多発する火山活動と地震頻発列島で原発再稼働の愚2015年06月01日 23時05分33秒

★危険性と必要性どちらが優先される?           アクセスランキング: 195位

 相次ぐ地震や列島あちこちでの火山活動にゆれるこのところの日本である。

 このところ体に感じる地震が多いが、一昨日夜のながーい横揺れの地震は本当に気持ち悪かった。
 マス坊はこのところメマイとふらつきに煩わされているので、その揺れの時も、台所にいたのだが、あ~やばい、またかと立ってられず吐き気に襲われた。が、親たちも気づき、かなり大きい地震の横揺れだとわかった次第。
 じっさいの身体的メマイ感もああしたもので、こうした揺れが頻発すると内からと外からのダブルパンチとなり非常に苦しくツライ。その後も揺れ感はなかなか収まらず体調乱してしまった。

 我がことはさておいて、この国はいったいは今どういう段階にあるであろうか。地震国日本が火山活動も含めて大きく揺れる活動期に入っていることは誰だって体感として実感しているはずだ。
 その日本で、あの3.11の原発大災害を受けてもなお川内原発からまず原発再稼働を目論むというのは、飲酒運転で事故をしでかし何度も逮捕されている者にまた免許を与えることに近しいような気がしている。あるいは幼児性愛事件犯罪者を野に放つようなものだ。常識的に考えてもそれはかなり「勇気ある」決断ではないだろうか。

 大地震にしろ火山噴火にしろ、現状では未だまったく予知できないのである。そうした火山帯と断層、各プレートによる地震のまさに巣の上にある日本という国で今また大慌てで原発を稼働させる必要性、必然性はあるのであろうか。

 先に書いた犯罪傾向ある者に対しては、社会においても周囲の注意で事故に至らぬよう防止もできると考える。その個人の人権もある。もう二度と再犯しないうちに生涯を終えるかもしれない。が、原発と自然災害に関しては、いくら安全確認を徹底させたとしてもどの程度の規模の災害がいつ起こるのか我々は誰も予測も万全の対応もできないとまず認識すべきではないか。
 いつしかまたもや安全神話が復活して、あの事故を受けてから厳しい基準を設けたのでどんな大津波にも巨大地震にも大丈夫、だから安心して再稼働、という風潮が蔓延している。

 しかし、自然災害に関してだけは、百年、千年に一度ということも起きよう。まして地球規模で異常な大災害、まさに天変地異が多発しているのだ。そこに危険な火種を灯し続ける必要性はないであろう。いざ、そのとき、核燃料をすぐさまとりだし、周辺住民全員を大急ぎで避難させるなんてことは絶対にできやしない。
 机上の空論として試案はできたとしても現実として不可能ならば、そもそもそんな危険なものは稼働させず撤廃していけばいい。じっさいその廃炉だってものすごく時間と金がかかるのである。そのコストと派遣性だけ考えたって、原発を再稼働する利や益なんでない。
 あるのは、地元自治体、周辺住民たちの原発マネーで潤いたいという欲と、原発大企業の儲け優先だけであろう。

「世界」を変えたいと願うならば2015年06月02日 06時18分38秒

★諦めず投げ出さずできることを少しづつでも         アクセスランキング: 219位

 古いハードボイルドのタイトルに、トラブルは我が影法師というのがあったと記憶するが、それに倣えば、愚かさこそ我が影法師といったもので、おそろく生涯己の影のように付いてまわるものだと自認している。

 今日はまた山梨へ行ってくる。前回よりは体調も戻った。それに笠間より「社員」氏を招いて、同行二人での作業となるから楽かつ、かなりはかどると思う。我が家の庭のケヤキも枝下ろししないとお隣さんがキレてしまう。まったくやるべき雑事には事欠かない。

 今回も母は連れていかない。ともかく向こうの散乱した状態を解消しないことには、古民家来訪希望者がいても招くことすらできない。マスダは、広いところも常に狭くしてまうと、社員氏から常々指摘されているが、スペースあればいつもいつしかそこにいっぱいにモノを置いて詰め込んでしまう。
そしてそれを活用するどころか恒常化してしまう。

 さすがに、歳もとり人生の先行きも見えてきたので、そうした「方針」が良いとか正しいはずがないと気づいた。断捨離なんてとてもできやしないが、じょじょに収集から収拾へと路線を改めなくてはならない。
 古民家も先に書いたが、この自分一人のためのものでないと思っている。来たい人、利用したい人がいれば常にいつでも応じられなくてはならない。今も連れて行ってくれという方が待っている。

 去年の夏は一回だけ、「森の音楽隊山梨の森へ行く」と称してみほこん中心の古民家&里山探訪ツアーを企画したが(参加者四名)、今年もそれ以上に、願わくばサマーキャンプのような、泊まり込みで大勢の方に来て頂ければと夢想している。
 そのためには、もっと片づけて建物そのものも使いこなし良いよう手を入れていかねばならない。単なる古本倉庫として放擲してはならない。

 いろんな意味で世界を変えたいと願う。しかしそのためにできることは、まずこの我が身、自らの人生から変えていくことだ。同じ愚かさと過ちを繰り返していては何一つ変わらない。
 問題や愚かさに目を向けて解決に向けて一つ一つ処理していく。どんな状況でもできることはまだあるしやるべきことは多々ある。
 世界はかわる。すべての思いはかなう。そう信じてやっていく。慌てず焦らず丁寧に慎重に。

映画「ジャージー・ボーイズ」を観てきて2015年06月05日 20時58分44秒

★音楽だけがあれば良いのだと救われた思いがした。   アクセスランキング: 201位

 今日は、新宿に住むOさんと待ち合わせて、飯田橋ギンレイホールで映画を二本観てきた。
 前にも書いたことだが、マス坊は、ギンレイの長年の会員で、昔はそこでかかる二週間ごと変わる二本立てはほぼ全て、つまり年間で48本内外の映画を観ていた。

