すべては、必要か不要かで動いていくが2015年06月09日 22時45分33秒

★利便性を追求すればきりがない。      アクセスランキング: 148位

 前回書いたことの続きである。
 文明社会が生まれて以来、様々な職業、商売が登場しては消えていったはずだろう。本屋とか古本屋という職種もそろそろ消えてなくなる運命にあるのだろうか。このところずっと考えている。

 そしてふと気づいた。商売とはつまるところ必要のあるところに生まれ、不要、つまり需要がなくなれば、消えざるえない。そのことは、商売に限らず道具だってモノの仲間だって全て同じであろう。

 昔は、川を渡るのに、橋がないところも多く、あちこちに「~の渡し」と名のつく渡し船の発着場があった。うたにもなった「矢切の渡し」のように。ウチの近くの多摩川にもその渡しのあった後が残っている。八王子の側に住む人は、電車、青梅線に乗るには、橋がない頃は渡し船でこちら側に渡ってこなくてはならなかったから。

 そこには小舟とそれを繰る船頭がいて、いくらかの賃料で向こう岸までその船に乗せて運んでくれた。今でも瀬戸内の島々の間には、小さな連絡船はあるだろうが、日本の川において、渡し船などはもうほとんどないはずだ。一部には観光名物として残っているのかもしれないけれど。
 ということは商売や職種として、渡し船と船頭はもう一人もいない。理由は、日本全国どこでも車も通れるコンクリートの立派な橋があちこちできたからで、橋ができれば、そこを通れば早く便利だし、多くの人がそちらを利用すれば渡し船という商売は利用者減で成り立たなくなる。

 このリクツを本屋や古本屋に当てはめて考えてみる。昔は情報やデータ、それに知識を世に広めるには紙に記して本や新聞、雑誌のようにして媒介するしか方法がなかった。手書きから、写本、そして印刷に移っても要は紙媒体であった。
 が、パソコンや携帯メディア、電子書籍が世に普及すれば、いちいち紙に印刷しなくてもモニター上で読むことができるしやりとりが広まる。となれば日々のニュースでも知りたい知識や情報でも、娯楽読みものにしろ紙媒体は必要なくなる。
 何かわからないことがあり、知りたい調べたいと思った時、昔は本にそれを求め、本屋や図書館に足を運ぶしかなかった。古本屋だって知の宝庫であった。

 が、今は人はまずネットで検索して、たいていのことは即時に調べることができ、ほぼ「わかる」ようになる。ネットで調べてどこまで真に理解できたかその情報が正しいかはさておき、それが普通となれば、本にそれを求めない。また、それに適した本自体が、電子書籍として販売されれば、本より安く入手でき場所もとらない。

 つまりインターネットが普及するにつれて、紙の本の必要性、需要は低くなっていく。繰り返しとなるが、紙媒体でしか手に入らない雑誌などはコンビニでほぼ買える。また、本屋へ足を運ばなくともAmazonなどからネットで注文もカンタンにできる。となると紙の本の需要もなくなり雑誌も売れないが故、本屋は商売としてやっていけなくなっていく。

 つまるところ商売とは何かを売るなり需要に応えて儲けることであり、その需要も減り、儲けがなくなっていけば成り立たなくなる。その意味で町の個人経営の新刊書店がいちばんやっていけなくなる。理由はアイテムを広く多種揃えて並べることもできないからだ。広い売り場に多種多彩な本や雑誌を網羅した大規模な書店ならば、本好きの人たちは群れ集い、本が出版される限りそれなりに経営は成り立つと思える。そこには必要性と利便性がある。
 結局、金の動くところには必要性と利便性がまずなくてはならないということが見えてくる。

 むろん小規模な個人経営的新刊及び古書店でも京都にあるような独自の品揃えに特化したユニークな何店かのように、やっていき方はある。通常のマスで出され広く流通することを旨とする本ではなく、逆にミニマムな、流通しにくいが良い本、付加価値高い本を揃える努力ができるかどうかでもある。

 この世は利便性である、と書いた。が、だからこそ利便性でないところのものに利便をはかればそこに商売としての価値も生じてくるのではないか。そしてそれは個人のセンスに負うところが大きく個人だからこそ趣味的にできるのだと言える。

 渡れなかった川に橋ができてしまえば渡し船の商売はできない。が、利便性から離れたところで、川原でも、いやどこであろうとも何を扱おうと個人のセンスを武器にして何かしら商売ができるような気がしている。

町の古本屋はどこへ消えていくのか2015年06月08日 21時50分16秒

★古本屋がどこにもない時代へと            アクセスランキング: 246位 

 明治以来、東京はビルド&スクラップを繰り返して、その間に関東大震災や、東京大空襲、さらには1964年の東京オリンピックでの再開発と、街並みも人の姿、流れも常に変わり続けている。
 だから、そこにあった店がいつしか消えてなくなり、シャッターが下りたり違う店に変わってたり、更地になって駐車場になっていても別にちっとも驚くことはないはずだ。
 しかし、何十年も続いていた、常にそこにあり、よく通い、店主とも馴染みであった店が突然閉店していたとなるとやはりショックだ。
しかもそれが実店舗の古本屋なのだ。そして二軒、昭島と立川の古本屋が消えてしまったことに今日気がついた。まさかという思いでいる。

 今日は、午後から自転車で、予約を入れておいた立川の掛かりつけの歯医者へ出向いた。ずっと慌ただしくて1年以上間があき、奥歯に虫歯があるのか、甘いものを食べると痛むようになってきたからだ。
 
 昭島駅の南口に、青梅線の走る車窓からも見える「さわやか文庫」という青梅線沿線ではたぶん唯一となってしまった古本屋さんがあった。自分が若い時から通っていたからたぶん30年以上続いていたはずだ。 それが今日前を通ったら、シャッターが下りたまま看板も消え、シャッターに小さな張り紙があり、「突然ですが閉店しました。お問い合わせは八王子店のほうへ」とごく簡単な告知があった。愕然とした。

