだし、あくまでもミュージシャン、シンガー側の自己責任だと彼らに任せたい。ただ、終えた時点でこれからも率直な感想は言いたいし言うつもりでいる。たとえ嫌われたとしても。何であれ、表現行為とは自己満足に陥ってはならないし、第三者の目や声が届かない限りその先に真の発展はないと信ずるからだ。
 自己肯定も自己卑下もそれだけではいけない。何故なら優れたうたは、それだけで広く世の人に聴かれる使命があり、もはやそれは作り手だけのものではないからだ。

 なにはともあれ、太田三造という不世出のベテランシンガーを、もっと広く世に知らしめたい、その唯一無比の昔ながらのフォークソングのスタイルをもっと多くの人に届けたい。そこには彼しか歌えない真に傾聴に値する、後世に残すべき「うた」があるのだから。
 その思いはみほこんも同じだと思う。ならばこれからも機会と場をつくって、彼をしっかりと応援していきたい。アメリカフォーソングの父・かのアラン・ローマックスが、監獄にいたレッド・ベリーと出会い彼にしたように。
 そう、これも出会いなのだ。人が人と幸福な出会いをしたならば、自らのためにだけでなく、さらに世のためになるように活かさねばならない。
 神の計らいに人は感謝してそれに応えねばならない。

大介バンド、甲府「桜座」ツアーに参加してきた・終わりに2019年06月29日 23時04分50秒

★いま、同時代に、さこ大介がいる幸福

 我もこのところだいぶ老化というか、呆けが進んできて、昔のことはともかく、この10年ぐらい最近の記憶がだいぶ曖昧になってきている。
 数年前のことだと思ってたら早や10年も過ぎていたり、起こったこと、したことの順序、脈絡が前後したり混乱してどうにもはっきりしないことや思い出せないことも多い。
 御大さこ大介さんといったいどこでいつ知り合って懇意にお付き合いして頂けるようになったのか、今回、山梨へ同行してはたと記憶をたどってみたのだが、どうにも思い出せない。

 のみ亭とかで岡大介から彼の話、「還暦デビュー」したシンガーがいることは聞いた記憶はあるが、岡君から直に紹介受けたことはないとはっきり断言できるし、その前に、大阪春一で、「大介バンド」として登場してきたときのことのほうが撮った写真などに残っているのではっきりしている。
 傍らにいた「雲遊天下」誌の村元さん(かつてプガジャ出していた人)が、「大きなうたを唄うなあ~」と感嘆していたことを思い出す。

 いずれにせよ、さこさんは、還暦・定年までカタギの勤め人の傍ら、アマチュアとして大阪などで音楽活動を若いころから続けていて、憂歌団など一部のブルース系プロシンガーたちの間では、その「実力」は早くから高く評価されていた。素晴らしい楽曲をつくり、凄く渋いノドで唄う本格派としてまさにミュージシャンズ・ミュージシャンであり、伝説かつ噂の通のシンガーであった。
 そして定年後、本格的に音楽活動に本腰を入れはじめて、CDデビュー、「還暦デビュー」したすごいシンガーとしてかなり話題になったと記憶する。
 ただ、我はどの時点で、彼と親しくなり、拙宅無頼庵まで遊びに来て頂くような関係になったのか、何ともはっきりしない。
 が、ともかく還暦デビューの頃から早や10年はとうに過ぎ、その間、かなりひんぱんに、彼のライブは見て来たし、我がもちかけ企画して実現したライブもあったかと思う。観た回数では、中川五郎に並ぶかもしれない。
 さこさんは、地元の友人や、某大学のジャズ研出身の方たちと、自らの名を冠した「大介バンド」として活動していて、我も何回かそのバンドとしてのステージを観たことがある。
 しかし、バンドでの彼は、他のメンバーに気を使い、得意の長饒舌の曲解説も控えめとなり、10年ぐらい前に地元のイベントで観たライブでは、演奏はともかく何か中途半端な感じで、さくさく次々曲を演奏するだけに終わってしまい、アマチュアの発表会というイメージが残った。そのときのメンツは、ボーカルの大介さんに、バックは、ピアノ、エレキギター、エレキベース、ドラムス、トランペット、それに女性コーラス陣という大編成である。
 以後、ときおり多人数のフルメンバーでのコンサートやツアーなどもあったしお誘いも受けたが、我はそうした形態よりも、さこさん本人のギターにベース、ピアノだけのトリオ編成や、さこさんに+他の楽器が絡むシンプルな編成のほうが彼も自由気ままに伸び伸び歌えるとのことで、ソロ活動中心にお付き合いするようになった。
 バンド活動を否定する気は毛頭ないが、さこ大介はギター1本でもしっかり自らの素晴らしい音楽世界を表現できる達人であり、できるだけシンプルなスタイルのほうが、いぶし銀のノドに相応しいように何となく思っていた。しかし今回の甲府桜座の大介バンドを従えてのステージには心底感心させられ良い意味で驚かされた。