 が、この近年は諸般の事情から、二週に一度でも都心に出ることがかなわず、今年になってからギンレイで見た映画はゼロに等しかった。何しろ行けばウチからだと丸々半日は潰れてしまい、昼前に家を出てもウチに帰るのは夜7時過ぎとなりその日は映画でほぼ一日が過ぎてしまう。親たちの介護もありたかがその一日がなかなかうまく作れないでいた。
 行けないのならもう会員もやめてしまおうかと考えもしたのだが、友人でやはり老親の介護で日々倦み疲れているOさんの気分転換のためにもお互い誘い合わせて時間つくっていくことにしたのだった。彼の家からは近いこともあったし、一人が会員だと連れは千円で入れることも大きい。

 そんなで前回のラインナップから、初老の男同士、昼間からギンレイの映画観て、その後軽く食事しつつ映画の話などしてお互い家事もあるので夜早めに別れるという二週に一度のデートが続いていた。
 で、今回のギンレイは、話題のクリント・イーストウッド監督最新作、あのフランキー・ヴァリ&フォー・シーズンズの実録映画「ジャージー・ボーイズ」と北欧のジャズの歌姫、モニカ・ゼタールンドを描いた「ストックホルムでワルツを」という音楽映画のカップリングで、どちらも自分にとっては見逃せなかったのでともかく本日観覧してきた次第。

 Oさんは映画通なので、既に昨年封切り公開時に「ジャージー」の方は観ていたので、約束時間より早く、先に自分だけそれを先に観て、後からジャズのほうを一緒に観てきた。ジャズ好きではあるが、個人的にはそちらはさておき、圧巻はフランキー・ヴァリたち60年代のアメリカンポップスシーンを描いた「ジャージー・ボーイズ」であった。恥ずかしながら泣いた。そして救われた思いがした。

 映画は、もともとあちらでヒットした舞台ミュージカルを映画化したものだそうで、演者たちも皆そのオリジナルキャストが出て、故に決してリアルかつ深み等なく、フォー・シーズンズの楽曲と当時のアメリカンポップス満載のあっけらかんとした明るい娯楽映画でしかない。
 しかしだからこそ、その明るさ、お気楽さ、楽曲の素晴らしさが圧倒的で、そもそもそれこそが我にとってルーツミュージックのそれで、ともかく懐かしくまさに懐旧と再会した至福のときであった。

 人にはそれぞれ、子ども時代に最初に聴き慣れ親しんだ音楽、ルーツミュージックがあるはずだ。マス坊より少し後の世代、生まれが1960年以降の人たちに訊くと、それはタイガースやスパイダーズなどのGSだという答えが返ってくる。
 が、自分の場合は、それより前の、テレビの「ザ・ヒットパレード」「シャボン玉ホリデー」それに「夢であいましょう」という黄金のシクスティーズ、和製ポップス、つまり洋楽に漣健児氏らが日本語詞をつけたカバー楽曲全盛の時代であり、今も昔もおそらく死ぬまで坂本九や伊東ゆかり、弘田三枝子、森山加代子、そしてスリー・ファンキーズは永遠のアイドルであるのは変わらない。

 そうした幼年期を過ごして、子ども心にもっとも大好きだったバンドは、ダニー飯田とパラダイスキングであった。むろんクレージー・キャッツは別格だったが、それは笑わしてくれるコメディアンとしてであり、音楽においては坂本九が在籍していたパラダイスキング、略してパラキンこそがともかく大好きなバンドであった。
 何しろ明るく楽しくハーモニーが素晴らしくただただ愉快であった。あんな垢ぬけた楽団は他に類をみない。映画を観ながら思い出したのは彼らのことだ。

 そのパラキンの大ヒット曲こそが「シェリー」であり、今また余多あるフォー・シーズンズのオリジナル楽曲を映画で聴いて、ただただ懐かしく感無量であった。そしてなんで坂本九をダニーさんがパラキンに迎え入れたか、映画でようやくわかった。
 つまるところ、和製フランキー・ヴァリとして認めたからではないか。あんな声であんな唄い方をするのは日本人では我らの九ちゃんしかいないではないか。そしてスキヤキソング(上を向いて歩こう)が全米でナンバーワンとなれたのも楽曲の素晴らしさもあったが、和製ヴァリとしてその轍に乗れたからであろう。まあ、もっともパラキン版「シェリー」では、九重佑三子と佐野修でリードをとってはいるけれども。あのスタイルはパラキン時代の坂本九にはっきり出ている。

 映画は、もともとが舞台ミュージカルだから、筋はわかりやすく音楽中心の深みのないありきたりなエピソードの羅列に終始している。いわく、皆貧乏で犯罪にも手を染めていた若者たちが出会い、音楽で結ばれ成功への苦難の道を歩き、ヒット曲を出して人気者への階段を上っていく。
 一方、メンバー間の確執や各自の家庭の問題、それにメンバーのギャンブルでの借金、そこにマフィアなどの裏業界のドンが絡み、解散などへのおきまりのスキャンダルも描かれる。

 が、それすらも映画はさらりと過ぎ、ひたすらフォーシーズンズの素晴らしいうた声とそのステージだけで息もつかさずまったく飽きさせない。そして不運を乗り越えソロとなったヴァリが渾身込めてうたう名曲中の名曲「君の瞳に恋してる」でもう涙が止まらなかった。吹き替え以前にメンバーそれぞれが実声でまさに本物以上にうたも演奏も素晴らしく、四人とも抜群のアンサンブルでただ感心させられた。