 自分も古本屋稼業に手を染めるようになってからは、そこではほとんど客として古本を求めることはなかったが、そこは一番身近な、昔ながらの本物の古本屋で、表には三冊二百円の雑本の棚や、準新刊の女性誌なども並ぶ、アイテムを選ばぬ多種多彩な本を安く扱う、まさに古本屋らしい古本屋で、昔は店主と本の話をよくしたり業界のいろいろな知識も教えて頂いた。ある意味、この稼業のまさに師匠であり、実店舗を持たないネット古書店者にはそこは憧れの店でもあった。
 このところ久しく行かなくなってしまったのは、自らが商売柄古本に埋もれ飽きるほど食傷してしまったので、店の前を通り過ぎ横目に見ては、店がそこにあることにただ安心するだけであった。だが、その店はついに突然の閉店してしまった。

 さらに病院近くの立川南口の商店街にあったほぼ同様の、表に格安放出本の棚を設けていた古本屋も今日前を通ったらシャッターが下りて、看板も消えている。不審に思い、向いの米屋のオヤジに訊いてみたら、一か月ぐらい前に店閉めたみたいだと知らされた。
 そこはコミックスや成人向け雑誌なども多かったので、あまり店内は詳しくないが、母も入院していた折、よく店の前を通ったので、表の格安本の棚は通るたびにチェックしては興味ひく本は自分のためによく買い求めていた。

 そうした慣れ親しんできた、そして変わらずにこれからもずっとそこに当たり前のようにあると思い込んでいた古本屋が二件とも消えてしまった。立川のほうは、5月の連休後に、母の検査で病院に来たときは変わらずにやっていたはずだから今月に入って閉店したのかもしれない。昭島だってたぶん5月末で辞めたのではないか。

 さすがに、一日に二軒続いて馴染みの古本屋の閉店を知ると気持ちも落ち込む。となると、あとは立川以西の中央線、青梅線沿線では八王子の駅周辺に何件か残っていたと記憶するが、それすらもまだあるか疑わしい。もう10年近く行っていない。東中神のアーケード内にあった店も半年ほど前に閉店したので、かつて自分で知っていたこの界隈の古本屋の店舗はこれですべて消えてしまった。哀しいとか以前に残念無念という感慨がわいてくる。

 先にも拙ブログで書いたが、新刊書店もどんどん消えている。ただそれは、紙の本や雑誌類が常に世に新たに出ている限り、郊外型多角経営やショッピングモール内などの大規模なチェーン店は残るだろう。
 問題は町の個人でやっている小規模の本屋と古本屋である。コンビニではちょっとした雑誌やコミックスを置き、客は飲食物と同時にそれらを購入し、コンビニない本はネットで求めるから、街の本屋がまず経営不振で消え、同時に歩を揃えるようにして、街中の個人商店としての古本屋も消えていくのだ。
 ただ、大型の新刊書店は今後も存在したとしても、大型古書店はブックオフのあちこちの撤退を見るまでもなく、そもそも成り立たないであろう。つまり中古ゲーム類をも扱うとしても今は新刊も含めて本自体が売れないから、稀覯本を扱う古物商的古書店以外、純利が少ない古本稼業は薄利多売でない限りやっていけない。
 そうした薄利多売でともかく長年続けて来ていた昭島駅前の、おそらく青梅線唯一の古本屋が突然閉店してしまったことに時代を強く感じる。

 おそらくあと10年もすれば、街の店舗としての古本屋という商売はこの国から一軒もなくなるかもしれない。むろん神田とかでならば残るかもと考えるが、いかにも古本屋風のオヤジや老夫婦でやっていたような雑多な本を安く並べていた、昔ながらの古本屋は、今自分が鍛冶屋という商売の姿を想像もできないように、後の世の人たちにとっても未知の商売となるかもしれない。

 時代の進歩とか発展とはよく聞く言葉だが、本を読む人がいなくなっていくのと、そもそも紙の本じたいがなくなっていくのだから、古本を扱う商売も消えていくのは時代の流れ、必然なのかとも考えてしまう。※中古レコード店は意外にもまだ繁華街のあちこちに残り続いているのは、レコード文化は今もまだ新たなマニアックなファンが参入しそれなりに活性しているからであろう。

 それが良いとか当たり前だなんて言っていない。ただ昔ながらの好ましく思っていた街中の古本屋さんが、一気に二軒突然消えてしまったことはまさに残念至極である。
 近く、八王子の街道筋にある、さわやか文庫の店主がもう一軒続けている古本屋へ行き、ご挨拶がてら慰労せねばと思っている。

「本」というメディアの終焉・前2015年04月19日 21時56分26秒

★まして古本屋に未来はない。            アクセスランキング: 134位

 あれこれ書きたいことも多々あれど久々に商売の話を書く。

 先に、ブックオフがどんどん減っていることを書いた。その理由はつまるところ、本自体が新刊であろうが古書であろうが売れない、読まれない、流通しないからであって、本などは商売の種とならないと見切りつけた故であろう。
 さて、あれからウチにあった1円本を、立川のブックオフに6箱ほど持ち込んで愕然とした。以前と異なりまったく値がつかなかったのである。受け取った額はわずか300円ちょっと。これではガソリン代程度になるかならないかだ。

 拙ブログで以前にも書いたことだが、Amazonのマーケットプレイスで売ろうにもあまりに売値相場が低価格過ぎてウチでは出品できない「1円本」とそれに類する本は、溜まれば段ボール箱に詰めてブックオフに持ち込んで査定のうえ引き取ってもらっていた。
 むろんご存知のように、向こうの買値はとても低く、1刷10円どころかそれ以下ということも多々あり、それも値が付けば良いほうで、「こららはお値段の付かない本ですがどうしますか」と、ときに半分、それ以上も1円にもならないことも多い。それでも有難いことにブックオフは、それらクズ本でも引き取ってくれたから「処分」には大いに助かっていた。

 ひと箱に何十冊詰めたか数えていないが、以前は、持ち込んだ本の種類にもよるけれど、うまくすればひと箱500円程度の値がつき、何箱も持ち込めば、一回ごと2~3千円の儲けが出ていた。もともと自店では売れない、処分する本だったから、どれほど買値が低くとも、たとえ値が付かなくともいくらかにはなり、さらに一括して引き取ってくれるのだから大いに助かっていた。

