やつらに、我らの情報を全面的に明け渡してはならないのではないのか ― 2022年11月06日 22時32分10秒
★SNSの恐ろしさ、不安を記す。
これから書くことは、我の杞憂であり、老婆心のようなものであれば幸いだと思う。が、皆さんあまりにも私企業のコミュニティサイトに、全幅の信頼を置きすぎているのではないか。
我は、いまこうして朝日ネットが運営するブログで、好き勝手に思うことを書き記し世界中に読めるような状態にしている。
むろん無名の一個人だから、読んでくれる人は、友人知人ら仲間内とか、ごく稀にふらっと立ち寄ってくれる物好きな人に限られると思う。
それでも長く続けてきたからか、常時平均すると50位から70位台で、ランキングは推移し、時に40台ということもあるから、多少は読まれてはいるのだと思いたい。
かつては、百番台ということもあったわけで、こんな与太話のようなものでも読み手の方がおられることは本当に有難いと思っている。※ほとんどコメントは届かないが、逆にそれはそれで好き勝手に書けるので善いことかもしれない。
※だが、申し訳ないが、ほんとうに極私的なこと、アシがつきそうなことは書けないこともあることはご理解頂きたい。
しかし、多くの人に読まれる以前、誰でも目にできるということは、逆に恐ろしいことであり、ましてそれが権力側、つまり、我々の敵側に筒抜けにになってしまえば、まさに情報は彼らの手の内のものとなってしまうわけで、それは限りなく危険なことだと我は思っている。
今さらだが、知っている人は少なくないと思うが、我の名、マス坊、マスダというのは、若い時からの物書きとしてのペンネームと商売の屋号であり、全てが本名ではない。
仮に恋ヶ窪三丁目の郵便局の長がいたとして、その人が、郵政省の中で、恋三さん、と呼ばれるのと同じことであり、あくまでも便宜的なものだ。
その名前で、このブログもフェイスブックとか、ネット上のあれこれ長年やってきたわけだが、このところ、すごく不審に思うことに気がついた。
我は、フェイスブックなども、基本的には、我の手掛けるイベント開催のときの宣伝としてしかアップせず、個人的なことや思いなどは書かず、ここの我がブログには書いてもFBには何も記したことはない。
ところが、ご存じのようにフェイスブックは、有難くも、お友達ではありませんか?と、ある程度の共通の、関係ある人たちをこちらに一方的に知らせてくる。
むろん、それは音楽関係など、共通の、こちらも親しくしている仲間内的な方々も多々いるのはごく当然なのだが、ときに、どうしてこの人との「関係」がFBやインスタグラム運営側に、知られたか不思議に思うことも多々ある。
だって、ほとんどその繋がりは、我だけしか知り得ないようなものであるはずなのに、だ。
以前、我の大学時代の親友で、当人は一切インターネットもSNSもやっていない男の弟が、フェイスブックで、「お友達」では、と登場してきてびっくりした。
その親友は、Tとする。そのTの友人のAとは、いつの間にか「お友達」関係になっていて、その人とはそこでは繋がっている。
しかし、そもそも一切ネット環境にない親友Tとはたまに電話で連絡する以外、ネットではまったく繋がりはない。
ところが、そのTの弟が、FBで頻繁に、お友達ではないか、と出てくるのである。不思議でならなかった。
考えられるのは、共通の友人である、Aが、そのTの弟とも繋がっていて、その線で、我に執拗に関係を迫ってくるのか、と考えていた。
が、どうやらそうではないと最近気がつくことがあった。
父の葬儀に関係して、長年疎遠であった従弟たちと我は電話で連絡を何回かとりあった。ときにショートメールでもやり取りはした。
そしたらば、突然、それまでは一切登場しなかったその従弟たちが、フェイスブックで、以後突然我の「お友達」ではないですか、と一番に出てくるようになった。まさに信じられないことだ。何故なら、半世紀も連絡とらなかった人と、数回電話でやりとりしただけたなのに。※そこには我と彼らを結びつける間の人は皆無なのである。
どうしてこんなことが起きるのか?
これは推測で、正しいかどうかわからない。誰か事情通な方にご教示頂きたいと願うが、つまるところ、何かどこかに巨大な電話も含めたデータの集積所のようなものがあって、フェイスブック社、今は別の名になったのかもしれないが、そうしたSNS業者はアクセス出来、そこで、勝手に電話連絡網も含めて解析して、我らの関係、繋がりを把握しているのではないか。
それ以外、数回電話しかしていないのに、疎遠であった従弟たちが突然我にフェイスブック上で登場し、その関係を知らしめることがあるはずが思いつかない。
つまりどこかに、そうした通信業者が自由にアクセスできるビックデータの集積所的なものが存在していて、彼らはそこを通して、我ら個人の関係を解析して個々の繋がりを確認してくるのだと思える。どうであろうか?
