梅雨寒の山梨で2015年07月02日 23時22分20秒

ご近所さんから梅を頂きました。江草では今が梅のシーズン
★携帯電話を向こうに置き忘れてきた!         アクセスランキング: 142位

 というわけで、雨の中、一泊二日で山梨県北杜市江草の里山に行ってきた。今日2日の夕方戻ってきた。向こうは寒いほどで、親たちはコタツに足入れて眠った。

 そしてようやくだが、先にも書いたマス坊のスマホ、向こうでもネットに繋がった。今回行って確認できた。アンテナが立った。本当にウレシイ。これで、ネットで古本の価格相場の検索もできるので、作業が格段にはかどる。陸の孤島からネットの海へと船出した気分である。

 が、あろうことか、バカだから慌てて向こうを出る間際に、玄関の靴箱の上に携帯電話を置き忘れてしまった。今、まだ、スマホには電話機能は入れていないので、友人知人の誰にも電話をかけることができない。
 まあ、今は連絡とるのは、ほとんどが携帯も含めて電話で話すやりとりより、メールが主だから特に困るほどではないが、問題は、こちらからの連絡より、携帯にかけてくれた人が、マス坊のメルアドも知らないならば全然電話がつながらないこととなり、きっとご迷惑かける以前に心配されるであろう。※携帯のほうにはメール機能はそもそも付けていない。
 なので、また近く行ってとってこないとならない。やれやれである。

 スマホには、宅のパソコンのメールもそのまま受送信できるよう同じメルアドを入れている。だからこれで、向こうでも布団の中でもメールを送ったり届いたメールがすぐに確認できる。これは有難い。どこにいてもメールが確認できるのは実に便利で助かる。

 つまるところ、電話で直に話すことより、忙しい我々は、メールでの短いやりとりのほうが、簡便かつスピーディということなのだ。メールなら24時間いつでも都合の良い時間に書いて送っておけば、向こうが確認さえしてくれさえすれば用件はことたりる。
 ただ、いちばんの問題は、そもそも本当に相手に届いたか、向こうは読んでくれたかわからないことだ。郵便の内容証明的に、相手がメール開封したか確認できるやり方もあるけれど、それだって普通は用いないし、それすらも受け手側が無視することはたやすい。
 となると、メールは送ったものの、返信がない場合は、あれこれ気をもんだり、不安や心配となる。
 ネットでのメールという通信手段はいつでもどこからでも気軽に送れるが、相手にきちんと届いたのか読んでもらえたかは定かではない。

 郵便しかなかった時代も、送ったものの返事のないラブレターなどは、うたのかっこうの題材になったし、ポケベル(今もあるのだろうか)の頃は、ポケベルが鳴らないことをモチーフにしたドラマやうたがあったと記憶するが、ネット上のメールについても同様に、昨今のうたなんかになっているのだろうか。
 いずれにせよ、メールというのは、やりとりする双方の意志がはっきりしているときは非常に早く簡便かつ的確だ。が、そうではない場合、一方的に連絡をとりたいときなどは、相手にこのメールは届いているのか、またそれを読んでくれたのか確認とる術はない。
 メルアド自体間違っていたり、何かシステムの不具合で届かないことだってままある。あるいは向こうのセキュリティで、スパムに振り分けられて読まれなかったり、そもそも多忙な人では、うっかり読まずに削除してしまうことだってままあろう。

 となると、携帯であろうが宅電であろうが電話で直に話す方が確実だと気づく。むろん常に留守電状態となっていて、電話にすぐ出ない人も女性には多い。が、伝言を残せばたいがいは向こうから返信があったりしてメールよりは確実に連絡がとれるように思える。
 そしてじっさいに声に出して話せば、文字のやりとりよりも微妙なニュアンスは伝わる。ゆえに、メールなどでは顔文字など多用してそのニュアンス部分を補足しているのだとわかる。
 となると、メールは要件など文字としても残るがゆえ、確実なこと、確定したことには有効かつ有用だが、微妙かつあいまいなことについては、やはり肉声、ましてじっさいに会い話すに如くはないということだろうか。