 それで査定を待っている間に、100円コーナーの本で、何冊かセドリして得た金から代金支払っても多少の小遣いとして手元に残った。むろん値がつくのは、綺麗な準新刊だけだから、紙が焼けたりクスミのある本は値段が付かないこともわかっていた。が、市の古紙回収にゴミとして出すよりは、ブックオフに一括して引き取ってもらう方が少しは金になったしまだ流通する可能性があるのでいつもそうしていた。

 が、向こうの査定の基準もここに来て変わったというか急に厳しくなったようで、前ならゲーム攻略本の類やコミックスも数円で引き取ってくれていたのに、ベストセラーはいっさい「値が付かない」。そうした方針に変えたようで、こちとら、いつも通りの予測で「今回はうまくすれば二千円にはなるかもな」と期待してたら、6箱持ち込んだのに、値が付いたのはほんの僅かしかなく、示されたのは300円~そこらだった。

 抗議したって仕方ない。まだ幸い持ち込んだ本は全部向こうが引き取ってくれたからまた車に積み込み持ち帰る手間はいらなかったけど、帰り道運転中、もうブックオフに持ち込むのは終わりにするしかないなと考えた。淋しさのような深い失望感を抱いた。
 そのときも2冊、108円の本を買った。赤字にはならなかったが、痛い腰をかばってうんうん唸って重たい本の箱を車にいくつも積み込みガソリン代かけて持ち込んでもこれでは手間賃にもなりゃしない。

 向こうの気持ちもわからなくない。つまり紙ゴミとして持ち込んだ本を全部引き取るだけ有難いと思えということだろう。何しろベストセラー本など溜まる一方なのだ。そして当然ながら少しでも旬を過ぎればそれらは売れない。
 まだハードオフのように多彩なアイテムを扱うならば、高値も付けられ利潤も大きい。本やゲームソフト、CDでは、どうやったって定価の半額~それ以下だ。ましてさほど売れず、100円コーナーばかり増えていく。

 いっぽう、話をAmazonのマーケットプレイスに戻せば、中古本の類は、売値がつけば何でも出品できるのかというとそうではなくなってきている。
 ネットの世界では、kindleなどの電子書籍化がこのところ一気に進んでいるから、コミックスなどは、Amazonのリストに載っていても、Amazonが扱う電子版のそれしかなく、「本」では出品できないものも多くなってきているのだ。

 手持ちの成人向けコミックスを検索してみて、電子版のは載っているのに、本としては扱っていないことに気づき愕然とした。Amazonではこのところ、この本の電子書籍化を希望しますかとアンケートを募っている。つまり、これからの流れとして、流通すると判断される本は、電子書籍化されてしまい、リストにもそれだけしか載せず、紙の「古本」は扱わなくなっていくのだろう。
 むろんこの世にある全ての本や古本が電子化されるはずはない。しかし、動く本こそ、著者と出版社と計らって電子化してしまえば、Amazonや楽天などマーケット運営会社だけが儲けを独占できる。

 じっさい、ミュージックの世界では、物としてのCDでは扱ってなく、希望者はダウンロード版を「購入」するしかないアイテムも多くなってしまっている。マス坊も先日、初めてダウンロードして、荒木栄作品集をパソコンに取り込んだ。本当はCDで欲しかったが、そもそもダウンロード版のしかみつからないのだから仕方ない。

 おそらく、うんと古い希少な専門書の類は別として、広く流通する可能性の高い本は、今後は全てダウンロード版しか、つまり電子書籍しか扱わなくなるのではないか。それがこれからの流れだと思える。
 そこには個人が参入する余地はない。つまり手元に「本」があっても販売手段は自らのホームページ、自サイトとかしかなくなってしまうのだ。

 文字を集めた文書の類、本や雑誌、新聞は未来永劫なくなりはしないだろう。が、従来の紙に印刷したものは、これからはもう「不要」として存在しなくなると断言してもよいのではないか。
 ならばそれを扱う商売、新刊書店も古本屋にも未来はない。どうしたものかと自問している。

「物」に価値とこだわりを持たない時代に・前2015年03月02日 00時20分22秒

★だからこそ「ハンドメイド」が価値を持つ アクセスランキング: 138位

 腰も癒えたようなので、車の中に溜まっていた、処分する雑本を雨の中、秋川のブックオフに持っていた。※状態は良くても、Amazonマーケットプレイスで「1円」の値で大量に出品されるような、ウチではどうやっても売ることのできない本や雑誌である。

 が、店に着き中に入って気がついた。大きなスピーカーとか道具類ばかりで、そこはいつの間にか、「ハードオフ」に代わっていたのだ。看板を見上げれば、青い英字で「HARD: OFF」になっている。
 店員にブックオフはどこへ行ったのかと訊いたら、移転したのではなく店自体代わったので、他の所へ行ってくれと言われた。本などはここでは扱わないと。仕方なくそのまま家に戻った。本の箱は未だ車に満載だ。

 帰り道、ハンドルを握りながら考えた。このところあちこちのブックオフが閉店し、逆にいつからあったのか知らないが、ハードオフの看板をよく見かけるようになった。
 説明するまでもなくブックオフは本を中心にCD、DVD、ゲームソフトなどを扱っている。それに対して、ハードオフの方は、同じ運営会社だと思うが、家具から楽器、衣類、バック、アクセサリーまで何から何まで取り扱う。

 先日、女友達と国分寺近辺のハードオフに、彼女宅で不要の照明の笠を持ち込んだ。そしたらば買値が付かないだけでなく、引き取りすらも拒んでいたが、頼み込んで何とか置いてくることはできた。店員の謂いだと、こうした売れそうもないモノは、店で何かを買ってくれるのなら引き取りもするが、今回は特別に、だそうだ。殿様商売である。まあ、どこの家でもモノがあり余っていて、ゴミに出すにも金がかかる時代だから仕方ない。

 改めて言うまでもなく、本やCDが売れない時代である。本屋やCDショップ、さらにはTSUTAYAのようなレンタルショップでさえ軒並み潰れている。ならば、二次使用である、中古本、中古CDですら当然売れないだろう。特にブックオフなどは、新刊、現行流通している本が取扱い中心だから、古書価格的プレミアのつく中古本は扱わない。
 となるといくら安く客から買い取ったとしても、いわゆるAmazonの「1円本」的ベストセラーばかり入ってきたら、在庫が増えるばかりで、売れたとしても儲けは少ないだろう。同情する。