 傑作である。イーストウッドは監督としても以前から音楽映画にも定評高いが、あの時代を知るものだからこそ、フォー・シーズンズという善き時代の最良のコーラスグルーブを楽しく感動的な音楽映画としてうまく切り取ることができたと思う。まあ、一番は大ヒットした舞台からの奇跡的そっくりなオリジナルキャストたちの力によるところも大きいし、そのヴァリやライターたちオリジナルのメンバーも全面協力しているからだが。

 私ごとを書けば、このところまた企画しているコンサートに出てもらう人たちとの人間関係で気を病んでいた。が、今回ギンレイで2本の音楽映画を観て、特にこの自分にとってのルーツミュージックである、フォー・シーズンズたちの歌声に改めてふれて、音楽だけあれば良いのだとふいに思い至った。そう、他には何もいらない。気が楽になった。
 ご機嫌な素晴らしくナイスな気持ちの良い音楽、そうしたうただけがあればもう何も必要ないのだ。あれこれ人様の機嫌を伺い思い悩んでいたが、そんなことはもうどうでも良くなった。

 自分にとっては今も昔も変わらぬ、絶対的に大好きな、信ずる音楽がある。今もその60年代のルーツミュージックに戻れば、彼らは変わらず僕を迎え入れてくれる。
 それは、パラダイスキングであり、スリー・ファンキーズであり、坂本九であり、石川進であり、日本語でうたうアメリカやイタリアのポップスであり、中村八大たちが作った名曲の数々だ。

 基地の街で育ち、親父が米軍関係の仕事をしていたから、家の蓄音機で自らかけたシングル盤は、親父が立川基地から持ってきた、マーベレッツの赤盤「プリーズ・ミスター・ポストマン」であり裏面は、リトル・エバの「ロコモーション」だった。
 フランキー・ヴァリたちもその繋がりの中で僕の心の奥深くで、いつまでも変わらずにイカシた歌声を唄い続けているのである。そのことをようやく確認した。ならばもう何も怖れない。この映画に救われた気がした。
 フランキー・ヴァリとザ・フォー・シーズンズ、彼らはいつまでも永遠のアイドルなのであった。

町の古本屋はどこへ消えていくのか2015年06月08日 21時50分16秒

★古本屋がどこにもない時代へと            アクセスランキング: 246位 

 明治以来、東京はビルド&スクラップを繰り返して、その間に関東大震災や、東京大空襲、さらには1964年の東京オリンピックでの再開発と、街並みも人の姿、流れも常に変わり続けている。
 だから、そこにあった店がいつしか消えてなくなり、シャッターが下りたり違う店に変わってたり、更地になって駐車場になっていても別にちっとも驚くことはないはずだ。
 しかし、何十年も続いていた、常にそこにあり、よく通い、店主とも馴染みであった店が突然閉店していたとなるとやはりショックだ。
しかもそれが実店舗の古本屋なのだ。そして二軒、昭島と立川の古本屋が消えてしまったことに今日気がついた。まさかという思いでいる。

 今日は、午後から自転車で、予約を入れておいた立川の掛かりつけの歯医者へ出向いた。ずっと慌ただしくて1年以上間があき、奥歯に虫歯があるのか、甘いものを食べると痛むようになってきたからだ。
 
 昭島駅の南口に、青梅線の走る車窓からも見える「さわやか文庫」という青梅線沿線ではたぶん唯一となってしまった古本屋さんがあった。自分が若い時から通っていたからたぶん30年以上続いていたはずだ。 それが今日前を通ったら、シャッターが下りたまま看板も消え、シャッターに小さな張り紙があり、「突然ですが閉店しました。お問い合わせは八王子店のほうへ」とごく簡単な告知があった。愕然とした。

 自分も古本屋稼業に手を染めるようになってからは、そこではほとんど客として古本を求めることはなかったが、そこは一番身近な、昔ながらの本物の古本屋で、表には三冊二百円の雑本の棚や、準新刊の女性誌なども並ぶ、アイテムを選ばぬ多種多彩な本を安く扱う、まさに古本屋らしい古本屋で、昔は店主と本の話をよくしたり業界のいろいろな知識も教えて頂いた。ある意味、この稼業のまさに師匠であり、実店舗を持たないネット古書店者にはそこは憧れの店でもあった。
 このところ久しく行かなくなってしまったのは、自らが商売柄古本に埋もれ飽きるほど食傷してしまったので、店の前を通り過ぎ横目に見ては、店がそこにあることにただ安心するだけであった。だが、その店はついに突然の閉店してしまった。

 さらに病院近くの立川南口の商店街にあったほぼ同様の、表に格安放出本の棚を設けていた古本屋も今日前を通ったらシャッターが下りて、看板も消えている。不審に思い、向いの米屋のオヤジに訊いてみたら、一か月ぐらい前に店閉めたみたいだと知らされた。
 そこはコミックスや成人向け雑誌なども多かったので、あまり店内は詳しくないが、母も入院していた折、よく店の前を通ったので、表の格安本の棚は通るたびにチェックしては興味ひく本は自分のためによく買い求めていた。

 そうした慣れ親しんできた、そして変わらずにこれからもずっとそこに当たり前のようにあると思い込んでいた古本屋が二件とも消えてしまった。立川のほうは、5月の連休後に、母の検査で病院に来たときは変わらずにやっていたはずだから今月に入って閉店したのかもしれない。昭島だってたぶん5月末で辞めたのではないか。

 さすがに、一日に二軒続いて馴染みの古本屋の閉店を知ると気持ちも落ち込む。となると、あとは立川以西の中央線、青梅線沿線では八王子の駅周辺に何件か残っていたと記憶するが、それすらもまだあるか疑わしい。もう10年近く行っていない。東中神のアーケード内にあった店も半年ほど前に閉店したので、かつて自分で知っていたこの界隈の古本屋の店舗はこれですべて消えてしまった。哀しいとか以前に残念無念という感慨がわいてくる。