 私ごとだが、もう既にこの世にいない友人に、それが判明しないときは、何度もメールを書いてはどうしたのか、連絡をくれと送った。むろん、返信があるはずがない。亡き人に身内がいれば、遺された携帯やパソコンのメールシステムも適時チェックして、もう彼は死んだ旨など適切な連絡を返してくれたかもしれないが、その人は一人暮らしだったから何度メールしても当然のこと返信はない。

 いったい我が書いて送ったメールはどこへ行ってしまったのか不思議に思う。別にエラー表示などは一度も出なかった。むろん送信済みトレイのほうにバックアップは残っている。が、送信したメールそのものはどこに消えたのか。
 もしかしたらあの世には届いていたのかもと考える。ただ、向こうからは返信できなかっただけだと。あるいは、彼もまたメールを送り続けていたのかもしれないと。ただ、お互いに彼岸と此岸、システムに互換性がなくやりとりができなかっただけなんだと。

 いずれにせよ、また近日、この忘れ物をとりにまた山梨まで行かねばならない。再び亡き友と関わりを持つには、こちらもまた向こうの世界に行くしかないのであろう。

チラシ完成したので2015年07月03日 22時47分33秒

★ぜひ、どなたでもお気軽にご参加ください。        アクセスランキング: 172位

明日は隅田川フォークフェスティバル2015年07月04日 22時54分00秒

★雨が気になるけれど           アクセスランキング: 155位

 京都の七夕コンサートに行くべきか、ずっと迷っていたのだけれど、隅田川は、第一回から企画進行から関わって来たわけで、主宰の国崎氏との恩義もあり、今年も手伝いに行くこととなりました。
 早いもので、今回で第5回。といっても5年目ではなく、会場の都合などで、何回か開催できない年もあったから、もうかなり年月がたった気もする。

 当時はまだ無名だった岡大介は、第一回から連続出場を続けて今や観客動員ナンバーワンの売れっ子となったし、回を重ねるごとに、この神社の神殿の中で行うフォークソングの祭典という唯一無比のフェスのコンセプトは回を重ねるごとにはっきりしてきたと思える。そして、超ベテラン中川五郎氏を囲んで、フォークソングで熱く皆が一体となる、このフェスは初夏の東京下町の風物詩となりつつある。
 昨年は、過去最高の参加者となり大盛況となった。今年もまた豪華かつマスダ的には旧知の気の知れた方々が勢ぞろいし大いに楽しみだ。

 一つだけ気になるのは、豪雨と蒸し暑さで、雨足が強いと参加者の足も鈍るかもしれないし、何より冷房はない場所なので、音楽の熱気と蒸し暑さで参加者がへたばってしまう。どうか各自、脱水症状とならないようご注意願いたい。

マスダです。長いあいだありがとうございました。2015年07月05日 23時57分53秒

もう、いいかげんな人生終わりにします。

 マスタです。もしこのブログなるものの読者というか、読んで頂いた方々がいるとしたらほんとうに申し訳なく思いますが。もう私は限界です。発狂しました。冷静にブログは書けません。


 今、髪の毛を全部ハサミで切って、これからのこと、改めてどうしようか考えています。自分の人生がもううんざりです。ならば自殺すへきですが、老親をかかえ無責任なことはできません。

 プロ具の方々に励まされ、救われた思いがあります誰かが読んでいると思い生き続けられました。。ほんとうにありがとうございました。
 神の御胸に、ほんとうに委ねられるか、この弱き心を、自ら確かめたいと思います。ごめんなさい。本当に私は愚かで罪深い者て゜した。ありがとうございました。皆さまにも神のご加護がありますように。

ともかく生きている=生かされている2015年07月07日 18時14分26秒

ならば、生き続けていく。

 皆さん、今回は本当にご心配おかけしました。
 今日7日、立川の総合病院に行き、午前はメマイで、午後は脳神経科でCTとってきました。4時間かかりました。幸い脳には損傷はなく、とりあえずメマイを抑える薬だけもらい、早速飲んで、帰ったら眠って今起きたところです。ようやく深く、久しぶりに、ぐっすり眠りました。
 頭はまだ重く、やや立ちくらみはするものの気分は悪くありません。たぶん心療内科や精神科に行かなくても良いような気が今はしています。