 本は場所をとるが、「100円+税」の本ばかり並べてもどれほどの儲けが出るのか。まして本やCDなどは今の人は「物」として欲しいと望まない。ダウンロードしたり、配信してもらったりと「実物」がある必要性はほとんどなくなった。そして少なくなった「物好き」は、ネット通販で買い求める人も多い。
 じっさい、以前はマス坊もセドリを兼ねてよくあちこちのブックオフを覗いた。が、今は、ウチにいくらでもあるような「1円本」ばかり並んでいて、出物、めっけものはまずなくなってしまった。行くのはウチの不要処分本を持ち込むときだけであった。

 ハードオフの方が、たぶん儲けは大きいのではないか。どちらも多くのアイテムをタダ同然?(失礼!)、低価格で客から引き取って仕入れとして、相応の値をつけて販売する。ただ、純利はハードオフのほうが高そうな気がしている。取り扱う商品種類も多い。ということは客の種類も数も増えるということだろう。まっ、それが売れたらの話だが。果たしてどうであろうか。
 自分も経営者ならば、ブックオフとして収益が上がらない店舗が既にあるならば、秋川の店のように、本はやめて集客が見込めそうなハードオフに様変わりさせていたかもしれない。

 ただ、本であれ、CDにしろ、他の生活雑貨、家具調度類であれ、今はモノがあり余っていて、しかも人はできるだけ「物」を持たない時代であるから、実物、つまり現実のモノを扱う商売はどこも苦戦している。
 今の人はモノそのものに価値もこだわりも持たなくなってしまったのだ。 

 こうした時代についてもう少し思うところを書き記しておきたい。《続く》

ヤマトのメール便が廃止されるとなると2015年01月23日 18時30分00秒

★そろそろネットでの古本稼業も潮時かな            アクセスランキング: 170位

 既報だが、ヤマト運輸は、この3月末をもってメール便サービスを廃止すると発表した。正直困る。オレはうんと困る。さて、これからどうなるか、どうしていくべきか。

 ヤマトのメール便というのは、一般の客でも持ち込めば、通常既定のサイズの封書ならば、厚さが1cm未満ならば82円、2㎝未満ならば164円で相手方に送れるという格安のサービスで、ネットで注文受けた古本の発送やら、友人知人にCDなど送るときに大いに活用していた。
 郵便局からの冊子扱い、つまり「ゆうメール」だと、150g以内180円、250g以内215円、500g以内300円だから、まあ普通の厚さの本ならば重さは500gもなくても300円か215円かかるところをヤマトを利用すればたいてい164円、薄い本や冊子ならば82円で送れるのだ。

 これは以前も書いたことだが、例えばAmazonのマーケットプレイスで手持ちの本を売る、出品してそれに買い手がつくと、マージンはとられるが、配送料として257円一律こちらに支払われる。
 むろんそれは購入者の負担であり、マージンをとられても本が売れたらヤマトから仮に82円で発送できれば175円も支払われる配送料が浮く。つまり本自体の売り上げ、儲けとは別に送料からも利益が出る。
 だから、Amazonマーケットプレイスでは本そのものの値段が1円なんて信じられない価格で出品できる。つまり数をこなせばその配送料から儲けを生み出せるのである。

 記憶だと以前は、この「配送料」もっと高かった。郵便局からしか発送できなかったからそこのゆうメールに準じていた。が、ヤマトがメール便でバカ安価格で参入したので必然的に下げられてしまった。それでも購入者としてはたとえ本代そのものは1円だとしても送料と合計するとどんな古本でも一冊258円は支払うのだから決してバカ安ではない。

 まあ、もっと厚い辞書のような専門書や大型本の類はヤマトからは送れないので嫌でも郵便局を利用せざるえない。厚い本は当然重い本であり、支払われる配送料をオーバーしてしまう。しかし今はレターパックのようなほぼ何でも厚さを問わず500円そこらで相手方に届けてくれるサービスもあるので厚い本の場合は出品に際してそこも加味して売値を決めていた。

 とにもかくにもそうしてこの何年かはヤマトのメール便に、たぶん多くのネットでの販売業者は恩恵を被ってきたと思う。それがなくなるというのだ。

 ヤマト運輸によると、1997年からサービスを提供してきた「クロネコメール便」を、今年3月末で廃止すると決めたのは、メール便では送れない「信書」にあたる文書を客がメール便で送ってしまい、郵便法違反の容疑に問われる危険を防げないからだという。
 じっさい客がクロネコメール便で信書を送り、書類送検されたり事情聴取されたりした事例は、2009年7月以降に8件あったと。
 ヤマトは、信書の定義があいまいで、周知も不十分だからだと抗議したようだが、「お客さまが容疑者になるリスクを放置できない」と判断し、廃止を決めたと報道されている。

 しかし、まあそれは建前で、お客様本位ではない。利用側から想像するにおそらく手間ばかりかかって大して儲けの出ないメール便は、人手不足もあってそろそろ切り捨てたいと思っていたのではないか。じっさい窓口で僅か82円で受け付けて発送してもらうのは申し訳ない気さえしていた。
 ヤマトは今後は法人向けにはメール便を新たに規格変えて設けるとのことだが、もう我々のような個人事業者は格安では利用できなくなるのではと思う。まあ、となるとAmazonとしては配送料をゆうメールに準じて値上げするしかないわけで、またさらに本は売れなくなるのではないかと案ずる。

 新刊書も売れないが、古本もまして売れない。売れる、需要ある本は、ファイル化したものをダウンロードして携帯端末で読む時代なのである。ネットにせよ実店舗にせよ、実際の「本」を売る商売に未来はあるのだろうか。それは音楽のCDアルバムだって同じだが。
 そろそろこの商売も潮時かもしれない。しかしでは何を売ってどう食っていく。いや、そもそもどうやってこれから生きていく?
 あれこれ考えるとまた胃が痛くなって夜も眠れなくなる。