 先にも拙ブログで書いたが、新刊書店もどんどん消えている。ただそれは、紙の本や雑誌類が常に世に新たに出ている限り、郊外型多角経営やショッピングモール内などの大規模なチェーン店は残るだろう。
 問題は町の個人でやっている小規模の本屋と古本屋である。コンビニではちょっとした雑誌やコミックスを置き、客は飲食物と同時にそれらを購入し、コンビニない本はネットで求めるから、街の本屋がまず経営不振で消え、同時に歩を揃えるようにして、街中の個人商店としての古本屋も消えていくのだ。
 ただ、大型の新刊書店は今後も存在したとしても、大型古書店はブックオフのあちこちの撤退を見るまでもなく、そもそも成り立たないであろう。つまり中古ゲーム類をも扱うとしても今は新刊も含めて本自体が売れないから、稀覯本を扱う古物商的古書店以外、純利が少ない古本稼業は薄利多売でない限りやっていけない。
 そうした薄利多売でともかく長年続けて来ていた昭島駅前の、おそらく青梅線唯一の古本屋が突然閉店してしまったことに時代を強く感じる。

 おそらくあと10年もすれば、街の店舗としての古本屋という商売はこの国から一軒もなくなるかもしれない。むろん神田とかでならば残るかもと考えるが、いかにも古本屋風のオヤジや老夫婦でやっていたような雑多な本を安く並べていた、昔ながらの古本屋は、今自分が鍛冶屋という商売の姿を想像もできないように、後の世の人たちにとっても未知の商売となるかもしれない。

 時代の進歩とか発展とはよく聞く言葉だが、本を読む人がいなくなっていくのと、そもそも紙の本じたいがなくなっていくのだから、古本を扱う商売も消えていくのは時代の流れ、必然なのかとも考えてしまう。※中古レコード店は意外にもまだ繁華街のあちこちに残り続いているのは、レコード文化は今もまだ新たなマニアックなファンが参入しそれなりに活性しているからであろう。

 それが良いとか当たり前だなんて言っていない。ただ昔ながらの好ましく思っていた街中の古本屋さんが、一気に二軒突然消えてしまったことはまさに残念至極である。
 近く、八王子の街道筋にある、さわやか文庫の店主がもう一軒続けている古本屋へ行き、ご挨拶がてら慰労せねばと思っている。

すべては、必要か不要かで動いていくが2015年06月09日 22時45分33秒

★利便性を追求すればきりがない。      アクセスランキング: 148位

 前回書いたことの続きである。
 文明社会が生まれて以来、様々な職業、商売が登場しては消えていったはずだろう。本屋とか古本屋という職種もそろそろ消えてなくなる運命にあるのだろうか。このところずっと考えている。

 そしてふと気づいた。商売とはつまるところ必要のあるところに生まれ、不要、つまり需要がなくなれば、消えざるえない。そのことは、商売に限らず道具だってモノの仲間だって全て同じであろう。

 昔は、川を渡るのに、橋がないところも多く、あちこちに「~の渡し」と名のつく渡し船の発着場があった。うたにもなった「矢切の渡し」のように。ウチの近くの多摩川にもその渡しのあった後が残っている。八王子の側に住む人は、電車、青梅線に乗るには、橋がない頃は渡し船でこちら側に渡ってこなくてはならなかったから。

 そこには小舟とそれを繰る船頭がいて、いくらかの賃料で向こう岸までその船に乗せて運んでくれた。今でも瀬戸内の島々の間には、小さな連絡船はあるだろうが、日本の川において、渡し船などはもうほとんどないはずだ。一部には観光名物として残っているのかもしれないけれど。
 ということは商売や職種として、渡し船と船頭はもう一人もいない。理由は、日本全国どこでも車も通れるコンクリートの立派な橋があちこちできたからで、橋ができれば、そこを通れば早く便利だし、多くの人がそちらを利用すれば渡し船という商売は利用者減で成り立たなくなる。

 このリクツを本屋や古本屋に当てはめて考えてみる。昔は情報やデータ、それに知識を世に広めるには紙に記して本や新聞、雑誌のようにして媒介するしか方法がなかった。手書きから、写本、そして印刷に移っても要は紙媒体であった。
 が、パソコンや携帯メディア、電子書籍が世に普及すれば、いちいち紙に印刷しなくてもモニター上で読むことができるしやりとりが広まる。となれば日々のニュースでも知りたい知識や情報でも、娯楽読みものにしろ紙媒体は必要なくなる。
 何かわからないことがあり、知りたい調べたいと思った時、昔は本にそれを求め、本屋や図書館に足を運ぶしかなかった。古本屋だって知の宝庫であった。

 が、今は人はまずネットで検索して、たいていのことは即時に調べることができ、ほぼ「わかる」ようになる。ネットで調べてどこまで真に理解できたかその情報が正しいかはさておき、それが普通となれば、本にそれを求めない。また、それに適した本自体が、電子書籍として販売されれば、本より安く入手でき場所もとらない。

 つまりインターネットが普及するにつれて、紙の本の必要性、需要は低くなっていく。繰り返しとなるが、紙媒体でしか手に入らない雑誌などはコンビニでほぼ買える。また、本屋へ足を運ばなくともAmazonなどからネットで注文もカンタンにできる。となると紙の本の需要もなくなり雑誌も売れないが故、本屋は商売としてやっていけなくなっていく。