 いったい何が起きたのか。自分でも記憶が途切れ途切れでよくわからいのです。5日の隅田川フェスは盛況で、そこで何かトラブルが起きたわけではありません。良いイベントとなりました。
 ただ、私は夕方頃?どうやらどこかで転んで、もしかしたら神社の社殿の欄干から地面に落ちたのか、頭を打ったらしく、その後の記憶が部分的にしかないのです。アルコールも呑んだのですが、それだけではないと。

 何とか無事に家には戻ってきて、それから強い絶望感に苛まれ、まず頭の毛をハサミでやみくもに切って、先のブログを書いてしまいました。じっさいに発狂したのかもしれませんが何を書いたか記憶はしっかりあります。すべてがもううんざりして嫌になりました。

 翌日、昨日一日は、メマイとふらつきが激しく、何も食べられず夜まで布団の中から出られませんでした。トイレにも這っていく有様でした。

 ベッドでスマホのほうに届いたメールだけは確認して、私が発作的に書いたブログで友人知人方が大いに心配されていることを知りました。が、パソコンにも向かえません。先のブログ、消すなりして書き直すべきかと迷いましたが、今はまずこの報告だけ同報メールも兼ねて記します。

 生きていること、無事生きて帰れたことすら奇跡だと思います。頭には二か所の瘤、右半身には寝返り打てないほどの打撲で擦り傷、青あざがありますが、脳も含めて特に異状なく骨などは折れていないようです。

 私の友人知人ではこのところ呑んで転んで、骨折して全治一か月以上という方もいらしたのですが、私は幸い打ち身程度でギターも弾けると思います。ある意味、今回の件は、入院など今後のことに後ひかないですむならば僥倖だったかもしれません。

 CTの輪切りとなった脳の断面を見ながらただ有難く思いました。ともかくまだ生きている、生きているとは自分の力ではなく生かされているのだとはっきり思い至りました。
 そしてまた私の愚かさから多くの友人たちを驚かしご心配おかけしてしまいました。不徳の致すとか以前に、ほんとうにほんとうに申し訳なく心苦しく思います。

 今回の件は、後ほどもう少し体調よくなれば検証し詳しく報告しますが、とにもかくにもとりあえず無事であること、立ち直りつつあることだけこの場でまずお知らせします。頂いたメールには後ほど個々にお詫び入れます。
 体調維持と自己管理、そして自らを律し自らを愛することに努めたいと思います。自分すら愛せない人間に人を愛する資格も愛される理由もありません。

 本当にごめんなさい。ブログは無理せず続けていくつもりで今はいます。ありがとうございました。皆さまに神の愛といつくしみを!!

改めてお騒がせして申し訳ありません。2015年07月09日 18時27分49秒

★備忘録として今回の件を記しておく        

 死者は生者を煩わすなかれ、である。まったく同感だ。が、有難くも死なずにまだ生きている。
 なので、もしこんな私でも宜しければ今後もお付き合い願いたいと切に願う。また周囲の方々を煩わすことがあるかもしれないが、それもこれも生きているからこそで、どうかお赦し願いたい。我においてはどのようなことでも全てを受け入れたく思っている。ただただ感謝、それだけだ。

 さて、多くの友人知人、そして拙ブログの見知らぬ読者の方々からご心配と励ましのコメントやメールを多々頂いた。皆様の温かいお気持ちに感謝すると共に、今はただただご迷惑とご心配をおかけしてしまったことを申し訳なく恥じ入る気持ちでいる。

 多くの人からいったい何があったのかと問われた。が、正直、この当人自身が未だよくわからないのである。何しろ当日夕刻からの記憶がほとんどない。ところどころ完全に抜け落ちている。意識が今に繋がっているのは、「発狂」後、翌日起きてからだ。