今、高坂一潮を再び!2014年08月16日 05時31分00秒

一潮さんのファースト、イラストは故沢田としき氏
★故一潮さんの遺したCDアルバムを売っていく      アクセスランキング: 118位
      
 2014年の夏、今、高坂一潮が熱いブームだ、と言えば意外な顔をされるかもしれない。そもそも一潮さんて誰‼?という人のほうが多いかとも思う。
 高坂一潮、こうさかいっちょう は、青森のフォークシンガーで、地元では高い人気を誇ったもはや伝説の歌い手だ。残念なことに長い闘病の後に先年亡くなられてかれこれ3年近く経つ。
 
 筆者、マス坊は生前の彼とはたった一度だけ、谷保のかけこみ亭で、中川五郎、シバ、斎藤哲夫らフォークシンガーたちが集い、高田渡の追悼ライブのようなイベントがあったときに一員として彼を観、そのとき彼を初めて知った。
 そのときはまだ日本のフォークシーンに疎かったし、こんなシンガーがいたのかという驚きとその実直なスタイルと耳に残るメロディが強く心に残った。しかし、きちんとご挨拶して言葉を交わしたか記憶にない。

 その後、五郎氏から、一潮さんが東京に来た時、倒れてずっと意識が戻らないと聞き、彼の楽曲「だびよんの鳥」を、回復を祈って五郎氏が代わって唄うのを聴きながら、この不遇のシンガーのことをいつも思い返していた。
 だが、回復を祈る皆の思いは届かず、ついに彼は亡くなられ、その後、かけこみ亭では縁あるミュージシャンが集まり毎年春先には追悼ライブが催されている。
 
 マス坊は、一潮さんが生前レギュラーのパーソナリティとして出演されていた地元青森のケーブルテレビの関係者の方と縁あって知り合い(お会いしたことはまだないが)、彼が出ている「番組」のDVDを頂いた。それは毎年、かけこみ亭での「一潮忌」ライブで流している。

 そのかけこみ亭のマスターから、一潮さんの遺したアルバムはもう手に入らないのかと相談された。で、先日、青森と連絡をとり、一潮さんのレコードの管理をされているご遺族の方ともお話でき、彼の全CDをウチでも販売する許可を得ることができた。
 そしてとりあえずまず全四種各5枚づつ、青森からCDが届いた。今そのCDを聴きながら深い言葉にならない思いに襲われている。これからこの素晴らしい彼のアルバムを売っていくこととなる。

 生前たった一度だけ、それもろくに口をきいたこともない人と何故にこれほど深い関係に至ったのだろうか。まさに縁である。そこには何か見えないもの、不思議な力が働いているとしか思えない。
 彼の楽曲は今よしだよしこさんも唄って彼女のアルバムにも収録されている「だびよんの鳥」がもっとも知られているが、当然ながらあれほどの佳曲を作った人だから他にも素晴らしい曲がいっぱいある。ただ残念なことにご当人が亡くなってしまうとそうした歌は歌われなくなり、アルバムも売れないのでその存在すらやがては忘れ去られてしまう。あまりにももったいない。

 今願うは、このアルバム販売を通してもう一度、高坂一潮という不遇であったが素晴らしい青森のシンガーにスポットが当たり再評価、再発見につながっていくことだ。そして多くの人に彼のうたが知られこれからも彼のうたが歌い継がれてほしいと強く望む。
 自分も拙いが、五郎氏のように彼のことを語り、一潮さんの遺したうたを唄い継ぎたいと決意した。

 ナザレのイエズスという若くして磔刑にされた男の遺した思想を、キリスト教という世界宗教へと仕上げたのはサウロという生前のイエスとは面識のなかった後のパウロであった。ならば自分もまた選ばれた者としてその使命を果たさねばならない。

 夢は西岡恭象とクロちゃんに倣い、一潮さんの遺した楽曲を縁あるフォークシンガーたちが唄うライブイベントである。でも彼のCDが手元にある今ならそれはさほど難しくなく実現かなうかもしれない。

 アルバムは近くウチの自サイトで販売開始する予定でいるが、数に限りある。ご希望の方はこのブログにコメント書き込みでの申し込みも受けつけます。

商売の心得とはやはり「顧客第一主義」2014年06月11日 18時03分14秒

★某ヤマトの受付のバカ女に憤る  アクセスランキング: 140位

 夕方である。外は雨が降り音立ててせっせっと降り続いている。憂鬱である。
 これからAmazonマーケットプレイスからの注文本を3冊発送しに行かねばならない。ウチのごく近くのヤマトの営業所受付は午後7時までなので、その時刻までに持ち込めば今日の便に間に合う。
 が、雨もあるがそこには行きたくない。というのは、今回の本3冊のうち2冊が厚さが1㎝ぎりぎりで、向うのメール便の規格で1㎝で受け付けてくれるか微妙だからだ。ウチの厚さ計測器だと一応すっきり1㎝幅の隙間は通る。普通なら何も問題ない。しかし、問題はその営業所に一人やたら細かく文句付けてくるチビの女がいて、そいつにぶつかるとはねつけられる可能性があるのだ。つまり1㎝で送れる本がそのバカ女だと2㎝扱いにされてしまうのである。

 値段は1㎝だと82円。2㎝だと164円。たかが80円の差ではないかと嗤うなかれ。元々の本の売値が安く、しかもアマゾン側に手数料をかなり取られてしまうので支払われる送料代の中から儲けを捻出しないとならない。それはウチだけではなく、皆どの出品者もやっている。でないと「1円本」なんてどうやったって儲けがでるわけがないではないか。慈善事業ではないのである。皆購入者が支払う一律の「送料」の中から、じっさいの送料を安く浮かしてそこで儲けているに過ぎない。