 つまるところ商売とは何かを売るなり需要に応えて儲けることであり、その需要も減り、儲けがなくなっていけば成り立たなくなる。その意味で町の個人経営の新刊書店がいちばんやっていけなくなる。理由はアイテムを広く多種揃えて並べることもできないからだ。広い売り場に多種多彩な本や雑誌を網羅した大規模な書店ならば、本好きの人たちは群れ集い、本が出版される限りそれなりに経営は成り立つと思える。そこには必要性と利便性がある。
 結局、金の動くところには必要性と利便性がまずなくてはならないということが見えてくる。

 むろん小規模な個人経営的新刊及び古書店でも京都にあるような独自の品揃えに特化したユニークな何店かのように、やっていき方はある。通常のマスで出され広く流通することを旨とする本ではなく、逆にミニマムな、流通しにくいが良い本、付加価値高い本を揃える努力ができるかどうかでもある。

 この世は利便性である、と書いた。が、だからこそ利便性でないところのものに利便をはかればそこに商売としての価値も生じてくるのではないか。そしてそれは個人のセンスに負うところが大きく個人だからこそ趣味的にできるのだと言える。

 渡れなかった川に橋ができてしまえば渡し船の商売はできない。が、利便性から離れたところで、川原でも、いやどこであろうとも何を扱おうと個人のセンスを武器にして何かしら商売ができるような気がしている。

7/25日の反戦歌・労働歌コンサート参加者、出演者求む。2015年06月10日 22時15分57秒

★どなたでもお気軽にご参加を! アクセスランキング: 241位

 さて、来月25日 の土曜日、国立市谷保駅前の「かけこみ亭」でのコンサート『皆で反戦歌、労働歌、そして生活のうたを唄おう』の詳細がほぼ決まってきた。

 現在のところ参加する唄い手たちは、五十嵐史とソウルブラザーズ、館野公一、みほこんず、中川たつや、ぼけまる、太田三造他で、不肖マス坊もみほこんずで数曲唄わせて頂く予定でいる。その他、詩人の奥主榮氏ら詩人側から詩朗読での参加も確定ではないが話は進んでいる。※出演者は現時点での予定で、当日変更もあるかもしれません。

 本来なら、プロテストソングのトップランナー、地元在の中川五郎御大にまず声をかけて、彼をメインに企画を立てるべきであったかもしれない。が、最近の氏は昨今の悪のご時世でオファーいっぱいの超ご多忙、大人気であることと、まず一回目は、ベテランに頼らずに、ともかく「うた」を中心に多くの唄い手を集めようと勝手ながら企画を進めてきた。

 自分=マス坊が考える「うた」、フォークソングとは、ラブソングである以前に、抵抗のうた、プロテストソングであるわけで、このところのまさにキナ臭い時代だからこそ、そうした「うた」の数々を集めて時代に抗うためにも多彩な唄い手たちに唄ってもらおうと考えた。
 オーナーのぼけまる氏とも話したが、一回限りの思い付き企画にするのではなく、せめて年四回は定期的にそこかけこみ亭で連続して催していきたいと思っている。

 また、出演者もプロアマ有名無名問わず、このコンサートの趣旨に賛同し、今国会で審議中の安保法制、つまり世界のどこでも自衛隊が出掛けて戦争ができるようにしていく憲法違反の「戦争法案」に異議申し立てしたい人は誰でも歓迎したい。「うた」でなくとも、詩でもスピーチでもペインティングでもかまわない。
 ともかく今そこにある危機に対して、怒りや不安や何らかの思いを抱く人なら誰でもご参加頂きたい。会場設営などの裏方、スタッフとしてお手伝い頂ける方も大歓迎します。

 ・日時:2015年7月25日(土)  開場5:00~ スタート5時半頃 うた開始は6時頃から コンサート終演は9時頃の予定

 ・場所:かけこみ亭 JR南武線谷保駅前

 ・参加費:投げ銭もしくはカンパ※別途ドリンク各自ご注文願います。

 ・終演後、参加者全員での打ち上げを兼ねたティーチ・インを予定しています。こちらもご参加ください。

 唄いたい方は1曲でもかまいません。コンサートの趣旨に沿ったうた、反戦フォークや労働ソングがある方は、マス坊まで連絡ください。

 当日は、演奏予定曲の歌詞を載せたソングブックも作成し配布の予定です。みんなで、声を張り上げてシングアウトいたしませう! 反戦歌なうで安倍政権へ打撃を。  問い合わせ&参加申し込みはマスダ携帯 090-8175-8479 もしくは当ブログのコメント欄に書き込みください。

2015年夏の山梨古民家でのサマーキャンプのお誘い2015年06月13日 01時15分26秒

★告知して決めないことには、何も動かないから        ランキング

 世の中はどんなに悪くなったとしても、だからこそ人は楽しいことや面白いことを求めるべきだし、それは悪いことではないだろう。
 たまには、倦み疲れた日常を離れて、どこか静かな自然の中で、のんびりハイキングや温泉に浸かって日頃のストレスを癒す『夏休み」があっても良いのではないか。

 マス坊は縁あって、今、自由に使える山小屋的古民家を管理している。今現在は、未整理の古本古雑誌を大量に運び込んでしまったので、さほど広くないその屋敷の何部屋もクズ本やがらくたで塞がれてしまったいるが、近くそれらは片づけて広く使えるように戻す予定でいる。

 場所は、山梨県北杜市須玉町。茅が岳の山麓と言うより、気分としては八ヶ岳の麓と説明したほうがわかりやすい。中央高速を松本方面にひた走ると、左手に南アルプスの雄大な山塊、右手に、奥秩父の連山、そして向かう正面には八ヶ岳、さらに後ろを向けば富士山がそそり立つという、インターでは韮崎、もしくは須玉インターを降りて、約30分でその古民家にたどり着く。
 標高は約700m。高原ではなく、いわゆる里山でもなく、正しくは山里、つまり山の中腹に位置している。ほぼ限界集落の入り口に位置して、言っても人間に会うより、マジに猿や鹿に会うほうが確実に多いという場所だ。