 果たして会場の江島神社の社殿から落ちて頭を打ったのかさえ、確認できなく怪しく思う。もしかしたらそれもまた夢や幻覚なのかと。ただ、はっきりしていることは、古い地層や岩盤を調べると古代の津波や噴火の痕跡が地中から出てくるように、頭には二か所の瘤というか腫れて痛みがある箇所があり、体の右半身、肩から腰にかけてかなり打ち身の後と腫れ、痛みが今も強くある。ということは、間違いなく転んだことは確かで、もしかしたらそのときに頭も打ったのかと想像する。

 確かに浮かれてアルコールも呑んだと思う。が、意識失くすほど酩酊状態にあったとは思えない。体調も悪かったこともあった。もう二度とこうした失態をしでかさないためにも、自らへの戒めとして今回の一件をこの場で振り返り記しておく。※今は私的日記はつけていないこともある。

我に何が起きたのか・12015年07月09日 18時56分16秒

★そこに至るには流れがある。

 今振り返ると、どんなことも同様だろうが、何か事件、事故が起きるには必ず伏線というか、流れがある。まったく何の理由も関連もなしに道でいきなり通り魔に出くわすような事態もあるかもしれないが、自らが引き起こしたことには、必ずそこに至る経緯が存在するはずだし、なくてはならない。

 これはハズカシイ私ごと、家庭の事情で、拙ブログでは意識してあまり書かないようにしていたが、老親のうち、父の呆けが進み、このところは三度の飯を食べさせるだけで毎回大騒動であった。

 歳とると人は三歳児に返ると言われるが、このところ飯の度に毎回食べられない、食べたくないと騒ぎ出し、逃げ出したり暴れたり、それこそ老いた父と息子がとっくみあいの喧嘩のような騒ぎを起こしていた。
 こちらとしては三度三度飯をつくるのは苦ではないが、ともかく早く親たちに食べてもらわないことには他のこと、我が用事もできやしない。むろん食べたくないのも当人の自由意思としてほっとけという考えもある。が、これ以上体重が落ちると危険水域となるし、じっさいは決して体力的に食べられないのではない。デイケアや外食に行けばパクパク食べている。幼児的ワガママからと関心が長続きしないからすぐ飽きて騒ぎ出す。

 本当の幼児ならそれもまたカワイイが、もともと六尺もある大男で、挙句に必ず憎まれ口、減らず口をたたく。こちらも激高し、飯時に限らず日に何度も騒動が絶えない。フラフラヨボヨボなのに多動系徘徊系の老人だから、目を離すと余計なことをしでかす。何かふと頭に浮かぶと、ハシゴかけて樹に上るとか非常に危険なことすら突発的に始めてしまう。

 そんなこんなで疲れ果てて、ストレスは溜まり体力気力ともにかなり疲労困憊すべてがいっぱいいっぱい、限界になっていたのだ。

 そして、先にも記したが、親たち連れて1~2日と山梨へ行った。温泉に浸かってのんびりしに行ったはずが、父も連れて行ったので、今回はまったく気が休まらない。それでも向こうは向こうでやるべき用事が山積みで、親たちを寝かしつけた後、一人で深夜まで本の整理とかやってほとんど眠らなかった。

 戻ってきて、翌3日の金曜日、友人と都内で待ち合わせて映画を観てから会って話す約束があった。が、約束していたものの、その日の朝、明け方のこと目が覚めてもメマイが甚だしく、ベッドから起き上がれない。ふらつき程度ならともかく、ぐるぐると左、右、左、右と目の前が揺れ動き気持ち悪くて立つことすらできやしない。目をつむって枕に突っ伏して堪えるしかない。
 仕方なく、手元のスマホで、彼に、誠にすまないが体調不良で今日はキャンセルしてくれと短いメール送って詫びて出掛けることは諦めた。そしてその日は午前中はそのままベッドにいた。ひたすら眠ったら午後にはその強いメマイは収まった。疲れが出たのだろうと自分では思った。友には申し訳ないが仕方ない、これで治ったと。