当然、我の本名や出自、つまり学歴や経歴なども我がフェイスブックなどに申告した以上に、そこには網羅されているのだと思って間違いない。 何故なら、我は本名でもないのに、従弟たちとの関係は既に把握されているのである。
これは本当に怖いことではないのか。
思うに、我の周りの活動家の人たちも、何も怖れも隠しもせずに本名で、その人が思い考えたこと、日々の活動状況や会った人たちとのことをフェイスブック上で頻繁かつ克明に記している方が多いが、それは本当に安全なことなのか。
もし、今のロシアや中国で起きているような強権国家体制にこの国が陥ったとき、そうした情報はそのまま逮捕容疑として証拠になりはしないのか。
我は、ほんとうにそうした人たちのノンキさを羨ましくかつ不安に思う。
多少でも歴史を知る者として、かつての大逆事件などを思うとき、こうしてすべてあからさまに、ネットに何でもアップし続けて、ビッグデータに自ら全ての行動と思想、思考をあからさまにアップしてしまえば、それだけで友人知人たち全員皆一斉に芋づる式に逮捕されてしまうのではないのか。
そんなことはおこらないよ、お前は考えすぎた、という声も聞こえるが、ならば、その安全保障の理由を聞かせてもらいたいと思う。
やつら、権力者側は、何だってできる。無実の者でもでっちあげて逮捕拘禁し、死に追いやれる。
そのとき、その理由となるデータをどうして彼らに何の恐れもなく気軽に明け渡せるのか、知られて平気なのかそのことの方が我は不思議に思う。
いつの時代も権力者側は、その力を背景に何だってできるし何だってでっちあげる。
歴史は何も変わらない。百年前も百年先も。我々は迂闊に彼らに全てを明け渡してはならない。
むろんマイナンバーカードも。彼らに全てを曝け出し明け渡してしまえば、汚い話、尻の毛まで数えられてむしり取られる。我ら臣民、国家の飼い犬となる。首輪がつけられ自由に動けなくなる
マイナンバーカード拒絶は、我ら最後の自由と人権の砦、人間の誇りなのだと我は信ずる。
これから書くことは、我の杞憂であり、老婆心のようなものであれば幸いだと思う。が、皆さんあまりにも私企業のコミュニティサイトに、全幅の信頼を置きすぎているのではないか。
我は、いまこうして朝日ネットが運営するブログで、好き勝手に思うことを書き記し世界中に読めるような状態にしている。
むろん無名の一個人だから、読んでくれる人は、友人知人ら仲間内とか、ごく稀にふらっと立ち寄ってくれる物好きな人に限られると思う。
それでも長く続けてきたからか、常時平均すると50位から70位台で、ランキングは推移し、時に40台ということもあるから、多少は読まれてはいるのだと思いたい。
かつては、百番台ということもあったわけで、こんな与太話のようなものでも読み手の方がおられることは本当に有難いと思っている。※ほとんどコメントは届かないが、逆にそれはそれで好き勝手に書けるので善いことかもしれない。
※だが、申し訳ないが、ほんとうに極私的なこと、アシがつきそうなことは書けないこともあることはご理解頂きたい。
しかし、多くの人に読まれる以前、誰でも目にできるということは、逆に恐ろしいことであり、ましてそれが権力側、つまり、我々の敵側に筒抜けにになってしまえば、まさに情報は彼らの手の内のものとなってしまうわけで、それは限りなく危険なことだと我は思っている。
今さらだが、知っている人は少なくないと思うが、我の名、マス坊、マスダというのは、若い時からの物書きとしてのペンネームと商売の屋号であり、全てが本名ではない。
仮に恋ヶ窪三丁目の郵便局の長がいたとして、その人が、郵政省の中で、恋三さん、と呼ばれるのと同じことであり、あくまでも便宜的なものだ。
その名前で、このブログもフェイスブックとか、ネット上のあれこれ長年やってきたわけだが、このところ、すごく不審に思うことに気がついた。
我は、フェイスブックなども、基本的には、我の手掛けるイベント開催のときの宣伝としてしかアップせず、個人的なことや思いなどは書かず、ここの我がブログには書いてもFBには何も記したことはない。
ところが、ご存じのようにフェイスブックは、有難くも、お友達ではありませんか?と、ある程度の共通の、関係ある人たちをこちらに一方的に知らせてくる。
むろん、それは音楽関係など、共通の、こちらも親しくしている仲間内的な方々も多々いるのはごく当然なのだが、ときに、どうしてこの人との「関係」がFBやインスタグラム運営側に、知られたか不思議に思うことも多々ある。
だって、ほとんどその繋がりは、我だけしか知り得ないようなものであるはずなのに、だ。
以前、我の大学時代の親友で、当人は一切インターネットもSNSもやっていない男の弟が、フェイスブックで、「お友達」では、と登場してきてびっくりした。
その親友は、Tとする。そのTの友人のAとは、いつの間にか「お友達」関係になっていて、その人とはそこでは繋がっている。
しかし、そもそも一切ネット環境にない親友Tとはたまに電話で連絡する以外、ネットではまったく繋がりはない。
ところが、そのTの弟が、FBで頻繁に、お友達ではないか、と出てくるのである。不思議でならなかった。
考えられるのは、共通の友人である、Aが、そのTの弟とも繋がっていて、その線で、我に執拗に関係を迫ってくるのか、と考えていた。
が、どうやらそうではないと最近気がつくことがあった。
父の葬儀に関係して、長年疎遠であった従弟たちと我は電話で連絡を何回かとりあった。ときにショートメールでもやり取りはした。
そしたらば、突然、それまでは一切登場しなかったその従弟たちが、フェイスブックで、以後突然我の「お友達」ではないですか、と一番に出てくるようになった。まさに信じられないことだ。何故なら、半世紀も連絡とらなかった人と、数回電話でやりとりしただけたなのに。※そこには我と彼らを結びつける間の人は皆無なのである。
どうしてこんなことが起きるのか?