 バンドを従えて、と書いたが、それは正しくない。大介バンドはさこ大介という稀有なボーカリストを抱くジャズ系スインギーな楽団として、実にたっしゃなプロ集団であった。
 そう、ブルーノート東京のステージに出ていてもちっともおかしくない。本格派の超絶プロミュージシャンたちにいつしか成長していたのだ。
 まずドランペットが、件の斉藤さんが抜けて、今回新たな方に変わっていて、サックスからフルートまで実にムーディーかつ巧みに奏でていたいたし、ギターも以前観てた若い人とは変わってしっかり超絶プレイを聴かせてくれたし、ドラムス、ベース共に控えめながらも的確さは変わらず、そこに、ピアノのうっちゃんの無頼かつ自在なリズムが刻まれ、さらに女性ボーカル陣が大介さんのボーカルに絡み花を添えている。
 一言でいえば、しっかり大人のバンドであった。実にアダルト本格派で、スインギーであった。今回の楽曲のせいもあろうが、六本木のジャズクラブのような雰囲気がそこにあった。心から感嘆し感心させられた。
 いま、現在、大介バンドほどの実力をほこるバンドが他にあるだろうか。さこ大介という天才シンガーソングライター、ブルースボースリストを盛り立て、かつそれぞれの楽器の持ち味もしっかり示せるバンドが。

 さこ大介復活と記した。が、先のことはわからない。彼はこれからこれまでの活動の集大成となるような、彼自身の日本語詞でのカバァーソング中心のアルバムにとりかかるとのこと。実に楽しみでならない。
おそらく今回の甲府でのステージの延長線上のものになろう。ジャージーかつアダルト、そしてスインギー。
 これからもさこ大介には目が離せない。

 いろいろ今回のツアーに参加するには当日朝までトラブルがあって大変だったが、向うで旧知の仲間たちと出会い、ライブも含めて素晴らしい時間を共に過ごせて夢のようであった。
 我は残念ながら所用と連れて行った犬も体調が良くなかったため、翌日のツアーオプションのバーベキューは不参加と辞退してしまったが、何はともあれ行けて大介さんと大介バンドの活躍が確認でき本当に良かった。良い気分転換にもなったし、皆さんから元気を頂いた。今は、ただ大介バンドと同行の皆さまにただただ感謝である。
 良い優れた本物の音楽こそ人を癒し勇気づけ何より楽しませ元気づけることを今回しっかり確認できた。
 さこさん一日も長くお元気で、我もだがお互いお酒は控えましょう!!