 が、翌日朝もまた同様で、やはりベッドから起き上がれず、仕方なくまた午前中ひたすら寝ていた。

 そして7月5日。心配していたが、その日はメマイは起きず、国立に住む某ベテランシンガーのギターバンジョーを運ぶ光栄な役割もあったので、国立駅のホーム11時前の約束で、カメラやICレコーダー、そして25日のコンサートのチラシなど手提げバックに詰めて家を出た。
 体調は特に問題なかった。曇ってたが心配していた雨も降っていなかった。

我に何が起きたのか・22015年07月10日 21時54分30秒

いったい誰が撮ったのか。カメラには当日のファイナルの様子も数枚だが残されていた。
★今、正気に戻って振り返ると

 第5回となった「隅田川フォークフェスティバル」、今年も盛況のうちに無事終わったのだと思う。さほど梅雨中でも蒸せずにお客もたくさん来られ和気あいあいの良いイベントとなったはずだ。

 考えてみれば、このイベントは、もともと国崎氏と第一回の企画段階から自分も深く関わってきたわけで、出演者も皆長年の付き合いから懇意かつ気心知れた親しくお付き合いある方々ばかりで、いわば故郷に戻ってきたようなものであった。
 だから嬉しくてつい浮かれて気も緩み、いつもより缶ビールなどアルコールを呑んだのは覚えている。が、記憶をなくすほど酔うとはどうしたことか。

 心配していた天候も、雨が降りだしたのは、お客がほぼいっぱいとなってからで、予定の1時よりやや早く開始となり、第一部は、非常に良い感じでスムーズに進んでいった。一部のトリは、これまで前回連続出場中の岡大介で、マイクなしのかんから三線1本で、余すところなく今現在の実力を満席のお客様にたっぷり見せつけた。
 そこまでは完全に記憶に残っている。そして、自分も会場整理や裏方としてイス運んだりあれこれ動いていた。

 岡さんが終わって、それから少し休憩があって、第二部が始まったはずだ。が、今回のラストは中川五郎御大であったはずなのだが、その第二部のライブの記憶がまったくない。

 その休憩の間なのか、それとも、第二部やっている最中なのか、我は頭をうったらしい。らしいとしか書けないのは、果たしてそれが事実なのか、その会場である神社で頭を打ったのか確認ができないからだ。
 ただ、誰か周りの人たちから、「大丈夫ですか?」「頭から落ちたけど」とあれこれ心配されたような漠然とした覚えはある。しかし、それすらもしかしたら夢かもしれない気がする。今のところ誰からも目撃情報など得ていない。
 今記したことも、翌日、6日の朝になって、頭に瘤ができていて、初めて気がつき、そういえばそんなことがあったような気がしただけだ。果たしてその神社で起きたことか今も自分ではわからない。

 そして、次に意識が戻ったというか、今振り返り残っている記憶をたどると、ある記憶は、もうコンサートは全て終わっていて、自分はたった一人で、神社の社殿の中にいた。
 残って後片付けをしていたのかそれもよくわからない。もしかしたら意識を失いどこかで寝かされていたのか、それとも酔っぱらってずっと眠っていたのか。

 自分の荷物を抱えて、道を挟んだ向かいのフォークロアセンターに行ったら、国崎さんも誰もいなく、彼の妹さんが一人おられて、お疲れ様でしたと挨拶した。そこから中川五郎氏に携帯で連絡したら、両国駅前の居酒屋に皆でいると知らされ、妹さんからもすぐ場所はわかる、と言われてくてく歩いて行った。

 その店はすぐわかり、皆と合流できた。そこで、出演された方々とあれこれ話した記憶もある。が、誰がいたのかやや記憶もあいまいだし、いったいいつ皆と別れたのか、何を話したのか、気がついたらたった一人で帰りの中央線に乗っていた。つい言葉が過ぎた記憶はある。
 ほんとうは、五郎氏のギター運ぶはずだったが、いったいどうなったのだろうか。もしかしたら彼は車で帰ったような気もしているが。ともかくたった一人になっていた。