 夏は涼しくともかく静かだが、近くのスーパーまで20分はクルマで下りないことには今後にもない環境だから、不便このうえない。そして冬は猛烈に寒い。スノータイヤがない頃は、行っても雪に閉ざされ車が出せなかった。

 そんな不便でどうしようもないところだか、自然しかなく、ともかく 人間にはまず会うことがない。聴こえるのは鳥の声と近くを流れる川の滝の音だけで、流れる時間さえ違っている。

 そこで今年の夏こそ、泊まり込みで、サマーキャンプをやろうと決めた。7月内は、企画したライブがあるので動けないが、8月のお盆休み前後はどうであろうか。
 言っても何か皆でやろうなんて何も考えていない。ともかくのんびりと、庭でバーべQやったり、ギターかき鳴らしてセッションしたり、近くの温泉へ出向いて日がな浸かったりと、ともかくだらだらゆつくりしたい。

 経費は食費と交通費の分割だけ。宿泊費などはかからない。たぶん、移動も含めて一泊五千円そこらかだと思う。

 日時はまた゛確定てぎないが、まずは参加者を募りたい。人数多ければマイクロバスのようなものも手配したい。
 何はともあれ、参加者がいれば、その人たちの都合を勘案して、予定も立つ。去年は5人、森の音楽隊で日帰りで行ってきた。が、やはり慌ただしかったことは否めない。
 
 今年は一泊二日、もし希望者がいればもっと長くてもかまわず、向こうで皆でいろんなことをやったり近くの古い町並みを散策したりと、あれこれやってみたい。

 まずは 参加者を募りたい。そのうえで、各自の都合を調整して日時を決めて計画を本格化させたい。
 まずはどなたでも、このブログをお読みになった方、マスダの知り合いでなかろうと、お気軽に問い合わせ及び申し込みしてください。

 にらもない、あるのは自然だけのただの山里です。でもともかく静かで、行けば気分はリフレッシュすることは保証します。
 まあ、何事も早め早めに決めて準備しておかないと、いざ近くになってから慌てて始めても結局果たせない。この古民家と山里に関心持つ人も多々いるようなので、早めに呼びかけした次第。
 参加希望者が集まったら、ご都合を勘案して日時を決めたいと思っております。道の方でもどなたでもお気軽に。

マス坊の人生相談2015年06月13日 22時54分53秒

★できるだけ人の話を聞きます。             アクセスランキング: 234位

 昔、月刊漫画「ガロ」誌上で、嵐山光三郎氏が、「人生相談」と称して、ガロ読者?からの相談に答えるページを持っていた。

 嵐山光三郎や安西水丸の名前を知ったのもそのガロを通してで、南伸坊、渡辺和博、赤瀬川源平らも含めて彼らの存在は、椎名誠らの本の雑誌一族と同様に、我が青春時代、深く影響を受けた雑誌から知ったオモシロ文化人たちであった。

 その人生相談コーナーは、若者たちが寄せる常にバカバカしい相談に、インテリジェンス溢れる不良中年が、バカバカしくも面白おかしく答えるもので、伸坊のイラストとあいまってマンガ以外に常に楽しみにしていたコーナーであった。
 まあ、その質問自体本当に読者からのものか怪しく、たわいもないものばかりで何も真剣かつマジメなものではない。が、今思うと、文体も含めて、考え方や論旨の展開方も含めて、かなり今も自分は影響を受けているような気がしている。

 さて、あるとき、一読者から、「人生相談というので、嵐山先生が相談されるのかと思って待っていたら、いつまでたっても読者から相談されてばかりではないか」という「問い」が載っていて、思わず爆笑した。
 嵐山氏もそれにはう~ん、と唸って、確か彼の「相談」が載っていたと記憶するが、今その号は手元にないので確認もできないし思い出せない。
 確かに「人生相談」と題するからには、「応相談」と書かない限り、担当者自らが、自らの人生の相談をその場でしていくのが正しいのであろう。

 昔は、かなりの雑誌や新聞に、こうした「人生相談」のコーナーがあった。読者からの様々な悩める相談に、担当する識者が、親身になってアドバイスするものがほとんどであったが、中には、故中島らもの朝日新聞でのそれのように、読み物として楽しめるよう特化したものもあった。ガロでの嵐山氏のそれも同様であったと気づく。むろんこちらのほうが先であったが。

 今でも法律相談などは新聞に載っているかと思うが、下世話な個人的出来事の相談などが載る同コーナーは見かけない。自分が知らないだけかもしれないが、他者への無関心とネット上には、質問と相談のサイトもあるようだから、そうした世相を受けて紙上の「人生相談」は役割を終えたのであろう。
 まあ、街にはあちこちに、手相や占い、運勢鑑定と称して、その人の悩みに応えアドバイスする「~の母」と称する商売も盛況のようだから、金のある人たちはそうした人に相談してアドバイスを受けるのであろうか。

 さて、マス坊の人生相談であるが、考えてみれば拙ブログは、常に問わず語りとして我はそのときどきの悩みを相談していることに気づく。相談というのはあたらない。誰もアドバイスも助けも与えてくれるわけでないし、そもそも単に、悩みや愚痴をこぼしているに過ぎない。
 しかし、これでも書くべきことは選ぶようにしている。親父がウンチをもらして大変だとか、読み手に取って不快かつ意味のない瑣末なことは書いてもしょうがない。文字とするからには、書く、書き残すべく価値のあること、瑣末でも万事に通じるようなことを書かねばならないと心している。そして勝手ながら書いたことで、つまり抱えている悩みなどを吐き出したことで気持ちは楽になっていく。
 だから、我がことの「相談」などはしないが、他人様のことの相談、というより悩みも含めてその人の「話」は聞きたいと思った。
 むろん、その人を助けられるとか相談にのってよきアドバイスができるなんて毫も思わない。ただ、話をきく。その上で、感想は言えると思う。
 