大介バンド、甲府「桜座」ツアーに参加してきた・続きの続き2019年06月26日 20時21分48秒

まさに渾身のソウルシンガー、魂の歌声!!
★さこ大介は国の認めぬ「人間国宝」第二号である。

 「国の認めぬ人間国宝」とは、生前、高田渡を指して、春風亭昇太が評した言葉だが、けだし名言だと思う。
 亡き渡氏が、その第一号だとすれば、第二号は、さこ大介をおいて他にいないと我は思う。たぶん彼に心酔する六角精児氏も異論はないと信ずる。

 さておき、そんな国宝級まさに唯一無比の天才シンガーソング・ブルースシンガーは、今春酔っぱらって自宅で転倒し、腰部圧迫骨折を発症しずっと治療・療養中であった。聴くところによると、この10年間で3回だとのこと。
 腰は字のごとく、身体の要であり、慢性腰痛持ちの我も常に思うが、腰が悪くなると歩行移動も腰掛けることも何一つできなくなる。寝ていたって痛いし、ただギプスはめてじっとしているしかない。当然身体も萎えて衰えていく。

 さこさんは、我より10は上だっと記憶するから、果たして無事回復してまた元通りの音楽活動再開できるか、我らファン、友人一同ずっと心配していた。何しろもともと骨皮筋衛門であり、酒と煙草は欠かさないが、飯食ってる姿は見たことがない人だ。
 そんな不健康不良「老人」が、いつまで「うた」い続けられるか、常に案じていただけに、今回お誘いを受け、彼のバンド、大介バンドを従えての甲府桜座での「復活」のステージは、心から安堵した。

 非礼を承知で書くが、まだもう何年かは大丈夫だと確信したし、今回はボーカルだけに専念したことも幸いして、まさに渾身のソウルフルな歌声をたっぷり聴かせてくれた。多くのプロシンガーが彼のうたをカバーしているが、本人以上に彼のうたをしっかり味わい深く巧みにうたえるシンガーはいない。
 すぐれたソングライターは、同時にすぐれたシンガーであるという「定義」は、桑田佳祐を含めて他にも例はないわけではないが、現時点において、彼ほどすばらしいうたを創れて、そのうた世界を、しっかり表現できるシンガーはさこ大介をおいて他にはいない。
 ただ、高齢であり、体力的体調的にも決して「元気な老人」ではないわけで、果たしていつまで今のような音楽活動・公演活動が続けられるか今回の骨折のようなこともまた予測され、まったく安穏としていられない。
 ならばこそ、もし機会あらば、彼のステージは、欠かさず観るしかないし、彼の抜群の語りと深く渋い歌声に感嘆して耳を傾けるべきだ。そう、国の認めない人間国宝、彼が歌い続けているうちに目に耳に心に焼き付けておけ!今しかない。今聴かなくていつ聴けるのか!だ。

※もう一回だけ続き書きます。

大介バンド、甲府「桜座」ツアーに参加してきた2019年06月23日 23時34分38秒

★復活!さこ大介‼

 というわけで、この6月21~22日、ご本人からお誘いを受け、さこ大介率いる「大介バンド」の甲府ツアーに参加して来た。その「報告」をしていく。

 出かける朝、父の体調も悪く、朝食終えた途端、食べたお粥を全部戻して吐いてしまった。こりゃドタキャンかと行くのは大いに迷ったが、幸い熱はなかったので何とか迎えのショートステイに送り出して、施設から何も言ってこなければ「決行」と決めて不安な気分で携帯がいつ鳴るかと耳をすましていた。
 幸い、昼過ぎの段階で施設からは何も連絡なかったので、父は無事だと思うようにして、迷う気持ちを払い大慌てで荷物をまとめて留守番の猫たちに餌を与え犬を乗せて車を甲府へと走らせた。

 スマホの検索だと、ウチから会場の甲府駅近くのライブハウスまでは中央高速つかえば約一時間半である。山梨でもいつも行ってる、倉庫のある須玉よりは、ずっと手前で比べれば近いことは近い。
 が、甲府市内はまだ一度も行ったことはなく、インターを降りてから市内へは30分も迷いつつ一般道を走らねばならなかった。甲府の中心市街は予想以上に大きくて都心並の大都会であった。