 で、それから帰りの車内で、スマホをチェックしたり、立川かどこかで青梅線を待っている間も女友達に慣れないローマ字入力でメールしたりして、何とか家のある駅に着いた。雨はしとしと降っていたと思う。傘は神社に忘れてきたようで持っていない。

 いつも停めてある自転車置き場で、自分のそれをみつけて、カギを差し込んだが、ぜんぜん入らない。何度やっても合わない。数十分そんなことを繰り返し、ようやく今朝はいつもと違う場所に自転車を停めたことを思い出した。それは似ているが他人のだった。ようやくみつけてふらふらよたよたしながら乗って家に帰った。

 が、自転車に乗ってなのか、それともまた別の場所なのか、どてんと道に転んだ。持っていた手提げカバンの中身を全部雨のアスファルトにぶちまけた映像の記憶がある。しかし、拾い集め、何とか家に戻ってきた。

 そしてそれから、絶望的な気もちに襲われて問題のブログを書いたのだと思う。それ以降も、今日出演された友人であるシンガーにメールしたりもしている。それからうんうん泣きながら寝た記憶がある。
 ただただ自分が情けなく、絶望と悔恨の気持ちでいっぱいだった。

 そして、翌日6日の朝、ようやく正気に戻り、いったい何があったのかとグラグラ揺れる天井を見上げつつ昨日のことを思い出してみた。
 体の右側は打撲で、肩など痣と擦り傷のかさぶたが出来ている。それは腰まで打ったらしく右半身全体に強い痛みがあり、そちら側には痛くて寝返りも打てない。だが、昨晩はまったくそんなことに気がつかなかった。

 そして頭に手をやれば、左目の上、こみかみのやや上あたりに瘤が一つあり、ざらざらしている。さらに右側の耳の少し上の側面にもかなり大きな瘤があり、どうやらそこも血が出たらしく今もかさぶたとなっている。さわると当然ながらかなり痛い。
 その時点で初めて、昨日どこかで転んで頭を打ったのだと気がついた。そして記憶を辿ると、誰かに「大丈夫ですか」と心配され介抱されているような覚えが浮かんだ。しかし、それもまた夢で見た気もする。

 自分にいったい何が起きたのか、自分はいったい何をしでかしたのか。メールを送っていた友人たちからは「かなり酔っぱらっていたようで心配したけど無事帰られたようで良かった!」と返事はあったが、恥ずかしくて、オレは頭打ったのかとは未だ訊けやしない。
 確かなことは、頭を二回?打って、体右半身をかなり強く打つように転んでいることだけで、あちこちにケガしているという状況証拠しかない。

 その6日は、メマイとふらつきが激しくてベッドから一歩も起きられなかった。ようやく夜遅く、軽く食事もとれたが吐き気もあったので水も飲まず一日中ただベッドの中で、昨日のことを振り返り記憶をたどり何が起きたのかと自問し続けていた。いったいどうしてしまったのか。

 右側頭部の瘤は転んだとき、ついでに打ったのかもしれない。両国駅前の店で皆といたときも帰りの電車でもどこも痛みなど感じた記憶はないのだから、電車下りてから家までの帰り道に転んだため起きたのか。
両国では頭など打ってなくて、たんに呑みすぎて記憶がないのか。
 いや、家に帰ってもちっともケガしたことなど気づかなかったではないか。体のあちこち、頭の瘤も含めて体の異変に気づいたのは翌日になってからだったのだ。まさか転んだのは家の中のはずもない。

 ほんとうに我がことながら自分でも何が起きたのかわからない。ただ、自滅的ブログを書いてしまったのには、そこに至るストレスと、鬱屈した思いが大いに関係していることは間違いない。