 何でここんなことを記すか。実は、先だって、喫茶店で居合わせた、隣の席の全くの未知の方から、身内のことで相談に乗ってくれと頼まれた。詳しいことは書けないし、まだ直接の相談に応じてはいないが、近くその当事者=問題抱える当人と会って、話は聞こうと思っている。

 この「人生相談」のはなし、もう一回つづきを書く。

続・マス坊の人生相談2015年06月14日 09時43分11秒

★よろず「相談」お寄せください。ブログ上で「回答」します。  アクセスランキング:251位

 前回の続き。
 我=マス坊は、人から相談されやすい体質なのか、若い時からいろんな人からあれこれ相談されることが多い。

 偶然、長距離列車に向かい合わせとなった人から、「相談」話をされたこともあるし、先日も拙ブログ読者から、ご家族の病気のことで問い合わせ兼相談を受けた。一昨日も、かけこみ亭で初めて会い、呑みながら話も弾んだ方から、これからも話を聞いてください、と強く請われた。

 むろん、相談を受けたからといって、モノゴトが解決したり、最良な結果に導くことなどできやしない。何しろ自慢ではないが、非力かつ無能な我は、金も力も知識も何一つ人に誇れるものはなく、我が人生さえも視界定まらず、いい歳して混沌糢糊としているのだから。本来相談すべき相手は人生の成功者か聖職者にであろう。

 こんなダメ人間に相談しても何一つ解決するはずもなかろう。しかし、実は、人間というものは、悩みを抱えていても、その答え、=解決法は自らで既に出していてそれに自信が持てないでいることが多いのである。
 自問自答して、果たしてそれが正しいのかわからない。だから悩みが大きくなり解決しない。迷う。出口がみつからなく苦しむ。
 それを、誰でもいい。他者に言葉に出して、告白、相談する。話しているうちに、自らの考えが定まるという経験は誰にでもあるだろう。「相談」というのは、実際は、既に得ている答えを確認する作業なのだ。
 むろんアドバイス程度のことはできる。しかし、その人の人生なのだから、他者は、その配偶者や家族・親族であっても基本的に何もしてあげられないのである。できることはせいぜい話をきくことだけ。

 日本ではまず一般的習慣ではないが、欧米、特にアメリカでは、カウンセリングというのが広く誰にでも普及している。むろんある程度の収入あるWASPの倣いなのかもしれないが。
 それは要するに、専門家のところに定期的に出向き、ただ話を聞いてもらうというだけだ。昔は医師が、かなり内面にも立ち入って、患者の感情や思考を繰るということがあったが、今日ではカウンセラー側は極力何もせず、ただ患者の話を聞くことに専念し、あまり意見を挟まない。
 それでも、専門家にあからさまに悩みを話し、気持ちを吐き出したというだけで、患者の気分は軽くなり癒されていく。抱える悩みや問題があり、その解決法というのは、他者からの指示やアドバイスで得るよりも自らが気づきつかむべきだという考えである。存外それは正しいように思える。

 ならば、こんな我でもそうして人の話をきくだけでも何かの役には立つのではないか。実際、人は他人の人生に何も関わることなどできない。関わりたくても基本何もできやしない。配偶者的関係までなれば、生活を共にすることで多少の荷は分かちあえるが。
 しかし、家族となったとしてもやはり肉体は個別のものでしかないし、痛みや体調不良で苦しむパートナーを見ても代わることなどできやしない。まして、友人知人ならば、他者のために何一つしてあげられることなど元からない。
 だが、思う。それはそれで仕方ないし、だからこそせめて会ったときは励まし、そばにいられる間は寄り添い話を聞いてあげれば良いのだと。
 
 他人の愚痴など聞きたくないと誰もが思う。愚痴など人にこぼすべきでないという考え方も根強い。確かにそれはその通りだ。男も女もじっと黙って苦難に耐えろと。しかし、精神衛生上、そうしたストレスを溜め込んで良いことは何もない。心の奥底に抑え込めば泥水が作る錆のようにいつしか心を病んでいく。
 すべてをあからさまに曝け出す必要はないが、せめて今抱えてる悩みや苦しいことを他者に「相談」はしても良いのではないか。そしてそれに耳を傾ける者がいても然るべきではないか。
 妻や子がいれば、そうした悩みを相談できるかといえば、身内や肉親だからこそかえって話せないこともあるのではないか。逆に、何もできない関係の他人のほうが、利害関係がないぶんだけ話しやすいかとも思う。
 欧米ならば教会がそうした役割を果たしたかもしれないが日本にはそうした個人が属するパブリックが存在しない。

 世の中には、たぶん誰にも相談できず、悩みともいえない悩みを抱えて鬱々悶々としている人たちが多いのではないか。その先の出口が見えずに苛立ち焦る心を抱えて苦しんでいる人たちがいるはずだ。
 その人たちを救えるとか、力になるなんて口が裂けても言えやしない。が、話を聞くぐらいはできるし、その行為によって、カウンセリングのように多少でも視界がひられるかもしれない。

 基本何もできやしないし、何かできるなんて思ってはならない。しかし、今の時代を生きる同時代者として、縁あらばせめて話を聞くぐらいの関わりは持ちたいと思うし、もしそうした依頼があらば応じなければと思っている。そうした役割が自分に課せられているのならばの話だが。