 予定では、3時に、バンドメンバー、ツアー参加者全員が泊まるゲストハウスに現地集合だった。が、そんなで、かなり遅れてしまった。幸い大介さんはじめ皆さん、ライブハウスへの移動はまだで、そこで無事に落ち合え一回場所の下見に、会場となる「桜座」へ皆と一緒に歩いて行った。

 そのお店もライブも素晴らしいものであった。ツアーの参加者はマイクロバスでの移動で、翌日は、大月のほうのキャンプ場でお昼はバーベキューとのことだったが、我は、心惹かれて迷ったが、けっきょくそっちは辞退して、犬と共にまた高速に入って須玉の山里にある古民家兼倉庫へ行き、一泊して今日の昼過ぎ帰京した。

山梨で古民家修復のため土壁塗り体験の話・52019年06月12日 20時02分41秒

★そして、じっさいに金ゴテで、昨日下塗りした上へ、まささらに下から上へと、塗りつけていく。

山梨で古民家修復のため土壁塗り体験の話・22019年06月11日 22時54分14秒

「なかや」の裏側。建物北側の外壁を今回塗った。
★外壁の「土しっくい壁」は、生石灰がキモであった。

 さて、そもそも「土塗り壁」に興味や関心のない方には、まったく無関係な話であるので、できるだけ手短めに。

 というわけで、我、マス坊は、以前から昔ながらの土壁、漆喰壁に関心を強く持っていた。
 で、その古民家修復のために塗り壁体験の機会があると知ってなにはさておき連絡とって申し込んだ。この6月6~7日の土日、場所は山梨県内同じ市町内である。まあ、近いと言えば近い。
 が、土曜日は着いたのがもう夜で、積んできた古本など荷物だけは何とか下ろして、翌朝9時すぎには、現地、須玉町下津金の農家民宿「なかや」さんに到着した。が、あいにくの小雨で何か山里はうすら寒い。
 今回は、昨年に続き二回目の壁塗り作業とのことで、前回は正面入り口側をやって、今年は裏側の壁面を塗り直していた。
 前日の土曜日は晴れて作業も進んだようで、既に一回下地が塗られている。そして、簡易テントの下では、舟と呼ばれる大きなトレイの中で、今日塗る分の塗り壁ベースづくりが始められていた。
 
 材料は、ここの家の庭先から掘りだした粘土質の赤土と、砂が同量で、まずそれをクワでよく混ぜ合わせたところに、生石灰を数割加え水を入れてよくかき回す。
 すると、化学反応が起こり発熱してくる。さらにそこに「わらすさ」、つまり数センチに切った稲わらを足して、さらによく練って少し寝かせる。これで塗るための「壁土」は完成となる。
 それをこて板に乗せて、金ゴテで壁面に15ミリほどの厚さに塗り付けていく。

山梨で古民家修復のため土壁塗り体験の話・12019年06月11日 22時12分20秒

農家民宿「なかや」さんの宣伝ハガキ
★まず「土壁」とは何かから説明しないと

 今日の家に住む、今の人たちには、昔ながらの「家づくり」の工法から説明しないといったい何のことなのか、何のためにやってるのか伝わらないかと思う。

 今の家は、鉄筋構造にしろ、昔ながらの木造にしろ、外壁は不燃パネルを貼り付け、内部の室内の壁や間仕切りは、内部に断熱材を入れて石膏ボードの上にクロスを貼っている。
 その方が気密性もあり、断熱も優れているとされているが、何より安く早く簡便に家が出来るからそうしているに過ぎない。