 そして7日、すこしはメマイが収まったので、頭のことも心配だったので病院に行ってあれこれ検査をしてきたという次第だ。「発狂」の原因は脳ではなく心であったようだ。

※もう一回だけ続きます。

何が起きたのか・3 ~そして今、これから2015年07月11日 06時11分36秒

★弱い、小さい者として 淋しさを見つめ愛を抱え生きていく 

 こんな大変なご時世にどうでもいい私事をだらだら書いて申し訳なく思う。

 あれから数日が過ぎた。
 体調のほうだが、実のところメマイはあまり改善されていない。一日中鈍い頭痛と立ちくらみ的ふらつき感は残っている。薬は飲んでいるのだがなかなか収まらない。
 しかし、吐き気につながるほどのぐるぐると目が回るようなひどいのは起きていない。だから日常生活としては問題なくやっている。

 気分はというと今は台風が過ぎた後のようにスッキリと晴れ渡っている。体調は良くなくても気分は悪くない。何の不安も心配もない。心配事はあってももう囚われはしない。

 先に発狂したと書いた。今振り返るとそれは一時的なことではなく、もう何年も同様の状態にあったのだと気づく。
 皆様には大変心配とご迷惑をおかけしたが、7月5日を過ぎて、その日を境に「正気」にかえった。
 ダマスコでのサウロの「回心」ほどではないけれど、目からうろこのようなものが落ちたわけではないが、心の中にずっと抱えていた煩悩、欲の根源となっていた固まりが落ちた。

 つくづく自分は欲深く傲慢な人間だったと思う。臆病なくせにプライドだけは高く、常にすべてを自分勝手に思い通りに動かそうとしていた。何もできないのに自己愛に満ち己惚れていた。まさに罪深い。
 そして何よりも常に自由を欲し、思い通りに生きたいと願っていた。それは他者をもとりこみ従わすことを意味していた。

 そういう人間がこのところ老親とのことや、自らの失態で引き起こしたトラブルから生じた人間関係の滞りで身動きがとれなくなって、何一つ思い通りに進まず悩み苦しんでいた。ただただ焦り苛立っていたのだ。

 人は自らが思い通りにならないと、外にそれを求めていく。物や他者に求めていくと気づく。
 ネットでちょっと心惹かれる物に出くわすとやみくもに買い求めたり、他者との関係で新たにあれこれ求め期待していた。が、しょせん「外」のことでは根本解決になるはずもない。物ばかりさらに増えて金だけが確実に減っていった。
 まして他者は思い通りになるはずもなく、期待し願い、待つことで囚われまた疲れさらに心は疲弊していくばかりだった。

 そしてそうした愚かな行為の積み重ねは当然ながら破綻し爆発した。
 ようやく目が覚めた。


 自分がダメであること。自分の愚かさや迂闊さ、バカさ、甘さ、考えのなさはこれまでも度々書いたし自認していた。が、それこそが甘えであった。つまるところ、いくら言葉を重ねてもそれは「弱さ」に尽きると気づいた。弱さとは小ささと同義であり、その弱さこそ、卑小さこそが自分の本質であった。

 ようやくそのことに気がついた。そしてそれを認めた。認めたくはなかったが、そういう誰よりもたぶん世界でいちばん弱い人間なのだと。

 そしたら楽になった。そして抗うことなくすべてを受容れていこうと思った。
 まだ神の声を聞いてはいない。けれどもこんな人間でもまだ死なずに生かされているのにはそこに理由はあるはずではないか。

 確信も自信も何一つない。が、残りの人生は、誰をも否定せず、全てを受容れてただ感謝して生きていかねばならない。
 こんな弱い小さな人間と関わってくれた方々すべてに恩を返して報いていく。たとえ我を詰り、罵った人に対しても同様に。何故なら彼の人は無視することなく対処してくれたのだから。

 無情の世界には愛が足りなさすぎる。ちっぽけな自分に何ができるか心もとないが、自分のことではなく天のはからいに従い耳を傾け生きていこう。
 淋しさもある。けれど、神様はいつも傍らにあり常に見ていて守ってくれた。また、多くの他者はこんな人間を気づかい案じてくれたのだ。有難いことだ。まさに有難い。ならばその恩に報い返していかねばならない。愛こそがすべてだ、とパウロもレノンも説いている。