 2年前に死んだ友人タキグチ氏のことを今でも思い出す。心の病を若い時から抱えていた彼は、体調悪化する都度、ときには毎晩のように、電話をかけてきて苦しい胸の内「暗たんたる気分」と称して相談してくれた。
 ただ単に彼の話を聞くことしかできやしなかったし、結局のところ死因も不明のまま彼は死んでしまったから今も自責するところは大きいが、それでも話して何時間後、電話を切る頃には、声も明るくなり気分も楽になったことが受話器から伝わってきていた。

 今も彼の命を救う手立てはなかったかと自問するけれど、ともかくも彼の深夜の相談者になれたことは良かったと思える。その頃は、正直、またかとうんざりもしたこともあった。しかし、それもまた縁であって、彼のいない今、深夜の電話をただ懐かしくさえ思い出し、眠れぬ夜などそのベルを待っている自分に気づく。

 人の話をきくというのは、実は聴く側も自らを語っている。そしてその双方の行為で互いに救われる余地がある。魂が歩み寄っているのだと思う。

 というわけで、「人生相談」応じます。忙しい自分であるけれど、もし関わりをもとうとしてくれる方がいるのならば、悩みも含めてその方のお話をききたいと思う。金も力も知識も役立つものは何もない男だが、関わったからには真剣にお話を聞きたいと思う。

 役立つどころか時間の無駄かもしれません。しかし、もしマス坊でも良ければ相談してください。たぶんそのことで我もまた救われることを期待しているのであろうか。

戦争法案絶対反対2015年06月15日 23時41分54秒

★大変な時代に生きる我々は            アクセスランキング: 132位

 このところ安保法制関連法案に対して、国民的反対運動の機運が高まってきてている。全国各地あらゆる人たちが声を上げ始めた。とても喜ばしい。

 よく、一度戦争が起きてみない限り、今の日本人は目を覚まさないという「放言」を耳にする。それも同感する気持ちもなくはないが、その論は、全てじっさいに経験してみないことには人は学ぶことができないということに他ならず、それではあまりに失うものも大きい。

 とにもかくにも戦争だけは絶対に起こしてはならない。仮に無法国家やテロ組織がどれほど人道にもとる悪辣な行為、一方的に攻撃を仕掛けてきたとしても武力に対して武力で応じている限り、パレスチナの問題をみるように永遠に終わりはない。

 ましてわざわざ世界のどこでも戦地に赴いて、つまらないから紛争はやめろ、と交渉するならともかく、「後方支援」と称して弾薬や燃料を戦闘当事国に提供すれば、日本もまた参戦したとみなされ、攻撃を受ける。となれば応戦もし戦火の火種は燃えさかるはがりだ。
 そうした行為はどのような名称を付け言いくるめようと「平和支援」でもないし、「平和主義」でもまったくない。「積極的戦争支援法」、もしくは「戦争可能法案」としか呼びようがないものだ。

 そして一たび戦争事態となってしまえば、国内の平和もまた失われてしまう。9.11の後、ブッシュの言う「正義の戦争」をアメリカが起こしてからは、米国内ではイスラムやアラブ系の住民たちに対して激しい迫害が起きたように、国内の「敵国」系人種に対して何が起こるかわからない。
 また、反戦を主張する人たちに対しても権力側、愛国を標榜する人たちからは激しい弾圧と迫害が起きることも歴史が示すことだ。戦争というのは国家一丸となって、国民全員総力を挙げて戦わないことには勝てやしない。
 国内で戦争に反対し足をひっぱるものは、非国民でありスパイかもしれない。戦争は人心を不安にさせ対立を生む。日本にいる敵国人は集めてどこか収容所に入れたほうが安全安心だという機運さえ高まる。
 ナチスドイツは、戦争を進めるかたわら、ユダヤ人と共産党員、それに進歩的知識人、反戦主義者、敵国外国人をとにもかくにも捕らえては次々と収容所に放り込んだ。戦争とはそうした非人道的「国策」がまかりとおる。

 戦争とはそうしたまさに「非人道」の極みであり、一度起きてしまえば先の大戦における日本の15年戦争のように、ずるずるだらだらと長引き挙句は悲劇的結末に至る。
 日本が中国に進出したとき、国民の多くは歓迎し支持した。真珠湾攻撃にも喝采を上げた。そしてその代償が、東京大空襲をはじめ全国各地の都市を焦土とされ広島、長崎への原爆投下であった。そして同様に日本軍もアジアの人民に多大な損失を与えたのだ。
 戦争には勝者などいない。後には死者と怪我人と疲弊した大地が残るだけだ。

 その愚を二度と繰り返さないために、平和憲法ができ、それが重石となって戦後70年もの長い間、日本は一度も戦争に参加しなかったし日本人は戦争で殺しも殺されもしなかった。

 なのに今、憲法解釈を変えて集団的自衛権の名の下に、わざわざ海外に出向いて戦争を可能とする法案をこの夏中に成立させようと自公政権はやっきになっている。国民の生命と財産を守るためと言うならば、「戦争」こそが命と財産を奪う行為そのものだと何故過去から学ばないのであろうか。戦犯容疑者であった祖父を持つ男にはそもそも戦争が罪悪だという意識が欠けているのかもしれない。

 どのように彼らがまくしたてようと、これは憲法違反であることは、多くの憲法学者と国民の大勢が認めることだ。だのに、菅長官にいたっては「数の多寡ではない」と臆面なく不遜なことを言う。憲法学者の多くが違憲だと反対しようが政治家が決めることだと一切耳を貸さない。
 これは暴走を通りこしもはや独裁であり、民意を無視して政治の名を借りたクーデターであろう。この妄動を粉砕するためにもとにもかくにも国民一人ひとりが声を上げできる限りのアクションを起こしていくしかない。

 反対運動の機運が盛り上がってきている。さらにアクションを起こしていくことだ。