 なので1㎝の本ならば送料も含めて儲けも大きいのである。だからこちらは基本薄い本はメール便1㎝枠で送りたい。ヤマトのメール便にはそうしたわけで郵便局からのゆうメール、かつての冊子扱いで送るより断然安いので大いに助かっている。この会社には心から感謝している。
 が、そのウチの近くの営業所には、二人だけやたら厚さの企画に厳格なのがいて、一人は事務職専門の若い男、もう一人はその女で、男の方もかなり細かいが特にそのチビ女は1㎝と2㎝の計測幅が作ってある計測器で送る本を挟んで通すとき、ちょっとでも引っかかると何も言わずに即2㎝扱いにしてしまうのだ。
 こちらもちょっと待って、とその計測器を取り上げてぐいっと通せば何なく全部その封筒は1㎝幅を通り抜ける。だからこれは1㎝だと言うと、女はあくまでも開き直って、ちょっとでも引っかかったら2㎝だ、そう規則で決まっていると言い張る。そんなやりとりが何回もあって此方もキレてもうそこへ行くのは嫌になって来た。

 むろん他の受付担当が皆そうならばこちらも無理は言わない。ところが他の人はもっとユルイというか、そんな細かくはチェックしない。計測器に挟んでみてその幅に少しでも入れば1㎝は1㎝で、2㎝は2㎝でとすぐ応対してくれる。やたら細かく騒ぐのはそのチビ女だけで、そいつが受付にいるときはもうこちらも大声出したり口論するのは嫌だから下のヤマトの集配基地のほうに持ち込むことにした。そこなら受付の人たちは皆さん実に親切でそんな嫌な思いはすることは皆無なのである。

 言っておくが2㎝幅を超える本を2㎝枠のメール便で送れとか無理無体なことを言い立てているのではない。通常1㎝枠で通り、他の受付、ヤマトの従業員はほとんど1㎝で処理してくれる本がその女だと2㎝にされるのである。彼女は会社の方針には従順で真面目かつ厳格な性格なのであろう。しかし、愛社精神はあっても彼女のしていることは長い目でみれば顧客に不快感を与えてマイナスなのである。別に長く利用しているから特別に便宜を図れと望むわけではない。何でそいつだけが、いや、もう一人の若い男も含めてやたら細かく、雨の中持ち込んだお客様に規格だからと高圧的態度をとるのか理解に苦しむ。こちらは客ではないか。他の受付の人なら問題なく受け付けてくれるのに何故そう厳格に四角四面に応対するのか。この女は顧客対応を間違えている。実に慇懃無礼、サービス業だという認識が欠けている。いや、若いもう一人の男もそうだが、マニュアル世代というのか、上から教えられたことには機械的に従い規則通りに対応するばかりで融通がきかず現場をまったく理解できないのであろう。

 外は雨がせっせと降っている。しかし今日の便に間に合わせるためには、これから雨の中、車出して下の、バカ女のいないヤマトのベースまで持って行く。

増税後の好景気?を考える2014年05月09日 22時18分12秒

★意外にも好景気は続いているが・・・        アクセスランキング: 118位

 先にも書いたかと思うが、このところ古本稼業は順調である。
 4月の消費税増税後、あれだけ買い溜め、買い置きに人心が燃えたから、当分の間消費は冷え込むと誰もが予想していた。むろん自分もだ。
 が、意外にもスーパーなどの小売業は堅調で、ほとんど落ち込みはないそうだ。ウチの近くの生鮮食料品を扱っているスーパーは土日など駐車場はいっぱいだし、ホームセンター的ドラッグストアも連日にぎわっている。
 むろん車や不動産などの高額商品は増税前の駆け込み需要で先行して売り上げを伸ばした分、落ち込みが顕著だそうだし、決して増税の影響はないとは言えないと思うが、小売業だけ見れば消費者の購買意欲は未だ落ちてはいないようだ。

 じっさい、古本稼業も3月から続伸していた注文が4月は落ちるかと思っていたらそのまま続いていて、先月末、今月前半と、増税前より注文は増え続けたままで当然収益も増えてきている。※といっても単価が安いので売り上げ増えたといってもたかが知れているので誤解なく。ただ、今までは日々の小遣い程度にしかならなかったアマゾンからの振り込みがこのところ溜まる程度にはなってきたということだ。このままこの好景気が続けば様々な支払いもずいぶん楽になるはず期待している。きっと増税前から欲しかった高額の真空管アンプも贖えるかと思う。

 今日は久々に注文が途絶え、Amazonマーケットプレイスから一件も受注メールがないが、このところ多い日は一日5件もあったりとその発送に追われてうれしい悲鳴を上げている。増税後なのにいったいどうしたことか訝しく思う。
 その理由を考えてみるに、増税前に火が付いた消費意欲というべきか、購買欲、買物熱は、一度燃え盛るとなかなか冷めないという心理もあるのかと思える。また、ウチでは、増税後も価格をまったく変えていないので、割安感のようなものもあるのかもしれない。
 ただ、一言でいえば、消費税増税という転機がある意味人の購買意欲を刺激し、そこに一部の企業でのベースアップなどもあったことで、さほど増税後も人心は冷え込まなかったということが大きいのではないか。
 3%の増税なんて、高額商品でなく日用品、食料品程度の買物ならベアアップの範囲内で収まるのであろう。つまり出るより入る金が多ければ人は相変わらず金を使うのだとわかる。
 ただ、それは、春から収入が増えた人の話であり、支給額が削られた人たち、年金生活者や生活保護世帯なとではこの増税がたかが3%ではなく重く大きく圧し掛かってきている。さらに他の支払い、様々な税金や介護保険料なども軒並み上がっている。ただ、今はまだ好景気に浮かれているので多くの人はその実感がわかないしよく実態が見えていないのではないか。
 また、今回の増税については便乗値上げ的まやかしが多々見られる。消費者はそのことにどれだけ気が付いているのだろうか。

 今体調が悪く長くパソコンに向かえないので続きは明日。

愛は必ず終わる2014年05月02日 23時17分29秒

★永遠に続く愛なんてない。 アクセスランキング: 121位

 愛について書こうと思う。
 今日のニュースでもまたどこそかで、ストーカー男が好いた女を挙句の果てに殺した事件が報じられていた。いくらストーカー行為を規制する法律ができようとバカの数は減るわけがないのだからこれからもこうした事件は起きるだろう。
 いつも呆れるのは若いときならまだしも男も女もかなりいい歳しての話が多く今回の事件も男は自分と同世代、どうやら行きつけのスナック?だかでバイトしていた30代の女性に惚れての凶行らしい。※しかも女性には妻子もあったとのことである。
 おまけに正気か本当かどうかわからぬが、男は、女を殺して自分も後から死ねばあの世で二人で暮らせると思ったと話しているとのこと。アホかって! あの世があるとしてもこの世で嫌われていた者が、どうしてあの世で二人で暮らせるのか。あの世でもやはり嫌われると考えないのか。殺すほど愛していると相手に思い知らせばあの世でその思いに応えてくれるのか女は。もう本当に情けない。バカも極まりだと嘆ずる。