 小さな弱い人間がささやかな愛を返していく。

ただ生きているだけの有難さよ2015年07月12日 17時27分31秒

★そして父をも倒れて その「はからい」 を知る。

 これは書くべきか迷っていたが、事実であり、今回の顛末におそらく大いに関係したことなので、継いで書く。

 我が立川の脳神経外科を受診したのは、頭がおかしくなって二日後、7月7日のことだった。
 そしてその翌日、今度は我が老いた父が倒れた。今、手術を終えて入院中である。

 父は以前から、息子とは別に、朝からメマイ、ふらつきを訴えていた。が、それはパーキンソンから痴呆症も伴った症状の一環だと医者や家族も思っていた。そしてそのメマイ?は、たいてい朝だけで、収まり日常的には特に問題ではなかった。歳とれば誰だってヨボヨボになり、足元ふらつくものであろう。しかも彼は九十歳となるのだから。

 が、この数日、彼はそのメマイをはじめ体調の不調を訴えていた。午後になってもメマイは収まらないと。
 そして8日、昼に父は母を伴い出掛ける用事があり、それはかなり難儀して戻ってこれたのだが、夕方、二人で近所を軽く散歩したら母は父の異変に気づいた。歩いていても左足が麻痺してろくに足が上がらず歩けないと。

 で、息子である我に、どうもいつもよりオカシイ、急に歩けなくなった、もしかしたら彼は軽い脳梗塞でもなったのではないかと、訴えてきた。で、もう午後6時頃だったから、かかりつけの立川の総合病院へ急患扱いで母も付き添い、父を車に乗せてすぐに連れて行った。
 そのときの我の感想は、毎度のシンドイ疲れたと訴える「いやいやえん」的彼のワガママからのもので、大したことなどないとタカを括っていた。検査すれば何でもないとすぐわかるはずだ、と。

 問診では特に問題は見られなかった。が、念のために頭のCTを撮ったら、行きは車椅子で向かったのに、帰りはベッドに寝かされて戻り、すぐに母が呼ばれ当直医師から話を聞かされた。頭の中に血が溜まり大変危険な状態であり、明日午前即手術をしないと命に関わると言う。

 その時点では病名は知らなかったが、「慢性硬膜下血腫」といい、頭を打ったことで、じょじょに少しづつ頭蓋骨内で出血が起きて脳が圧迫されていたとのことだった。
 自分はコンビニに行っていてそのときいなかったので、医師が診断を母に告げたとき見せられた、輪切り状態に撮影された脳の画像では、左半分がほぼ真黒に潰れていて、シワなどはまったく見えなかったとのこと。あと2~3日すれば意識もなくなるだろうと医師は言う。

 すぐ入院手続きをして、明日朝から頭蓋骨に穴を開け、その溜まった血を抜き取る手術をすることとなった。

 父の検査を待つ間、待合室のソファーで持って行った新聞を開いたら、三面の下の訃報欄に、大好きな石やんこと、関西のギタリスト、石田長生の訃報が載っていて驚かされた。彼が癌で闘病中だと知っていたが、きっと克服すると信じてた。まさかこんなに早く逝くとは・・・。

 つい先日まで彼が更新していたツイッターでは、亡き清志郎のことを偲び、他のミュージシャンのツアーを応援し、字面だけ見れば元気そうだったのに。彼の屈託のない笑顔を思いだしもう心が張り裂けそうだった。
 直接の面識はないが、ソーバッドの頃からずっと親しみ、大阪春一番でも応援してきた大事なミュージシャンだった。清志郎といい、大事な本当に長生きしてしてほしい人たちが、ファンや当人の思いかなわず、思い残して病に倒れ若くして去っていく。

 石やんは死に、頭は打ったが自分は生きている。そして父は倒れ、まだどうなるか予断は許さない。これが人生なのだと、皮肉にもこうしたものが人生なのだ、生きていることなのだと新聞を握りしめ手が震えた。
 これもまた何かのはからいならば、ここからメッセージを受けるべきではなかろうか。
 ※もう一回報告します。