 そうした工法が一般的になる前の昔ながらの家は、木造で骨組み、つまり躯体をくみ上げた後、部屋ごとの壁や間仕切りは、すべてまず、竹を細く裂いたもので格子状に組み上げたところに、土をこね上げたものに藁を透きこみ、その「粘土」状のものを左官屋がそこに埋め込み「壁」に仕上げていた。
 マス坊のこの家は、改築した時もそうした昔ながらの「土壁」をかなりそのまま残してあるので、新建材で建てた部屋に比べて夏でも冬でも常にひんやりと涼しい。また化学薬品などは一切使っていないからシックハウス症候群などになることはない。
 昔の旧家の蔵も同様のつくりで、ゆえに中は常に一定の温度であるし耐火性に優れて、モノを保存するのに適していたむろん外部には漆喰を塗って耐水性を高めておかねばならない。

 しかしこうした昔ながらの土壁工法はものすごく時間がかかるし、長い年月の間に、地震などで剥落やひび割れもしてくる。
 マス坊は、昔ながらの旧い人間で、何にしろ古いものが大好きだから、「古本音楽家」としても、土壁の工法は一度きちんと学んでおきたいと常々考えていた。じっさいのところ、今日では、そうした工法で新築を建てようと考えたとしてもそれができる大工も左官屋もまず見つからないかと想像する。そしていたとしてもバカ高く経費が掛かることも間違いない。
 ならば、自分でやるしかないわけで、山梨の倉庫兼古民家も外壁の一部が剥落して来て、そろそろ「修復」しないとと考えていた矢先、まさに「土壁塗り体験」は渡りに船であった。
 そしてじっさい短時間でも実に多くの収穫があった。

山梨で古民家修復のため土壁塗り体験に参加した話2019年06月10日 17時53分57秒

北杜市須玉町下津金の「古民家なかや」
★北杜市津金の農家民宿での「壁塗り」作業で学んだこと

 東京も先日梅雨入りしたとかで、今も外はかなり本格的な雨が音立てて降り続いている。やや薄ら寒い感じだが、寒暖差アレルギーの我としては、冷房はいらないこのぐらいの気温が楽でちょうどいい。

 私事だが、一昨日土曜日の夕方から、今日、月曜午前までまた山梨へ行っていた。二泊三日だが、向うに丸々いたのは実質日曜だけで、今回は天気も悪く行きも帰りも雨にたたられたが、実りはあった。
 というのは、向うでの古民家修復のための壁塗り作業に短時間だけど体験参加できたからで、新たな知り合いも増えて今さらながら自分の人生、今後についても考え直す機会となった。

 マス坊の本の倉庫と化した古民家は、山梨県北杜市須玉町の山里にあるのだが、その北杜市という市じたいは、平成の?大合併だかで、山梨県北部に点在していたちっこい町や村がいくつも集まって近年できたものだ。
 だからこの市は、山梨でも韮崎市から上の部分ほぼすべて、長野県に隣接する清里に至るまで網羅した巨大な「市」であって、八ヶ岳から駒ヶ岳など南アルプス山麓までも含んでいる。
 そのなかでもさらにいちばん外れというか山中に津金という集落がある。かつては津金町といったらしいが、今あるウチの古民家よりさらにまた山の中に入っていく。
 ウチは、高速のインター出入り口「須玉」から車で約30分程度、山道を登れば着けるが、津金の集落はまたさらに15分は余計にかかるほど奥地で、清里に向かう別荘地が点在する街道とも外れて本当のド田舎である。東京都で言えば、奥多摩よりさらに奥の丹波山に感じが似ている。
 しかしだからこそ、昔ながらの旧い農家がいくつも点在しているし、ここの観光の目玉は、明治・大正・昭和の三代にわたる小学校が遺っている「三代校舎」で、懐かしい昔の校舎は、博物館として、農産物直売所、レストランや宿泊施設として活用され、観光客に開放されている。※興味ある方は、お知らせ頂ければマス坊がご案内します。

 それで、今回は、街道筋にある、農家民宿なかやで、古民家修復のため土壁塗り作業のボランティア募集とのお知らせを地域のコミュニティFMで小耳にはさんで出向いた次第。