 そんなバカに一方的に好かれ惚れられた者こそいい迷惑であろう。それは男女関係なく起きる話だとは思うが、やはり圧倒的に男が女に執拗に言い寄るケースが多く、最後にはたいていこうして女を殺して時に自分も自殺して終わる悲劇的結末となる。たぶんこうしたストーカーは自らの行為を「愛」だと思っているのだろう。が、それこそそれは愛ではなく、単なる妄想的執着にすぎない。バカだからそれがわからない。これはどこまで逃げようと警察が逮捕しようとその愚かな情熱が冷めるまで、自らが自らの愚かさに気づくまで続く。

 この自分に恋愛及び結婚と愛について語る資格なんてそもそもない。結婚の経験も付き合っている相手もなく独身歴、独り身が長いこの俺が人様のことをとやかく言うべきではないのはわかっている。が、ホント、こうしたニュースを見聞きする度、バカだなあと心底呆れるし愛に関する幻想は今もかなりの男女の間で存在していることにも気づく。※むろん被害者には落ち度はなくご同情深くするが。

 男も女も、あるいは同性であろうと付き合ったはじめはかなり熱くなり、愛の存在を信じて本気も本気、永遠の愛を誓う。が、それは最初だけで、互いにそうした関係になってしまえばやがては愛は徐々に冷めていく。互いの欠陥にも気づくし互いに思いがかなってしまえばその先はもうないのである。
 むろん、子はかすがいというように、子供ができたり共通の責任も発生すれば、愛が薄れようとも結婚生活は続いていく。つまりそこに共通の利害は保たれ結婚し続ける、さらに付き合い続ける理由も散在するからだ。が、たいがいは約3年ほどで最初の熱は冷め、後はだらだらとした腐れ縁的関係へとなっていく。子もなく結婚の届けもせず周囲にきちんと報告もしていなければまず3年で愛は消え失せ何かのきっかけで関係はふいに終わる。

 それは自分の経験上のことで、結果として自分の場合いつも女のほうから別れを切り出され、いつも他に好きな人ができたからとの理由で、関係は終了となった。こちらとしては「愛」は残っていたとしても相手にそれがないのだからもはやそれは仕方ない。
 ストーカー的要素や情熱もあれば、もっと執拗に女に付きまとって寄りを戻してくれ、悪かった、帰ってきてくれと懇願しどんなことでもしたかと思うが、もう相手に愛がない、つまりこちらを愛してくれなくなったのだからそれ以上どんなに努力したって無駄なのである。むろんショックだし哀しいし辛かったが、それは相手の気持ちなのだから致し方ない。まして本当に相手のことを思うのならそれに従うしかないではないか。自分が嫌われるのにもワケがあり、一度離れた、冷めた心は戻りはしないのである。

 そうした失敗した恋愛を何回か繰り返してわかったことは、愛なんてそもそも幻想であり、どんなに熱く燃えようともいつか必ず冷めて終わりが来るということだ。むろん若いときなら互いに燃えもしよう。24時間寝ても覚めても相手のことを思うだろう。そうした恋愛をしたこともある。が、相手が応えてくれて成就したとしてもいつか必ず終わってしまうものなのだからまして一方的に、向こうは好いてくれないのに思いを寄せるのは愚の骨頂以外のものでない。ストーカーはウブでバカだからそれがわからない。その思いを寄せる執着を愛だと思い込んでいるのである。

 もし古本屋として何か「対策」はないかと尋ねられたら一つだけ答えられる。近代ストーカー私小説の大家、近松秋江を読めと。彼の一連の私小説、今でいうストーカー文学を読めば、ストーカーが抱えている愛なんて実にバカバカしいことに思い至るであろう。知る限りもっとも情けない私小説を書き続けた秋江は、今ならばストーカーのはしりであった。ただ彼がそうした殺人事件を起こすに至らなかったのは、文学があったからで、彼を捨て逃げた女を思う屈託や焦燥を臆面なくペンに託して世に発表したから彼自身は救われた。そして今その小説を読むとき、いつの時代も愛なんてものに囚われて時間を無駄にしたバカがいたことに気づかされ愛に悩み苦しむ者は必ず救われるであろう。

 と、こう書いてきたが、むろん家庭の愛、家族愛というものは確かに存在する。ただ、それは男女の痴情的恋愛とはまったく異なる。いつも相手のことを思い、常に気になるというような熱き衝動的恋愛はしたほうが良いとは思うが、長続きしない故それは愛でないことがわかるはずだ。
 恋愛とは文字の如く、愛に恋している状態なのである。人は本当の愛を求め知らなくてはならない。

本を破く人たち考・続き2014年03月01日 08時12分49秒

★自らの持ち物をどう扱おうと自由ではあるが…   アクセスランキング: 180位

 公共の、他人の本ならともかくも、自らの買った、入手した本なら破こうがバラして燃やそうがどう処分したってかまわないはずだ。そもそも本なんか大量に生産され市場に出回る消耗品なのである。
 が、本を破いたり傷つけるという行為に抵抗を覚える人も多いかと思う。本とは物ではあるが、書き手や作り手、そして読み手にとっても、その「心」や「思い」が込められた特別に愛し愛蔵すべき対象とも成り得るからだ。
 ところがこの世にはそれとは別に、どのような心理か理解できないが、本を処分するにあたってわざわざ破く人もいる。前回書いた「アンネの日記」破損事件とは関係ないがそのことについて書いている。