これは推測で、正しいかどうかわからない。誰か事情通な方にご教示頂きたいと願うが、つまるところ、何かどこかに巨大な電話も含めたデータの集積所のようなものがあって、フェイスブック社、今は別の名になったのかもしれないが、そうしたSNS業者はアクセス出来、そこで、勝手に電話連絡網も含めて解析して、我らの関係、繋がりを把握しているのではないか。
それ以外、数回電話しかしていないのに、疎遠であった従弟たちが突然我にフェイスブック上で登場し、その関係を知らしめることがあるはずが思いつかない。
つまりどこかに、そうした通信業者が自由にアクセスできるビックデータの集積所的なものが存在していて、彼らはそこを通して、我ら個人の関係を解析して個々の繋がりを確認してくるのだと思える。どうであろうか?
当然、我の本名や出自、つまり学歴や経歴なども我がフェイスブックなどに申告した以上に、そこには網羅されているのだと思って間違いない。 何故なら、我は本名でもないのに、従弟たちとの関係は既に把握されているのである。
これは本当に怖いことではないのか。
思うに、我の周りの活動家の人たちも、何も怖れも隠しもせずに本名で、その人が思い考えたこと、日々の活動状況や会った人たちとのことをフェイスブック上で頻繁かつ克明に記している方が多いが、それは本当に安全なことなのか。
もし、今のロシアや中国で起きているような強権国家体制にこの国が陥ったとき、そうした情報はそのまま逮捕容疑として証拠になりはしないのか。
我は、ほんとうにそうした人たちのノンキさを羨ましくかつ不安に思う。
多少でも歴史を知る者として、かつての大逆事件などを思うとき、こうしてすべてあからさまに、ネットに何でもアップし続けて、ビッグデータに自ら全ての行動と思想、思考をあからさまにアップしてしまえば、それだけで友人知人たち全員皆一斉に芋づる式に逮捕されてしまうのではないのか。
そんなことはおこらないよ、お前は考えすぎた、という声も聞こえるが、ならば、その安全保障の理由を聞かせてもらいたいと思う。
やつら、権力者側は、何だってできる。無実の者でもでっちあげて逮捕拘禁し、死に追いやれる。
そのとき、その理由となるデータをどうして彼らに何の恐れもなく気軽に明け渡せるのか、知られて平気なのかそのことの方が我は不思議に思う。
いつの時代も権力者側は、その力を背景に何だってできるし何だってでっちあげる。
歴史は何も変わらない。百年前も百年先も。我々は迂闊に彼らに全てを明け渡してはならない。
むろんマイナンバーカードも。彼らに全てを曝け出し明け渡してしまえば、汚い話、尻の毛まで数えられてむしり取られる。我ら臣民、国家の飼い犬となる。首輪がつけられ自由に動けなくなる
マイナンバーカード拒絶は、我ら最後の自由と人権の砦、人間の誇りなのだと我は信ずる。
コメント
_ Yozakura ― 2022/11/17 22時44分37秒
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この日・2022年11月06日に危惧されている一連の懸念は、誠に尤もなことであります。直近にて投稿された11月14日付けの記事では、本ブログの暫時に及ぶ休養・休筆も重ねて宣言されています。
ご尊父の逝去を機に、心をざわつかせない静謐な環境の確保に努められるのも一策かと思います。どうぞご自愛の日々を過ごされますように。