 なんであろうとすべてのモノは使用頻度と経年によって劣化しやがては必ず使用限界のときを迎える。機械でもニンゲンでも同様である。
 本などは有機物を原料としていても管理さえ良ければ数百年、千年単位でも保存がきく。ただ、そうした寺社などにある「文化財」はともかく通常個人の使用ができるのはせいぜい5~60年程度ではないか。自分が持っている本では昭和のはじめの円本などがまあ古いほうだが、母が生まれた頃の発行年があるので、約80年は経っている。それらの本は乱暴に扱えばすぐ綴じが崩れそうだが、まあごく普通に読むに問題は何もない。むろん相応の紙焼け感はあるけれど。
 しかし、今の本、特に戦後に大量生産された新書サイズの本や雑誌類はインクも紙質ももっと劣悪なのでおそらそんなに持たないと言われている。特に酸性紙だと焼けが早く紙自体がボロボロとなって製本も簡易なので本としての形態をとどめなくなり本としての役割は終える。

 と、これは本の寿命の話であるが、本は一過性の楽しみ、実用的な知識の手段という面も強い故、まだ使えようが読み終えたらその役割は終える。さすれば当然「処分」されるし、そうしないと本に限らず家内はモノでいっぱいになり身動きとれなくなってしまう。
 そうした不要となった本は行政の古紙回収の日とか可燃ごみの日に、ゴミとして処分されるのが通常だが、その隙間に入るのが古本屋という商いであり、ブックオフなどの大型新古書店も含めて、そうした読み終え不要となった本を再流通させるシステムは昔から全世界的にできていた。まあ本でも何でも新品に限らず、中古でもまだ使えるのならばそれを求める人もいるし、それを流通させる「商売」は古代ローマの頃から存在しただろう。

 さて、我が商売の話。今ウチに入ってくる本や雑誌類を分別していくと、状態が良くてもAmazonマーケットプレイスなどネットマーケット上で「1円本」と化した本は商売にはならない。売っても儲けが出ないしそんなに世に溢れていたら買い手もつかない。そして残った値の付く本類を状態を鑑みながら「出品」していくわけだが、むろん状態が劣悪なものは除外される。
 児童向け童話本などは子供が乱暴に扱い落書きもあることが多いので傷みが激しくまず「売り物」にはならない。次いでグラビア誌、アイドルのムックなども切り取り、ページバラシなど多くある確率が常に高いので細心の注意で確認しないと大変なことになる。

 また、専門書、実用書などの類でも処分に当り、必要なページだけ切り取ってからという場合もままある。さらにそこに近年では「自炊」なる、本のページごとにスキャナーで読み取ってパソコンなどに取り込み自ら「電子書籍」化された末の、綴じが完全にばらされた本もたまに見かける。
 まあ、3.11以後、そうした行為に精を出す御仁はだいぶ減った気がするが、近所には今も暇なのか、マンガから分厚い専門書までもまず本をパラしてから1Pづつせっせっとスキャンしては取り込み済の本=紙はゴミとして古紙回収の日に出す、という作業に熱注している人がいることは知っている。本として読む行為よりもそうした作業自体がその方には生きがい、目的化してしまったのではないか。

 そうした本は当然売り物にはならない。そして自らが買った、入手した本なのだから持ち主がどのように扱おうととやかく言えないし言う気もない。本自体としてはそこまで活用してもらえればある意味「本意」なのではないかとさえ思えなくもない。
 問題としたいというか、一つ気になる本の捨て方がある。それは、明らかに処分に当り、先の「アンネの日記」破損事件と同様なやり方で、本文内のページをわざわざ数十ページにわたり破いてから捨てるという本だ。察するに要するに古本屋などの手に渡ること、再流通を避けるためだと思われる。まあ、それすらも持ち主の意志であり善悪では断じられない。しかし古本屋の立場として、いや、そうでなく個人としても自分にはそうした心理がどうしても理解できない。あまりに卑しい、ケチな性分のように思えてならない。それはプライバシー保護とかとは全く関係ないと思う。

 以前、古着などの回収に携わっていたこともあるが、やはり同様にこの世には、ゴミとして出した古衣料を、わざわざハサミで切れ目を入れてから捨てる方々がかなりいることを知った。むろん、下着類とかなら大いに容認できるしまして衣類はプライバシーの固まりとでも言えなくないので理解もできる。ただ、中には新品同様のブランド品と思える衣類も多々あり、商品タグも付いたままなのでおそらく買ったものの着ないで衣装棚の肥やしでしかなく、ゴミの日に処分に出したのであろう。衣類などでもリサイクル回収ができる自治体もあるし、むろんのこと程度の良い衣類なら今は古着もブームなので流通はできるのである。

 ところが、そうしたほぼ新品、もしくは「新品」の衣類には限って、特に女性用なのだが、わざわざハサミを入れて古着として流通も再利用できなくして捨てる方々がかなりいた。そうした心理はいかなるものであるのか。自分が高い金出して買ったものが誰かに渡って再び着られると悔しいと思うのであろうか。衣類ゴミとはそうしてハサミ入れて出すものと躾けられているのか。
 自分ならば、衣類でも本でも何であろうとも不要となりゴミとして処分するとしても、できればもう一度誰かに使ってほしいと願うし、モノとしてもそれを願っているはずだと信ずる。もしそれを求めている人がいるならばその方に手渡したいと願う。まして買ったものの使わず「新品」ならばモッタイナイではないか。どうしてそれをわざわざ使えないようハサミを入れるのか。

 本も同様に、希少な復刻本とか限定本のような本に限ってわざわざページを破ったり、あるいは綴じを裂いたりひと手間かけて二度と流通できなくしてから捨てる御仁がいる。つまりその人たちは本の価値をわかってやっているのである。ならばどうして古本屋とかに持ち込まないのか訝しくも思う。まあ、持っていく手間とか考えると今は売れたとしても二束三文にしかならないからバカバカしい、面倒だからゴミに出そう、でももしそれがどこかから古本屋等のところに流れると悔しい、だからそうならないよう破いて出す、という「心理」なのであろうか。

 高く売れる本なのに、そうした破れがあって売れなくてモッタイナイと欲目から書いているのではない。古本屋以前に、本を愛する者としてこれは文化に対する冒涜だと自分は考える。むろんそれもこれも個人の持ち物であるのだからどう扱おうと自由なのである。人それぞれいろんな考え方があろう。それは尊重すべきである。ただ、本を破くという行為からはそこにその人の「人間性」も窺える。それだけの話だ。